酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

風刺画、オウムをヒントに「市民的自由」を考える

2015-02-25 23:51:26 | 社会、政治
 前稿の冒頭に記した西川農相の献金問題が、新たな展開を見せた。農相は官邸主導で辞任したが、当日朝(23日)、追及した側の玉木議員(民主党)にも「政治資金規正法違反の疑いがあった」と産経新聞が報じた。取材した記者は違法性がなかったことを認識した上で、記事にするかどうか上層部に委ねたという。産経には明らかに、安倍政権を批判する輩を貶めるという意図があった。

 権力チェックが本分のはずなのに、日本の多くのメディアは安倍機関化しており、報道の自由度61位という数字が実態を物語っている。自粛なのか圧力なのか、政権を批判する声が小さくなってきた。政権の最大のターゲットは「報道ステーション」だ。コメンテーターの惠村氏は降板、古賀茂明氏は出演を取りやめる方向という。古館キャスターにも有形無形の圧力が掛かっているはずだ。

 仏シャルリー・エブド紙によるムハンマド風刺画掲載、イスラム国による虐殺をきっかけに、あれこれ自問する機会が増えた。民主主義とは、表現の自由とは、市民社会とは、反社会的とは、そしてテロとは……。ファジーな俺に物事をきっちり定義する習慣はないが、「オウム20年後の真実」(21日、テレビ朝日)は示唆的な内容だった。

 オウム真理教に焦点を定めた「NHKスペシャル~未解決事件第2弾」(12年、全3回)と重なる部分もあったが、坂本弁護士との交渉役を担っていた上祐史浩氏の証言が興味深かった。坂本弁護士は一貫して「反社会的宗教は宗教ではない」とオウム側に毅然とした態度を取っていた。

 「坂本氏はなぜ、個人の自由、信教の自由を認めないのか」という上祐氏の反感に基づく報告を受けた麻原教祖は、弁護士一家殺害を命じる。「教団そのものに違法性があると認識していた坂本氏には先見の明があった」と振り返る上祐氏の言葉に、考えるヒントを見いだした。風刺画掲載は正しい判断だったのか、ネオナチや在特会にも自由は保障されるべきなのか……。ようやく考えがまとまったので、忘れないうちに結論を記したい。

 俺は最近、<市民>という言葉に忌避感を覚えている。大江健三郎氏の反原発集会の第一声は「市民の皆さん」だが、参加者の多くは日々、圧力に抗しながら課題に取り組む活動家で、経済的にも社会的にも<市民的自由>を享受していない。それはさておき、言論や表現の自由を語る前提は、<民主国家=市民社会>だ。市民社会は、民族、性別、宗教、階級の違いに寛容で、多様性を認める個人によって成立する。

 ネオナチや在特会、そしてオウムのように立場が異なる側を否定し攻撃する組織は、坂本弁護士の言葉を借りれば<存在そのものが違法>で、市民社会のルールを認めていない。ヘイトスピーチを制限することは、市民社会なら当然だと考える。<日本は市民社会ではない>と考えるなら、ヘイトスピーチも言論の自由の一形態との結論に至るだろう。

 俺は当初から、風刺画掲載に疑義を呈してきた。ピーター・バラカン氏や宮崎駿氏の発言に意を強くしたが、内藤正典同大教授も仕事先の夕刊紙で否定的な見解を記していた。<フランスはカトリックの軛を逃れるために闘ってきた経緯があり、教会を風刺の対象にすることに迷いがない。一方で、フランスの底辺を支えるイスラム教徒の植民地出身者にとって、ムハンマドは唯一の灯>(論旨)という。

 多様性を認めることこそ市民社会の前提だが、自由の名の下、他者の思いを踏みにじることは許されない。ムハンマドを風刺する意味を、シャルリー・エブド紙の編集部は理解していたのだろうか。

 米軍と政府による県民の意思を踏みにじる沖縄での蛮行、福島第1原発からの汚染水流出と、暗くなるニュースが相次ぐ。メディアの屈服もあり、日本はオープンな<市民社会>と程遠い。俺が物心ついたのは10代半ばだが、あれから45年、日本の自由度は明らかに後退している。その責任は俺を含む中高年世代にあることを痛感している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫の日雑感~銚子で猫たちと出会う

