酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

梅雨時の雑感~立花隆氏追悼、グリーンリカバリー、都議選

2021-06-27 14:21:38 | 社会、政治
 立花隆氏の死が公表された。〝知の巨人〟の死を心から悼みたい。著書を当ブログで紹介したのは「天皇と東大」だけだが、世紀が変わる前は熱心な読者だった。とりわけ印象に残っているのは「中核VS革マル」、「脳死」、「同時代を撃つ 情報ウオッチング」、「サル学の現在」、「臨死体験」辺りか。文系と理系、ジャーナリズムとアカデミズムの境界を行き来する希有な存在だった。

 「田中角栄研究」発表時、大手紙の関係者は「あんなことは誰でも知っている」と吐き捨てた。現在に至る日本メディアの限界(権力との馴れ合い)を象徴するエピソードといえる。インターネットについて<個人と世界が繋がるためのツール>と希望を抱いていたが、同じ考えを持つ者が閉鎖的なタコ壺を形成するケースが蔓延し、<AI独裁>が進行している。

 30年以上前、NHKが放映したドキュメンタリーが記憶に残っている。環境と共生をテーマに据えた「立花隆の南米紀行」だ。<トマス・モアは差別や搾取のない南米の共同体に心を揺さぶられ、「ユートピア」を著した。同書に記された理想社会が社会主義や共産主義の基礎になった>と立花氏は分析していた。1998年にベネズエラでチャベスが大統領に就任して以来、次々に左派政権が誕生する南米と符合するものを感じる。

 先日、グリーンズジャパン(緑の党)主催のオンラインセミナー「EUグリーンリカバリーとドイツのチャレンジ」に参加した。講師のジャミラ・シェーファー氏はドイツ緑の党の連邦委員会の若き女性メンバーで国際政治を担当している。セミナーは英語で進行し、逐次通訳される。英語と日本語を交えたパワーポイントで最低限、内容は理解出来た。

 9月の連邦議会選挙に向けた世論調査で、ドイツ緑の党はメルケル首相のキリスト教民主・社会同盟と接戦になっている。アイスランド(グリーンレフト)に続き緑の首相誕生の可能性も囁かれているが、党首を巡る資金スキャンダルが報じられ、支持率は20%を切った。

 今回のセミナーでドイツの政治状況を知ることが出来た。メルケル首相は原発廃止を宣言し、ドイツは再生可能エネルギー推進国で知られている。コロナ禍でメルケル首相の発した哲学的なメッセージが世界の称賛を浴びた。真実は果たしてどうなのか。シェーファー氏は現政権をヘッドライン政治と断罪していた。

 ドイツ政府は環境税導入に消極的で、自動車産業や運送業に肩入れしている。環境に害を及ぼす補助金(ディーゼル関連)は廃止すべきと強調していた。コロナ危機の勝者といえるアマゾンなどIT企業は税金を払っていない。緑の党はデジタル税導入を目指している。

 ドイツだけでなく欧州緑の党はグリーンリカバリーを推進している。ポスト・コロナを見据え、持続可能かつグリーンでデジタルな社会の移行を志向している。具体的には「復興レリジエンス・ファシリティー」で、6725億ユーロを財政支出する公的投資、金融支援で、半分は返済不要だ。欧州共同プロジェクトのために更なる基金が必要だが、ドイツ政府の対応は不十分という。

 ドイツ政府の方針を〝グレーリカバリー〟と批判するシェーファー氏は、地域レベル、自治体レベルにおける運動を積み重ね、ステークホルダーを巻き込むことが必要と語る。フランスの自治体選挙では<グリーン・レッド連合>が勢力を伸ばすなど、緑の党を軸に地殻変動が起きている。翻って日本はどうか。

