酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「興福寺仏頭展」からアメ横へ~上野界隈で過ごした夕べ

2013-11-28 23:46:44 | カルチャー
 特定秘密保護法案が衆院で可決された際、野党議員から「恥を知れ」の怒号が飛んだ。自民、公明、みんなが恥知らずであることは言を俟たないが、野党議員は<恥>に与していないだろうか。直近の衆院選、参院選で、国民の脱原発の思いを結集しようとした政治家は、永田町にいなかった。秘密保護法案も同様で、野党は無策のまま妥協に走った。

 今や恥の代名詞になったのが猪瀬都知事だ。自公は猪瀬辞任後、小池百合子氏、舛添要一氏あたりを担ぐ可能性が高い。俺は宇都宮健児氏の再立候補を期待している。俺が属する反貧困ネットワーク代表で、緑の党とも近く、脱原発の旗幟も鮮明だ。獲得票(前回は97万票)は東京だけでなく、全国のリベラルの希望の灯になる。

 前稿で<泉谷しげるには紅白で〝反愛国〟ソング「国旗はためく下に」を歌ってほしい>(要旨)と記したが、仕事先で翌日、Yさんの話に愕然とする。「国旗はためく下に」を〝愛国ソング〟と見做す人が大半を占め、右派の若者から支持されているという。発表当時(1973年)にはあり得なかった誤解である。この40年、日本の空気はすっかり変わってしまった。

 長過ぎる枕の後、ようやく本題に……。先週末は柄にもなく、知人に誘われ「興福寺仏頭展」(東京藝大美術館)を訪れた。日経がばらまいた? 招待券である。ガラガラと思いきや、時間待ちとなるほどの大盛況だった。

 俺は世界遺産の神社仏閣を前にしても、「これだけのものを造るのに、どれだけの血が流されたのか」と考える無粋な男だ。時間潰しのはずだったが、興福寺が統括する法相宗についての説明に引き込まれる。法相宗は一時期、隆盛したものの、中国でも日本でも衰退は早かった。瞠目したのは、教義の本質である唯識論が10世紀後の「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)に通じているからだ。法相宗は革新的過ぎたのかもしれない。

 パンク精神が横溢する展示物に圧倒された。十二支の動物を頭に載せた十二神将立像はいずれも個性的で、まるで「かぶき者」軍団だ。仏教といえば〝行儀がいい〟という先入観があるが、運慶ら反主流派(奈良仏師)が興福寺再興に協力していたことも大きかったのではないか。

 平安末期から安土桃山時代は中世に分類される。形に囚われない十二神将立像のダイナミズムとユーモアは、混沌として自由だった時代と無縁ではないだろう。足指を立てて文書に驚愕している閻魔大王の絵など、見入ってしまう展示物が多かった。

 発見と刺激の時に水を差したのが、「5時に閉館します。お早めにどうぞ」と繰り返す主催者のアナウンスだった。20分待ちで、俺が入った時(4時前後)も後ろに列が出来ていた。グッズ売り場もごった返している。感謝を込めて「本日は閉館を30分遅らせます。ごゆっくりご覧ください」とアナウンスするのが普通ではないか。融通が利かないのなら、美術展を主催する資格はない。

 怒りモードで藝大を出たが、手にはしっかり「仏頭Tシャツ」を抱えていた。いずれ興福寺を訪ねてみたいと思う。知人の道案内で上野公園を横切り、アメ横に着く。約35年ぶりで、御徒町付近で友人と自衛隊に勧誘された記憶がある。俺は駄菓子屋で安いチョコやクッキーを買い込んだ。

 映画館やライブハウスに頻繁に足を運ぶうち渋谷は手の内に入れたが、今回のミニツアーで、鈴本演芸場を囲む<根津―上野―御徒町―湯島>のルートを掴んだ。次の目標は浅草である。東京人を気取ってはいるが、馴染みのない街は多い。数年後に去るまで、自前の<東京地図>を完成させたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイデンティティーは老化防止の特効薬?

2013-11-25 23:46:47 | 独り言
 別稿(11月16日)で自身を〝アイデンティティー拒否症候群〟と評した。俺は帰属する集団から常に距離を置く〝非国民〟〝非社員〟〝非学生〟である。5000万円を巡る猪瀬知事の発言には〝非都民〟の俺もあきれたが、徳洲会がばらまいた使途不明金は数十億円に上るという。安倍政権べったりの検察が与党議員をお縄にかけるか怪しいものだ。

 紅白に出場する泉谷しげるには、「春夏秋冬」ではなく、特定秘密保護法が成立するご時世にピッタリの「国旗はためく下に」を歌ってほしい。♪国旗はためく下に集まれ 融通の利かぬ自由に乾杯……のフレ-ズが印象的な〝反愛国〟ソングだ。

 来月3日、スカパーで「泉谷しげるwithLOSER 25周年ライブ」がオンエアされる。紅白のバックもLOSERなら、元ルースターズの下山淳(ギタリスト)も同じステージに立つ。俺にとってルースターズは、最も身近(≠アイデンティティー)に感じたバンドだった。久しぶりに紅白が待ち遠しい。

 前稿で紹介した「凶悪」だけでなく、映画やドラマには痴呆症の老人が頻繁に登場する。彼らにアイデンティティーを覚えたくはないが、遠くない未来の自身の姿なのだ。テレビで医師が説いていたが、何かを必死に応援することが痴呆症防止の一つの方法で、最適なのはスポーツらしい。ちなみに母は「7年後の東京五輪を見て死にたい」と話していた。先に惚けそうな息子とは対照的な〝真国民〟である。