2015-02-22 23:22:35 | 戯れ言
 〝民主党のホープ〟玉木雄一郎衆院議員が西川公也農相の献金問題を追及中、「日教組、どうするの」の野次を飛ばした御仁がいる。何と、安倍首相だった。玉木議員は日教組と無関係で、憲法改正、集団的自衛権限定容認、原発再稼働に賛成の保守派だ。〝身内〟といっていいだけに、首相の思考回路を心配する声が上がっている。

 俺が小学生の頃から、自民党は利権の分配マシンだった。原発、基地、五輪、そして西川問題と、政官財癒着の構図は半世紀経っても全く変わっていない。メディアは当時、権力を監視し、叩くことを恐れなかったが、今や牙をすっかり抜かれ、政権に操られている。

 暗澹たる気分を引きずりつつ、週末は銚子に足を運んだ。イチゴ狩りの後、犬吠埼灯台に向かう。心臓をバクバクさせながら99段の階段を上り、展望台に立つと、鈍色の空と一体になった海が広がっている。荒々しい絶景に、俺は兆すものを覚えていた。遊歩道を散策中、捧げられた花束に気付く。崖から飛び降りた方がいたのだろうか。

 旅の目当てのひとつは、猫のきみちゃんに挨拶することだった。犬吠埼灯台から徒歩30分ほどの君ケ浜駅の駅長である。高齢で体を壊したこともあり、近所の方があれこれ面倒を見ているようだ。愛嬌は振りまかないが、そっと近づいて手を舐め、しばらくして離れていく。人間との節度ある接し方を心得ている猫だった。漁港近くでは野良猫たちに何度も出くわす。猫は魚の街に似合うようだ。

 君ケ浜駅は銚子電鉄の無人駅だ。昭和が薫る鉄道がキャッチフレーズで、京王電鉄からもらい受けた車両(2両編成)で走っている。週末でもあり、鉄男、鉄女、鉄カップルたちが車両の内外からシャッターを切っていた。走り回るギャル車掌はマスコット的存在で、お馴染みさんと会釈を交わしている。旅と線路が人の心を繋ぐこと実感するささやかな旅だった。

 きょう22日は猫の日だった。スカパー!ではこの時季、多くの局が関連番組を放映する、TBSチャンネルで古典の「猫定」(三遊亭圓生)、「猫の忠信」(古今亭志ん輔)、衛星劇場で春風亭百栄の新作「バイオレンス・スコ」と「ロシアンブルー」と、俺は落語を中心に楽しんだ。古典は猫の業を描き、新作には猫ギャグが織り込まれている。

 俺にとって<猫が好き>と<女性が好き>は同じ文脈で、以下のように三つに分類している。

A=特定の猫(女性)が好き。飼い猫(妻や恋人)は大切にするが、それ以外に目を向けない。

B=幅広く猫(女性)に関心を持つ。不特定多数の猫(女性)に接近し、餌(食事)を与えるなど便宜を図っている。

C=野良猫を去勢したり、保健所に収容された猫の飼い主を探したりと、猫に愛情を注いでいる。女性に関していうなら、差別やDVに抗議したり、シングルマザーの生活向上に努める活動家だ。好きという段階を超え、愛の高みに達している。

 俺は確かに猫好きだが、AかBのレベルで、Cには遠く及ばない。ならば、女性については? Cでないのは確かである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「顔」~見る者を共犯者にするカタルシス

2015-02-19 23:47:58 | 映画、ドラマ
 旧聞に属するが、ベックの「モーニング・フェイズ」がグラミー賞で最優秀アルバムに輝いた。ベックは90年代半ば、革新者としてシーンに登場し、たちまち時代の寵児になる。昨年のコーチェラフェスではアーケイド・ファイアのステージに客演していたが、〝現役ではなくレジェンドとして〟と俺は勘違いしていた。まだ44歳と若く、手術で脊椎損傷を克服したという。

 最前線に復帰したベックは、フジもしくはサマソニで来日する可能性がある。フジは仕事の関係で土曜にしか行けないが、サマソニでマニック・ストリート・プリーチャーズが「ホーリー・バイブル」ツアーを再現する。見逃したら一生、悔いが残りそうだ。

 ずっと見逃していた映画をようやく見た。衛星劇場でオンエアされた「顔」(99年、阪本順治監督)である。和歌山毒カレー、婚活詐欺連続殺人、尼崎連続変死事件、そして現在の青酸カリ事件……。人騒がせな毒婦が次々に登場するが、ハシリになったのは福田和子だろう。本作は福田の逃走劇にインスパイアされて制作されたが、主人公の正子(藤山直美)は毒婦とは程遠い〝浄婦〟というべきキャラクターだった。

 深刻ないじめがトラウマになり、他者とコミュニケーションを取れない正子は、35歳まで引きこもっていた。父の出奔後、クリーニング店を切り盛りしていた母(渡辺美佐子)が唯一の理解者である。その母が亡くなり、通夜の夜、不仲だった妹(牧瀬里穂)を赤い毛糸で絞殺した。翌日未明に起きた阪神淡路大震災を、正子は自身への罰と受け止める。

 力感溢れる〝ガテン系〟逃走劇を想像していたが、正子のシュールな心象風景が織り込まれるなど、欧州アート系の趣がある。出色なのは音楽の使い方で、悲しかったり、痛ましかったりするシーンに、<逆説の話法>に則ったサッチモ風の主題歌が重なる。俺は黒澤明の作品を思い出していた。

 スナックを経営する律子(大楠道代)、その弟でヤクザから足を洗おうとする洋行(豊川悦司)、リストラされUターンしてきた彰(佐藤浩市)、正子に接近する健太(國村隼)……。別府での彼らとの交流により、世間を拒絶してきた正子に、他者への思いが目覚めてくる。

 律子は正子の庇護者で、彰は初恋の相手だ。曖昧な健太に父の面影を重ね、洋行は冷静な観察者といえる。正子の不器用さ、素朴さが周囲の人間を濾過していく。洋行は過去と闘い、彰は虚しい過去を捨て、律子は精神的な共犯者になる。藤山寛美の娘で名優の誉れ高い直美の壊れ曝け出す演技に、「道」(54年、フェリーニ)のジュリエッタ・マシーナが重なった。

 家族を捨てた父は、いじめられていた正子を気遣い、「自転車なんかに乗らんでええ、泳がんでもええ」と話していた。正子に自転車を教えたのがお人よしのラブホ経営者(岸部一徳)で、泳ぎを教えたのは健太である。両方が逃亡の手段になったのがおかしかった。

 シリアスなストーリーにコミカルさを味付けする藤山の表現力には感嘆するばかりで、ラストにカタルシスを覚え、、逃走を応援する共犯者の気分になっていた。映画賞を総なめしたのも納得できる傑作で、上記以外に中村勘九郎、早乙女愛、内田春菊が脇を固めている。キャスティングを楽しめる作品でもあった。

 先立つもの(金)がないから、毒婦は俺に接近してこない。正子のような〝浄婦〟は周りにいたはずだが、ウザいとか鬱陶しいとか感じ、距離を置いていたに違いない。心を浄めてくれる異性と出会えた方は幸せだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「犬婿入り」~多和田葉子の刺激的で斬新な世界

2015-02-16 23:45:55 | 戯れ言
 先週末(14日)は祖母の二十七回忌のために帰省し、親戚宅(寺)に1泊した。ささやかな会だったが、従兄弟(住職)と次男(副住職)の読経に合わせ、従兄弟の孫娘(3歳)がダンスする姿が、ミスマッチながら楽しかった。翌朝は浄梵式に参加し、丹波では仏教が生活に根付いていることを実感した。

 シーナ&ロケッツのシーナさんが亡くなった。夫の鮎川誠が柴山俊之らと結成したサンハウスはめんたいロックの草分け的存在で、影響を受けたルースターズ、モッズ、ARBらが次々にシーンに登場する。シーナさんは多彩な才能で〝ロックの聖地〟を牽引したディーバだった。冥福を心から祈りたい。

 仕事先の夕刊紙で新たな発見があった。書評ページで「献灯使」が絶賛されていたが、俺は多和田葉子の名前さえ知らなかった。<村上春樹が受賞できなかったら、次の候補は多和田>と記されている。ミーハーの俺は大地屋書店(池袋、文庫専門店)で芥川賞受賞作「犬婿入り」(講談社文庫)を購入し、帰省中に読んだ。