 25日に告示された都議選では、小金井選挙区で漢人あきこ氏(緑の党東京共同代表)が立候補した。前回は都民ファーストの勢いに僅差で敗れたが、今回は野党統一候補で当選のチャンスは大きい。<人に寄りそうグリーンな東京>を掲げ、セーフティーネットの拡充、ジェンダー平等、緑と環境最優先などを政策に挙げている。一方で、小池都知事の静養が物議を醸している。都ファ完敗の予測に自民党への接近を画策中とみるむきもある。

 夫婦別姓問題、原発再稼働、公文書偽造など日本政府は腐臭を放っている。立花氏はあの世で惨憺たる現状をいかに見ているだろう。漢人さんの当選が、日本社会を変える一歩になることを期待する。俺も時間を見て応援に駆けつけたい。
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「江戸問答」~知のモンスターが提示する新しい江戸像

2021-06-22 22:44:00 | 読書
 五輪を巡るここ数年の経緯に、日本は大丈夫かと不安を抱いてしまう。最近目立つのは、軌道修正出来ず破滅に至った戦前の相似だ。日本社会は明治以降、何も変わっていないのでないか……。そんな思いで手にしたのが「江戸問答」(21年、岩波新書)だ。未読だが「日本問答」(17年)の続編で、田中優子(法大前総長)、松岡正剛(ジャーナリスト)の知のモンスターによる対談が収録されている。

 俺は江戸時代を否定的に捉えていた。日本社会を覆う同調圧力の原点を、上意下達が徹底した幕藩体制に求めてしまう。政官財の癒着は時代劇の定番、暴利を貪る武士と商人の結託そのものだ。組織のために忠誠を尽くす日本人は武士道の本質に思えてくる。コロナ禍で登場した自粛ポリスは、相互監視の五人組の空気に近い。

 江戸時代とは閉鎖的で不自由だった……。そんな俺の偏見を改めさせてくれたのが「江戸問答」だった。田中、松岡両氏は広範かつ該博な知見を有している。政治体制、風土と風習のみならず、文学、絵画、映画に造詣が深く、人間を根本のところで理解している。感嘆の溜息をもらしながら読み進めた。

 両氏は自身が過ごした幼い頃と江戸時代の長屋の距離感に言及する。話し声は筒抜けで、落語で描かれているように喧嘩したらみんなが集まってくる。「関係ない」、「関わり過ぎる」に二分されている現在の距離感と異なり、節度を保った社会(自然との関係を含め)を志向することが江戸文化のベースだったのだ。

 興味深い指摘が多かった。江戸の街の排泄物やゴミが発酵処理され、養分として農村に送られるシステムが確立していたことに驚いた。江戸は庭園、植樹、運河開削、水道設置、トイレ、資源化と肥料化が繋がる自然循環型の都市だったのだ。ささやかな自然を満喫し、〝小さきもの〟に満足する現在のミニマリズムに共通している。

 キーワードを挙げるならまずは<流動性>だ。江戸時代は確かに閉鎖的かつ不自由で、非生産的な武士階級を養うという足枷もあった。であるにもかかわらず、江戸時代は英国に次ぐ経済成長率を誇っていたという。ものづくりの伝統を踏まえ、市場で売れるもの作ることに徹していた。その最たる例は肥前磁器(有田焼や伊万里)でアジアのみならず欧州にも輸出されていたという。食料や浮世絵も同様で、流行に敏感な世の中だった。

 一部の例を除き、身分制の壁を打破することは出来ない。中国や朝鮮では立身出世のために勉学に励む青年層が存在したが、当時の日本人は教養を高めるために遠くの塾に通ったり、様々な習い事サークルに参加したりする。利や欲と無縁の自由な精神が横溢し、公でも私でもない〝共のネットワークが張り巡らされていた。

 江戸文化の研究が盛り上がらないことを嘆く両氏は、優れた考察者として「逝きし世の面影」の著者、渡辺京二を挙げていた。別稿で石牟礼道子の共助者として渡辺を紹介している。渡辺は<近代と遭遇することによって生じる魂の流浪こそ、彼女(道子)の深層のテーマをなしている>と語っていた。道子が降り立った〝人間存在が背負っている深い未知の領域〟と江戸時代は通底しているのかもしれない。

