酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「博士の愛した数式」~芯に優しい柔らかなナイフ

2009-11-28 07:07:49 | 戯れ言
 渡辺竜王が森内9段をストレートで下し、6連覇を達成した。森内は受けに定評あるカウンターパンチャーだが、竜王戦では〝鉄板流〟のイメージと異なり、攻め急いだ感もあった。

 将棋については近日中に稿を改めることにする。今回は将棋同様、天才たちが格闘する分野について記したい。

 数学に題材を採ったドキュメンタリーと映画を続けて見た。「魔性の難問~リーマン予想・天才たちの闘い」(NHK総合)と「博士の愛した数式」(同衛星2=06年/小泉堯史)である。              

 「魔性の難問」では、天才たちを狂気の淵に追い込んだリーマン予想を取り上げていた。素数の連なりは、微小な原子と広大な宇宙の構造に通じているという。キリスト教的発想といえるだろうが、<リーマン予想の証明=神の領域への接近>が数学者と物理学者の共通認識になっている。

 四角張ったイメージがある数学だが、「博士の愛した数式」は優しい気持ちになれる作品だった。高校教師の√(ルート、吉岡秀隆)が教壇で自己紹介する場面から物語は始まる。

 なぜ自分は数学教師になったのか、なぜ√と呼ばれるようになったのか……。生い立ちを交えて√は生徒たちに語り始める。回想シーンがメーンだが、現在に時折ワープして、√が専門用語(素数、友愛数、完全数、虚数、オイラーの公式etc)を解説してくれるから、見る側は困らない。

 シングルマザーの√の母(深津絵里)が、10人目の家政婦として博士(寺尾聰)の元を訪れる。
母「こんにちは、新しい家政婦です」
博士「君の靴のサイズはいくつかね」
母「24です」
博士「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」
 
 こんな会話が繰り返される。10年前の交通事故の後遺症で、博士の記憶は80分しかもたないからだ。

 「数字と愛を交わしている時、ズカズカ踏み込んでくるなんて、トイレを覗くより失礼じゃないか」……。博士は献立について尋ねた母を怒鳴ったが、数字についての会話、美しい自然との触れ合いで、二人は次第に打ち解けていく。

 「なかなか賢い心が詰まっていそうだ。いいかい、君は√だ。どんな数字でも嫌がらずにかくまってやる寛大な記号だよ」(√との出会いのシーン)

 「物質にも自然現象にも感情にも左右されない永遠の真実は、目に見えないのだよ。目に見えない世界が、目に見える世界を支えているんだ。肝心なことは、心で見なくっちゃ」(病院で母に)

 ちりばめられた博士の含蓄ある台詞の数々は、柔らかなナイフになって芯に迫ってくる。

 √と同じく虎党で江夏の大ファンである博士は、記録についての薀蓄を幾つも披瀝する。江夏は博士の時間が止まった75年オフに南海にトレードされ、√と出会った85年の前年に引退していた。その間に生まれ、成長したのが10歳の√と、本作は野球を巧みにストーリーに組み込んでいる。

 博士と義姉(浅丘ルリ子)が交通事故に遭った経緯、罪の意識におののく宿命的な愛が並行して描かれている。<博士の愛した数式>に込められた意味を明示するのも√の役割だ。

 博士は少年の心を持つ初老の男で、√への接し方に父性と母性が程よく混ざり合っていた。本作は<性>と<血>に囚われない新しい家族の形を追求した作品ともいえる。母を演じた深津は、少女のしなやかさと成熟した女性の包容力を合わせ持っていた。これほど魅力的な女優に、どうしてこれまで気付かなかったのだろう。

 最後に、「博士の愛した数式」にちなんだジャパンカップの予想を。

 江夏の背番号で2番目に小さい完全数でもある「28」から「2+8」で◎⑩オウケンブルースリ、ケンブリッジに留学した博士にちなんで○⑯コンデュイット(英国馬)、最も小さい完全数「6」から▲⑥レッドディザイア、博士いわく最も美しい素数で村山の背番号でもある「11」から△⑪マーシュサイド……。

 4頭ボックスの馬連、⑩1頭軸の3連単を買うつもりだが、これで当たれば苦労はない。


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「文化防衛論」再読~三島の破綻と慧眼

2009-11-25 01:00:55 | カルチャー
 「学問のすすめ」(朝日ニュースター)を楽しみにしている。目に見えぬものに価値を見いだす右派の西部邁氏、直線的なイメージと裏腹の包容力を感じさせる左派の佐高信氏……。この両氏が60分、ニーチェ、トロツキー、小林秀雄、サルトルらを俎上に載せて語り合う。

 立脚点は異なる両氏だが、互いに敬意を払い、和やかなムードで論を進めていく。今月最初のテーマは39年前のこの日(11月25日)に自決した三島由紀夫で、美輪明宏との出会いなど興味深いエピソードも織り込まれていた。

 俺は別稿(05年11月23日)で以下のように記した。

 <自己完結の回路に生きた三島は、全共闘が占拠する大学にも足を運び、「最後の最後まで闘うぞ」といったアジ演説を何度も耳にしたはずだ。「こいつら、俺と同じだ。体を張る(死ぬ)覚悟が出来ている」……。純粋な物差しの目盛りが、「革命前夜」と弾き出した>(一部略)

 「学問のすすめ」で両氏は、「仮面」と「素顔」の対句を用いることで、俺の言いたいことを補強してくれた。三島の「素顔」は痛々しいほど純粋で、他者が「仮面」を被っているなど思いも寄らなかった。だからこそ三島は、アジテーションの主さえ信じていなかった<幻想の革命>におののいたのだ。

 三島より3学年下の城山三郎を、佐高氏が取材した時のこと。海軍に志願して特攻隊に配属された城山は三島について、「あの人、戦争に行ってないんだよね」と吐き捨てたという。同世代の多くが戦場で死んだが、三島は偶然も重なって入隊しなかった。〝徴兵逃れ〟の罪の意識が当人を苛み、晩年の行動を加速させたことは想像に難くない。

 西部、佐高両氏が<論理の破綻>と断じた「文化防衛論」(「中央公論」68年7月号)を30年ぶりに再読した。牽強付会も目立つが、三島の明晰さもちりばめられている。

 <近松も西鶴も芭蕉もいない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈している。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を払い、詩の深化は顧みられない>……。この冒頭部分は、60年代において主流たりえなかった三島の慨嘆と受け取れる。

 三島は<非武装中立を一億総玉砕とコインの表裏を成すパラドックス>と断じ、<「平和を守る」という行為と方法が、すべて平和的でなければならぬという考えは、一般的な文化主義的妄言>と言葉を続ける。賛否はともかく、筋は通っている。

 正鵠を射ていたのは〝コピー文化論〟だ。三島は<木と紙に拠った日本の造形美術は破壊と消失を前提にしており、本来オリジナルとコピーの弁別を持たない>と日本文化の本質を抉る。伊勢神宮の20年ごとの式年造営を例に挙げ、<オリジナルがコピーに自らの生命を託し、コピーがオリジナルになる>と結論づけた。

 68年当時、〝安かろう悪かろう〟の日本製品は粗悪ぶりを嘲笑されていたが、三島の死後、<メイド・イン・ジャパン>は〝コピー〟と揶揄されながら世界に冠たるブランドになった。三島の慧眼には驚くしかない。

 戦後日本の様々な社会運動――安保闘争、三派系全学連の街頭闘争、ベ平連――の根底にある二つの潮流を三島は指摘していた。一つは<民族主義>であり、もう一つは、外国(アメリカ)の武力によって人質にされ抑圧された平和的な日本民族という<被害者意識>だ。

 <自由陣営に属することの相対的選択を、国是と同一視する安保条約の思想は、薄弱な倫理的根拠をしか持ちえない>と記した三島は、日本の自主性を強調したが、排外主義的な志向は皆無だった。

 三島が提示した中身と比べ、現在のナショナリズムは大きく歪んでいる。日本の保守派には、アメリカへの隷属を前提に、中国や韓国を一段低いものと見做す傾向が強い。上に弱く下に厳しい〝体育会系ナショナリズム。が蔓延している。

 「憂国」、「剣」、「太陽と鉄」を読めば、三島が早い時期から自らの死をプログラムに組み込んでいたことが理解できる。「文化防衛論」では、<民族主義の左右からの奪い合い>に決着をつけると宣言し、2年後に実行する。三島の死によって民族主義は右翼の占有物になり、所期の目的は達成された。

 三島はあの世で、「おまえたちを信じて、早まった俺がバカだった」と全共闘世代を笑っているだろう。思想を一瞬無化させた三島の死は、とりわけ左翼にとって強烈なボディーブローだったのだ。




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「百万遍 青の時代」~眩いほどのピカレスク

2009-11-22 00:16:04 | 読書
 八百長疑惑が欧州サッカー界を震撼させている。既に17人が逮捕され、選手への波及も必至だ。ドイツ代表GKエンケの自殺と関連づけてしまうのは、俺が下卑た野次馬だからだろう。

 展開を早読みして終盤のドラマを見逃すケースが、スポーツでは多々ある。先日のこと、ひいきのコルツがアンチのペイトリオッツに、第4Q早々17点差をつけられた。何せ敵将は〝神様〟ベリチックだ。憤然と録画を消したが、コルツの劇的な大逆転を知り愕然とする。

 花村萬月の自伝的小説、「百万遍 青の時代」(上・下/新潮文庫)を読んだ。作家が主人公に自身を投影するのは当然といえるが、その傾向が一層強くなる自伝的小説を以下の3パターンに分類してみた。

(A)固有名詞を含め忠実に事実をなぞった作品=「玉ねぎの皮をむきながら」(ギュンター・グラス)、「半生の記」(松本清張)など
(B)脚色と粉飾を(A)に加えた作品=「耳の物語Ⅰ・Ⅱ」(開高健)、車谷長吉の作品群など
(C)作者の趣向や感性が色濃く反映した作品=「人間失格」(太宰治)、「仮面の告白」(三島由紀夫)など

 本作は(B)に属する小説だ。主人公の惟朔は15歳で、俺と同世代。三島の割腹自殺、あさま山荘事件、三里塚闘争など耳目を集めた出来事、懐かしい当時の世相や音楽が織り込まれている。惟朔は三島や大江健三郎の初期短編に現れる〝仮想の不良〟ではなく、悪いことはすべて試した作者自身を言語化した〝リアルな不良〟である。

 <世界から自分が切り離されているという感覚>に怯える惟朔は、阻隔感を癒やすため、<命なんて生きることのおまけであるといった意味不明の理屈を弄んで>、シンナーとトルエンをひたすら吸う。お次は覚醒剤で、売人グループの一員として余禄にあずかり、ピンク・フロイドが参加した「箱根アフロディ-テ」(71年8月)ではマリフアナも経験する。

 惟朔が薬物に浸っている時の描写は実に詩的だ。咀嚼され嘔吐された表現は〝和製ブコウスキー〟で、悪魔憑きの領域に達している。だが、読み進めるうち惟朔(=萬月)の別の側面に気付く。怜悧さと罪の意識が浮輪になって溺れることができないのだ。

 惟朔は父に英才教育を施された〝選良のアウトロー〟で、ギターも絵もうまい。天性というべき〝人蕩し〟で、常に年長者に見込まれ、本人が<女の玩具>と意識するほど女性との距離が近い。本作はまさに眩いほどのピカレスクで、「君は完璧だな」と惟朔に声を掛けたくなる。才能にも愛される資質にも欠ける俺は、少し距離を覚えてしまった。

 <善には、悪のもつ悲しみが欠けている。平板で、深みがないから魅力もない。(中略)悪の粗暴さ、無様さ、自堕落には悲哀が充満していて、だから身につまされる>……。

 悪に憧れる惟朔は、中年ヤクザの通称暴力太郎とつるむが、狂気と同義の暴力が噴出する場面を目の当たりにして、心境に変化が生じる。本作は惟朔が京都に向かうところで終わり、「古都恋情」へと続く。

 本作の書き出しは<今日、三島が死んだ>である。次回(25日更新)は命日に当たる三島について記す予定だ。

 一昨日(20日)、「華麗なる英国競馬の世界~三浦皇成イギリス武者修行の旅」(NHKhi)を見た。三浦も惟朔に似て怜悧で、年上の女性(ほしのあき)にもてる少年なのだろう。

 マイルチャンピオンシップは三浦鞍上の⑤スマイルジャック、三浦も訪れた英ニューマーケットで好タイム勝ちした⑮サプレザを軸に、▲④カンパニー、△⑯サンカルロを組み合わせて買うつもりだ。



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等身大の和みと癒やし~「南極料理人」の温かい世界

2009-11-19 00:48:13 | 映画、ドラマ
 日刊スポーツ1面に<仲間由紀恵熱愛>の見出しが躍っていた。30歳にして初ゴシップらしい。俺が仲間を〝発見〟したのは、「トリック1」の再放送を偶然見た7年前のこと。嬉々として会社で話したら、「何を今更」と笑われた。

 俺にとって仲間は南沙織以来の女性アイドルだったが、潤いと憂いを求められる年頃になった。シリアスな作品は当たらないとの声も強く、思い切ったイメチェンが必要かもしれない。

 先日、「南極料理人」(09年/沖田修一監督)を見た。きっかけはYahoo!の映画館検索である。部屋から徒歩圏の新宿周辺、仕事場近くの銀座周辺をチェックして観賞スケジュールを組んでいるが、ユーザー採点が4・33と高い「南極料理人」がずっと気になっていた。ちなみに評価という点で本作は、話題の「沈まぬ太陽」(3・88)、「ゼロの焦点」(3・33)を優に超えている。

 海上保安庁員の西村(堺雅人)はシェフとして南極大陸ふじ観測拠点行きを命じられる。刺激に乏しい環境で食事の持つ意味は、貧困者のエンゲル係数並みに高い。多少の軋轢が生じても、西村の柔らかい表情と工夫を凝らした料理が優しい糸になり、隊員たちの心を縫い合わせていく。堺の包丁さばきも堂に入っており、食いしん坊には楽しい映画だ。

 南極行きを報告するや妻は喜び、放屁して娘に尻を蹴られる。家庭人西村は十分情けないが、他の7人も似たり寄ったりだ。威厳の欠片もないきたろう演じる隊長、仮病で作業をさぼる者、こっそりシャワーを浴びて命綱の水を大量に使う者、国際電話で恋人に振られ失意に落ちる者……。

 南極派遣といっても決して精鋭揃いではない。どこにでもいそうな隊員たちに、「会社の上司とそっくりだ、いや、自分もあんなもんかな」なんて親近感を抱く人が多いだろう。本作を見て、自分の〝チーム好き〟を再認識した。もっとも俺が好きなチームは<鉄の規律が支配する軍団>ではなく、本作のように欠点を抱えた個人が緩やかに気持ちを寄せていく<柔らかな結晶体>だ。

 堺は冒頭に記した仲間と「武士の家計簿」(来秋公開)で共演する。仲間といえば生瀬勝久で、本作では気難しいが少しずつ周りと打ち解けていく本さんを好演していた。求心力としての役目を果たしていたのが豊原功輔演じるドクターで、「ずっとここにいたいぐらいだ」という台詞が心に響いた。東京で暮らすとはいえ、俺の心は永久の越冬隊員だから……。

 酷寒の地を舞台にした「南極料理人」に、初夏の雨のような温もりと湿り気を感じた。和みと癒やしが染み通るだけでなく、30年前のほろ苦さが甦ってくる。隊員たちは隔離生活で第二の青春を謳歌していた。


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女王杯、パッキャオ、サッカー~スポーツ雑感あれこれ

2009-11-16 00:00:22 | スポーツ
 体調良化で気力充実の秋、読書と映画観賞に割く時間が増えた。その分、スポーツ観戦を削るしかないか、週末はテレビ桟敷で競馬、ボクシング、サッカーを堪能した。

 POG指名馬エイシンアポロンが京王杯2歳Sを制し、デイリー杯2着に続き賞金をゲットする。同馬は22頭中18順指名で、シンメイフジは16順目だった。俺にとってPOGは〝残り物に福〟といえる。アポロンは朝日杯、シンメイフジは阪神JF、そして昨年指名馬セイウンワンダーが有馬記念と、合わせて3頭が暮れのGⅠに向かう予定だ。心そよぐ師走になるだろう。

 エリザベス女王杯は衝撃の結末だった。クィーンスプマンテの5F通過60秒5に、大波乱の予感がする。いちはやく異変に気付いたブエナビスタが3F32秒9の鬼脚で追い込むも、時すでに遅し。クィーンスプマンテとテイエムプリキュアが1、2着でゴール板を駆け抜けた時、馬券に関係なく拍手していた。

 タイム誌「2009年の100人」に選ばれたマニー・パッキャオ(フィリピン)が、ウエルター級王者のコットを12回TKOで下した。98年にフライ級(50・8㌔)世界王座に戴冠してから11年、16㌔もウエートを上げ、実質9階級制覇を成し遂げた。コットはナチュラルなウエルター級で、ジュダー、モズレーらを退けた強豪だが、パッキャオの猛攻に成す術がなかった。

 野生の動体視力、猫の敏捷さ、絶妙のタイミング、無尽蔵のスタミナで体格のハンデを克服したパッキャオを、ジョー小泉氏(WOWOW解説者)は史上最強と目されるヘンリー・アームストロングの域に達したと称賛していた。ボクシングの常識を次々に覆す奇跡の怪物がアジアから現れるなんて、誰が予想しえただろう。

 ブラジル―イングランド、アルゼンチン―スペインの親善試合も見どころは多かったが、注目はやはりW杯欧州予選プレーオフだ。ポルトガルは1stレグでボスニア・ヘルツェゴビナを1対0で下す。この2年、代表で0ゴールのロナウドは、ケガもあってスタンドで観戦していた。

 俺はマンチェスターU時代から武骨なルーニー派で、世評ほどロナウドを買っていない。汗水たらす労働者のお膳立てでいいとこ取りする貴族……。ロナウドにはこんな印象が拭えないからだ。冴えない男のイケメンへの反感と言われれば、返す言葉もないが……。

 欧州予選プレーオフは他の3戦も1点差もしくは引き分けで、2ndレグはさらに厳しい戦いになりそうだ。来週ようやく出場国が揃い、来月4日に南アフリカで本戦の組み合わせ抽選会が行われる。

 南アの治安の悪さが危惧されている。犯罪発生率は表に出ているものだけで夥しい数字だが、背景にあるのはもちろん貧困だ。ジンバブエからの難民流入も格差拡大に拍車を掛けている。

 2016年の五輪開催地リオデジャネイロも似たような状況だ。経済を安定させてからビッグイベント開催というのが、正しい筋道だと思う。格差が大きい国での開発は一部の企業を潤すだけで、民衆が恩恵に与かることは決してないからだ。


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パール・ジャム&ニルヴァーナ~褪せることなきグランジの光芒

2009-11-13 02:21:45 | 音楽
 逃亡の末に逮捕された市橋達也容疑者は、瞬発力と忍耐力を併せ持つ恐るべき犯罪者に違いない。だとしても、両親をさらし者にする権利がメディアにあるだろうか。加害者家族は有形無形の制裁を受けている。愚かしい風潮を助長するメディアに倫理と良心を求めるのは、ないものねだりと言うべきか。

 森繁久弥さんが亡くなった。俺にとって森繁さんといえば、豊田四郎監督の「夫婦善哉」(55年)と「猫と庄造と二人のをんな」(56年)だ。〝雲上人〟になる前の森繁さんは、男の脆さ、情けなさ、哀愁、色気を滲ませていた。名優の死を心から悼みたい。

 前置きは長くなったが、本題に。グランジの2大バンド、パール・ジャムの新作「バックスペイサー」とニルヴァーナの「ライヴ・アット・レディング」(CD&DVD)を併せて購入した。

 チケットマスターに異を唱え、レーベルの反対を押し切ってライブブートレッグを商品化するなど、パール・ジャムは常に尖った姿勢を貫いてきたが、ここ数年、勢いを失くした印象は拭えなかった。エディ・ヴェダーの実質的ソロアルバム「イントゥ・ザ・ワイルド」(07年/サントラ)を経て発表された新作で停滞感を払拭し、チャート的にも全米1位に輝いた。

 スタジオライブ風のシンプルな作りでデビュー時の煌きが甦り、渋いグルーヴと枯れたアコースティックが織り込まれた本作は、疲れた五十路にも優しい音だった。♯2「ガット・サム」、♯4「ジョニー・ギター」、♯7「アンソウト・ノウン」、♯10「フォース・オブ・ネイチャー」がとりわけ心に響く。

 ニルヴァーナのピーク時(92年)のパフォ-マンスを収めた「ライヴ・アット・レディング」については、ブートレッグDVDを購入した際、別稿で記した。自らを浄化するようにシャウトするカート・コバーンは、<刹那>と<永遠>を同時に表現しうる稀有のアーティストだった。

 94年4月、自ら命を絶ったカートは、ジョン・レノンをも超えるイコンになった。<ニルヴァーナのように=既成の概念を根底から覆す>、<カート・コバーンのように=身を削って真実に殉じる>は普遍的に通用する枕詞になっている。

 グランジに括られたバンドには音楽的接点が殆どない。パール・ジャムとニルヴァーナ、そしてサウンドガーデン、ライブ……。彼らの共通点はパール・ジャムの“Ten”( 米国だけで1200万枚)を筆頭に爆発的なセールスを記録したことだけだ。

 パール・ジャムは王道ロックの正統な継承者だ。バンドとしてニール・ヤングのアルバムに参加し、エディはフーと同じステージに立っている。一方のニルヴァーナはパンク再生の使命を負い、革新的であることを求められた。

 ロックスターであることを否定し、儚く美しく悲劇的に散ったカートの絶望と孤独を、エディは宿業のように背負い続ける。だからこそパール・ジャムが奏でる音は、哀調と陰影を帯びているのだ。ニルヴァーナ解散後、スティックをピックに持ち替えフー・ファイターズのフロントマンになったデイヴ・グロールも、カートの影から逃れようともがいたひとりだ。今やロックスターとして君臨しするデイヴに、「ちょっとやり過ぎじゃない」とあの世でカートは苦笑しているに違いない。

 俺にとってレーガンとサッチャーは、“ロックの父と母”だ。新自由主義によって生じた疲弊と矛盾が、ヒップホップ、グランジ、ミクスチャー、マッドチェスター、ブリットポップを育む土壌になる。グランジ発祥から20年、閉塞感を一掃するようなムーブメントは胎動しているだろうか。

 最後に、枠順未定のエリザベス女王杯の予想を。野生児スミヨンはアガ・カーンに主戦契約を切られ、犬猿の仲のルメールが新任としてシャラナヤを駆る。昨年ルメールで勝ったリトルアマポーラに騎乗するのはスミヨンだ。両者の確執が波乱の因になっても不思議はないが、年の功の安藤勝、事情通の武豊は冷静にレースを進めるだろう。

 ◎シャラナヤ、○リトルアマポーラ、▲ブエナビスタ、△ミクロコスモス。馬券はシャラナヤ1頭軸の3連単を考えている。


 
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プレイバックPART7~1956年は胎動の時代?

2009-11-10 00:55:16 | 戯れ言
 来日間近のオバマ大統領が、一つのハードルを越えた。賛成220に対し反対215と小差ながら、米下院で医療保険制度改革の関連法案が可決される。民主党からも造反が出る状況で、企業の飼い犬が揃う上院での審議は予断を許さないが、<資本主義独裁国>が世界と良識を共有することを願ってやまない。

 さて、本題。「日めくりタイムトラベル」(7日/NHK衛星2)で、俺が生まれた1956年が特集されていた。ネタに困った時の〝プレイバックシリーズ〟を1年9カ月ぶりに復活させるが、もちろん俺に当時の記憶はない。

 「日めくり――」最初の特集が石原兄弟で、兄慎太郎の芥川賞受賞をめぐる文壇大御所たちの闘論を、半藤一利氏(当時文芸春秋編集部)が証言していた。自らの受賞に強硬に反対した佐藤春夫について、「谷崎潤一郎と妻を交換した人に公序良俗を問う資格はない」と語った石原都知事だが、当時PTAから蛇蝎のように嫌われた当人も、今やすっかり豹変している。スパルタ教育を称揚し、都教育委員会の思想統制をバックアップするなど、〝不良の面影〟はどこにもない。

 「日めくり――」第2の特集は黒田福美による水俣病のリポートで、患者たちの深刻な病状を伝える映像は、世紀を越えても胸に迫ってくる。水俣は水銀を垂れ流したチッソの城下町だったため、住民の間に自己規制が働き、告発の動きは鈍かったという。それどころか、患者を抱える家族は差別され、村八分状態になる。<大企業=政府=司法=霞が関=マスコミ>がタッグを組み、誰が見ても明らかな原因究明が遅れる。水俣病が公害病と認定されたのは、最初の被害報告から12年後だった。
 
 当時も鳩山首相だった。由紀夫&邦夫兄弟も言葉が軽いきらいはあるが、祖父一郎氏も失言癖があり、自衛隊、憲法関連の発言で物議を醸していた。現在も普天間基地問題を抱えているが、立川基地拡張を画策する日米両国に対し、大規模な抗議運動が展開される(砂川闘争)。流血の闘いに、国民の反戦への強い思いが窺えた。

 <よりよい生活をこぞって求めると、最低限の生存権を脅かすことに繋がる。1956年は繁栄と同時に廃墟の時代の始まりでもあった>……。天野祐吉氏の締めの言葉は的を射ていた。以下は番組を離れ、気になったニュースを「昭和史全記録j(毎日新聞社)などから拾ってみたい。

 売春防止法が成立したのはこの年の5月だが、国会審議中の吉原を描いた「赤線地帯」が溝口健二監督の遺作になった。ヤクザ映画の最高峰「仁義の墓場」(75年、深作欣二)で渡哲也が演じた石川力夫が府中刑務所屋上から飛び降りたのは、この年の2月である。独房に記した遺書を、「大笑い 三十年の バカ騒ぎ」と印象的な言葉で結んでいる。

 スターリン批判⇒トロツキー復権で中ソ間に軋轢が生じる一方、ポーランドとハンガリーで自由を求める反乱が起きた。82人の革命派を乗せたグランマ号がキューバに上陸したのはこの年の12月だったが、政府軍の空襲を受け、生き残ったのは18人だった。もちろんその中に、カストロとゲバラがいた。

 エルビス・プレスリー登場もこの年だ。エルビスはジョン・レノンの監視をFBIに進言したほどの保守派だったが、無意識のうちに変化の一翼を担ったと思う。ハンサムな白人の青年が身をもって示したのは、<黒人のように歌い、踊ることは格好いい>である。エルビスは感性の側面で公民権運動を支えたのではないか。

 俺なりに1956年を表すと<胎動の時代>となる。変化の兆しが芽吹き、やがて大きなうねりになった。2009年よりエキサイティングだったことは間違いない。


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「私の中のあなた」~スクリーンから吹く優しく湿った風

2009-11-07 06:00:36 | 映画、ドラマ
 ワールドシリーズでMVPを獲得した松井は、ヤンキースに残留するのだろうが。伊集院静氏は7年前、「松井は最高の輸出品」と記していたが、その素顔は決して和風ではない。巷間伝えられるところでは遅刻の常習犯で、徒党を組むのを嫌う一匹狼である。規格外で鈍感力の持ち主だからこそ、雑音を気にせずリハビリの日々に耐えられたのだろう。

 この1年余り、<家族>を背景に描かれた作品を多く取り上げてきた。映画なら「おくりびと」、「重力ピエロ」、小説なら「決壊」、「太陽を曳く馬」といったところか。主人公が放浪の果てに家族の価値に気付く「イントゥ・ザ・ワイルド」、家族を超える絆に行き着く「仮想儀礼」も同じ範疇に含めていいだろう。