 ドイツに魅せられた多和田は、現在も当地で暮らしている。二つの言語で小説を発表することも多いという。まずは併せて収録された「ペルソナ」から感想を記したい。ドイツ留学中の道子は、違和感と疎外感を抱きながら暮らしている。五感をヤスリで研ぎ、ヒリヒリ痛みを覚えながら身構える様に、椎名麟三や古井由吉の小説を思い出したが、道子の前にはさらに、共同体の壁が聳えているのだ。

 精神病院の看護師セオンリョン・キムがあらぬ疑いを掛けられていることを、道子は知人から聞かされる。韓国人のキムは誠実な仕事ぶりで信頼を勝ち得ているが、「東アジア人は表情がないから、何を考えているかわからない」という偏見に追いつめられていく。一方で道子は周囲から韓国人、フィリピン人などに間違えられ、〝日本人っぽく〟見せようと化粧したりする。

 弟の和男や周りの日本人は、ドイツ風の価値観を受け入れているが、道子はドイツと日本の境界に佇み、被るべきペルソナが見つからない。アイデンティティーに悩んだ経験こそ、多和田文学のスタートラインなのだろう。

 「犬婿入り」の舞台は、ドイツではなく日本だ。「ペルソナ」の道子は共同体の外をグルグル回っていたが、「犬婿入り」のみつこもインサイダーではない。元ヒッピー? ハイジャッカー? なんて周囲は喧しいが、小中生を対象にした塾を開いている。奇妙な物言いで生徒や母親たちを混乱させるが、〝教育的配慮に欠ける〟なんて堅苦しい抗議には至らない。道子とは対照的に、みつこは全身からフェロモンが零れ落ちる39歳で、女の子の前で豊かな乳房を曝したりする。

 緩やかに流れる世界に太郎が闖入し、恋仲に見える関係になる。とはいえ、太郎のみつこへの接し方はユーモラスで人間離れしていた。太郎の正体、そして異種になった経緯も説明されるが、みつこにしても、流れ着いたアウトサイダーなのだ。異種婚の伝承をベースにした寓話は、実に刺激的だった。

 〝多和田山脈〟には霧が垂れ込め、蜃気楼のように彼方に聳えている。麓に踏み入れたばかりの俺は既に迷いつつあるが、心はなぜか浮き浮きしている。

 多和田文学に精通した与那嶺恵子氏の「間をめぐるアレゴリー」と題された解説によれば、<多和田葉子の小説では、言語が伝達の手段を超えて、ものの本質として屹立する言語空間が立ち現れる>……。

 こんな批評を前にしたら赤面するしかないが、読み進めていき、自分なりの多和田像を語れるようになりたい。ノーベル文学賞の可能性も十分というのが、初体験の感想である。ちなみに多和田はブログで反原発の立場を明確にしている。環境をテーマにした作品にもいずれ出合えそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「KANO 1931海の向こうの甲子園」~民族を超えた絆を描いた秀作

2015-02-13 14:53:36 | 映画、ドラマ
 「日本人の単純さ、操縦されやすさはWWEのファン並みだな」……。久しぶりに会った知人が先日、安倍政権の暴走を止められない現状を、こんな風に嘆いていた。

 WWEをここ数年見ていない彼は、最近のファンの反抗を知らない。祭典「レッスルマニア」への道筋を決める「ロイヤルランブル」は昨年に続いてファンの反感を買い、ストーリーは修正される。開催地が〝ECWの聖地〟フィラデルフィアであったことも大きかった。

 「イエス旋風」を巻き起こしたダニエル・ブライアンは昨年の「ロイヤルランブル」で、王座戦出場を懸けたイルミネーションマッチから外されていた。大黒柱のCMパンク(UFC参戦を表明)が大会翌日、退団を申し入れたことも相俟り、試合会場は騒然とした雰囲気になる。〝民意〟に従った上層部はシナリオを書き換え、ブライアンは祭典で王座を獲得する。