 俺は夏季、冬季とも五輪は殆ど見ない。サッカーでは1974年以降、オランダファンだが、ワールドカップで悲願達成となれば興味は一気に消えるだろう。惚けないために、アイデンティティーを抱くチームを見つけるしかないが、簡単なことではない。

 長年の巨人ファン、生まれた頃からの阪神ファンは俺の周りにも多いが、同じチームを応援し続けることが俺には出来ない。読売は斜陽産業のメディアだから、経営が一気に悪化し、巨人が低予算チームになる可能性はある。かつての西鉄ライオンズを彷彿させる荒々しい野球を前面に押し出したら、俺は宗旨変えして応援するだろう。

 シーズンごとにチームの個性が一変するNFLは俺に向いている。シーホークスのピート・キャロルHCは〝カレッジでは超一流、NFLでは三流〟の烙印を押されていたが、ようやくプロでも地位を確立した。明晰な頭脳に加え、ハートの熱さとプラス思考で選手とファンの心を掴み、今季は10勝1敗の快進撃だ。

 時代遅れとイーグルスを解任されたアンディ・リードHC、新人にポジションを奪われ49ersを放出されたQBのアレックス・スミス……。先がないと思われた2人が、昨季2勝14敗の負け犬チーフスを復活させた(9勝2敗)。ドラスティックかつドラマチックで予測不能なのがNFLの魅力で、贔屓チームを決めるシーズン序盤が楽しくて仕方がない。

 不思議なことに、俺は〝非京都人〟ではなく、郷里には――いずれ帰る可能性大だが――アイデンティティーを抱き続けている。高校スポーツで準優勝が多いのが残念だが、サッカーとラグビーはトップレベルをキープしているから応援しがいがある。ラグビーでは伏見工、成章の2強を抑えて桂高校が選手権大会に初出場する。数学教師の杉本監督が繰り出す斬新な戦術に注目している。

 中国が尖閣諸島上空を「防空識別圏」に設定し、日本にいる中国人に緊急時、居場所を知らせるよう通告した。コンビニや居酒屋で働く中国人留学生たちの中には、日本人に友情を抱いている者もいるだろう。国家は時に愚かだが、個の力が乗り越える……。狭い意味でのアイデンティティーを拒否しつつ、ボーダレスのアイデンティティーを信じる俺は、どこか矛盾しているのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クライムムービー「凶悪」~ラストに覚えた違和感

2013-11-22 14:20:59 | 映画、ドラマ
 喫茶店で時間を潰していると、隣席の会話が聞こえてきた。30歳前後の男が自身のリッチさをひけらかしつつ、大学生らしき男女を勧誘している。使い古されたネズミ講の手口……。俺はそう直感する。和やかな会話に、悪の匂いが潜んでいた。

 匂いだけでなく、実体ある巨悪が蠢いている。社会を闇に塗り込める「秘密保護法案」だ。1971年、外務省機密漏洩事件で有罪になった西山太吉氏が昨日、国会に参考人招致され、<外交に関する全ての情報は秘密に指定される>、<隠し事が多い日本は歴史を検証できない>と語った。政府による国民への背信を告発し、罪に問われた西山氏の言葉だけに重みがある。

 この法律が成立したら、<日本異質論>が世界の空気になるだろう。安倍政権ベッタリのメディアは、遅きに失したとはいえ廃案に舵を切る。福島での自民系候補の連敗、小泉元首相の反原発発言、交渉の余地なきTPPへの反発、リベラルなケネディ駐日大使の赴任と、空気は少しずつ変わりつつある。

 「凶悪」(13年、白石和彌監督)を新宿で見た。雑誌記者の藤井(山田孝之)、死刑囚の須藤(ピエール瀧)、先生と呼ばれる木村(リリー・フランキー)の3人が格闘するクライムムービーである。公開から日が経たない作品はストーリーを最小限に記すのが〝俺の流儀〟だが、今回は禁を破ることにした。

 本作に「冷たい熱帯魚」(10年、園子温監督)が重なった。実際の事件をアレンジしているだけでなく、犯罪者のキャラが際立っているのが共通点だ。本作における須藤の剥き出しの暴力と木村の剽軽な酷薄を併せ持っていたのが、「冷たい――」の村田(でんでん)である。藤井は正義感を武器に、須藤と木村に対峙する。正義も時に、人を狂気の縁へと誘うのだが……。

 藤井が属する編集部に、獄中の須藤から手紙が届く。須藤は面会に訪れた藤井に、娑婆で暮らしている仲間の木村の罪を告発する。「記事にならない」と上司に一蹴された藤井だが、須藤の記憶を基に事件を追い真実に辿り着く。

 事件に執着する藤井は妻洋子(池脇千鶴)との溝を深めていく。痴呆症の母(吉村実子)の存在が亀裂の原因だった。法に則る罪を追及する藤井は、家族の問題で人間の罪に直面する。本作の背景は家族の崩壊だ。金銭絡みで生じた隙間に入り込んだ木村と須藤は、家族と共犯関係にあった。

 藤井の正義感は<死刑肯定>に根差している。須藤と木村には死刑が相応しいと考え、その旨を両者に伝えた。圧倒的多数を占める死刑存置派は藤井に共感するだろうが、廃止派の俺は違和感を覚えた。死刑廃止が加入条件であるEU各国で、本作はいかなる評価を受けるだろうか。

 的確かつ冷静に状況を把握していたのは、藤井ではなく須藤と木村だった。ラストで木村は面会に訪れた藤井に、「僕の死を誰より願っているのは君だ」と指をさす。君とは藤井だけではなく、監督はスクリーンの先にいる死刑存置派を意識していたはずだ。

 正義とは、悪とは、法の下の罪とは、法を超越した罪とは……。見終えた後、様々な思いが去来するエンターテインメントだった。本作、そして「冷たい熱帯魚」と、邦画にも悪魔的、いや悪魔の化身といっていい個性が登場するようになった。根底にあるのは、社会に横溢する閉塞と絶望かもしれない。

 トーンを突然変えて、ジャパンカップの予想を……。本命は④エイシンフラッシュ、対抗は⑥アドマイヤラクティだ。馬主(サンデーレーシング)の指示で岩田を降ろした⑦ジェンティルドンナ、鞍上(内田)と併せて不調の⑬ゴールドシップも、メンバーが手薄ゆえ、無視するわけにはいかない。◎○2頭軸の3連単で少額投資する予定だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーケイド・ファイアとパール・ジャムの新作に和む秋

2013-11-19 23:40:38 | 音楽
 ニューヨークから悲報が届く。ブルックリンを拠点に活動するイラン系のロックバンド、イエロー・ドッグスのメンバー2人が銃撃されて亡くなった。犯人は同国人の元ミュージシャンで、政治的背景はないという。銃社会アメリカの病理を再認識させられた。

 俺はイエロー・ドッグスを見たことがある。10年8月に当ブログで紹介した「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、バフマン・ゴバディ監督)はテイク・イット・イージー・ホスピタルのイラン脱出を描いた作品だったが、イエロー・ドッグスも出演しており、サントラには「ニュー・センチュリー」が収録されている。俺はテイク・イット――について、以下のように記していた。

 <NY派が志向するデジタルとプリミティヴの融合を、テイク・イット・イージー・ホスピタルは自ずと体得している。彼らがダーティー・プロジェクターズやグリズリー・ベアと並び称せられる日が待ち遠しい>……。

 グラストンベリー出演、アイスランドでシガー・ロスを見ること……。この二つが夢と語っていたテイク・イット――の拠点は欧州だろうか。無事に活動していることを祈るばかりだ。

 さて、本題……。今回は先月末に発売されたアーケイド・ファイアとパール・ジャムの新作について記したい。'13ロック界は旬のバンドが新作を次々発表し、アラカン(57歳)の俺でさえ頻繁にタワレコに足を運んだ。世界のロックファンが最も待ち望んだのはアーケイド・ファイアの新作ではないか。

 インディーズからリリースした前作「ザ・サバーブス」(10年)は本国カナダや欧米各国で1位を獲得し、グラミー賞で最優秀アルバム賞を受賞する。売れて有名になれば、悪く変化するケースも多いが、2枚組の新作「リフレクター」は雑食性をキープしている。

 メロディアスでポップだが、加工の匂いはなくナチュラルだから、聴く者は癒やしを覚える。NY派のダーティー・プロジェクターズやヴァンパイア・ウィークエンドらとボーダレスへの志向を共有しているが、角が取れた印象を拭えない彼らと比べ、アーケイド・ファイアは泥臭さを失わない。ディスク2でははビートルズの通称「ホワイト・アルバム」のような前衛性を打ち出している。

 躍動感と自由を呼び覚ます万華鏡のようなアルバムで、聴くたびに発見があり、既視感に惑うこともある。〝正体不明さ〟こそ彼らの魅力で、祝祭的なステージに触れる日を心待ちにしている。

 ライブが待ち遠しいといえばパール・ジャムで、新作「ライトニング・ボルト」を聴いてその思いを一層強くした。スケールアップしつつカラフルになったアーケイド・ファイアと真逆に、パール・ジャムは通算10枚目のアルバムで原点に復帰している。枯れた印象があった前作「バックスペイサー」と比べ、本作は直球勝負の熱さと蒼さを前面に出している。後半の曲には成熟と哀愁が織り交ぜられていた。

 パール・ジャムは本国アメリカで絶大な支持を得ており、多くの雑誌や新聞で「最も偉大なバンド」に選定されている。エディ・ヴェダーのしゃがれ声はロックそのもので、説得力は齢を重ねるごとに増している。ベテランバンドには〝裸の王様〟が多いが、パール・ジャムに虚飾は不要だ。挫折や葛藤といった普遍的な感情だけでなく、エディ・ヴェダーの歌詞は、二極化に苦しむアメリカ人の思いを等身大に反映している。

 アメリカならパール・ジャム、UKならステレオフォニックスが、俺の中で当代一の「正統派ロックバンド」だ。両バンドのフロントマン、エディ・ヴェダーとケリー・ジョ-ンズはともにピート・タウンゼント(ザ・フー)と交友がある。

 新作情報をメディアでチェックしているが、NMEのレビューに腹が立つことが多い。アークティック・モンキーズの新作は「10点」で、パール・ジャム、ステレオフォニックス、そしてエディターズの新作は「4点」だった。どこに目を、いや耳を付けているのか不思議でならない。採点した当人は神になったつもりだろうが、ロックは権威主義と無縁であるはずだ。

 パンクを酷評していた「ローリング・ストーン」などさらに悪質で、過去を隠蔽、捏造している。俺が〝神になった気分〟でベストロックマガジンを選べば、日本が誇る「ロッキンオン」だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「LINK」~絆と罪を問う重層なドラマ

2013-11-16 23:04:34 | 映画、ドラマ
 ここ数日、2本の映画を見た。「ミューズ・ライヴ・アット・ローマ・オリンピック・スタジアム」(13年)と、柳家小三治の素顔に迫ったリバイバル上映の「小三治」(09年)である。

 「ミューズ――」は欧州スタジアムツアー(全21公演)のハイライトになったローマでのパフォーマンスを4Kで収録した作品だ。<史上最強のライブバンド>(NMEなど)と評されるミューズは、いくらスケールアップしても進化しても、「“as usual”に素晴らしい」とYoutube等のコメント欄に書き込まれる。〝最高であるのは当然〟と見做されるのは大変だと思う。感想はDVD購入時に記したい。

 「小三治」で印象的だったのは、「小三治師匠をはじめ、名人たちは落語と格闘している」という立川志の輔の言葉だった。弟子に対する放任主義は師匠譲りだが、小さんは頭角を現してきた小三治に、「おまえはつまらない」と面と向かって話していたという。「高みを目指せ」との叱咤だったと、小三治は振り返っている。襲名披露(06年3月)の模様が収録されていた愛弟子の三三には、距離を置いて接しているようだ。初めての演目「鰍沢」に挑むラストに感銘を覚えた。高座にかければ円生らの名演と比べられる。小三治は想像を絶するプレッシャーと闘っていたに相違ない。

 MONDTVでオンエアされた生放送「麻雀バトルロイヤル」を堪能した。ベテラン、中堅、女流、著名人の4チームが4戦で総得点を競うシステムで、二階堂亜樹(女流)が滝沢和典(中堅)を差し切った瞬間、3人のチームメートが号泣する。〝天の配剤〟を窺わせる濃密で凄まじい闘牌に、麻雀が理知を超えたゲームであることを再認識した。滝沢はモンド王座杯でも魚谷侑未に衝撃の逆転を食らっている。美学と理を追求する滝沢は、〝女性に優しいイケメン斬られ役〟キャラが定着しそうだ。

 「LINK」(WOWOW、全5回)を録画でまとめて見た。<人間の絆>をテーマに掲げ、縦軸(時間)と横軸(複数の人間の主観)が絡まる重層的なドラマである。狂言回しを務めた謎の青年ショーン(綾野剛)の正体は、回を追うごとに明らかになっていく。ショーンが提示した「六次の隔たり」の仮説は実に刺激的だった。

 元警察官の寺原(大森南朋)を基点に、完成図も定かではないジグソーパズルにピース(登場人物)が填め込まれていく。寺原が私設SPを務めるのは政権党幹事長の松岡(武田鉄矢)だ。次期総理が確実視される松岡は型破りなモンスターで、最終話の挑発的な演説は聞きどころ十分だ。松岡が引き起こす漆黒の渦に、長男・正太郎と担任教師の高島(玉山鉄二)、看護師の理恵(ミムラ)ら無数の人々が巻き込まれていく。信金職員の亜紀(田中麗奈)もそのひとりだ。

 寺原に思いを寄せる亜紀は桜井検事(黒木瞳)と組んで内部告発に踏み切るが、巧妙な仕掛けに窮地に陥る。衝撃と癒やしのエンディングに導いたのは、寺原の覚悟と機転だった。それにしても、桜井の説く正義は何て薄っぺらいのだろう。本作は法の罪を超えた<人間の罪と赦し>を追求している。ちなみに、俺がシンパシーを覚えた登場人物は、優柔不断で間が悪い超凡人の沢田(田中直樹)である。不倫相手役の田丸麻紀の存在感も際立っていた。

 絶望の淵にいる人間を孤独から解放し、有機的に結び付けることを志向するショーンは、SNS「LINK」を立ち上げた。「SOSを発信している人の気持ちを繋げたい」という思いは限りなく正しいと思うが、〝アイデンティティー拒否症候群〟の俺はリアリティーを感じない。

 3・11の被災者の悲しみに、どれだけの人々が繋がったのだろう。復興が進まない現状で東京五輪が決定し、放射能汚染や若い世代の体内被曝が深刻なのに自民党・石破幹事長は原発新規建設に言及した。国民の心情と程遠い<人間の罪>に関わる発言だが、「ノー」を突き付ける広範な意志がネットで形成されるだろうか。

 ニュースでは台風30号によるフィリピンの現状を繰り返し伝えるが、チャンネルを変えたら〝ネタ〟で終わる。「LINK」が目指すように、ネットが他者の苦しみを我がものと受け止める絆を育むツールに成長することを、アナログ人間の俺は願っている。

 俺に偉そうなことを言う資格はない。阪神淡路大震災の惨状を異国の出来事のように眺め、だらしなく東京ライフを満喫していた。自身の<人間の罪>に思い至ったのは、五十路の坂を越え、自省の意味を知ってからだ。57歳の俺だが、人間としては7歳程度である。

□追記…書き漏らしたことあり。「LINK」の主人公である寺原、そして松岡と高島が共有するのは「償い」だ。絆とは傷と悔恨を介してこそ成立するのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「田中正造と民衆思想の継承」~抵抗者の崇高な意志

2013-11-13 23:36:24 | 読書
 山本太郎参院議員がきょう13日、「天皇直訴」で議長から厳重注意を受けた。園遊会で思い出すのは04年秋のこと。故米長邦雄将棋連盟前会長(東京都教育委員)が天皇に「日の丸掲揚、君が代斉唱が日本中の学校で行われるよう尽力しています」と語りかけ、「強制にならないことが望ましい」と諌められた件である。安倍首相の考えは米長氏と極めて近く、天皇元首化を目指している。

 天皇はラディカルな沖縄の地方紙を購読し、宮内庁に昨年、<葬送の簡略化>を指示した。皇后は先日、基本的人権と自由を掲げた五日市憲法草案への共感を語っていた。現在の皇室は歴史上、例を見ない座標に位置している。中道、リベラル、護憲派が支持し、保守派は明らかに危惧を抱いている。

 山本の天皇直訴を1901年の田中正造と同一線上で論じるのは無理がある。人格において歴然たる差があるからだが、若い山本には人間を磨く時間はたっぷりある。

 田中の生涯と後世への影響を綴った「田中正造と民衆思想の継承」(花崎皋平著、七つ森書館)を読了し、強い感銘を受けた。学生時代(70年代後半)、足尾鉱毒事件はブームになっていた。水俣などの反公害運動、三里塚闘争の原点として再評価されたのである。

 1890年代、古河が経営する足尾銅山から排出された鉱毒が、周辺地域に深甚な被害をもたらした。操業停止を求める運動の中心にいたのが地元選出の田中衆院議員で、闘いは幕末の一揆、自由民権の精神を受け継いでいた。田中は人民自治を志向しており、パリ・コンミューンと理想は近い。田中は憲法と人権、儒教倫理、そして勤王に価値を見いだしていた。天皇との距離の近さは、2・26事件の青年将校と重なる部分がある。

 田中の人生は、議員の職を辞し、直訴に失敗した後に煌めいた。思想を深化させ、キリストに接近する。「奇跡の丘」(64年、パゾリーニ監督)のキリストの如く、蓬髪で襤褸を纏い、清貧を貫く。高邁なキリストの魂に魅せられていったのだ.

 鉱毒は渡良瀬川⇒利根川を経て東京湾にまで流出した。本書は3・11の5カ月前(2010年10月)に発行されたが、鉱毒をそのまま放射能汚染に置き換えていい。足尾鉱毒事件が提示した<官と民>、<支配と自治>、<屈服と自由>、<資本と環境>の対立項は100年後の今も、解決を見ないまま横たわっている。

 田中は若い頃、貧民救済に奔走し、晩年は治水事業に情熱を燃やした。無私、無宿、無所有を自らに課し、民衆と同じ視線で接し、自然の中に神霊を見た。花崎の言葉を借りれば、<暖衣飽食の側にとどまって同情したり、「教え」を説いたりする>知識人とは対極に位置している。

 直訴を<憲政を侮辱する行為>と叩かれた田中を、<憲政の侮辱というなら松方首相の権力乱用の方が問題>と擁護した新井奥遂ら、「口舌の徒」と一線を画する者たちを花崎は紹介している。安里清信は沖縄・金武湾で反CTS(石油備蓄基地)闘争を展開した。原発建設も構想に含まれており、当時の闘いがなければ、沖縄は若狭湾を上回る原発銀座になっていたはずだ。

 別稿で記した「静かなる大地」の巻頭で、池澤夏樹はタイトル借用を了承した花崎に謝意を述べていた。同書は明治期の日本政府によるアイヌへの〝ジェノサイド〟を描いている。池澤は花崎が「田中正造――」で紹介したアイヌの語り部、貝澤正について学んだに相違ない。

 花崎は前田俊彦による批判を受け入れる形で、<人間の罪>について考察している。甚大な被害を認識しながら、チッソは水銀を垂れ流した。水俣病患者は交渉の席で「会社の幹部は順番に水銀を飲め」と迫る。誤解を招きかねない発言を、前田は以下のように分析した。

 <その行為が恐るべき死を意味するがゆえ、自分では決して飲まない水銀を、他人に平気で飲ませるという罪がどれほど深いのかを、チッソは知れということだ。患者たちは理性を失っているのではなく、「道理に依拠した理性」よって発言している>(要旨)

 古河の鉱毒、チッソの水銀、東電の放射能……。あまりに状況が酷似している。本来、人間相互の共感によって成立した<人間の罪>を免罪したのは、戦時に顕著な国家への忠誠心であり、資本への隷属といえるだろう。

 田中は「百戦百敗」と自身の生き様について語っていたが、そのDNAを受け継いで闘う者が後に続いている。数度目になるが、「忍者武芸帳」(67年、大島渚)の印象的な台詞を以下に記したい。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺(影丸)が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>……。

 田中正造もまた、影丸の精神を体現した聖者だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サラエボの傷が育んだ「ある愛へと続く旅」

2013-11-10 23:34:30 | 映画、ドラマ
 第3回「銀座ハイカラ寄席」(銀座ブロッサム)に足を運んだ。柳家花緑と柳家三三の二人会で、三三「金明竹」⇒花緑「宮戸川」⇒三三「締め込み」⇒花緑「妾馬」の順で進行する。動の花緑、間の三三の持ち味が発揮され、登場人物がシンクロするという粋な趣向が凝らされていた。

 俺はといえば睡眠不足、発熱と風邪薬の副作用、満腹が重なって絶不調……。演目に馴染みがあったこともあり、緊張が途切れて何度も夢の世界に落ちてしまう。真摯に対峙できず、反省しきりの夜だった。

 「冷血」(12年、高村薫著)を彷彿させる事件が起きた。田園調布で起きた女子中学生誘拐である。主犯格の男がネットで呼びかけ、2人の男が応じた。「冷血」のような悲惨な結末に至らなかったのは幸いといえる。格差拡大で蔓延する怨嗟、絶望、閉塞がネットの闇で煮詰まれば、同様のケースは増えるのではないか。

 日比谷で先日、「ある愛へと続く旅」(12年、セルジオ・カストリット監督)を見た。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を起点に、現在と過去をカットバックして描く壮大な物語である。テンポの良い演出で、129分は瞬く間に過ぎた。

 サラエボは悲劇の象徴として人々の心に記憶され、後のコソビ紛争と合わせ、深い傷はいくつかの作品に示されている。代表格は「アンダーグラウンド」(95年、エミール・クストリッツァ)だ。別稿(9月6日)で紹介した「虐殺器官」(伊藤計劃)では、サラエボへの核兵器投下がストーリーに組み込まれている。ユーゴ紛争で噴出した宗教、民族、文化間の対立は、「文明の衝突」(96年、ハンティントン)に影響を与えたに違いない。

 公開直後でもあり、ストーリーは最低限に記したい。前々稿「そして父になる」、前稿「複製された男」に続き、<家族・絆・アイデンティティー>を追求した作品といえる。

 ローマで暮らすジェンマ(ペネロペ・クルス)の元に、サラエボに住む旧友ゴイゴ(アドナン・ハスコヴィッチ)から電話が入る。元夫ディンゴ(エミール・ハーシュ)が遺した写真が展示されるので、息子ピエトロを連れ現地に来ないかいう提案だった。

 ジェンマは過去に生きる女で、夫ジュリアーノと息子ピエトロとのよそよそしさが冒頭で描かれる。ジェンマは20年前、サラエボ留学中に写真家ディンゴと出会い、恋に落ちた。仲介役はボヘミアン的な暮らし(ロマ?)を享受する通訳のゴイゴだ。ゴイゴは様々な分野の路上アーティストとコミュニティーを形成している。

 ジェンマとディンゴは紆余曲折を経て結婚したが、子供を授からないことで亀裂が生じる。ディンゴは使命感でサラエボに赴き、ジェンマも後を追う。代理母としてゴイゴに紹介されたのが、ニルヴァーナの大ファンであるアスカ(サーデット・アクソイ)だった。

 ロックファン以外は気に留めないだろうが、本作にはニルヴァーナ、とりわけ自殺したカート・コバーンへのオマージュに溢れている。思い出したのは「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)で、アンとドンが出会ったのはニルヴァーナの最後のライブという設定だった。カート・コバーンの死が多くの言葉を省略する<喪失のイメージ>として成立していることを、本作で改めて思い知った。

 ゴイゴに導かれたジェンマは、衝撃的で胸に迫る真実を知る。過去から解放されたジェンマは、宿命と悲劇の歴史に彩られた新しい絆を心に刻んだ。20代前半から40代までを演じ切ったペネロペ・ロペスとサーデット・アクソイに拍手を送りたい。ジュリアーノとピエトロを演じたのはカストリット監督とその息子だった。

 刹那的で人生を変える愛、癒やしと自己犠牲に満ちた愛……。愛にはいろいろな形があるが、俺が本作で<至高の愛>を選べば、ジュリアーノの控えめな見守る愛である。エンドマークの後、ジェンマは夫の寛容さに気付くのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

転換、偽装、酷似、そして「複製された男」~サラマーゴの深淵な世界

2013-11-07 23:49:52 | 読書
 仕事先でYさんと話していたら、脱原発の旗幟を鮮明にしている小泉元首相の動向が話題になった。「バックにいるのはトヨタ?」……。俺が小泉氏を信じていないことを察知したYさんは、別稿のコメント欄に講演の映像を貼り付けてくれた。小泉氏の転換はどうやら本気らしい。

 阪急阪神ホテルに端を発し、高島屋、ホテル京阪、大丸松坂屋と食材偽装、誤表記が次々に発覚している。一連の動きに共通するのが、ブラック企業の振る舞いだ。嘘をつこうが、働く者を虫けらの如く扱おうが、儲かれば、株価が上がれば、すべてが許される……。それが現在日本の姿なのだ。「プロテスタントのストイックな精神が育んだ」と習った資本主義だが、良心と倫理をとうの昔に失くし、人を貪り尽くす醜悪な怪物になっている。

 大学時代、下宿近くで驚くべき体験をした。見知らぬ人が頻繁に声を掛けてくる。やり過ごすと怪訝な表情を浮かべるのが不思議だったが、やがて真相が明らかになる。定食屋で「今日の戦果、どうだった」と尋ねられて絶句していると、「さっき、○○○○(パチンコ屋)にいたでしょう」と追い打ちを掛けてきた。俺に酷似した人間が江古田界隈を徘徊していたのだ。

 彼に案内してもらって〝俺もどき〟と会うのも面白いと考えたが、やめた。俺は、そして〝俺もどき〟も、親近感より嫌悪感を覚えるだろう。最悪の場合、殺意さえ湧いたかもしれない。遭遇するのが嫌で、引っ越そうと思ったが、〝俺もどき〟が先んじたようだ。暫くして声を掛けられることはなくなった。

 自分に酷似している者に気付いた男と、その後の顛末を描いた小説を読了した。ジョゼ・サラマーゴ著「複製された男」(03年)である。60代になって本格的に執筆に取り組んだサラマーゴは、76歳でノーベル文学賞を受賞する。遅咲きを好む俺が最大の敬意を払うポルトガルの作家で、読んだのは「白の闇」(95年)に次ぎ2作目だった。

 たったひとり(歯科医の妻)を除き、人々が視力を失くすという設定の「白の闇」は、管理社会への警鐘であり、「ペスト」(カミュ)への半世紀後のアンサーと捉えることも出来る。災禍の発端と終焉は唐突だったが、科学的な原因が特定されるわけではない。寓話より生々しく、吐き気を催すようなリアリティーに満ちた作品だった。

 「複製された男」もある意味、SF的である。歴史教師のテルトゥリアーノ・マッシモ・アフォンソ(以下マッシモ)が友人の数学教師に薦められた映画のビデオをレンタルする場面から物語は始まる。自分とそっくりの脇役に驚愕したマッシモは、その役者が出演する作品のビデオを数本見た結果、自分もしくは役者が複製であるという結論に達する。

 マッシモは37歳のバツイチだ。言葉を交わすのは友人の数学教師、車で数時間ほどの場所に暮らしている母親、恋人のマリア(銀行員)、厚意で部屋を掃除してくれる同じアパートの老女ぐらいだ。読書を軸に据えた平穏な日々に亀裂が生じたが、マッシモは〝もどき〟が存在する意味を、哲学的にあれこれ思索する。

 行動に移る際も慎重で、マリアの名を騙って制作会社にファンレターめいた手紙を送り、〝もどき〟の本名と住所を知る。彼の名はアントニオ・クラーロで、外見だけでなく声の区別もつかない。SFなら、DNAとかクローン人間といった要素が組み込まれていくだろう。だが、本作では技術的、科学的な説明は一切省略されている。

 マッシモとアントニオの主観が交錯する後半になって、ようやく読むテンポもアップしてくる。マッシモは無名のまま一生を終えるだろうが、アントニオは知名度を上げる可能性がある。そうなれば、2人は世界中の耳目を集めること請け合いだが、サラマーゴはエンターテインメントの対極に位置する作家だ。寓話をいったん閉じ、ピリオドが打たれた後を暗示する。

 観念的で深淵な、言い換えれば読みづらい作品だが、人間共通の俗っぽさも描いている。自分と瓜二つの人間に魅力的な恋人もしくは配偶者がいたら、あなたはどうする……。答えは聞くまでもないし、マッシモとアントニオは暗黙のうちに実行する。そして、真実の愛が、悲劇的な結末を導くのだ。

 サラマーゴは特殊な状況を用意し、人間の本質を追求する作家だ。紀伊國屋のウェブストアでは他の作品も扱っている。読むのは先になるだろうが、近いうちに購入するつもりだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「そして父になる」~心を去らぬ柔らかな余韻

2013-11-04 19:25:14 | 映画、ドラマ
 楽天が日本一になった。〝にわかファン〟の俺は田中以外、勝ち星を挙げるのは無理と決めつけていたが、今季6勝5敗(防御率4・12)の美馬がシリーズMVPである。最終戦の先発に絶不調の杉内を指名した原監督に、俺は過信と驕りを感じた。

 天木直人氏(元外交官)はブログで、「東電の連結黒字決算(1416億円)」に疑義が呈していた。<今後の廃炉作業の費用、放射能被爆犠牲者の補償も税金投入なくしてはありえない。そんな東電がなぜ黒字なのか。メディアはどうして、論評抜きに東電の発表を垂れ流すのか>(論旨)……。天木氏の怒りはもっともだと思う。

 東電が第一に責任を負うべきなのは、現在の、そして近い未来の福島の子供たちと原発労働者の被曝だ。書簡の形で問題を天皇に訴えた山本太郎参院議員が、世論のバッシングを受けている。天皇への直訴といえば田中正造だが、10日ほど前、紀伊國屋で「田中正造と民衆思想の継承」(花崎皋平)を購入していた。同書の感想と併せ、〝山本直訴〟について近日中に記すことにする。

 さて。本題……。今回は「そして父になる」(13年、是枝裕和監督)を取り上げる。公開1カ月足らずなので、ストーリーは最小限に、背景と感想を記したい。

 福山雅治が演じた野々宮良多は、建設会社で大プロジェクトを仕切っている。〝勝ち組〟ゆえ、優しすぎる長男慶多にもどかしさを感じていた。良多と妻みどり(尾野真千子)は突然、慶多が実の子ではないという事実を突き付けられる。斉木(リリー・フランキー)とよう子(真木よう子)夫妻の長男琉晴と病院で取り違えられたというのだ。

 良多とみどりは6年間育てた慶多に、そして斉木とよう子は琉晴に肉親の情を抱いている。交換という着地に向けて両夫妻はあれこれ手段を講じるが、良多は自身の来し方を内省するようになる。<自分に父としての資格はあるのか。慶多に父として接してきたのだろうか>と……。

 良多と対照的に、斉木はよくいえば自由、悪くいえば適当に生きている。電器店を経営しているが繁盛とは程遠く、よう子は弁当屋でパートとして働いてバイトしている。だが、同じ目線で接することで、琉晴ら3人の子供、そして慶多の心もしっかり掴んでいる。良多は<父であること>で、斉木に負けたのだ。

 夏八木勲(良多の父)、風吹ジュン(良多の義母)、樹木希林(みどりの母)、國村隼(良多の上司)、田中哲司(良多の友人で弁護士)、中村ゆり(元看護師)と多彩な顔ぶれが脇を固めている。良多にヒントを与えたのは、自然保護に関わる研究員(井浦新)の言葉だった。

 良多の父は競馬好きで、サラブレットの血統に重ねて一日も早く琉晴を引き取るよう諭す。「年ごとに琉晴はおまえに、慶多は相手方に似てくる」と話す当人は気儘に生きている。勤勉な良多と真逆だから説得力はない。情に濃いはずの斉木も慰謝料の額にこだわるなど二面性がある。人間とはかくも矛盾に満ちた生き物であることを、是枝はサラッと描いていた。

 俺ぐらいの年(57歳)になると、〝血は水より濃い〟という言葉をしみじみ実感する。一方で、本作で義母が良多に語ったように、〝血を超えた絆〟も存在する。普遍的なテーマを追求しているからこそ、早くもアメリカでのリメークが決定したのだ。

 本作に重なったのが「誰も知らない」のエンディングで、別稿(05年6月)で以下のように記していた。

 <「誰も知らない」はエンドマークでは終わらない。いや、エンドマークの後にこそ始まる稀有の映画なのである(中略)。ストップモーションの後も、彼らが歩く道は続いている。見た者の心、絆やモラルが壊れ閉塞した現在の日本へと>……。

 是枝は見る者を余韻に浸らせる。「そして父になる」はラストで、「あなたならどう考え、どう決断しますか」と問い掛けた。同様の事態に直面したら――独り身の俺は想像するしかないが――いかなる答えを見つけるだろうか……。そんなことを考えつつ観賞していた。本作もまた、<エンドマークの後にこそ始まる稀有の映画>といえる。

 意図したわけではないが、次稿「複製された男」(03年、ジョゼ・サラマーゴ著)、次々稿「ある愛へと続く旅」(12年、セルジオ・カステリット監督)も本作同様、<家族・絆・アイデンティティー>をテーマに据えた作品である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上哲治さんの訃報に甦る記憶~野球と過ごした少年時代

2013-11-01 14:40:26 | スポーツ
 日本シリーズは楽天が王手をかけ、レッドソックスがワールドシリーズを制した。〝にわか野球ファン〟にあれこれ語る資格はないが、上原には素直に感動した。遅咲きが俺の好みだが、メジャー移籍時、晩年といった印象が拭えなかったからである。楽天・田中は旬を迎えて海を渡る。個として制球を究めた上原、日本的土壌に育まれた剛球の田中と、両者は好対照だ。

 一昨日、訃報が届いた。同い年(57歳)の会社員時代の同僚が、心筋梗塞で急死したという。立ち位置の違いで疎遠になった時期もあったが、行きつけのお好み焼き屋で楽しい時間を過ごしたことを思い出す。さらなる訃報に心が湿った。川上哲治さんの死に、巨人ファンだった10代の頃の記憶が零れ出て、センチメンタルな気分に浸っている。知人と名将の冥福を心から祈りたい。

 飛雄馬が「遊びといえば野球ばかり」と一徹に反抗するシーンがあったが、他の子供も似たようなものだった。俺が通っていた男子校では巨人と阪神のファンが拮抗していた。巨人ファンの級友は「アキレスと亀のパラドックス」を援用し、「阪神は永遠に巨人に勝てない」と言い放つ。妙な説得力に、阪神ファンは黙り込むしかなかった。

 管理が過ぎるとか、冷徹とか、サービス精神に欠けているとか、川上監督への批判は当時から強く、掲げる「野球道」も胡散臭かった。同時期にセ・リーグで監督を務めていたのは、人情派の藤本定義(阪神)、放任主義の三原脩(大洋、ヤクルト)、勝負師の水原茂(中日)と個性的な面々で、彼らは教え子である川上さんを選手たちの前で「テツ」と呼び、叱責することもあったという。

 偉大な先輩たちを乗り越えるため、川上さんは、〝武装〟せざるを得なかったのだろう。世代間戦争に向けた最大の武器は、ONではなく牧野茂ヘッドコーチだった。巨人の野球を繰り返し批判していた牧野を招聘し、参謀に据える。この賭けは成功し、V9として結実した。

 「ONがいたからV9は当たり前」と論じるメディアもあるが、事実は異なる。巨人は当時、外国人選手を採らなかったし、脇を固めた柴田、高田、土井、黒江の終身打率は2割6分から7分台で、チームプレーに徹していた。阪神にもV9を阻止するチャンスは3度あったが、「残塁が巨人より100も多けりゃ、勝てるはずもない。スカタンや」と阪神ファンの級友が嘆いていた。

 不利の下馬評で日本シリーズを迎えたことも多かったが、勢いや数字を超える〝番狂わせ〟を当たり前のように実現するのが、当時の巨人だった。最高の思い出は71年の日本シリーズで、絶不調で初戦は5番に下がっていた王が、第3戦で山田からサヨナラ本塁打を放つ。緻密な分析は牧野が担当していたはずだが、川上さんは強烈な運と求心力の持ち主だった。

 9月には久しぶりに野球場(横浜)に足を運んだが、俺は疎外感を覚えた。何かを熱心に応援するという志向を、俺はとうの昔に失っていたのだ。オリンピックにも無関心で、ロンドン大会ではロック色の濃かった開閉会式を録画したぐらいである。オランダがワールドカップで悲願の優勝を果たしたら、サッカーともオサラバするだろう。〝にわか〟を別に俺が今、興味を持っているスポーツはNFLと競馬だけである。

 スポーツの代わりといえるのが将棋だが、麻雀のテレビ対局もラインアップに加わった。グラビアアイドルでもある高宮まりが、攻撃的な打ち筋で女流モンド杯を制した。お局さまたちを刺激したくないのか、高宮は控えめな化粧と衣装で対局に臨んでいる。旧世代の代表格、〝卓上の舞姫〟こと二階堂亜樹が出産を経て復活するのも嬉しいニュースだ。熾烈で華麗な女流雀士たちの世代対決を、スポーツ感覚で楽しむことにする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする