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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「クエーサーと13番目の柱」~疾走するノンストップアクション

2018-05-30 22:15:58 | 読書
 競馬とは、無数にあるパラレルワールドの一つに収束するゲームだ。時に馬券を買った人の願いが結果を〝引き寄せる〟こともある。ダービーでPOG指名馬ダノンプレミアムが⑥着に敗れたのは残念だったが、休養して秋の大レース(天皇賞?)に向かってほしい。

 前稿で<ワグネリアンの板における福永騎手への罵詈雑言は許せない。応援を込めて買い目に含める>(論旨)と記した。正攻法で押し切った福永の気合を称賛したい。もう一頭の指名馬エタリオウは13番人気で④着と健闘したが、騎手をてこずらせる気性難の克服が課題になる。

 新宿武蔵野館で先日、「名もなき野良犬の輪舞」(17年、ピョン・ションヒョン監督)を観賞した。韓国ノワールの傑作で、秀逸なエンターテインメントでもある。いずれレンタルする方が多いはずなので、興趣を削がぬよう感想を述べるにとどめたい。

 俺は二つの〝デジャヴ〟を覚えた。一つ目は〝どこかで見たような展開〟で、世界各国で製作されたノワール映画の粋を集めている。本作のW主人公は、刑務所で出会った冷酷な組織の実力者ジェホ(ソル・ギョング)と潜入捜査官ヒョンス(イム・シワン)だ。両者を織り成す糸は溯りつつ明かされる。

 南と北の諜報員であっても、警官とヤクザであっても、葛藤を越える絆を獲得出来る……。本作にもそんな韓国映画の〝公式〟が根付いていた。二つ目のデジャヴは〝どこかで見たような顔〟。日韓の俳優は容貌が似ており、楽しい発見の連続だった。

 阿部和重著「クエーサーと13番目の柱」(12年)を読了した。伊坂幸太郎との共作「キャプテンサダーボルト」、評論「幼少の帝国――成熟を拒否する日本人」を合わせると8作目になる。俺は当ブログで、島田雅彦の「無限カノン三部作」と「シンセミア」を21世紀の日本文学のツインピークスと位置付けてきた。

 研究者ならずとも、作家の本質を知るためには、時系列に沿って読むべきかもしれない。デビュー作「アメリカの夜」(94年)以降の10年間の小説は読んでいない。重厚な長編「シンセミア」でインプットされたイメージとは乖離するが、猛スピードで疾走する本作も阿部ワールドの魅力なのだ。

 阿部の作品に共通するのは、登場人物は歪み、壊れている点だ。本作の主人公、タカツキリクオは元写真週刊誌記者で、悔恨を背負って生きている。雇い主のカキオカサトシは若くして巨万の富を築いたIT起業家だが、他者との距離感が不可思議だ。タカツキが属するチームの面々も、正体不明の社会的不適合者揃いだ。

 カキオカはキングを自称し、自身に相応しいQ(クイーン)を探しているが、触れようとはしない。天体観測の要領でQの全てを、非合法な手段(盗撮、盗聴器設置など)を用いて知ろうとしている。タカツキの仕事は早い話、パパラッチで、前職と変わらない。

 阿部には日本的情念やスピリチュアルへの畏怖が窺われる。冒頭に〝引き寄せ〟と記したが、旧友、そして新たにチームに加わったニナイは〝引き寄せの法則〟を熱く語る。タカツキは一笑に付すが、事態は想定外の方向に進んでいく。

 本作の解読に役立ったのが翌年(13年)に発表された短編集「Deluxe Edition」だ。少年たちの二次元から監視する大人の三次元へと視座が移ったり、狩られる大人と狩る若者の主観が交錯したり……。複層的な意識の連なりが描かれていたが、本作では一挙手一投足がネット上で拡散されたチームは、不可視の支配に怯えて壊滅する。

 下敷きになっているのは、二つの交通事故死だ。ダイアナ妃、そしてタカツキ自身が贖罪の思いを抱く後輩記者の妻子の死である。カキオカ、タカツキ、そしてニナイにとって、Qは一人に収束する。デビュー間もなく大ブレークしたガールズトリオ「エクストラ・ディメンションズ」で唯一、生身の人間であるミカだ。

 早回しで展開する本作で印象に残ったのは、叙情的なムードが濃い場面だ。チーム解散後、タカツキは野球場で歌とダンスを練習するミカを目撃する。落雷で動転したミカを介抱して去っていくが、稲妻はタカツキの心にも刺さる。タカツキの願いの実現ともいえるラストシーンに繋がっていくのだ。

 ビヨンセを会話に使うなど、阿部の音楽への関心の高さが窺える。初心を知るためにも、90年代の作品を読みたくなった。

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ダービー予想&スポーツ雑感

2018-05-26 13:06:02 | スポーツ
 今回はダービーをメインに、スポーツの雑感をあれこれ綴りたい。まずは、先延ばししているうち、賞味期限切れの感もある暴力タックル問題から。

 日大アメフト部が集中砲火を浴びる一方で、構図が全く同じ森友・加計問題で安倍首相夫妻への糾弾は手ぬるい。日大はメディアにとって〝叩き頃〟なのだろう。どこにでもいる〝内田もどき〟に抗議する勇気がない者にとって、宮川選手はヒーローと映る。

 アメフトは戦争に擬せられたゲームで、NFLやNCAAでは、ヘッドコーチのペップトークの巧拙が結果を左右することがある。とはいえ、チームは人種、宗教、個性が異なる選手の集合体だから、配慮が必要だ。QBを守るために様々なルールが設定されており、「潰せ」といった直截的な表現はアメリカではあり得ない。

 関学大の鳥内監督は宮川選手の会見を受け、「スポーツの範疇を逸脱している」と語った。今回の日大だけでなく、スポーツ界、いや社会全般に戦前の軍隊的体質が残っている。理不尽や不条理を沈黙のうちに受け入れる風潮が、現代日本の根深い病根だ。

 東京五輪で正式種目になったサーフィンで思い出すのは映画「ハート・ブルー」(1991年)だ。サーファーで強盗団のリーダー(パトリック・スウェイジ)と刑事(キアヌ・リーブス)が対峙するストーリーだ。Xスポーツは定着せず放浪するボヘミアン階級に育まれた。グレイトフル・デッドやヘルズ・エンジェルズと志向は同じで、彼らの精華はウッドストックである。

 「かつてXスポーツの会場ではメタリカやグリーン・デイが大音響で流れ、マリフアナの煙が立ちこめていた」と留学経験のある知人が話していた。不良とアウトサイダーが興じる刹那的なスポーツが五輪競技に次々採用される現状に、ドラスティックな時代の変化を覚えている。

 25日現在、横浜ベイスターズは21勝19敗と想定通りの成績を残している。ラミレス監督が取っ換え引っ換え選手を使ったことで、選手層は一気に厚くなった。心配なのは監督の〝過信〟だ。負けが込めば、起用を巡る不満が渦巻く可能性がある。負のスパイラルが起きないことを願いたい。

 藤井聡大、井上尚弥、そして大谷翔平……。種目は異なるか、〝奇跡の軌跡〟を見せつける者たちに魅せられている。大谷の二刀流は素晴らしいが、アメリカにはワンランク上のパフォーマンスを見せた選手がいた。NFLとMLBの両方でオールスターに出場したボー・ジャクソンである。ボーの偉業にはまだ及ばないが、大谷には更なる飛翔を期待している。

 アーモンドアイが先週、オークスを圧勝した。今週のダービーでは同じくPOG指名馬のダノンプレミアムが1番人気で出走する。最内枠に入ったことで勝つ可能性は高くなった。弥生賞以来というローテは不安だが、井内利彰氏を筆頭に、前走時の調教は「せいぜい五分程度」と見るトラックマンが多かった。今回はビシビシ追われており、体を10㌔以上絞って出走できそうだ。

 本命はダノンだが、相手は難しい。ともに母系が短距離血統のブラストワンピースは重め、ワグネリアンは8枠⑰番とマイナス材料がある。ダノンが勝てばOKで、対抗にデムーロが乗る良血⑤キタノコマンドールを考えている。もう一頭の指名馬は人気薄(15番人気)の⑭エタリオウだ。ボウマンが無欲で乗れば③着はあるかもしれない。

 政治と同様、競馬関連のネットの書き込みに目を覆いたくなる。ダノンプレミアムやワグネリアンの掲示板にはアンチが跋扈し、汚れた足跡を残していく。ダノンはマイラーと決めつけつつ、ワグやブラストを推すのだから不思議でならない。ワグの板で残念なのは福永騎手への罵詈雑言だ。〝馬を育てる力があるが、大レースで人気馬を持ってこれない〟という評価は当たっている部分もあるが、中傷には我慢ならない。

 ワグネリアンは今回、猛調教をこなしてきた。ダノンに勝つのは勘弁してほしいが、福永への応援を込めて馬券に含めたい。ダノンを軸に、キタノ、ワグ、そしてエタリオウを絡めて馬券を買うことにする。当日の気配と馬体重いかんで変更もあり得るが……。


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「ザ・テノール」&「井筒高雄講演会」~新緑の候に心が濡れた

2018-05-22 23:05:25 | 戯れ言
 日大選手の会見、根底にある問題については次稿の枕で記したい。森友。加計問題で自分を殺す官僚たちに一言、「宮川青年を見習え!」……。

 是枝裕和監督の「万引き家族」がカンヌ映画祭でパルムドールを獲得した。最近の是枝に、<社会性の欠落>を感じていた。是枝はかつて「NONFIX」ディレクターとして、弱者切り捨て、公害、官僚機構、差別、憲法にメスを入れ、日本の矛盾を抉っていた。
 
 最近の是枝作品は高い完成度を誇っているが、映画監督デビュー後の鋭さが薄れていた。飼い慣らされているとまで感じていたが、「万引き家族」の後景には貧困や格差が描かれているらしい。是枝とツインピークスと見做していた園子温の復活も願っている。

 先週末はグリーンズジャパン会員発プロジェクトの企画イベントをハシゴした。まずは、高円寺グレインで開催されたソシアルシネマクラブすぎなみ第29回上映会「ザ・テノール 真実の物語」(14年、キム・サンマン監督)から。同会はドキュメンタリー映画が常だが、本作は事実に基づいて製作された日韓合作映画である。

 韓国出身のベー・チェチョル(ユ・ジテ)は<1世紀に一人の才能>と将来を嘱望されるテノール歌手である。「本場でアジア人が主役を張れるはずがない」との偏見と闘ってキャリアを積み上げたが、絶望の淵に落ちる。甲状腺がんが声帯に及び、手術の際、横隔膜を傷つけられた、大門未知子ならなんて想像してしまったが、チェチョルは声を失った。

 チェチョルと友情を育んだプロモーターの沢田(伊勢谷友介)は声帯手術の権威、一色医師(実在の京大教授)に執刀を依頼し、妻ユニ(チェ・イェリョン)も懸命に支える。横隔膜の傷も癒え、チェチョルは第一線に復帰した。絆と夢を問う本作に、故日野原重明聖路加名誉院長は「102年の人生でピークの映画」とコメントしていた。ロック好きながらオペラ興行会社に就職した美咲を生き生きと演じた北乃きいが、キラリ光っていた。

 程良く心が湿った後、「井筒高雄講演会~9条改憲と自衛隊を考える」(グリーンズ杉並主催、阿佐谷地域区民センター)に足を運んだ。俺はグリーンズ杉並の幽霊会員で、普段は貢献していないから、早めに行って開場準備に協力した。講演会には杉並区長選や区議補選の候補者も顔を見せ、大盛況のうちに進行する。

 井筒氏は陸上自衛隊レンジャー隊員だったが、PKO法を機に退職する。大学卒業後、加古川市議を経て、現在はベテランズ・フォー・ピース・ジャパン代表として、自衛隊の仕組み、戦争の実相を伝える講演を全国で行っている。冒頭、ベテランズ・フォー・ピースの一員として国連や沖縄で通訳を担当しているレイチェル・クラークさんが登壇し、メッセージを寄せた。

 参加するに当たって、俺は質疑応答タイムに問いをぶつけるべく準備していた。<9条堅持によって日本は平和だったという〝正論〟は、沖縄が置かれている状況を無視した戯言ではないか>という内容である。ところが、クラークさんと井筒氏は冒頭、俺の疑問をクリアにしてくれた。安保違憲訴訟の原告である井筒氏は、日米安保と日米地位協定の廃止を目指し、<オール沖縄の〝本土叛〟結成が必要>と主張していた。

 井筒氏は軍隊と戦争のリアルを体感しているから、上っ面の言葉に違和感を覚えている。保守も革新も〝お花畑〟の住人と揶揄していた。十数㌻のレジュメを用意し、様々なデータ(貧困率と自衛隊入隊者との関係など)に加え、自身の来し方もユーモアたっぷりに話された。

 9条壊憲以上に問題と指摘したのは自民党案に書かれている<緊急事態条項>と<国民の義務>だ。イスラエルによるパレスチナ人虐殺を例に挙げ、「日本においても(反体制派に向け)あのような事態が起き得る」と警鐘を鳴らす。国民に義務を課す自民党案は、安倍首相が敵視する中国や北朝鮮をモデルにしたかのようで、<国民>という意識が欠落している。

 原発54基が攻撃対象になる、食糧自給率が低いから長期戦に耐えられない、輸出入なしに経済は成立しない……。井筒氏は理路整然と<地震大国の日本は戦争できない>と結論付ける。迸る魂の声に、俺の心は熱く濡れた。

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「尼僧とキューピッドの弓」~想像力と寓意に満ちた多和田ワールド

2018-05-18 09:48:04 | 読書
 ここ数日、気になるニュースが相次いだ。まずは訃報から……。最期までジャーナリストとしての矜持を保った岸井成格さん、野性味あふれるスタイルで歌謡界を席巻した西城秀樹さんが亡くなった。心から冥福を祈りたい。日大アメフト部の暴力行為については、稿を改めて記すことにする。

 エルサレム首都移転への抗議デモで、乳児を含む60人以上の死傷者が出た。ジェノサイドを告発する声を受け、国際司法裁判所が調査を開始する可能性がある。アメリカ&イスラエルの<悪の枢軸>への非難は今後、世界で広がっていくだろう。カンヌ映画祭でもベニチオ・デル・トロ(「ある視点」部門審査員長)らが抗議の意思を表明した。

 繰り返し記したが、ガザ無差別空爆(2014年)の際、観覧席に集まったエルサレム市民は火の手が上がるたびに歓声を上げ、乾杯していた。アウシュビッツのナチス将校に比すべきおぞましい光景を伝えたキャスターは翌日、CNNを解雇される。メディアにおけるユダヤ系の力は圧倒的で、真実が伝わらない仕組みが出来上がっている。

 「尼僧とキュービッドの弓」(多和田葉子著/講談社文庫)を読了した。当ブログでは「犬婿入り」、「雪の練習生」、「献灯使」、「容疑者の夜行列車」を紹介しているが、ドイツ在住の多和田は日独両方の言語で小説や詩を発表し、ノーベル賞候補と目されている。膨大な作品群で5作目だから、俺は初級の読み手に過ぎない。

 作品としての貌は異なるが、多和田と小川洋子に共通点を覚えている。年は近く、名前が〝ようこ〟というだけでない。「雪の練習生」(多和田)と「猫を抱いて象と泳ぐ」(小川)は想像力と寓意に満ちた内容で、ともに物語を神話の領域に飛翔させていた。

 「尼僧――」は2部構成で、それぞれ主人公は「わたし」だ。第1部「遠方からの客」は日本人作家の「わたし」(≒多和田)が小説を書くため短期間、ドイツ北部の尼僧修道院に寄宿するという設定になっている。第2部「翼のない矢」は駆け落ちした前修道院長の独白で、第1部で提示された不在の経緯が明かされている。<書く>をキーワードに、二人の「わたし」は重なっていく。

 修道院では厳格な規律の下、時に神学論争も闘わせる。外部と遮断され、尼僧たちはストイックに生きている……。そんな先入観と本院は懸け離れていた。「わたし」も歓迎されたし、尼僧の家族や元夫も自由に行き来している。ルーテル派に属していることも理由のひとつのようだ。

 尼僧たちは概ね60歳以上だ。夫と死別したり、離婚したりの女性が、老いたとはいえ官能の疼きを秘めながら共同生活を送っている。高齢女性のためのシェアハウスといった雰囲気だ。趣味も行動パターンも異なる。モーツァルトを大音響でかける人もいれば、アバの曲が主題歌なっている映画に「わたし」を誘う人もいる。

 「わたし」は尼僧たちにニックネームを付けていく。「透明美」、「貴岸」、「老桃」、「火瀬」、「河高」……といった具合だが、ドイツ文化に造詣の深い「透明美」さんと「わたし」の会話が第1部の肝になっている。ポッシュの「最後の審判」を論じるあたり、〝教養小説〟的な薫りがする。
 
 「透明美」さんは修道院を動かす力学を知悉している。院長として適任なのは、尼僧たちが不揃いであることを認めた上で、寛容の精神でまとめること。そして信仰の篤さより事務的な経験が求められる。前院長が選ばれたのは、若さだけでなく運営能力を期待されたからだ。

 第2部の「わたし」は、第1部の「わたし」が発表した作品を遠くカリフォルニアで読む。来し方を回想する彼女は奔放な女性だが、自分の人生を何かに操られていると感じている。日本の弓道を学んでいたが、自分は弓ではなく、放たれる矢であると見做していた。だから「わたし」は自分を取り戻すため、物語を綴る決意をする。

 第2部では、弓道をドイツに紹介したヘリゲルがナチス信奉者だったことが紹介される。史実に加え、仕掛けや修辞、謎がちりばめられていたが、その殆どを俺は見逃している、はずだ。多和田の作品に接していく過程で、読解レベルを上げていきたい。

 オークスの枠順が確定した。俺はもちろん、1番人気が予想されるPOG指名馬の⑬アーモンドアイを応援する。多和田ではないが、ア-モンドアイを日本語にしたらどうなるだろうと考えた。「扁桃愛」は平凡かな……。
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観察映画「港町」が柔らかく抉る日本の真実

2018-05-14 21:33:24 | 映画、ドラマ
 安倍機関と揶揄されるNHKだが、ドキュメンタリーは秀作揃いで、当ブログでも折に触れて紹介している。直近では「透明人間になった私」と「プリ・クライム」(4月21日の稿)で、監視社会に警鐘を慣らしていた。

 〝事実の彼方にある真実〟を追求する点はドキュメンタリーと変わらないが、<観察映画>のテーゼを掲げる想田和弘監督の最新作「港町」(18年)をイメージフォーラムで見た。ドキュメンタリーは作意に基づいて進行するが、観察映画にシナリオはない。先入観を排し、製作過程で焦点を定めていく。

 通常のドキュメンタリー監督と想田が、国会で別々にカメラを回したら、どのような作品が出来上がるだろう。ドキュメンタリーなら安倍首相、麻生財務相、佐川前国税庁長官、柳瀬元秘書官らの答弁に様々な資料を挿入し、政官一体になった<悪の構図>を暴くだろう。想田なら二元論に囚われることなく、首相らの良心の崩壊を柔らかく抉るはずだ。

 前作「牡蠣工場」(15年)を岡山県牛窓町で撮影中、老漁師ワイちゃんと出会ったことが製作のきっかけになった。ちなみに「牡蠣工場」も観察映画だが、意外なほどシステマチックで、明確なテーマ性を感じた。3・11で東北から移住した一家、中国から出稼ぎにきた若者が世界の貌を炙り出していた。

 「港町」の撮影はワイちゃんの日常に接するうち計画性なく始まったというから、観察映画の真骨頂だ。ワイちゃんが取った魚が卸→鮮魚店→各家族、そして野良猫軍団に流通する過程を描くうち、想田は〝主役〟を発見する。「ワイちゃんは嫌い」と広言し、頻繁にフレームインするクミさんは、孤独を癒やすかのように能弁、お節介で事情通の老婆だ。

 本作はエンターテインメントの対極で、俺が見た回も観客は少なかった。作品に登場する50歳以下は、移住してきた男性ぐらいだろう。「牡蠣工場」で主役級だった白猫? が語り部役を担っている。他にも多数の猫が登場し、ネットで存在を知った猫好きの観光客が牛窓を訪ねているという。

 若い人は眠くなったに相違ないが、還暦を過ぎた俺には身につまされる内容だった。俺の理想の老後は、気持ちが通じるパートナーがいて話が合う仲間もいる、ネットで世界と繋がり文化的な生活も維持する……、といったところだが、先立つもの(お金)がない。40年近くキリギリスだった俺は下流老人確定だ。

 ワイちゃんは町を出て企業に勤めた娘と疎遠のようだ。牛窓に根を生やしているクミさんの友人は、子供たちに邪険にされていて、「一緒に入水自殺しようか」と話すクミさんに頷いている。そのクミさんは次第にヒートアップし、「自分は根無し草で本当の親を知らない。息子は盗まれて病院に収容されている」とカメラに向かって熱弁を振るう。元気そうに見えたクミさんだが、エンドロールで訃報を伝えていた。

 「牡蠣工場」にも感じたことだが、カメラを背負って接近する想田は、対象にとって自らと同じ目線の〝アマチュア〟と映るはずだ。だから、気取らない本音を語らせることが出来る。クミさんの語る来し方は、事実かもしれないし、孤独が育んだ物語かもしれない。でも、虚実を切り分けることにどんな意味があるだろう。クミさんの言葉は<紛うことなき<真実>なのだ。

 個々の営みの背景に、都会と地方との対比では済まない本質的な問題が存在する。牛窓の無数の空き家は、俺が暮らす中野区のシャッター街と根っ子で繋がっている。想田は声高に叫ばないが、〝板子一枚下は地獄〟を見据えている。

 客員教授としてミシガン大に招かれた想田は、カレッジフットボールを舞台に16年秋、学生たちと「ザ・ビッグハウス」を製作した。折しも大統領選の真っ最中で、トランプを巡る動きも描かれている。来月の公開が待ち遠しい。
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マニックスの「レジスタンス・イズ・フュータイル」はロック最後の燦めきか?

2018-05-10 23:27:44 | 音楽
 この顔が画面に大写しになるたび、暗澹たる気分になる。麻生太郞財務相のことだ。先進国なら一発レッドの御仁が居座っていること自体、この国が非民主主義国家である証左といえる。セクハラ擁護など女性侮蔑発言に事欠かず、ナチス礼賛は海外で物議を醸した。

 故野中広務氏について「あの男は出身だからトップに据えることはあり得ない」と洩らし、総務会で当人に面罵された。麻生炭鉱は強制連行された朝鮮人を劣悪な条件下で働かせ、多くを死に至らしめた。蓄積された汚れた富が、力の源泉(麻生派は60人弱)になっている。

 麻生氏と対照的に、ロッカーの暴言には知性やユーモアを感じることもある。イアン・マカロック、モリッシー、ノエル&リアムのギャラガー兄弟とUKロックは暴言男の宝庫だが、他の追随を許さないのはジョン・レノンだ。「ビートルズはキリストより有名」発言はアメリカで不買運動を引き起こす。

 レノンは他のジャンル、とりわけジャズに辛辣で、<好むのは一部のインテリ。終わった音楽>と攻撃していた。半世紀を経て、ロックが死に瀕している。欧米の野外フェスではチケット売れ行きに貢献しなくなったことで、〝ロック枠〟を制限する動きがある。ロック衰退を象徴的に示す出来事が今年、連続して起きた。

 ローリング・ストーン誌はビヨンセのコーチェラにおけるパフォーマンスを、<かつて、カルチャーのターニングポイント、記念碑的瞬間として、ウッドストック、モンタレーポップ、アイル・オブ・ワイトがあった。我々には2018年、コーチェラのビヨンセがあった>と絶賛した。

 今夏のフジロックに出演するケンドリック・ラマーはピュリツァー賞を受賞した。クラシック、ジャズ以外では初めてである。ビヨンセはR&Bとソウル、ラマーはヒップホップにカテゴライズされている。廃れゆくロックと心中する俺は、これからも聴くことはないだろう。

 ロッキン・オン誌で〝衝撃的〟、あるいは〝ラディカル〟と紹介されるアーティストはアフリカ系が大半だ。ロックは反骨精神と世界観を失ってしまったのだろう。現役の著名バンドで孤塁を守っているのは、パール・ジャム、ミューズ、そして以下に紹介するマニック・ストリート・プリーチャーズぐらいではないか。

 13thアルバム「レジスタンス・イズ・フュータイル」を購入した。<身内を褒めない>京都人として、馴染みのバンドを激賞するのは気が引けるが、声を大に言う。邦訳すれば「抵抗は無駄」の本作は、5th「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」(98年)に匹敵する傑作だ。

 ロックとは微分係数で、瞬間最大風速だ。デビュー盤が代表作というバンドも少なくない。30歳前の俺は、スミス、アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズの1stに感応し、擦り切れるまで聴き込んだ。そして、デビュー27年、50歳前後のおっさん3人が奏でる〝青春の音〟が、還暦を過ぎた俺にとって麻薬になった。

 話は逸れるが、「闇の伴走者」(全5話/WOWOW、15年)を再放送で一気に見た。敏腕編集者の醍醐(古田新太)は調査員の優希(松下奈緒)に、漫画における編集の意味を説く。<凡百の漫画家と手塚治虫、白土三平、楳図かずおを分かつものは編集の力だ。画稿を配置する順番を入れ替え、構成を変えることによって、駄作が傑作になり得る>(要旨)。

 ♯2「インターナショナル・ブルー、♯9「イン・エターニティ」を筆頭に、メロディーがキャッチーで全曲シングルカットが可能な本作をさらなる高みに押し上げたのは、上記の編集の力ではないか。曲の連なりがナチュラルで、小説でいえば一貫したテーマに基づく短編集といった赴きだ。躍動感、リリシズム、ノスタルジーに溢れた本作は、廃れゆくロックの〝最後の燦めき〟だと思う。

 暴力的、スキャンダラスなイメージでキャリアをスタートさせたマニックスは、リッチーの失踪と死亡認定を経て、苦悩、成熟、怒りを作品に刻んできた。詩人トリオの一角は崩れたが、本作も知性が溢れている。メッセージ性は相変わらずだが、諦念、人生の断片、老いらくの恋めいたものがちりばめられている。マニックスは四半世紀を濾し取ったのだろう。だから、純水の清々しさを湛えたアルバムが誕生したのだ。

 メンバーの誰かが日本文学に言及していた記憶がある。資本主義への絶望を込めた「享楽都市の孤独」のPVは日本で撮影されたし、本作のジャケットは、ニッキーが偶然発見した侍の写真だ。彼らは日本と縁がある。秋には実現するはずの来日公演に足を運びたい。
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新緑の京都雑感~逃走劇、貧困救済、七回忌、憲法etc

2018-05-06 16:51:34 | 独り言
 新緑の京都で過ごした数日の雑感を手短かに記したい。従兄宅(寺)を宿に、母が暮らすケアハウスを訪ねるのが帰省時の日課だ。

 三島-新富士間に人が立ち入り、警官と〝鬼ごっこ〟を繰り広げたため、1時間遅れで京都に着いた。鬼ごっこといえば、瀬戸内海を起点にした点で、刑務所脱走事件で連想したのが「アトミック・ボックス」(池澤夏樹)である。国家機密を手にした美汐は公安当局を振り切ったが、平尾受刑者は23日でお縄になった。

 京都新聞に従兄のフィリピン貧困救済活動が紹介されていた。物資援助だけでなく、フィリピンの青年層を招き、地元の高校生を引率して当地に赴くなど国際交流を実践している。奨学金制度も準備しているという。

 元参院議員で文科政務官を務めた従兄は、前川元事務次官(当時は課長)と頻繁にやりとりした。笑みを絶やさず、懐の深さを感じさせる前川氏の一連の言動は信じるに足りると話していた。公正と平等、護憲、環境保護を重視する従兄は、自民党では絶滅危惧種のリベラルだ。

 帰省のメインイベントは妹の七回忌だ。10代で膠原病を発症し、30年闘って召された。直接の死因は症状を抑えるために飲んでいた薬の副作用である。通夜と葬儀の参会者のうち数十人が号泣する様子を見て、俺と決定的な〝人間としての価値の差〟を感じた。

 前々稿で紹介した遠藤ミチロウは<血液が燃える 心臓が締め付けられる 神経が傷ついて 足が痺れてうごけない>(「膠原病院」から)と綴っていた。妹も膠原病に苦しみながら、主婦業をこなし、コミュニティーの軸になっていた。俺が従兄宅に帰省出来るのも、妹が培ってきた縁のおかげである。童話を書き、ピアノを教えるなど、死を意識しながら身を削っていた。

 前稿で紹介した「苦界浄土」には水俣病患者の娘を慈しむ母親の思いが綴られていた。長期入院中の妹を、別の病院に入院した母が抜け出して見舞う姿に、母娘の絆を感じた。あれから6年……。七回忌は身内だけのささやかな会になったが、俺の中で妹は死んでいない。日々真剣に生きることを積み重ね、一歩でも妹に近づきたい。

 帰省中なので、憲法記念日の集会には毎年、参加していない。今年は全国300カ所で開催され、有明防災公園(東京)では5万人が集まった。メインステージでは杉原浩司氏(武器輸出反対ネットワーク代表、緑の党東京共同代表)がリレートークに加わり、サブステージではPANTAが演奏した。見逃したのは惜しい気がする。

 <平和、自由、民主主義は安倍政権の下、危機に瀕している>が識者の〝公式見解〟だが、沖縄が端的に示しているように、<主犯=アメリカ、従犯=日本>という構図はベトナム戦争当時から変わらない。憲法9条は日米安保とリンクしていることを捨象した護憲論に説得力を感じない。

 今回も従兄宅の猫のミーコと交遊した。耳が遠くなり、行動範囲も狭まったと従兄は心配していた。法事で寺を訪れた猫好きの母も、ミーコを抱いて「可愛い」とうっとりしていた。再会を楽しみにしている。
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「苦海浄土」~言霊で紡がれた鎮魂歌

2018-05-02 19:32:09 | 読書
 水俣病犠牲者慰霊式(1日)の後、「患者の救済は終わっている」と記者会見で発言したチッソ後藤社長が批判を浴びている。帰省する新幹線で「苦海浄土 わが水俣病」(石牟礼道子)を読了したばかりで、水俣病について知識は乏しいが、感想を以下に記したい。

 学生時代、本作を100㌻ほどで放り出した。エンターテインメントと真逆の重さに、脆弱な精神が堪えられなかったからだろう。隅っこで政治運動に関わっていた俺にとって、<抵抗>が抑え気味の本作が物足らかったことも、〝頓挫〟の理由だった。

 40年ぶりにページを繰るうち心が震え、涙腺が緩むのを禁じ得なかった。東日本大震災と福島原発事故、翌年の妹の死が、俺の感性をウエットにした。ノンフィクションの嚆矢、記録文学の極致である本作を、作者自身は<私小説>と見做している。通学先の水俣が石牟礼にとって<内なる世界>であることは、「わが水俣病」の副題が物語っている。

 谷川雁(詩人、活動家)が主宰する「サークル村」に加わった石牟礼は患者たちと同じ視線で接し、その心の裡を自らの言葉に託す。方言の力、そして詩人、歌人としての表現力が患者たちに〝聖性〟を付与し、清冽な魂を浮き彫りにした。

 患者たちの心身を壊したのはチッソの工場排水だった。魚が汚染され、それを食べた猫が踊るようになる。被害は人間に及んでいくが、患者の側に立つ者は少なかった。上記の谷川、宇井純らが支えたが、保守だけでなく、左派の組合も冷淡だった。足尾には田中正造、三里塚には戸村一作と、一揆指導者を彷彿させるシンボルがいたが、水俣にはリーダーがいなかったのだ。

 水俣がチッソの城下町だったこともあり、患者たちは孤立していく。踊る猫は見世物扱いで、患者の姿を嫌悪する市民が大半という状況で、差別意識が醸成されていく。沈黙を守り、発症を申請しない漁民もいた。安保闘争の際、デモ隊は通りかかった患者たちの行進に、「皆さんも参加しましょう」と呼び掛けた。その場にいた石牟礼は絶望を感じる。「私たちも水俣病の皆さんとともに闘います」となぜ言えなかったのかと……。

 池澤夏樹は「素晴らしい新世界」(2000年)で脱原発と再生可能エネルギーの可能性を俎上に載せた。3・11後、頻繁に被災地に足を運んだ池澤は、「春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと」(11年)に、<どうして自分がこんな目に」という恨み言と一切出合わなかった>と綴った。水俣病患者たちと通底する点もある。

 患者たちは東京からやって来る議員連中に期待し、「国会議員様」と呼んで惨状を訴えるが、実効はない。怒りを抑え切れず行った抗議が〝過激〟と見做され、他の市民たちとの溝を深める。患者と認定されても、補償と引き換えに生活保護を打ち切られ、さらなる貧困に沈む家族も多かった。行政の酷い仕打ちまで天災と受け入れる庶民の心情を利用する政府の〝棄民の伝統〟は、福島にも受け継がれている。

 民より官を、環境より成長を上位に置くのは日本だけではない。グローバリズムは世界中で自然とコミュニティーを破壊し尽くし、人間を蝕んでいる。だから上記の池澤は責任編集者として日本から唯一、「世界文学全集全30巻」(河出書房新社)に「苦界浄土」を選出した。

 患者たちのモノローグに言霊が宿り、人間の本質を問い掛ける。とりわけ心を打たれたのが母たちの思いだ。発症(胎児性中毒の赤ちゃんも含む)した幼児を慈しむ母の心は研ぎ澄まされ、子供の中に神を見て、同時に原罪意識に苛まれる。「苦界浄土」は祈りの書であり、レクイエムだ。石牟礼が提示した普遍かつ不変の真理は、今も踏みにじられている。

 冒頭に記した慰霊式で小学6年生の少女が寄せたメッセージに感銘を覚えた。長くなるが以下に引用する。

 <自分勝手な幸せを追い求めたことにより引き起こされた水俣病で、いわれのない差別を受けた患者、水俣出身というだけで心ない言葉を掛けられた人々。その苦しみは、想像できないほどつらいものであったに違いない。犯した過ちを心から反省し、被害を与えた自然や人々に心から償っていくことが今を生きる私たちに与えられた責任>(西日本新聞のホームページから)

 石牟礼の崇高な志を継ぐ若い世代に期待したい。
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