 今年起きたことについては、「レッスルマニア」の稿(4月)で併せて記す。WWEはアメリカに違和感や敵意を抱くフランス、ドイツ、ロシア、中国、中東諸国を含む100カ国以上で放映されている。収益を挙げるためにはグローバルな普遍性を追求せざるを得ない。WWEではチャントやアプリでの投票がストーリーに直結する直接民主主義が機能している。

 「バンクーバーの朝日」、「アゲイン 28年目の甲子園」と野球映画が相次いで封切られた。この2作はパスしたが、角川シネマ有楽町で先日、台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」(14年、マー・ジーシアン監督)を見た。本作を知ったのは昨年7月のこと。台湾緑の党の金旻頎君(当時19歳)を招いた交流会が、党事務所で開催された。台湾における反原発運動や立法院占拠など、当地のリポートは興味深い内容だった。

 会終了後、台湾映画について金君と話す機会があった。「非情城市」(侯孝賢)、「牯嶺街少年殺人事件」(エドワード・ヤン)に感銘を受けたことを伝えると、「知りませんでした。レンタルで見ます」と金君は答える。代わりに教えてくれたのが、台湾で大ヒットした「KANO」だった。

 日本統治時代の1931年、日本人、台湾人、高砂族の混成チームの嘉義農林野球部が台湾予選を勝ち上がり、甲子園で決勝に進出した。実話に基づく作品で、近藤兵太郎監督役は永瀬正敏である。サイドストーリーは甲子園出場と軌を一にしたダムの完成で、大沢たかおが嘉農ナインと交遊する技術者を演じていた。

 台湾でも抗日蜂起は頻繁に起きていたが、本作は異文化の交流がテーマで、会話の殆どは日本語だ。寡黙で厳しい近藤は、台湾南部の風土と異質だが、指導は理にかなっていた。夢を提示するモチベーターとして、ナインの信頼を勝ち取っていく。ちなみに近藤は日台両国で野球の礎を築いた指導者で、名立たる教え子たちが球界の発展に貢献した。

 近藤は偏見まみれの有力者や新聞記者に敢然と反論し、差別の無意味さを強調する。暗闇の中、一本のロウソクの周りにナインを集め、禅問答風に真理を説くシーンが印象的だった。選手に寄り添う優しさや柔らかさを持ち合わせていた近藤は、まさに理想の日本人だ。「KANO」は民族を超えた絆、アイデンティティーの浸潤を描いた秀作だった。

 仄かな恋や友情が、台湾の美しい自然に織り込まれていた。CGを用いた甲子園のシーンは圧巻で、3時間を超える長尺なのに、円やかに作品に引き込まれていく。冒頭とラストに、制作サイドの意図が明確に示されていた。

 甲子園で嘉農と対戦した札幌商の錠者投手は13年後、大尉として南方戦線に向かう。途中で嘉農のグラウンドを訪れ、敬意を白球に託した。南方では日本軍属に編入された多くの台湾人が戦死した。本作の背景には、東アジアで起きた史実が広がっている。

 映画館を出ると、あるグループが街宣していた。「南京大虐殺は作り事、従軍慰安婦なんてウソ。日本人の誇りを取り戻そう」という主張に、俺は「日本人としての恥」を感じつつ通り過ぎた。右からの暴風が吹き荒れる中、〝風にそよぐ葦〟も結集し、歴史修正主義に抵抗している。いずれ風向きが変わることを確信している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歪んだ政界地図を書き換えよう~緑の党総会で感じたこと

2015-02-10 23:06:55 | 社会、政治
 全国農業協同組合中央会(JA全中)が、安倍政権の改革案を受け入れた。TPP参加への地均しが整ったといえるだろう。白井聡氏は「永続敗戦論」で、<アメリカは身内を簒奪する段階に至った。手段はTPPで、餌食は日本>(論旨)と記している。安倍支持者は反対派を〝売国奴〟と罵るが、その名に最も相応しいは他ならぬ首相だ。

 安倍首相は来夏の参院選のテーマに改憲を据えるという。国民の過半数が反対もしくは慎重派だが、国会議員は賛成派が70%以上を占めている。憲法に限らず、辺野古、原発も国民の声と国会は乖離しているが、参院選は歪んだ永田町の地図を書き換えるチャンスになるかもしれない。

 先々週末は東京都本部、先週末は全国と、緑の党の集会に続けて参加した。58歳のオールドルーキーの感想を以下に記したい。

 自身を<アナログの十進法思考>と記している俺にとり、緑の党が体内の温度と湿度に見合った集団であることを実感した。<アイデンティティーと多様性の尊重、循環型社会、自然との調和、参加型(=直接)民主主義>を理念に掲げる緑の党は、自由でサークル的な色合いが濃い。

 長期にわたって緑の理念を実践してきたベテランに、俺の発言は〝軽佻浮薄な空論〟と聞こえたかもしれない。<格差と貧困こそ最大のテーマ>という俺の持論も少数派で、ディスカッションでピケティの名を牽強付会に出したものの、同意は得られなかった。立ち位置は近くても感じ方や意見は異なり、合意形成に手間が掛かるのが緑の党だ。その辺りは、想田和弘氏とのトークイベントで宇都宮健児氏が<自由がない組織に民主主義を掲げる資格はない>と評した共産党(恐らく)と真逆といえる。

 緑の党のファジーなムードは、プラスにもマイナスにも働く。緩衝材、接着剤として全国各地で機能しており、瑕疵がないゆえリベラルや左派は概して好意的だが、明確なイメージがない。まずは統一地方選(4月)で系列議員を3桁に増やし、国政選挙への足がかりにすることが第一だろう。

 一昨年の参院選、昨年の衆院選の後、平野啓一郎がツイッターで、柳家小三治が独演会で<他に選択肢がないから、共産党に投じた>と明かした。彼らの発言は多くの人の気持ちを代弁している。衆院選では、今回初めて棄権したという声を幾つか聞いた。緑の党の来夏の目標は、選択肢としてリベラルや左派の目に映ることである。そのために何を成すべきか俺も発言したが、長いスパン(最低でも10年)で考えるべきだろう。 

 緑の党は今、祭りの後であり、祭りの前でもある。13年の参院選における三宅洋平、山本太郎候補による選挙フェス、都知事選で宇都宮健児候補の応援に集まった女性と若者……。地殻変動の兆しを覚えたが、緑の党は熱気を吸収できなかった。とはいえ三宅、山本、宇都宮の3氏は緑の党と友好関係にあり、統一地方選では緑の党の公認、推薦候補を応援するはずだ。

 山本議員は小沢一郎氏の黙認の下、フリーハンドで活動している。俺の中で〝政局の人〟のイメージが強い小沢氏だが、落ちるところまで落ちた今、山本議員の人脈とも連なる形で、反撃に打って出るつもりなのか。小沢氏に唯一期待を寄せているメディアが、仕事先のG紙だ。反安倍を鮮明に、繋がりが深い識者が頻繁に登場することもあり、緑の党会員に愛読者が多い。G紙と緑の党の距離が縮まる予感がする。

 自分の気質に合った緑の党を還暦間近に発見したことで、目前に世界が広がり、新しい仲間を得た。統一地方選では、近くで出馬した候補を下支えするつもりでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四人組がいた。」~境界線を突破する高村薫の想像力

2015-02-07 20:20:32 | 読書
 高村自民党副総裁は、「政府の警告を振り切ってシリア入りした後藤健二氏の行為は蛮勇」(論旨)と語った。ならば、人質2人の存在を把握した上でイスラム国を挑発した安倍首相こそ、日本人を危機に晒す「蛮勇のリーダー」ではないか。今回の件でテレビの取材を受けたジャーナリストはオンエアを見て愕然とする。政府の対応を批判した部分が全てカットされていたからだ。

 「反安倍」を掲げる側が、メディアの翼賛会化を嘆いていても仕方ない。スコットランド独立の賛否を問う住民投票(昨年9月)では、BBCを筆頭に、反対派に与する英メディアの偏向は甚だしいものだった。それでも賛成派は斬新な方法で支持を広めていく。楽観派の俺は、志ある者が連携すれば流れは変わると確信じている。

 「報道ステーション」(4日夜)にトマ・ピケティ(フランスの経済学者)が出演した。世界的ベストセラーの「21世紀の資本」では、<資産(株や不動産)は必ず賃金を上回り、必然的に格差が生じる>という仮説を、莫大なデータによって裏付けた。〝21世紀のマルクス〟と評する声もあるが、当人は資本主義の新たな可能性(格差の是正)を見据えている。

 同国人のジャック・アタリと同じく、<資本主義の前提は民主主義>と強調していた。民主主義が機能すれば不平等は改善され、各国が協力すればグローバル企業から相応の税を徴収出来ると述べていた。富裕層(企業を含め)を優遇し、消費税アップで弱者から搾り取るアベノミクスに否定的であることが窺える。<格差と貧困が排外主義を育み、様々な社会不安の要因になる>は凡人たる俺の主張だが、天才ピケティが論理的に語ると、説得力はグーンと増す。

 高村薫については頻繁に取り上げてきたが、最新作「四人組がいた。」(14年、文藝春秋)を読了した。前々作「太陽を曳く馬」(09年)を<純文学を超えた天上の文学>、前作「冷血」(12年)を<深淵と混沌の極みにそびえる搭>と絶賛しつつ、俺は作者の消耗を慮っていた。〝骨休め〟ともいえる本作に触れて、ひとまず安堵した。

 12章から成る「四人組がいた。」は、他の作品と空気が異なる。帯に「高村薫 ユーモア小説に挑む」とあるが、四人組で思い出すのは文革だ。「ユーモア小説にしては文章が硬いし、そのうち社会的テーマに行き着くはず」と身構えていたが、ページを繰るうち、ほぐれていく。俺は虚実ないまぜの迷路に迷い込んだ。

 四人組とは後期高齢者と思しき元村長、元助役、郵便局長、キクエ小母さんで、郵便局兼集会所でのんびり日々を過ごしている。舞台の村は合併で市になったが、変化の兆しはない。第1章「四人組、怪しむ」で頭に浮かぶのは、長閑な山あいの限界集落だ。四人組は恬淡、諦念、解脱と無縁で、老いても妄想と好奇心に支配されている。

 山師、エセ宗教家、怪しいセールスマン、お尋ね者etc……。四人組が形づくる磁場に引き寄せられてドアを叩くのは、人間ばかりじゃない。動物や宇宙人まで人間に化けてやってくる。連中は四人組の暇つぶし、からかいの対象、遊び相手になるが、その場の会話が事件のきっかけになる。村は異界との出入り口、不老不死の妖怪村の様相を呈し、時間は迂遠に歪んで流れる。

 本作のハイライトは第11章「四人組、伝説になる」だ。村が生んだアイドルグループ(実はタヌキの娘たち)の解散公演を応援するため、村人や獣たちが四人組企画の東京ツアーに参加した。高村のイマジネーションが爆発し、混沌と祝祭のステージはフィナーレを迎える。

 高村ワールドに緊張を強いられてきたファンは、本作に開放感を覚えたはずだ。「わたしって、意外とおちゃめでしょう」と笑いながら。高村は筆を走らせたに違いない。戯画化して虚を描きながら、裏返しになったリアルを感じさせるのも高村らしい。ちりばめられた文明批評が、日本の現実を穿っていた。

 高村は方向転換したわけではなさそうだ。重厚かつ濃密で、本来の色調とトーンに即した「土の記」を「新潮」に連載中という。新刊を心待ちにしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビフォアで終わった史上最高のスーパーボウル

2015-02-03 22:51:41 | スポーツ
 湯川さんに続き、後藤さんもイスラム国によって惨殺された。安倍首相は事態を把握した上で有志連合支援を表明し、後藤さんの死を確認するや報復を宣言する。自身の瑕疵を隠蔽するため、居丈高にイスラム国を挑発しているのだろう。

 イスラム国が急速に勢力を伸ばした背景を見据えないと、根本的解決には至らない。有志連合が〝正義〟の名の下に落とす爆弾もまた、多くの人々の命を奪い、悲しみはやがて憎しみに変わる。イスラム国が崩壊しても、血と暴力に彩られた花粉は全世界に飛散する。

 <自分たちは絶対的真理の側にある。逆らう者は殺してもいい>という発想は深く根を下ろし、折を見て禍々しい花を咲かせる。ナチスドイツ、ポル・ポト派、旧ユーゴの民族浄化、そしてオウム真理教ctc……。アイデンティティーの浸潤、多様性の尊重に価値を置く俺にとって狂気の範疇だが、最近は日本にも異様な空気が流れ込んでいる。

