酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「列」~中村文則が<楽しくあれ>と問いかける

2023-10-27 21:52:00 | 読書
 竜王戦で藤井聡太八冠が伊藤匠七段に3連勝し、防衛に王手を掛けた。謙虚な〝絶対王者〟の存在が、将棋界の空気を変えつつある。藤井だけでなく、永瀬拓矢九段、豊島将之九段、菅井竜也八段らトップ棋士には将棋の理想を追う求道者の趣があるのだ。先駆者は羽生善治九段かもしれない。

 棋士はともかく、人は誰しも序列や順位に囚われる。昨日行われたNPBのドラフト会議で、俺が応援しているベイスターズは1位で度会、2位で松本を指名した。答えは数年後に明らかになる。投手陣は上位指名が多いが、打者を年度順に挙げると桑原4位、宮崎6位、関根5位、佐野9位、山本9位、牧2位だった。

 中村文則の新作「列」を読了した。最近の中村にしては珍しく150㌻と短めだが、完成するまで2年以上を費やしたという。3部構成になっており、第1部は人々が並ぶ列で、第2部で時間が遡行し、主人公の正体が明らかになる。第3部で列に戻るが、主人公と交流があった人たちも並んでいる。

 主人公の心象風景、あるいはメタファーとしてまず現れるのは、異国の地で見た灰色の鳥、多色の鳥だ。繰り返し現れる<絞め殺しの木=他の植物に巻き付いて絞め殺して成長するつる植物>は本作に通底する基本のイメージで、競争によって成立する社会を表象しているとも受け取れる。主人公が執着しているのは<口角を上げる>ことだった。他者からの好感度アップに必要とされる表情に、主人公はなぜかこだわっている。

 列は停滞し、前後に並ぶ者と軋轢が生じる。横に似たような列が出来ると人々は動揺し、順調に進んでいくのを見て列を離れ、隣の最後尾に並び直そうとする者も出てくる。先頭に何があるのかわからないが、少しでも列(≒組織)の前に進みたいという人間の本能を表している。主人公は前にいる女性に欲望を抱き、合意の上で後ろから何度も交わった。

 第2部に入り、主人公の正体が明らかになる。草間という名の大学の非常勤講師で、ニホンザルの研究者だ。第1部で草間のモノローグが奇妙なほど冷静だったことを思い出したが、観察するのに慣れていたのだ。女性への絶えない欲望も、研究対象のニホンザルに同化していたのか。中村の作品には〝定番〟があるが、本作でも草間は欠落感と疎外感に苛まれる40歳前後の未来のない万年講師である。

 草間が語るサル学は興味深い。ニホンザルとチンパンジーより、人間とチンパンジーの方が遺伝的距離は近く、同種間で殺戮が起きるのも人間とチンパンジーだけなのだ。一方でニホンザルの集団は緩い乱婚社会だ。草間は時折、夢想する。画期的な論文を発表し、学会の寵児になることを……。だが、現実は真逆だ。研究仲間の石井は若くて准教授の道を確保している。それだけでなく、付き合っているのは草間のかつての恋人なのだ。

 本作で繰り返し言及されるデュルケムの「自殺論」について、中村は取材で以下のように語っている。<デュルケムの『自殺論』では、急激な不景気だけでなく、急激な好景気でも社会が病むことが指摘されている。周りが成功していくと自分の欲望が刺激されて増大し、でもその欲望は叶えられないと苦痛に変わる。SNSやインターネットが発展した今では、より他者と比べるようになり、「自分は劣っている」とか「人によく思われたい」と感じることも多くなってしまう。現代は人類史上、最もお互いが比べ合っている時代と言えます>……。中村は相対的にしか生きられない社会に問題提起しているのだ。

 第2部で草間が出会った者たちが、具体性をもって第3部に登場してくる。並んでいる目的が各自の胸に仕舞われた整理券に記されていることがわかる。研究用語では<疎外個体>にあたる草間の整理券には<列に並ぶこと>と記されていた。

 最後に草間は<楽しくあれ>と地面に書く。中村らしくない言葉だ。列の中で原発が爆発したといった噂が流れることもあった。中村はこれからどの列に並ぶのだろう。<楽しくあれ>に繋がるような小説を発表することを期待している。
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「ムーンエイジ・デイドリーム」~デヴィッド・ボウイの魂の彷徨

2023-10-23 20:34:06 | 音楽
 1970年代から80年代にかけ、京都で<デヴィッド・ボウイを嵯峨野で見かけた>という都市伝説が流布していた。これが真実であったことを数年前、「デヴィッド・ボウイの愛した京都」(WOWOW制作)で知る。京都だけでなく、ボウイの魂の彷徨に迫ったドキュメンタリー「ムーンエイジ・デイドリーム」(2022年、ブレット・モーゲン監督)をWOWOWで見た。

 劇場では見逃したが、ライブ&インタビュー映像を含め、ボウイが真情を語るモノローグも収録された貴重な作品だった。熱烈なファンというわけではないが、それでもアルバムは15枚以上持っている。ボウイは光を乱反射する透明なプリズムとしてロック史を煌めかせた。タイトルは5thアルバム「ジギースターダスト」収録曲から取っている。

 ボウイとは何か……。異星人としてロックシーンに登場した時、あれこれ否定的に叩かれていたが、一貫して変わらない姿勢があった。第一は自らの個性に則った上での自由の希求で、今風にいえば<多様性>に価値を置いていたのだ。ボウイは本作で<体制の外で活動する高潔な人に魅力を感じる。社会階層の中心が嫌いで、中道に引き込まれたくない>と語っている。訃報に接し、英誌「ガーディアン」は<世界中のアウトサイダー、偉大なフリークスたちに心の拠りどころを与え、「異形であることを恐れるな」と鼓舞した偉大なイノベーター>(要旨)と記していた。

 ボウイに影響を与えたのはジョン・コルトレーンや「路上」(ジャック・ケルアック)を薦めてくれた異父兄テリーだった。ボウイは「テリーは統合失調症で終生、病院で過ごした」と語っていた。「戦場のメリークリスマス」(1983年、大島渚監督)でボウイが演じたセリウズ少佐の贖罪を込めたモノローグに、半生と重なる部分を感じた。ボウイは芥川龍之介のように、いずれ訪れる狂気を恐れていたのではないか。

 ボウイは自殺したテリーに自らを重ねていた。「デヴィッド・ボウイの愛した京都」で武田好史氏は、<ボウイは次の一歩が死へのダイブになりかねない、前人未踏の地点を歩み続けた。死への通路が無数に用意されている京都の魔力に惹かれ、同時に生を実感していたのではないか>と分析していた。

 ボウイはLAに拠点を移したが、薬に溺れるなど生活のリズムを崩してベルリンで再出発を期す。音楽サークルとは距離を置くボウイだが、ベルリン3部作を共同制作したトニー・ヴィスコンティとブライアン・イーノとは晩年に至るまで親交があった。ヴィスコンティは本作のプロデュースも担当している。ボウイは<体制の外で活動する高潔な人に魅力を感じる>と語っていたが、不遇だった頃のルー・リードやイギー・ポップにも手を差し伸べている。

 ベルリンや京都で自らの奥深くを旅したボウイの次の一手はアメリカへの帰還だった。本作で自身を<究極の振り子>と評したボウイは、一方の極点に達すると、正反対であるもう一点へ自然と引き戻された。1980年代、ボウイはMTVの寵児になる。当時、パンク/ニューウエーブに漬かっていた俺は、自ずとボウイから離れた。当時をボウイは<金を稼ぎ、大規模ライブもやった。でも、もういい。人生の真空地帯に来た>と振り返っている。更なる〝チェンジ〟の時機が訪れたのだ。

 政治的な発言は控えていたボウイだが、時代を変革する場所に立つ機会に巡り合った。1987年、西ベルリンで野外コンサートを開催した。壁の向こうに4本のスピーカーが設置され、数千人の東ドイツ市民が集まり、「壁を壊せ」と声を上げた。チェコ共和国初代大統領に就任したハヴェルの<音楽だけで世界は変わらない。しかし、人々の魂を呼び覚ますものとして、音楽は世界を変えることに大きく貢献できる>の言葉をボウイは体現したのだ。

 ボウイは<僕は社会の優れた観察者で、分野ごとにカプセル化している。毎年かそこら、その年が何だったのかをどこかに刻印するために、どうなるかより、その年の本質を捉えようとする試みなんだ>と本作で語っている。だからこそ、ボウイは変化を先取り出来たのだろう。

 「アースリング」(1997以降)、ショービジネスの一線から退いた作品群こそボウイの真骨頂ではないか。10年のインタバルを経て発表された「ザ・ネクスト・デイ」、そして「ブラックスター」は研ぎ澄まされた瑞々しい作品だった。蛇行と遡行を繰り返して半世紀、ボウイが駆け抜けた足跡に圧倒された。ロックに目覚めた頃からボウイとずっと一緒だったことの喜びを噛み締めている。
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「わたしの名は赤」~細密画を巡る壮大なエンターテインメント

2023-10-19 22:37:13 | 読書
 イスラエル軍のガザ侵攻が迫った今、親米のサウジアラビアはイスラエルとの国交正常化交渉を凍結した。〝イスラムの大義〟に反する決断を下せば体制を維持出来ない周辺国も多い。イランはパレスチナを支援しているが、仲介役として期待されているのはトルコだ。エルドアン大統領は「1967年(第3次中東戦争以前)の国境に基づくパレスチナ国家が設立されない限り、この地域に平和は訪れない」と述べている。

 イラン(ペルシャ)、そしてトルコ(オスマン帝国)……。両国の歴史を背景に描かれた小説を読んだ。ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家オルハン・パムクの「わたしの名は赤」(宮下遼訳、上下/ハヤカワepi文庫)である。舞台は1591年、オスマントルコ帝国の首都イスタンブールだ。800㌻を超える長編で、独立した主観で語られる59章から成るが、主人公は細密画師のカラだ。従妹のシェキュレに惚れたことでおじ上の勘気をこうむり、追放処分を受ける。12年ぶりにイスタンブールに戻った頃、<優美>と呼ばれる細密画師が殺された。

 時空をカットバックしつつ10日余りの出来事を綴った本作は、壮大なエンターテイメント、雪の中で展開するミステリーで、メロドラマの要素も濃い。当時の帝国を巡る状況を把握していないと見えてこない部分がある。ペルシャと緊張関係にあり、20年前にはベネチア・スペイン連合軍に敗れていた。オスマン帝国は芸術でも西欧やペルシャの脅威にさらされていた。

 おじ上が殺された。<優美>殺害と同一犯であることは確実だった。カラは皇帝直轄の工房を仕切っていたオスマン棟梁とともに犯人探しを始める。作品中、細密画の詳細や技法が画家たちによって議論される。読み進むうち、細密画は物語を装飾する副次的な役割を果たしていることがわかってくる。中国やインドの影響も受けていたが、画家たちは陰影や遠近法という西欧の技法に憧れていたことが窺えた。

 イスラム圏の歴史や美術に疎い俺にはハードルが高い作品で、読了後、全てのピースが埋まらないジグソーパズルを前に悄然としていた。手を差し伸べてくれたのは宮下遼氏による<訳者あとがき>である。歴史や細密画に関する説明は参考になったし、当時のイスタンブールが抱えていた頽廃も刺激的だった。イスラム原理主義や神秘主義が人々を混乱させていたし、画家の師弟関係に少年愛、同性愛が織り込まれていた。

 カラ不在の間、シェキュレは軍人と結婚し2児をもうけるが、ペルシャ戦争に従軍したものの帰還しない。中ぶらりん状態で夫の弟ハサンに求愛される。シェキュレを巡る三角関係がサイドストーリーだ。本書で繰り返し語られるのはペルシャ文学の「ホスローとシーリーン」だ。この悲劇は幾つもの細密画に描かれており、カラとシェキュレの恋物語と重なっている。

 小説のあらゆる要素を取り入れたパムクの力業に感嘆した。パムクだけでなく、機会があればイスラム圏の小説を読んでみたい。
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「バーナデット ママは行方不明」~南極に咲く奇跡の華

2023-10-15 21:41:45 | 映画、ドラマ
 きょう67歳になった。俺のような無能な人間が東京砂漠で生き長らえてこられたのは、ひたすら運が良かったからである。周りに支えられてきたが、とりわけ家族の力が大きかった。特養施設で暮らす母、亡き父と妹にはいくら感謝しても感謝し過ぎることはない。絆の意味を考える今日この頃だ。

 俺が親近感を覚える街といえば、日本では函館で、欧州では歴史とサッカーでバルセロナ、ロックでマンチェスターだ。アメリカなら〝文化の拠点〟ニューヨークだが、「コールドケース」の再放送をスカパーで見ているうち、フィラデルフィアに馴染んでしまった。かつてはECWの拠点で、〝ブラザーフッド〟の街だ。NFLならイーグルス、MLBならフィリーズに肩入れしているが、両チームとも好調で気分がいい。

 さらに挙げるならシアトルだ。ニルヴァーナ、パール・ジャムらが世界を震撼させたグランジ発祥の地である。そのシアトルを舞台にした「バーナデット ママは行方不明」(2019年、リチャード・リンクレイター監督)を新宿ピカデリーで見た。アメリカ公開後、4年を経ているのは、日本ではヒットを見込めないと配給会社が考えたからかもしれない。

 前稿で紹介した「BAD LANDS~バッドランズ」は4人の擬制家族が織り成す宿命に彩られた物語だったが、「バーナデット――」は対照的に家族の絆を描いたコメディーだ。主人公は主婦のバーナデット(ケイト・ブランシェット)で、IT長者の夫エルジー(ビリー・クラダップ)、娘ビー(エマ・ネルソン)と暮らしている。

 ケイトの出演作で印象に残るのは「ブルージャスミン」だ。堕ちていくジャスミンの心情を清冽かつ繊細に表現したケイトは、同作でアカデミー賞主演女優賞など数々の栄誉に浴している。監督のウディ・アレンは<言葉で説明できる領域を超越した天才>と絶賛していた。ケイト演じるバーナデットはママ友や隣人とうまくやっていけない。いわゆる〝コミュ障〟で、ワーカホリックのエルジーも、バーナデットの振る舞いに異常さを覚え、治療が必要と考えカウンセラーを妻に紹介する。

 この展開に「ブルージャスミン」が重なり、悲劇的な結末が待ち受けているのではと心配になった。同作のラストで、ジャスミンの微笑みに、崩壊と狂気を予感したからだ。「バーナデット――」は色調が異なるが、家庭における女性の位置を見る者に問いかける。キャリアウーマンは本作にどのような感想を抱くだろうか。

 バーナデットはグランジのように、業界に革命をもたらした天才建築家だったことが、少しずつ明かされていく。子供たちのパーティーで、「あの子の父親はパール・ジャムのメンバーなのよ」とママ友が話す場面が印象的だった。追い詰められたバーナデットは隣人オードリー(クリステン・ウィグ)に救いを求める。絶交状態にあった2人が和解し、しみじみ語り合うシーンに心が和んだ。

 まあ、深く考えて語るタイプの映画ではない。バーナデットは再会した建築家ジェネリック(ローレンス・フィッシュ)に悩みを打ち明ける。「周りとうまくやっていけない」と……。ジェネリックは「理由は簡単。君は本来の姿を見失っている。創造の道に戻ったたら解決する」と答えた。それが本作の肝台詞で、バーナデットは思い切った行動に出る。

 バーナデットとは19世紀、ルルドの泉で聖母マリアが出現するという奇跡を体験した少女の名前だ。本作でもバーナデットは壁をスルスルすり抜け、家族の応援を受け、南極点で奇跡の華を咲かせる。ハートウオーミングなハッピーエンドだった。
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「BAD LANDS」~抗い喘いで疾走するクライムサスペンス

2023-10-11 22:31:15 | 映画、ドラマ
 藤井聡太竜王・名人が永瀬拓矢王座を破り、八冠制覇を成し遂げた。凄まじい逆転劇で、自らの失着を責める永瀬の動作が印象的だった。将棋はイーブンの条件での闘いだが、世界は今、イスラエルとハマスの戦争に注目している。米メディアはイスラエルに肩入れしている。だが、ツツ主教が<現在のアパルトヘイト>と断罪したように、イスラエルが国際人道法に違反して封鎖してきたガザは「天井のない監獄」と呼ばれている。

 むろん、ハマスの先制攻撃を肯定するわけにはいかない。だが、イスラエルが占領開始以来、積み重ねてきた戦争犯罪は許されるものではない。そもそもイスラエルとパレスチナの軍事力は100対1以上だ。俺は数々の暴力に抗ってきたパレスチナの側に立ってブログに記してきた。両国が交渉による解決を選ぶことを願っている。

 <全てに抗い、全てを掠め取れ>……。こんなキャッチコピーで謳われた映画をTOHOシネマ新宿で見た。「BAD LANDS~バッドランズ」(2023年、原田眞人監督)である。原作は「勁草」(黒川博行著)で、主人公は男だったが、映画では安藤サクラが演じるネリに変わっていた。特殊詐欺グループで受け子を束ねる〝三塁コーチ〟のネリと、血の繋がらない弟ジョー(山田涼介)との近親相姦的な妖しさがケミストリーを生み、滑車の役割は関西弁だ。冒頭とラストに登場する〝月曜に走る女〟が伏線になり、1週間の濃密なクライムサスペンスがスクリーンを疾走する。

 舞台は釜ケ崎で、<格差と貧困>が本作の背景にある。ネリはあいりん地区を闊歩していた。ボスの高城(生瀬勝久)はネリの実父で、特殊詐欺だけでなく、生活保護者を搾取する貧困ビジネスにも手を染めている。ネリのドヤでもある簡易宿泊所で暮らす曼荼羅(宇崎竜童)はかつて高城の盟友で、幼いネリを可愛がってくれた。

 ネリとジョーの姉弟、高城、そして姉弟に父性をもって接する曼荼羅……。ギリシャ神話の悲劇に現れるような、宿命に彩られた4人の擬制家族がストーリーの軸である。劇中に流れるバッハはドヤ街とミスマッチに感じるが、原田監督は「サラバンド」を家庭劇に用いたベルイマンにインスパイアされたという。

 本作は上記の4人以外に、個性的なキャストが登場する。特殊詐欺グループに迫る日野班長(江口のりこ)と佐竹刑事(吉原光夫)、ネリを支配していたIT企業社長の胡屋(淵上泰史)、賭場の金庫番である林田(サリngROCK)、受け子に身を落とした教授(大場泰正)たちだ。狂気と暴力がスクリーンから零れてくる作品で、抗い喘ぐジョーを表現した山田の熱演が光っていた。

 崖っ縁に追い込まれたネリを救ったのは仮想通貨にも通じる林田と〝月曜に走る女〟だった。家族という桎梏から解き放たれたネリは、これからどのように生きていくのだろう。自由とは、人を縛る金とどう折り合いをつけるのか。近い将来、何事もなかったように釜ケ崎に戻り、くたびれたおっさんたちに声を掛けているような気がする。
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「幽霊たち」~オースターのポストモダンな出発点

2023-10-07 22:30:45 | 読書
 Youtubeをチェックしていたら、アメリカからの白人の留学生(チェイス、なぜか関西弁)と日本人の学生(けんけん)が作成している動画を見つけた。「大谷って有名なの」とけんけんに聞かれ、チェイスは「僕は知らない。周りもそう」と答えていた。MLBはNFLとNBAに比べて人気はないが、ポストシーズンに入ってスタンドは埋まっている。

 階層によって好むスポーツは異なるようで、小説の中でNFLに言及されるケースは少ない。今回紹介する「幽霊たち」(1986年、ポール・オースター/新潮社)の主人公も、MLB初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンの試合を観戦していた。<ニューヨーク三部作>の第2作で、ロビンソンがドジャーズに加わった1947年のニューヨークが舞台だ。

 オースターを読むのは、稠密かつ濃厚な描写で<孤独>と<流浪>が織り込まれていた「ブルックリン・フォリーズ」、「ムーン・パレス」に次いで3作目だ。〝骨太なストーリーテラー〟という印象だったが、「幽霊たち」は異なる。オースターの作品を数多く訳してきた柴田元幸氏(東大名誉教授)が訳者あとがきで「エレガントな前衛」と評していた。オースターはポストモダンに分類される作家だったのか……。本作でオースターの出発点に気付かされた。

 「幽霊たち」の冒頭は<まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる>だ。主人公は探偵事務所を開業したばかりのブルーで、記憶の中にはゴールドやグレーも登場する。名前に<色>を付けたことで、描かれる世界が単調に見え、リアリティーが後退する効果がある。

 ブルーの元に、明らかに変装したホワイトが現れ、ブラックを見張るよう依頼される。ホワイトが用意してくれたブラックの部屋が覗ける一室から、ブルーはブラックを監視する。その結果を報告し、報酬が送られてくる。ブラックは書き物をし、ヘンリー・デイビッド・ソローの「ウォールデン」(「森の生活」)を読んでいる。ブルーは見張りを続けながら、父の記憶、かつて見た映画や読んだ小説、事件に思いを馳せる。

 何も起きない日々、外出するブラックをブルーは尾行する。2人は奇しくも似た体験をした。ともに恋人に去られたのだ。ブルーはブラックとの接触を試み、会話に成功する。〝自分は私立探偵で、何もしていない男を監視している〟とブラックは語った。ポーやドストエフスキーに描かれたドッペルゲンカー(自分とそっくりな姿をした分身)かと思ったが、終盤になって衝撃的――というのはオーバーだが――ある事実が判明する。

 ブルーはブラックの部屋に忍び込み、紙の山が自身が送ったリポートであることに気付いた。<ブラック=ホワイト>で、ブルーはブラックによってコントロールされていたのだ。ブラックの原稿はブルーの物語でもあった。作家であるブラックは、自分を主人公にして小説を書こうとするが、自分のことは客観的に見られない。だから、探偵に監視してもらい、報告書を基に小説を書こうと思いついたのだ。

 タイトルにある<幽霊>とは何か。作品中に<書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える>という記述がある。つまり、<幽霊=作家>で、オースターは読むこと、書くことに伴う孤独を表現している。「ムーン・パレス」の主人公は辺境へ旅立ったが、ブルーは自分の内側という辺境を彷徨ったのか。

 人は時に日々が虚ろだと感じる。自分自身の物語は存在するだろうか。一応の決着を見た後、ブルーはブラックの部屋を出る。どこへ行くのだろう。辺境の地? ソローの暮らした森の中? それともオースター自身が滞在したフランス? 物語を書くことの虚しさを表現したオースターはその後、膨大な作品群で世界を震撼させる。
 
 俺にはハードルの高い作品だったが、さらに難解な小説を現在、読み進めている。俺は読書という孤独な苦行を楽しんでいるのだ。
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「熊は、いない」~存在理由を懸けて闘うジャファル・バナビ

2023-10-03 21:31:28 | 映画、ドラマ
 グリーンズジャパンの友人に誘われ先日、「政治をかえる! 8区の会」キックオフ準備会(ふらっと阿佐ヶ谷)に参加した。中野区民の俺は8区の有権者ではないが、日本の政治を変える拠点は杉並区であると考えている。キーワードは岸本聡子区長が掲げるミニシュパリズムとコモンだ。残念ながら、若い参加者はいなかった。

 イラン映画「熊は、いない」(2022年、ジャファル・バナビ監督)を新宿武蔵野館で見た。ジャファルは前々稿で紹介した「君は行く先を知らない」のパナー・パナヒ監督の父で、両作のテーマはともに<国外脱出>だ。ジャファルは体制を批判して弾圧されており、「熊は、いない」撮影後にも収監された。

 前作「人生タクシー」(15年)は〝フェイクドキュメント〟で、タクシー運転手に扮したバナビ本人と乗客がイラン社会について論じ合っていた。「熊は、いない」も主演はバナビで、役柄はそのまま映画監督だ。国境の村に滞在し、リモートで助監督のレザに指示を送る。ロケ地はトルコの町だ。海外メディアとの接触だけでなく、映画製作を20年も禁じられているバナビは、ミニマムな映画作りを強いられている。

 偽造パスポートで国外脱出を図るパクティアールとザラのカップルをドキュメンタリータッチで撮影しているうちに、リアルとフィクションが混淆していく。バナビがレザに誘われ、国境付近を歩くシーンが印象的だった。「国境線はどこ」と尋ね、レザが「今、踏んでいるあたりです」と答えると、バナビは後ずさった。逮捕を恐れてではなく、<イランこそが自分の居場所>という強い思いが窺えた。

 現実とフィクションが螺旋状に絡み合うという点で本作と重なったのが「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、バブマン・ゴバディ監督)だ。バナビは滞在する村で、愛し合うことが許されないカップルを撮影したと疑われ、真実を告白することを強制される。告白所に向かう途中、「熊が出ますよ」と仄めかされた。村人たちが集まっていたが全員が男で、イランにおける女性の立場の低さは明らかだ。

 村には<女の赤ん坊のへその緒は、未来の夫を決めてから切る>という理不尽なしきたりがあった。面白かったのは村人たちが必ずしもコーランに忠実ではなかったことだ。暗に〝適当に〟〝辻褄が合っていれば〟とバナビに囁く者さえいる。日本だって他国の人が見れば〝異常〟と映るしきたりがある。<史上最悪の少年への性加害がメディアの了解の下で黙認された>……。日本独特のしきたりが明るみになったのは外圧があったからだ。

 タイトルの「熊は、いない」は反語といっていい。熊とはイランでの弾圧、人々を縛るしきたりのメタファーだが、ラストでザラは死に、駆け落ちを試みた村のカップルは銃殺された。車でテヘランに向かったバナビを待ち受けていたのは収監である。熊は確かに存在する。だが、バナビは挫けない。再び創造するという希望が自身の存在理由だと語っているのだ。シリアスなテーマを掲げながら笑いを誘う場面もあるエンターテインメントを作り上げたバナビに拍手を送りたい。

 本作は確かに遠い国の物語だが、日本では自由の息吹が衰えている。バナビの腰を据えた闘いは、近未来の日本に向けた贈り物なのだ。
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