酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

大道寺将司全句集「棺一基」~言葉本来の神的響きに心洗われ

2012-06-28 00:49:37 | 読書
 消費増税法案の採決を苦渋の表情で見守る零細業者が、テレビ画面に映し出されていた。逆進性は放置され、低所得層ほど負担に喘ぐことになるという。一方で、大企業はどうか。田中康夫議員は仕事先の夕刊紙で、<株式会社の7割、連結決算を導入する超大企業の66%が、国税と地方税の法人事業税を1円も納付していない不条理>を指摘していた。

 <1%の獣>が<従順な99%>を蹂躙する構造が3・11以降、揺らいできた。反原発、反TPP、反基地、そして反増税が、寛容で健全なナショナリズムを軸に、緩やかな集合体を築きつつある。<抵抗のゴールデンエイジ>(1930年前後)から80年、この国にもようやく革命の気運が高まってきた。

 元最高裁判事の団藤重光氏が亡くなった。肩書といかめしい名前から想像もつかなかったが、団藤氏は死刑廃止や少年法改定反対に熱心に取り組んでいたことを知る。リベラルで気骨ある法律家の冥福を祈りたい。

 革命、そして死刑……。二つの前振りが像を結ぶのが大道寺将司だ。今回は全句集「棺一基」について記したい。大道寺の経歴、辺見庸が発刊に向け尽力した経緯は別稿(12年5月10日)に詳述したので割愛する。

 辺見は「個体と状況について」と題された講演会(06年12月)で、大道寺を<現在最高の表現者であり、言葉本来の神的響きを提示している>と評していた。辺見の詩集「生首」、「眼の海」と本句集を併せて読むと、両者の共通点に気付く。五臓六腑から血とともに吐き出された言葉は、凝縮された思いとイメージを幾重にも纏い、対峙する側の想像力を喚起する。

 辺見は「棺一基」の序文と跋文を担当しているが,それに触れたら<辺見が読んだ大道寺>をブログに記すことになるだろう。〝辺見信者〟になりたくないのであえて目を通さず、自身の拙い読解力で感じた大道寺を綴りたい。

 タイトルは<棺一基四顧茫々と霞みけり>の句から取られている。棺に横たわった遺体(死刑囚?)の来し方に、自らを重ねたのだろうか。死刑執行に即して詠まれた句を紹介する。

夏深し魂消る声の残りけり 
縊られし晩間匂ふ桐の花
垂るる紐捩れ止まざる春一番

 大道寺の母幸子さんは将司だけでなく、死刑囚や獄中者を励ましてきた。04年に亡くなったが、その遺志は死刑囚の創作活動を支える<大道寺幸子基金>として結実した。母への思いを詠んだ句の中から挙げてみた。

虫の音や杖に縋りて母の来る
小六月童女の如き母なりけり
その時の来て母還る木下闇

 大道寺の句は現実、仮想、記憶、心的風景が交錯する独自の世界で成立しているのだろう。獄舎の日常と季節の移ろいを重ねた句の中で印象に残ったものを選んでみた。大道寺は猫好きなのか、句の中に仔猫が何度も登場する。

寂寞の苔の獄舎に仔猫かな
初雪や濁世の底に救ひあり
海市立つ海に未生の記憶あり
鬼を呑む夕べ哀しき曼珠沙華
セザンヌの暮色めきたる小春かな

 <狼は檻の中にて飼はれけり>と詠む大道寺だが、初心を忘れていない。日本の右傾化、貧困と格差、ホームレスの状況に思いを寄せ、イスラエルのパレスチナ弾圧、アメリカのイラク侵攻もテーマに組み入れている。革命家の矜持を保っていることは、以下の句からも明らかだ。

ゲバラ忌や小声で歌ふ革命歌
アイヌ史に涙を零す弥生かな
君が代を齧り尽せよ夜盗虫
かぎろいて命の消ゆるまたひとつ
春疾風なほ白頭に叛意あり

 大道寺の句で何より胸に迫るのは贖罪の意識だ。自らの罪は贖いようがないと考える大道寺は、死刑制度そのものに言及していない。ここ数年はがんと闘いながら、自らが殺めた死者と向き合っている。慟哭と悔恨に満ちた句を以下にピックアップした。雷鳴や稲光が爆弾のメタファーとして繰り返し表れるのも特徴だ。

死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ
春雷に死者たちの声重なれり
まなうらに死者の陰画や秋の暮
寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり
ちぎられし人かげろふのかなたより
新涼の闇に倒れし人の貌
鬼ならぬ身の鬼として逝く秋か
花冷えや罪業てふ身の火照
まなぶたに危めし人や稲光り

 母は亡くなり、友や支援者の訃報に接する機会も多い。獄舎で孤独と向き合う大道寺にとり、現実(仮想?)の友は虫たちだ。

秋の蝶病気見舞いに来る窓辺
蚊とんぼや囚われの身に影は濃き
死ぬるため夜の独居に羽蟻来む
二の腕もこむらも痩せしちちろ虫
虚空をば蝉の足掻くは一途なり
群れ飛びて独りと思ふ蜻蛉かな
たましひの転生ならむ雪蛍
わが床の熱を慕ひしかまどむし

 空虚な言葉が幅を利かす3・11以降、大道寺の言葉が誰のものよりフレッシュと確信したから、辺見は全句集発刊に奔走した。2時間もがいて数㍍先のトイレで用を足す大道寺は、自らの痛みを爆破事件の死傷者、大震災や原発事故の被災者と重ねている。3・11以降に詠まれた句から以下を紹介する。

暗闇の陰翳刻む初蛍
水底の屍照らすや夏の月
人去りし野霧を牛の疾駆せり
日盛りの地に突き刺さる放射線
若きらの踏み出すさきの枯野かな

 大道寺の句は、読む者の内面に血を滲ませる。大道寺にとって詠むことは苦行であり、救済でもあるのだろう。繰り返し触れるうち刺々しさが薄れ、汚れた魂が浄められるような清々しさを覚えた。これこそが辺見のいう<言葉本来の神的響き>なのだろう。

 今日は仕事を終えた後、実家に向かう。週末は妹の忌明けと納骨だ。死に心を洗われる日々が続く。
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「ミッドナイト・イン・パリ」~再生への希望に満ちたファンタジー

2012-06-26 01:06:20 | 映画、ドラマ
 福井で反原発運動を支えてきた小木曽美和子さんが亡くなった。ご冥福を心から祈りたい。小木曽さんも訴えていた大飯再稼働反対を掲げた集会とデモが毎週金曜夜、首相官邸前で開催され、先週は4万5000人が集まった。仕事の関係で参加できるのは早くても来月20日だが、その時点でどれぐらいの規模になっているのだろう。

 父の給料日だったか、誰かの誕生日だったか、年に数回、家族で駅前のレストランを訪れた。妹の死をきっかけに子供の頃の団欒の記憶が溶けたのか、手頃な値段で寛げる洋食屋がマイブームになっている。先週末もレトロな造りの新宿のレストランを訪れた。ノスタルジックな気分に浸って外の景色に眺めていると、猫カフェの看板が目に留まる。

 食事後、時間潰しに猫カフェに入ってみた。種類も性格もまちまちの猫が50匹ほどいて、2フロアを自由に行き来していた……と宣伝文句通り書きたいところだが、夕飯から1時間というタイミングのせいか、愛想もなく爆睡している猫が多かった。遊ぼうとちょっかいを出す俺に、猫たちは素っ気ない。漫画や本を読み、近づいてきたら軽くタッチするというのが猫カフェ通の作法のようだ。

 猫空間で癒やされた後、ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」(11年)を見た。アレンのゴールデンエイジ(1920年代)へのオマージュが窺える作品で、「人生にとって最も大切なものは何ですか」と見る側に柔らかく問い掛けてくる。アレンが用意していた答えは「愛、夢、価値観、感性、自由」といったところか。

 新思潮や芸術運動が妍を競った1920年代、ベルリンとパリが2大文化拠点だった。角突き合わす感の強かったベルリンと比べ、多様性を受け入れたパリには様々な分野のアーティストが集まった。時空を超えてストーリーが進行する本作は、俺がアレン作品でベストワンに推す「カイロの紫のバラ」(85年)とトーンが似ている。

 ここで自画自賛の発見を。余程のアレン通しかピンとこなかったはずだが、「カイロ――」でセシリアの夢を砕いたトム役の俳優がギル、そして「ミッドナイト――」で夢を追う主人公の名がギル……。アレンが両作の共通点を意識していたことは間違いない。

 ギル(オーウェン・ウィルソン)は婚約者イネス(レイチェル・マクアダムス)とその両親とともにパリを訪れるが、習慣や感覚の違いもあって窮屈で仕方ない。偶然出会ったイネスの友人にもうんざりしたギルは、深夜のパリを徘徊するうち、1920年代にタイムスリップする。

 ジャン・コクトー主催のパーティーをきっかけに、ギルは後世に名を残す芸術家の知己を得る。スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、ガートルード・スタイン、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、マン・レイらとの交遊は、ギルにとって再生への道程となる。

 アレンはニューヨーカーのシンボルのひとりだったが、「マッチポイント」(05年)以降はヨーロッパに拠点を移し、美男美女を配して映画を撮り続けている。本作のギルは小説執筆に悪戦苦闘する脚本家という設定で、他のアレン作品同様、女性にモテる。30年前ならアレン自身が演じ、冴えない風貌でリアリティーを損なったことだろう。

 20年代の案内役としてギルを導いたフィッツジェラルドは傑作「雨の朝パリに死す」を残したが、本作のギルは「雨の夜パリで再生す」……。コール・ポーターの音楽が爽やかなラストへの伏線になっていた。

 「ミッドナイト――」にはアレンのリベラルな思想信条、遊び心も織り込まれ、パリ観光ガイドの趣もあった。美女たちも彩りを添えている。本作以降、既に2作がクランクアップし、1年以内に日本で公開されるという。75歳を過ぎても表現への情熱を失わないアレンに驚嘆するしかない。
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<野田VS小沢>の空虚なドラマが実を生む?

2012-06-23 13:20:26 | 社会、政治
 ネタが切れで困っていたら、世間から湧いてきた。原辰徳監督と小沢一郎氏である。両氏に特別な思いは抱いていないが、商売下手な俺もここは一丁、便乗することにした。

 まずは枕で原氏を……。当時(88年)の原氏は既婚者とはいえ、名声と富を併せ持つ好男子だった。俺など「浮気の一つや二つは若気の至り」と許してしまうのだが、相手の女性の日記が難物だったようである。自身だけでなくチームメート2人の名誉に関わる秘密を、1億円を払ってでも守りたかったのだろう。18年後の恐喝が、様々な憶測を呼んでいる。

 〝永遠の若大将〟原氏だが、爽やか、感覚派、天然ボケ、モチベーターというキャラと異なる個性を秘めていても不思議はない。ヒントのひとつはゴルフだ。パブリックイメージとは真逆の資質――緻密さ、冷静さ、周到さ――を生かしてプロ級と評される原氏は、シニアツアー参加を目指した時期もあった。次号以降の「週刊文春」で、原氏の新たな面が示されるかもしれない。

 ベビーフェース(善玉)を通してきた原氏と対照的に、小沢氏は今も国民的ヒール(悪玉)だ。俺のようなひねくれ者は、「信用できない大メディアがボロクソに書くということは、小沢氏は素晴らしい政治家なのか」と錯覚しそうになる。ダーティーさで突出した野中広務氏と対談し、小沢氏を攻撃して悦に入っていた立花隆氏のような御仁もいる。

 俺の中で小沢氏は、〝史上最悪レベルのヒール〟野田首相と比べたら小悪党に過ぎない。別稿(12年4月28日)で以下のように記していた。

 <3・11以降、小沢氏が原発の是非を含むエネルギー問題で提言したことはあっただろうか。東北選出議員として被災地で汗水流したという報道もなかった。小沢氏は政治家としての肝というべき発信力が欠落している>……。

 だが、消費税については小沢氏に理がある。増税分の使途は曖昧で、前提だった公務員制度改革は逆コースを辿っている。<欧州ではもっと高い>は空論で、福祉や医療の充実は言うまでもなく、食品など必需品には軽く、車など贅沢品には重く課税するなど各国が工夫を凝らしている。

 福祉に取り組む民主党の初鹿衆院議員は、<格差を是正すると訴えて政権交代したのに、法案が修正され、富裕層の負担が減り、低所得者層の負担が増える内容になった。認められない>と読売新聞に造反の理由を語っていた。正論だと思うが、メディアは<反増税=小沢一派>と一括りしてバッシングを強めている。

 毎週金曜夜、再稼働に反対するデモと集会が官邸周辺で開催されている。俺も参加したいが、金曜は夕方から外せない仕事があるので難しい。デモがどう報じられているか気になり、「報道ステーション」を録画した。4万人以上が集まった昨日は、同時進行の官邸での節電関連会議と併せて大々的に取り上げていた。取材を無視して車に乗り込んだ枝野、細野両担当相の本音は、ご主人様(アメリカ、東電、霞が関)以外、相手にせずといったところか。

 〝本籍アメリカ〟で原発の代理人と目されるゲストの寺島実郎氏と古舘伊知郎キャスターとのやりとりも興味深かった。寺島氏は「日本政府はオバマ大統領との約束を守って原発を推進すべし」と語り、デモ参加者は考えが足りないと言いたげだった。古舘キャスターは正面きって反論する。「福島原発事故で国内外に放射能汚染をもたらした以上、日本は脱原発を国是にすべし」と主張する古舘キャスターに心の中で拍手を送った。

 東京新聞がスクープした通り、野田政権は喧騒のさなか、<原子力の憲法>である原子力基本法をこっそり改正した。<東南アジアに原発を売り、再処理は日本でというパターンを確立すれば、核燃リサイクルの大義名分が立つ>……。野田政権と自民党を操った経産省のシナリオを「報ステ」が指摘していた。

 小沢氏を軸にした離党⇒新党の政局は、ドラマとしては面白いが、国民から遊離している。<いまだ〝小沢幻想〟に憑かれている信者には首をかしげざるをえない>と別稿に記した俺だが、今回ばかりは小沢氏を応援する。小沢氏が巨悪(野田政権)を倒すための必要悪になってくれればという微かな期待だが、想定外の実がなる可能性もある。

 最後に、宝塚記念の予想を。◎⑦ルーラーシップ、○②ショウナンマイティの馬連1点と考えていたが、岩田がディープブリランテ方式で調教以外にも寄り添っている①ウインバリアシオン、母系タマモクロスにそそられる③ヒットザターゲットも買い目に加えることにした。手を広げてもきりがない難解なグランプリである。
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巨大な影に覆われた真実~NHKはどこまでオウムに迫れたか

2012-06-20 23:17:16 | 社会、政治
 仕事先の夕刊紙(20日付)に、福島の子供たちの被曝の実態を伝える記事が掲載されていた。<診察した10歳前後の35%に嚢胞が発見された>とする医者のリポートに愕然とする。約100万人が亡くなったチェルノブイリを上回るスピードで、放射能が子供たちの体を蝕んでいるようだ。

 裁かれるべき東電は、今や民主党と固いスクラムを組んでいる。正邪を写す魔法の鏡があれば、原発再稼働に邁進する野田、仙谷、枝野ら政権中枢はドクロの素顔を国民に晒すだろう。我々が選んだのは、倫理や優しさと無縁の、獰猛な獣の群れなのだ。

 スケールでは政府や東電に及ばないが、悪の質なら匹敵するオウム真理教の手配犯が相次いで逮捕された。軌を一にするように、オウムの謎に迫った「NHKスペシャル~未解決事件第2弾」(全3回)が放映される。番組の感想と合わせ、オウムについて考えたことを以下に記したい。

 最初の2回はドラマ仕立てで、萩原聖人がオウム事件を追い続けた片桐記者を、「恋の罪」(11年、園子温)で存在感を見せつけた冨樫真が元女性幹部を演じている。捜査陣への取材を軸に据えた第3回では、<態勢を整えて対応していれば、サリン事件は防げたのでは>という幹部たちの悔いが滲んでいた。その点は第1弾(グリコ森永事件)と同様である。

 宗教団体があそこまで……。これが警察関係者の共通した認識だったが、人を何より狂気や暴力に駆り立てるのは宗教である。今企画のセールスポイントは、警察に押収されなかった700本のテープだった。麻原彰晃の説教や幹部との会話が録音されたテープに、驚きを隠さず聞き入る当時の捜査担当者もいた。

 平田信、菊地直子、高橋克也の3容疑者の足跡が明らかになってきた。高橋は菊地と同居していた男(高橋寛人容疑者)に、口封じのため金を脅し取られていたという事実まで発覚する。拍子抜けというのも変だが、俺には想定外の展開だ。

 平田が出頭するまで、オウムをテーマに書かれた本や記事に共通点があった。オウムが投じた巨大な影は、<結成8年足らずの集団がサリン事件を独力で起こせるはずがない>という推論を生む。旧ソ連、北朝鮮、東南アジアの麻薬シンジケートらとの関係がまことしやかに語られ、「指名手配の3人は国外にいる」と断定する記事を読んだ記憶がある。ところが3人は、教団や〝見えざる組織〟と無関係に、泥臭い逃亡劇を国内で演じていた。

 発掘されたテープからも、背後関係は浮かんでこない。分析の結果、1990年前後(熊本県波野村時代)から、麻原がテロを志向していたことが明らかになる。上祐史浩元幹部への取材、井上嘉浩死刑囚が寄せた文書が、麻原の武装化への執念を裏付けていた。

 熊本時代の先輩が、支配への欲望に憑かれた麻原の〝初心〟を明かしていた。他者をコントロールする方法を習得した麻原は、テープを再現したドラマからもわかるように、弟子たちを思いのまま操っていた。背景にあるのは、若者を馴致し牙を抜いた日本の教育制度ではないか。

 学生時代(80年前後)、様々な団体が教室で署名活動を行っていた。俺は時に集める側だったが、<情報が警察から企業に洩れるので、絶対に署名しない>と拒否するクラスメートが大半を占めていた。<一流の奴隷>になるために思考を停止する傾向が定着すれば、世界観や思想信条を論じる機会は皆無になる。免疫がなかったせいで、若者はオウムの粗雑な論理に引き寄せられたとみる向きもある。

 すべての組織や集団に共通する陥穽をオウムに重ねることも可能だ。片桐は元幹部夫妻に以下のように思いを伝えた。

 <オウムの幹部も信者も、もともとは普通の人たちです。決して特異な人たちではない。でも、集団の中にいると、誰でも同じようなことをする可能性がある。もちろん、僕もです。大事なのは、集団が暴走した時、それに抗うことが出来るか、抗えなくても、立ち止まって考えることが出来るか……。そんなことを考えました>

 「オウムの幹部も信者も」を「民主党議員や原子力村の住人も>に置き換えれば、そのまま通用する台詞だ。オウムにも立ち止まって考えるチャンスはあった。修行中に事故死した信者を正しく葬っていれば、その後の暴走はなかったかもしれない。福島原発事故に起因する体内被曝から目を逸らす政官財は、〝マトモ〟を装う分、オウムより罪は重い。

 逮捕劇と特集番組で、セピア色のオウムの記憶がカラフルに甦った。同時に、遺族の悲しみ、サリンの後遺症で病床に伏す患者の苦しみにも思いが至る。一連の事件は、個の闇の深さが起点になった。ならば、個の善意や慈悲が社会に癒やしや安らぎを与えることもあるのではないか……。無為で冷淡な俺だが、人を信じる気持ちはまだ残っている。

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「さあ帰ろう、ペダルをこいで」~再生に至るロードムービー

2012-06-17 19:07:53 | 映画、ドラマ
 旧聞に属するが、二つの名人戦の感想を。

 将棋では森内名人が4勝2敗で羽生2冠を退け防衛を果たした。金属疲労なのか羽生神話の崩壊は否めないが、一方の森内は齢を重ね、器の大きさを感じさせる棋士になった。昨年10月、NHK杯で解説を務めた森内は、藤井9段の差し手(5五角)を見た刹那、「凡人には思いつかない」と呟く。時の名人が自らを〝凡人〟と評する謙虚さに感銘を受けた。

 麻雀の名人戦(MONDOTV放映)の結末は劇的だった。大腸がんで召された飯田正人が、1回戦最下位から大捲りを決め、最後の対局で名人位(3期目)を獲得した。同卓した土田浩翔がツイッターで述べた通り、<卓上に神が降臨したかのような大逆転劇>である。享年63歳、大魔神と恐れられた男の冥福を祈りたい。

 麻雀の名人戦ほどではないにしろ、サッカー欧州選手権A組でギリシャがロシアを1―0で下し、逆転でベスト8に進出した。財政緊縮派(ユーロ圏維持)の勝利が濃厚とされる再選挙前日のこと。サッカーは意外な結末だったが、選挙の方は世論調査通りにいくだろうか。

 さて、本題。新宿で昨日、「さあ帰ろう、ペダルをこいで」(08年、ステファン・コマンダレフ監督)を見た。ブルガリア、ドイツ、ハンガリー、スロベニア、セルビアの共同制作で、ヨーロッパ現代史を背景に描かれたロードムービーだ。「預言者」、「ル・アーヴルの靴磨き」、そして本作「さあ帰ろう――」が現状での'12ベストワン候補だが、この3作には共通点がある。いずれも移民問題が主要なテーマとして組み込まれていることだ。

 本作には主人公が二人いる。1975年にブルガリアで生まれたアレックス(通称サシコ)と、母方の祖父バイ・ダンだ。冒頭でサシコと両親が乗った車が事故に遭う。両親は亡くなり、サシコは記憶を失った。林立する風力発電機が、事故現場がドイツであることを印象付けていた。

 現在(2007年)と過去をカットバックさせながら、一族の歴史が紡がれていく。孫を気遣ってブルガリアからバイ・ダンがやってきた。翻訳業に従事するサシコは抗鬱薬を手放せない孤独な青年だが、バイ・ダンはカラーが真逆だ。ハンガリー動乱時、リーダーとしてスターリン像を破壊し、恩赦で死刑を免れたが15年の懲役刑を言い渡される。出獄後はバックギャモンで名を馳せる筋金入りのアウトローだ。

 サシコが7歳の時、父ヴァスコは良心を保つため、妻と息子を伴ってブルガリアを出る。行き着いたイタリアの収容所は、東欧やアラブ世界からの難民がひしめき、牢獄と変わらない、希望の光は射さず悶々とする家族に突破口を開いたのはバックギャモンだった。新天地ドイツでの暗転は、サシコの台詞で説明されている。

 弾圧に耐え抜いたバイ・ダンは、バックギャモンに例えて警句、箴言を吐く。老いても頑健で、物事の本質を一瞬で見極める直感力を備えていた。祖父と孫は家族の歴史をなぞりながら、ヨーロッパの美しい自然をタンデムで駆け抜けていく。収容所跡で思い出した初恋により、事故の全容が甦った。サシコにとって故郷ブルガリアに至る旅は、家族との絆を取り戻すだけでなく、瑞々しい感情を漲らせる道程でもあった。

 バイ・ダンを演じたミキ・マノイロヴィッチは、エミール・クストリッツァ監督作で地位を確立した名優だ。本作は音楽の用い方などクストリッツァ色が濃く、したたかさとユーモアさに溢れている。祖父と孫がバックギャモンで勝負するシーンが秀逸だった。

 両親の死を知ったサシコだが、笑顔でスタートラインに立つ。喪失の哀しみは、時に再生のきっかけになるのではないか……。妹を亡くしたばかりの俺は最近、そんな風に考えるようになった。「さあ帰ろう、ペダルをこいで」は俺にとり、家族と故郷、人としての矜持、過去と現在の縁、老いを考える上で重要な意味を持つ作品になりそうだ。
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「あんぽん」~〝知の巨人〟が綴った孫正義へのラブレター

2012-06-14 23:37:49 | 読書
 〝世界最高のジャーナリスト〟デビット・ハルバースタムの著書で一冊選ぶなら「覇者の驕り」だ。戦後史を背景に、マスキー法をクリアした日本の自動車業界と努力を怠ったデトロイトの明暗を、日産とフォードを俎上に載せて描いた力作である。ハルバースタムが瞠目したのは、日本人の技術革新への情熱とチームスピリットだった。

 「覇者の驕り」から四半世紀、東日本大震災が起きた。悲劇は悲劇として、3・11は日本再生へのスタートになるかもしれない……。俺もそんな希望を抱いたひとりだったが、原発利権集団に屈服した民主党は、この国を〝驕る覇者〟として死滅させる道を選ぶ。消費増税談合の陰で民自公は、<40年で廃炉>まで棚上げにした。

 3・11以降、孫正義の言動が耳目を集めた。折しも佐野眞一は、前年(10年)から孫と周辺を取材し、「週刊ポスト」(11年新年号~)に連載中だった。連載記事を加筆修正してまとめた「あんぽん」(小学館)を先日読了する。以下に感想を記したい。

 孫正義とは何者か。佐野は幾つもの形容詞を冠している。3・11から約10日、孫は原発事故で多数の人が避難した福島県田村市を訪れた。同行した樋渡武雄市長は「孫さんの情熱の〝灼熱地獄〟にさらされっぱしだった」と鬼神の如き行動に感銘を受けた。武雄市は1000人以上の避難民受け入れを表明する。孫の熱さの原点を探るため、佐野は一族の歴史に迫っていく。

 ハルバースタムがお手本なら、佐野の情念は逸脱と映る。この傾向は「東電OL殺人事件」(11年8月2日の稿)からだろうか。佐野は疑いなく被害者の渡辺泰子に懸想していた。それでなくては、<泰子はありとあらゆる病巣が巣くった円山町のなかで、画然と屹立する「病の怪物」だった。魂を深く病んだ人間にしか、魂を深く病んだ社会は見えない>なんて誌的な表現は浮かんでこない。

 「あんぽん」も同様で、佐野は日本と朝鮮半島の1世紀以上にわたる歴史を踏まえつつ、取材の過程で孫正義という人間に魅入られていく。在日というだけで孫を罵る者に対し、<在日がいるから、日本人は辛うじて〝生物多様性〟を保持でき、どうにか〝他人〟との付き合いができるんじゃないか>と怒りをぶちまけていた。

 <貧困と差別を抜きに語る孫正義論は無意味>と記す佐野だが、父三憲が象徴する一族の強烈なキャラクターに圧倒されていた。一族の葛藤と怨嗟を「血と骨」(梁石日)や「息もできない」(ヤン・イクチュン)と重ねて詳述し、煮えたぎる坩堝から生まれてきた正義の逞しさを「荒魂」(石川淳)の主人公・佐太に例えている。

 高校を中退してカリフォルニアに向かった孫は、当地の自由な空気に刺激を受け、<自分は何者で、どこへ向かうのか>というアイデンティティーの問題に行き着く。苦悩の中で出した結論は日本国籍取得、そして、タイトルにもなった「安本=あんぽん」を捨て、韓国姓の孫を名乗ることだった。自らのルーツを宣言した孫だが、韓国には距離を置いている。ルーツを探るため大邱に赴いた佐野は、手入れされていない祖先の墓に、孫の複雑な思いを見た。

 孫は熱さとはアンビバレントな合理主義を併せ持つ。パブリックイメージはリアリスティックな商売人で、情報革命に絶対の信頼を置く孫は、佐野のアナログ的な問題提起を一蹴する。<世界をクールに切り取る宇宙人>の仮面を剥がしてやる……。そんな思いで対峙したからこそ、本書は読み応えある作品になったのだ。 

 孫の親族はかつて炭鉱事故で死んだ。国策としてのエネルギー事業を最優先し、人命を犠牲にして補償費を浮かす――生かすより殺す――という論理は、石炭でも原発でも変わらない。この構図に気付いたからこそ、孫は<無意識の衝動>で脱原発を提唱したのではないか……。佐野はそのように理解している。

 石原慎太郎都知事は3・11直後、〝天罰発言〟で愚かさを満天下にさらす。佐野は石原都知事を<使用済み核廃棄物でしかない>と断じ、孫を<この問題(未曾有の大災害)の本質を実のある話として語れる唯一の人間>と対置した。石原と孫はともに佐野にとって取材対象だったが、3・11は差異を浮き彫りにした。両者はある意味、人の思想傾向を量るリトマス紙なのだろう。

 
 <あなた(孫正義)がいない日本は、閉塞感が漂う退屈なだけの三等国になってしまう。それは「日本が大好き」というあなたも望まないだろうし、「3・11」後大きく変わる新生ニッポンの誕生を期待する多くの日本人も望んでいない>……

 上記のように結んだ本書は、冷徹に世界を見つめ、本質を抉り出してきた〝知の巨人〟のラブレターといえるだろう。
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EURO、パッキャオ、POG~入梅時のスポーツ雑感

2012-06-11 23:39:57 | スポーツ
 脱原発のキーパーソン、飯田哲也氏(環境エネルギー政策研究所所長)が、山口県知事選に出馬する意向という。左派ラディカルから民族派まで広範な層に支えられる脱原発は、<健全なナショナリズム>の結集軸になりうると別稿(12年4月7日)に記した。山口といえば、祝島で上関原発建設反対運動が展開中だ。原発の是非を巡る〝関ケ原〟として、7月29日は全国の耳目を集めるだろう。

 妹の死から半月、俺の日常は旧に復しつつある。先週末は新宿末広亭に足を運び、手練れの芸を満喫した。入場すると同時に昼の部ラストの桂才賀が噺を終え、「函館の女」をバックに寸劇を演じる。爆笑と喝采で袖に下がった数分後、前座から夜の部に突入した。

 入れ替わりはあるものの満員御礼で、オチの前に笑う常連客と演者とのコミカルなやりとりも楽しかった。落語以外にも脱力系の柳家紫文の漫談、生活感溢れるホームランの漫才など、聞き応えある芸が続く。掉尾を飾った柳家権太楼の「火炎太鼓」は、筋もオチも知っているのに笑ってしまった。軽やかに、そして濃密に流れた4時間だった。

 ギリシャの再選挙、フランス総選挙での左派勝利、スペイン銀行支援と騒がしい中、ユーロ'12が開幕した。<1%>は自らの懐具合を心配しているが、<99%>はサッカーに熱狂ってことか。1974年以来、応援しているオランダが初戦でデンマークに0―1で敗れた。シュート数で圧倒しながら勝てないのは、オランダによくあるパターンである。次のドイツ戦で実力の一端を見せてほしい。

 オランダに続きパッキャオが判定負けと、週末は贔屓の連敗だ。フライ級でキャリアをスタートしたパッキャオは、体格のハンディを克服しながら実質10階級を制覇した怪物だが、今回のブラッドリーは小柄なスピードタイプで、負ける要素はないと予想していた。パンチにいつもの切れがなかったのはブラッドリーの研究の成果か、後半3ラウンドの失速は加齢による衰えか、陣営の不協和音による練習不足があったのか……。答えは今秋にも実現するリマッチで明らかになる。

 自粛も考えたPOGだが、今季もドラフトに参加した。指名馬ディープブリランテとフェノーメノがダービーでワンツーという望外の快挙を達成した夜、妹が死に、2012年5月27日は人生最悪の日になる。だが、妹の元気な声を死の当日に聞けたのは、POGのおかげだった。
 
 皐月賞を見た母はレース後、「ダービーは福永の馬(ワールドエース)と白い馬(ゴールドシップ)で決まりや」と感想を述べ、俺がディープブリランテ(3着)を買っていたと言うと、「そんなことやから、損ばかりするんや」と一蹴された。ダービー当日、母の鼻を明かそうと実家に電話し、「⑩番(ブリランテ)と⑪番(フェノーメノ)で間違いない。馬券買うか」と切り出した。鼻で笑った母と代わったのは居合わせた妹で、他愛のない言葉を交わした。

 今回は人数が減り、レートが半分になったことで、ギャンブル性は薄れ、競馬そのものを楽しむゲームの要素が強くなった。以下に、指名上位10頭を記しておく。ブリランテのお礼として矢作厩舎のネオウィズダムを1位で入札したが、競合して外したのは残念だった。

①ハイヤーゾーン(ディープインパクト/牡・藤原英)
②Midnight Angelの10(ダラカニ/牡・西園)
③カウウェラ(キングカメハメハ/牡・戸田)
④アイディオロジー(アグネスタキオン/牡・野中)
⑤テネシーワルツ(ハイシャバラル/牝・小島茂)
⑥ランギロア(アグネスタキオン/牡・友道)
⑦アンブリッジローズ(ディープインパクト/牡・国枝)
⑧ディメンティカタの10(ディープインパクト/牡・平田)
⑨コディーノ(キングカメハメハ/牡・藤沢和)
⑩ウインドストリーム(アグネスタキオン/牝・音無)
 
 名前を挙げた以外に期待しているのは、グラスワンダー産駒のウインラヴェリテとパフォームワンダーだ。 

 年のせいか、スポーツへの関心が一気に薄れてきた。この1年、まともに付き合ったのは競馬、NFL、WWEぐらいである。ユーロ'12もオランダ戦ぐらいしか見ないかもしれないし、ロンドン五輪もなくてたって構わない。その分といっては何だが、読書量が増えたのはいい傾向だと思っている。
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「ブラックパワー・ミックステープ」~スウェーデン人が捉えたアメリカの真実

2012-06-08 11:11:59 | 映画、ドラマ
 金子勝慶大教授が仕事先の夕刊紙(5日発行)で、論考を原発に絞って<国民と政治の乖離>を憂えていた。大飯再稼働にまっしぐらの民主党政権は、国民の過半数を占める脱原発の声を封殺しようとしている。

 オウム真理教の菊地直子容疑者が逮捕され、高橋勝也容疑者も捜査の網に掛かっているようだ。サリン散布の罪は重大で、極刑を望む風潮から死刑判決が下るのは確実だ。一方で、東電はどうか。人災で放射能をまき散らし、国の存亡を危うくしたのに司直の手は伸びず、前社長は天下りする。今なお<見えざる黒い手>のスポンサーとして政権の首根っ子を押さえていることは、毎日新聞のスクープ(原子力委内の秘密会議と評価書き換え)からも明らかだ。

 東電といえば、OL殺人事件の犯人として無期懲役刑を執行されていたマイナリ被告が、DNA鑑定などの新証拠に基づき釈放された。日本近現代史を縦軸に、日本とアジアの関係を横軸に据えた「東電OL殺人事件」(佐野眞一著)は、警察と検察が共同謀議で冤罪を作り出す過程を告発していた。東電の隠蔽体質と検察の腐敗が明らかになった今、〝巨視〟佐野による続編を期待している。

 俺はAKBについて何も知らない。大島優子の名前と顔さえ一致しないほどである。普通に近い女の子が互いを補い合っていることが人気の秘密……。そんな風に漠然と考えていたが、いつしか会社並みの世知辛い格付けが導入されている。仕事先の夕刊紙など、辛口で斜に構える論調から、AKB総選挙と狂騒を一刀両断するのが筋だが、秋元康氏との良好な関係からヨイショ記事が多い。この辺りがメディアの限界といえる。

 ようやく、本題。ケイズシネマ(新宿)で「ブラックパワー・ミックステープ~アメリカの光と影」(11年/スウェーデン・アメリカ)を見た。観賞したのは2週間前で、妹の死、1000回記念と想定外のテーマが続き、ここまで延びてしまう。前日の晩飯さえ思い出せないほど記憶力は減退しており、印象は褪せてしまった。HPを参考に大雑把な感想を記すことにする。

 「ブラックパワー――」は1968年から75年に至るブラックパワー運動にスポットを当てている。スウェーデンのテレビクルーが番組用に撮影したフィルムを、時系列に沿って編集して製作された。あちこちに掲げられた死後間もないゲバラの写真に、欧米では既に闘争のシンボルになっていたことが窺えた。

 日本人は当時も今も、<欧米=先進国>と一括りにするが、スウェーデン人にそんな〝常識〟は通用しない。黒人の家庭を訪問して貧困と差別の実態をフィルムに収め、<福祉も医療も遅れたアメリカは、不自由で非人道的な後進国>(要旨)とのナレーションを重ねる。<ベトナム戦争はナチスに匹敵する暴虐>との正論に逆ギレしたのか、アメリカは72年から2年間、スウェーデンと国交を断絶した。

 颯爽と画面に登場したのが格好いいストークリー・カーマイケルで、映像に合わせて流れるコメントの数々も的を射ていた。タリブ・クウェリ(ラッパー)は数年前、FBI関係者に囲まれ、「カーマイケルの演説を次作で用いるというのは本当か」と詰問される。権力者が40年近く前のカーマイケルの弁舌をいまだ恐れていることに、クウェリは感慨を覚えたという。

 マルコムXはかつての仲間の凶弾に斃れ、主導権争いに敗れたカーマイケルも表舞台から姿を消す。同時期の日本の反体制運動と同じく、アメリカのブラックパワーもまた、内紛によって力を殺がれていく。FBIが何より懸念したのは激烈な実力闘争や白人層への支持の広がりではなかった。ブラックパンサーが地域で実践した食事と教育の無料化、安い医療をフーバー長官は危惧した。

 <資本主義独裁国>を牛耳る当時の1%が恐れたのは、平等と公平の精神が広がることだった。世紀が変わってもこの構図は変わらず、先進国に一歩でも近づくことを目指したオバマ大統領の医療改革法案は骨抜きにされた。

 知的に煌めくアンジェラ・デイヴィスの裁判闘争をピークに、ブラックパワーは衰退していく。組織の分裂以上に深刻だったのが薬物の蔓延だ。政治的なスローガンは街から消え、中毒とギャング団の抗争が多くの若者の命を奪っていく。デイヴィスは莫大な量の薬物流通に、FBIの陰謀を示唆していた。ちなみに、デイヴィスを死刑寸前に追い込んだのは、カリフォルニア州知事時代のレーガンである。

 非暴力を前面に掲げたキング牧師はなぜ暗殺にされたのか。<差別撤廃だけでなく反戦を訴えたことで、1%の神経を逆撫でしたことが死を招いた>というコメントに説得力があった。本作は現在のアメリカをも写す秀逸なドキュメンタリーである。

 本編中にあったか定かではないが、HPに掲載されていたカーマイケルの名言を紹介する。

 <私には人権がある。私はそれを知っている。でも、白人は知らない。だから、それを白人に教えてあげるために作られたのが公民権法だ>……
 
 視点は異なるが、黒人差別をテーマに据えた「ヘルプ」(11年)を別稿(12年5月1日)で紹介した。その中で見栄えのいい南部の白人女性たちは、獣性を隠せない差別者として描かれていた。差別と偏見は人を醜く卑しくする。だからこそ、カーマイケルの言葉は、国境や時代を超えて鮮度を保っているのだ。差別と偏見の種は、もちろん俺の心にもある。憎しみの実がならぬよう、常に自らを戒めていきたい。
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エヴリシング・マスト・ゴー~1000回目の更新に寄せて

2012-06-05 23:53:56 | 戯れ言
 菊地直子容疑者が逮捕された。「NHKスペシャル~未解決事件」第2弾(3回)の感想を含め、オウム真理教について近日中に記すことにする。

 3・11以降、俺の頭に鳴り響いていたのは、マニック・ストリート・プリーチャーズの「輝ける世代のために」だった。妹の死後、同じくマニックスの「エヴリシング・マスト・ゴー」が俺のテーマソングになる。同曲名をタイトルに冠したアルバムで、マニックスは失踪したリッチー・ジェームスと共に在ることを世界に宣言した。

 彼らの思いは、今の俺に重なっている。一つの死、一つの不在が周りの心を磨き、絆を強めることを、妹は教えてくれた。ちなみに「エヴリシング――」の歌詞は、ラディカルかつ思惟深い他のマニックスの曲と比べ、感傷的なムードが濃い。

 今稿が1000回目の更新に当たることを3日前に気付いた。思えば、亡き妹こそが最も熱心な読者で、誤字、脱字を見つけてはメールで知らせてくれた。妹は営業にも励んでくれたが、その人脈と人望をフル活用しても成果が挙がらなかった。このブログが世間的に決して面白くないことは俺自身、重々承知している。

 居直った俺は、以下のような御託を並べたことがある。

 辺見庸氏と小出裕章氏は3・11以前から、<個>の重要性を繰り返し説いていた。自らの思いを自らの言葉で伝えることがスタートで、<思う個の集合体>が世の中を変える力の源になる。だから俺も、狭い泥池から世間に向けてあぶくを放っているのだ……。

 もっともらしいが、どこか嘘がある。ブログの効用は別にあった。中2日更新(当初は中1日)という自らに課したルールは、〝超小人〟である俺を〝不善〟から遠ざけてくれた。ブログがなかったら、俺は壊れるか、もしくは逆噴射していたかもしれない。ブログは俺にとり、転落を未然に防ぐストッパーといえる。

 意志薄弱の俺が、どうして1000回も続けられたのか。その答えを先月、ネット上で発見した。「ウォール・ストリート・ジャーナル」に掲載された記事の日本語訳で、以下のような内容だった。

 自分について話すことによって、<喜びの感覚>が脳の中に呼び起こされる。それは会話であっても、フェイスブックやツイッター(恐らくブログも)などソーシャルメディアにおける発信でも同様だ。

 ハーバード大の学者チームによれば、自分の考えを明らかにすることによって、脳細胞とシナプスが快感を得るという。セルフディスクロージャー(自己開示)は特に満足度が高く、「人は自分のことを話すためには、お金さえ諦める」と指摘している。テキサス大の心理学教授も、「他人に話を聞いてもらうのが好きでなければ、どうして人はツイートするだろうか」と述べていた。

 上記の研究に則れば、自分の思いや感覚を伝えることで快感を得るために、俺はブログを書いていることになる。なるほど、思い当たる節はある。サラリーマン時代を振り返り、<奢る、貢ぐが最大の趣味だった>と記したことがあった。実態に即せば<後輩を前に話すのが大好きで、そのためには散財(奢り)も平気>となる。「また、俺話」とあきれ顔の女子社員もいたが、焼き肉や寿司付きとなれば、喜んで(?)ついてきた。

 会社を辞めた05年正月から、ブログが俺話に代わるツールになる。仕事がない〝中年引きこもり期〟も、ブログがあれば寂しくなかった。ブログを継続するために付け焼き刃的に学んだことも多いが、その過程で俺が知ったのは、自分の無知である。多少は謙虚になれたのも、ブログの効用のひとつだ。

 妹の死、そして1000回記念を経て、当ブログはリスタートする。駄文に付き合ってくださる読者の皆さまには感謝の気持ちでいっぱいです。



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妹が生きた証し~悲しみが爆発した葬祭

2012-06-02 10:51:56 | 独り言
 橋下大阪市長が大飯原発再稼働を容認した。<原発こそ利権の温床で公務員改革の本丸>と説いてきた古賀茂明氏(元通産官僚)は、ブレーンとしていかなる思いを抱いているだろう。欲望と拝金から、環境とヒューマニズムへ……。3・11をきっかけにした再生への道のりは閉ざされてしまった。新陳代謝を止めた国に、政官財が主張する〝怪しい現実〟が闊歩している。

 さて、本題。個人的なことは書かない主義だが、前稿に続き妹の死について記したい。感情が露出した駄文に付き合わせるのは申し訳ないが、自身のリスタートのため、以下に思いを吐き出すことにする。

 妹の直接の死因は脳内出血だった。度重なる投薬、透析、点滴で血管はくたびれており、高血圧の症状が顕著だった。自費出版本(童話)の発行日が7月に決まったが、妹は「わたし、その頃、いるやろか」と母に漏らしていたという。突然と映った死を、本人は覚悟していたのだろうか。

 通夜と告別式は、悲しみが爆発した盛大な葬祭だった。高校や短大の同級生、医師や看護師、共に病と闘う人たち、音楽仲間、ピアノの教え子、地域の知り合い、自費出版の協力者……。茶髪ギャルから中高年の男性まで涙を隠さず焼香の列に連なり、号泣と嗚咽があちこちから漏れていた。

 俺が代わりに死んでいても、泣く人の数は親族以外、片手で足りる。妹の訃報をいまだ知らない者を含めれば、軽く20倍以上の差だ。人生で完璧に負けた俺だが、健気さと優しさで周りを魅了した妹を誇らしく思う。

 恥を晒すようだが、 フリーターだった20代、それどころか無職だった05年からの2年弱、妹は帰省した俺に小遣いを渡し、何度も救援物資を送ってくれた。頻繁に手紙をくれ、携帯を持つようになってからは、病床に伏している時もメールで近況を報告してくる。愚兄に対する心配りは、周りに対しても同様だった。

 控えめながらいつの間にか円の中心にいる妹は、上がるということを知らない。10代の頃、「松竹新喜劇に入りたい」と昔気質の父に話したが、一蹴された。実現していたら、通用したような気もする。従兄弟が町議選に打って出た時は出陣式からウグイス嬢を務め、当選に貢献した。歌をCD化し、ショパンやリストのピアノ曲を録音しては親族や友人に聴かせていた。

 そのCDが開式を待つ会場に流れていた。葬祭とミスマッチのポップスは、花や思い出の品を棺に納めるハイライトの場面を彩ることになる。妹の声に琴線を揺さぶられ、棺を何重にも囲む人たちは遺体に取りすがり、泣き崩れていた。何とか堪えていた義弟もついに決壊し、式辞は涙でくぐもっていた。

 湿度が低い俺は「冷たい兄」と映ったかもしれない。俺が心で呟いていたのは、「そのうち会おう」だった。宗教と無縁の俺だが、なぜか死後の世界を信じている。宮沢賢治や小泉八雲の世界に惹かれ、「タナトノート」(ベルナール・ヴェルベール著)、「永遠の僕たち」(11年、ガス・ヴァン・サント監督)に我が意を強くした。

 決定的だったのは妹の臨死体験だ。義弟が担当医から余命いくばくもないと告げられたことが何度もあった。「1週間」との宣告さえあったが、そのたび死の淵から甦ってくる。そんな時、妹の夢枕に立ったのが父であり、祖母だった。「おまえは来るな」と言いたげに、父は妹を追い返したこともあったという。だが、今回は違った。病気と副作用で体を蝕まれながら、ベストを尽くしてきた妹を、父と祖母は不憫に思ったのではないか。「これ以上闘うのは酷だと」……。生きるとは、生き永らえることではないと、妹は身をもって教えてくれた。

 妹の究極の夢は、実家を取り壊した跡に私的なシェアハウスを造り、友人たちと共に余生を送ることだった。屋根裏か地下室かはともかく、愚兄にも居場所が用意されていた。当ブログで小説や映画を紹介する際、<家族を超えた絆>に繰り返し言及した。俺が理屈で気付いたことを、妹は実感として理解していた。

 母は当日、実家に泊まるよう妹を説得しきれなかったことを悔やみ、義弟は激務が妹を犠牲にしたと自分を責めていた。妹の不在で、多くの絆が揺らぐかもしれない。猫のポン太はこの数日、窓際に座って所在なげに外を眺めていた。心待ちしている妹は永遠に現れないのに……。

 学生時代の友人との宴が予定されていたが、みんなが妹を知っている――といっても30年も前のことだが――、哀悼の意を込め延期になった。俺は社員ではないが、仕事先から弔電が届く。メールや電話をくれた人を含め、皆さんの心配りに心から感謝している。

 いずれあの世で、妹と会えると確信している。だが、俺が極楽に行けるとは限らない。今さら善根を積んでも手遅れだけど……。
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