酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「トイレット」が示す〝新しい家族〟のレシピ

2010-10-31 01:06:53 | 映画、ドラマ
 台風14号が日本列島を縦断中だ。季節外れの嵐に、被害が最小限にとどまることを祈りたい。

 天皇賞は内枠有利になりそうだ。POG指名馬エイシンアポロンは時計勝負なら出番はなかったが、雨の影響が残れば好走する可能性もある。予想ではなく願望で、アポロンを軸に馬連、3連単を少額購入する予定だ。相手は平凡にブエナビスタ、ペルーサ、アーネストリーあたりか。

 「トイレット」(荻上直子監督)をようやく新宿で見た。胃薬のように心をスッキリさせてくれる作品で、頻繁に登場したギョーザが無性に食べたくなり、観賞後は歌舞伎町の「大阪王将」に足を運んだ。

 多くの方がテレビやDVDで本作をご覧になるはずだから、ネタバレは避け、背景にポイントを置いて記したい。

 冒頭は母の葬儀で、語り部である次男レイ、長男モーリー、両者の妹リサが墓地でうなだれている。ロボットおたくのレイは恋人どころか友人もいない。モリッシー似の兄モーリーはさらに深刻で、引きこもり状態が続いている。大学生のリサが家族のエンジンで、猫のセンセーが癒やし役を果たしていた。

 日本から呼ばれて母の最期を看取り、そのまま家族の一員になったのがばあちゃん(もたいまさこ)だ。長いトイレの後に深いため息を吐くばあちゃんは一言も発しないが、ストーリーが進むにつれて兄妹の心の刺を抜き、才能や長所を引き出していく。優しき魔女といった役どころで、エアギター好きという設定も面白い。

 トロントの美しい街並みが、手触り感のあるストーリーにマッチしている。日本文化の浸透ぶり、レイとインド系の同僚アグニの異文化コミュニケーションも恰好のスパイスになっていた。

 和みドラマといえる本作だが、「巨人の星」の魔送球並みの謎が前提になっている。「ばあちゃんって血が繋がっているの?」という疑問で、兄妹の容姿に日本人のDNAは全く感じられない。荻上監督は〝旧来の家族〟に疑問を抱いているのだろう。「かもめ食堂」(06年)でも、ヘルシンキの地で一つの家族になる3人の女性を描いていた。

 NHK総合で昨日、「どうする、無縁社会」と題された特集番組が放映された。日本シリーズを見ていたので内容はわからないが、〝旧来の家族〟が崩壊しつつある以上、〝新しい家族〟を目指す時機に来ていると思う。

 「春との旅」で親族から拒絶された忠男(仲代達矢)に手を差し伸べたのは、自殺した娘の夫と再婚した伸子(戸田菜穂)だった。映画なら「フローズン・リバー」、小説なら「仮想儀礼」(篠田節子)と、血縁、セックス、金やしがらみに縛られない家族の形を追求する作品が内外で増えている。

 孤独な老人が複数のフリーターに部屋を開放するもよし、感性や嗜好を軸にした〝常識外れ〟の同居もよし……。管理の手段である戸籍から自由になれば、家族はバリエーション豊かなレシピになる。

 かく言う俺も、密かに〝新しい家族〟を志向している。実現に至らず妄想に終わることは確実だけど……。

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国家資本主義を超えるもの~中国に寄せる革命の夢  

2010-10-28 09:58:10 | 社会、政治
 帰省中の京都は、雨続きで気温が上がらなかった。東京も寒かったようで、品川駅を降り立った昨夜、薄着を後悔した。

 帰宅してパソコンを立ち上げ、ブロック・レスナーの想定外の敗北、チケットの確保状況、POG指名馬の出走予定、意外な人からのメールなどをチェックした後、竜王戦での羽生名人(挑戦者)の連敗を知る。朝と夕方、実家で中継を見ていたが、五分以上の形勢で〝桶狭間的強手〟を連発する羽生に違和感を覚えた。第1局同様、自然体で応じた渡辺竜王が勝利を収める。

 実家では猫のポン太と遊びながらのんびり過ごしたが、重要な話も幾つかあった。第一は妹への生体腎移植で、大まかなスケジュール(12年)が決まる。義弟がドナー候補で俺はあくまでスペアだが、妹に迷惑を掛けぬよう、ともに節制に努めなければならない。

 読書が捗らなかった分、「CSI科学捜査班~シーズン9」、「デモクラシーNOW」、フジロック総集編、WWEなど溜まっていた録画物をまとめて消化した。「CSI――」はシーズン冒頭、人気キャラのウォリック(ゲイリー・ドゥーダン)が降板し、〝ハート&ソウル〟というべきグリッソム主任役のウィリアム・ピーターセンも番組を去った。その後の展開を心配したが、ラングストン博士(ローレンス・フィッシュバーン)を軸にまとまりつつある。

 「CSI――」がダウナーなトーンで描くアメリカの闇と病根を知的に抉るのがノーマ・チョムスキーだ。「デモクラシーNOW」の枠内で「民主主義の崩壊」と題されたチョムスキーの講演(今春NYで開催された「レフト・フォーラム」から)が放映された。<国家資本主義(俺流なら資本主義独裁)は民主主義を壊す>という本講演の趣旨は当ブログで繰り返し記してきた。今回はチョムスキーが言及した中国の現実に触れてみたい。

 尖閣諸島問題などで中国が〝仮想敵〟になりつつある事態に、文化や経済の日中交流に尽くした方は胸を痛めているはずだ。俺は中国に思い入れはないが、<毛沢東―周恩来体制>の頃は、大人の風格が漂っていた。世紀を超えて幼児性が顕在化した最大の理由は、急激な資本主義導入ではないか。俺にとって国の精神年齢を測る物差しは資本主義だ。世界は今、<国家資本主義>を掲げる2人の幼児、米中に牛耳られている。両国は時に対立を装うが、自動車産業で連携し、軍事面でも交流している。

 中国を次代の支配者と位置付ける風潮に、チョムスキーはジャック・アタリとほぼ同じ理由で異議を唱える。いわく<国内の権力配分を無視する国が、国際政治を動かすことはできない>……。自由と民主主義が浸透していない国は脆弱ということだ。ちなみに俺は数少ない〝中国自壊論者〟である。

 世界で最も労働者の搾取が進む中国の格差と貧困は日本の比ではなく、環境破壊も夥しい。チョムスキーは南東部の省で年間300万人が抗議活動に立ち上がった事実(03年度政府統計)を提示していた。あくまで公式見解だし、7年後の現在、渦巻く不満はさらに拡大しているはずだ。

 <皆が連帯して社会の発展に献身する>という毛沢東主義は、現共産党政権下で詐欺と受け取られているとチョムスキーは指摘する。だが、俺は中国の現実に希望を抱いている。マルクスが描いた革命の道筋――資本主義を経た後の社会主義革命――が中国で実現するのではないかと……。

 2大政党制による民主主義封殺、情報機関と資本家によるメディア統制が最終形まで進化したアメリカは、何も変わらぬまま地盤沈下していくだろう。10億人以上が貧困に喘ぐ中国なら、<国家資本主義>を覆すロマンチックでダイナミックな革命が起きても不思議はない。〝第二の毛沢東〟は登場するだろうか。

 翻って日本は……。俺は決して悲観していない。閉塞を打破する新鮮な風は既に息吹いているはずだ。

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菊花賞、IT時代の老後etc~京都での雑感あれこれ

2010-10-25 09:24:19 | 戯れ言
 補選で町村氏(自民党)が勝ったことで、小沢喚問を求める声が強まるだろう。俺は倫理を政治から切り離す少数派だから、<政治と金>には無頓着だ。町村氏が属するグループだって利権(北朝鮮の資源)が取り沙汰されたこともあったし、築地移転を強行する石原都知事の背後に蠢くのは某ゼネコンという。すべてを詳らかにするなら構わないが、何らかの<分別>が行われている以上、<政治と金>は脇に置き、真に重要な課題で議論を深めるべきだ。官房機密費を貰って世論を誘導したメディアにも、<清潔>を装う資格はない。

 昨日(24日)は曇天の京都競馬場で菊花賞を観戦した。実は前日、実家近くを歩いていた時、不調の右足から溝に落ち、左足首は軽い捻挫、左胸には真っ赤な痣と散々な目に遭った。後方で一斉に笑い声を上げた女子高生たちが「大丈夫ですか」と声を掛けたほどだから、滑稽かつ惨めなシーンを演じたに違いない。大事に至らず、悪運を払ったとばかり勇躍競馬場に乗り込んだが、菊花賞を含め、馬券を買った11レースはかすりもしない。泣きっ面にハチとはこのことである。

 GⅠだからか、競馬場には若者の姿が目立った。車座になってパソコンを覗き込んだり、ワイワイ予想を披露し合ったりと、トーンは異なれどグループ観戦が目立つ。専門紙では「競馬ニホン」が中高年に浸透していたが、年齢が下がるにつれスポーツ紙で予想する割合が増えていく。競馬ファンとスポーツ紙愛読者の平均年齢は50歳以上というが、ポイントを押さえた営業次第で若い層を獲得できるのではないか。

 亀岡のネットカフェで当稿を更新している。今日は亀岡祭の最終日だ。雨も小降りになったので、山鉾巡行も予定通り行われるだろう。ちなみに祭りの日に鯖寿司を食べるというのは京都の習慣だが、他の地域ではどうなのか。

 帰省中はあちこち親戚宅を訪ねたりする。文化人として名を馳せた叔父、家族を仕切っていた叔母たちも一様に萎み、孤独の衣を纏っている。救いといえば、彼らの世代が頑張りに見合った年金を受給されていることだ。

 「私が死んでも、生きてることにしとき」とは、所在不明高齢者問題が報じられた頃の母の冗談である。目立つ人だからとても無理だが、母に毎月支給される年金額が頭をよぎり、「それもありかな」と一瞬でも納得してしまったのは親不孝ゆえだろう。

 老後の形は現在の65歳前後を境に大きく変わるのではないか。インターネットと携帯に馴染んだ65歳以下は、個として世界と繋がる手段を学び、血縁に縛られないコミュニティーに属する術を知っている。孤独の度合いは薄れるかもしれないが、先立つもの(お金)への不安は、年齢が下がるにつれて大きくなっていく。

 少子高齢化と年金制度崩壊はリンクしている。早急に策を講じない限り、<悠々自適の老後>は一握りの富裕層の特権になるだろう。大多数の老人は棺桶に入るまで汗水垂らして働き、ひっそりと生を終える。まさに<奴隷制>の復活だ。

 俺はどんな風に死を迎えるのだろう……。人生の第4コーナーに差し掛かった俺にとって、「春との旅」(6月18日の稿)は身につまされる映画だった。怠惰なキリギリスは、老後についてデッサンさえ描けていない。気高きライオンとして最期を迎えた忠男(仲代達矢)を羨ましく思った。

 帰省中の話題のひとつは、妹への生体腎移植で、義弟とともに俺もドナー候補だ。ドナーになれば検査や準備で時間がかかるから、現在の仕事をやめて京都に帰るのは確実だが、覚悟はできている。ゴキブリのような人間でも他者――それも妹であれば――の役に立てれば、生きてきた甲斐があるというものだ。





  
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香港ノワール最前線~ルールを超える掟と情

2010-10-22 03:58:13 | 映画、ドラマ
 今夕、仕事先から帰省する。24日は京都競馬場で菊花賞を観戦する予定だ。高配当続出の菊花賞だが、エイシンフラッシュの回避は大波乱の前触れかもしれない。

 本命は北海道で開花した⑮トウカイメロディ、対抗は全11戦で逃げを打ってきた突貫小僧の⑭コスモラピュタ、3番手は後方待機に徹する③クォークスター……。持久力が求められる展開になれば、⑪リリエンタールも面白い。場内がどよめくドラマを期待している。

 早稲田松竹で先日、香港ノワール最前線を満喫した。ジョニー・トー監督作の「エレクション」(05年)、「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」(09年)の2本立てである。今稿では「エレクション」を中心に記したい。

 「男たちの挽歌」(ジョン・ウー監督)をきっかけに80年代後半、香港ノワールにどっぷり浸る。小林旭似のチョウ・ユンファ、レスリー・チャン、ティー・ロンらがスクリーンで大暴れしていた。今回の2作は当時と比べてスケールアップし、奥行きも増している。

 カンヌ映画祭でパルムドール候補にもなった「エレクション」は、実録ヤクザ映画に近いトーンの群像劇である。組織に忠実なログ(サイモン・ヤム)は慎重派、シマ拡大に積極的なディー(レオン・カーファイ)は直情径行の信長型だ。後継者選びでログに敗れたディーは、会長に受け継がれる<竜頭棍>強奪を試みる。

 ディーのモデルは「沖縄やくざ戦争」で千葉真一が演じた狂気の武闘派、国頭かもしれない。歯止めが利かないディーだが、アクションシーン満載の<竜頭棍>争奪戦にも敗れたとなれば、屈服するしかない。興味深い新会長お披露目の儀式の後、冷酷な貌を見せ始めるのが家康タイプのログだった……。

 黒社会を描いた「エレクション」だが、あらゆる組織に通用する普遍的な原理に貫かれているからこそ、高い評価と多くの共感を得たのだろう。

 「兄弟、俺と一緒に死んでくれるか」……。「冷たい雨に――」に、鶴田浩二と高倉健が大組織に斬り込んでいく数々のシーンが甦った。恋を含め世の中を動かす原理は<理と利>だから、死をも超越する任侠映画は鮮度を失わない。

 「冷たい雨に――」は絆の意味を問いかける。家族を殺されたコステロ(ジョニー・アリディ)と殺し屋3人、そして海辺で暮らす女と数人の子供たちが心を通わせ、ひとつの目標に向け疾走する。憂愁と含羞を滲ませたラストシーンのコステロの表情が印象的だった。

 「ノワール」というと芸術的な響きがあるが、作品の舞台は闇社会で、暴力がメーンに据えられる。ルール、社会的通念、倫理を超える掟と<信・義・情>に基づくからこそ、<悪であるはずの暴力>が切ないまでに説得力を持ち、時に美学へ飛翔する。最たる例といえるのが、三島由紀夫が痺れた「博奕打ち 総長賭博」だ。

 帰省の何よりの楽しみ……と書くと母や妹に叱られそうだが、ポン太との再会が待ち遠しい。自分勝手に<食う・寝る・遊ぶ>で生きているだけなのに、和みと癒やしをもたらしてくれる。猫とは不再議な生き物だ。
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書き散らかして800回~アナログ中年にとってブログとは?

