酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

歌舞伎町に懸かった虹~魔都が織り成す人間模様

2009-02-28 03:52:21 | カルチャー
 上京した時、高層ビルが建ち並ぶ新宿西口は、広大な墓地の如く映った。あれから三十余年、密度を増した墓標たちに見下ろされ、方南通りを日々歩いている。

 新宿といえば、<500㍍四方のブラックホール>歌舞伎町だ。BSハイビジョンで放映された「ドキュメント~新宿・歌舞伎町」(5回)を見て、ほろ苦さとノスタルジーが思い出の箱からこぼれ落ちる。

 コマ劇場閉館に合わせて昨年12月に撮影され、シリーズを通してのキーワードは<情と闘い>だった。光と闇、表と裏が交錯する人間模様に、不況による影響も織り込まれていた。

 第1回「歌舞伎町の二人」では、外国人の目を通して街の変貌が描かれていた。中国人の李さんは外国人相手の歌舞伎町案内人だ。食から風俗まで希望に沿うが、地域の浄化運動にも参加するなど、中国人らしいしたたかさが感じられる。歌舞伎町を撮り続ける韓国人の権さんは、「今の世の中、大きな木の根っ子が腐っている」と嘆いていた。ホームレスの少女(4歳)を撮った写真集の印税を彼女の養育費に充てたいと語る権さんに、日本人が失くしつつある情を感じた。

 第2回「あなたと踊りたい」の舞台はダンスホールだ。老夫婦、ホストとその母、ホステス、コマ劇場内で店を構える女性店主らの絆や秘めた思いに、人生の哀歓を覚えた。好意を抱き続けてきた女性と初めて踊った70歳間近の男性はパーティーの後、駅ホームで人目も憚らずダンスのポーズを取っていた。少年のようにときめきを隠さぬ姿に感銘を受けた。

 第3回「美しくたくましく」では、カメラを据えた老舗美容室に水商売の女性(ニューハ-フも)たちが仕事前に次々訪ねてくる。自らを「夜の蛾」と称して笑いを取る元ママなど、巧みな話術とユーモアにくぐってきた修羅場の数が窺える。セミプロがウリのキャバクラでもなく、金ずくで快楽を提供する風俗でもない……。微妙な立ち位置のホステスたちは、不況の直撃を受けているようだ。彼女たちにとって装いも闘いの一環だが、美容師の前で見せるあけすけさと優しさに心が和んだ。

 第4回「闘う人々」はタイトルそのままに、歌舞伎町における闘いを取り上げている。腕相撲道場や格闘技のジムに通う男たちは、<グレーゾーンが多い社会において、鍛錬が結果に反映する>と、肉体を武器に選んだ理由を述べていた。荒ぶる中高年が頭脳と精神を削り合うのが将棋道場だ。三日三晩眠らず指し続ける初老男性もいる。その情熱には感嘆したが、若者の姿が皆無なのは将棋ファンとして寂しかった。

 第5回「歌舞伎町音楽探検」でナビゲーターを務めた菊地成孔氏(ジャズミュージシャン、文筆家)は、大衆性と前衛性、ハイソと猥雑さ、母性と薄情さが混ざり合う街の魅力を紹介する。「民族音楽との融合こそ、ジャズのレコンキスタ(失地回復)の手段。雑食性の歌舞伎町こそ発信地になりうる」との言葉は説得力十分だ。この40年を振り返る外波山文明氏とりりぃの対談も興味深かった。

 いずれも25分の掌編だったが、映画の原案になりうる珠玉のドキュメンタリーだった。部屋から徒歩30分弱の魔都も、いつしか<映画と飯の街>になってしまった。もったいない話である。春になったら歌舞伎町を徘徊し、李さんや権さんを見かけたら声を掛けてみよう。


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近現代史のパラドックス~北一輝という蜃気楼

2009-02-25 00:03:59 | 戯れ言
 前稿冒頭に記した「ベンジャミン・バトン」は「スラムドッグ」に完敗したが、「おくりびと」は見事、アカデミー賞で外国語映画賞を獲得した。「おくりびと」については別稿(08年9月26日)で、以下のように記した。

 <観客の体温と湿度は、次第に大悟と等質になる。本作は日本独特の死生観と四季の移ろいを背景にしつつ、宗教や国境を超越した普遍性を獲得した。アメリカ人であれイラン人であれ、大悟と佐々木のやりとりに噴き出し、ラストではスクリーンの大悟とともに感涙にむせぶはずだ>……。

 サプライズと見る向きもあるが、本作を見た人なら納得できる受賞だと思う。

 さて、本題。この時節になると、2・26事件に思いを馳せる。<右翼思想家>北一輝の影響を受けて決起した青年将校率いる反乱は、<平和主義者>昭和天皇の指示で鎮圧された……。これが常識的な事件のあらましだが、歴史は常に捏造から逃れられない。

 北一輝と天皇についての<>内は、事実と遠いフェイクと確信している。昭和天皇がいかに戦争を主導したかは、ピューリッツァー賞受賞作「昭和天皇」(ハーバート・ビックス)に詳述されていた。一方の北一輝は、終生変わらぬ社会主義者である。今回は名著の誉れ高い「北一輝」(渡辺京二著)をベースに、日本近現代史の蜃気楼、北一輝について記したい。

 北は明治維新を民衆による第一の革命と位置付け、第二、第三の革命を目指した。同書で意外な発見をする。<維新で落ちこぼれた士族たちに担がれた守旧派の象徴>というイメージが強い西郷隆盛に、北は強いシンパシーを抱いていた。中央より地方、官より民、管理より自由を重視するコミューン志向者と捉えていたようだ。

 北は10代にして社会主義者となり、堺利彦や幸徳秋水と交遊する。23歳で発表した「国体論及び純正社会主義」は知識人に大きな衝撃を与えたが、刊行後ただちに発禁となり、当局からの厳しいマークに遭う。大逆事件の連座を逃れたのは、中国革命に関心を抱いた北が、幸徳らと疎遠になっていたからだ。

 反皇室主義者の北は、<国家社会主義信奉者の青年将校とプロレタリアート出身の兵士の蜂起(実権奪取)⇒木偶として担いだ天皇の排除(民主革命)⇒成熟した民主主義から社会主義への移行>と、革命への道程を想定していた。

 妄想の類と一笑に付す者もいるだろうが、山村工作隊を革命の軸に据えた戦後の共産党より、遥かにリアリティーがある。北が決起に関与していなかったのは事実だが、幸徳同様、その思想ゆえに刑場の露と消えた。

 北は20代前半で空前絶後の書を著したヘーゲル⇒マルクスの流れを汲む社会主義者であり、哲学や文化を語る思想家であり、与謝野鉄幹に激賞された文芸批評家でもあった。中国革命に身を投じた若者が戦いで磨かれ、煌く玉になったのかと思いきや、マイナス面も大きかったという。

 北は孫文を「民主主義的自治政体を夢見る天使」と評し、路線的にも対立していた。北にとって中国革命の指導者は、東洋的共和政を志向し、「苦痛の鬼、戦の地獄のサタン」たる自覚も併せ持つカリスマだった。毛沢東こそ、まさに理想のタイプだったのだ。

 北が革命運動で身に付けたのは、ある種の荒みと権謀術数だった。帰国後の北は世間の目に、強請りと謀略を生業にする政治ゴロと映ったことだろう。果たして、北は変質したのだろうか。渡辺氏は<常に塵や泥にまみれて居りながら、その本質は微塵も汚されぬことのない北君の水晶のような魂>という大川周明の言葉を引き、北が初心を貫いたことを強調していた。

 現在の日本を恐慌時と重ね、ナショナリズムの勃興を危惧する識者も少なくないが、忘れてはならないこともある。治安維持法施行直後の80年前、労働者と学生だけでなく、少年やマネキンガールまで抗議の声を上げる。当時は日本の反体制運動の黄金期だったのだ。

 自由が保障された現憲法下の日本で、怒りの声は広がらない。北と昭和天皇だけでなく、帝国憲法と平和憲法もまた、歴史のパラドックスに彩られている。




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フェブラリーSとPOG~競馬から抜けられない日々

2009-02-22 00:04:21 | 競馬
 先日、「ベンジャミン・バトン」を見た。老人として生まれ、赤ん坊として死ぬ男の逆回転の生涯を、史実をストーリーに嵌め込む手法(「フォレスト・ガンプ」と同じ脚本家)で描いている。崇高な愛と人間の絆を謳う作品は、アカデミー賞で13部門にノミネートされている。いくつオスカーを獲得するのだろうか。

