酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「悪い娘の悪戯」~リョサが描く愛の極北

2016-07-30 23:00:19 | 読書
 相模原市で凄惨な事件が起きた。U容疑者の危険な言動を把握しておきながら防げなかった警察や自治体を責める声に、俺は与しない。<危険>は政治的傾向に拡大され、言論弾圧に拍車が掛かりかねないからだ。

 この事件で日本人の死刑制度への支持は一層高くなるだろう。マイケル・ムーアがポルトガルを取材した際、3人の警官に話し掛けられたシーンが新作「世界侵略のススメ」(15年)に収録されている。いわく「死刑廃止は民主主義の条件だから、アメリカでも訴えてくれ」……。日本で戦争法反対や護憲を主張する人の何割が、死刑廃止論者(=人権派)なのか考えてしまう。

 介護施設の過酷な労働環境も事件の背景にある。五輪で環流する汚れた金の5%でも福祉に回せば、給料アップや施設拡充は可能だ。宇都宮健児氏の立候補を取りやめで、福祉が都知事選のテーマにならなかった。同氏の主張を盛り込まなかった鳥越サイド(民進、共産両党)は27日に応援を要請したが、「女性の人権についての考えの相違」を理由に断られた。参院選で宇都宮氏が寄り添った佐藤かおり候補(東京選挙区)の血の滲むような訴えを思い起こせば、今回の決断は必然である。

 マリオ・バルガス・リョサの「悪い娘の悪戯」(2006年)を読了した。老眼が進んで目がしょぼしょぼし、時に導眠剤になる。夢か現か、来し方の恋愛、あるいは恋愛未満が甦り、心が攪拌された。若い頃の数倍もの時間を費やしたが、自身の人生と重ねながら浸る読書も楽しいものだ。

 リョサはガルシア・マルケスと南米文学2トップだ。時空を行き来し、現実と幻想が混淆する<マジックリアリズム>の手法を確立したのが「緑の家」だった。ヴァージニア・ウルフやフォークナーの後継者として意識の流れを追求した「都会と犬たち」、<全体小説>のテーゼに則った「ラ・カテドラルの会話」が初期(1960年代)の代表作だ。

 俺がとりわけ敬意を抱くのは、」還暦を過ぎても重厚な小説を次々に発表している点だ。「悪い娘の悪戯」は70歳時の作品で、マルケスが50代後半に発表した「コレラの時代の愛」とともに、半世紀に及ぶ男女の愛を描いている。両巨匠の晩年の心象風景は、リョサ=油絵、マルケス=水彩画で、俺はドラマチックで官能的な前者が好みだ。

 主人公(僕)は少年の頃、リリーに恋をする。自称チリ生まれのリリーだが、嘘を見破られて僕の視界から去っていく。リリーはその後、ニーニャ・マラ(悪い女)として人生の転機に姿を現し手ひどい裏切りを繰り返すが、僕は彼女を愛し続ける。

 ペルーを離れた僕だが、常に故郷の状況に思いを馳せている。僕は通訳、翻訳家として60~90年代、パリ、ロンドン、日本、スペインで世界の空気とシンクロする。<全体小説>の志向は、世界を俯瞰する形でスケールアップしている。ニーニャ・マラは女ゲリラ、外交官夫人、富豪夫人、ヤクザの情婦として、名前と装いを変えながら僕と再会する。

 革命家と画家の2人の同胞、そして日本人女性に恋した通訳仲間……。それぞれ戦闘、エイズ、自殺で召された3人の親友の死も、ストーリーに影を落としていた。真摯な男たちを対照的にニーニャ・マラは虚飾に満ち、「誰も愛さない」と嘯く。美貌と頭の回転で男たちの心を奪っていく彼女に、陥穽が待ち受けていた。

 閑話休題……。ノーベル文学賞にも政治は関わっている。リョサの受賞(2010年)は、何とマルケスの約30年後だった。軍事独裁政権が頻繁に国を牛耳るペルーで、リョサはリベラル、中道、ブルジョアに担がれて大統領選に出馬する。この選択は、ノーベル文学賞には不利に働く。かの村上春樹はエルサレムでパレスチナ支持を表明し、イスラエルを批判した。<抵抗する者の味方>という看板で受賞した作家、詩人を挙げればきりがない。

 日系のフジモリに破れた経験が本作に色濃く反映していると感じるのは、穿った見方だろうか。フクダという悪魔の化身というべき日本人に支配されたニーニョ・マラの心身に消えることのない傷痕が刻まれる。フクダ=フジモリ、ニーニョ・マラ=ペルー国民、そして僕は作者自身……。こう置き換えると、ペルー現代史の縮図が見えてくる。

 登場する様々な個性の中でとりわけ印象的なのは、僕が親族を見舞うために帰省した際、交友することになるアルキメデスだ。その人となりを耳に挟んだ僕は、彼がニーニョ・マラの父親ではないかと直感し、会って確信に至る。老アルキメデスの職業は、防波堤建設の可否を決断すること。海辺で瞑想し、防波堤の効果の有無を探る。その意見は抽象的だが神の啓示に等しく、ダメ出しされた場所に建てられた防波堤はたちまち崩壊の憂き目を見る。

 パリに戻った僕の部屋から、またもニーニョ・マラは消えていた。晩年を過ごすためにスペインで暮らし始めた僕の前に、女性としての魅力を完璧に失った彼女が現れる。防波堤のエピソードがラストで意味を持つ。僕にとってニーニョ・マラはファム・ファタール(宿命の女)、そして彼女にとって僕は常に防波堤だったのだ。

 〝愛の極北〟に至る道筋が丹念に描かれ、ラストで色調は映画「愛、アムール」に近づく。ドストエフスキー風な軽妙で自嘲的な語り口も魅力で、ロマンチシズムに加え、毒と痺れ、ユーモアに溢れた本作は恋愛小説の白眉といえるだろう。
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ステレオフォニックスの青い焔に焦がされて

2016-07-27 23:09:32 | 音楽
 相模原市で起きたことに言葉も出ない。気持ちを整理して次稿の枕で記すことにする。

 先週末(23日)、横浜スタジアムでDeNA対巨人戦を観戦した。同点の6回表に3点を奪われたが、その裏に6安打を集中して5点を奪う。鮮やかな逆転劇に酔いしれたが、球場の熱狂ぶりにはついていけなかった。

 「8月から派遣先が変わるんだ。経済的にかなりピンチ」
 「うちはブラックだから、クライマックスシリーズ中に有休取れないかも」
 「TSUTAYAなんか3カ月以上、行ってない」
 「ここんとこ、100円ショップのレトルトカレーばっか」
 
 横に座っていた若者グループの会話が聞こえてくる。貧困とまではいかないが、DeNAのチケットを購入するため、生活を切り詰めていることが窺えた。

 俺はこの間、反戦争法、反原発、反貧困などを掲げる集会やデモに参加し、統一地方選と参院選には主体的に関わってきた。「この酷い現実を直視して……」といったスピーチをバックにビラを渡そうとしても、殆どの若者に拒絶される。スタジアムで浸った孤独、街頭で感じた空しさは、目に見えない回路で繋がっているはずだ。

 シカゴの1stアルバム「シカゴの軌跡」(1969年)収録曲「いったい現実を把握している者はいるだろうか」の問いかけは、40年近く経った今もフレッシュだ。そもそも<現実>の捉え方が曖昧になっている。

 バーチャルリアリティー(VR)(対戦型オンラインゲーム)にハマって、派遣労働者になった知人がいる。<現実逃避>と嗤う者もいるだろうが、<酷い現実>を変えようとあがくより、「VRで充実感を覚える方がまし」と彼は言う。スマホを持っていても「ポケモンGO」をダウンロードしないだろうが、「現実を変えるのは不可能」と観念したら、スタンスを変えるかもしれない。

 渋谷で昨夜、ステレオフォニックスを見た。フジロックに合わせた単独公演で、アジアツアーの一環でもある(本日は上海)。ライブに接するのは2010年4月以来だが、今回は新作「キープ・ザ・ヴィレッジ・アライヴ」(昨年9月)が全英1位(通算6作目)に返り咲くなど、キャリアのピークといっていい。個人的にも5rh「ランゲージ・セックス・ヴァイオレンス・アザー?」(05年)に並ぶ愛聴盤である。

 ザ・フーには3人の息子がいる。長男はポール・ウェラー(ジャム)、次男はエディ・ヴェダー(パール・ジャム)、そして三男はステフォのフロントマン、ケリー・ジョーンズだ。俺は2階の座席(1列)の真後ろという特等席で観賞したが、入場した時に流れていたのは、フーの「ビハインド・ブルー・アイズ」だった。スージー&ザ・バンシーズの曲がフェイドアウトする中、バンドがステージに登場する。

 7th以外の8作から万遍なくセットリストに含まれていた(恐らく)。デビュー曲「ローカル・ボーイ・イン・ザ・フォトグラフ」から、「ザ・バーテンダー・アンド・ザ・スィーフ」、「ミスター・ライター」、「メイビー・トゥモロー」などメロディアスでエッジの利いたヒット曲連発で、ケリーのソングライティング能力の高さを再確認する。ちなみに、「キープ――」から5曲が演奏された。

 ステフォは同郷(ウェールズ)の先輩、マニック・ストリート・プリーチャーズのようにラディカルでもなく、詩的でもないが、普遍的な感覚に寄り添う骨太かつオーソドックスな曲を作り続けている。全作を予習してみたが、変化はさほど感じない。でも、齢を重ねることで憂いとコクが染みてきている。

 30代後半でもストレートは150㌔以上、スライダーとツーシームを織り交ぜるものの。軟より硬、緩より急で打者に立ち向かう……。投手に例えればこんなタイプで、シェイプされたロッカー体形を維持している。6年前よりファンは増え、しかも若返っていた。客席との掛け合いも楽しめたが、ストイックな雰囲気で、青を基調にしたライティングが印象的だった。

 アンコール2曲目の「ダコダ」でステージは明るくなったが、お約束のメンバー紹介もなく引き揚げる。焔は最高温度に達すると赤から青に変わるという。ステフォの意志と熱で焦がされた心身を、驟雨で冷ます。ロックの本質を鋭く提示し、余韻が去らないライブだった。
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戦後を疾走した大橋巨泉という非凡な受容体

2016-07-24 18:02:58 | カルチャー
 消去法の選択といわれる都知事選だが、前回(2014年2月)の投開票日を控え、星野智幸は以下のように記していた。

 <生命を維持しているだけとしか言いようがない若者の貧困、孤立する高齢者の一人暮らしや夫婦等々、今この一瞬が死活問題として、生死の瀬戸際に立たされている人がたくさんおり、福祉が都知事選で最も重要な課題となっている>……。星野はシングルマザーの困窮も併せて取り上げ、シングルイシューで出馬した細川護煕候補を暗に批判していた。

 今回の最重要テーマも<格差と貧困の是正>のはずなのに、残念ながら争点にはなっていない。〝日本のサンダース〟こと宇都宮健児氏のキャッチフレーズ「困ったを希望に変える東京へ」を借用した以上、鳥越俊太郎候補は終盤戦で〝生き辛い人々〟と向き合うべきだ。

 予告通り、大橋巨泉さんについて記したい。俺は巨泉さんに、敬意というより親近感を抱いている。俺が遊びの対象としてきたジャンル――音楽(広義の)、将棋、麻雀、競馬、NFL――で、巨泉さんは一流のプレーヤー、慧眼の語り手として世間を瞠目させてきた。「ミニ巨泉」の俺は、浅田彰風にいえばスキゾ人間の典型で、〝○○教徒〟と対極に位置している。広くて浅いことを自覚しているが、本家の巨泉さんは広く、そして深いのだ。

 巨泉さんの存在を知ったのは、日本版の監修とナレーションを担当した「ザ・モンキーズ」(1966年9月~)だった。次回予告で巨泉人形が登場していた記憶がある。メロディアスな初期ビートルズで洋楽に目覚めていた俺には、モンキーズのキャッチーなナンバーも耳に心地良かった。前で立ち竦んでいた音楽の扉をグイッと開けてくれたのが巨泉さんだった。

 巨泉さんは俳人、ジャズ評論家、テレビやラジオの台本作家としてキャリアをスタートし、<遊び>をキーワードに縦横無尽に活躍した。最初のホームグラウンドは「11PM」だったが、俺が参考にしたのは競馬だった。ビギナー時代、「日曜競馬ニッポン」(ニッポン放送)で巨泉さんの予想を聞いてから馬券を買うのが習慣になっていた。

 いかに才能に恵まれていても、多くのジャンルで玄人の域に達するのは不可能だ。芸能界の風習に染まらず、人に見せない不断の努力を重ねていたはずだ。「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」の巧みな仕切りの前提は人間観察力だ。夜な夜なつるんでいたら、情が移って目が曇る。巨泉さんは孤独を愛していたと勝手に想像している。

 巨泉さんは自身を〝大物〟と印象付けるセルフプロデュースにも長けていた。たけしや紳助は、「このおっさん、また偉そうに抜かしてる」という表情を隠さなかったが、2人との阿吽の呼吸というべきお約束だった。巨泉さんによって個性を発揮できた人は数え切れない。そのひとりとして思い浮かぶのが大塚範一アナだ。

 NFLは多彩な戦略と戦術に、スーパーアスリートが織り成すギャンブル性の強いゲームだ。一ファンとして知識を蓄積した巨泉さんは、NHK・BSの解説陣に名を連ねる。頻繁にコンビを組んだ大塚アナは、試合の局面で巨泉さんに引けを取らず、タブーに踏み込む毒舌――渡辺恒雄読売グループ代表取締役を揶揄するものなど――をオブラートに包み受け流していた。民放で活躍する大塚アナの才能を引き出したのは、間違いなく巨泉さんだった。

 テレビ番組で見せた〝仕切り屋〟のイメージが覆ったのが、民主党参院議員時代の清々しい〝暴走ぶり〟だった。左派色を前面に、安全保障政策で鳩山由紀夫代表ら幹部と対立した巨泉さんは、「民主党の体質はあまりに保守的で、自民党と変わらない」と批判し、半年で議員を辞した。その発言が的を射ていたことは、民進党の現在の混迷ぶりが証明している。

 当時の巨泉さんを知る人によると、緑の党の前身のひとつ「みどりの会議」(中村敦夫代表)への移籍も選択肢だったという。この事実を知り、巨泉さんへの親近感は一層増した。巨泉さんがもう少し政界にとどまり、民主党左派、社民党、みどりの会議ら市民派を繋いでくれていたら……。絶望的な現状から目を逸らし、そんな空想に耽ってしまった。

 巨泉さんは非凡な受容体で、様々な刺激を体内に取り込んで消化し、わかりやすく提示してくれた。硬軟併せ持ち、バランス感覚に優れているのに芯がある。戦後を疾走した巨泉さんの遺志を受け継ぐことが、何よりの供養になる。
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「帰ってきたヒトラー」~ファシズムは70年周期の伝染病?

2016-07-20 23:16:54 | 映画、ドラマ
 大橋巨泉さんが亡くなった。正確には、亡くなったことが公表されたというべきか。セルフプロデュースの天才、類い希なアイデアマンというイメージを抱いていたが、世紀が変わる頃から反骨が滲み出るようになった。煌めきを放ち続けた巨星の死を心から悼みたい。巨泉さんについては、次稿で思いを記すことにする。
 
 三宅洋平氏が安倍昭恵さんと会い、携帯を通じて首相と話したことが物議を醸しているが、会議等で三宅氏の言葉に触れてきた俺は、違和感を覚えなかった。参院選では緑の党と袂を分かつ形になった三宅氏だが、思想の核というべき<チャランケ>は、緑の党が掲げる<多様性&オルタナティブ>と同一の地平にある。繰り返し記してきたが、チャランケとはアイヌ語で、<立ち位置が対極であっても、膝を詰めて話し合えば理解に至る>という発想だ。

 三宅氏は敵と味方を峻別する<二元論>とは無縁だ。前回の都知事選で宇都宮健児氏を支持したが、選挙後に細川護熙氏とチャランケし、笑顔で握手している。無邪気さと背中合わせの危うさは確かに心配だが、三宅氏への期待が失せることはない。昨年、APGF(アジア太平洋緑の党連盟)総会に日本代表団の一員として参加した三宅氏が、チャランケ精神を発揮して海外の人たちを瞠目させたと聞き、彼の説得力がボーダレスであることを確信した。

 さて、本題……。新宿で「帰ってきたヒトラー」(15年、デヴィッド・ヴェンド監督)を見た。ベストセラー小説の映像化で、がっちりした骨組みに、苦いユーモアが味付けられている。現在のきな臭さを伝えるニュース映像がインサートされており、世界、さらに日本の今後を考える上でヒントになる作品だ。

 本作とトーンが近い作品といえば、トランプ旋風を予言したかのような「ボブ★ロバーツ」(92年、ティム・ロビンス監督・主演)で、政治の闇、情報操作を抉っている。本作ともども、風刺が効き過ぎて背筋が冷んやりするブラックコメディーだ。

 18日付朝日朝刊によれば、ドイツでは「アドルフ」と「ヒトラー」は苦難の道を歩んできた。かつて安定した人気を誇ってきた「アドルフ」だが、戦況が悪化した1942年以降は右肩下がりで、昨年は全国で約30人だったという。一方の「ヒトラー」は〝最も難儀な名前〟であり、その姓ゆえ学校でいじめに遭い、結婚出来なかった東ドイツ出身の男性を紹介していた。

 戦後70年、忌避されてきたアドルフ・ヒトラーを〝発見〟したのは、テレビ局のフリーディレクター、ファビアン(ファビアン・ブッシュ)だった。「子供の貧困」という地味なテーマで撮影していたが、映像の奥に総統のいでたちをした男が写っていた。彼が何者なのかは冒頭で示されているが、ファビアンだけではなく、〝たっぷり準備して登場したそっくり芸人〟と自称ヒトラー(オリヴァー・マスッチ)を見做していた。交遊するうち、ファビアンはただならぬ資質に気付いていく。

 自称ヒトラーは新聞や雑誌を読み漁り、ドイツと世界の現在をつぶさにチェックする。テレビの低俗さに憤慨していたが、視聴率を稼げると直感したベリーニ女史は、トーク番組出演に踏み切った。台本を無視してウィットとユーモアを発揮した自称ヒトラーは一躍、お茶の間の人気者になる。ベリーニはレニ・リーフェンシュタールの如く、自称ヒトラーの人気上昇に力を貸すことになった。

 自称ヒトラーが語るドイツの政治状況が興味深い。キリスト教民主同盟、社会民主党だけでなく、ネオナチもぶった斬るが、例外は緑の党だった。「環境を重視する点が素晴らしい。核装備を妨げる原発反対はよくないが」と評していた、恋人も得て、監督デビューも決まったファビアンだが、自称ヒトラーが垣間見せる粗暴さや差別的言辞に、ある疑いを抱き始める。 上記の「ボブ★ロバーツ」では、真実を掴んだジャーナリストが暗殺されたが、本作でも同様の事態に至る。

 米大統領選の共和党候補に決まったトランプ、英国で外相に就任したボリス・ジョンソン、日本なら小泉純一郎、石原慎太郎、橋下徹各氏のように、無理を通し、白を黒と言いくるめる政治家を国民は支持する傾向にあり、メディアも後追いする。多様性、寛容の精神、調和を志向する緑の党など、見果てぬ夢を追うドン・キホーテ集団かもしれない。本作観賞後、暗い気分になった。

 自称が取れたヒトラーは、貧困と格差、民族対立が世界共通のテーマになった現在が、1930年代に似ていることに気付いている。ファシズムという70年周期で流行する伝染病を絶滅させる処方箋は、いまだ発見されていない。
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「シング・ストリート」~夢と希望が詰まった青春映画の佳作

2016-07-16 22:21:00 | 映画、ドラマ
 ひねくれ者ゆえ、常に<正論>と距離を置き、<異論>を吐いてしまう。例えば、都知事選……。俺は宇都宮健児氏と決めていた。鳥越俊太郎氏との政策協議で脱原発を挙げていたし、「反貧困ネットワーク」代表として格差と貧困の是正を訴え続けている。

 一方で、<正論>とされる野党統一に価値を見いだせない。原発再稼働と武器輸出に与する連合と手を切れず、改憲派が30%を超える民進党が軸になっていることに、疑義と不安を覚えるからだ。

 鳥越氏の見識と情熱には敬意を払うが、俺は上杉隆氏に注目している。3・11直後、東電や経産省で飼い犬たち(記者クラブ所属)の罵声を浴びながら質問を続け、被曝や汚染水放流について真実を報道した。<政官財―広告代理店―メディア>連合に叩きのめされた上杉氏は今回、五輪利権の追及を掲げるなど、この国で最も反骨を感じさせるジャーナリストだ。反原発に長年取り組んでいる友人は、「死に票は覚悟の上で、恩義ある上杉氏に一票を投じる」と話していた。

 恩義といえば、俺は宇都宮氏に感じている。統一地方選から参院選まで、宇都宮氏は情勢に関係なく緑の党が推薦する候補に寄り添ってくれた。テレビ討論が続けば、具体的な数字を示し、弱者目線で福祉の充実を主張する宇都宮氏に負けるのではないか……。鳥越氏を担いだ側にこんな危惧が広がろうとした矢先、宇都宮氏は降りた。都政刷新に向けた決断で、参院選東京地方区での得票数からも、鳥越氏優位は揺るがない。

 保守派が意図的に流している<宇都宮=共産党>は正しくない。前回の都知事選で宇都宮氏は共産党系を選対から排除したし、「自由ではない組織に民主主義を語る資格はない」と共産党を揶揄したこともある。〝日本のサンダース〟宇都宮氏に出番が回ってくるための前提は、<永田町の地図>が灰になること。<民進党代表選(9月)で敗れた右派が連合とともに自公に合流する>との噂が現実になれば、世界を揺るがせている地殻変動――直接民主主義が議会の壁を壊す――がこの国でも起きるだろう。

 有楽町で先日、「シング・ストリート 未来へのうた」(15年、ジョン・カーニー監督)を見た。公開後1週間ということもあり、ストーリーの紹介は最低限にとどめたい。

 舞台は1985年のダブリン。ラフィーナ(ルーシー・ボイントン)の気を引こうと、コナー・ローラー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)がバンドを結成する。青春映画の基本は<ボーイ・ミーツ・ガール>だが、バンドがテーマになると<ボーイ・ミーツ・ボーイズ>も重要だ。ビートルズ、ストーンズから凡百のバンドまで、結成に至る経緯はドラマチックだ。出会いは時に、奇跡の旅への扉をこじ開ける。

 シング・ストリートでは詩才のあるコナーと、楽器を自在に操るコンポーザーのエイモンとの出会いが大きかった、さらに、最高のアドバイザーもいる。夢を失い引きこもっているコナーの兄ブレンダンの鋭い言葉が、バンドに魂を注入した。英国やアイルランドではロックは〝国技〟で、表現によって閉塞状況から抜け出そうとする少年少女が蠢いている。コナーもその一人で、1つ年上のラフィーナはモデル志望だ。

 アイルランドと英国の歴史的対立は映画や小説の題材になっているが、本作では政治的な軋轢は省かれ、ロンドンはコナーとラフィーナが夢を実現する理想郷として描かれている。微温的と感じたが、時間が経つにつれ見方が変わってきた。自公政権を批判する側は、俺を含め<沖縄=抵抗の拠点>という構図を作り上げているが、住人の思いを紋切り型で語ることは正しくないのだろう。ローラー家はブレンダンの解釈付きで「トップ・オブ・ザ・ポップス」(BBC)を見ていて、母親はデュラン・デュランのイケメンにウットリしていた。

 <80年代のUKロック満載>の謳い文句につられて足を運んだが、音楽にはイマイチ感が否めなかった。〝ロック正史〟で85年当時のUKロックを振り返れば、U2、スミス、キュアーが後生に最も影響を与えたバンドであることに議論の余地がない。権利問題をクリア出来なかったに相違ないが、ダブリンから世界に飛翔していたU2は、なぜか台詞にも登場しなかった。でも、ボノは本作を称賛しているという。

 辞任した英キャメロン首相が議会での最後の討論で、スミスの歌詞を例に取って労働党コービン党首を口撃していたし、アメリカ最大のコーチェラフェスでは主催者が毎年、モリッシーとジュニー・マーに、メーンステージのヘッドライナーとしての再結成を提案するのがお約束になっている。でも、本作ではスミスについて言及なしだった。キュアーだけがマトモに扱われていて、ブレンダンに「ザ・ヘッド・オン・ザ・ドア」を薦められたコナーが、「これからはポップではなく、アートを目指す」とメンバーに宣言していた。

 絆を強めていくコナーとラフィーナにとって、家族の問題は深刻だった。崩壊した家族を象徴するかのような荒々しい海に漕ぎ出し、ブレンダンも軛から解き放たれる。恋人たちがたどり着く先は希望、それとも倦怠だろうか。本作は、夢が潰えていない25歳未満のカップルに自信をもってお薦めできる青春映画である。
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参院選、そして都知事選~<永田町の地図>は燃やしてしまおう

2016-07-12 22:45:15 | 社会、政治
 永六輔さんが亡くなった。気骨とユーモアに溢れ、多彩な分野で活躍した戦中派の死を心から悼みたい。ともに中年御三家を結成した小沢昭一さん、野坂昭如さん、そして菅原文太さんと、芯のある人たちが相次いで召されている。

 参院選について、俯瞰、あるいはロングの視線で分析した論考に幾つも目を通した。小人たる俺は、インサイダーとして関わったこの1年について記したい。

 緑の党アジア太平洋会議に日本代表団の一員としてニュージーランドに赴いた三宅洋平氏は、臨時党大会(昨年7月)にもオブザーバーとして参加する。東京選挙区での出馬を数カ月、要請してきたが、固辞される。市民派には痛手だったが、佐藤かおりさん(女性と人権全国ネットワーク共同代表)が手を挙げてくれた。公示直前の三宅氏の立候補は青天の霹靂だったが、俺は三宅氏の当選と佐藤さんの供託金クリアに期待した。

 <言霊>と<チャランケ>を頻繁に用いる三宅氏を、当ブログで絶賛してきた。チャランケとは膝を突き詰めて語り合えば理解に至るという意味(アイヌ語)で、多様性を重視する三宅氏に相応しい。バーニー・サンダースやポデモスについて早くから言及しており、直接民主主義が議会を変えた世界の潮流を認識している。

 緑の党の比例区候補として出馬した前回、三宅氏は東京で6万票以上を獲得した。この数字が基礎票といえるが、一方の佐藤さんは全くの無名で、<弱者に光を>という訴えも7万人弱にしか届かなかった。聴く者の心を飛翔させる三宅氏、社会と個の痛みを紡ぐ佐藤さん……。対照的な両者の言葉に耳を傾ける人は、さらに増えていくはずだ。

 佐藤さんのビラを心待ちにしていそうなアパートや一戸建てを中心に、ポスティングを担当した。行く先々で出くわしたのは公明党や共産党のポスターである。<組織票≒悪>と決めつける人もいるが、公明党と共産党は互助会的な要素が強い。困った時に助け合う関係の構築は学ぶべきではないか。ちなみに、「東京選挙区では公示前のポスティングが50万枚、投票直前はひたすら電話作戦」と某党の選対関係者が話していた。三宅氏をもってしても、風だけでは当選圏に届かないのだ。

 無為に過ごした自身の反省を込め、2年前、30年ぶりに政治の現場に復帰した。このままでは若い世代は大変なことになる、このままじゃ死ねないという思いはお節介なのか。安保法制を成立させ、福祉切り捨てに邁進する自公政権を若者たちは支持している。数字で表れた事実に、無力感を覚えた。

 <永田町の地図>でしか政治を量れない保守派――左右の切り分けではなく現状肯定派――が、いまだ幅を利かせている。〝熱い夏〟の最大の功労者だった小林節氏が、反戦争法、辺野古基地建設反対、反TPP、脱原発、格差と貧困の是正etcを掲げて「国民怒りの声」を立ち上げた時、メディアや自称リベラルは「パイを奪い合うだけ」と否定的な対応に終始した。俺はその時、確信した。欧米や香港、台湾で起きた<国会の地図>を外から廃棄する地殻変動は、この国では起きないだろうと……。

 都知事選はどうか。報道されている多くは誤りだ。先月末、<野党統一候補は古賀茂明氏>という流れになったが、民進党のストップで頓挫する。その後、〝本籍自民党〟の長島昭久、〝改憲派〟の松沢成文の両氏をダミーに、水面下で様々な動きがあった。最初からダメ出しされていた古賀氏はピエロで、民進党と立ち位置が対極の宇都宮氏は、<野党統一>の紋所に泥を塗るヒールになるだろう。

 前回の知事選から2年半、宇都宮氏は支援者と都議会に足を運び、都政について提言してきた。鳥越俊太郎氏の見識を疑う余地はないが、立候補会見はどこか要領を得なかった。心の中で<永田町の地図>を燃やした俺は、〝日本のサンダース〟こと宇都宮氏を応援する。いや、サンダースこそ〝アメリカのウツケン〟と呼ぶべきという声もある。宇都宮氏はこれまで統一地方選で緑の党の候補、そして今回の参院選でも佐藤さんに寄り添ってくれた。恩を返さないと罰が当たる。

 もし、宇都宮氏が降りたら……。地殻変動に向けて、不自由な選挙制度の改革、武器輸出反対運動に協力し、脱成長を学ぶ。さらに、自由の気風を育む様々なイベントに参加と、アラカンには結構ハードだ。
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「シチズンフォー スノーデンの暴露」~明かされた民主主義の敵

2016-07-08 13:07:51 | 映画、ドラマ
 マイケル・チミノ、アッバス・キアロスタミが相次いで亡くなった。巨匠たちの冥福を心から祈りたい。いずれ追悼特集が組まれるだろう。その折にも感銘を受けた作品について記すことにする。

 昨日夕、江東区で佐藤かおり候補(女性と人権全国ネットワーク共同代表)の街宣に参加した。炎天下、笑みを絶やさず佐藤さんに寄り添っていた宇都宮健児氏の都知事選立候補の報を帰宅して知る。暴力に苦しむ女性、貧困に喘ぐ若者、そしてLGBT……。<全ての弱者に光を>を掲げる佐藤さんの選挙戦は、ロイター通信で世界に紹介された。今日夜、佐藤さんは新宿2丁目でトークイベントを開催する。

 シールズのスポークスクマン、奥田愛基氏のフジロック出演が物議を醸している。「音楽に政治を持ち込むな」との反発が、アラカンの俺には理解出来ない。パンク→グランジ→ラップ&ヒップホップと、荒ぶる突破者がロックを高みに導いてきたことは、フジロックに集う者の〝常識〟だ。<空気を読み、抗議したり、はみ出したりした者を叩く>という悲しき伝統に、若い世代も染まっているのか。

 武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)代表の杉原浩司さんが警鐘を鳴らしてきた<日本とイスエラエルの軍事同盟>が現実になる。ドローンズの共同開発を推進してきた防衛装備庁幹部は、<ガザ空爆で大きな成果を挙げた>としてイスラエルの無慈悲な空爆を称揚してきた。残念なことに、反戦争法の盛り上がりは、武器輸出(輸入)反対に繋がっていない。ちなみに、都知事選に前向きな長島昭久氏(民進党)は自民党に先んじて武器輸出を企図した〝好戦派〟だ。

 渋谷・イメージフォーラムで先日、「シチズンフォー スノーデンの暴露」(14年)を見た。ローラ・ポイトラス監督がインタビュアーを務めている。サスペンス、ミステリー、ホラーの要素を併せ持つ濃密なドキュメンタリーで、ラストまで緊張が途切れなかった。

 ローラの元に、ハンドルネーム「シチズンフォー」から暗号化されたメールが届く。米国家安全保障局(NSA)が膨大な個人情報を非合法に収集しているという衝撃的な内容だった。ローラは同志というべきグレン・グリーンウォルド(ジャーナリスト)らとともに、指定された香港に向かう。現れたのはCIA職員のエドワード・スノーデンだった。

 スノーデンは情報収集、管理、分析のプロゆえ、〝敵〟の恐ろしさを知り尽くしている。香港を選んだのも、米中関係を考慮した上での決断だったに相違ない。「パソコン、携帯を通したやりとりはNSA、CIAにキャッチされている」との言葉を裏付けるように、香港、そしてアメリカに残した恋人に敵の影がちらつき始めた。東京が集合場所だったら、日本政府の協力の下、一網打尽、いや揃って〝消された〟可能性もあるだろう。

 ジョージ・オーウェルの近未来小説「1984」(1948年発表)は、その後の世界を予言していた。今回の参院選など、<出来るだけ扱うな>というアナログ的な情報統制の典型と思えるが、デジタルをフル活用した管理により、人権、自由、民主主義は死に瀕している。インターネットは当初、<全ての境界を超え、個々が自由に繋がるツール>と持て囃されたが、夢は潰えた。人々は閉鎖的なタコツボにこもり、考えの異なる者を攻撃する。金と権力を持つ<1%>は、<99%>を操る手段としてインターネットを用いている。

 別稿(10年7月3日)に記したが、小泉政権下で秘書官(安全保障担当)を務めた岸博幸慶大大学院教授は、グーグルの危険性を指摘していた。当時、グーグルへの接続を規制した中国に対し、<非民主的>と批判が沸き上がったが、岸氏の見解は違った。皆殺しの発想に支えられるグーグルこそ<非民主的>の象徴で、自由の阻害物と語っていた。

 30年以上にわたってNSAで情報管理を担ってきたウィリアム・ビニーが、米当局を告発する。折しも独メルケル首相らEU首脳の送受信が傍聴されていたことが明かされ、大きな問題になった。安倍首相の肉声もダダ漏れだったが、日本政府は型通りの抗議をしたに過ぎない。

 スノーデンも指摘していたが、検索エンジン、クラウドコンピューティング、フェイスブック、SNSも諜報機関と協力関係にあり、やりとりされる情報は監視対象になっている。参院選では「選挙フェス」が一時期、検索ワードから外されていたことが判明したが、これも言論弾圧の一種だろう。

 ローラはロングのカメラで、ロシアで恋人とひっそり暮らすスノーデンを追っている。国家の犯罪を告発したスノーデンの幸せを願っているが、彼の思いを受け継ぐ者たちが現れた。人工知能を導入しながら敵はますます強くなるだろう。対抗出来るのは、良心、倫理、矜持といった人間が本来持っている美徳なのだ。
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「マチネの終わりに」~高みに飛翔する至高の恋愛小説

2016-07-04 23:09:46 | 読書
 参院選の投開票日が週末に迫った。与党や代理店の意向を汲んでいるのか、メディアの扱いは例がないほど小さい。投票率が50%を切れば、自公は圧勝するだろう。

 別稿(6月19日)で三宅洋平氏の突然の立候補について否定的に記したが、訂正したい。三宅氏、そして山本太郎参院議員の選挙プロデューサー、S氏は別件で不当逮捕され、収監されていた。釈放された6月上旬、事態は動き出す。出馬を固辞し続けた三宅氏の立候補は、以前からの支持者にとって青天の霹靂だったが、S氏への義理を果たすための<義・情・信>に則る行為と考えたら、亀裂は選挙後、繕えるのではないか。人は誰しも、二重三重の義理に縛られているのだから……。

 俺は当ブログで三宅氏を繰り返し称揚してきた。私用のついでに足を運んだ渋谷での「選挙フェス」は大盛況で、あまりの混雑に早々に引き揚げた。当選ラインに届くか微妙だが、前回の参院選で三宅氏を担いだ緑の党、市民グループが推す佐藤かおりさん(女性と人権全国ネットワーク共同代表)はさらに厳しい。それでも、空を翔る三宅氏と対照的に、自身の経験を踏まえた地から這い上がる言葉で支持を広げている。

 佐藤さんは昨3日、福島みずほ(社民党)、大河原まさこ(民進党)両候補とともに<増やそう!女性議員>と銘打ったイベント(紀伊國屋前)で支持を訴えた。神田香織さんら様々な分野で活躍する女性たち、佐藤候補を応援する宇都宮健児氏ら男性陣のアピールに聴き入った。

 マイケル・ムーアの「世界侵略のススメ」では、男性たちがぶち壊したアイスランド経済を、女性の政財界人が立て直した経緯が描かれていた。日本に置き換えて考えてみる。女性の国会議員が半数近かったら、戦争法は通っただろうか、社会福祉(年金、育児、介護etc)の問題の幾つかは解決済みかもしれない。フェミニズムと無縁だった俺だが、佐藤さんの応援を通じて学んだことは大きかった。

 街宣などで疲れた体、カサカサになった心を潤すため、恋愛小説を読んだ。平野啓一郎著「マチネの終わりに」(毎日新聞出版)である。〝三島の再来〟と謳われデビューした平野の繊細な言葉が心身に染み渡る。読む予定の方も多いはずだし、映画化も確実と思えるので、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。

 恋愛小説は好みのジャンルではない。神話の域に到達しているか、あるいは通俗に堕するか……。大抵は後者ではないか。俺が推奨する恋愛小説は、ロシア革命に翻弄された男女を描いた「ドクトル・ジバゴ」(ボリス・パステルナーク)、ヒロシマの傷を見据えた「死の島」(福永武彦)、タブーに触れつつ日本の近現代史を照射した「無限カノン三部作」(島田雅彦)あたりだ。

 余談になるが、雅子さんは皇太子と結婚する際に受けたインタビューで、最も感銘を受けた小説に「ドクトル・ジバゴ」を挙げていた。まさか自身をモデルに「無限カノン三部作」が書かれるとは想像もしなかっただろう。

 平野は3・11後、<これから書かれる小説は、以前と同じであっていいはずがない>(趣旨)と話していた。池澤夏樹、星野智幸、中村文則、そして桐野夏生の作品にも、平野同様の決意と覚悟が窺える。本作には3・11だけでなく、原爆、ユーゴスラビア紛争、イラク侵攻後の混乱が背景に溶け込んでいた。平野は近現代史を俯瞰しつつ、男女のこまやかな機微を紡いでいた。

 本作の主人公は、天才の誉れ高いギタリストの蒔野聡史と、気高いジャーナリストの小峰洋子だ。歴史的快演と後に評価が定まる聡史のサントリーホールでのコンサートの後、打ち上げの宴に洋子が連なった。2006年秋、聡史は38歳、洋子は40歳。俗に〝ボーイ・ミーツ・ガール〟というが、平野は運命的な出会いを精緻かつ繊細に表現する。還暦間近の俺でさえ、若かりし頃の心の揺らぎが甦ったような錯覚に陥った。

 本作には様々な「キーワード」がちりばめられているが、「ヴェニスに死す」(トーマス・マン)もそのひとつだ。平野の小説にマンの影響が窺えるとしたら、教養小説的な側面だ。音楽をテーマにした本作の肝は、バッハを中心にした平野のクラシックへの理解の深さである。10代の頃から世界にその名を轟かせたギタリストがスランプから立ち直っていく過程を、平野は丹念に描いている。

 洋子の父は数々の傑作を発表したユーゴ人の映画監督で、母は長崎で被爆した。洋子は世界観を獲得することを宿命付けられた女性といえる。イラクでジャーナリストとして働き、辛うじて爆破事件を生き延びたもののPTSDに苦しむ。現地で知り合い、洋子の後を追うようにパリにやってきたジャリーラが、二人を繋ぐ結び目になった。

 至高の愛が成就したかに思えた刹那、物語は暗転する。運命の悪戯で、二人は離れ離れになる。神話から通俗に堕したと感じ、俺は憤りさえ覚えた。男性なら聡史に、女性なら洋子にはなれないと、読者は感じるだろう。聡史への独り善がりの愛で暴走した早苗、アメリカの1%を象徴するような洋子の婚約者リチャードは、自身に近い俗物だとも……。自らの悲しさだけでなく、世界で起きた絶望的な出来事を体感した聡史と洋子は、赦しという美徳を身に纏い、物語は更なる高みへと緩やかに飛翔する。

 出会いから6年、聡史と洋子は再会した。<マチネ=昼間興行>は終わる。そして、いかなる形で<ソワレ=夜間興行>が始まるのだろうか。物語の続きは読者一人ひとりに委ねられている。
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