酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「死刑」をめぐる情緒と論理~森達也が提起するもの

2010-03-31 00:25:34 | 読書
 「死刑」(08年刊/朝日出版社)を読了した。以下に感想を記したい。

 自衛隊海外派遣に反対する憲法9条維持派、自殺増加や格差拡大に胸を痛める人、環境保護論者……。優しくて柔らかな思考の持ち主の多くが、なぜか死刑存置派だ。廃止派の身には不思議だったが、人々は論理より情緒で死刑と向き合っているのだろう。

 護憲派といわれた後藤田正晴氏は法相時代、途切れていた死刑執行を再開する。一方で〝国権派〟を自任する佐藤優氏が廃止派に転じ、元警察官僚の亀井静香氏が「死刑廃止を推進する議員連盟」の代表を務めるなど、イメージと食い違うケースもある。

 存置派が前提とする〝事実〟に対し、森氏は本書で疑義を呈している。メディアが伝える<治安の悪化と凶悪事件の増加>だが、警察発表を信じる限り殺人事件は減少傾向にある。

 <国民の声により死刑の存廃が決まる>も〝事実〟に反する。本書ではフランス政府がイニシアティブを取って死刑を廃止した例を紹介している。他の欧州諸国でも同様で、政府が多数の存置派を抑える形で世論を<国際標準>に導いた。その積み重ねにより、死刑廃止がEU加盟の必要条件になる。

 <死刑は殺人の防波堤になる>も統計上は誤っている。欧州各国では死刑廃止後、殺人事件は減少している。興味深いのは、執行停止を含め死刑廃止が半数の州に迫りつつあるアメリカだ。治安に問題を抱えるワースト20市のうち17市が、死刑存置州内にある。先進国に関する限り、死刑は凶悪犯罪の歯止めになっていない。ここ数年、日本で目立つのは、自らの死(=死刑)を射程に入れた凶悪犯だ。死刑が犯罪へのスプリングボードとしての側面を持つことにも留意する必要がある。

 日本で存置派が80%を超えるのは、<神と法というダブルスタンダード>が存在しないからではないか。本書の冒頭、「カラマーゾフの兄弟」から以下の部分が引用されている。

 <この地上には、真剣に悔いあらためているものを神さまがお赦しにならないほどの罪などありませんし(中略)、尽きることのない神の愛を涸れさせてしまうほど大きな罪など、人間に犯せるはずがないのです>……

 <悔いあらためれば赦される>を裏返せば、<罪に相応しい法的罰を逃れても神の裁きが待ち受ける>となる。日本の場合、〝神の怒り〟を形にするのは法に則る罪と罰だけだ。信仰なき土壌で厳罰主義が幅を利かすのは当然かもしれない。

 死刑だけを隔離して論じても意味がないことを、本書は教えてくれた。警察の取り調べの在り方、代用監獄や刑務所の前近代的な仕組み、加害者家族に群がるメディア、犯罪の温床になる貧困、<支配-隷属>に陥りやすい国民性など、巨視的に検証していかないと死刑廃止に繋がらない。

 複数の死刑囚、免田栄さん、冤罪に取り組む人たち、殺人の被害者家族、元刑務官……。多くの証言が記されていたが、最も感銘を受けたのは、光市事件で妻子を殺害された本村洋氏が森氏に送ったメールだった。

 自らを死刑存置派のリーダー的存在に据えるメディアへの不快を表明した本村氏は、<死刑問題の本質は、「なぜ権力は死刑という暴力に頼るのか」、「なぜ国民は死刑を支持せざるをえないのか」という問いの中にある>(要旨)と綴っていた。本村氏は渡米して多くの死刑囚と話し、真摯な言葉に影響を受けたという。

 森氏は同事件の被告と面会している。頭脳は明晰だが、改悛の情や他人の身を慮るという感覚とは無縁の青年に映る。それでも森氏は「僕は人に絶望したくない。生きる価値のない人など認めない」と本書を結ぶ。

 本書を終着駅にする予定が、ようやくスタートラインに着いたばかりと気付いた。命が尽きるまで、死刑とその背景について考えていきたい。



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「渇き」~アガペーとエロスに揺れるバンパイア

2010-03-28 02:35:01 | 映画、ドラマ
 島津有理子キャスターがNHK「おはよう日本」を卒業した。知性と愛嬌を合わせ持つ島津さんはこの1年半、俺にとって〝朝の天使〟だった。寂しさは否めないが、異動先(ニューヨーク支局)で資質を磨いてほしい。

 先日、「渇き」(09年、パク・チャヌク監督)を見た。カンヌ映画祭審査員賞など多くの賞を獲得しているが、肩透かしの感は否めなかった。

 本作を論じる前に、脇道から進めてみたい。

 キム・ヨナと浅田真央、宮里藍と韓国女子ゴルファー、野球、サッカーetc……。スポーツ界で日韓は常にライバル関係にある。芸能界では韓流ドラマに続き、東方神起が日本を席巻中だ。夏には同時期にロックフェスが開催され、両方にブッキンングされたバンドが日韓を行き来する。日韓国民は様々なジャンルで同じものに触れ、心を熱くしている。
 
 「爆笑問題のニッポンの教養」で上智大・鬼頭宏教授(歴史人口学)は、「奈良時代の人口の70~80%は朝鮮半島からの渡来者」と語っていた。日韓が同根の〝兄弟木〟なら、感性とトレンドが似るのは当然だ。

 「とんでもない。私は生粋の日本人だ」と主張する人に、簡単なルーツ識別法を伝授する。耳アカが粘っこければ縄文人(原日本系)、乾いていれば弥生人(渡来系)という。俺が韓国映画にピンとこないのは、きっと縄文人だからだろう。

 以下に興趣を削がぬよう「渇き」を紹介するが、辛口なのは縄文人の独り善がりと斟酌願いたい。

 サンヒョン神父は<アガペー>に生きる神のしもべだ。謎のウイルスに苦しむ患者を救うため検体になり、絶命後、バンパイアとして甦る。自己犠牲を厭わぬ高潔なサンヒョンは、血だけでなく愛にも渇きを覚えるようになる。人妻テジュに心乱れ、<エロス>に身を焦がすのだ。

 神父がバンパイア? ありえない! だが、多くの映画は夢でありメルヘンだ。別稿(09年10月18日)で絶賛した「空気人形」(09年、是枝裕和監督)では、ダッチワイフが心を持つ。現実を超越した設定でスタートした両作は2時間後、大差になってゴールテープを切る。愛の普遍と残酷さ、人間の孤独を抉る<至高の寓話>に昇華した「空気人形」と対照的に、「渇き」は<並のバンパイア映画>に堕していた。

 サンヒョンは<アガベー>と<エロス>の境界でさほど苦悩しない。多過ぎる夾雑物が、テーマの深化を邪魔しているように感じた。テジュに引きずられて罪を重ねるなら、いっそ冥府魔道を突き進めばいいのに、サンヒョンはただ揺れるだけだ。愛とは第三者の承認、限りある時間によって成立する……。ラストシーンを深読みすればこうなるが、的外れに違いない。

 職場の映画通は<女優を見るだけで価値がある>と「渇き」を評していた。テジュ役のキム・オクビンは稀有な新人で、純粋、狂気、妖艶、アンニュイ、魔性を22歳の若さ(撮影当時)で見事に表現していた。「空気人形」のペ・ドゥナとともに、韓国映画界の底力を証明する実力派といえるだろう。

 最後に高松宮記念の予想を。◎は勢いと地力を認めて⑥キンシャサノキセキだが、外差しが決まることを想定し、○⑬サンカルロ、▲⑮プレミアムボックス、△⑱ピサノパテックの追い込み勢を重視する。4頭BOXで馬連と3連複を買い、当日の気配や馬体重を見て、3連単を買い足すつもりだ。




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メディア、政治、野球etc~早春の雑感あれこれ

2010-03-25 00:15:48 | 戯れ言
 ネタ切れなので、雑感をまとめて記すことにする。

 昨年の今頃、妹は京大病院に入院中だった。それゆえ、同病院で起きたインスリン大量投与事件に衝撃を受ける。医療現場の厳しい労働条件が背景にあるのではないか。身を削って社会に貢献する人たちが報われるシステムを、国を挙げて構築してほしい。

 辺見庸氏の詩文集「生首」がようやく発刊された。近日中に購入し、当ブログで感想を記すつもりでいる。その辺見氏が〝糞にたかるハエ〟と揶揄するマスメディアは、検察や警察のリークを咀嚼せず下痢便の如く垂れ流し、〝俗情の生産〟に余念がない。むろん、飛んでいるのはハエだけではない。ハチのように鋭い視点で、報道の理想を追求する〝非記者クラブ系〟のジャーナリストも少なくない。その筆頭格は上杉隆氏だ。

 政権交代から半年、閉塞感はいまだ上空を覆ったままだ。<巨大な利益分配マシン>だった自民党が政権を失えば、寄り付く者はいない。農協など支持基盤は雪崩を打って民主党に転じ、創価学会からも距離を置かれた。不毛な一党独裁は、看板が変わったまま継続する気配である。

 普天間基地移設問題など市民集会のニュースが伝えられる時、俺は目を凝らして画面に見入り、ため息をつく。<市民>はいつしか<R40>と同義になっている。衆人環視の下で意見を主張したり、熱い議論によって立場の違いを克服したりすることで、若者は確実に成長する。民主主義の通過儀礼を経ずして、世界と対峙するのは不可能だ。

 格差は拡大し、貧困層は着実に広がっている。大学を出ても就職できない若者も増えているという。職がないということは、失うものが少ないということだ。若者がいつまでも羊のままとは限らない。1930年代のように生活実感に根差した本質的な闘いの担い手になるか、日本を見捨てて海外に飛び出すか……。いずれにせよ、若者の鋭い牙を見たいものだ。

 テレビ東京で「大食い女王決定戦」を見た。普通に可愛い木下ゆうかさんがあっけなく敗退した後は、録画して早回しで結果を追う。身近に俺より食べる女性が3人ほどいたので、<男より女の方が大食い>という〝真実〟に15年前には気付いていた。でも、番組を見ていてなぜか〝痛さ〟を覚えてしまう。俺の中では〝大食い女性=不幸〟という図式が出来上がっている。
 
 パ・リーグとセンバツが開幕し、セ・リーグ、大リーグと続く。まさに球春たけなわだ。郷里の先輩である野村克也氏の品格を疑問視しているから、彼が去った後――といっても名誉監督として高額のギャラ(1億円以上)をもらっているそうだが――の楽天をひいきチームに決めたが、いきなりの3連敗。拍子抜けだが、パ・リーグは大混戦だから、何が起きるかわからない。

 右膝に水がたまったので、週に4回ほど整骨院でマッサージを受けている。古傷の肉離れの個所もチクチク痛むので、全治までかなり時間を要しそうだ。マトモに歩けないので、今年の独り花見は近場の新宿中央公園で済ますことにする。




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「花を運ぶ妹」~癒やしと救いの物語

2010-03-22 00:39:36 | 読書
 将棋NHK杯決勝は羽生3冠が糸谷5段を下し、連覇を達成した。現役阪大生で〝哲学を語る怪物〟糸谷の強烈な個性が認知されたトーナメントでもあった。

 〝さばきのアーティスト〟久保が羽生の壁を打ち破って王将位を獲得し、同時進行の棋王防衛戦では〝定跡の破壊者〟佐藤9段と斬新な将棋を展開している。久保も糸谷も関西所属棋士だ。東高西低の勢力図は数年後、塗り変えられているかもしれない。

 さて、本題。今回は池澤夏樹著「花を運ぶ妹」を取り上げる。「マシアス・ギリの失踪」(09年12月13日の稿)では、<構造(世界の仕組み)を把握した池澤は、怜悧な俯瞰の目で物語を組み立てる>と記したが、早とちりの部分もあった。7年後に発表された「花を運ぶ妹」は、「マシアス――」とは異なる糸で紡がれていた。

 池澤の父福永武彦は、濃密な表現で読む者の魂を掴む作家だった。家族4人の主観を組み立てて人間の孤独を浮き彫りにした「忘却の河」は代表作のひとつだが、同様の手法が「花を運ぶ妹」で用いられている。

 兄哲郎は20代で名声を得たイラストレーターで、5歳下の妹カヲルはフランス留学の経験を生かしてメディアで活躍中だ。この兄妹のモノローグが交錯して物語は進行する。

 カヲルの元に兄逮捕の知らせが届く。場所はバリ、容疑はヘロイン持ち込みだ。兄を救うため、インドネシアに顔が利く〝黒幕〟稲垣老人に協力を依頼するが、好転の兆しはない。

 <後進国の歪んだ司法制度に陥れられた先進国の若者>という映画「ミッドナイト・エクスプレス」の図式は、次第にトーンを変えていく。哲郎のモノローグに頻繁に現れれる<幼い悲しみの天使>は贖罪のメタファーで、ヘロインに耽溺するきっかけでもあった。<死刑という罰>が現実になった時、哲郎は既に<死に値する罪>に苛まれていたのだ。

 三浦雅士氏は<人と人、人と自然は兄と妹のように繋がり合うべきではないか>(要旨)と本作の解説を結んでいた。哲郎とカヲルの間にも超えられぬ深淵が横たわっているが、窮地から逃れた時、兄妹は同じ地平で世界を眺めていた。〝パリ派〟だったカヲルは〝バリ派〟になって、西欧的価値観を克服する。哲郎はアンコール・ワットで魂を清められ、<幼い悲しみの天使>を内在化する。

 文明と自然、国家と個、法と逸脱、覚醒と耽溺、東洋と西洋、生と死、罪と罰、定着と放浪、希望と悔恨……。「花を運ぶ妹」に描かれた様々なコントラストは、純水で洗われて調和していく。柔らかな表現で兄妹の心情と絆にズームした、癒やしと救いの物語といえるだろう。

 優れた表現者は、常に時代を先取りする。発表から10年、本作を〝預言の書〟と感じるのは俺だけだろうか。恋愛に受動的で年上の女性に憧れる哲郎は草食系男子の範疇で、カヲルの行動力に頼りきりになる。薬物の蔓延、家族の崩壊は巷間伝えられる通りだし、バリ領事館の冷たい対応に、逸脱を許さない小泉政権時代の<自己責任論>を思い出した。

 哲郎には作者自身が投影されている。外側に立つからこそ見える真実があることを、池澤は教えてくれる。




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ダーティ-・プロジェクターズの爽快な衝撃

2010-03-19 03:25:35 | 音楽
 02年のお盆の頃、右足に肉離れを発症した。足首に重りを着けて歩く習慣が、過重な負荷になって筋肉を軋ませたのだ。サマソニでモリッシーとリバティーンズを見るはずが、チケットは紙屑と化し、苦痛に呻く有給休暇になった。

 あれから8年、患部周辺が疼き出し、まともに歩けなくなった。〝映画の木曜日〟に「渇き」を見る予定を急きょ変更し、馴染みの整骨院に行く。膝に水がたまっているとのこと。年を取れば、あちこちにガタがくるものだ。

 さて、本題。現役ロックファンに復帰したばかりの俺は今、ニューヨークからの風にそよいでいる。NY派の実力を確かめるために足を運んだクラブクアトロ(渋谷)で、ダーティ-・プロジェクターズにノックアウトされた。

 7時ジャスト、アコギを手にしたゲストのマウント・イアリが現れる。ニール・ヤングを彷彿とさせる曲調と声質に聴き惚れた30分だった。チューニングタイムを経て、いよいよダーティ-・プロジェクターズの登場だ。

 フロントマンのデイヴは左利きのでかいギタリストで、ベース、ドラムとはイケメントリオだ。ギター、サンプリング、ダンスを担当する美女3人と合わせ、フォトジェニックな6人組である。

 オープニングはニューシングル“Ascending Melody”で、アンコールを含め20曲弱、1時間30分ほどのステージだった。予習したのは最近の2枚のアルバムだけだが、「ライズ・アバヴ」(07年)から4曲、「ビッテ・オルカ」(09年)から8曲がセットリストに加わっていた。ちなみに「ライズ・アバヴ」はLAパンクの雄、ブラック・フラッグの「ダメージド」(81年)を全曲リメークした実験的作品である。

 プリミティヴ、ノスタルジック、牧歌的、祝祭的なパフォーマンスを支えるのは、デイヴと女性3人のボーカル隊だ。バリエーションに富んだ組み合わせで、曲ごとのコンセプトの違いを浮き彫りにしていく。歌心とストリート志向がNY派の共通点で、ダーティ-・プロジェクターズもまた、<加工と手作り>、<卓越したテクニックとアマチュア精神>というアンビバレンツを自然体で調和させていた。

 レインコーツを想起させる“Stillness Is the Move”、フェアグラウンド・アトラクション風の“Two Doves”に和んだ次の刹那、ソニック・ユースばりのノイズの洪水が心身に突き刺さる。表情豊かで爽快なライブだった。

 10年前の秋も、俺は幸せな800人のうちのひとりだった。同じ会場で見たMUSEは、青白い雛から怪鳥に成長する。今年は英グラストンベリー、米コーチェラのビッグ2だけでなく、10以上のフェスでヘッドライナー(トリ)を務める。合間を縫って欧州スタジアムツアーを敢行し、締めは16万人が集うウェンブリー2dayだ。

 レイジ支持を公言するなどラディカルに傾斜し、アルバムタイトル通り<抵抗>を訴えるMUSEは、資本主義のシステムを計算ずくで利用しているのだろう。〝いい子〟と評判のマシューだが、恐るべき策士に違いない。

 ダ-ティー・プロジェクターズは今後、どのような飛行曲線を描いていくのだろう。次作は確実にビルボードで5位以内に入り、ライブバンドとしても認知されるはずだ。それでも彼らは怪鳥を目指さず、鳩のようにNYを舞っているのではないか。それこそが分野を問わず、NY派の伝統とプライドなのだから……。

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パッキャオに騒ぐアジア人の血

2010-03-16 00:08:48 | スポーツ
 ここ数週間、俺にとっての「映画の日」(木曜日)に用事が重なり、スクリーンとご無沙汰している。代わりに録画した作品を少しずつ消化しているが、とりわけ感銘を受けたのは「蛇のひと」(WOWOW)だ。

 斬新なオリジナル脚本と冴えた演出(「重力ピエロ」の森淳一)が、主役の二人(永作博美、西島秀俊)だけでなく、個性的な脇役陣の魅力を引き出していた。哀しい宿命、紙一重の善意と悪意、割り切れない思い、解けない謎……。作品が発する光は内なるプリズムに閉じ込められ、心の闇で乱反射を繰り返している。

 良質のエンターテインメントを提供してくれるWOWOWが14日(日本時間)、WBOウエルター級王座戦を生中継した。マニー・パッキャオ(フィリピン)がジョシュア・クロッティ(ガーナ)を大差の判定で下した。

 パッキャオはイケメンと程遠い野人の風貌で、一昔前の日本人の体形に近い。その容姿に〝憎きベトコン〟を重ねるアメリカ人もいるだろうが、名だたる強豪を衝撃的な内容で次々に倒し、実力に相応しい人気を獲得した。クロッティ戦ではダラス・カウボーイズの本拠地に5万余(ソールドアウト)の観衆が集った。

 俺にとってパッキャオは、アジア人の血をたぎらせてくれる稀有な存在だ。ジョー小泉氏は<パウンド・フォー・パウンド>(クラスを超えた最強)であるばかりか、〝拳聖〟ジュガー・レイ・ロビンソンに比すべき選手と評価している。

 70年代後半から80年代前半にかけ、ボクシング界に降臨した神々が覇を競った。バンダム級の絶対王者サラテはジュニアフェザー級の怪物ゴメスに惨敗し、そのゴメスも1クラス上のサンチェスにマットを這わされた。3階級制覇の〝貴公子〟アルゲリョも、プライアーのパワーに跳ね返され、四つ目(ジュニアウエルター)の王座を掴めなかった。

 1クラス分のウエート差(2㌔余)が、時に越え難い壁になる……。パッキャオはそんなボクシングの常識をたやすく覆した。フライ級(51㌔弱)で最初のタイトルを獲得したパッキャオは、今やウエルター級(67㌔弱)王者だ。クロッティはナチュラルなウエルターだが、パッキャオのパワーに身上のディフェンスを破られていた。

 勝つことより倒れないことを選んだクロッティには、勇気、美学、執念が欠けていた。アフリカ人ボクサーの悪しき伝統である。ガーナ人の先輩クォーティはデラホーヤより確実に強かった(と信じる)が、手堅く試合を進めるうち自縄自縛に陥り、不用意にパンチを食ってダウンを奪われ、判定負けした。

 世界のボクシングファンは、メイウェザーとパッキャオの〝世紀の一戦〟を心待ちにしている。実は両者には格好の物差しが2人いる。メイウェザーはデラホーヤに2対1の判定勝ち、パッキャオは8回終了TKO勝ち。メイウェザーはハットンに10回TKO勝ち、パッキャオは2回KO勝ち。この結果からパッキャオ有利に思えるが、ボクシングに三段論法は通用しない。

 失うものがあまりに大きいから、メイウェザーはパッキャオの挑戦を受けないだろう。もし試合が実現したら、人知を超越したアジアンパワーがスピードスターを打ち砕くのではないか。予想というより、俺の願望に近いけれど……。

 融通無碍の俺は、ボクシングと並行してWWEを楽しんでいる。「レッスルマニア」の王座戦はバティスタVSシナ、ジェリコVSエッジに決まり、HBKは引退を懸けてアンダーテイカーに挑む。私怨渦巻くビンス・マクマホンとブレット・ハートの対決も見ものだ。「レッスルマニア」前日の殿堂入り式典で、猪木は何を語るのだろう。






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「モンドヴィーノ」~文化としてのワインの薫り

2010-03-10 01:03:09 | 映画、ドラマ
 先日、後輩(会社員時代)の結婚式と披露宴に出席した。不器用だったはずの新郎が、<正しく愛せない>俺に、普遍かつ不変の真理を改めて教えてくれた。即ち、<愛とは形を取ることで成立する>……。

 恋愛至上主義者だった俺は、観念と妄想でエロスとタナトスの狭間を彷徨ったが、究極の愛は手に入らなかった。いっそのこと宗旨変えし、ささやかな温もりを探すのもいいが、最近どうも調子がおかしい。30~40代とは一転、シャイな少年に戻っている。〝五十路の純情〟なんて気色悪いとしか言いようがないけれど……。

 さて、本題。披露宴でも口に含んだワインについて記したい。シネフィル・イマジカで1月に放映された「モンドヴィーノ」(04年/仏、米)は、下戸の俺にも刺激的なドキュメンタリーだった。監督はソムリエの資格を持つジョナサン・ノシターである。

 浜田雅功と伊東四朗が進行役を務める正月特番「格付けチェック」では、値段が100倍ほど違うワインを取り違える出演者が続出する。自称ワイン通の芸能人のみならず、評論家もテイスティングに苦戦するという。本作には〝ワインという謎〟を解くヒントが示されていた。

 フランス人やイタリア人にとって、ワインとは個人の窯で焼かれる陶器のように、アイデンティティーを表現するアートだった。ワインと自然との宗教的、形而上的な関わりを強調する伝統重視派にとって、ミシェル・ロラン(ワインコンサルタント)は文化の破壊者である。

 ロランはカリフォルニアワインの名を高めたモンダヴィ一族と盟友関係にある。モンダヴィはロラン同様、ヒール扱いされており、イタリア貴族からワイナリーを買収する経緯が冷ややかに描かれていた。

 モンダヴィ=ロラン連合と提携したシャトー・ムートン・ロートシルトは、他のボルドー勢が衰退する中、シェアを拡大していく。〝悪の枢軸〟と組むロバート・バーガーは、今や<おいしいワイン>を決定する絶対的権力者で、<カースト制や貴族制に支配されたワインの世界を「米国式民主主義」によって解放した革命家>と自らを評していた。

 「米国式民主主義」=「資本主義独裁」だから、伝統、個性、自由に価値を見いだす側にとって、バーカーは<ハメルンの笛吹き>と映る。だが、時代の流れに対応するため、笛の音に合わせて踊ろうとする者も出てくる。歴史を誇るワイナリーに軋轢が生じるケースも紹介されていた。

 ワインがブランド化するきっかけになった大英帝国絶頂期、ムッソリーニとワイナリーとの関係、ロスチャイルド家の影響など、本作によって欧州近現代史とワインとの関係を知ることができた。

 <モンダヴィ=ロラン連合はメディアや評論家を利用して味を均質化し、地場ワインを窮地に陥れた>……。

 反グローバリズムの視点で本作を見れば上記の結論になるが、ワインを嗜む趣味がない以上、空論に過ぎない。自らに翻って考えると、異なる見方も可能になる。

 例えばハンバーガー……。徒歩10分の距離に評判の手作りバーガーショップがある。味は最高で胃にも優しい。なのに足繁く通うのは「マクドナルド」の方だ。値段の安さに加え、「マック」というブランドに操られているからだろう。俺がワイン好きだったら、〝化粧〟を施すことでワインを大衆的な味に変えたロランたちに感謝したかもしれない。

 本作を締めくくるのは、サルデーニャの老醸造家だ。「現代の人間は進歩という幽霊に惑わされている。幽霊から人間を守らなければ」との言葉が胸に響いた。意図は理解できなかったが、本作には犬が頻繁に登場する。ワインと犬って、何か繋がりがあるのだろうか。

 俺は年に3~4回、睡眠障害に陥るが、この半年ほど症状がない。次にそれが来た時は、テーブルワインを導眠剤に用いることにする。



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ヴァンパイア・ウィークエンド~自然体で奏でられた魔法の音

2010-03-07 00:52:07 | 音楽
 フジロック'10の出演アーティスト第1弾が発表され、MUSEがヘッドライナーを務めることが決まった。グラストンベリー'04以降、欧米の主要フェスでヘッドライナーに指名され、コーチェラ'10で〝全冠制覇〟を達成したMUSEだが、その世界観とパフォーマンスが日本で正当に評価されるまで数年を要した。

 最終日のマッシヴ・アタック⇒クロージングアクト(未定)は確定的で、MUSEの登場は初日75%、2日目25%といったところか。当日朝の新幹線で越後湯沢に向かい、帰りは新宿着の夜行バスというスケジュールになりそうだ。

 フジロックに心そよぐのは、MUSE以外にも気になるバンドが多く名を連ねているからだ。ブンブンサテライツ、クリブス、フロッギング・モリー、フォールズ、ジョン・バトラー・トリオに加え、ニューヨーク派のトップランナー、LCDサウンドシステム、ヴァンパイア・ウィークエンドと胸ときめくラインアップだ。

 今回は上記に挙げた中でとりわけ注目しているヴァンパイア・ウィークエンド(以下、VW)について記したい。

 今年1月に発売された2nd「コントラ」と合わせ、1st「ヴァンパイア・ウィークエンド」(08年)を購入した。聴き込むにつれ、キャッチーでありながらどこか歪んだ音に惹き込まれていく。ボーカルと楽器の重なりが新鮮かつ奇妙で、アフロビートとカリブソを取り入れたためか、時折ドラムがずれるのが面白い。

 スミスやポーティスヘッドの1st同様、VWの2枚は、覚醒と耽溺を同時に味わえる貴重な〝麻薬アルバム〟になった。ダーティー・プロジェクターズと交流があるらしく、祝祭的ムードと溢れる歌心が両者の共通点だ。

 VWはNY派としてヴェルヴェット・アンダーグラウンド⇒トーキング・ヘッズの前衛性を受け継いでいるが、その流れだけで論じるのは一面的だ。ローファイ、遊び心、感性に直に働きかけるシンプルな音に、NY以外のバンド――ギャラクシー500、ルナ、ペイヴメント、ホワイト・ストライプスら――の影響も窺える。

 上記はすべてアメリカのバンドだが、最初に聴いた時に想起したのは、UKのスクリッティ・ポリッティだ。「ロックはこうあるべき」という枠組みに捉われず、さまざまな要素を取り入れ、創造過程を楽しむ……。VWもまた、自由を希求する素人感覚の音楽集団なのだろう。

 <商業的成功とは無縁なバンドが後世にDNAを伝える>という神話は、時代遅れかもしれない。コロンビア大の同窓生4人がハンドメイドで提供した2nd「コントラ」は、ビルボードで1位に輝いた。LCDサウンドシステムを含め、NY派はセールス的にも大きな成果を挙げている。だからこそ、彼らを軸にした地殻変動はロック界を根底から揺るがせているのだ。

 知性を大都会の雑踏で攪拌して生まれた音は、大自然の下でどんな化学反応を起こし、苗場に集う聴衆を包み込むのだろう。VWはバンド名に相応しいマジカルな力を秘めている。心地よく血(魂)を抜かれてみたいが、現場で見られる確率は3分の1しかない。グリーンステージが<VW⇒MUSE>になれば、3年前の<MUSE⇒キュアー>に匹敵する陶酔を味わえるだろう。

 まさかとは思うけど、チケットが取れなかったりして……。
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「将棋界の一番長い日」~愛すべき<KY>たちの戦場

2010-03-04 00:09:25 | カルチャー
 <KY>の由来を知った時、ショックを受けた。日本のマイナスの因習――自主規制と排除の論理――に価値を見いだす若者が、世界と勝負できるはずなどないではないか。

 <KY>とは自由と個性を確立するための手段と考えるが、俺が知る限り、最も高密度の<KY>集団は将棋界だ。おととい(2日)、NHK衛星2で放映された「将棋界の一番長い日」を録画とリアルタイムで満喫した。A級順位戦最終全5局の中継である。

 羽生名人への挑戦権を狙う4人、残留を懸ける2人、来期に向けて勝ち越しを目指す3人……。ひとり結末が決まっていたのは名人経験者の佐藤康光9段で、ラス前にB1陥落が確定していた。

 佐藤9段はここ数年、ファンに最も支持された棋士だった。三十路に突入するや正統派の裃を脱ぎ捨て、棋界の空気を打ち破る。斬新な<KY>の指し手は、見る者に大きな衝撃を与えた。羽生名人が「私はトップランナーではない」とインタビューに答えた時、念頭にあったのは同世代の佐藤だったかもしれない。

 革新性と創造性を追求した佐藤は、自分の将棋を一度壊した。次の1年は再構築に充て、スケールを増してA級に帰ってきてほしい。佐藤にとって消化試合だった最終局に、復活の兆しを感じた。閃きをちりばめた差し回しを見せ、丸山忠久9段の名人復帰の芽を摘んだ。

 佐藤に敗れた丸山、6勝3敗と大健闘したA級最年長(48歳)の高橋道雄9段は、ともに愛すべき<KY>キャラだが、この男には太刀打ちできない。初の名人挑戦を決めた三浦弘行8段である〟

 三浦の<KY>ぶりはウィキペディアに詳述されている。笑えるエピソードでは加藤一二三9段と双璧で、両者が対局すれば凄まじい事態になる。三浦は4段時、加藤と盤外戦を展開した。暑がりの加藤がエアコンの温度を下げたら、寒がりの三浦がすぐさま上げる。〝新入社員〟が34歳年上の〝重役〟に臆することなく自己主張するなんて、棋界以外にありえない。PART2の〝ストーブ合戦〟もウィキペディアに紹介されている。

 武骨、不器用、実直、純粋、非社交的、頑固……。将棋一筋で修行者のイメージがある三浦は〝武蔵〟の異名を持つが、30代半ばになってソフトになり、女性棋士に話しかけることもしばしばだという。解説を担当していた先崎学8段は、「三浦は相手の力量をも引き出すタイプで、いつも斬り合いの将棋になる。対局するたびに清々しさを覚える」(要旨)と語っていた。

 終局直後、インタビューと撮影のため報道陣が大挙して押し寄せた。ところが、主役の三浦は人波を掻き分けるようにして退室する。恐らくトイレに向かったのだろう。置いてきぼりを食った敗者の郷田真隆9段は、居心地悪そうな表情を浮かべていた。まさに<KY>の真骨頂である。

 〝遅れて来た武蔵〟の挑戦を受ける羽生名人は、今でこそ〝孤高の求道者〟というイメージだが、若い頃は自他共に認める勝負師タイプだった。中原、谷川の大棋士相手に上座を占めた<KY>事件は、羽生にとって覇者へのジャンプ台になる。

 自然体の<KY>三浦、意識的に<KY>を演じた羽生が相まみえる名人戦が楽しみだ。そういえば、羽生7冠のお祭りムードに水を差す形で棋聖位を奪ったのが三浦だった。実績では遠く及ばない羽生を、<KY>フル稼働で追い詰めてほしい。


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バンクーバー五輪に感じたこと~<国という形>の未来は?

2010-03-01 00:36:47 | 社会、政治
 バンクーバー五輪には殆ど関心がなかった。〝国を代表して闘う〟という構図に燃えなくなったからである。

 長野五輪に日本中が沸いていた頃、クロアチア代表FWのボクシッチは「W杯優勝よりラツィオでのスクデットを願う」とコメントした。ユーゴ解体の過程で噴出した民族間、宗教間の憎悪を目の当たりにしたボクシッチが、<国という形>に懐疑を抱いたとしても不思議ではない。

 日本のメディアはフランス大会以降、W杯のたびにショービニズムを煽ってきた。外交、経済で成果を挙げたら、スポーツでいくら負けても構わないと考えてきたが、バンクーバーで明らかになった韓国との差に不安がもたげてきた。

 東方神起はジャニーズ系を脅かし、韓国映画は邦画を上回る国際的評価を得ている。日本の若者は飼い慣らされているが、韓国では中高生が抗議運動の前面に立つこともしばしばだ。ジャック・アタリが精神の自由を尺度に、近未来のアジアの盟主に韓国を据えるのも無理からぬところだ。

 川口悠子がロシア人? キャシー&クリス・リードが日本人? 長洲未来がアメリカ人? フィギュアで多くの選手が<ドア>を行き来していた。個人が国を選ぶ時代が到来し、<国という形>が変容しつつあることを実感した。

 少子高齢化を放置すれば日本の人口は統計学上、50年後に半減する。衰退にブレーキをかけるには移民受け入れしかないというのが俺の持論で、当ブログで何度も記してきた。<異質との出合い⇒刺激を受けて個がパワーアップ⇒その集合体として国が活性化>という道筋を、俺は楽観的に描いている。先進国並みの外国人参政権付与にも賛成だ。
 
 <入る人>が日本の伝統や習慣を破壊することを危惧する声も強いが、彼らが真に恐れるのは<出る人>ではないか。開閉自由と知れば、日本の行く末を悲観した若者が<ドア>に殺到する可能性もある。

 国母和宏を巡る騒動も興味深かった。国母はプロとしての収入(推定2000万円)で必要経費を賄っている。国にさほど世話になっていない以上、気分は個人参加と変わらなかったのかもしれない。

 「ハートブルー」でパトリック・スウェイジが演じたサーファーのように、アメリカには枠組みに縛られないアウトサイダーが層として存在する。何代にもわたってFBIの監視下にある社会主義者の家族、ヒッピー、デッドチルドレン、ヘルズエンジェルスらバイカーたち、高等遊民、カルト的宗教集団etc……。彼らをボヘミアンと総称する文献に触れたこともある。

 スノーボードを含むXスポーツの底に流れるのはカウンターカルチャーで、とりわけボヘミアンに愛されてきた。五輪の正式種目になる前は、試合会場にグリーン・デイやメタリカが大音量で流れ、公然とドラッグを吸う者も少なくなかったという。

 〝日本のアメリカ化〟に邁進した世代が〝ヒップホップ風〟の国母を批判するのは少し矛盾している。若者は年長者を映す鏡なのだ。そもそも、世界観、正義感、倫理観、矜持を若い世代に伝えている中高年はどれぐらいいるだろう。俺? 情けない反面教師ゆえ、下らぬ説教はしない。

 「凋落日本と若手起業家の〝成長戦略〟」と題された「朝まで生テレビ!」は、上記の駄文と重なる部分もあって面白かった。強烈なキャラの猪子寿之氏、問題をきちんと整理する東浩紀氏らが、姜尚中氏らと和やかに議論を進めていた。とりわけ目立っていたのが堀江貴文氏で、自虐的ユーモアと頭の回転の速さで潤滑油兼進行係を務めていた。

 「イノベーション(革新)には寛容の精神が必要」との猪子氏の指摘は、今日の日本が抱える問題点を鋭く抉っている。<国という形>を再考する時機に来ているようだ。


コメント (2)
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