 先週末、「よってたかって'15 21世紀スペシャル夜の部」(よみうりホール)で失態を演じてしまった。軽妙な柳家三三が「転宅」、破天荒な三遊亭白鳥「トキ蕎麦」、豪快な春風亭一之輔が「がまの油」、洒脱な柳亭市馬が「花見の仇討」と持ち味を発揮し、緊張感が途切れぬまま時は円く流れた。

 俺が耳目を集めたのは前座の一席で、息を吸い込んだ拍子に飴が喉に張り付き、断末魔の喘ぎを洩らしてしまった。三三の持ち時間だったら、7列目の異変に気付き、「旦那さん、大丈夫ですか」なんて噺に合わせた女言葉でアドリブを入れたことだろう。三三が高座に上がった頃、呼吸は元に戻っていた。

 ようやく本題……。スーパーボウルでペイトリオッツがシーホークスを28対24で下した。俺の描いていたストーリーは大団円の直前に暗転し、愁嘆場と化してしまう。スポーツの楽しみは、試合を挟んだビフォア&アフターにあるが、今回のスーパーボウルはビフォアだけで終わってしまった。

 昨年末の稿(12月24日)、レギュラーシーズン終了間際の時点で、スーパーボウルは史上最高に対決になると予言し、現実になった。ベリチック(ペイトリオッツ)とキャロル(シーホークス)の両ヘッドコーチの因縁を振り返り、個性の異なる両チームの戦力をたっぷり分析して当日を迎えた。

 仕事中ゆえチラ見で済ましていたが、展開は想定通りで、先行した準備のペイトリオッツに、野性のシーホークスが牙を剥く。第3Q終了時、シーホークスが24対14とリードし、ペイトリオッツのQBブレイディの表情も暗かった。勝利を確信し、昼飯を食いに外に出る。

 帰ってくると、24対28と逆転されている。絶句したが、残り1分6秒で、シーホークスが敵陣1ydまで迫る。誰もがRBリンチもしくはQBウィルソンのランによる逆転タッチダウンを予想しただろう。何とパスを投げてインターセプトされ万事休す……。俺はテレビの前で凍りつき、叫びを呑み込んだ。

 史上最高のスーパーボウルという予感は的中し、視聴率も新記録の49・7%だった。これほど劇的な幕切れは、ハリウッドの脚本家がチームを結成しても考え出せないだろう。将棋でいえば3手詰めを逃すようなうもので、キャロルHCは火だるま状態だ。リンチがHCをかばっている辺りに、シーホークスのチームカラーが窺える。

 今回のスーパーボウルに、俺はスポーツ以上の何かを感じていた。キャロルはペイトリオッツの先代HCで、<選手に優し過ぎるコーチ>と失格の烙印を押された。後を継いだベリチックは<戦略眼と冷徹さを併せ持つコーチ>とし-て、ペイトリオッツを常勝軍団に育て上げ神格化されている。その間、キャロルはUSCで〝全米一のカレッジコーチ〟の評価を勝ち取り、NFLにカムバックする。昨季、シーホークスを全米王座に導いた。

 規律のベリチック、情のキャロル……。パブリックイメージは対照的だが、実像にさほど差はないかもしれない。ベリチックは他チームで干された選手を活用することが多く、温情家の側面もある。キャロルもまた、激情を戦略に組み込んでいる嫌いがある。最後の最後で出たプレーコールのミスは、臥薪嘗胆の強過ぎる思いが引き出したのかもしれない。

 ベリチック=ブレイディのコンビにとっても、絶対に負けられない闘いだった。スーパーボウルでは圧倒的有利の下馬評で、NYジャイアンツに2度も苦杯をなめている。ジャイアンツは大舞台で100%以上の力を発揮する悪たれ軍団で、チームカラーはシーホークスに近い。今回敗れてスーパーボウル3連敗になると、知と理で築き上げた名声は色褪せていたはずだ。

 シーホークスが〝順当〟に逆転していたら、録画を繰り返し見て、ひとりニヤニヤしただろう。苦い結果にアフターは省略したが、スポーツ史に刻まれた人知を超えた一瞬を、リアルタイムで体感できた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする