酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

憲法を超える規範は存在するのか~「裁判劇テロ」が問い掛けるもの

2017-07-31 22:11:59 | 映画、ドラマ
 一昨日(29日)、隅田川花火大会に足を運んだ。観覧席で光のページェントを満喫……と言いたいところだが、降りやまぬ雨にレジャーシートは水浸しで、ジーンズもびしょ濡れになり6時前、退座する。終了まで2時間半、想定されるダメージはあまりに大きかった。

 警備体制、輸送体制、テレビ放映、ツアー会社の意向など様々な事情を勘案し、事務局は順延を決断しなかった。帰宅してSNSをチェックすると、<地獄絵図>なんて厳しい言葉が躍っている。〝地獄〟の実態は雨と経路だが、後者には抜け道がある。スイスイとまで言わないが、多少歩けば混雑から逃れるルートは幾つかある。

 稲田防衛相がようやく辞任した。彼女を「朋ちゃん」と呼び、後継者と見做していた安倍首相の決断力のなさは救い難い。この間、日本でも議論になってきた軍隊(自衛隊)と憲法、危機管理、超法規的措置、シビリアンコントロールについて、考えるヒントになるドラマを録画で見た。AXNミステリーで先月オンエアされた「裁判劇テロ」(フェルディナント・フォン・シーラッハ原作)である。

 辣腕弁護士のシーラッハは「犯罪」(2009年)でデビュー以来、世界で最も注目される作家といえる。2016年5月のミュンヘン、ハイジャックされスタジアム(7万人が観戦)に突っ込む可能性があった航空機(乗客164人)をコッホ空軍少佐が撃墜する。本作の舞台は法廷で、陪審員は視聴者だ。コッホが有罪か無罪かを電話で投票し、多数を占めた方の判決が放映される。ドイツにおける裁判の知的水準の高さが窺える内容だった。

 軸に据えられたのは憲法だ。ドイツでは04年、「航空安全法」が制定され、軍はハイジャックされた民間航空機を撃墜する権限を得たが、連邦憲法裁判所は2年後、違憲判決を下した。<人命を天秤にかけてはいけない>という人権意識が背景にあった。番組ではハイジャック発生後、国防省、内務省、市民保護・災害救援庁など関連省庁のトップが「国家航空安全指令センター」に招集される。メンバーのひとりが、証人席に着いたラウダ-バッハ大佐である。

 違憲判決により、安全指令センターはコッホに撃墜指令を出さない。にもかかわらず、コッホは確信を持って爆撃し、航空機はスタジアムから離れた畑地に墜落した。乗客乗員は全員死亡で、コッホは殺人で告発された。コッホが撃たなかったら、航空機はスタジアムに墜ち、大火災を引き起こした可能性が高い。本作では繰り返し<7万人-164人>が対比されるが、7万人については神のみぞ知る架空の数字だ。それでもコッホと弁護人は、「7万人を救った」と主張する。

 違憲と命令違反で有罪を主張する検察官は論理的かつ明快で、主導権を握ったかに見えた。大佐に「安全指令センターはなぜ、スタジアムに避難命令を出さなかったのか」と尋問したのがヤブ蛇で、空気が変わってくる。検察官は大佐から、センターに集まった面々の〝暗黙の了解〟を引き出した。即ち<コッホの撃墜への期待>である。

 リアルタイムで見ていたら、俺はこの時点で<無罪>に投票しただろう。検察官の尋問でコッホの危うさが明らかになったが、<軍人の正義>が狂気と背中合わせであることは理解している。コッホは<避難命令を出せば被害は最小限に食い止められる>という事実を、知らされていなかった。センターに雁首揃えた、航空安全法違憲判決に疑義を抱く権力中枢と、直接手を下したコッホは共犯と見做すことも可能だ。<殺人罪で裁かれるべきはコッホひとりではない>という屈曲した理由で、俺は無罪が相応しいと考えた。

 弁護人は「大きな悪と闘うためには小さな悪――本件に当てはめれば164の貴い命を犠牲にすること――も許容されるべき」と、内外の判例を示して主張する。「現在は戦時」と言葉を結んだ。俺が納得しなかった最終弁論によって、無罪が勢いを増したことは想像出来る。日本だけでなく、全世界で無罪が圧倒的な支持を得た。

 「憲法とはモラルを超えた最高法規」と主張した検察官の声は視聴者に響かず、「憲法を超える良心に従っても許される」という弁護人が支持された。これは危険な兆候かもしれない。世界は壊れ、狂い始めているのだろうか。
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「私の消滅」~書くという行為がもたらすカタルシス

2017-07-28 11:55:17 | 読書
 都議選で惜敗した漢人明子さんの選挙報告会(緑の党事務所)に参加する。毎日新聞のコラムに「異彩を放った小金井市」の見出しで取り上げられたように、市民派の底力は示せたが、都民ファースト台風に屈した。菅直人元首相が個人として告示3日前に支持を表明したのは、市民運動家としての〝初心に帰る〟意味もあったはずだ。

 かつて菅氏が率いた民進党が混乱している。俺が次期代表に期待するのは、社会民主主義者に〝生まれ変わった〟(はずの)前原誠司氏である。党大会(3月)で<格差と貧困の是正こそ最大の課題>と訴えた井手英策慶大教授の来賓挨拶は、ネットにアップされるや感動の渦を巻き起こした。その井手教授は前原氏のブレーンである。仮に前原氏と長妻昭氏が手を携え<公正と平等>の旗を掲げれば、支持率上昇のチャンスはある。

 中村文則の「私の消滅」(16年、文藝春秋)を読了した。2カ月ほど前に読み始めたが、気詰まりになって20㌻ほどで放り出し、再チャレンジする。<このページをめくれば、あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない>の書き出しに、容易ならざる気配が漂っている。

 <神は存在するのか? 悪とは? 罪とは? 裁きとは?>……。根源的なテーマを追求する小説を短いインターバルで発表する中村を、当ブログで頻繁に取り上げてきた。前作「あなたが消えた夜に」を<作者自身が最も投影された作品>と評したが、「私の消滅」では濃密な<中村ワールド>の闇が凝縮され、叫びや喘ぎが行間から洩れている。

 僕は冒頭、小塚亮太の手記を読み始める。書き出しは上記の通りだ。完成したジクソーパズルを床に叩きつけ、ピースとしての手記、資料、ファイル、対話、モノローグで再構築するのが中村の手法といえる。本作でも主観が交錯して僕と小塚が重なりながら距離を置き、時空を遡行しつつ順行して進行する。

 中村は<子供の頃、少年犯罪が報道されるたび、他人事に思えなかった>と語っていた。主人公たちは記憶に刻まれた罪の意識に囚われたまま成人する。小塚も葛藤から解放されるべく精神科医になり、患者として訪れたゆかりに心を揺さぶられる。小塚には殺意を抱き、結果として傷つけることになった妹がいた。ゆかりへの愛は、妹への代償行為ともいえる。

 凄惨な記憶に苛まれていたゆかりは小塚同様、〝あらかじめ失い、疎外された者〟いや〝あらかじめ奪われた者〟だった。作意的に二人を結びつけたのは精神科医の吉見だが、負の二乗は愛の形にそぐわない。ゆかりは小塚の元を去り、カフェ経営者の和久井と恋愛関係になる。中村の作品には支配的な悪魔的父性、宥和的な守護者的父性が対で登場するが、吉見は前者、和久井は後者といえる。

 宮崎勤についての分析、記憶創成と削除の療法に関する記述は、唐突に思えたがその実、物語の回転軸になっていた。中村はアメリカでミステリ-作家にカテゴライズされているが、本作も見方を意識の深淵に迫る謎解きだ、錯綜したストーリーに痕跡が示され、切り口によって景色は変わってくるが、俺は<哀しくて切ない純愛物語>と受け取った。

 <私とは、僕とは、人間とは、意識とは>……。読み進むうち、縦向きの迷路に閉じ込められたような感覚を抱く。本作に現れる特殊な装置とは無縁でも、私や僕は、どこまで自立しているのかわからなくなる。本作に覚えた焦燥は、管理社会への不安と怯えに連なっているはずだ。

 中村は血を吐き出すように小説を書いている。「大丈夫?」と声を掛けたくなるが、心配は要らない。<復讐の成就>と<私の消滅>という結末、いや<書くという行為>こそ中村にとってのカタルシスであり、安定剤なのだろう。8月に新作「R帝国」を発表し、「悪と仮面のルール」(10年)の映画化が決定した。初代〝日本のドストエフスキー〟高橋和巳は39歳でこの世を去ったが、〝2代目〟は深い闇を突き進み、9月に不惑を迎える。

 中村の趣味は野球観戦で、夕刻からはプロ野球に日々、見入っているという。贔屓チームの成績で明暗に差異が生じるなんて、常に暗い小説を読む限りあり得ない。<暗くて孤独>というパブリックイメージ形成には、中村本人も寄与している。実像は真逆で、仲間とビール片手に球場でワイワイ騒いでいたら、それはそれでミステリーだ。
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「彼女の人生は間違いじゃない」~ヒロインの透明な存在感

2017-07-24 22:09:58 | 映画、ドラマ
 ケン・ローチ監督、ツツ大主教も中止を要請したレディオヘッドのイスラエル公演は先日(19日)、予定通り開催された。一方で、「アーティスト・フォー・パレスチナ」の主要メンバー、ロジャー・ウォーターズの北米公演に中止の圧力がかかっている。

 背景にあるのは議会で審議中の<イスラエル批判禁止法=イスラエルに対するボイコット・投資引き揚げ・制裁措置に刑事罰を科す>で、ウォーターズの言動はボイコットに抵触する。パレスチナへのジェノサイドを看過する独政府を批判したギュンター・グラス、ガザ無差別空爆に抗議したエディ・ヴェダー(パール・ジャム)も組織的な意趣返しに晒された。

 「対パレスチナ政策を現地で批判した瞬間、狂人扱いされ、目の前に鉄の壁が降りてきた」(趣旨)とウォーターズは語っている。<ガザに投下された爆弾が命中するたび、観覧席に集まった人たちは乾杯していた>と、アウシュビッツのナチス将校を彷彿させる光景を報じたリポーターは翌日、CNNを解雇された。議会、興行界、メディアを牛耳る隠然たる力に、レディオヘッドは怯えたのだろうか。

 新宿武蔵野館で先日、廣木隆一が自身の初小説を映像化した「彼女の人生は間違いじゃない」を見た。<福島の今>を直視した本作は15日に公開されたばかりなので、ネタバレは最小限にとどめたい。自分のことをマトモと考える人(特に女性)は「彼女の人生は間違っている」と感じるかもしれない。

 東日本大震災で被災したみゆき(瀧内公美)は市役所に勤務する傍ら、週末は夜行バスで上京し、渋谷でデリヘル嬢をしている。バスの窓から見える景色は、みゆきの心象風景と重なっているはずだ。設定に注目したのか、多くのメディアで取り上げられている。冒頭の除染のシーン、廃墟と化した街並みなど、癒えぬ傷がスクリーンに映し出される。

 津波で母を亡くしたみゆきは、仮設住宅で父(光石研)と暮らしている。妻と仕事(農業)を奪われた父は、補償金をパチンコにつぎ込む日々だ。もうひとりの主人公といえるのが市役所の同僚、新田(柄本時生)だ。震災と原発事故で家族は離れ離れになり、幼い弟と暮らしている。

 新田の心境は同性でもあり理解出来た。不器用な新田を変えたのは、馴染みのスナックでバイトしている東京在住の女子大生、沙緒里(蓮佛美沙子)である。<福島の今>を卒論のテーマに据えた沙緒里の積極的な生き方に刺激を受け、新田も自分の殻を打ち破る。海辺で見せた吹っ切れた笑みが印象的だった。

 みゆきの思いに迫るのは難しかった。俺は風俗に偏見はないし、大体の仕組みは把握しているつもりでいる。風俗や売春を体験した女性と話したこともある。家庭崩壊やDV、決定的な貧困などステレオタイプだったことは否めないが、みゆきの場合、収まりのいい理由を見つけられなかった。

 本作で際立っていたのは、瀧内公美の透明な存在感だ。アンニュイで影があり、微妙なしぐさや表情でみゆきの心情を表現していた。唯一、感情を爆発させたのは面接のシーン(回想)だ。マネジャー兼ドライバーの三浦(高良健吾)に、いかにデリヘルで働きたいか切実に訴え、採用される。みゆきが抱える虚無の根源は、生き残ったことの罪の意識、崩壊感覚といった奥深い闇かもしれない。

 ラストに近づくにつれ、父娘に光が射してくる。三浦の公私における再スタートに感銘を覚えたみゆきはエンドマークの後、生き方を変えるかもしれない。父も心の中で母と別れを告げることで、次なるページに踏み出していく。彼女の人生は、そして父の人生も間違いじゃない……。観賞して数日経ち、被災地とデリヘルを無理に結び着けようとして踏み入れた迷路から、ようやく解放された。

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「円朝芝居噺 夫婦幽霊」~魔物が神様を俎上に載せた

2017-07-20 19:25:25 | 読書
 チャンネルサーフィンしていたら、JSPORTSで懐かしいレスラーと再会する。ジェフ・ハーディーがWWEに復帰していた。抜群のスピードとセンス、危険を厭わぬスタイルで頂点を極めたジェフだが、実生活もデンジャラスで、WWEから2度リリースされている。アティテュード時代を牽引した〝永遠の不良少年〟も39歳。成熟と真逆なエクスリームを表現出来るだろうか。

 先週末、開催60周年の節目になった「盛夏吉例 圓朝祭」初日(銀座ブロッサム)に足を運んだ。三遊亭圓朝は落語の神様で、幾つもの創作落語を発表した。圓朝が創作に向かったのは嫉妬が理由である。技術の高さを畏れた先輩がグルになって妨害し、圓朝が寄席で古典を演じられないよう策を弄した。その結果、圓朝の才能が開花したのだ。

 ホール落語を席巻する春風亭一之輔「鮑のし」→柳家三三「五目講釈」→桃月庵白酒「首ったけ」と好テンポで続いた後は、柳亭市馬「百川」→仲入り→林家木久扇「彦六伝」→五街道雲助「豊志賀」とベテラン勢が味のある芸を披露した。他の5人はお馴染みだが、木久扇の高座で見るのは2度目だった。長い枕と思っていたら、師匠の林家彦六の思い出が演目通り本題で、人情味とユーモアに溢れた創作落語に聞き惚れた。

 圓朝は落語家の枠を超え、二葉亭四迷らと言文一致運動を担った〝現代日本語の祖〟と評されている。四迷が「浮雲」を著す際、圓朝の落語の口演筆記を参考にした。雲助が演じた「豊志賀」は「真景累ケ淵」の一部である。圓朝は海外文学にも造詣が深く、モーパッサンの「親殺し」をベースに「死神」を作った。

 明治期のカルチャー全般に多大な影響を与えた圓朝に、辻原登が着目した。圓朝祭の予習として「円朝芝居噺 夫婦幽霊」(07年、講談社)を読んだ。「圓朝」の表記は小説に準じ、以下は「円朝」に統一する。新たに発見された円朝の口演筆記を書き起こした幻の噺を、訳者が発表するという設定になっている。ミステリーの要素が濃い物語は、円朝の高座(全5回)とともに進行する。

 安政の大地震と、その直前に起きた御金蔵破り(架空)がシンクロしている。江戸城内で4000両が賊に奪われた事件の真相に、若き日の円朝、幼馴染みの佐久間長敬、3代目中村仲蔵(当時は鶴蔵)が迫っていく。佐久間は俊英の誉れ高き与力で、復興に尽力するだけでなく、地震の詳細を記録していた。仲蔵も実在の人物で、高島易断の創始者もストーリーに組み込まれている。

 当ブログでは、虚実のあわいに空中楼閣を構築する辻原を〝魔物〟と評してきた。霊界(熊野)で生をうけた辻原は、南米のマジックリアリズムへの日本からの回答といっていい。世界を含め当代一のメタフィクションの使い手でもあるが、過小評価の嫌いがある。絶版になっている小説が多く、本作もアマゾンで入手した。

 「円朝芝居噺 夫婦幽霊」は魔物が神様を俎上に載せた小説だ。落語家を主人公に据えた「遊動木円木」(未読)という作品があるように、辻原が落語に造詣が深いことは間違いない。本作は〝読む落語〟で、当時の江戸の風情、風俗、庶民の暮らしが生き生きと描かれている。談志の名言「落語は人間の業の肯定」を富蔵とおりょう、藤十郎と百合、菊治とおせきの3組の夫婦が体現していた。

 上記の四迷だけでなく、国木田独歩、芥川龍之介までストーリーと文体に織り込まれていた。冒頭に登場した〝実〟の辻原が、訳者として〝虚〟を膨らませ、最後は息子との関係を軸に円朝の〝実〟に迫る。細工は隆々の本作を、作者は読者以上に楽しんでいるに相違ない。
 
 圓朝祭とは別に圓朝まつりが8月、谷中の全生庵で開催されているという。機会があれば足を運んでみたい。

 
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犯罪ドラマの金字塔「64(ロクヨン)」を堪能する

2017-07-16 22:44:01 | 映画、ドラマ
 <秘密保護法→戦争法→共謀罪>の流れでも高止まりしていた内閣支持率は、国家を私物化する首相の魂胆が隠せなくなるや急激に低下した。<自由の制限>が安倍離れに繋がらなかったことに、俺は危惧を抱いている。政権に距離を置く朝日、毎日両紙の世論調査でさえ、共謀罪賛成は反対を上回っていた。

 当ブログに繰り返し記してきたが、俺が大学に入学した1970年代後半、既に<自由>は蝕まれていた。警察(公安)の恐ろしさを身に染みて知っている旧友のひとりは、「刑事ドラマは絶対見ない」と宣言していたほどだ。彼と十数年ぶりに再会したのは意外な場所だった。「相棒劇場版Ⅱ」(2010年公開)の上映館で、奥さんと一緒だった。

 数日後、飯を食った時、「カミさんが好きで見るようになった」とバツが悪そうな表情で話していた。今も反原発など様々な活動に関わる彼は、「相棒」を含めテレビ朝日系の刑事ドラマの問題点――国民監視への抵抗感を緩和することに貢献――を重々承知している。でも、何より大切なのは夫婦の和なのだ。

 〝ミステリーは映像化作品で楽しむ〟というのが自分に課したルールだ。〝松本清張の後継者〟の横山秀夫だが、原作は「第三の時効」ほか短編集を2冊読んだだけだ。最高傑作と評される「64(ロクヨン)」のドラマ版(15年、NHK制作)を、AXNミステリーでの再放送で観賞した。同時期、映画版もWOWOWでオンエアされたが、両方見た人に薦められてドラマを選んだ。

 全5回(4時間弱)を通して内容を把握した後、少し間を置いて再度見る。俳優たちが完璧に理解した上で演じていたことが窺えた。NHKらしい豪華なキャスティングに感嘆するしかない。還暦を超えて〝感動症〟が昂じた俺の言葉に説得力はないが、個人的には<犯罪ドラマ史上ベストワン>の評価だ。

 いずれ原作もしくは映画やドラマに触れる方も多いと思うので、ストーリーの紹介は最低限にとどめ、アウトラインと感想を記したい。7日しかなかった昭和64年、D県で誘拐事件が起き、少女が遺体となって発見される。未解決のまま14年が経ち、捜査を担当していた三上(ピエール瀧)は広報官として記者クラブに対応している。

 誘拐事件が起きた1989年は固定、模倣犯?が亡霊のように甦った14年後は固定と携帯、そして携帯が優先されるようになった現在……。十数年のインターバルを経て、コミュニケーションの形は大きく変化した。本作では固定にかかってきた無言電話が鍵を握っている。

 三者三様の娘への愛が物語を進める歯車になっている。三上と妻美那子(木村佳乃)は家出した娘の身を案じている。被害者の父である雨宮(段田安則)は14年後の今も、事件の傷は癒えていない。そして、もう一人の男もまた、娘への愛に駆られて行動する。

 森友&加計問題でも明らかになった<官の組織力学>を体現するのは、三上の同期の二渡警務官(吉田栄作)だ。二渡は横山作品でお馴染みのキャラで、TBS制作のドラマでは上川隆也と仲村トオルが人間臭く演じていた。隠蔽を試み、右顧左眄して、権謀術数が張り巡らされる警察の姿が真実に近いなら、共謀罪を正しく運用するなんて不可能だと思う。

 記者たちは県警に媚びることなく。厳しい抗議も厭わない。最も感銘を覚えたのは、轢き逃げされた幸薄き男の人生を、三上が記者たちに提示するシーンだ。三上によって、広報課と記者クラブの軋轢がいったん解消する。上毛新聞で12年、記者を経験した作者の経験が、この辺りに生きていた。
 
 警察庁と県警、そして新聞社本社と支社……。おいしいところを持っていく中央への反感を、三上と二渡、そして記者たちも共有している。警察だけでなく、全ての組織に敷衍できる病理が描かれていた。人間力をもって壁にぶち当たる三上には、信頼出来る元上司がいた。俯瞰の目で冷静に事態を見据える松岡参事官(柴田恭兵)である。

 救いを覚えるラストだったが、俺の想像と異なっているかもしれない。重厚で奥行きのある構図の上に、鮮やかな謎解きが成立している。苦闘と挫折の末、完成させた本作の行間に、横山の血と涙が滲んでいるはずだ。

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「海炭市叙景」を携え函館を散策

2017-07-12 20:52:47 | カルチャー
 先週末、函館を訪れた。避暑を兼ねるつもりが、日中は30度前後まで上がり、坂の上り下りに汗だくになる。京都生まれの俺が函館に魅せられたのは、44年前の修学旅行だった。市電は走っているし、高い建物はなく、街並みは整然としている。京都に似ていると感じた。

 京都と風味は異なるが、函館も歴史の糸で紡がれている。元町の教会群や海沿いの赤レンガ倉庫に、開放的な文化の薫りを覚える。ゆかりのある石川啄木、井上光晴に不遇と反逆が匂うのは、街の風土と無関係ではないだろう。前回訪れたのは2005年だが、この間、俺の心に2人の生き様が刻まれた。不遇の佐藤泰志、そして反逆の唐牛健太郎だ。

 佐藤泰志の「海炭市叙景」を携えて函館を散策する。1991年、41歳で自殺した佐藤は芥川賞に5度ノミネートされながら受賞を逃した。「海炭市叙景」は死後、文芸誌に発表された18の短編をまとめた事実上の遺作である。「海炭市叙景」、「そこのみにて光輝く」と映画は2本見たが、小説を読むのは初めてだった。

 街に着いた日、手にした函館新聞の1面に「函館の人口、3159人減」の見出しが躍っていた。人口は26万台だから、減少率はかなり大きい。「海炭市叙景」は1980年代後半の函館が描かれているが、〝寂れ〟は今も変わらないのだろう。本作の軸は「第1章 物語がはじまった崖」の「まだ若い廃墟」で、炭鉱や造船所の閉鎖で仕事を失ったどん底の兄妹が描かれていた。

 函館山の展望台に向かうロープウエーのチケット売り場で、担当の女性に「往復ですね」と聞かれ、「片道だったら危ない。冬じゃないけれど」と返すと、彼女は頷いた。原作か映画に接していたのだろう。日没1時間前から陣取り、街が煌めいていく光景を満喫したが、頭の隅に兄妹の姿は消えなかった。翌朝、立待岬を訪ねたが、兄の遺体が収容されたのはあの辺りだろうかと、崖の方を眺めてしまった。

 作品を通じての印象は、起承転結の〝結〟が読者に委ねられていることだ。物語は完結しないし、登場人物が他の作品にひっそり現れることもある。死の影を感じる作品が多く、登場人物は憤懣と諦念を滲ませている。首都(東京)への疎隔感、観光客への忌避感は作者の心象風景の反映だろう。

 外国人墓地には「ここにある半島」が重なり、路面電車に乗るたび「週末」のベテラン運転手を思い出す。ギャル風の運転手に遭遇し少し驚いた。函館競馬場では「夢見る力」の主人公に思いを馳せた。破滅寸前の彼が買った馬券は果たして的中したのだろうか。ちなみに函館行きに合せるかのようにデビューしたPOG指名馬カレンシリエージョは、単勝1・5倍の圧倒的1番人気で2着に惜敗した。

 昨年秋、佐野眞一の「唐牛伝~敗者の戦後漂流」を読んで、60年安保闘争を主導した唐牛健太郎(全学連委員長)が函館出身であることを知った。映画スター並みのルックスと激烈なアジテーションで人々を魅了した唐牛は、西部邁によると文学青年だった。唐牛の反逆と繊細のルーツに触れようと、生まれ育った湯の川温泉郷を訪ねたが、ホテルが林立する街に興趣を覚えなかった。

 次に函館に行く日は来るだろうか。人生の電池がいつ切れても不思議はないから、今回が最後になる可能性は高い。計5回、訪れるたびに異なった貌を見せてくれた函館に感謝したい。

 帰京すると、ニュースは茶番を報じていた。私利私欲で動く悪い殿様とその取り巻きが、抗議を封殺しようとしている。「水戸黄門」さながらの単純な構図で、人々の怒りは東京から全国に伝播するだろう。もし、俺が渦中の官僚のひとりだったら、洗いざらいぶちまけたかもしれない……。いや、標準レベルの矜持と良心を持ち合わせているからこそ、俺もまたエリートとは無縁の不遇の人なのだ。
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「ありがとう、トニ・エルドマン」はキュアーファンへの贈り物?

2017-07-08 07:45:10 | 戯れ言
 記録的な集中豪雨が福岡、大分両県に深甚な被害をもたらした。亡くなった方の冥福を祈る同時に、被災地の一日も早い復興を待ちたい。自然の猛威の前になす術がないが、嘉田由紀子氏(前滋賀県知事)は3年前、仕事先の夕刊紙のインタビューで、<水害は人災(社会現象)の側面もある>と指摘する。

 欧米では「ハザードマップ」を基に水害保険を設定し、不動産取引を行っているが、日本では地価下落に繋がることを懸念する地主層の意を受け、自民党は導入に消極的だった。嘉田氏は人命軽視の防災政策を取る歴代政権を批判していた。

 終活の一環としてCDを整理している。聴かなくなったアルバムはブックオフにまとめて売るつもりだ。「A」から始めて、ようやく「C」に辿り着いたが。キュアーの「ディスインテグレーション」(89年)に、ロバート・スミスの才能を再認識する。

 新宿武蔵野館で「ありがとう、トニ・エルドマン」(16年、マーレン・アデ監督)を見た。ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)とイネス(サンドラ・ヒュラー)の父娘の物語で、ジャック・ニコルソンが引退を撤回し、ハリウッドでのリメーク版でヴィンフリートを演じるという。

 世界中で喝采を浴びたが、日本人向きではないかもしれない。長尺(160分超)でもあり、途中で退席する人もいた。俺が作品に入り込めたのには理由がある。ヴィンフリートが別キャラのトニ・エルドマンに変身する際の白塗りのメークと黒っぽい服装が、ロバート・スミスを彷彿させたこと。さらにサンドラ・ヒュラーが好みのタイプだったからだ。

 実のヴィンフリートは、リタイアした音楽教師といったところか。イネスはコンサルタンティング会社の幹部候補で、ブカレストに赴任し、石油関連の業務を担当している。高級ホテルで暮らすイネスの元に突如、ヴィンフリートが現れた。

 忙しい娘に邪険にされる父親……。これが予告編を見て予想した展開だったが、本編ではイネスの気遣いを感じた。父を交渉相手に紹介するし、お歴々が集うパーティーにも連れていく。イネスはヴィンフリートの変人ぶりだけでなく、知性をも知り尽くしていたのだろう。「おまえが心配になった」というヴィンフリートの直感は当たっていた。葛藤を抱えたイネスの憂さ晴らしは、滑稽なセックス、クラブ通い、そして薬物だった。

 去ったはずのヴィンフリートが再びイネスの前に登場する。虚のトニ・エルドマンとして……。口から出任せでサービス精神旺盛のトニに、イネスは辟易するが、知人――とりわけ女性たち――はユーモアと謎めいた雰囲気に魅了される。

 森友、加計問題で明らかになったのはエリートたちの不自由さだが、イネスも例外ではない。プレゼンテーションでもっともらしい理屈を並べても、仕事の中身はコストカット、人員整理に過ぎない。父、いやトニと訪ねた油田で、グローバル企業の冷酷な論理を目の当たりにする。鋭く、かつ柔らかく場を繕うトニの姿に、イネスは自身の無力さを悟る。

 ささやかな集いに父娘は闖入し、イネスはトニの伴奏でホイットニー・ヒューストンのヒット曲「グレイテスト・ラブ・オール」を熱唱した。主催するパーティーは想定外の展開でオールヌード限定になり、イネスは率先してスレンダーなボディーを晒す。

 そこにクケリ(幸せを呼ぶとされるブルガリアの精霊)の着ぐるみを纏った男が登場する。正体はもちろんトニで、父娘のわだかまりも消えていく。トニは媒体として、変化、進化、深化をもたらす希有な存在で、イネスにも自身を解き放つチャンスを与えたのだ。

 ラストシーンは祖母の葬儀で。遺品の帽子を被ったイネスのストップモーションで映画は終わる。エンディングテーマは上記した「ディスインテグレーション」のオープニング曲「プレインソング」だった。歌詞に出てくる<世界の端で生きているからこそ笑うことが出来る私>、意訳すれば<境界から俯瞰の目で眺めているから世界を理解出来る私>となるが、まさにトニに他ならない。本作は監督からのキュアーファンへの贈り物のように感じた。

 これから函館に向かう。旅の供は佐藤泰志の遺作「海砂市叙景」だ。小説を辿り、映画を思い出しながら、函館の街を散策したい。
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AIは理性の海に~「人工知能~天使か悪魔か」PART2の衝撃

2017-07-05 13:06:46 | 独り言
 都議選小金井選挙区で漢人明子さんが落選した。小池知事に欠けている弱者の視点、環境重視を都議会で提示することを期待していただけに残念でならない。共産党が野党統一から離脱して独自候補を立てたことは計算内だったが、都民ファーストに吹いた猛風は想定外だった。

 メディアは<自民VS都民ファースト>の構図で語り、漢人さんの当選などあり得ないと決めつけていた。可能性に気付きながらの無視は、意識的捏造といえぬこともない。早い時期から〝三つどもえ〟と予測した東京新聞以外のメディアにとって、地殻変動は〝不都合な真実〟なのだ。

 都議選だけでなく、7月2日は竜王戦トーナメント、競馬に麻雀(録画)とテレビ桟敷で過ごす一日だった。先月オンエアされたNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」を切り口に雑感を記したい。昨年に続きホストを務めた羽生善治3冠はこの1年を「隔世の感がある」と語っていた。

 メーンは佐藤天彦名人とPONANZA(最強AI)による電王戦である。5万局の棋譜がインプットされたPONANZAの内部対局は700万回に及ぶ。独創的な指し手を繰り出すAIについて佐藤は、<人間による対局が銀河系なら、AIは広大な宇宙。将棋の神様と一瞬すれ違った気がした>と述懐していた。

 〝怪物の生みの親〟山本一成氏は「怖いというか困っている。進化の理由がわからなくなってきた」と不安げに話す。羽生は「人工知能の思考がブラックボックスになっている」と語っていた。ブラックボックス化したAIは、凄まじい勢いで社会進出を果たしている。

 名古屋のタクシー会社はNTTドコモが開発したAIナビを導入し、売り上げアップを実現する。日本の病院やシンガポールのバス会社は人事考課に、カリフォルニアの裁判所では再犯可能性の判断をAIに委ねている。東京市場の取引の80%はAIの「株価予測システム」に基づいているという。マーケットは人間の欲望が対峙する場ではなく、AIの競技会といった趣だ。

 韓国ではAIの政治利用を試みている。安倍首相同様、歴代大統領は政治の私物化で信頼を失ってきた。プロジェクトチームは世界的権威に依頼し、感情や私欲に左右されない<AI政治家>育成を図っているのだ。AI政治家と国民の意見交換によって民主主義を甦らせるという壮大なプランで、AIは理性の海への航海を始めている。

 7月2日に当てはめて考えてみる。まずは政治から。AIは豊洲移転をどう判断するだろう。脱原発、憲法改正などの重要な課題について、明快な答えを提示するだろうか。<世界はグローバル企業や兵器産業の利害によって動いている>などと書くと〝陰謀史観〟と嗤われそうだが、資本や武器の流れをつぶさに分析すれば、知性的かつ理性的な〝正解〟が導き出されるはずだ。

 自民党惨敗を正確に予測したメディアは皆無だった。ちなみに共同通信の小金井選挙区の直前予想は<通常の投票率なら漢人勝利>だったが、高い投票率が読み違えの最大の理由だろう。既に大学と提携しているメディアだが、AI導入も検討されているはずだ。

 藤井聡大四段が竜王戦トーナメントで佐々木勇気五段に敗れ、30連勝はならなかった。待ち受ける渡辺明竜王の<澤田真吾六段、増田康宏五段、佐々木勇気五段のいずれかが連勝を止める>との予言は現実になる。<この3人に連勝できる棋士は他にいるだろうか>と付け加えていた辺り、藤井挑戦を覚悟していた節がある。

 上記の山本氏とAIを熟知する千田翔太六段は、藤井とPONANZAの指し手の高い一致率を挙げていた。AIによる棋士のレーティングで、藤井は羽生に次ぐ史上2位というデータもある。羽生は現在、若手の挑戦を次々に受けているが、タイトル戦で藤井と対局する日が迫っている。

 25%のテラ銭を予め納めている競馬など〝やらない方がいい〟と、AIは理性的に考えるだろう。POGを楽しむ俺は、AIによる各馬の資質分析に期待している。血統、気性、体形、調教フォームを総合的に把握したAIが、マイネルの岡田繁幸総帥と相馬眼を競うなんて、想像するだけでワクワクする。

 チェス、将棋、囲碁はAIの軍門に下ったが、麻雀は大丈夫と確信している。30日深夜にオンエアされた「われめDEでポン」を録画で視聴し、意を強くした。プロを含め最強の声もある萩原聖人が最下位という意外な結末で、加賀まりこが奇跡的な捲りでたかし(トレンディエンジェル)を差し切るドラマチックな展開だった。

 インフレルールの「われポン」ゆえの結末ともいえるが、通常ルールでAIがトップ雀士3人と卓を囲んでも勝つのは難しい。美学と矜持を重視する雀士はセオリーに縛られない。いや、麻雀にはセオリーなどそもそも存在しないのだ。AIが<運・気・流れ>を掴んで麻雀界を制圧した時、番組タイトル通り、<天使か悪魔>になる。
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「本を読むひと」が問う恩寵の意味

2017-07-01 20:14:27 | 読書
 武蔵小金井駅周辺で今夕、漢人あきこ候補の街宣フィナーレに参加した。残念でならないのは大半のメディアが、市民運動が東京で最も定着している小金井をも、<自民VS都民ファースト>の図式で捉えていることだ。勝てると踏んだ自民党が小泉進次郎議員、安倍首相、丸川珠代五輪相を終盤に投入したことで、小金井選挙区への注目度が一気にアップした。

 漢人さんは都議選唯一の市民派候補だが、〝永田町の地図〟で物事を測るメディアは<胎動>を好まない。菅直人元首相や井筒高雄氏は<東京、そして日本の構造に風穴をあけるためにも漢人さんに一票を>と熱く訴えていた。じんタらムータの軽やかな演奏もフィナーレに華を添えていた。

 さて、本題……。「ジプシー」を「ロマ」に言い換えるのがメディアのルールだが、本稿では紹介する小説の表現に即し、「ジプシー」で通すことにする。トニー・ガトリフやエミール・クスリトリッツァの映画に登場するジプシーだが、東欧では放浪者、スペインでは定住した文化の伝承者というイメージを抱いている。

 今年に入ってイマジカBS、AXNミステリーで「シャーロック・ホームズの冒険」(グラナダTV制作)の再放送を見たが、「まだらの紐」では、ロマと吹き替え直していた。英国においてはロック、とりわけジェスロ・タルとレッド・ツェッペリンにジプシーの影響を感じている。

 フランスにおけるジプシーをテーマに据えた「本を読むひと」(アリス・フェルネ著、新潮社)を読了する。発表後20年、フランスでロングセラーを続けている小説がようやく邦訳された。翻訳者(デュランテクスト冽子)の的を射た「あとがき」も参考になった。

 時代は1990年前後(推定)、パリ郊外にジプシーが住み着いていた。アンジェリーヌと息子5人、4人の嫁と8人の孫たちだ。厳しい生活で年齢(50代後半)より老けて見えるアンジェリーヌが家長として仕切っている。もうひとりの主人公は30代と思しき女性エステールで、邦題<本を読むひと>に該当する図書館員だ。毎週水曜日、移動図書館員としてアンジェリーヌ一家を訪問する。

 アンジェリーヌはジプシー、エステールはユダヤ人……。ナチスの弾圧に晒された民族としての記憶が、両者を紡いでいた。原題は「恩寵と貧困」で、本作の背景には「貧困と差別」だ。人権に理解のある元校長の〝お目こぼし〟で一家は〝不法占拠〟していたが、善意の地主が死ぬや状況は一変する。

 「鶏が先か、卵が先か」の因果律ではないが、差別にはA<放浪し、主要な生産様式から排除されているため貧困に陥る>、B<臭い、汚い、怖いという通念が行き渡っているから、まともな仕事に就けない>の要素が絡み合っている。不変に思える構造の結果、アンジェリーヌ一家はエステールを<外人>と呼び、社会は一家を<外人>と見做す。

 〝外人〟エステールは物語を読むことで、子供たちの心を掴み、感性と知性を育んでいく。輪は徐々に広がり、アンジェリーヌや母親、そして男たちも遠巻きに耳を傾けるようになる。本を読むことで子供たちに向学心が芽生え、親たちも教育の必要性に気付く。この流れが好転すれば、ジプシーたちに世界が見えてくる。フランス社会の特徴は、自己主張する者の声に耳を傾けること。アンジェリーヌ一家は遠からず解き放たれるだろう。

 ここで原題にある<恩寵>の意味を考えてみたい。<恩寵>とはキリスト教徒やユダヤ教徒にとって、神の恵みと慈しみを意味する。本作に置き換えると、扉を開いたエステール≒神に思えるが、別の構図が浮かんでくる。アンジェリーヌ一家はエステールの目線で生き生き描写される。では、エステールは何者なのか。ユダヤ人の図書館員、本人の弁によれば社会的地位の高い夫、息子たちと幸せな家庭を築いているらしい。でも、リアリティーを感じない。

 エピローグに答えが示されている。移動を強いられた一家とエステールの絆は切れなかった。家庭教師として一家を訪ねるようになった彼女の友人は、エステールの家族について何も知らない。俺は想像、いや妄想する。孤独なエステールにとって、アンジェリーヌ一家は恩寵だったのかもしれないと……。

 ジプシーは異教徒と誤解していたが、アンジェリーヌ一家は敬虔なクリスチャンだった。保険証のない一家だが、病院が無料で受け入れたのは、日米以外の先進国の自然な姿だろう。アンジェリーヌが体現するジプシーの誇りは<縛られず、屈せず、自由に生きる>……。マッチョイズムが蔓延する一家だが、浮気性で怠け者の男どもに、俺はなぜか親近感を覚えてしまった。

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