2010-10-19 01:29:41 | 戯れ言
 世知辛い世の中、〝冬のゴキブリ〟の如く、東京砂漠で生き延びている。能力もなくいい加減、善根を施しているわけでもない。悪運とお情けで世を渡っている。

 そんな俺の生活のリズムを作っているのが当ブログだ。今稿が800回目の更新で、6周年に当たる(第1稿は04年10月16日)。テーマを絞った専門ブログではないから固定ファンが付かず、訪問者数も頭打ち状態だ。

 今年最も訪問者が多かったのは<花田裕之50歳ギグ~めんたいロックの熱い絆>(7月9日の稿)だった。花田やルースターズの知名度を考えると、意外としか言いようがない。旬な検索ワードを盛り込んでも訪問者が増えるわけではないが、1日の訪問者数が1000を超えたことが1度だけあった。「相棒~映画版」について記した稿である。「相棒」人気のおかげだが、バブルはたちまち弾けた。

 経験則でいうと、<小説やマイナーな映画について書くと訪問者が減る>……。読書欲が甦った今、小説について書く機会が増えそうなので、訪問者数は漸減するだろう。

 「ビジュアルを工夫すれば、読者も増えるのに」とアドバイスする知人もいる。当人のブログは写真満載で、アクセス数はうなぎ上りらしいが、俺はあえてアナログを通すつもりだ。ブログは俺にとって交流の手段ではなく、最近は営業活動(トラックバック、ミクシィの足あとなど)も怠っている。

 自己顕示欲の強い俺にとり、ブログは存在証明かつ名刺代わりだ。サラリーマン時代、後輩たちに底の浅い知識を披歴して悦に入っていた。あの頃の<俺話>が形を変えた当ブログも、偏見や固定観念に満ちている。繰り返し記した<21世紀になってロックは堕落した>など最たるものだが、現役ロックファンに復帰した今年、新しい息吹に触れて妄言を訂正することができた。

 〝小人閑居にして不善をなす〟というが、超小人の俺にブログがなかったら、不善を大量生産したはずだ。〝ストッパー=ブログ〟に出合う以前の愚行については、この場を借りて謝りたい。ネタ探しのために励んだ読書、映画観賞、音楽鑑賞が、いつしか義務から生活に馴染んだ習慣になり、若い頃の好奇心を取り戻せたのは幸いである。

 知と情報の最前線に立つ平野啓一郎、上杉隆の両氏は、折に触れ<ツイッター時代の到来>を強調している。ミクシィでも日記よりもつぶやきの方が主流になり、マイミクたちがリアルタイムに情報を発信している。<今、新宿。誰かディナーでも>なんて書き込みも多い。
 
 思わずリアクションしそうになるが、思いとどまる。俺は<淡い交わり>が苦手で、一度反応したら最後、習慣になって入り浸る可能性もあるからだ。女性のマイミクに〝ストーカー〟と誤解されたくもない。

 熱しやすく冷めにくい俺は、偽悪的スタンスはそのままに、死ぬまでブログを続けていくと思う。ブログという形式が生き残っていればの話だが……。俳句か短歌を学び、一日一句が理想の最終形である。


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「二人のエスコバル」~スポーツを超えた秀逸なドキュメンタリー 

2010-10-16 06:26:14 | スポーツ
 昨日(15日)は54回目の誕生日だった。メール、当ブログ、ミクシィでメッセージを下さった方に、改めて感謝の気持ちを伝えたい。<忘れられていないこと>がしみじみ嬉しい年頃である。

 ブロンド・レッドヘッドらが集う「4AD evening」(1月24日)のチケットを自分にプレゼントすることにした。お洒落なアート系業界人に囲まれ居心地は悪そうだが、UKニューウェーヴ直系の官能的で繊細な音に浸りたい。

 竜王戦第1局は渡辺竜王が羽生名人を退けた。羽生攻勢に見える投了図に、日本中の将棋ファンは我が目を疑ったに違いない。渡辺竜王は羽生世代の鋭い攻めを吸収する妖しい力を秘めている。老成した26歳が頂上決戦を優位に進めそうだ。

 今季のNFLはまさに〝カオス〟状態で、5週目終了時点で全チームに土が付いた。〝擬制の社会主義〟でチーム力が均衡したNFLでは、試合ごとのゲームプランと微妙な運が勝敗を決する最大の要素になっている。

 欧州選手権予選でわがオランダがスウェーデンに4―1と快勝した。ひと安心すると同時に、無機的な強さに違和感を覚えた。柔軟というイメージが強いオランダに、排外主義と反ECを掲げる右派内閣が誕生した。代表チームの硬質なサッカーは、国民性の変化の表れかもしれない。

 JSPORTSで先日、「二人のエスコバル」(前後編)を見た。1994年アメリカW杯でコロンビア代表の主将を務めたアンドレス・エスコバル、メデジン・カルテルの指導者パブロ・エスコバルの生と死が、証言や記録フィルムを基に重ねて再構成されていた。

 パブロが<アメリカ+麻薬カルテル連合>に殺害された翌年(94年)、アンドレスはナイトクラブ前で銃弾を浴びる。アンドレスのオウンゴールが代表チームの第1ラウンド突破の道を閉ざしたことから、サッカー賭博で損害を被った闇組織の関与が疑われたが、本作では口論から発展した突発的な犯行との見方を示していた。

 麻薬は莫大な富を生み、犯罪と戦争を派生させる。関東軍とヘロインとの関係は「阿片王」(佐野眞一著)に詳述されているし、CIAも利権をめぐって暗躍した。パブロも政府を操る権力者になり、残虐な手段で敵を葬った。悪魔は時に天使の笑みを浮かべる。パブロはスラムでの集合住宅建設、被災地への救援など善根を積み、多くの支持者を得た。

 パブロは各地にグラウンドを造って貧困層に開放するだけでなく、ナシオナルを買収する。リベルタドーレス杯制覇に貢献したのがアンドレスだった。誠実で謙虚なアンドレスは、パブロとサッカー界との関係を嫌っていたが、表立った批判は控えていた。

 麻薬カルテルのドンたちはパブロに続き、コロンビアのサッカー界はたちまちマネーロンダリングの道具になる。ゲームは代理戦争の様相を呈し、審判の買収や殺害にまで発展したが、切磋琢磨はリーグと代表チームのレベルを飛躍的に引き上げる。

 バルデラマ、リンコン、アスプリージャ、バレンシア……。94年W杯のコロンビア代表には毒々しい個性派が名を連ねていた。GKイギータの不在(マフィア絡みの冤罪で逮捕)が痛く、ディフェンスラインが整備されないまま大会に臨む。第1ラウンド初戦でルーマニアに敗れるや闇組織からの脅迫が相次ぎ、代表選手の兄弟が殺された。金縛り状態で迎えたアメリカ戦で、アンドレスはオウンゴールを献上し、優勝候補の敗退が決まった。

 街ににらみを利かせるパブロが健在だったら、アンドレスは死なずにすみ、婚約者と海を渡り、ACミランの一員として活躍しただろう……。二人のエスコバルを知るメデジンの人たちは口を揃えてこう言う。パブロにとってサッカーは最大の関心事で、選手たちに強い愛情を抱いていたからだ。

 <悪>の代表であるパブロは頻繁にメディアに顔を晒し、鷹揚な笑みを浮かべていた。<善>を体現するアンドレスは悲劇を予感させるように、いつも表情に苦しみを湛えていた。対照的な両者の人生は交錯し、同じ敵の銃弾に斃れる。<善>とは、<悪>とは、そして<宿命>とは……。本作はコロンビア現代史を背景に、様々な問いを発する秀逸なドキュメンタリーだった。
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「掏摸」の衝撃~超弩級の文芸ピカレスク

2010-10-13 00:36:21 | 読書
 前稿で予告した通り、今回の枕はノーベル文学賞を受賞したバルガス・リョサだ。25年ほど前、リョサに誘われ、マジックリアリズムと壮大なドラマトゥルギーがうねりを打つ南米文学の海に迷い込む。

 全体小説の継承者でもあるリョサは、20年前に受賞して然るべきノーベル賞を、自らの〝転向〟で遠ざけていた。90年のペルー大統領選で支配層に担がれ、〝庶民派〟フジモリに敗れる。リョサは〝良心に基づき抵抗する〟というノーベル賞向けポーズとは無縁だった。

 リョサとガルシア・マルケスが揃って絶賛した「ロサリオの鋏」(今年4月24日の稿)に、21世紀における文学の質の変化を感じた。日本でも三島由紀夫や開高健のように、文体や表現力で読者を圧倒する作家は減っている。<形式は内容に先行する>というテーゼに則れば、<パソコンで小説を書くという形式>が、内容に変化をもたらしたということになる。

 3連休に読んだ「掏摸」(中村文則/河出書房新社、09年)は、日本の歪みを後景に据えた芥川賞作家によるピカレスクだ。多方面で絶賛を浴びた本作も、新しい純文学(既に死語?)の形を提示している。

 「掏摸」を貫くのは〝階級意識〟だ。貧困ゆえ這いずり回るように生きてきた僕は、<掏られること=免罪符>と決めつけているかの如く、金持ちばかりを狙う。持つ者と持たざる者を繋ぐのは、神業というべき指の動きだ。

 孤独な僕にも2人の友がいた。仕事仲間の石川とクスリに溺れた人妻の佐江子である。石川は恐らく消され、佐江子は過剰摂取で命を絶った。<破滅にはいつも、つまらない形がある。つまらない現実の形がついてくる>と自らの生き様を象徴する言葉を残して……。

 僕は限られた人間だけに優しさを発揮し、その他大勢には関わらないタイプだ。少年が万引する場面に遭遇した僕は、自分の過去と重なって心が疼き、彼を助けてあれこれ面倒を見る。
 
 少年の母親は薬物依存で、売春(デリヘル?)で収入を得ている。母親の愛人によるDVから守るため、僕は少年が施設に入れるように尽力する。結果として少年の母親と関係を持つが、愛ゆえではない。自らの気遣いに見合う何かが介在しなければ、愛が生まれるかもしれないからだ。

 本作には木崎と名乗る闇の司祭が登場する。大物代議士を玩具のように握り潰す木崎にとって、他者の人生を完璧にコントロールすることが無上の喜びだ、僕もまた生殺与奪の権を握られ、不可能に近いミッションの実行を迫られる。抵抗する術はないが、スリとしての無意識の行動が、生還への一条の光になる……。

 本作は超弩級の犯罪エンターテインメントだが、作者の才能に瞠目したのは主人公の少年時代を綴った16章だ。僕(=作者)は自らを俯瞰で眺める塔のイメージに憑かれ、塔が見えなくなるまで<低く低く、影に影に>盗むことを決意する。<入ってはいけない領域に伸びた指、その先端に走る、違和感など消えうせる快楽>に身を委ねるうち、塔は視界から消えた。

 塔の意味について作者自身が後書きで、<人が人生に求める何か、人間を超えるもの、人の運命や世界に関係した存在>と候補を挙げ、<今でもどこかに立っているのでは>と結んでいる。本作では3章に、<ここからでは見えない鉄塔>として描かれていた。

 「悪貨」(島田雅彦)、「俺俺」(星野智幸)に続き、日本文学の最前線に触れることができて幸いだった。俺の中で<日本回帰>が進行している。土に還る時が迫っている50代にとって必然の流れかもしれない。
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「エル・トポ」~オリエントが薫るカルトムービー

2010-10-10 03:55:36 | 映画、ドラマ
 ザックJAPANがアルゼンチンを破る大金星で初陣を飾った。ザッケローニは母国イタリアでは過去の人らしいが、同じく〝化石〟扱いされていたレーハーゲルは04年、サッカー後進国ギリシャを欧州選手権Vに導いた。ザックの古さ、堅さ、熱さが日本人のメンタリティーにマッチすれば面白い。

 ノーベル平和賞には胡散臭さが拭えないが、劉暁波氏の受賞が波紋を広げている。俺の幻想かもしれないが、毛沢東―周恩来時代には風格があった。現在の中国の<心は子供、体は大人>の幼児性は資本主義導入の弊害なのだろうか。

 この半世紀で最高の作家と評価しているバルガス・リョサのノーベル文学賞受賞は、俺にとってこの上ない吉報だった。次稿の冒頭で改めて感想を記したい。

 渋谷で先日、「エル・トポ」(アレハンドロ・ホドロフスキー)の製作40周年デジタルリマスター版を見た。タイトルは監督自らが演じた主人公の名前(モグラの意)でもある。ビデオで見て以来、20年ぶりの再会だったが、〝キング・オブ・カルトムービー〟の映像美に圧倒された。

 カルトムービーに奉られるための条件は、<通の支持と大衆の無視>だ。寺山修司が絶賛し、ジョン・レノンが興行権を買い取るまで魅了された「エル・トポ」は、<フェリーニが西部劇を、クロサワがキリスト教映画を撮ればこうなる>と評されたが、興行成績は振るわず早々に打ち切られた。

 「エル・トポ」は<創世記>、<預言者たち>、<詩篇>、<黙示録>と旧約聖書に則った4部構成になっているが、キリスト教的世界観とは遠い。中南米独特のマジックリアリズムと土着信仰が色濃く滲み、監督の輪廻転生、密教、神秘主義への傾倒が窺えた。<詩篇>以降、フリークスと暮らす主人公はチベットの修行僧を想起させ、オカリナらしき印象的な笛の音とともに、読経を連想させる荘厳な響きが全編に流れている。

 前半は荒涼とした砂漠、後半はソドムとゴモラの如き退廃した街が舞台だ。人間やウサギの夥しい数の死体、川のように大地を流れる血、残虐な行為、醜い快楽、多くのフリークスと彼らへの銃撃、同性愛と両性具有者……。正面から描かれる暴力と不道徳は映像によって浄められ、<聖>へと近づいていく。

 本作の方法論と手触りは、パゾリーニと極めて近い。ホドロスキーはパゾリーニから多くを学び、パゾリーニもまた本作に刺激を受けて「ソドムの市」を撮ったというのが、俺の想像だ。

 <モグラは時に土を掘り過ぎて地上に出てしまい、太陽の光を浴びて死んでしまう>という冒頭のモノローグが本作を貫いている。フリークスの自由への夢は打ち砕かれ、エル・トポは焼身自殺する。1963年にベトナムから配信されて世界を動かした一枚の写真(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが1stアルバムのジャケットに使用)にインスパイアされたシーンであることは明らかだ。

 修道士になった息子との葛藤と共感は、救いと希望を象徴するラストへと繋がっていく。一遍の詩のような煌めきと衝動、自然との調和、超常や異人との交感がちりばめられ、ナスカの地上絵のような壮大な構図が組み立てられていく。奇跡としか言いようのない作品で、映像の数々が今も脳裏のスクリーンにフラッシュバックしている。

 「エル・トポ」は俺の濁った心を一瞬にせよ濾過し、カタルシスで濡らしてくれた。いくつもの謎は解けないままで、作意を理解するレベルにも達していない。力をため、死ぬまでにもう一度見たい作品である。
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「俺俺」~日本を穿つシュールでドラスティックな寓話

2010-10-07 01:29:31 | 読書
 国勢調査の締め切りは今日(7日)らしいが、調査票を失くしてしまった。回収率は95%というから、俺はこれから5年間、20人に1人の〝非国民〟になる。国の勢いと無縁な輩は、前もって削除しといた方がいいに決まっているが……。

 日本人にとってアイデンティティーとは? 他者との距離感は? 家族、友人、組織(会社など)との関係は? 国勢調査では把握できない日本人の本質に迫る小説を読了した。「俺俺」(星野智幸著、新潮社)は安部公房や筒井康隆のファンにも自信を持ってお薦めできる作品だ。

 主人公の俺(最初は永野均)は20代後半の青年だ。夢破れた〝負け組フリーター〟だったが、現在は電器量販店の正社員である。いつものようにマックで昼飯を食べていた俺は、同世代の檜山大樹の携帯を偶然入手する。

 着信履歴で実家の電話番号を知った俺は、遊び心で<おれおれ詐欺>を企み、檜山の母親から100万円を詐取する。「ピカレスクかな」と思ったのも束の間、ストーリーは急転回し、シュールでドラスティックな世界に突き進んでいく。

 檜山の母が俺のアパートに現れ、実の母のように振る舞うが、奇妙にことに会話が成立してしまう。俺はパラレルワールドに踏み入れたかのような不気味さに動揺する。自分が何者かを確認するため久しぶりに実家に訪ねたものの、母に門前払いを食い、その場で2人の俺と遭遇する。息子扱いされる俺はさいたま市職員で、片方は法大生だった。

 本作には多くの仕掛けが用意されているが、俺の名前にも意図を感じる。均は<無名性への埋没=平均的>、大樹は<寄らば大樹の陰>と、日本人の普遍的な意識を象徴しているのだろう。永野家と檜山家だけでなく、描かれる家族が紐帯を失くしているのも、現実の投影といえそうだ。

 公私とも大樹になった俺は、新たな均、法大生の3人で一つの単位になる。法大生のアパートを<俺山>と名付けで集まったり、高尾山にハイキングに出掛けたりと、交友は密になっていく。俺同士ゆえ気を使わなくてもいいし、黙っていても互いの胸の内は理解できる。だが、心の平安は長続きせず、不穏な気配が忍び込んでいく。

 ぜひ読んでほしい小説だから、内容の紹介は最低限にとどめ、俺が勝手に妄想した作者の意図を以下に記すことにする。

 話は逸れるが、尖閣諸島問題……。メディアによれば国民は怒っているらしいが、果たして本当だろうか。他の国――北朝鮮は例外だが――が同様の事態に直面すれば、右派を中心に大々的なデモンストレーションが展開されるだろう。日本で何も起きないのは、自らの心身を通して思いを伝えるという回路が壊れてしまっているからだ。

 普天間移設問題、貧困と格差、絶望的な自殺者の数と日本は多くの矛盾を抱えているが、声を上げる者は少ない。<KY>に象徴されるように若者たちが江戸時代の五人組に先祖返りしたのは、全共闘世代以降の親たちの影響大だと思う。

 息も出来ない低酸素の閉塞社会で、誰しも脅えながら依存し、心と繋がらない空虚な台詞を三文芝居でまき散らかしている。さしたる抵抗もなく階級の固定化は進行しているが、底にはマッチをすれば爆発しそうな憤懣が渦巻いている。本作に描かれる<俺の増殖>や<俺同士による血みどろの削除>は、作者の鋭い観察眼が創り出したリアルな虚構だ。

 目覚めたからこそ俺はゾンビとして生き延び、志を共有する仲間とともに<俺俺>から解放されて<自分>へと帰る。再生への道程がラストに記されていた。

 この20年、海外文学にばかり目を向けていたが、昨年は平野啓一郎と池澤夏樹、今年に入って島田雅彦と星野智幸を遅まきながら発見する。中村文則、阿部和重も近々発射台に乗る予定だ。これほどの読書欲は30年ぶりのこと。折を見て当ブログで紹介していきたい。


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「悪人」~あまりに濃厚な日本的メンタリティー

2010-10-04 01:48:33 | 映画、ドラマ
 世界最高峰の凱旋門賞(20頭出走)で、ナカヤマフェスタ(二ノ宮厩舎)が首差の2着に入った。同厩舎では11年前のエルコンドルパサーに続く銀メダルだが、不利がなければと惜しまれる内容だった。もう一頭の日本馬ヴィクトワールピサも7着と健闘する。

 国内で圧倒的な力を誇るわけではないフェスタが、アウエーの深い芝と多頭数に順応した。この結果に、競馬とは適性を探るスポーツであることを再認識した。最有力候補と目されながら骨折でリタイアしたバービンジャーは、社台ファームで種牡馬入りする。同馬の仔(母系サンデーサイレンス?)が数年後、父の無念を晴らす日が来るかもしれない。

 新宿で先日、「悪人」(李相日監督)を見た。ハンカチ必携映画といえそうで、隣のギャル2人組は大泣きし、ハナをすする音があちこちから聞こえてきた。加齢とともに涙腺が緩んできた俺だが、「さあ、泣け」といわんばかりの作りに馴染めず、栓は閉じられたままだった。

 ネタバレもあるので、これから映画をご覧になる方はここで別のページに飛んでいただき、観賞後に戻ってきてほしい。

 主人公の祐一(妻夫木聡)は買売春の関係にあった保険外交員の佳乃(満島ひかり)を、激情に駆られて殺してしまう。容疑者として最初に浮上したのは大学生の増尾(岡田将生)だった。<祐一―佳乃―増尾>の構図を引き気味に眺めると、愛とは無縁の寒々としたトライアングルが浮かんでくる。

 佳乃と増尾に人間らしさを見いだすのは難しい。一方で祐一は祖父を介護するなど優しい面を持つ。裁かれるべきは祐一だけなのか……。製作サイドは計算ずくで観客を誘導する。

 親鸞も聖書もろくに読んでいない俺に、<悪>の本質なんて語れない。〝悪は俺の中にも存在する〟なんて言い出したら切りがなく、妄想まで取り締まったら、大半の男性は性犯罪者だ。祐一のように理性を失い、一線を越えた者が、世間的に<悪人>と呼ばれるようになる。

 祐一は佳乃の命を奪ってから間を置かず、出会い系でメール交換した光代(深津絵里)と肉体関係を持ち、情事後にお金を渡している。佳乃の時と同じパターンだ。「本気で誰かに出会いたかった」と光代に話していたが、その辺りの祐一の心情が理解できないのは年を取ったせいかもしれない。

 光代は映画や小説にのみ存在しうる俺の理想のタイプ――孤独だからこそ情熱的で、傷を負っているからこそ包容力がある――の女性だ。種を撒く場所は間違っていても、養分が正しければ愛は健やかに速やかに育つ。相乗された孤独と絶望をエネルギーに逃避行は続く。

 本作で泣かせ役を果たしているのが、佳乃の父佳男(柄本)の熱さと、祐一の祖母(樹木希林)の抑え気味の佇まいだ。佳男は娘の死の遠因を作った増尾を問い詰めるが、対立項としての描き方には説得力を感じなかった。若者とは中高年世代を映す鏡である。エゴイズム、拝金主義、目に見えるもので人を測る傾向は、増尾だけでなく佳男の娘にも顕著に表れていた。

 ラストの灯台のシーンで、祐一の目に野性が一瞬宿る。それが悪人の覚醒なのか、光代を共犯から解放する決意だったのか、捉え方が分かれるところだろう。

 李監督は朝鮮学校で青春を過ごした在日3世だ。厳しい差別を経験したはずだが、「妖しき文豪怪談」(9月4日の稿)撮影時のインタビューで、<映画祭うんぬんより、日本の皆さんに評価してほしい>(要旨)と語っていた。

 李監督は「フラガール」に続き本作でも、エンターテインメントを仕上げる力量を証明した。日本人のメンタリティーを的確に把握しているが、<日本的>の呪縛から自由になれば、さらなる高みに到達できるのではないか。
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