酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

からっぽの世界~空洞化が進行した06年

2006-12-30 13:38:20 | 戯れ言
 ジャックスの「からっぽの世界」は、ニートの寒々とした心情を歌った予言的名曲だと思う。発表から40年、耐震偽装が象徴的に示したように、日本は<からっぽの世界>になってしまった。

 <からっぽの世界>で風船を膨らませた堀江氏と村上氏は、<虚業家>として断罪された。彼らと対置された<額に汗して働く庶民>の財布は、国家的いじめで<からっぽ>になりつつある。ライブドアも村上ファンドも捜査は入り口で終わり、先にある<ブラックホール>に司直のメスが及ぶことはなかった。

 憲法9条をめぐる論議の多くは<からっぽ>だった。70年前後、「日本は平和ではない」と考えた若者たちは、ベトナム戦争に加担する日本政府や軍需産業を糾弾の対象とした。世紀を超えても図式は変わらないのに、<日本の平和を守ろう⇒平和憲法を守ろう>という、矮小化された共産党的論調が主流になっている。<我々の手は既に世界中の人々の血で濡れている>という真実は、憲法論議からすり抜けている。

 教育基本法改正を主張した保守派に、どれほどの<実>があるのだろう。提唱者の中曽根元首相は「アメリカからの輸入品を買って文化的な生活を」と主張した御仁で、「どうして塀の内(刑務所)に落ちないのか」と田中元首相をあきれさせてもいた。中曽根氏だけでなく、文化や道徳を語る資格に欠ける政治家が多い。黒い腹から吐き出される<からっぽの言葉>に躍らされる教育現場に同情を禁じえない。

 やらせタウンミーティングに参画した官僚たち、日銀福井総裁、本間前税調会長、逮捕された知事たち、W杯で煽りに終始したメディア……。勝ち組の内実は<からっぽ>であることが露呈した一年だった。父性や母性が失われ、<からっぽの家庭>では無残な事件が相次いだ。至るところで空洞化が進行している。

 勃興したナショナリズムの「精華」とされるのが、加藤紘一邸放火だった。犯行を称揚する声も右翼にあるが、鈴木邦男氏(一水会代表)は「月刊現代」誌上、言論の闘いこそ最重要と警鐘を鳴らし、「左翼よ、しっかりしろ」と敵に塩を送っていた。現在のナショナリズムは、田中正造の土着主義、北一輝の汎アジア主義、三島由紀夫の伝統への帰依とは無縁で、<排外主義・米国隷属・匿名性>を3本柱にしている。いわば<からっぽのナショナリズム>は、政治状況によって衰退する可能性もある。安倍首相が靖国参拝を控えればトーンダウンするだろうし、民主党親中派が米国次期大統領に就任すれば、日中友好が国是になるからだ。

 偉そうなことを書いたが、俺もまた<からっぽの世界>で底深く沈んでいる。アウトプットに徹した一年、エネルギーも<から>になってしまった。来年は栄養補給に努めることにする。

 この一年、世迷言に付き合ってくださった皆さん、よいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いします。
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'06スポーツ回顧

2006-12-27 14:29:07 | スポーツ
 夜から朝にかけての仕事が3日続き、ヘロヘロの状態だ。中2日ゆえ更新せねばと思い、書き殴れるテーマを選んだ。「'06スポーツ回顧」である。

 まずはベストマッチから。NCAA王座決定戦になったローズボウルで、テキサス大が常勝USCを破った。「ダイ・ハード」や「スピード」並みの緊迫感に満ちており、終了直前の逆転に血が噴き出るようなカタルシスを覚えた。「主演男優」のQBヴィンス・ヤングは、タイタンズのスターターとして天性の勝負強さを発揮している。来季以降、注目度はさらに高まるはずだ。

 分野別はサッカーから。バルセロナのファンタジーやチェルシーの躍動感に痺れたファンは、W杯を余興と感じたに相違ない。クラブで超絶パフォーマンスを演じた選手たちも、代表チームでは<ワン・オブ・ゼム>に後退していた。典型はロナウジーニョである。W杯の報道で煽り続けた日本のメディアは「逆MVP」で、ジャーナリズムの死滅を痛感させられた。

 別稿「斎藤ふたりのサプライズ」(9月12日)で記した通り、野球界は斎藤の当たり年だった。佑樹、隆の活躍に加え、プレーオフでの斎藤和巳の「魂の投球」も素晴らしかった。個人的なMVPは、窓際からメジャーのクローザーに「変身」した斎藤隆である。俺が首相側近なら「再チャレンジ」の広告塔に起用するだろう。

 シーズン途中のNFLは、MVP確実のRBラディニアン・トムリンソン(チャージャーズ)がベストプレーヤーだ。ラン、キャッチだけでなく、カレッジ時代のQB経験を生かしTDパスまで投げる。マーシャル・フォーク(元ラムズ)が提示した可能性を広げたパフォーマンスに、リーグ全体の進化を感じた。

 競馬界は今年もディープインパクトを軸に回った。俊英の若手予想家、亀谷敬正氏風にいうと、<日本型ディープ>が<欧州の牙城ロンシャン>で敗れたのは力の差ではなく、土壌の違いということになる。亀谷氏は<馬場・コース><血統><レースの質>のファクターを、<欧・米・日・豪>にカテゴライズし、グローバルな視点で競馬を捉える分析を提示している。

 本場アメリカで最も注目を浴びたボクサーは、フィリピンの英雄マニー・パッキャオだった。アジア人、野人系ルックス、軽量級(Sフェザー)、ノンタイトル戦……。従来なら添え物扱いのはずが、目の肥えたファンに支持され、主役の座に躍り出る。モラレスとの2戦、ラリオスとの激闘にはアドレナリンをかき立てられた。パッキャオの活躍に刺激され、日本から<メジャーボクサー>が登場することを期待している。

 WWEには瞠目すべきルーキーが登場した。CMパンクは独特の雰囲気と柔術の心得で、瞬く間にファンの支持を得る。「サバイバー・シリーズ」でもDX、ハーディー・ボーイズ以上の大歓声を浴びていた。MVPは<ペーパーチャンピオン>と見做されていたシナだ。大ブーイングを浴びる日々が続いたが、体を張った試合内容と細身の体に秘めたパワーで敬意を勝ち取っていく。240㌔のビッグ・ショーを担ぎ上げ、ゆっくり落としたFUは説得力十分だった。

 革新的なライカールト(バルセロナ)は例外として、リッピ(W杯イタリア)、ライリー(NBAヒート)、ラルーサ(MLBカージナルス)と保守的な監督が結果を出した一年だった。この傾向が続くなら、NFLはチャージャーズか。大勝負に弱いと酷評され続けてきた名将ショッテンハイマーが、スーパーボウルを制覇して感涙にむせぶ場面を見てみたい。

 眠くなってきた。夕方に催される某番組の打ち上げはパスすることにしよう。さほど貢献しているわけでもないし、華やかな雰囲気は小汚い俺にそぐわない。「分をわきまえる」こそ、今の俺にとって最重要の規範なのだから……。

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有馬で弾けろポップロック

2006-12-24 01:01:37 | 競馬
 藤田伸二騎手が暴行容疑で書類送検され、騎乗停止処分を受けた。お祭りムードに水を差すニュースである。藤田といえば強もて、型破りのイメージが強く、<小島太⇒田原成貴>のアウトサイダー人脈に連なる個性派だ。謹慎明けの<ニュー藤田>に期待したい。

 先日放映された「武豊TV!」では、失速した先行馬の進路について、<掟>が存在することを明かしていた。本田騎手がひとり悪者になった女王杯だが、事の発端は<掟>を破ったルメール(シェルズレイ騎乗)のコース取りであることを、ビデオを交え指摘していた。JCダート回顧でも問題発言が続いた。アロンダイトが内を抜けた時、「誰かが(意識的に)空けた」と直感したという。武豊は某騎手の<掟>破りを仄めかせていた。

 <レースになれば先輩後輩や日頃の付き合いは関係ない。許される範囲で騎乗馬の能力を引き出し、他馬のチャンスを削ぐ>……。当たり前のルールを実践しているからこそ、武豊への信頼は高い。その武がディープインパクトとのコンビで有馬に臨む。

 ディープにとって最大の敵は前が止まらぬ馬場だ。前残りを予想する声が強いが、逆の目が出るのが競馬の常で、欲を出した先行馬(騎手)は自滅するものと相場は決まっている。先行馬全滅のシーンが思い浮かぶ。かかる気性のダイワメジャーに2500㍍は向かない。アドマイヤメインは香港ヴァース惨敗後だし、JCのコスモバルクはスローで逃げたにもかかわらず直線フラフラしていた。

 スイープトウショウは女王の座から下りた感があり、メイショウサムソンは調教の動きの悪かった。トウショウナイトは今年11戦目と疲労が心配だし、10カ月ぶりのアドマイヤフジも厳しいと思う。

 残ったのは1枠、2枠の4頭だが、名前の響きでポップロックを応援する。10代の頃から親しんできた音楽は、(デルタ)ブルースではなくポップロックだ。4月に500万下の馬がグランプリ出走とまさにシンデレラボーイで、鞍上ペリエがシャンソンでも歌ってくれたら弾けるかもしれない。

 結論。◎④ディープインパクト、○①ポップロック、▲②デルタブルース、△③ドリームパスポート。3連単は④1頭軸で<④・①・②><④・①・②・③><①・②・③>の10点。馬連は①④、②④、①②の3点。ワイドは①④、①②、①③の3点。

 華やぐ街とは無縁の俺だが、的中すればポップロック系のアルバムを自分にプレゼントしよう。候補はレイザーライトの2ndだ。



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「2055」~「滅びゆく国」のシナリオ

2006-12-21 07:11:49 | 戯れ言
 岸田今日子さんと青島幸男さんの訃報、亀田興毅のタイトル防衛と、昨日(20日)はニュースの多い一日だった。岸田さんと青島さんが多彩な才能を発揮されたのは、俺が生きた半世紀とピッタリ重なる。心から冥福を祈りたい。

 「ニュース23」のトップ項目は半世紀後――亀田が70歳になる頃――の背筋が凍る予測だった。厚生労働省が公表した人口推計によると、2055年の日本の人口は9000万弱(25%減)。労働力人口の比率が半分になる一方、高齢者(65歳以上)が4割を占めるという。財政破綻を来した夕張市と同じ構成で、「美しい国」どころか「滅びゆく国」になると警鐘を鳴らしている。

 移民受け入れは労働力不足解消の有効な方策だと思うが、政府与党は否定的だ。<日本人のアイデンティティー>を強調して教育基本法改正を強行する一方、<アメリカ化>を国是として推進する保守派の姿勢に矛盾を覚えざるをえない。青島さんは参院議員時代、佐藤首相(当時)を「財界の男妾」と攻撃して物議を醸したが、ブッシュ大統領の前で「ラブ・ミー・テンダー」(優しく愛して)と歌った小泉前首相など、「米国の男妾」と揶揄されても仕方ない。三島由紀夫が存命だったら、一刀両断に斬り捨てたことだろう。

 少子化対策の根底にあるのは、<財政的基盤の確立⇒婚姻率・出生率アップ>という図式だが、的を射ているのか甚だ疑わしい。アメリカやフランスの下層社会、移民社会の実相に迫った書物やドキュメンタリーに触れると、「意外な事実」を発見をする。差別の問題、健康保険加入率の低さなど、日本より厳しい状況に置かれていても、結婚は成立し、出生率も一定の水準を維持している。

 <愛=性=家族>の循環回路が詰まり、<愛><性><家族>がバラバラのピースになったことが少子化の原因だとしたら、事態は深刻だ。映画やゲームの仮想の<愛>の方に、お金に換算される現実の<愛>より高い価値を見いだしても不思議はない。商品化されたツール(風俗など)で<性>を楽しめるし、ネット上の連なりに擬似<家族>の温もりを覚えることも可能だ。理念や倫理が消えた日本は<精神的デラシネ国家>として、<ひょうたん島>のように漂流している。

 生物学の本によると、滅びゆく種は摂理として性衝動を抑制するという。興味本位の統計を鵜呑みにするわけではないが、日本人は総体として<セックスレス>に向かっているようだ。「日本沈没」を導いたのは一瞬の外在的な変動だったが、「2055」は内在的かつ継続的な腐食によって進行中だ。俺が生きているうちに、劇的転換をもたらす何かが起きうるだろうか。

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三島と雷蔵のコラボ~「剣」が問いかけるもの

2006-12-19 02:52:07 | 映画、ドラマ
 1970年11月25日、三島由紀夫は自衛隊に決起を促し、非勢とみるや、割腹自殺する。悲劇、喜劇、狂気の沙汰、美学の結実、老いへの恐怖……。分析はさまざまだが、俺のような凡人の理解を超えている。<言葉の神>の恩寵を受けた三島だからこそ、<言葉を超えるもの>を希求したのだろうか。

 先日、スカパーで「剣」(64年、三隅研次)を見た。三島が前年に発表した短編の映画化で、重要な台詞を含めて原作を忠実に再現している、舞台は日本一を目指す大学剣道部だ。三島は晩年、高邁な理想を共有し、強い絆で結ばれた集団を志向した。「楯の会」の原形は、本作に描かれた剣道部かもしれない。市川雷蔵が信じるものに殉ずる国分主将を演じている。国分が<太陽>なら、その輝きを嫉妬する<月>は同学年の賀川だ。雷蔵と賀川役の川津祐介は公開時、それぞれ33歳と29歳だった。不世出の名優と謳われながら69年にこの世を去った雷蔵と、反抗的青年が十八番の川津だからこそ、見る者に違和感を抱かせないのだろう。映画化に際し付け加えられたのが賀川の恋人の恵理だ。鞘を失くした刀のように、鋭さと脆さを併せ持つ国分に魅かれていく。

 キャンパス裏手の丘のシーンが印象的だ。不良に撃たれた鳩が国分の腕に落ちて来る。不良が蹴散らされた後、舞い上がった鳩は、力尽きて再び国分の元に落ちてきた。国分がその首を絞めようとした刹那、恵理が駆け寄る。恵理は国分の真意を理解していた。死を受け入れられなかった鳩の弱さを、国分は許せなかったのだ。老職員が学長室に飾ってあった白百合の花弁で、鳩の血がついた国分の頬を拭う。百合の花言葉は「威厳と純粋」であり、女性限定とはいえ「同性愛」の象徴である。国分を崇拝する新入部員の壬生との「擬似恋愛」的ムードなど、三島の嗜好に即した場面もちりばめられていた。

 「合宿中は水泳厳禁」のルールは、賀川の扇動で破られた。ひとり残った壬生は「何かが壊れた」と直感する。目に見えない本質的な価値は潰え、国分の意志は汚されたのだ。事は露見し、国分は壬生に「おまえもみんなと一緒に海に行ったのか」と繰り返し問う。壬生が肯定するや、国分は寂しさを滲ませ遠ざかった。

 合宿打ち上げの夜、国分は自殺する。部を統率できなかった責任、壬生との黙契が偽りであったことの絶望が理由だった。唐突な結末だが、本作を<マニフェストを示した寓話>と位置づけ、自決に至るまでの三島の言動を照合すれば納得がいく。「剣」は三島にとり、<遺書の序文>だったのである。

 辺見庸氏は先日の講演で、昭和天皇が戦争責任を取らなかったことが<無責任の連鎖>を生んだと説いていた。辺見氏は天皇制否定の立場だが、<美学としての天皇制>に傾倒した三島が昭和天皇に批判的であったことは、著書や発言が示す通りだ。<水泳後の剣道部>は<戦後天皇制>の隠喩といえるだろう。

 本間税調会長は経済財政諮問委員時代、公務員宿舎の売却を推進したが、ご当人が一室に愛人を住まわせていた。福井日銀総裁、やらせの官僚、失職知事たちと、<汚れた国>の病根の深さに声も出ない。悪事がばれていない「お偉いさん」たちには、「剣」の一読を勧めたい、公務の合間に1時間弱で読める。もちろん「死ね」とは言わないが、正しい責任の取り方を考えてほしい。

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「傘がない」から三十余年

2006-12-16 02:38:42 | 音楽
 俺には苦手なものが多い。女性を筆頭に、機械全般、エビとカニ、酒、虫、セレモニー、団欒と指を折りつつ、相性が最悪のものに気付いた。必要なとき手元になく、晴れているのに持ち歩いている。高いのを買えば置き忘れ、風が吹くと骨を折る……。傘は俺にとって、常に煩わしい存在なのである。

 拙い前振りで申し訳ないが、今回のテーマは井上陽水の「傘がない」である。この曲が流れると、パチンコ屋が静寂に包まれたという伝説がある。嘘っぽいと感じる人もいるだろうが、当時(72年)は自動機導入以前で、多くのパチンカーが手を止めて<声量・深み・情念>を併せ持つ稀有のシンガーに聞き惚れたのだ。

 一方の雄、吉田拓郎はメッセージ色の濃い「イメージの詩」でデビューし、71年中津川における「腕ずくの革命」で主役に躍り出る。時代に育まれたがゆえ、社会と無縁な曲を作ることはファンが許さなかった。拓郎は70年代前半、岡本いさみと組み、挫折感と閉塞感を滲ませた名曲群を世に問うていた。どこまで意識的だったかは別にして、陽水が作る曲は拓郎へのアンチテーゼとなった。自殺する若者が増えようが、国の将来が深刻だろうが知ったこっちゃない。雨の中、彼女のうちに行かなくてはいけないのに、傘がない……。陽水は大仰なラブソングを滔々と歌い上げたのである。

 「傘がない」の肝は、「君の事以外は何も見えなくなる」に続く、「それはいい事だろ?」の一節だ。<個への埋没>を宣言し、その是非を自らに、そして聴く者に問いかける。そうか、政治や社会に関心をなくしたっていいんだ……。多くの若者は小さくうなずき、レコード屋に走った。共感の広がりはアルバムの記録的な売り上げに繋がった。「傘がない」を先駆に、日本のポピュラーミュージックから<公>が放逐され、<個>がジワジワと伸長する。

 俺の学生時代には、「それはいい事ではない」と首を振らぬ若者も多く存在していた。辺見庸氏のような真摯なイデオローグが大学構内で講演会を開いたら、汚い講堂は学生で溢れ返ったことだろう。悲しいかな先日の辺見氏の講演会では、<30年前の若者たち>が席を占めてした。等身大であるべき<個>は、繭のように若者たちを覆い、窒息させてしまったようだ。
 
 「傘がない」に描かれた恋愛風景を、若い人は想像できるだろうか。今なら携帯で連絡を取り合い、予定はいかようにも変更できる。500円ほどの持ち金さえあれば、深夜だってコンビニで傘を買えるのだ。冷たい雨に打たれながら彼女への思いを確認するなんて、なしで済ませた方がいい経験だろうけど……。
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「無頼より大幹部」~渡哲也の真骨頂とは

2006-12-13 00:48:13 | 映画、ドラマ
 ヤクザ映画にハマった時期があった。昭和館前まで足を運んだものの、行き先が地下(ポルノ専門館)になったこともしばしばだったが……。ヤクザ映画といえば東映で、日活作品が語られることは希だ。先月「チャンネルNECO」で放映された渡哲也主演の「無頼シリーズ」全6作(日活、68~69年)も、興行的に大コケだったという。

 ここでは第1作「無頼より大幹部」について記すが、ストーリーの基本はシリーズを通して変わらない。堅気を夢見る一匹狼の五郎(渡)だが、「人斬り五郎」の勇名が仇になり、抗争に巻き込まれてしまう。<手段を選ばず伸長する新興勢力VS道義を弁えた斜陽の旧勢力>の図式は、ヤクザ映画の定番といえるだろう。日本社会はヤクザ映画に描かれたままの道筋を辿った。<知と利>を追求する者が闊歩する一方、<義と情>は世紀を超えて死語になる。当時のスクリーンを彩っていたのは、<任侠の死に花>だった。

 シリーズ全作でヒロインを演じた松原智恵子は、清楚さと芯の強さを自然体で表現している。俺が初めて女性の美しさを意識したのは松原のスナップショットで、子供心に「何てきれいな人だろう」と見とれてしまったのである。脇を固める三条泰子と松尾嘉代も、忘れ難い女優たちだ。昼メロで見せた三条の艶かしい姿態が、俺にとってのエロティシズム入門だった。40代後半でヌードを公開した松尾嘉代は、女性の美しさを支えるのが意志であることを教えてくれた。

 五郎が指を詰めるシーン、手打ち式と虐殺のカットバック、青江三奈の「上海帰りのリル」をBGMに展開する無音の殺戮シーンなど見どころは多いが、五郎が昔の恋人に会いに行く場面が特に印象に残った。サラリーマンの洪水をひとり逆流する五郎の姿に、ヤクザの在り様が象徴的に示されているからだ。主題歌に「流浪の果ての虫けら」という一節があるように、「無頼シリーズ」ではヤクザを<人外の存在>として描いている。

 日活退社後、渡は「仁義の墓場」(深作欣二、75年)で極北を彷徨うヤクザを冴え冴えと演じ切った。邦画史に輝くNO・1のヤクザ映画との評価が定着している。深作監督と再度コンビを組んだ「やくざの墓場 くちなしの花」(76年)でブルーリボン主演男優賞などを獲得し、渡はキャリアのピークを迎えた。

 その後、ブラウン管に活躍の場を移し、骨太の俳優として認知されている。石原プロを支え続けた実直さ、病魔と闘った逞しさが好感度の高さに繋がっているのだろう。だが、この30年は渡にとって、晩年だったと思えてならない。「無頼シリーズ」で切っ先三寸の黒ドスに憤怒を込める姿、2本の「墓場」で演じた凄まじい狂気と崩壊こそ、俺にとって渡哲也の真骨頂なのだから。

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おじさんたちの朝日杯FS

2006-12-10 11:04:32 | 競馬
 気合を入れて書いた前稿(辺見庸講演会報告)は、他のブログで紹介されたり、コメントをいただいたりと、リアクションは予想以上だった。感謝しきりである。期待して覗かれた方には申し訳ないが、今回のテーマは競馬だ。仕事で徹夜し、眠い目をこすって書き殴っている。

 かつては「2歳王者決定戦」だった朝日杯だが、お尻に「FS」が付いた頃からクラシックと直結しないレースになった。サンデーサイレンス系、トニービン系、ブライアンズタイム系、スプリンター系、ダート向きと、各馬の血統背景はバラエティーに富んでいる。

 成長力、完成度、距離適性、ローテ、調教……。様々な要素を検討したが絞り切れない。仕方ないので、朝日より夕日が似合うおじさんたちに賭けることにした。JRA平地最年長騎手の本田は自らのミス(降着処分)でカワカミプリンセスの連勝を止め、引退報道も流れた(本人は否定)。朝日杯ではカワカミと同じキングヘイロー産駒ローレルゲレイロで、汚名返上を期しているに違いない。

 恬淡とした味を持つアンカツは、ゴールドアグリに騎乗する。久々と出遅れが響いた前走からの上昇が見込めそうだ。おじさんの域に入りつつある蛯名が駆るドリームジャーニーは、父ステイゴールドに似て小柄だが、根性や切れ味も受け継いでいてほしい。オースミダイドウの鞍上は、武豊の代打ペリエだ。まだ33歳だが、外見だけなら十分おじさんの資格がある。

 結論。◎⑨ローレルゲレイロ、○②ゴールドアグリ、▲⑪オースミダイドウ、△③ドリームジャーニー。馬券は<⑨・②・⑪><⑨・②・⑪・③><⑨・②・⑪・③>の3連単18点で。

 俺の現状など、夕日どころか星さえ見えぬ闇夜だ。PATで馬券を買い、夕方まで眠る。「果報は寝て待て」というが、果たして……。

 武豊、福永、池添、武幸の<武ファミリー>の旬の騎手たちは、そろって香港国際競走に騎乗する。香港ヴァーズにはソングオブウインド(デルタブルースの代役)とアドマイヤメインが出走するが、吉報は届くだろうか。
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虹の彼方に見えるもの~辺見庸講演会に参加して

2006-12-08 14:57:19 | 社会、政治
 昨日(7日)、辺見庸氏の講演会「個体と状況について~改憲と安倍政権」(明治大学アカデミーコモン・ホール)に参加した。開場30分前には100人近い列ができる盛況ぶりで、バッハが流れる中、辺見氏が麻痺した右半身を引きずるように登場すると、大きな拍手が湧き起こった。

 脳出血後のリハビリに励みつつ、抗がん剤も服用されている辺見氏は、副題の「○○の固有名詞」(我々の飼い犬と揶揄されていた)を口にすると体調が悪化すると話し、笑いを誘っていた。辺見氏は以下に留意し、闘病生活を送っているという。第1は<今が最終到達点と考え、今という永遠に生きる>、第2は<自分の内面の声に耳を澄まし、承認できないことは拒む>、第3は<単独者として生きる>……。この3点は今回の講演の基調になっていた。

 第1章は<言葉と記憶の死>である。ここ数年、自衛隊出兵、共謀罪、教育基本法と憲法の改悪と状況は悪化しているが、根底にあるのは<言葉>と<記憶>の崩壊と説いていた。ベンヤミンが理想とした<言葉と行為の間の魔法の火花>は日本では生じえず、<手段となった言葉=資本に飼われた言葉>が社会の各層、とりわけメディアに蔓延しているとし、朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」を例に挙げていた。

 <内奥の沈黙の核に向けて発せられるとき、真の言葉の働きが生じる>……。この表現に見合う言葉は、日本に存在するだろうか。辺見氏は自身の著作を安メッキと自嘲し、確定死刑囚の大道寺将司氏の新作句集(近日刊行)に含まれる5首の俳句を紹介された。大道寺氏は1974年8月30日、三菱重工ビル爆破事件を起こした「狼」のメンバーである。句集の序文を担当した辺見氏は「現在最高の表現者であり、言葉本来の神的響きを提示している」と大道寺氏を評していた。

 「狼」は「虹」という作戦名で天皇のお召し列車爆破を準備していた。後日、計画を知った辺見氏は、「実行したのは彼ら、望んでいたのは我々」というボードリアールの言葉を引用し、「あの日(8月14日)は不可視の昭和史の結節点であり、あの虹が懸かっていたら、私の内面の景色は変わっていただろう」と述懐する。ラディカルな辺見氏の言葉は、穿孔機のように天皇制を掘り下げるとともに、<記憶の崩壊>を照射していく。

 「軍部対天皇」「軍部対民衆」というフィクションを設定し、大元帥閣下(昭和天皇)の責任を曖昧にしたことが<主体性の喪失>を導いたとする主張は、立ち位置は異なるものの三島由紀夫と共通している。「広島の長崎の原爆投下は戦争だから仕方なかった」という戦後30年目の昭和天皇の発言は<記憶の闇>に葬られた。虹は懸からず、大元帥閣下を乗せた列車は荒川鉄橋を走り去ったが、<昭和の過誤>を大道寺氏の死とともに忘却させることは許さないと、辺見氏は語気強く<タブー=内なる天皇制>に挑まれた。

 講演の第2章は<恥辱>である。別稿(8月26、29日)で記したギュンター・グラスの告白(SS所属の過去)を、“schande”(シャンデ)と“scham”(シャーム)をキーワードに取り上げていた。ドイツ語で「恥」を表す言葉は二つあるが、前者は<岩のように重く闇のように深い恥辱>で、後者は<一般的な羞恥>という。グラスは当然、自らの過去を“schande”と位置づけている。辺見氏は「ドイツの良心の番人」と称されるグラスが自らの“schande”を告白したことを、「完全な単独者」となった証左と評価している。

 辺見氏のナイフは反転し、日本の現実を抉り出す。高名な作家が戦時中、特高警察や特務機関の一員であったことを告白しても、この国ではニュースにならない。なぜなら戦時中、文壇、メディア、教育界はこぞって戦争に協力し、戦後はヒラリと左に身を翻して民主主義を説いたからだ。現在のドイツの国是は「反ナチス」だが、権力機構が戦前と変わらぬ日本の国是は「ファシズム」だと語る。

 護憲派の文化人が勲位や褒章を受ける現状に、日本には“schande”は失われたと嘆き、潔癖さを貫いた数少ない作家に石川淳、椎名麟三、安部公房を挙げていた。興味深かったのは、友人である石牟礼道子さんのエピソードだ。水俣病を告発した「苦海浄土」で知られる作家・詩人で、反体制側とみられている石牟礼さんにさえ、皇后に近い筋から受勲の打診があったという。石牟礼さんは「私は(皇室に)何の恨みもないが、そういうわけにはいかない」と固辞したという。

 <一人の個人が意志的個人に止揚していくとき、その単独者に向き合うのが敵>……。辺見氏は詩人の石原吉郎の言葉を引用し、組織に属していても、自分の信じるものに対しては個として身を賭す<永遠の単独者>こそ、民主革命さえ起こしていない日本の<革命>の担い手になると説かれた。

 辺見氏は最後に、ロールプレーイングゲームを提示する。
 時=1943年。場所=山西省の病院。状況=健康な中国人の青年がベッドにくくりつけられて、大腸を摘出されようとしている。あなた=青年を取り囲む日本人医師の一人。設定=青年はもがき、逃げ出そうとする……。あなたはどのような行動を取るだろうか。辺見氏はこのゲームを繰り返したが、<医師たちが取った行動=青年を取り押さえベッドに戻す>を逸脱することができなかったという。自らの<見えない罪>を告白し、<単独者>になることを再度聴衆に提案された。

 結びで「集まった学生の皆さん」と切り出した辺見氏は、会場を見渡して間を置かれた。大学構内で行われたにもかかわらず、前の方の席には20代の若者は少数で、平均年齢は50歳を超えていた。若者たちこそ、辺見氏の鋭く豊穣な言葉を受け止め、<革命>の主体になるべき存在なのだが、現実は悲しい。辺見氏の見た<幻想の虹>は、この国の空に懸かることはないのだろうか。

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「メメント」~内なる迷宮への彷徨

2006-12-05 01:24:41 | 映画、ドラマ
 「温故知新」というけれど、俺の映画との接し方は「温故」に偏っている。ガイド誌やHPを参考に、スカパーと衛星放送を録画しているが、そのうち記憶が薄れ、「こんなの録ったっけ」てな具合になる。先日見た「メメント」(00年)もそんな感じだったが、巧みな構成と鋭い映像に、映画の可能性の広がりを実感することができた。

 主人公のレナードは妻の死のショックで前向性健忘を発症し、10分間しか記憶を保てない。ポラロイド写真、多数のメモ、肉体に刻んだタトゥーで抜け落ちる記憶を補っている。時間を逆回転させてストーリーを遡行させる手法は、斬新かつ実験的だ。肝というべきは編集で、見る側が混乱しないような工夫が施されている。レナードが語るサミー夫妻の悲劇が合わせ鏡になり、ストーリーの全体像をかたどっている。

 レナードの「記憶」と「記録」は果たして「真実」だろうか……。10分間に生じたレナードの「感情」や「願望」が「記憶」や「記録」に波及することはありえないだろうか……。自己防衛や癒やしのため、「記憶」や「記録」が無意識のうちに改変されることはないだろうか……。衝撃のラストに、それぞれの答えが用意されている。

 レナードを駆り立てているのは妻への狂おしい愛、喪失感、贖罪意識だ。「目を閉じていても、そこに世界はあるはずだ」というレナードのモノローグ(時系列としては起点)で映画は終わる。レナードは<内なる迷宮>を彷徨いつつ、外の世界を混乱に陥れるのだ。
 
 「メメント」には「記憶」や「思い出」だけでなく、「忘れるな」という警告の意味もある。言葉同様、本作も多義的で、ロールプレーイングゲームの要素も強い。「CSI科学捜査班」のサラ役でおなじみのジョージャ・フォックスがレナードの妻を演じているのも興味深かった。

 物忘れのDNAを受け継いだ俺にとり、「記憶」は身につまされるテーマといえる。両親は「刑事コロンボ」の再放送を初めて見るように何度も楽しんでいたが、五十の坂を越えた俺にとって、「相棒」、「CSI」、「名探偵コナン」は2度おいしいアイテムになっている。人の名前を覚えるのが苦手だし、インターネットがなければブログ更新は不可能だ。既に健忘症だが、症状が進まないことを祈るばかりである。

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