 ニック・カサヴェテスの新作「私の中のあなた」(09年)を新宿で観賞した。ちなみにニックの父は、ハリウッドのシステムを拒否してインディーズという方式を確立したジョン・カサヴェテスである。本作は白血病と闘う娘を持つ家族の物語で、モノローグを多用し、行きつ戻りつする時を繋ぐ手法で緊張感が途切れない。

 子供の頃、ママは言った。「おまえは我が家の青空。パパとママの愛の結晶」だと。でも、その言葉は嘘だった……。

 アナ(アビゲイル・ブレスリン)のモノローグが、本作の起点になる。アナは白血病に冒された姉ケイト(ソフィア・ヴァジリーヴァ)の命を救うため、遺伝子操作で誕生した〝人造人間〟だ。原題“My sister's keeper”が示す通り、ケイトの生命維持装置として幼い頃から臍帯血、骨髄などを提供してきた。

 「わたしはもう、姉のドナーにならない」……。11歳になったアナは優秀な弁護士(アレック・ボールドウィン)を雇い、両親を訴える。母サラ(キャメロン・ディアス)に利己的となじられるが、アナの言い分にも説得力がある。ドナーの継続が幼いアナにとって過重な負担であることは、医学的に実証されているからだ。

 ケイトの闘病は家族にとって負担だが、同時に絆を深めるきっかけでもある。腎移植を拒否したアナだが、変わることなくケイトに寄り添っていた。本題とは離れるが、日本での腎移植は通常、ドナーの心臓死を確認後に行われる。仮に適合度が高くても、俺の片方の腎臓を妹に生体移植するというように話は進まない。

 ケイトを熱演したソフィア・ヴァジリーヴァは髪と眉を剃り、時に童女のような笑みを浮かべる。家族とともに病院を抜け出し、海辺でくつろぐシーンが印象的だった。勘のいい人にはネタばれになってしまうが、ケイトと重なるのは「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)のアンである。

 ニック・カサヴェテスの前々作「きみに読む物語」(04年)と本作の共通点は、母性を<正しい愛し方>を妨げる存在として描いていることだ。あくまで俺の想像だが、監督は少年時代、母ジーナ・ローランズの強烈な個性に首根っ子を押さえられていたのではないか。

 本作は社会性とエンターテインメントの要素を併せ持ち、生きる意味、死ぬ意味を問いかける傑作だった。東京砂漠を這う乾性ゴキブリたる俺の心身をも、スクリーンから吹く優しく湿った風が潤してくれた。機会があれば、原作(早川書房)を読むことにする。


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「ヴィヨンの妻」を支える松たか子の煌き

2009-11-04 00:23:37 | 映画、ドラマ
 生誕100周年に当たる今年、太宰治の作品が次々に映画化された。今回は「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」(根岸吉太郎監督)について記したい。

 太宰はある時期まで〝通過儀礼〟の作家だった。絶望と希望のアンビバレンツに彩られ、波瀾万丈の私生活が作品に重なったことも若者を惹きつけた所以か。俺もまた、10代で読み始め20代前半に〝修了〟するというパターンを辿る。

 <死に憑かれた作家>と評されるが、死とは究極の個に至る過程といえ、他者を道連れにする理由がわからない。ようやく成就した3度目は、相手女性が意図した無理心中といわれている。太宰の弱さを許せなかった三島由紀夫に「あなたが嫌いだ」と面罵されると、「あなたは私です」と切り返したという。太宰の優れた観察力と鋭い直感を物語るエピソードだ。

 「ヴィヨンの妻」は地上波、衛星、スカパーで繰り返し放映されるはずだ。いずれご覧になる方の興趣を削がぬよう感想を述べることにする。

 敗戦直後の混乱を背景に描かれた本作のイメージは<ダークサイド・オブ・阿久悠>で、「北の宿から」、「時の過ぎゆくままに」、「ざんげの値打ちもない」に顕著な〝昭和の情念〟に貫かれている。妻が夫の理不尽な言動に耐えるのは当然とされた時代から六十余年……。愛の装いが大きく変化した現在の妻たちは、〝人間失格〟の夫を支え続けるだろうか。

 主人公の大谷(浅野忠信)はそのまま太宰だ。妻子を顧みず、酒と女に溺れて莫大な借金を背負う。愛人たちとの醜聞で世間を騒がせるが、自らの不徳を棚に上げた妻佐知(松たか子)への凄まじい嫉妬は、「行人」などで辟易した漱石の作品群を彷彿とさせる。

 女の嫉妬は与り知らぬが、男の嫉妬は自己不信に根差している。太宰は思想(マルクス主義)を裏切り、女性を裏切り、栄誉(芥川賞)を欲する余り自らのプライドを裏切った。誰より自分を信じられない太宰は人間不信に陥り、聖書に救いを求め、「走れメロス」で人間賛歌を高らかに謳う。

♪「死にましょう」女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」淋しさだけが押し黙る(松本隆作詞)……。

 吉田拓郎の「舞姫」では心中は不成立だったが、似たような状況で一歩踏み出した太宰は、死への同道に、信じることの究極の意味を見いだしたのではないか。

 破滅も厭わず大谷を愛する秋子(広末涼子)、佐知を慕う純情な岡田(妻夫木聡)、上昇と引き換えに荒みを纏った弁護士の辻(堤真一)、大谷一家の庇護者である飲み屋夫婦(伊武雅刀、室井滋)……。芸達者たちに脇を固められ、松たか子が煌いていた。憂い、悲しみ、惑い、寂寥をナチュラルで柔らかな笑みに包み、実年齢より10歳若い佐知を違和感なく演じていた。

 米兵相手の娼婦から買った口紅を塗り、佐知は辻に会いにいく。ビルから出た佐知は道端にそっと口紅を置いた。印象的なシーンは本作を象徴するラストへと繋がっていく。汚れた壁をバックに夫婦が並んで立ち、佐知の「わたしたちは、生きてさえいればいいのよ」の台詞が流れる。ともに墜ちる愛の修羅に相応しいエンディングだった。

 太宰と並び称された無頼派が織田作之助だ。映画化された「夫婦善哉」(55年、豊田四郎)は本作と色調は異なるが、ともに夫婦の形を描いた傑作である。

 「人間失格」は来春封切られる。監督が「赤目四十八瀧心中未遂」(原作/車谷長吉)で愛の深淵に迫った荒戸源次郎とくれば、期待は高まるばかりだ。




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雑感あれこれ&天皇賞

2009-11-01 00:42:13 | 戯れ言
 新政権のギクシャクを守旧派が嗤っているが。〝天に向かって唾を吐く〟とはこのことだ。自民党政権は年金・福祉・医療制度を危機に陥れ、出生率と農業自給率の低下を放置した。<政官財+メディア>の癒着に胡坐をかき、地方の疲弊と貧困を拡大させる。自民党が本気で再生を目指すなら、まず半世紀の失政を国民に詫び、負の遺産を受け継いだ民主党にエールを送るべきだ。

 体調不良に陥ったことは、別稿に記した通りだ。先月22日に2度目の検査を受け、帰京後に結果を知る。3週間の節制で数値は一気に改善していたが、赤点4つに変わりはない。カロリーゼロの炭酸飲料は「悪さをしない」と医者のお墨付きを得たが、以前のようにガブ飲みする気は毛頭ない。

 体感疲労は消え、エネルギーが心身に横溢している。知的好奇心も復活し、ブログのネタ探しとはいえ、読書と映画観賞が生活の軸になっている。恋の一つや二つ軽く出来そうな気分だ。燃え尽きる前のロウソクと同じかもしれないが……。

 ポストシーズンが煮詰まるこの時期、俺はにわか野球ファンになる。昨日も日本シリーズをフル観戦した。金満巨人は30年来のヒールゆえ日本ハムに肩入れしているが。初戦を落とした以上、ダルビッシュの第2戦先発が現実味を帯びてきた。

 プロ野球を地上波から駆逐したのは視聴率という秤だが、性別、年齢別、家族構成別に調査すれば、〝団欒用テレビ〟と異なる数字になるはずだ。視聴率絶対主義がもたらす〝俗情との結託〟で、鳩山首相の所信表明演説より酒井法子の公判に時間を割くなど、報道番組も堕落の一途だ。 

 三遊亭円楽さんが亡くなった。古今亭志ん生と志ん朝父子、三遊亭円生ら鬼籍に入った名人のCDを時々聞くぐらいで、落語については何も語れないが、円楽さんがブームの礎を築いたひとりであることは言うまでもない。ご冥福を心から祈りたい。

 最後に天皇賞の予想を。キャプテントゥーレ、マツリダゴッホら先行勢に、カンパニー、アサクサキングスといった好位組が揃った。今週からBコースに替わり内枠の先行馬有利の傾向が強くなったが、あえてスタミナの裏付けがある〝後門の狼〟を狙う。◎⑫ドリームジャーニー、○⑮オウケンブルースリ、▲⑩シンゲン、注⑦ウオッカ。

 馬連は⑩⑫⑮のボックス、3連単は上記馬に⑱エアシェイディの組み合わせを考えている。◎○▲を駆る〝マーク屋〟池添、〝剛腕〟内田、〝仕事人〟藤田の腹の据わった騎乗に期待したい。
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