「報道ステーション」は先日、北朝鮮国境警備隊の取り調べの映像をオンエアした。人権意識の高い国、例えば英国であんな蛮行が許されるはずはない……。最近までそんな風に考えていたが、事実は全く違っていた。
1972年1月30日、北アイルランドで英国軍が無防備のデモ隊に発砲し、13人の死者が出た。「血の日曜日」事件を起点に、20年間で3000を超える命が奪われる。テロが報じられるたび、<民主主義の範>たる国がなぜ事態を収拾できないのか、不思議でならなかった。長年の疑問を解消するため、「北アイルランド紛争の歴史」(堀越智著)を購入した。読了後、曖昧に描いていた<IRA=テロリスト、英国=仲介者>の構図が誤りだったことに気付いた。
憲法制定(1937年)と共和国法(48年)でアイルランドは独立を勝ち取る。その一方で、プロテスタントが多数を占めるアルスター6州は、北アイルランドとして英国に残った。アルスターでは20世紀初頭から、英国政府公認の下、王立警察とスペシャルズ(私兵組織)がカトリックを徹底的に弾圧していた。反撃したIRAとの間で市街戦が起き、20年7月からの2年間で257人のカトリック、157人のプロテスタントの命が奪われる。この間、カトリック差別を固定化する法制度が整えられていった。
北アイルランドでは60年代、「差別撤廃」「市民権獲得」を掲げた公民権運動が広がった。プロテスタントや労働組合も結集し、世界的な支持を得たが、英国は強硬姿勢を貫いた。公民権活動家へのテロを容認し、運動を非合法に追い込んで「血の日曜日」に至る。休眠状態だったIRAも10年ぶりに再軍備した。英国は72年3月、北アイルランドを直接統治下に置いたが、アムネスティから数回にわたり告発されている。英国軍による一般市民殺害を指摘され、カトリックへの非人道的な取り調べは90年代、「国連拷問禁止委員会」に提訴された。英国に北朝鮮を笑う資格はなかったのだ。
日本人が英愛の歴史を理解するため参考になるのは、朝鮮半島との関係だ。日韓併合(1910年)後、日本は創氏改名、強制連行を断行する。同じアジア民族ゆえ反発も強く、35年(前史を含めれば半世紀)で培われた「恨」(はん)の意識が、今日の両国関係にも影を落としている。翻って英愛間には、300年以上にわたる<支配―被支配>の憎悪の歴史がある。堀越氏はシニード・オコナーの歌詞を引用し、一つの史実を提示している。19世紀半ばの飢饉で餓死者が続出したのは、英国がアイルランドから農作物を徴用した結果であるという。
英国への怨念はIRAの闘争方針にも表れていた。<特攻隊⇒日本赤軍>を経てアラブ社会に根付いた自爆テロも強烈だが、IRAは80年代、ハンストで闘った。下院議員を含め10人が餓死するに至り、対峙するUDA(プロテスタント軍事組織)まで心情的支援を送ったが、「鉄の女」サッチャーが折れることはなかった。ちなみにUDAは、法王暗殺計画を練っていたという。
和平の動きは80年後半に具体化する。英国がIRAを交渉相手と認め、プロテスタント軍事組織の取り締まりを始めたことが大きかった。94年に停戦合意が成立し、北アイルランド議会は98年に再開された。通史を学んで印象的だったのは、政治的軋轢や民族対立が、宗教戦争に収斂する過程だった。拝金主義がはびこる国に生きる者として、信じることの意味を考えさせられた。
次回はアイルランド系であり、スミス時代から公然とIRAを支持していたモリッシーについて書くことにする。