酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「聖の青春」~清冽な生き様に心を焦がされた

2016-11-28 23:01:22 | 映画、ドラマ
 フィデロ・カストロが亡くなった。偉大な革命家の死を心から悼みたい。1959年に来日した盟友ゲバラは原爆資料館を訪れた際、「日本人はアメリカを許せるのか」と同行した記者を問い詰めたという。その場で感じたことをカストロに伝えた結果、キューバの教科書には広島と長崎に多くのページが割かれている。

 キューバの充実した医療・保険制度は「シッコ」(07年、マイケル・ムーア監督)に描かれている通りで、アメリカや日本は遠く及ばない。反グロ-バリズムの端緒となった南米での集会では、ゲバラの肖像が掲げられ、カストロからのメッセージが数万の参加者を鼓舞した。革命はノスタルジーではなく、フレッシュに世界を席捲している。

 「Deep Zen Go」を2勝1敗で破り囲碁電王戦を制した趙治勲名誉名人は、「人間的な面が強過きた感じがする」とAIの感想を語っていた。将棋電王戦はというと、叡王戦にエントリーした羽生善治3冠は準決勝で佐藤天彦名人に敗れ、「ポナンザ」との対局は実現しなかった。佐藤と決勝で対戦するのは棋界一、AIに精通している千田翔太五段だ。千田は森信雄門下の若き精鋭で、今稿の主人公である村山聖追贈九段の弟弟子に当たる。

 先週末、新宿ピカデリーで「聖の青春」(森義隆監督)を見た。<東の羽生、西の村山>と称されながら、29歳で夭折した村山の生涯を追った作品である。原作者の大崎善生は、将棋連盟職員の関口(筒井道隆)として本作に登場する。

 ケアハウスで暮らす母にこの数年、30冊以上の本を送ったが、「聖の青春」に涙したという。膠原病と闘い力尽きた妹を村山に重ねていたのだ。村山が蛇口を緩めて眠るシーンが2度あった。目覚めた時、水滴が打つ音で生きていることを実感するためだ。

 本作は公開直前、Yahoo!のユーザー採点で1点台前半だった。特定の個人もしくはグループが、見ないで1点をつけている。公開後、5点、4点が増えて現状は3・5前後だが、いまだに〝愚行〟は繰り返されている。同様のことは他の作品にも散見するが、とりわけ韓国映画が被害に遭っている。

 Yahoo!のユーザー採点は他のサイトにも直結している。〝愚行〟は映画への冒瀆と断言していい。管理者はレビューを書いた人に採点を限定するなどの手段を講じるべきではないか。インターネットが登場した頃、<自分を解き放ち、世界と繋がるツール>ともてはやされたが、用いる人間を超えられず、排他的なタコツボが無数に棲息している。

 ストーリー、いや事実を簡単に紹介する。幼い頃、腎臓ネフローゼを発症した村山にとって、将棋こそが生きる縁で、世界と繋がる糸だった。奨励会入会を巡って一悶着あったが、そんな村山に手を差し伸べたのは森信雄四段(当時)だった。「冴えんなあ」が口癖の師匠が熱を出した弟子を看病し、引っ越しの荷造りをする。棋士としては自称〝三流〟、村山も「先生に教わったのは酒と麻雀だけ」と広言していた森の下に、精鋭が続々集う。山崎八段、糸谷前竜王、上記の千田などプロ棋士は現在9人で、棋界一の名伯楽になった。温かく飄々とした森の魅力を、リリー・フランキーが余すところなく伝えていた。

 松山ケンイチは並々ならぬ気魄、野性と憂いを併せ持つ村山に憑依していた。東出昌大は羽生の闘志と含羞を目で表現していた。設定は変えているが、羽生との最後の対局における村山の失着にも描かれている。唐突な逆転負けにも村山の表情に悔しさはなく、達観と諦念が滲んでいる。羽生は敗者を気遣っていた。

 男前の羽生は女優と結婚し、遠からず男性機能を失うことになる村山は古本屋の店員に思いを伝えることが出来ない。対照的な二人だが、村山はぎこちなく羽生に接近していく。村山は勝った後、羽生を誘って打ち上げの宴から消える。そこでの会話が本作の肝といっていい。

村山「羽生さんが見ている海は他の人と違う」
羽生「深く沈み過ぎて、戻れないと思うこともあります。でも、村山さんとなら一緒に行ける。行きましょう」
 
 笑みを浮かべ頷く村山だが、人生の目盛りは定まっている。がんが腎臓を蝕み、欠場後は看護師同伴で対局場に赴く。決定的に悪化する前から、村山は死に急ぎ、体を労ることはなかった。苛立ちから仲間にも暴言を吐いたが、本作で鬱憤の受け止め役になっていた荒崎(柄本時生)のモデルは先崎学九段で、村山の理解者であった。

 村山は無数の逸話に彩られている。身繕いは一切気にせず、ぞんざいな物言いで不興を買うこともあったが、巧まざるユーモアとナチュラルな言動で愛されていた。汚い部屋は少女漫画でぎっしりで、莫大な額の寄付を申し出たことも何度かあった。将棋年鑑に掲載された自己紹介の「目標」の項目には、「土に還る」と記されていた。

 将棋をテーマにした本で「聖の青春」とツインピークスをなすのは「真剣師 小池重明」(団鬼六)だ。村山は中学生の頃、小池と指す機会があり、敗れた小池に「強いなあ」と褒められたという。「真剣師 小池重明」も映画化の動きがあったが頓挫したという。悲運の天才と無頼の邂逅をスクリーンで見てみたい。

 俺はあらましを知っていたから目が潤んだ程度だったが、満員の客席のあちこちから、はなをすする音が漏れていた。村山の清冽な生きざまは見る者の心に深く刻まれたはずだ。今更、村山を見習うのは無理だが、残された短い時間を精いっぱい生きたいと思った。
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「アニマルハッピー」で一期一会~意義ある週末を過ごす

2016-11-24 23:31:34 | 社会、政治
 20日、阿佐ケ谷中学で開催された連続講座「アニマルハッピー」(第3回)に参加した。パート1「動物実験の実像と課題」、パート2「日本におけるペットと人の在り方について」をテーマに、藤沢顕卯氏(アライブ調査員)、山田佐代子氏(神奈川県動物愛護協会会長)が講師を務める。

 社会問題関連の集まりにしては若い人が多く、女性が半数を超えていた。自治体議員、各種団体メンバー、大学教授、翻訳家、映画監督、学生と、日常的に動物愛護に携わっている人が殆どである。縁遠い俺が参加したのは、〝発見〟したばかりの<生物多様性>の認識を深めようと思ったからだ。

 講演と質疑応答の濃さに感嘆しつつ、俺は競馬の結果が気になっていた。他の課題(環境、反原発など)もそうだが、動物愛護に関わる人たちは生き方を律している。参加者の多くはビーガンで、身に着けるものにも気を配っている。<世界を変えるには自分から>を実践する彼らに、「競馬が好き」なんて口が裂けても言えない。

 理解が浅かったので、講演についてアウトラインを記すにとどめたい。まずはパート1から。<ヒトの疾患と生理メカニズム、ヒトに体に対する薬剤を調べたいが、ヒトを実験に使うことは倫理的に許さないので代わりに動物を用いる>……。これが動物実験の定義だ。藤沢氏は企業で動物実験に携わる知人の言葉を提示する。動物実験について、Aさんは「必要悪」、Bさんは「確信犯」と微妙に違う。日本では論理と倫理を明確にせず、動物実験が行われているケースが多いという。

 EUの調査では、動物実験の主たる目的は基礎研究(50%)、医療(20%)、医薬品開発(20%)となる。対象になる動物(マウスとラットが75%以上)の環境と苦痛、情報公開など問題点を指摘しつつ、藤沢氏は動物実験を「必要悪」と捉えているようだ。昨23日の「報道ステーション」では、動物実験によってALSの進行を食い止める薬が開発された経緯を伝えていた。  
 
 山田氏は長いスパンで、日本人とペット(主に犬と猫)の関係について話していた。ラストで紹介するドラマに山田氏と重なるキャラクターが登場するので、ここでは講演で印象的だった部分を紹介する。それは日本の外圧への弱さだ。1973年に「動物の保護及び管理に関する法律」が制定されたのは、昭和天皇訪欧(71年)、エリザベス女王訪日(75年)と無関係ではないと山田氏は指摘する。日本は当時、動物愛護に消極的と海外で批判されていたのだ。

 俺は東京五輪は返上すべきと考えているが、外圧によって〝プラス効果〟がもたらされる可能性はある。動物愛護関連でいえば、欧米で定着しつつある、適正な飼育が家畜を健全に生長させ、食べる人間にも好影響を及ぼすという<ウェルフェアフード>の推進を、IOCは日本に求めている。

 山田氏の講演を集約すれば、<動物と人間の尊厳、動物と人間が暮らしやすい社会>を併せて志向するべきということ。これも外圧への期待だが、先進国の厳しい目を意識して死刑廃止の議論が起こりつつある。動物愛護と死刑は底で繋がっているのだ。

 ベジタリアン御用達の店で開かれた懇親会に、ハリウッド女優と見紛うニューヨーク・タイムズ記者が参加した。アライブの中野さんに、日本における動物愛護の現状を取材するのが目的だったが、俺は空き時間を利用して翻訳家のI君に頼み、記者に大統領選後のアメリカについてあれこれ尋ね、納得いく回答を得た。彼女は最後に、俺のソニック・ユースのTシャツを「かっこいい」と日本語で褒めてくれた。

 台湾出身で日本留学中のMONAさんと、ブロークンイングリッシュ、日本語、筆談を交えて話し込んだ。家族と中国に暮らしている彼女は、複数の名門大学で哲学を専攻している。「ブランドなんか、いらない」(ナオミ・クライン著)、小津安二郎が候孝賢、エドヤード・ヤンら台湾の映画監督に与えた影響、アート全般とテーマは様々で、学生時代にタイムスリップした気分で、一期一会を楽しんだ。<多様性こそ最高の価値>が結論だったような記憶がある。俺が死ぬまでに、MONAさんは名を上げているのではないか。

 講座の格好の復習になったのは23日に再放送された「この街の命に」(WOWOW)だった。ペットと人間の絆を追求した本作は、数々のドラマアワードで栄誉に浴している。伊山市愛護センターは、市民が持ち込んだペット(犬と猫)を殺処分する施設だが、新所長の髙野(田中裕子)は方向転換に踏み出す。殺処分ゼロを目指し、NPO会長の倉橋(熊谷真実)と協力して譲渡に軸足を移し、市民を巻き込んでいく。上記の山田氏は、髙野、倉橋の問題意識と行動力を併せ持っている人といえる。

 獣医役の加瀬亮と戸田絵梨香が主演扱いだが、起点になっていたのは志賀(渋川清彦)の思い切った行動だった。野良猫への餌やりストップや不妊手術の励行も描かれており、可哀想を愛に繋げる意味を問い掛けていた。野良犬が狂言回しだったことも効果的と感じる。脚本=青木研次、監督=緒方明、主演=田中裕子は「いつか読書する日」で俺の心を濡らしてくれたトリオだった。


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意志と勇気~「小さな園の大きな奇跡」と「それでも僕は帰る」に感銘を覚える

2016-11-20 22:17:11 | 映画、ドラマ
 先週末は映画を2本観賞した。片やヒューマンドラマ、片やシリアの現実に迫ったドキュメンタリーとタイプは異なるが、ともに高邁な意志、身を賭す勇気で闘う者が主人公だった。
 
 新装オープンした新宿武蔵野館で見た「小さな園の大きな奇跡」(15年、エイドリアン・クワン監督)から。香港で年環興収NO・1を記録した本作は、実話をベースにした〝セミドキュメンタリー〟といえる。還暦で涙腺が脆くなった俺に、〝泣け〟と言わんばかりの仕掛けの数々をクリアするのは難しかった。

 エリート幼稚園で園長を務めていたルイ・ウエホン(ミリアム・ヨン)は、指導方針を巡ってスポンサーの勘気に触れて辞職する。腫瘍摘出手術後の養生も理由だったが、教育への情熱は冷めず、閉園寸前の幼稚園の園長になった。園児5人(全て女の子)を維持することが継続の条件で、給料は前職の10分の1相当の4500香港㌦(約6万円)だ。学期末に1人卒園するため厳しい状況に追い込まれたルイを、博物館員の夫ドン(ルイス・クー)が支える。

 本作の背景にあるのは格差の拡大だ。ルイは最初の授業で、貧困を恥じて顔を隠していたマスクを取るよう園児たちを諭す。それぞれの家庭を訪問し、絶望的な状況を目の当たりにしたルイは、進んで仕事に協力するなど保護者の心を掴み、園児たちの表情は明るくなっていく。家族も参加した遠足で、園児たちが障害児たちと交流するシーンが印象的だった。

 ルイ、ドン、理事長、園児、家族は強い絆で紡がれていくが、園外には波及しない。「意志あるところに道は開ける」とのリンカーンの名言通り、果たして奇跡は起こるのか……。エンドロールで癒やしに溢れた結末が示される。生きるとは、夢とは、絆とは、教育とは……。見る者に温かく問い掛ける傑作だった。

 19日は第9回ソシアルシネマクラブ上映会(高円寺グレイン)に足を運び、「それでも僕は帰る~シリア 若者たちが求め続けたふるさと」(13年、タラール・デルキ監督)を見た。配給元のユナイテッドピープル副社長、アーヤ藍さんのトークショー&ディスカッションを含め衝撃と感銘が入り混じったイベントになった。供されたシリア風サンドイッチも、とってもおいしかった。
 
 2011年3月、アーヤさんはシリアに短期留学していた。当地でアーヤさんは、震災と原発事故を気遣う人々の優しさに触れる。<アラブの春>が波及したのはその頃で、事態が一気に深刻になったことを帰国後に知った。

 ホムスでも闘いが起きた。腐敗した市政への怒りがきっかけだったが、アサド政権の弾圧でよって反政府運動に転じていく。サッカーのユース代表GKとして海外でも高評価を受けていたバセット(当時19)が歌とアジテーションで人々を惹きつけ、カメラマンのオサマ(24)は闘いの内側から撮った写真や映像を世界に発信する。

 バセットに呼応して歌い、叫び、踊る若者たちは、<非暴力でも自由と民主主義を獲得できる>という希望に満ちていたが、想定外の方向に事態は進む。自国民に銃を向けないという軍隊への信頼は木っ端微塵に砕け、ホムス市民は虐殺され、バゼットの仲間たちも次々に死んでいく。

 国連の監視団はたった6人で、30分足らずで帰っていく。誰も守ってくれない、誰もあてにならない。となれば<身体性と暴力性>で政府に対峙するしかなく、キーワードも<自由>から<神>に変わっていく。仲間内に亀裂が生じ、バセットの表情に憂いと悲愴の色が濃くなった。

 食糧や日用品に事欠くのに、武器だけはなぜか簡単に入手できる。<国連常任理事国が輸出した武器が出回り、紛争を激化させているのでは>と問うと、アーヤさんは具体的に答えてくれた。本作公開時のシンポジウムで朝日新聞記者は、バゼットたちが手にした武器の製造国を指摘していたという。アーヤさんは<シリアの内戦によって利益を得ている国がある>ことを認めていた。

 遠く離れていても、笑いながら他者を殺すことが出来る……。曲名は忘れていたが、白竜は30年以上も前、光州事件を念頭に日本社会を抉っていた。本作を観賞し、自分の無力を改めて実感したが、アーヤさんは違う。IT関連会社に勤めていた頃、シリアの現状に心を痛めたアーヤさんは、非戦を訴える「ザ・デイ・アフター・ピース」に感銘を受け、社内で上映会を企画した。その後、<人と人を繋ぐ>を理念にするユナイテッドピープルに転職し、<行動したくなる映画を広めたい>との信念で世界を飛び回っている。

 「それでも僕は帰る」に登場する若者たち、危険を顧みず彼らに密着して撮影したスタッフ、そしてアーヤさんも、高邁な意志、身を賭す勇気を体現している。アーヤさんには「小さな園の大きな奇跡」のルイ先生が重なった。ちなみに「アーヤ」とは、アラビア語で「奇跡」の意味だという。


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「くっすん大黒」~人間の業を肯定する町田康の世界

2016-11-16 22:30:30 | 読書
 レナード・コーエン、りりィ、レオン・ラッセルが相次いで亡くなった。彼らの光芒は記憶の底に焼き付いている。偉大な表現者たちの死を心から悼みたい。

 先週末は「落語アルデンテVOI.13」(日本橋三井ホール)に足を運んだ。三遊亭兼好(「看板の一」)、桃月庵白酒(「転宅」)、春風亭百栄(「弟子の強飯」)、春風亭一之輔(「味噌蔵」)の順で手練れが芸を披露する。ライバル意識が醸し出すケミストリーの渦に引き込まれ、時は瞬く間に過ぎた。

 「クローズアップ現代」で先日、「落語ブーム」が特集されていた。ファンは無名のホープとネットワークをつくり、小規模の落語会を開いている。ロックでいえばインディーズで、ファンが噺家を育てている。

 三遊亭竜楽の欧州ツアーを追った「世界よ、これが日本の落語だ!」(13年、WOWOW)を再放送で見た。活躍の場は現在、アメリカ、中国へと広がり、これまで8カ国で落語を演じたという。バイリンガルではない竜楽は、日本在住の大使館員や留学生らが翻訳した演目を丸暗記して海外公演に臨んでいる。

 竜楽を温かく送り出した五代目円楽、そして「労多くして益なし」と冷たかった六代目……。両者に決定的な器の差を感じた。表情、しぐさ、顔の向き、声色、そして絶妙の間で演じられる落語は国境を超える。各国で笑いを取り、パリの格式高いホールからも声が掛かった。日本人の精神を直に反映した落語が、世界に浸透しつつある。

 町田康のデビュー作「くっすん大黒」(文春文庫)を読了した。町田について記すのは「夫婦茶碗」、「告白」、「宿屋めぐり」に次いで4作目だ。町田は太宰治や織田作之助ら戦後無頼派の継承者と位置付けられている。飛翔と下降、俯瞰とズームが入り乱れて時空を切り裂いた「告白」と「宿屋めぐり」は21世紀の日本文学が到達した高みといえ、石川淳の「狂風記」彷彿させる土着的パワーに溢れている。

 俺が町田に感じるのは落語との接点だ。「くっすん大黒」と文庫収録作「河原のアバラ」は、ともに落語の演目に似たタイトルだ。「くっすん大黒」の主人公と菊池、「河原のアバラ」の主人公と五郎は、〝連れ〟として馴れ合っている。テンポがいいのに噛み合わない台詞はまさに落語だ。ラストでは〝オチ〟を味わえる。

 INUのボーカリスト、町田町蔵として旋風を巻き起こした作者に、自堕落、暴力的といったイメージを抱いていた。主人公は現実逃避、怠慢、反抗、幼児性、偽悪、自虐、社会的不適応で着膨れしているが、自ら波乱を起こすのではなく、言動は受動的だ。降りかかった火の粉を避けているうちに金が尽き、底で這いつくばっている。

 俺の感性が歪んでいるせいか、主人公の独白に「その通り」と頷くことが多い。彼らは意外なほど常識にかなっているが、西洋でいう倫理とは無縁だ。そのうち天罰が下る、神が赦すはずがない……。日本人独特の伝統と習慣に根差した〝信仰〟で言動が貫かれている。

 「落語とは人間の業の肯定」とは、立川談志の至言だ。「黄金餅」や「らくだ」がその典型だが、落語に強欲、吝嗇、頑固はお約束である。「くっすん大黒」と「河原のアバラ」にも妄執に囚われた傍迷惑な輩が続々に登場する。彼らに驚き、怒り、あきれ返る主人公の様子がおかしい。逸脱を描く町田は、<人間の業の肯定>を志向しているに相違ない。

 本作を読み終えた夜、奇妙な夢を見た。家に帰ると玄関が開いていた。泥棒かと焦って中に入ると、野良猫の巣窟になっている。獰猛な表情のふてぶてしい十数匹を前に立ち竦み、叫びそうになった刹那、目が覚めた。猫好きで知られる町田の思念が、行間から俺の脳裏に忍び込んだのだろうか。猫関連のエッセーもいずれ読むことにする。

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「パワー・トゥ・ザ・ピープル」&「第4の革命」~新しい世界観を明示するドキュメンタリー

2016-11-13 22:43:12 | 映画、ドラマ
 全米でデモが続くなど、トランプ当選の余波は収まらない。日本で今、検索ワード上位に、<トランプ プロレス>がランクされている。トランプはかつてWWEのリングに上がり、認知度がアップした。陣営は今、ヒール(悪玉)からベビーフェース(善玉)への軌道修正を練っているに違いない。

 スプリングスティーン、レディー・ガガ、マドンナら大物が続々、ヒラリー支持を表明したが、貧困に喘ぐ人たちに届かなかった。ロッキング・オン最新号に掲載されていたインタビューで、プロフェッツ・オブ・レイジのトム・モレロ(元レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)は以下のように語っていた(要旨)。

 <トランプとサンダースの健闘は、国民がエスタブリッシュメントに不満を抱えていることの証拠。プロフェッツは、トランプもヒラリーも信じないという人たちの声を象徴している。大統領選翌日から、俺たちは権力との闘いを開始する。傍観しているだけでは世界は何も変わらない>
 
 同誌HPで見つけた記事に愕然とした。レイジへのオマージュを繰り返し語っていたマシュー・ベラミー(ミューズ)が、ヒラリーと撮った写真を公開していた。「レジスタンスツアー」の会場に倒立したピラミッドを吊るした理由を問われ、「ヒエラルヒキーを覆したいというバンドの思い」と答えていたが、ラディカルな歌詞はまやかしだったのだろう。レイジ、そして前稿で記したマニックスは例外だが、ロッカーに知性を求めてはいけないことを再認識した。

 米大統領選でも実感したが、政治や社会を語る場合、反原発、反基地、反TPP、そして反安倍と、<反>や<アンチ>の〝定冠詞〟を掲げると、言葉は確実に貧困になり、相手の土俵に上がってしまう。このことを痛感したのは昨夏の国会前だった。

 「ソシアルシネマクラブすぎなみ」第6回上映会(5日、高円寺グレイン)で観賞した2作品について、8日のタイムラグで記すことにする。「パワー・トゥ・ザ・ピープル」(12年、サビーヌ・ルッペ・バッカー監督)と「第4の革命~エネルギー・デモクラシー」(10年、カール・A・フェヒナー監督)は、ともに再生可能エネルギーに焦点を当てた秀逸なドキュメンタリーだった。

 エネルギー革命は、産業革命、IT革命に次ぐ第3の革命と、「パワー――」は位置付けていた。「第4の革命」と併せ、世界中で格差を拡大する獰猛なグローバリズムに対置するテーゼやビジョンが明示されていた。ローカリゼーション、地産地消、分散型社会(分散型資本主義)、ミニマリズム、人間同士が調和する柔らかな民主主義である。

 オランダにおける太陽光発電、海上風力発電、バイオマス燃料への取り組みだけでなく、大手保険会社からの自立を志向する市民レベルでの基金設立も紹介されていた。持続可能な社会とエネルギーを追求してきたマーヤン・ミネシマは、「オランダはこの10年、後退してしまった」と残念そうに話していた。人々の試みに圧力をかける<政府-企業-官庁-代理店-メディアの利権連合>の構図は日本と全く変わらない。

 「第4の革命」で〝敵〟として登場したIEA事務局長は、再生可能エネルギーを否定し、原発の有効性を説いていた。進行役のヘルマン・シェアはアメリカ、デンマーク、バングラデシュ、マリ、中国など世界を回り、志を共有する起業家、銀行家、人権活動家、研究者と語り合う。本作はドイツを脱原発に導いた作品と評価されているが、シェアは公開年に亡くなった。

 健忘症が痴呆症の域に近づいているから、いずれの作品なのか曖昧だが、アメリカのラストベルト(錆びついた工業地帯)での試みが興味深かった。失業した労働者と家族が食べるために家庭菜園を始める。賛同者は次第に増え、地産地消のネットワークが実現した。このような新潮流、成長や富に背を向けたミニマリストの増大に対応出来ないことが、民主党、ひいてはヒラリーの敗北に繋がったと思う。

 2作が問い掛けていたのは、エネルギー源を変えるだけでなく、社会構造の改革し、個々が生き方や発想を転換することだ。上記のトム・モレロの言葉、<傍観しているだけでは世界は何も変わらない>を肝に銘じ、俺も足元を見つめ直していこう。
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マニックスとの熱く湿った絆

2016-11-10 21:19:30 | 音楽
 アメリカ大統領選は、最終盤の戦略が勝敗を分けたのではないか。ヒラリー陣営には金満シンガーが続々詰めかけた歌を披露したが、<0・001%>が<0・001%>を支持する構図に鼻白んだ人も多かったはずだ。一方のトランプは「セレブの応援なんかいらない。<99%>の皆さんがついている」と演説し、喝采を浴びていた。

 サンダースの主張を盗用したトランプは、自身が侮辱してきた人々も<労働者>や<貧困層>という箱に詰め込み、「あなたたちの味方」というポーズを取った。一方で、ヒラリーが誰の代弁者かを図らずも示したのは、投開票日と翌日の株価下落乱高下である。

 アメリカでも反グローバリズム、反資本主義的のムードは醸成されている。その点に気付かなかったのがヒラリー陣営で、自分たちに投票すると高を括っていた弱者の多くは棄権した。便乗したトランプは<富の収奪>に加担するメディアを痛烈に批判する。エンターテイナーぶりは、WWEでビンス・マクマホン代表と丁々発止を演じていた頃と変わらなかった。

 一昨日(8日)、マニック・ストリート・プリーチャーズの「エヴリシング・マスト・ゴー」発売20周年ライブ(新木場スタジオコースト)に足を運んだ。会場に入ると、驚いたことに同アルバム収録曲がイージーリスニング風にアレンジされて流れていた。〝日本のバンドの平均像〟といった感じのグレープバインがオープニングアクトを務め、30分ほどのインターバルでマニックスが登場する。

 ライブは2部構成で、アナウンスされていた通り、1部で「エヴリシング・マスト・ゴー」が曲順通り再現された。2曲目の「ア・デザイン・フォー・ライフ」が終わった時、隣に立っていたグループは「凄い盛り上がりだな」、「もうアンコールみたい」と話していた。ジェームズのアコギセットで始まった2部では、物議を醸した1stアルバム「ジェネレーション・テロリスト」から4曲が演奏された。

 俺はスキゾ人間の典型で、好きなバンドや作家は数え切れないが、ロックならマニックスを一番に挙げる。3・11直後、俺の脳内で「輝ける世代のために」が鳴り響いていた。スペイン市民戦争時の詩に着想を得た作品で、<これを黙認すれば、おまえの子供たちは苦しみに耐えなければならない>というフレーズがリフレインする。若年層の体内被曝を憂えた俺の心情に連なり、再び政治に関わるきっかけになった曲だった。

 翌年、妹が召された時、俺は「エヴリシング・マスト・ゴー」を毎日、口ずさんでいた。アルバムタイトルでもあるこの曲は、リッチー・エドワーズの失踪(08年に死亡宣告)を経て作られた。受験英語の感覚で〝マスト〟の意味を前向きに捉えていたが、訳詞を見る限り、<全ては過ぎ去っていく>という諦念、無常観に近いようだ。妹の死が、リッチーの不在に打ちひしがれたバンドに重なり、マニックスとの縁はさらに深まった。

 かつてマニックスのライブでは、リッチーの場所(向かって左)が空けられていた。現在は2人のサポートミュージシャンが立っている。ジェームズは繰り返しリッチーへのオマージュを示し、客席から声が飛ぶ。語ること、思い出すことで多少なりとも悲しみを克服出来るのだ。俺、いや、集まったファンは、濡れた糸でマニックスと紡がれている。彼らは<愛と絆>を体現する稀有なバンドなのだ。

 ステレオフォニックスのライブでも感じたが、若い人たちはとにかく歌う。前のカップルなどずっと体を揺らし、歌いっ放しだった。還暦を過ぎて湿度が高くなった俺は、声帯と涙腺が繋がっているから、歌わずにいたが、ラストで最も聴きたかった「享楽都市の孤独」のイントロが流れた時、涙腺が決壊し、沈黙のまま唱和していた。

 ♪文化は言語を破壊する 君の嫌悪を具象化し 頬に微笑を誘う 民族戦争を企て 他人種に致命傷を与え ゲットーを支配する 毎日が偽善の中で過ぎ去り 人命は安売りされていく 永遠に……

 その後のサビで会場の興奮は最高潮に達する。ジェームズ、リッチー、そしてニッキーと3人の詩人を抱えるマニックスは、世界で最も知的なバンドだから、彼らの曲を諳んじることは頭脳の鍛錬にもなる。ちなみに高名な詩人であるニッキーの兄も、バンドをサポートしているという。

 会場の外に出ると、熱く湿った心を冷やすような雨が降っていた。最高のパフォーマンスに、俺は固く誓う。2年後に確実に企画される「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」20周年記念ライブに足を運ぶことを……。俺はその時、62歳になっているが、マニックスとの糸が切れるなんてあり得ない。

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「献灯使」~フィールドワークから生まれたリアルなデストピア

2016-11-06 21:30:40 | 読書
 先日、佐藤かおりさん(女性と人権全国ネットワーク共同代表)の参院選報告&懇親会に足を運んだ。立候補(東京選挙区)の意思を固めたのがGW直前と、無謀と言うしかない挑戦だったが、かの高樹沙耶候補を上回る票を獲得したのだから健闘といっていい。

 「推薦人に名を連ねた人は何をしていたのか」という声が都外の支持者から上がったというが、知識人、文化人も決して自由ではない。昨年の熱い夏を主導した小林節氏でさえ<市民>に見捨てられた。弱い立場の<当事者>が連合体を形成することが、日本を根底から変える方法ではないか。

 選挙を通じてLGBT、貧困や差別に喘ぐ人、反戦派と繋がった佐藤さんが現在、意欲的に取り組んでいるのは、自民党が水面下で進めている「親子断絶防止法」にストップをかけることだ。同法案の目的は<男性上位の家庭に女性を縛り付けておくこと>で、子供の意思やDVへの配慮が全くない。時計の針を明治に巻き戻したい日本会議が、裏で糸を引いている。

 3・11後、平野啓一郎は「小説が3・11以前と同じであっていいはずがない」と語っていた。その思いは多くの作家たちが共有しており、当の平野、池澤夏樹、星野智幸、奥泉光、桐野夏生らが原発事故にインスパイアされた作品を発表してきた。石巻出身の辺見庸は小説、評論に加え、詩集「眼の海」で慟哭、鎮魂、寂寥を表現した。

 積読本から手に取った「献灯使」(14年、多和田葉子/講談社)は白眉といえる作品だった。ノーベル賞の時期、村上春樹を巡って大騒ぎになるが、日本人作家の〝裏の本命〟に多和田を挙げる文学通も多い。俺にとって多和田ワールドは「犬婿入り」、「雪の練習生」に次いで3作目の経験になる。

 多和田は1982年以降、ハンブルク、ベルリンに在住し、ドイツ語で著わした小説や詩で様々な栄誉に浴している。タイトル作だけでなく、「韋駄天どこまでも」「不死の島」「彼我」「動物たちのバベル」の四つの短編も、<崩壊した日本、死に瀕した人類>という設定に基づいている。

 「献灯使」の主人公は義郎と6歳の曽孫、無名(むめい)だ。放射能で体を強化した老人は不死状態で、義郎は無名を守るために生きている。放射能汚染がDNAにもたらして影響は甚大で、祖父母の体内被曝の影響で、成長過程で歩けなくなったり、性転換したりした子供たちは10代半ばで召されていく。無名もまた同じ道を辿るのだ。

 本作は<ユートピア>の対極である<デストピア>にカテゴライズされている。<デストピア>とは管理と抑圧が常態化し、生態系の崩壊で人類が志向すべき調和や絆が失われた社会が描かれる。地震と原発事故で首都圏は廃墟になり、事実上の道州制が敷かれている。沖縄や四国が農作物に溢れる地域と想定されているが、労働環境が奴隷制に近い可能性も示唆されている。

 鎖国というより、日本は放射能汚染を恐れる諸外国の意思で遮断されている。ネットも電話もないから、情報は一切入ってこない。外来語は禁止され、人々は息を潜めている。本作に描かれる社会に、日本の現状に対する多和田の鋭い分析が窺える。上記した作家たちは3・11後、内側から日本を相対化したが、多和田は異なる。距離を置いて日本を俯瞰したことで、「献灯使」は忌憚なきリアルな<デストピア>になった。

 「犬婿入り」に感じたことだが、多和田の作品には、日本における共同体と個というアンビバレンツが内包され、椎名麟三や古井由吉に似た皮膚感を覚える。タイトルに含まれる<献灯>とは葬儀の際、死者を追悼して灯される火のことで、灯籠流しとも重なる。現世と彼我を繋ぐ灯をイメージすれば、謎めいたラストを解読できるかもしれない。

 「犬婿入り」文庫版の解説で、与那嶺恵子氏は<多和田葉子の小説では、言語が伝達の手段を超えて、ものの本質として屹立する言語空間が立ち現れる>と記していた。一方で多和田は3・11後、浪江町など被災地を訪れ、人々の言葉にインスパイアされ、本作を書き始めたという。方法論、哲学、グローバルな視点だけでなく、フィールドワークに根差した本作は、〝ノーベル文学賞〟に相応しい作品ではないか。
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「人間の値打ち」~イタリア、アメリカ、そして日本の今を穿つ普遍性

2016-11-03 12:00:16 | 映画、ドラマ
 欅坂46の関係者が米ユダヤ系団体に謝罪した。ハロウィーンイベントで着た衣装のデザインが、ナチスドイツの軍服に似ていたとの抗議を受けたからだ。ユダヤ人の情熱は認めるが、イスラエルの現在を考えると複雑な気持ちになる。

 アウシュビッツ施設内のサロンで音楽を楽しんだドイツ人将校、ガザ無差別空爆(2年前)を川べりで観賞会を開き、着弾するたびに歓声を上げ乾杯したイスラエル人……。ジェノサイドを志向するという点で、両者は何も変わらない。ちなみに、〝花火大会〟の非人間性を報じたリポーターは翌日、CNNをクビになった。

 週末、渋谷はハロウィーンで大騒ぎだった。駅とル・シネマの行き帰り、闊歩する仮装行列の間を縫うように歩く。ハロウィーンの起源は土着信仰で、呪術とも無縁ではない。地域によって異なるが、日本では村落共同体の<ハレとケ>に繋がっている。

 来年以降、日本でもさらに規模は拡大するだろう。閉塞社会で、若者は貧困に喘ぎ、言葉を呑み込んでいる。息詰まる<ケ=日常>と仮装によって自分を解き放つ<ハレ=非日常>の乖離が広がり、暴力的、刹那的な色調を帯びていくのではないか。アメリカのピエロ騒動は前兆かもしれない。

 ル・シネマでイタリア映画「人間の値打ち」(13年、パオロ・ヴィルズィ監督)を観賞した。内外で多くの映画賞に輝いた本作は、ベルナスキ、オッソラの両家族がトグロを巻きながら物語は進行する。公開直後なので、ストーリーの紹介は最低限にとどめたい。

 ジョヴァンニ・ベルナスキは金融界の大物だ。妻カルラは演劇への夢を捨てて結婚したが、心の中でマグマが煮えている。夫の財力を背景に、劇場再開に向け尽力している。長男マッシミリアーノはドラ息子の典型で、オッソラ家の長女セレーナと付き合っていた。

 冒頭で自転車に乗った労働者が轢き逃げされる。「運転していたのは誰?」という謎解きで、観客を引き込んでいく。第1章=ディーノ、第2章=カルラ、第3章=セレーナ、第4章=人間の値打ちの4章立てで、3人の主観がカットバックしながら真相に迫っていく。

 原作はスティーヴン・アミドンが米コネティカット州を舞台に著した小説だ。ヴィルズィ監督は時間を巧みに刻んで再構築した。新自由主義の下で拡大する格差を背景に、家族の絆、人間の価値、愛する意味を問い掛ける普遍的な作品で、アメリカ、イタリア、そして日本の現状にも重なっている。

 狂言回しを務めるセレーナの父、ディーノ・オッソラは、娘を利用してオッソラ家に接近を図る拝金主義のしもべだ。心療内科医の後妻ロベルタは、存在感を次第に増していく。マッシミリアーノと真逆なルカは傷つきやすい少年で、ロベルタの患者だった。セレーナのルカへの思いが謎解きの伏線になっている。

 純粋と繊細、欲に根差した醜悪……。コントラストが際立つ作品で、ラストに癒やしと希望が用意されている。主演として数々の栄誉に輝いたのは、イタリア映画界の〝挌〟を反映しているのか、カルラを演じたヴァレリア・ブルーニ・テデスキである。妖艶なフェロモンが全身から零れ、アンニュイを表現していた。エンドロールでタイトルの意味がわかる。一人の人間の値段に悲しさとやりきれなさを感じた。

 今日3日は、目に見える形で「人間の価値」が示される日だ。受勲者は自身の<価値>に誇らしさを覚えているだろう。辺見庸は講演会で、敬意を抱いていた左派やリベラルの文化人が受勲を誇る様子に、「表現してきたことが無価値になった」と怒りを込めて語っていた。現在の天皇は護憲派のシンボルだが、天皇制とは人を不自由にする仕組み……。このアンビバレンツを解消する術は見つからない。

 褒賞と無縁の俺は、「目に見えない価値」を追求し、老い先短い人生を過ごしていきたい。
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