相模原市で凄惨な事件が起きた。U容疑者の危険な言動を把握しておきながら防げなかった警察や自治体を責める声に、俺は与しない。<危険>は政治的傾向に拡大され、言論弾圧に拍車が掛かりかねないからだ。
この事件で日本人の死刑制度への支持は一層高くなるだろう。マイケル・ムーアがポルトガルを取材した際、3人の警官に話し掛けられたシーンが新作「世界侵略のススメ」(15年)に収録されている。いわく「死刑廃止は民主主義の条件だから、アメリカでも訴えてくれ」……。日本で戦争法反対や護憲を主張する人の何割が、死刑廃止論者(=人権派)なのか考えてしまう。
介護施設の過酷な労働環境も事件の背景にある。五輪で環流する汚れた金の5%でも福祉に回せば、給料アップや施設拡充は可能だ。宇都宮健児氏の立候補を取りやめで、福祉が都知事選のテーマにならなかった。同氏の主張を盛り込まなかった鳥越サイド(民進、共産両党)は27日に応援を要請したが、「女性の人権についての考えの相違」を理由に断られた。参院選で宇都宮氏が寄り添った佐藤かおり候補(東京選挙区)の血の滲むような訴えを思い起こせば、今回の決断は必然である。
マリオ・バルガス・リョサの「悪い娘の悪戯」(2006年)を読了した。老眼が進んで目がしょぼしょぼし、時に導眠剤になる。夢か現か、来し方の恋愛、あるいは恋愛未満が甦り、心が攪拌された。若い頃の数倍もの時間を費やしたが、自身の人生と重ねながら浸る読書も楽しいものだ。
リョサはガルシア・マルケスと南米文学2トップだ。時空を行き来し、現実と幻想が混淆する<マジックリアリズム>の手法を確立したのが「緑の家」だった。ヴァージニア・ウルフやフォークナーの後継者として意識の流れを追求した「都会と犬たち」、<全体小説>のテーゼに則った「ラ・カテドラルの会話」が初期(1960年代)の代表作だ。
俺がとりわけ敬意を抱くのは、」還暦を過ぎても重厚な小説を次々に発表している点だ。「悪い娘の悪戯」は70歳時の作品で、マルケスが50代後半に発表した「コレラの時代の愛」とともに、半世紀に及ぶ男女の愛を描いている。両巨匠の晩年の心象風景は、リョサ=油絵、マルケス=水彩画で、俺はドラマチックで官能的な前者が好みだ。
主人公(僕)は少年の頃、リリーに恋をする。自称チリ生まれのリリーだが、嘘を見破られて僕の視界から去っていく。リリーはその後、ニーニャ・マラ(悪い女)として人生の転機に姿を現し手ひどい裏切りを繰り返すが、僕は彼女を愛し続ける。
ペルーを離れた僕だが、常に故郷の状況に思いを馳せている。僕は通訳、翻訳家として60~90年代、パリ、ロンドン、日本、スペインで世界の空気とシンクロする。<全体小説>の志向は、世界を俯瞰する形でスケールアップしている。ニーニャ・マラは女ゲリラ、外交官夫人、富豪夫人、ヤクザの情婦として、名前と装いを変えながら僕と再会する。
革命家と画家の2人の同胞、そして日本人女性に恋した通訳仲間……。それぞれ戦闘、エイズ、自殺で召された3人の親友の死も、ストーリーに影を落としていた。真摯な男たちを対照的にニーニャ・マラは虚飾に満ち、「誰も愛さない」と嘯く。美貌と頭の回転で男たちの心を奪っていく彼女に、陥穽が待ち受けていた。
閑話休題……。ノーベル文学賞にも政治は関わっている。リョサの受賞(2010年)は、何とマルケスの約30年後だった。軍事独裁政権が頻繁に国を牛耳るペルーで、リョサはリベラル、中道、ブルジョアに担がれて大統領選に出馬する。この選択は、ノーベル文学賞には不利に働く。かの村上春樹はエルサレムでパレスチナ支持を表明し、イスラエルを批判した。<抵抗する者の味方>という看板で受賞した作家、詩人を挙げればきりがない。
日系のフジモリに破れた経験が本作に色濃く反映していると感じるのは、穿った見方だろうか。フクダという悪魔の化身というべき日本人に支配されたニーニョ・マラの心身に消えることのない傷痕が刻まれる。フクダ=フジモリ、ニーニョ・マラ=ペルー国民、そして僕は作者自身……。こう置き換えると、ペルー現代史の縮図が見えてくる。
登場する様々な個性の中でとりわけ印象的なのは、僕が親族を見舞うために帰省した際、交友することになるアルキメデスだ。その人となりを耳に挟んだ僕は、彼がニーニョ・マラの父親ではないかと直感し、会って確信に至る。老アルキメデスの職業は、防波堤建設の可否を決断すること。海辺で瞑想し、防波堤の効果の有無を探る。その意見は抽象的だが神の啓示に等しく、ダメ出しされた場所に建てられた防波堤はたちまち崩壊の憂き目を見る。
パリに戻った僕の部屋から、またもニーニョ・マラは消えていた。晩年を過ごすためにスペインで暮らし始めた僕の前に、女性としての魅力を完璧に失った彼女が現れる。防波堤のエピソードがラストで意味を持つ。僕にとってニーニョ・マラはファム・ファタール(宿命の女)、そして彼女にとって僕は常に防波堤だったのだ。
〝愛の極北〟に至る道筋が丹念に描かれ、ラストで色調は映画「愛、アムール」に近づく。ドストエフスキー風な軽妙で自嘲的な語り口も魅力で、ロマンチシズムに加え、毒と痺れ、ユーモアに溢れた本作は恋愛小説の白眉といえるだろう。
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この事件で日本人の死刑制度への支持は一層高くなるだろう。マイケル・ムーアがポルトガルを取材した際、3人の警官に話し掛けられたシーンが新作「世界侵略のススメ」(15年)に収録されている。いわく「死刑廃止は民主主義の条件だから、アメリカでも訴えてくれ」……。日本で戦争法反対や護憲を主張する人の何割が、死刑廃止論者(=人権派)なのか考えてしまう。
介護施設の過酷な労働環境も事件の背景にある。五輪で環流する汚れた金の5%でも福祉に回せば、給料アップや施設拡充は可能だ。宇都宮健児氏の立候補を取りやめで、福祉が都知事選のテーマにならなかった。同氏の主張を盛り込まなかった鳥越サイド(民進、共産両党)は27日に応援を要請したが、「女性の人権についての考えの相違」を理由に断られた。参院選で宇都宮氏が寄り添った佐藤かおり候補(東京選挙区)の血の滲むような訴えを思い起こせば、今回の決断は必然である。
マリオ・バルガス・リョサの「悪い娘の悪戯」(2006年)を読了した。老眼が進んで目がしょぼしょぼし、時に導眠剤になる。夢か現か、来し方の恋愛、あるいは恋愛未満が甦り、心が攪拌された。若い頃の数倍もの時間を費やしたが、自身の人生と重ねながら浸る読書も楽しいものだ。
リョサはガルシア・マルケスと南米文学2トップだ。時空を行き来し、現実と幻想が混淆する<マジックリアリズム>の手法を確立したのが「緑の家」だった。ヴァージニア・ウルフやフォークナーの後継者として意識の流れを追求した「都会と犬たち」、<全体小説>のテーゼに則った「ラ・カテドラルの会話」が初期(1960年代)の代表作だ。
俺がとりわけ敬意を抱くのは、」還暦を過ぎても重厚な小説を次々に発表している点だ。「悪い娘の悪戯」は70歳時の作品で、マルケスが50代後半に発表した「コレラの時代の愛」とともに、半世紀に及ぶ男女の愛を描いている。両巨匠の晩年の心象風景は、リョサ=油絵、マルケス=水彩画で、俺はドラマチックで官能的な前者が好みだ。
主人公(僕)は少年の頃、リリーに恋をする。自称チリ生まれのリリーだが、嘘を見破られて僕の視界から去っていく。リリーはその後、ニーニャ・マラ(悪い女)として人生の転機に姿を現し手ひどい裏切りを繰り返すが、僕は彼女を愛し続ける。
ペルーを離れた僕だが、常に故郷の状況に思いを馳せている。僕は通訳、翻訳家として60~90年代、パリ、ロンドン、日本、スペインで世界の空気とシンクロする。<全体小説>の志向は、世界を俯瞰する形でスケールアップしている。ニーニャ・マラは女ゲリラ、外交官夫人、富豪夫人、ヤクザの情婦として、名前と装いを変えながら僕と再会する。
革命家と画家の2人の同胞、そして日本人女性に恋した通訳仲間……。それぞれ戦闘、エイズ、自殺で召された3人の親友の死も、ストーリーに影を落としていた。真摯な男たちを対照的にニーニャ・マラは虚飾に満ち、「誰も愛さない」と嘯く。美貌と頭の回転で男たちの心を奪っていく彼女に、陥穽が待ち受けていた。
閑話休題……。ノーベル文学賞にも政治は関わっている。リョサの受賞(2010年)は、何とマルケスの約30年後だった。軍事独裁政権が頻繁に国を牛耳るペルーで、リョサはリベラル、中道、ブルジョアに担がれて大統領選に出馬する。この選択は、ノーベル文学賞には不利に働く。かの村上春樹はエルサレムでパレスチナ支持を表明し、イスラエルを批判した。<抵抗する者の味方>という看板で受賞した作家、詩人を挙げればきりがない。
日系のフジモリに破れた経験が本作に色濃く反映していると感じるのは、穿った見方だろうか。フクダという悪魔の化身というべき日本人に支配されたニーニョ・マラの心身に消えることのない傷痕が刻まれる。フクダ=フジモリ、ニーニョ・マラ=ペルー国民、そして僕は作者自身……。こう置き換えると、ペルー現代史の縮図が見えてくる。
登場する様々な個性の中でとりわけ印象的なのは、僕が親族を見舞うために帰省した際、交友することになるアルキメデスだ。その人となりを耳に挟んだ僕は、彼がニーニョ・マラの父親ではないかと直感し、会って確信に至る。老アルキメデスの職業は、防波堤建設の可否を決断すること。海辺で瞑想し、防波堤の効果の有無を探る。その意見は抽象的だが神の啓示に等しく、ダメ出しされた場所に建てられた防波堤はたちまち崩壊の憂き目を見る。
パリに戻った僕の部屋から、またもニーニョ・マラは消えていた。晩年を過ごすためにスペインで暮らし始めた僕の前に、女性としての魅力を完璧に失った彼女が現れる。防波堤のエピソードがラストで意味を持つ。僕にとってニーニョ・マラはファム・ファタール(宿命の女)、そして彼女にとって僕は常に防波堤だったのだ。
〝愛の極北〟に至る道筋が丹念に描かれ、ラストで色調は映画「愛、アムール」に近づく。ドストエフスキー風な軽妙で自嘲的な語り口も魅力で、ロマンチシズムに加え、毒と痺れ、ユーモアに溢れた本作は恋愛小説の白眉といえるだろう。
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