 さて、本題……。今回は久しぶりに競馬をメーンに記したい。まずは今年最初のGⅠ、フェブラリーSの予想だ。カネヒキリ、ヴァーミリアン、カジノドライヴの3強対決といわれるが、波乱の可能性も小さくない。

 ヴァーミリアンは肩の出が悪く、急きょ木曜追いに変更となった。奇跡の復活を遂げたカネヒキリだが、3連続GⅠ勝ちの疲労残りなのか、ヴァーミリアン同様、追い切りの動きは良くなかった。カジノドライヴは前走の馬体減(-22㌔)が心配で、臨戦過程に不安がある。

 地力がものをいうダート重賞だが、世代交代に期待して4歳馬エスポワールシチーを軸に据える。決め打ちタイプの鞍上(佐藤哲)のけれんみない逃げに期待したい。相手にはフェラーリピザを選んだ。十分な調教を積まずに臨んだ前走(根岸S)は、力の違いでしのぎ切った。

 結論。◎⑫エスポワールシチー、○⑯フェラーリピザ、▲②カネヒキリ、△⑨ヴァーミリアン、注⑭カジノドライヴ。馬連とワイドは⑫⑯、3連単は⑫1頭軸で<⑫・⑯・②><⑫・⑯・②・⑨><⑫・⑯・②・⑨・⑭>の19点。

 俺にとってGⅠ以上にハラハラドキドキなのが、POG指名馬が走るレースだ。結果には愕然とするばかりで、2勝以上を挙げた持ち馬は22頭のうちセイウンワンダーだけだ。同馬は今や俺の命綱だが、15位指名で他のメンバーも全くのノーマークだった。そんな馬が朝日杯を勝つのだから、競馬はわからない。

 昨年秋の時点で高評価を受けていたプロスアンドコンズ、ダイワバーガンディ、フォーレイカー、プレザントブリーズはその後さっぱりで、クラシック戦線に乗れそうもない。満を持してデビューしたアドマイヤメジャーも期待外れだった。ケガで離脱したり、後方でゴールしたりする“出来の悪い子たち”に、人生のレースで喘ぐ我が身が重なってしまう。

 ダービーやオークスを狙って指名したハクナマタタ、プライドマウンテン、ブレシドレインはデビューの見通しさえ立っていないが、吉報はバンガロールの復活だ。調教捜査官こと井内利彰さんは自身のブログで、最近の動きに太鼓判を押している。来週500万下で2勝目を挙げれば、NHKマイルに向け展望が一気に開けるだろう。

 つわものが集い、レートも高いPOGだが、1月最終週まではトップだった。現在は滑り落ちているが、初参加なら上々の結果だろう。初年度は<騒がれていない良血>を選んだが、次回からは厩舎や騎手も考慮して指名馬を決めるつもりだ。




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「チェ39歳 別れの手紙」~美しい卵の割れ方

2009-02-19 05:50:23 | 映画、ドラマ
 <私は常に壁(体制)にぶつかって割れる卵(抵抗者)の側を支持する>……。

 村上春樹氏のファンではないが、イスラエル文学賞授賞式でのスピーチに強い感銘を受けた。村上氏は大統領らお歴々が集う前でガザ侵攻を批判し、<壁と卵>の見事な比喩で自らの立場を表明した。

 さて、本題。今回はソダーバーグのゲバラ第2弾「チェ39歳 別れの手紙」について記したい。正直に感想を述べれば、ゲバラにシンパシーを抱かぬ者にとって極めて退屈な映画だと思う。第1弾「28歳の革命」では、ニューヨーク来訪時(64年)のエピソードがリアルなゲリラ戦を際立たせる形でインサートされていたが、第2弾には仕掛けがなかった。

 ゲバラが革命後のキューバに倦み、ソ連に反発するところから始まると想像していたが、その辺りは割愛され、オープニングはボリビア潜入だった。第1弾のダイナミズムや高揚感と無縁のボリビアでの闘いを、一本の時系で描いている。孤立し、先細りするゲバラの部隊に重なったのは義経一行の都落ちだが、ソダーバーグはヒロイズムや美学で彩ることなく、死に近づくゲバラの素顔に迫っていた。

 <1人のゲバラの背景に100人のゲバラがいる。いや、100人のゲバラが存在しないと1人のゲバラも生まれない>……。「28歳の革命」についての稿(1月29日)で、俺はこのように記した。

 残念ながら当時のボリビアには、1人のゲバラしか存在しなかった。士気は低下し、脱落する者も続出するが、ゲバラは決して希望を失わない。ゲバラとは、巨大な壁に自らを打ちつけ、美しく割れた卵だったのだ。

 <絶望的な状況こそ、革命家を育てる。我々の敗北を教訓に、次の世代が革命を成就させるだろう>……。

 気力が萎えた同志たちにゲバラはこう語り掛けていた。キューバの再現を恐れたアメリカはボリビアに介入し、ゲバラの試みを潰した。その死から39年、遺志を継いだ左翼政権が誕生する。

 ゲバライズムをアメリカがいかに恐れたかを示すのが「スパイ大作戦」(66~73年)だ。声高に抵抗を呼びかけるヒゲ面のゲバラもどきはその実、金目当ての山師だった……。こんな設定のエピソードを幾つも見た。保障された安穏を擲ってゲリラに身を投じるなんて、当時も今も、アメリカ人の価値観の対極に位置するに相違ない。

 2部作を通して感じたのは、ゲバラの崇高で鮮烈な生き様だ。翻って愕然とするのは、我が身の愚かさと卑しさである。恬淡と寛容が後半生の目標だが、ゴシゴシこすっても、濾紙を通しても、穢れは心から消えそうにない。ゲバラは俺にとって、遥か彼方で輝く星なのだ。


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「ポチの告白」が抉る悪の構造

2009-02-16 00:38:43 | 映画、ドラマ
 “ブッシュのポチ”こと小泉元首相が、日本郵政西川社長、オリックス宮内会長ら同志の窮状を見るに見かねたのか久々に吠えた。メディアは政局絡みで騒いでいるが、元首相が導入した新自由主義の負の遺産が国民を苦しめている。「尻拭いをさせやがって」が、支持率が1ケタに突入した麻生首相の本音だろう。

 今回はポチ繋がりで、新宿のK's cinemaで見た「ポチの告白」(高橋玄監督)について記したい。本作における「ポチ」とは”権力の犬=警官”と、“警察の犬=メディア”である。スリム化も十分可能だったと思うが、緊張感が途切れぬ3時間15分だった。

 警察との距離で感想は異なるはずだ。反体制として政治に関わった人は共感するだろうし、横山秀夫の小説や「相棒」のファンは違和感を抱くに違いない。全体のトーンは森巣博の小説に極めて近く、工場排水や塵芥で腐臭漂う川の如く警察を描いている。主人公の竹田(菅田俊)のように放流された稚魚は数年後、グロテスクな怪魚に変身してしまうのだ。

 強面ながら心根は優しい竹田は、交番勤務から組織犯罪対策課に引き抜かれた。麻薬密売組織やヤクザと癒着する三枝課長の影響で、竹田の手もどす黒く汚れていく。新聞社写真部員の北村と協力して悪事の証拠を掴んだトップ屋の草間は、暴力によって口を封じられた。

 5年後、三枝は署長、竹田は課長に昇進していたが、腐敗警官が殺されたことで周辺は慌ただしくなる。復活した草間は社会部に異動した北村とともに真相を伝えようと奮闘するが、新聞社内の“ポチ”により、彼らの動きは警察に筒抜けになっていた。

 「日本では逆らっちゃいけねえものが二つあるんだ。天皇陛下と警察だ」……。

 竹田が中国人の被疑者に怒鳴る台詞が、制作サイドの思いを象徴していた。皇居が何度もインサートされ、政界と法曹界を手玉に取る警察の力が暗示されている。

 反権力、反メディアを前面に出した本作は、過剰な描き方は気になるものの、<警察=正義>ではないことを知らしめる効果がある。主演の菅田をはじめ無名の俳優を配したことが、作品のリアリティーを高めていた。ラストの竹田の一人芝居もなかなか衝撃的だった。

 映像に遊びがないことなど突っ込みどころも多いが、大きな疑問が一つ残った。竹田の逮捕理由のうち、殺人示唆に相当する部分が判然としなかった。ストーリーの流れなら警官殺人だが、世間を震撼させた草間のホームページでは韓国系マフィアが犯人と名指しされていた。警察が“身内殺し”をデッチ上げるはずもない。俺は重要な何かを見落としたのだろうか。

 最後に俺の全国デビューについて。去る12日、地デジ広報の一環で、某局のカメラが仕事先に入った。3度にわたってオンエアされたが、そのうちの一つに俺が女子アナからバレンタインチョコを受け取るシーンが映っていた。<最も縁のなさそうな男に愛の手を>という意図が局にあったのなら、その狙いはバッチリだったのだが……。



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高揚感と違和感~フーファイatウェンブリー

2009-02-13 00:08:51 | 音楽
 英国で現在、最も客を呼べるバンドはミューズとフー・ファイターズだ。二つのバンドには共通点がある。ともにウェンブリースタジアムで2日間公演し、17万人を動員した。日本では海外に比べて人気も評価も格段に低いが、ともに頻繁に来日し、旺盛なサービス精神でファンを楽しませている。

 今回は先月発売されたDVD「フーファイ・アット・ウェンブリースタジアム」をベースに記すことにする。

 初めてフーファイを見たのは暴風雨下のフジロック'97初日だった(2日目は中止)。レイジの歴史的名演にレッチリもフーファイもかすんだ感はあったが、デイヴ・グロールはMCもなく首を振りながらシャウトしていた。だが、集まったファンにとって、デイヴはあくまで<ニルヴァーナの元メンバー>だった。

 傑作アルバムを次々に発表したフーファイは、スーパーバンドへの階段を登り詰めていく。その間、ヘビメタ系が結集するオズフェストに出演したり、デイヴがクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジに参加したりと、<オルタナ/グランジ>の領域から自らを解き放っていく。

 フーファイが“普通のバンド”に移行するのと比例して、アメリカのバンドながら英国で人気を確立していく。最大の理由はオアシスの失速だと思う。

 90年代中盤から後半、英国においてオアシスは絶対王者だった。セールスも動員力もビートルズ並みだったが、勢いは次第に衰えた。オアシスは労働党ど真ん中のリベラルで、若者の心情を代弁する普遍的な曲が多い。“大衆の応援歌”が消えた空白を埋めたのが、フーファイではなかったか。

 「アット・ウェンブリー」で楽曲の素晴らしさを改めて認識した。アコースティックショーを挟み、♯1「プリテンダー」、♯5「ラーン・トゥ・フライ」、♯11「マイ・ヒーロー」、♯13「エヴァーロング」、♯14「モンキー・レンチ」、♯15「オール・マイ・ライフ」と一撃必殺のパンチ力を秘めたナンバーが続く。目を潤ませるデイヴに、8万超の観衆が大合唱で応えていた。

 絵に描いたようなロックの祝祭だが、へそ曲がりの俺は高揚感と同時に違和感を覚えてしまった。同じくウェンブリーでのライブを収録したミューズの「ハープ」には、ロックの進化の可能性が提示されていたが、現在のフーファイは70年代ど真ん中だ。俺はスプリングスティーンのライブを思い出していた。

 デイヴが「人生最高の夜」と語るステージに招かれたのは元ツェッペリンのジミー・ペイジとジョン・ポール・ジョーンズだ。ちなみに10万人を動員したフーファイのハイドパーク公演ではクイーンのメンバーが参加していた。

 デイヴはカート・コバーンの呪縛から逃れんとするあまり、時の壁を突き破ってしまったのではないか。仮にカートが生き永らえ、「人生最高の夜」にゲストを呼ぶとしたら、ヘンリー・ロリンズ(元ブラックフラッグ)、ブラック・フランシス(元ピクシーズ)、サーストン・ムーア(ソニック・ユース)、マイケル・スタイプ(REM)らが候補だろう。いずれにせよ、ツェッペリンやクイーンとは対極に位置するロッカーたちだ。

 まあ、ロックを堅苦しく論じても仕方ない。好漢デイヴは先達に敬意を表し、自らもロックスターの道を歩もうとしているのだろう。グラミーで最優秀アルバムに選ばれた最新作は、ルーツミュージックへの接近や内省的な詞など、成熟した部分を見せていた。デイヴは既に40歳。活動再開後の新境地に期待したい。





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底冷えの亀岡にて~見舞い&雑感

2009-02-10 13:06:48 | 戯れ言
 不思議なことが起きた。前稿の後半部分が消えている。携帯からアクセス数を確認した時、誤って消去してしまった可能性はある。明日にでも修復せねばならない。

 先月中旬、妹が京大病院に転院した。見舞いを兼ねて帰省し、実家近くのネットカフェで更新中している。

 思わしくない数値が出たための転院だったが、幾つかは元に戻った。見た目は元気そうで、何より大きいのは気力の充実だ。友人と何度かピアノリサイタルや発表会を開いているが、次に目指すは作家デビューだ。書きためた童話の自費出版を目指し、病床で準備を進めている。どさくさに紛れて俺のブログも……といきたいものだが、残念ながら先立つものがない。もちろん、本にする価値などないことは重々承知している。

 当ブログでは折に触れ、Uターンの可能性を記してきた。いつ声が掛かっても対応できるよう、心の準備はできていたが先月中旬、事態は急転回する。詳細は書かないが、3月以降、現在の仕事先でフルに働くことになった。オファーを受け入れたことは波紋と軋轢を生んだが、義理を欠くことになった事務所の対応は、意外なほど鷹揚だった。

 物事は角度によって見え方が変わる。利害が衝突する者の目に、俺は<貧すれば鈍す>の典型と映ったようだ。辺見庸氏の表現を借りれば、<無意識の荒み>にとらわれていたのかもしれない。結果として、Uターンの目は完全に消えた。

 京大病院の広さにはぶったまげた。バス停で降り、病室に行き着くまで何人もに道を尋ねた。そのたび返ってくる京都弁の優しい響きに心が和む。ふと思ったのだが、京都を舞台にしたテレ朝系のドラマで、主役たちはなぜ京都弁を話さないのだろう。関西の視聴者は違和感を覚えるのではないか。

 昨夜(9日)、NHKで振り込め詐欺グループの実態に迫った番組を放映していた。実行犯は暴力団関連と思い込んでいたが、20~30代による犯罪で、派遣切りされた若者や大学生もグループの一員と知った。<若年層はセレブかコジキに二分化され、中間はない>と語る30前後のボスをはじめ、罪の意識が希薄であることに驚いた。家族の絆の強さに乗じる犯罪に、空しさと怒りを覚えた。

 次に帰省するのはゴールデンウイークになるかもしれない。田植えの時季でもあり、押しかけ農業見習いとして草刈りでもするつもりでいるが、義弟は「無理」と決め付けている。その頃、妹は退院しているだろうか。


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ETV特集「しのびよる破局のなかで」~辺見庸が抉る日本の現在

2009-02-07 00:54:55 | カルチャー
 世界を最も深く洞察している知性は誰? 鋭い感性と行動に裏打ちされた言葉を五臓六腑から吐き出す辺見庸氏も、有力候補の一人である。

 先日、ETV特集「しのびよる破局のなかで」に辺見氏が登場し、現在の日本を抉っていた。自分なりに整理しようとあがいたが、力量不足ゆえ未消化のまま垂れ流すしかない。<パンデミック=感染爆発>、カミュの「ペスト」、悪としての資本主義、<インタラクト=他者との相互作用>、<マチエール=感覚、手触り>が90分に及ぶ発言の核になっていた。

 秋葉原通り魔事件の一報に触れた時、辺見氏は<恐慌の心的な前触れ>と直感した。その脳裏にデジャヴのように甦ったのは、「猟奇歌」(夢野久作)の一首である。

  白塗りのトラックが街をヒタ走る 何処までも何処までも 真赤になるまで

 大恐慌期に詠まれた歌と80年後の事件に符合を見いだした辺見氏は、現在を<パンデミック=感染爆発>と規定し、以下のように記している。

 どうやら資本が深くかかわるらしい「原発悪」がほうぼうに遠隔転移し、すべての人のこころにまんべんなく散りひろがった状態が、いまという時代の手におえない病症ではないのか(「水の透視画法」)……

 <以下、原因不明の消失。近日中に修復予定>

 辺見氏は金融危機、気候変動、新型インフルエンザの蔓延を単層ではない<パンデミック>と捉えているが、最も深刻な問題は近代以降アプリオリに認められてきた価値観――道義、人倫、人権、生きている意味――が崩壊したことだと語る。

 辺見氏は「ペスト」を現在の日本に重ねる形で論を進めていく。小説における<パンデミック>の前兆はネズミの死骸だったが、人々は享楽的な日常から逃れられない。翻って日本はどうか。失業、倒産のニュースが日々伝えられているが、辺見氏いわく<コーティングされた社会の被膜の一枚下でとんでもないことが起きているとは思いたくない>人々は、倒れたホームレスを不可視の存在の如く目を逸らして通り過ぎていく。

 絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いことなのである……。

 辺見氏は「ペスト」の一節を引き、日本の現状を憂えている。人間の商品化が進行し、格差と不平等が拡大する状況で、大衆が抗うことはない。誠実、愛、癒やしといった徳目は商品広告に簒奪されてしまった。だが、辺見氏はあくまでもプラス思考だ。危機こそ人間の真価を問い直すチャンスと捉え、自身もまた、根源悪としての資本主義と闘うことを宣言する。

 特派員時代に考えたことをベースにした<時間と空間論>、山谷での活動を踏まえた<派遣村報道への違和感>など、興味深い考察も多かったが、最も記憶に残ったのは中学生を相手に講演した時のエピソードだった。

 辺見氏は「殺人以外はすべてある」(校長の弁)という荒れた中学で生徒を前に講演した。聞いていないふりを装いつつ、実は聞いていることに気付いた辺見氏に、ある男子生徒が質問する。「先生は女を買ったことがありますか」と……。

 その校区は生活保護を受ける家庭が多く、風俗で働く母親も少なくない。<女が金で男に抱かれる>ということを<マチエール>として理解している少年と「ある」と答えた辺見氏の間に、一瞬にせよ<インタラクト>が成立した。<インタラクト>に最適なツールは痛みであり、想像力で他者の痛みに架橋する試みの持つ意味を辺見氏は説いていた。

 番組の終わりに朗報があった。比類なき日本語の使い手である芥川賞作家が現在、詩と小説を執筆中という。当人いわく、寄る辺なき人間の物語、敗者の物語……。完成を心待ちにしている。

 最後に言い訳を。7日更新の当稿は前半部分を残して消失した。もともと消化不良の上、録画も消していたので復旧部分は心許ない内容になっている。実家近くで更新した次稿も、パソコン上だと全部読めるが、携帯だと後半が消えている。一体何が起きているのだろう。


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オバマも気になるスーパーボウル

2009-02-04 00:30:14 | スポーツ
 アメリカを「資本主義独裁国家」とか「唯一無比のテロ国家」と罵りながら、最もアメリカ的なNFLやWWEを楽しんでいる。俺の精神は分裂しているのだろう。

 第43回スーパーボウルは大接戦の末、スティーラーズがカージナルスを27対23で下した。スティーラーズLBハリソンのインターセプトからの100yd劇走、カージナルスWRフィッツジェラルドのスーパーキャッチなど見どころ満載で、記憶に残るスーパーボウルだった。

 NFLは格闘技の要素が濃く、一瞬の判断ミスや僅かなスピードの衰えが致命傷になる。カージナルスの老雄2人、QBワーナーとRBジェームズはここ数年、“終わった人”と見做され、DF陣の餌食になっていた。再び脚光を浴びることはないと思っていたが、ワーナーは今季序盤から、ジェームズはプレーオフ突入後、往年の輝きを取り戻した。

 アメリカ人はカムバックが大好きだ。下馬評もスティーラーズ有利だから、ピッツバーグ以外のファンは判官びいきでカージナルスの応援に回るのではと予想していたが、NHKの実況担当者がリポートしたように、観衆の9割はスティーラーズのサポーターだった。アウエー状態のカージナルスは気後れせず渡り合ったが、反則の多さ(11回、106yd罰退)が最大の敗因だった。

 今回のスーパーボウルは現地で“リセッション(景気減退)ボウル”と呼ばれていた。CM枠がなかなか埋まらず、ネット取引の入場券も値崩れし、セレブたちのパーティーも激減したという。スポーツは良くも悪くも、社会の状況や世相を反映するものだ。

 例えば“自動車の聖地”デトロイト……。ビッグ3の窮状もあり、人口はピーク時から半減(現在80万強)し、スラム化、空洞化が進んでいる。市民の希望となるべきNFLのライオンズは、0勝16敗の不名誉な記録でシーズンを終える。ちなみにMLBのタイガースも地区最下位だった。

 好対照なのはカージナルスの本拠地、アリゾナ州フェニックスで、現在のアメリカで数少ない“勝ち組の街”になった。多くの企業が拠点を移し、高納税者が終の棲みかに選んでいる。ホームタウンの勢いに乗って負け犬から変身を遂げたカージナルスだが、スーパーボウル制覇は無理と断言するファンも少なくなかった。その理由? 大統領選で敗北したマケイン議員がアリゾナ選出だからである。

 シカゴ生まれのオバマ大統領は、地元ベアーズの次に応援するチームとしてスティーラーズを挙げ、旗幟を鮮明にした。結果にはご満悦のようだが、「チェンジ」で人気を得た大統領の好みは、フットボールに関する限り保守的だ。アメリカ人はなぜ、リスキーで躍動感ある攻撃を仕掛けるカージナルスより、重厚長大でディフェンシブなスティーラーズを支持するのかわからない。

 とまれ、祝祭は終わった。夢の後にアメリカ人を待ち受けるのは厳しい現実だ。連鎖するリセッションはNFLだけでなく、欧州サッカーの土台をも揺るがせている。来年のスーパーボウル当日、世界はどんな曲線を描いているのだろう。オバマ大統領は化けの皮を剥がされていないだろうか。環境、金融に次ぐ新たな危機が世界を覆っていたとしても不思議はない。


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「ダロウェイ夫人」の毒に当たって

2009-02-01 02:14:05 | 読書
 わたしは物事や人の本質を一瞬で見抜いてしまう……。

 先日亡くなったアップダイクの「ウサギ」シリーズに登場する少女の言葉だが、彼女は作品中、あっけなく死んでしまう。ヴァージニア・ウルフも然りだが、直感の鋭い女性は不幸と背中合わせなのだろう。

 高校時代、新潮文庫目録が愛読書だった。次の夏休みには……、大学生になったら……。計画を立てるのが楽しみで、ウルフも候補の一人だったが、縁がないうち絶版になってしまった。

 米映画「めぐりあう時間たち」(02年、ダルトリー)をきっかけに、30年のペンディングを経てウルフの世界に迷い込んだ。「オーランドー」と「短編集」に続き、「めぐりあう時間たち」の原作「ダロウェイ夫人」を読んだ。

 クラリッサ・ダロウェイを起点に主観を繋げ、ポンド通りが描写される冒頭部分にいきなり圧倒される。<フォークナー⇒南米文学⇒ラシュディら英語圏作家>がモダニズムの本流という俺の“文学史の常識“は木っ端微塵にされた。本作が発表された1925年は、フォークナーのデビュー1年前だったからだ。

 客体と主体を乖離させる試み、意識の流れの追求、前衛性と実験性、濃密で繊細な描写……。本作を読むうち、胃がチクチクしてきた。“文学の毒”に当たったというべきだろう。

 ブルジョワジーの倦怠と憂鬱に苛まれるクラリッサは、面識がないセプティマスとルクレチアのスミス夫妻と感応する。第1次大戦従軍時のトラウマに苦しむセプティマスの自殺に、クラリッサの心は激しく動揺した。

 <死は挑戦なのだ。死は中心部に通じようとする企てなのだ。人々は、中心部に達することが不可能だと感じている。それは神秘的に彼らを避けるのだ。近さは遠くになり、有頂天は消え失せて、ひとはひとりぼっちになる。死の中にこそ抱擁があるのだ>……。

 俺はクラリッサの死を予感した。結末は書かないが、クラリッサのモノローグに16年後、自ら命を絶つウルフの死への希求が窺える。

 老いも本作のテーマの一つだ。クラリッサとかつての恋人で風来坊のピーター、クラリッサが憧れたサリーも50代になり、若き日の煌きを失っている。自ら敗者と位置付けるピーターに強いシンパシーを抱いてしまった。

 社会主義に関心を抱き、フェミニズムの走りで同性愛の志向も強かったウルフは、文学においても思想においても革新者だった。出会いは遅れたが、10年前でも明らかに敷居は高かった、ウルフの作品に今後、少しずつ接していきたい。

 学生時代、「バージニア・ウルフなんてこわくない」(66年)を見た。オスカーを得たエリザベス・テーラーはとてもこわかったが、題名の由来はいまだによくわからない。



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