 他にも<かけら>や<あいだ>といったキーワードが挙がっていたが、両者の言葉のキャッチボールは、俺にはハードルが高かった。興味深かったのは定説を覆す武士像だ。江戸時代の武士は〝自分は何〟と迷い続けた。武士にとって衆道(男色)は当然の心得で、<若い頃、男の恋人がいないのは恥>なんて文書が残っているほどだ。西洋では例を見ない恋愛観というべきか。

 明治以降の文学は、西洋からの作品を模倣したというのは一面的なのだ。両氏は樋口一葉や泉鏡花を分析し、江戸時代の<壊れゆくものを見るまなざし>や<存在のおぼつかなさ>が継承されたと論じている。何も文学に限らない。現在に至るまで、やるせなさや切なさは日本の社会に引き継がれている。

 想像を超えた江戸時代の風景を本作に教わった。同時に、ステレオタイプの言葉を口にしてしまう自分の愚かさに気付いた。ウイズコロナ時代の生き方のヒントが、江戸時代を学ぶことで見つかるかもしれない。
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「アメリカン・ユートピア」~目くるめく至福の音楽空間

2021-06-18 12:48:21 | 映画、ドラマ
 五輪開催に邁進する菅政権だが16日未明、「安保土地法=土地規制法」が参院で可決された。別稿(6日)にも記したが、自衛隊や米軍基地、原発の周囲約1㌔や離島などを「注視区域」に指定、土地や建物の所有者について利用状況を調査する権限を国に与えるという内容だ。言論弾圧、私権制限に直結する〝世紀の悪法〟の下、この国の民主主義は追い詰められている。

 シネクイント(渋谷)で「アメリカン・ユートピア」(2020年、スパイク・リー監督)を見た。デイヴィッド・バーンの同名のアルバム(18年発表)は和みと癒やしに溢れた名盤だった。ワールドツアー後、19年秋にスタートしたブロードウェイのショーが絶賛される。バーンは映画化に向け、旧友のスパイク・リーに声を掛けた。

 トーキング・ヘッズのフロントマンとして世界のロックシーンを牽引したバーン、作品中に様々なジャンルの音楽へのオマージュを表現してきたリーとの奇跡のコラボが誕生した。ヘッズの「リメイン・イン・ライト」はアフリカンビートと都市の音を融合した実験作で、バンド解散後、バーンはラテン音楽に関心を持つ。ソロアルバムもワールドミュージック色が濃かった。

 一方のリーは差別への怒りを訴える映画のサントラに、黒人ミュージシャンの曲を用いている。多様性に価値を置き、排除の論理を否定する両者の志向は本作にも表れていた。バーンは作品後半、法執行機関の暴力で命を奪われたアフリカ系アメリカ人を追悼するジャネール・モネイの「ヘル・ユー・タームボウト」をカバーしていた。

 バーンとリーが共有するのはトランプ大統領への忌避感だった。アメリカのユートピア(楽園)がトランプ、そしてその支持者によって破壊されようとしていることをMCで憂えるバーンだが、希望は失くしていない。このショーは選挙人登録を推進するプロジェクトに協力していた。「私が、そして皆さんが参加することの延長線上にユートピアは見えてくる」とバーンは訴える。ちなみに若者の政治参加に期待を寄せたバーンの思いは現実になり、変革に向けた機運が胎動している。

 本作のHPトップの「一生に一度の、至福の体験!」、「目も眩むほどの幸福と感動のブロードウェイ・ショーがいま、幕をあける」の謳い文句に偽りはない。共演するメンバーの多くは、バーンを含め移民と紹介していた。まさに多様性の体現で、スコットランド生まれのバーンは家族とともにアメリカにやってきた。

 「アメリカン・ユートピア」収録の5曲、ヘッズ時代の8曲など21曲が演奏されるが、本作を見るために〝予習〟する必要はない。ブロードウェイ公演用に楽曲は再構成されており、バーンの刺激的、自虐的かつユーモアに満ちたMCが提示する世界観に、「ブルックリン・フォリーズ」(ポール・オースター著)が重なった。

 マーチングバンド風の11人の腕利きのミュージシャンがアンプラグで演奏し、振り付けに則って立ち位置を変え歌い、踊る。表情は豊かだ。俺はミュージカルや演劇に疎いが、リーの俯瞰のカメラが捉える動きに、周到な準備と自由のアンビバレンツを感じた。臨場感、開放感がスクリーンからはじけ飛び、祝祭的なパフォーマンスに心身が高揚する。

 ラストの「ロード・トゥ・ノーホエア」(ヘッズの6th「リトル・クリーチャーズ」収録)で一座はステージから客席に下りる。「ステージで不要なものを排除したら、残るのは私たちと皆さんだけ。それがこのショーです」のMCを実践したシーンだった。「ロード――」は彷徨い続ける魂を♪僕たちは行き先のない道の上にいる……と歌っている。「何か見つかるかもしれないから、皆さんも一緒にどうですか」とバーンは問いかけているのだ。

 メランコリック、アンニュイ、エキセントリックなエッセンスを併せ持ったトーキング・ヘッズは民族音楽やデジタルの導入だけでなく、様々な方法論(映像を含め)を模索してロックの可能性を広げた稀有のバンドだった。斬新な「ストップ・メイキング・センス」(ジョナサン・デミ監督)から35年、タイプは異なるが音楽映画の傑作を生み出したバーンに拍手を送りたい。

 コロナ禍により語らいの場が消え、人々が集まることで生まれる熱気も失われた。そんな時代、本作は潤いと多幸感を与えてくれた。歌詞には<君と僕>の関係性が表れ、観衆は実感する。<愛と絆>以上に、人生の価値はないことを……。
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「海辺の彼女たち」~目を背けてはならない日本の闇

2021-06-14 21:10:14 | 映画、ドラマ
 EURO2020やMLBをテレビ観戦していて気付いたのは、観客が殆どマスクを着用していないこと。欧州や米国ではワクチン接種が進み、渡航や移動の制限が緩和されているようだ。菅政権は五輪開催に邁進しているが、接種は大幅に遅れた。台湾や韓国も似たような状況で、これぞ国際社会におけるアジアの位置付けなのか、それとも政権の判断ミスなのかはっきりしない。

 ポレポレ東中野で「海辺の彼女たち」(2020年、藤元明緒監督)を見た。ドキュメンタリータッチのフィクションである。前作「僕の帰る場所」で在日ミャンマー人の家族を描いた藤元が、今作ではベトナム人の実習生の現実を浮き彫りにした。本国のオーディションで選ばれたのはフォン(ホアン・フォン)、アン(トゥエ・アン)、ニュー(クィン・ニュー)である。

 仕事先の夕刊紙に掲載されていた出井康博氏の連載(計35回)を別稿(2月20日)で紹介した。同記事によれば、在日ベトナム人は41万人で、実習生21万人、留学生9万人だ。ベトナム人の1人当たりGDPは日本の15分の1で、実習生や留学生の多くは来日時、多額の借金を背負っている。家族への仕送りも実習生の〝使命〟で、3人のメインキャストも故郷への電話で振込を知らせていた。

 冒頭は逃亡のシーンだ。低賃金、重労働で、残業代もカットされる〝地獄〟から電車とフェリーを乗り継いで新しい職場に向かう。手引きしたのはブローカーで、甘い汁を吸っている。行き先は海辺の水産卸工場で、ロケ地は青森県だ。フォンたちは取れたての魚の分類や雑用を担当する。従業員は一つミスをすると高圧的な言葉を投げ掛ける。それが社会の真実だ。

 夜景と雪のシーンが多く、スクリーンから染み込んでくる暗さと寒さが彼女たちの心象風景を表現している。望郷の念に打ちひしがれているが、手を携え合って孤独と絶望に目を閉ざしている。<家族のためにここで働くしかない>……。諦念の滲む決意に希望を灯すのが、共同生活する部屋の電気ストーブだ。

 だが、フォンの体調不良によって亀裂が生じる。フォンは来日前に妊娠していた。偽造の身分証と保険証を用いて産婦人科に診てもらう。子供を産んでベトナムに帰国する、それとも堕胎する……。フォンは一つの道を選んだ。ラストの彼女の表情に、言い表せない悲しみが滲んでいた。

 コロナ禍で、ベトナム人のみならずアジアからの実習生は追い詰められている。いや、日本人の多くも〝板子一枚下は地獄〟に怯えている。五輪強行開催で潤うのは1%で、格差と貧困が進行すれば向こう側に落ちる可能性はある。俺は本作に日本の闇を感じたが、映画は多くの人たちの協力で成り立っている。感情の爆発を抑えた抑揚の利いた表現に感銘を覚えた。

 俺が五輪開催に唯一期待したのは、世界のメディアの前で〝世界標準〟を整える可能性だった。先進国ではあり得ない代用監獄や死刑継続といった司法関連、ジェンダー問題、選挙制度、そして本作とも絡む入国管理局の実態も俎上に載せられても不思議はなかった。だが、コロナ禍にかこつけてメディアの行動を制限する方針という。自由と民主主義を標榜する記者たちの多くは、きっと〝叛乱〟を起こすだろう。
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「クルエラ」~カラフルでパンキッシュな悪女誕生

2021-06-10 22:08:31 | 映画、ドラマ
 EURO2020が開幕する。五輪開催に反対だから、「楽しみにしている」なんて言うとダブルスタンダートと非難されるだろうが、12カ国の分散開催で感染リスクを抑える対策は講じられているのではないか。下馬評は大混戦で、1974年から応援しているオランダも優勝候補の一角だ。交代5人制なので、層が厚いフランスに分がありそうだ。

 農水省は先日、有識者検討会の中間報告を公表した。コロナ感染拡大で低密度な農村への関心が高まる中、移住者らが農業を含む複数の仕事をする「半農半X」といった多様な働き方を支援するという内容だ。当ブログで頻繁に紹介してきた高坂勝氏(緑の党初代共同代表)は半農半Xを経て匝瑳プロジェクトを立ち上げ、農業を軸に持続可能なコミュニテイーを志向している。「脱成長ミーティング」共同発起人でもある同氏は10年以上も前からウイズコロナ時代の生き方を提示してきた。

 新宿シネマカリテで「クルエラ」(21年、クレイグ・ガレスピー監督)を見た。「101匹わんちゃん」の悪役クルエラ・ド・ヴィルの若き日々を描くオリジナルストーリーで、製作と配給はウォルト・ディズニー・ピクチャーズだ。母キャサリン(エミリー・ピーチャム)を亡くしたエステラ(エマ・ストーン)はジャスパー(ジュエル・フライ)、ホーレス(ポール・ウォルター・ハウザー)に助けられ、ともに窃盗団を結成する。

 エステラは生来、右側の髪が黒、左側が白だ。天使と悪魔、善と悪の貌を持ち、白がエステラ、黒がクルエラの心象を象徴している。エステラに協力を惜しまないジャスパーとホーレスだが、クルエラが殻を食い破って現れると戸惑ってしまう。本作は人間の二面性がテーマになっている。

 ご存じの通り俺は屁理屈や御託を並べる。映画についても同様だが、本作は開始早々、映像と音楽のポップかつアップテンポの融合に心を鷲掴みされ、PVの洪水に溺れているような感覚を味わった。舞台は1970年代のロンドンで、〝パンクロックムービー〟の要素もある。

 クラッシュの「シュッド・アイ・ステイ・シュッド・アイ・ゴー」はサントラに収録されているが、ローリング・ストーンズ、ゾンビーズ、アイク&ティナ・ターナー、ニーナ・シモンなど広い世代のアーティストの曲が流れる。ポップミュージックに親しんでいる人にお勧め出来る作品だ。

 音楽としてのパンクではなく、価値観顛倒と風俗紊乱をもたらしたパンク精神がスクリーンに横溢している。自分の愚かさが母を死に追いやったと苦しむエステラは、裁縫の技術とシャープな感覚を受け継いでいた。デザイン業界で仕事に就くことを夢見ていたエステラは気紛れに描いた落書きをファッション界の大立て者、バロネス(エマ・トンプソン)に認められ、彼女の工房で働くことになる。

 Wエマのオスカー女優共演だが、ペンダントを軸にバロネスとエステラの過去と現在が交錯していく。バロネスが絶対的な悪ならエステラは善……。だが、真実に行き着いたクルエラはバロネスを超える悪に成長する。ドラマチックなラストに息を呑んだ。

 冒頭に記したように「101匹わんちゃん」に加え、「ダルメシアン100と1ぴきの犬の物語」がベースになっている。最近の猫ブームで肩身の狭い犬派も十分に楽しめる作品だと思う。今年に入って多くの映画を観賞したが、エンターテインメントという点では、本作を超える作品はないと断言出来る。
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ロウと俯瞰のアングルで家族を捉えた「明日の食卓」

2021-06-06 21:53:46 | 映画、ドラマ
 ブラックライブズマターへの連帯をマスクで表現するなど、大坂なおみ  は一貫して自分を主張してきた。全仏オープンでは選手への配慮が欠けているとの理由で試合後の会見を拒否し、2回戦を棄権する。うつ状態で苦しんでいたことを告白し、世界の耳目を集めた。強さと繊細さのアンビバレンツを併せ持つ坂本の苦悩に思いを馳せる。

 10代で世間の注目を浴びるのが藤井聡太2冠だ。先日のB級順位戦で稲葉陽八段に敗れた藤井は今日、リターンマッチとなる棋聖戦第1局は難解な対局だった、〝手練れの勝負師〟渡辺明名人を破り、好スタートを切った。王位戦では分の悪い豊島将之竜王の挑戦を受ける。年齢相応の脆さを露呈しても不思議はなく、夏のタイトル戦に注目している。

 五輪開催の可否についてメディアが注目する陰で、悪法が日の目を見ようとしている。1日、安保土地法案(重要土地等調査法案)が衆院本会議を通過した。自衛隊や米軍基地、原発といった重要施設の周囲約1㌔や国境離島などを「注視区域」に指定。土地や建物の所有者の氏名や国籍、利用状況の調査権限を国に与えるという内容だ。米軍基地や原発の被害を受け、反対運動に参加している者への私権が制限される可能性も大きい。廃案に向け、ここ数日が正念場になる。

 ラインアップが充実している新宿シネマカリテで「明日の食卓」(2021年、瀬々敬久監督)を見た。原作者の椰月美智子は02年、児童文学のジャンルでキャリアをスタートする。椰月作品は未読だが、映画にDVやいじめ、子供たちの心情、母親の視点が織り込まれている点に〝らしさ〟を覚えた。

 3つの石橋家の物語がシンクロして進行する。共通しているのは10歳の長男が「ユウ」であることだ。静岡在住の石橋家は母あすみ(尾野真知子)と優、神奈川の留美子(菅野美穂)と悠宇、大阪の加奈(高畑充希)と勇……。ラストに登場する石橋耀子(大島優子)も、上記3家族を繫ぐ役割を果たしていた。

 本作に感じたのは母や子供の身の丈の、そして俯瞰で社会を捉える2つの視点に紡がれていることだ。原作者(椰月)と監督(瀬々)の意図が程良く混じり合っている。物語はカットバックして進行し、家族は揃って綻びを見せていく。

 あすみの夫は東京に遠距離出勤するサラリーマンで、夫婦に語らいの時間は少ない。隣に暮らす義母の雪絵(真行寺君枝)とは挨拶を交わす程度だ。優の成績も良く、過不足内ない生活を送っているあすみだが、怪しげなセミナーに勧誘されるなど影の色が濃くなっていく。あすみが福島出身で、父(菅田俊)が現在も除染作業に従事しているというサイドストーリーも興味深い。

 フリーライターの留美子は、カメラマンの夫、2人の息子との慌ただしい日々を綴ったブログが人気を浴している。長男の悠宇が弟をいじめるのが悩みの種だ。留美子に新たなチャンスが舞い込むが、夫は出版社から契約を切られる。家事に一切協力しない夫は失職して荒んでいき、家庭崩壊の様相を呈していく。

 シングルマザーの加奈は育児と借金返済のため、コンビニとクリーニング工場を掛け持ちして一日13時間働いている。そんな母を気遣い、言いたいことも我慢する勇は殊勝な息子だ。精いっぱい生きている母子家庭にも荒波が押し寄せてくる。勇へのいじめが発覚し、金に困った弟が姿を現す。

 スクリーンに緊張感が漲り、カタストロフィーの予感を覚えた。優は他人を支配することに無上の喜びを覚えるサイコパスであることがわかり、あすみは一方的に夫に責められる。義母を蹴りつける優に愕然とするが、あすみは新たな衝撃に直面する。義母が認知症であることを夫婦は知らなかったのだ。

 心が壊れそうになった留美子は夫や悠宇を殺す幻想に囚われる。ぎりぎりまで追い詰められ、離婚を決心した。工場をリストラされた加奈を勇の級友の母がデリヘルに誘うが拒絶し、母(烏丸せつこ)の温情には甘えた。

 家族とは、そして社会とは……。俺のような独り者でさえ、わが事のように考えさせられた。崩壊しそうになっても、抱擁と決意があれば<明日の食卓>にともに就くことは出来る。3人の「ユウ」はいかなる思いで飛行機雲を見上げたのだろうか?
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平野啓一郎に導かれて「金閣寺」の真実に迫る

2021-06-02 23:17:34 | 読書
 別稿(5月20日)で映画「三島由紀夫VS東大全共闘~50年目の真実」を紹介した。同稿末に「金閣寺」を手に取ったと記した通り、40年ぶりに〝再会〟する。俺は当ブログで<三島由紀夫はモーツァルト、開高健はベートーベン>と評したことがあったが、本作を紡ぐ美しい表現に言葉を失った。

 「こりゃ、ブログに書けない」……と諦めかけたが、援軍を見つけた。「100分de名著 金閣寺」(NHK・Eテレ、全4回)で、デビュー時、〝三島の再来〟と謳われ、自身も「金閣寺」を読んで文学に引き込まれた平野啓一郎が導き人である。刺激的で的を射た平野の読み説きを参考に「金閣寺」の感想を記したい。

 本作のベースは1950年に起きた金閣寺放火事件である。実際の放火犯は舞鶴出身の鹿苑寺(金閣寺)の修行僧で、吃音に悩み体が弱かったことなど、本作の主人公、溝口のモデルになっている。溝口は金閣寺の老師と修行時代の友人だった父に「この世に金閣ほど美しいものはない」と聞かされていた。だが、父に連れられて訪ねた金閣寺に、「美というものは、こんな美しくないものだろうか」と逆説的な感慨を抱く。溝口は老師の下、修行に入る。

 三島と太宰治はたった一度、言葉を交わした。「あなたが嫌いです」と迫る三島を、「本当は好きなんでしょう」と太宰がかわしたとされる。太宰の「右大臣実朝」の一節、<平家ハ、アカルイ。アカルサハ、滅ビノ姿デアロウカ>に滲む滅びの美学は「金閣寺」に重なる部分がある。空襲で金閣寺が滅びることを想像した溝口は、金閣寺に<共滅願望>を抱き、一体感を覚えたと平野は分析していた。

 「金閣寺」は俺が生まれた1956年に発表された。自衛隊市ケ谷駐屯地で自決するまで14年、三島はいかなる道のりを歩んだのか。早熟の天才と注目された三島だが、あくまで日本浪漫派における評価だった。敗戦後、上記の太宰らがもてはやされ、60年代に入ると安部公房、大江健三郎、高橋和己が寵児になる。三島は有名ではあったが、文壇の中央に位置していたわけではなかった。

 敗戦後の価値観の顛倒は「金閣寺」にも反映している。空襲を逃れた金閣寺と距離が遠ざかった溝口は悪に目覚めた。雪の金閣寺を訪ねた米兵と娼婦の案内役を任された溝口は、突き倒された娼婦の腹を踏むよう命令される。溝口は震えるような喜びを覚えた。汚れた戦後のメタファーというべきが、事なかれ主義の老師だった。

 三島文学は死の匂いが色濃い。天皇のため命を捧げるという宿命に囚われていた三島は、生き残ったことに戸惑いを覚えた。20、30代、政治について発言しなかった三島について、平野は「戦後社会に馴染もうと努力していた」と語っていた。40歳になって三島は天皇への尊崇を繰り返し語り、鎧の肉体をつくる。平野は萌芽を「金閣寺」に求めていた。<金閣寺=天皇>は絶対的な帰依の対象になったが、三島は昭和天皇を全面的に肯定していなかった。

 「金閣寺」はある意味、壮大な恋愛ドラマといえるだろう。現実の金閣、心象の金閣、そして観念の金閣へと昇華していく。故郷で思いを寄せた有為子が絶対者の原形で、その死は溝口に大きな影響を与えた。金閣を巡る葛藤は、三島の天皇への距離感と重なっている。併せて青春小説の側面もある。若い世代は溝口の疎外感、劣等感、孤独を共有しているからだ。

 鶴川と柏木の2人の友人が好対照に描かれる。善を体現するかのような鶴川、そして内反足であることに同情する女性を次々に口説くニヒリストの柏木……。柏木の仲介で女性と関係を持とうとした刹那、観念の金閣が邪魔をする。有為子の生まれ変わりに思えた女性の乳房が金閣に変貌した。

 溝口と柏木の会話で繰り返し登場するのが禅宗の公案「南泉斬猫」だ。南泉和尚は可愛い子猫に僧たちが動揺する様子を見て、猫の首に鎌をくっつけ、「おまえたちが何も言わなければ猫を斬る」と語り、沈黙の中で実行する。猫とは美の象徴で金閣そのものだ。和尚は行為によって美の存在を否定した。

 その場に居合わせなかった弟子の趙州は経緯を聞き、草履を頭に載せる。その意味は認識によって美と折り合いをつけることだった。三島にとって<認識と行為>が大きな意味を持ったことは、「三島由紀夫VS東大全共闘~50年目の真実」にも示されている。

 朝鮮戦争勃発を知り、世界崩壊の予兆を覚えた溝口は放火の決意を固める。その直前、老師の友人である禅海が寺を訪ねてきた。平野は本作を理想の父親像を探す物語とも捉えている。実の父親は溝口を金閣に閉じ込め、老師には失望を覚えた。真っすぐ溝口を見据える禅海の言葉に後押しされて、溝口は実行に至る。

 <滅びゆく絶対の美としての金閣>を表現する描写は精緻で流麗だ。行為の中で溝口は「虚無がこの美の構造」だったことに思い至る。平野は<外側は美しいが、中は何もない。この構造に邪魔をされてきた溝口は、金閣こそ虚無ではないかと反論した>と解説していた。実際の犯人は自殺を試みたが、溝口は小刀とカルモチンも捨てる。「生きようと思った」で本作は終わる。

 平野は三島論を執筆中という。発刊されたばかりの「本心」と併せて読むつもりだ。
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