酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

個人的にはグッドでも~2014年を振り返る

2014-12-30 00:31:55 | 戯れ言
 一昨日は中山競馬場に足を運んだ。有馬記念にGⅠ馬が10頭揃ったこともあり、11万余の観衆が詰めかけた。俺にとってのメーンレースはPOG指名馬が2頭出走したホープフルSだったが、タンタアレグリア7着、ティルナローグ10着と冴えない結果に終わる。悪い流れのまま、一銭も買わなかったジェンティルドンナが有終の美を飾った。

 悄然、愕然とし、オケラ街道を歩く気力もなく東中山駅行きのバスに乗ったが、渋滞に巻き込まれ1時間近くかかった。しかも翌日、地方競馬PATに登録している知人から「買ってあげる」メールが届いたが、爆睡でやり過ごし、東京大賞典の当たりを逃すことになった。他にもあれこれあって、年末に運気は下降気味だったが、それでも個人的は上々の一年だった。

 アラカン(58歳)ともなると、同世代の訃報が相次いで飛び込んでくる。生きているだけでよしとすべきなのだろう。失業にリストラと、冷たい風に晒されている知人も多い。能力はなくちゃらんぽらんの俺がそこそこの収入を得ているのは、悪運の成せる業というしかない。真面目に仕事をしなければ罰が当たると考えてしまうのは、俺が日本人だからだろう。

 だが、この国を闊歩しているのは、日本人が誇る和と矜持を忘れた輩だ。拝金主義を信奉し、獣心を剥き出しに格差拡大、辺野古移設強行、原発再稼働と輸出、憲法骨抜きを進める安倍首相の本籍は、日本ではなくアメリカだ。リベラルは死語になり、対抗軸を示せる政治家は永田町から消えた。小三治が「今回は共産党に投票した」と枕で打ち明けたのも当然で、国民は選択肢を見つけられなくなっている。

 「2014年は奴隷制元年だった」など、井戸端会議風に語っても仕方がない。俺は今年2月、緑の党に入会した。もともと社民党支持だったが、退潮ムードは拭えない。一昨年夏、緑の党を発見し、その後の動向にも注目していた。緑の党はリベラルや左派の接着剤、緩衝材となり、政治の地図を書き換える役割を担う可能性を秘めている。

 人生は消去法で、年とともに世間は狭まるが、緑の党に参加して新たな仲間と出会えたのは幸いだった。自然との共生、参加型民主主義、格差と貧困の是正、成長主義からの脱却など幾つものビジョンを掲げる緑の党だが、根底にあるのは多様性を認める寛容な精神だ。怠慢なオールドルーキーにとって居心地はいいが、来年の統一地方選では下支えして、仲間の当選に貢献したいと思う。

 遺書代わりとしてあれやこれや書き殴ってきた。辛抱強くお付き合いいただいた方に、心から感謝しています。来年もよろしくお願いします。
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助走としての「A」~中村文則に飛翔の予感

2014-12-27 23:48:48 | 読書
 山本太郎参院議員が生活の党に加わった。〝かつての剛腕〟小沢氏と〝自称野良犬〟山本氏のコラボに、失笑する政治通も多い。小沢氏は政党助成金交付の条件を満たすため(国会議員5人)、亀井静香議員や保守系議員に声を掛けていたが、同意に至らなかった。山本氏合流は、俺にとっても青天の霹靂だった。

 異物と異物がケミストリーを起こし政界地図を書き換えるきっかけになるのか、〝毒が毒をもって〟潰し合いフェイドアウトするのか……。いずれにせよ、俺が属する緑の党は統一地方選に向けた戦略の再考を迫られる。山本氏は三宅洋平、宇都宮健児氏らとともに緑の党と友好関係にあり、幾つもの選挙で応援を受けていた。山本氏は自由に動くことが難しくなるだろう。

 80代半ばで読書の習慣を取り戻した母に刺激され、本と向き合う時間が長くなった。とはいえ、アラカンになると人並みに仕事をしているだけで疲れるし、近眼に老眼が相俟って、小さな活字を追っているうち眠くなる。

 発展途上の未熟者だから、俺は今も、読むのに骨が折れる書物を選ぶことにしている。文学との対峙は〝精神の格闘技〟で、曠野を目指す旅ともいえる。今年は懸案だった3作、ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」、そして船戸与一の「蝦夷地別件」を読んだ。来年は未開拓の川端康成、谷崎潤一郎にチャレンジするつもりでいる。

 日本の純文学は現在、充実期にある。今年もトップランナーたちの作品を読んだが、3・11を踏まえた星野智幸の「夜は終わらない」は、寓話の領域に到達した傑作である。〝発見〟したばかりの町田康の「告白」にも瞠目させられた。

 中村文則は短編集「A」(7月)、長編「教団X」(12月)を相次いで発表した。今回紹介する「A」は、数年間書きためた13編をまとめたものである。平均点の高い作品を毎年発表する中村だが、多作が仇になり、いずれ摩耗するのではないか……。「A」を読了し、そんな危惧は一掃された。

 中村作品に登場するキャラは疎外感やトラウマに苛まれている。その点は本作も変わらないが、トータルでいうと旧来の色調と異なっていた。中村ワールドで希薄だった性が官能的に、時にフェティッシュに描かれている。中村は対話を軸に<ドストエフスキー的世界>を形成し、ラストに予定調和的なカタルシスを用意していたが、本作では濃い闇とともに物語は閉じられる。

 ♯1「糸杉」と♯2「嘔吐」はそれぞれのタイトルがメタファーになり、主人公の孤独、狂気、罪の意識をかたどっている。♯4「セールス・マン」、♯6「妖怪の村」では、安部公房や筒井康隆を彷彿させるシュールな虚構が提示されている。崩壊感、ブラックユーモアに溢れる個々の作品は、透明な糸で繋がっていた。興味深いのは、中村と思しき作家が登場し、等身大の真情を吐露している点だ。♯13「二年前のこと」は、中村の実体験に根差しているのかもしれない。

 前稿の枕で柳家小三治の意思表示を記したが、中村は本作の♯11「A」と♯12「B」で歴史修正の風潮に異議を唱えた。「A」は中国における日本軍の残虐、「B」は従軍慰安婦を題材にしており、♯10「晩餐は続く」で日本の政治風土を抉っていた。

 「教団X」について中村自身は、<僕にとっての「カラマーゾフの兄弟」>と評している。「A」は「教団X」へと飛翔するための助走だったのかもしれない。
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映画、音楽、そしてスポーツ~この一年の感動を振り返る

2014-12-24 23:47:40 | カルチャー
 一昨日(22日)は柳家小三治の独演会(太田区民ホール・アプリコ)に足を運んだ。前座の柳家はん治が「妻の旅行」、小三治は「時そば」と「野ざらし」を披露したが、〝枕の小三治〟が炸裂した夜でもあった。

 同行した知人は小三治に長年接しているが、政治への憤懣を爆発させるのを初めて見た(聴いた)という。「この話は自民党本部でやりたい」と切り出し、600億円を使った不必要な選挙、ハンディを抱える人への配慮がない選管、増税、第二自民に堕した民主党を俎上に載せる。声を大にしたのは原発再稼働と輸出についてで、「私は原爆発電所と考えている」と異議を唱えた。

 志位委員長の満面の笑みを揶揄しつつ、「共産党が勝ったのは選択肢が他になかったから。これは不幸なことです。私は今回、共産党に入れた」と語る。小泉進次郎議員の群れない姿勢を評価しつつ、1930年代のドイツと現在の日本を比べ、「(小泉の明瞭さに)混乱と絶望の時代に台頭したヒトラーが重なる」と、独裁を望む空気に警鐘を鳴らしていた。

 政治を噺に織り交ぜるといえば三遊亭白鳥で、安倍首相や集団的自衛権をゲリラ的に斬っているが、75歳の人間国宝が正面から物申したことに驚いた。「こんなこと言いたくもないし、皆さんも聞きたくないでしょう。でも、私は間違ってますか」と繰り返し問い掛けると、客席から何度も拍手が起きる。腹を括って危機感を伝える小三治に感銘を覚えた。

 今回はWOWOWでオンエアされた「悪貨」(島田雅彦原作、全5回)について記す予定だったが、DVDが故障し、ダビングしたディスクが再生できなくなった。予定を変更し、今年の映画、音楽、スポーツを振り返ることにする。

 まずは映画館で見た作品限定で、ベストテンを選んでみた。

①「エレニの帰郷」(09年、テオ・アンゲロブロス)
②「あいときぼうのまち」(14年、菅野廣)
③「最後の命」(14年、松本准平)
④「ダラス・バイヤーズクラブ」(13年、ジャン=マルク・ヴァレ)
⑤「NO」(12年、パブロ・ラライン)
⑥「怒れ! 憤れ! ステファン・エセルの遺言」(12年、トニー・ガトリフ)
⑦「ゼロ・グラビティ」(13年、アルファンソ・キュアロン)
⑧「ネブラスカ」(13年、アレクサンダー・ペイン)
⑨「ゴーン・ガール」(14年、デヴィッド・フィンチャー)
⑩「そこのみにて光輝く」(14年、呉美保)

 「エレニの帰郷」と「あいときぼうのまち」は絶対的なツインピークスだ。館内が明るくなった瞬間、ともに客席から拍手が起きた。この2本はそれぐらいの価値がある作品である。

 例年なら複数作がランクインする韓国映画だが、今年は宿業を描く作品に触れる機会がなかった。とはいえ、「7番房の奇跡」、「新しい世界」、「怪しい彼女」、「監視者たち」、「サスペクト」はいずれも秀逸なエンターテインメントである。

 フジロックでビッフィ・クライロを見たのは収穫だったが、還暦間近になって、ロックアンテナは錆びついてしまった。ベテラン勢で目立ったのはモリッシーとマニック・ストリート・プリーチャーズで、ともに充実した新作を発表し、健在ぶりを示していた。

 '14ベストアルバムはヴァインズの「ウィキット・ネイチャー」で、ジャック・ホワイトの「ラザレット」、フォスター・ザ・ピープルの「スーパーモデル」、バンド名を冠したロイヤル・ブラッドの1stが続く。いずれにせよ、サンプルは少ない。ロックから落語への転向は年相応だが、来年はモグワイとブラックキーズのチケットをゲットしている。上記のマニックス、そして新作発表前ながら欧州の多くのサマーフェス(現在15)にブッキングされているミューズも来日が濃厚だ。

 最後はスポーツについて。俺が日常的に接しているのはNFL、WWE、競馬だけだが、W杯の衝撃は記憶から去らない。オランダVSスペイン、そしてドイツVSブラジル……。敗れたチームのサポーターにとって、時空の歪んだ悪夢の90分だったはずだ。

 昨季のスーパーボウルでは、ピート・キャロルHCの熱さに応えたシーホークスが、アメフトをアートの領域に引き上げたQBマニング率いるブロンコスを粉砕した。シーホークスが2年連続でスーパーボウル進出を果たし、ペイトリオッツと相まみえれば、「臥薪嘗胆」と銘打たれた第2章で全米は騒然とするはずだ。対戦が決まった時点で詳述することにする。

 映画、音楽、スポーツは、俺にとって生きるために不可欠な刺激的なビタミンだ。次回の枕では、この一年の読書を振り返る。
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「最後の注文」~心に染み渡るロードノベル

2014-12-21 22:18:32 | 読書
 憲法、原発、TPP、辺野古移設といった個別の課題では「NO」なのに、与党はなぜ圧勝したのか……。外国人にこう問われ、説得力ある答えを示せる人は少ないだろう。日本の現実でさえ把握していないのだから、バイアスが掛かった海外の動きを理解するのは難しい。

 アメリカとキューバが国交正常化に踏み出したが、共和党サイドは冷ややかだ。いわく「キューバの民主化が前提と」……。2011年の反組合法デモ⇒オキュパイ運動のスローガンは、「アメリカに民主主義を」だった。そして今、黒人青年を射殺した警察官が不起訴になったことで、人権と平等を求める抗議活動が全米で広がっている。

 アメリカを民主国家と信じている人は、日本人ぐらいか。ちなみに、貧しさが喧伝されるキューバだが、医療制度の充実は世界トップレベルで、家族が病気になったら一家破産に至るアメリカとは対照的だ。国交が正常化されたら、ハバナの病院は困ったアメリカ人を温かく迎えるはずだ。

 仕事先の夕刊紙が報じていたが、介護サービス事業者に支払われる「介護報酬」が引き下げられるという。介護スタッフ、高齢者にとっては深刻なニュースで、アメリカに倣った弱者切り捨ての典型といえる。日本の医療体制と保険制度の崩壊は、TPP参加で拍車が掛かるだろう。初期高齢者(58歳)の俺にとって他人事ではない。

 いかに死ぬべきかがテーマになりつつある俺の心に、「最後の注文」(グレアム・スウィフト著/新潮クレスト・ブックス)は、優しい雨のように染み渡った。スウィストは「ウォーターランド」以来、2作目になる。マジックリアリズムに通じる刺激的な同作と異なり、「最後の注文」はしっとりした温もりを感じた。

 舞台は1990年のロンドンだ。3人の男がジャックの最後の注文を受け入れ、散骨のため車で海辺の街を訪れる。ジャックは肉屋で、若い頃は医者志望。保険屋のレイは、ジャックの妻エイミーに惚れていた。八百屋のレニーは戦争でボクシングの王者になる道を閉ざされている。やさぐれ感の強い3人と比べ、ジャックの葬儀を執り行ったヴィックは、家業を継いで波の小さい人生を送っていた。

 4人は幼馴染みで、いずれも第2次大戦に従軍し、除隊後は毎週のようにパブ「馬車亭」で顔を合わせる。シリトー風のシニシズムが全編に漂い、ブラーが格好のBGMになる。俺の年になると人間関係は先細り、そこに行くと必ず仲間に会えるなんて場所は見当たらない。パブで紡がれる絆が羨ましくなった。

 男たちはワーキングクラスとミドルクラスの中間といったところか。ヴィック以外は蹉跌を抱えているが、前稿で紹介した「ゴーン・ガール」とは違い、描かれるのは普遍的な〝家族の問題〟の範囲内で、「うちも似たようなもんかな」と感じる読者も多いはずだ。

 フーガ形式で半世紀を、主観をカットバックさせながら繋いでいく。軸になっているのはレイだ。レイはジャックと同じ部隊に配属されて生き残り、妻エイミーと息子ヴィンスとも交流が深い。博才もあって〝ラッキー・レイ〟と呼ばれているが、妻は去り、娘は海外で暮らすなど、孤独な日々を送っている。

 ジャックとエイミーは長年、家庭内別居状態だった。施設で暮らす娘をジャックが一度たりと見舞わなかったことで、夫婦の亀裂は決定的になる。ヴィンスを含めた4人の男が遺灰をまきにいった当日、エイミーは同行を拒み、施設に娘を訪ねていた。

 各自のモノローグで、悔恨、絶望、葛藤、行き違い、嫉妬といった負の感情が吐露される。来し方が語られ、ささやかな謎が少しずつ明らかになる。いがみ合いながらも、互いを心に留めておく。麗しき腐れ縁というべきか。空と海が雨に煙って一体になり、ジャックと残された4人の思いは混ざり合って昇華し、天に飛翔していく。

 小さなことで衝突する彼らだが、戦没者の墓地で生と死の境に思いを馳せ、敬虔な気持ちになる。セピア色に彩られた秀逸なロードノベルを読み終え、俺は想像してみた。彼らと同じ年齢に達する10年後、どこで、誰と、どのように暮らしているのだろうと……。俺の未来図はまだ、真っ白なままだ。
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「ゴーン・ガール」~愛と絆を問うピカレスク

2014-12-18 23:54:55 | 映画、ドラマ
 選挙結果に関連してマスコミを責めても意味はない。権力から自由なメディアなど、世界でも皆無なのだ。スコットランド独立を巡っては、BBCがサモンド首相(国民党)のインタビューを歪曲して伝えるなど偏向報道が目立ったが、賛成派は斬新な手法で支持を拡大した。

 旧東欧、韓国と、崇高な意志と創意工夫でメディアを味方につけた例は枚挙にいとまない。だが、この国の既成政党は諦めている。代表選の結果次第だが、民主党は〝第2自民党〟の正体を曝す可能性が強い。ラディカルどころかリベラルまで永田町の地図から消えつつあるが、理念を軸に書き換えを進めている人たちがいる。俺もそのひとりでありたい。

 開票翌日、「恵比寿ルルティモ寄席」(ガーデンホール)に足を運んだ。19時開演で終演は10時半近くと、演者たちが鎬を削る。桃月庵白酒(「芝浜」)、三遊亭白鳥(「僕の町は戦場だった」)、柳家三三(「富久」)、橘家文左衛門(「文七元結」)の順で高座に上がる。

 トップバッターの白酒は濃い顔ぶれに気を使ったのか、30分ほどで下がる。続く白鳥は「芝浜をこれほどスピーディーに捌くとは」と変な褒め方をしていた。その白鳥は破天荒な創作落語で、安倍首相や集団的自衛権を皮肉るなど相変わらず毒を吐き、三三が古典モードに戻した後、トリの文左衛門がパワフルに締めた。

 有楽町で公開直後の「ゴーン・ガール」(14年、デヴィッド・フィンチャー)を見た。感想を読めば結末は予測できるはずで、いずれご覧になる予定の方は、ここで別ページに移ってほしい。

 ミズーリ州のとある街、結婚5周年の当日に妻エイミー(ロザムンド・バイク)が失踪した。大量の血が自宅から発見され、世間の疑いの目は夫ニック(ベン・アフレック)に注がれた。時空を行き来しつつストーリーは進行し、格差婚の真実が明らかになる。

 エイミーは母親が執筆した童話のモデルとして、全米に名が知られていた。幼い頃から演じることを宿命付けられたエイミーはハーバード卒の才媛だが、母親によって人生を操られる〝ガール〟だと感じている。

 ニューヨークで知り合ったニックは感性、知性とも平凡だった。両者を結びつけたのはセックスだったが、結婚生活に入れば互いへの欲望は薄れていく。夫婦はともに失職し、エイミーの両親はもはや裕福ではない。夫婦はニックの生まれ故郷のミズーリに引っ越した。刺激的な都会なら気を紛らわすこともできたが、退屈な日常で、倦怠は互いへの憎悪へと変化する。

 ニックは双子の妹マーゴとバーを経営していたが、スポンサーはエイミーだった。イーブンでもオープンでもない夫婦生活で、エイミーは優秀な頭脳をフル回転させ。自分を〝殺し〟、社会人としてのニックを〝殺す〟ことを試みる。計画が現実になろうとした矢先、想定外の出来事が起きた。

 思い出したのは「死刑台のエレベーター」(58年、ルイ・マル)だった。若いカップルの証言で、フロランス(ジャンヌ・モロー)の運命は暗転する。同じようなドンデン返しが起こるという予感は肩透かしだった。本作はサイコサスペンスであり、一級のピカレスクともいえる。

 エイミーは仮想ではない殺人を、被害者として実行する。いかなる状況でも〝正しいヒロイン〟であり続けるエイミーは、警察と病院を経由して自宅に戻る。エイミーが肉体に付着した返り血をシャワーで流すシュールなシーンは、本作の肝といっていいだろう。既に洗い落とされているはずの血が、ニック、そして見る者の目に赤い罪の色として焼き付けられるのだ。

 トレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)が担当した音楽も物語にマッチしている。「CSIニューヨーク」で姉御のジョー役だったセーラ・ウォードが、本作ではキャスターを演じていた。

 夫婦とは、家族とは、絆とは……。見る側も既にそれなりの答えを持っている。それぞれの関係は普遍的でありながら、同時に際立つ特殊性を秘めている。本作のヒリヒリする緊迫感は、スクリーンの内と外、自らの来し方をニック&エイミーに重ねて生じた摩擦ゆえといえるだろう。

 「芝浜」と「文七元結」に登場する夫婦に温かさと情を覚え、ささくれ立った心がほどけるのを感じた。「ゴーン・ガール」は真逆の印象で、今になっても胃のしこりが去らない。
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理念で地図を書き換えよう~総選挙に感じたこと

2014-12-15 23:53:00 | 社会、政治
 あまりに想定通りの結果だった。8時に獲得議席の予想が発表されるや、テレビを消す。識者はあれこれ分析しているが、〝アマチュアの感想〟は<理念の欠落>と<集団化>だ。

 <自民300議席の勢い>と伝えた4日付朝刊の1面に、<アベノミクスの恩恵なし70%>の見出しが躍っていた。自公が争点を絞ったアベノミクスに限らず、安倍政権が進める改憲、軍事国家化、自由の制限、原発再稼働、辺野古移設に対して、国民は冷ややかな目を向けている。だが、選挙結果は真逆だ。

 これほど奇妙なことがなぜ起きるのか、ない知恵を絞って考えてみた。仕事先で先輩が今朝、「必ず投票してきたカミさんが、今回は棄権した」と話していた。前稿の枕で紹介した母と同様、自民党にお灸をすえたくても、投票先が見つからない。永田町の地図は腐臭を放っている。

 3・11以降、既成政党はあまりに無策だった。野田政権は安倍政権への露払いに徹し、リベラル(護憲、反原発、アジアとの友好etc)の結集はならなかった。政局で蠢く政治屋ばかりが目立ち、理念を掲げる政党は皆無だ。称揚されたマニフェストはどこに消えたのか。ちなみに、理念の重要さは全選挙区で自民党を落選させた沖縄が証明してくれた。

 政党の自縄自縛は、小沢氏らが保守2党体制を志向したことが起点だったのか。軌を一にするかのように「朝まで生テレビ」では、田原総一朗氏や舛添要一氏らが、「社会主義は死んだ」としたり顔で主張していた。村山政権成立によって理念は葬られ、野合が政治の主音になる。リベラルだったはずの結いの党が維新に合流したのが、直近の例だ。

 果たして「社会主義は死んだ」のだろうか。別稿(12月6日)で紹介したチョムスキーは、繰り返し階級に言及している。1世帯の平均年収が240万円、6分の1の世帯が年収120万円以下の日本は、先進国ではアメリカに並ぶ階級社会で、格差は確実に拡大する。〝死んだはずの社会主義〟を標榜する共産党が議席を伸ばしたのは当然で、今後も党勢を拡大するだろう。

 政策に同意していない与党に一票を投じるのは、<右傾化>というより、森達也氏らが主張する<集団化>といえるだろう。株が上がっても利益は<1%>と外国人投資家が吸い取り、給料と年金と削られた<99%>は70歳までこき使われてポイ捨て……。それに耐えろというのは<奴隷制社会>である。

 今年は台湾や香港、スコットランドにおける若者の活動が大きな話題になった。俺たち中高年世代は、自分たちが壊した自由の気風を甦らせ、若い世代にバトンタッチしなければならない。<もう日本はおしまい>と悲観論を煽るメディアもあるが、見当違いも甚だしい。戦前の日本では治安維持法成立後、街や農村で身を賭した争議やストが広がった。理念と生活実感が合わさった本質的な闘いが、遠からず始まるはずだ。

 俺が属する緑の党は今回の選挙で、志向が近い民主、社民、生活、社民、共産、無所属の計26候補(訂正、24候補)を推薦、支持した。結果は芳しくなかったが(と早とちりしていたら14人が当選)、他の党やグループと信頼関係を築けたのは成果だった。緑の党の第一のセールスポイントは多様性だ。先を見据え、リベラルや左派との接着剤、緩衝材になり、政界の地図を理念によって書き換えることが出来れば幸いだ。
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「四重人格ライブ」に甦る青春時代の痛みと潤い

2014-12-12 13:24:26 | 音楽
 ケアハウスで暮らす母から電話が掛かってきた。「どこに投票したらええんや?」と言う母は自民党員で、投票先など決まっているはずだが、安倍首相は絶対に許せない。「90前の老婆の年金を減らすなんて考えられへん。おまけに、アホの麻生の言うことときたら」……。

 母の怒りはまっとうだが、どうして多くの国民は〝心の叛乱〟を企てないのだろう。俺は関西弁で「給料も年金も減らされ、みんな困っとる、70歳までこき使われてポイちゅうのは奴隷制や。死に票が嫌やったら、民主党(京都4区は北神候補)に入れたらええ」と返した。

 先日、ささやかな忘年会に参加した。勤め人時代のOB、OGたちで、俺以外の3人はアラフォーである。それぞれの職場における若者への違和感を口にしていたが、俺は「若者は大人を映す鏡」と持論を展開する。例えば、政治資金規制法違反で経産相を辞した小渕優子候補……。議員辞職すべき小渕は公認され、楽々当選してお目こぼしになりそうだ。

 <小渕が叩かれたのは入閣して目立ったから。悪いことをしてもバレなきゃいい>、あるいは<強い者、金のある者は何をしても許される>……。こんな風に感じた若者は、「倫理、良心、矜持は人生に邪魔」との結論に至るだろう。息を潜めて周囲を窺うことが、若者たちの生きる術になった。閉塞社会をつくった中高年層に全ての責任がある。

 ようやく本題……。WOWOWでオンエアされた「ザ・フー四重人格ライブ・イン・ロンドン2013」を見た。「四重人格」発表40周年を記念したツアーのファイナル公演(ウェンブリー・アリーナ)を収録したものだ。俺にとって人生最大の愛聴盤は間違いなく「四重人格」で、全曲をそらんじている。生き残ったピート・タウンゼント、ロジャー・ダルトリーの力強いパフォーマンスに胸が熱くなり、青春時代の痛みと潤いが甦ってきた。

 ♪十五、十六、十七と わたしの人生暗かった 過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく……。「圭子の夢は夜ひらく」のフレーズを置き換えれば、<二十五、二十六、二十七と 俺の人生暗かった>となる。部屋に遊びに来た女友達は、「無理心中を迫られるんじゃないかと心配になった」と後に感想を漏らしていたほどで、周りから犯罪、もしくは自殺予備群と見られても不思議ではなかった。

 フリーター、引きこもり、社会的不適応といった言葉が蔓延する現在と違い、1980年代前半の俺には〝仲間〟がいなかった。バイトも長続きせず、態度が悪くてクビになったこともしばしばだ。「定職に就かぬまま、落ちこぼれていく」ことが確実に思え、迷い込んだ猫と、一日の食費500円で暮らす日々が続いていた。

 俺にとってのシェルターは文学、そしてロックだった。UKニューウェーブのダウナーなムードに浸りつつ、一日の最後に聴くのは「四重人格」と決まっていた。「あなたの作った曲で救われました」という内容の膨大なファンレターがピートの元に届いていたというが、俺も「四重人格」を締める「愛の支配」のロジャーの叫びに、解放感とカタルシスを覚えていた。

 破壊的なステージで人気を得たフーは「ゴッドファーザー・オブ・パンク」として、後輩バンドやロックファンに支持されている。怒れる若者の象徴と受け止められていたが、60年代の英国では、米、仏、独、そして日本と比べると、体制に異議を唱える声は小さかった。揺るぎない階級社会ゆえといえるかもしれない。

 ピートの主題は一貫して<疎外からの解放>だった。「四重人格」ではメンバー4人の個性をジミーの四つの人格に反映させている。モッズのジミーはロッカーズとの抗争に加わるうち、ハレとケの区別ができなくなる。熱い週末と退屈な平日の折り合いがつかなくなり、狂気を帯びたジミーは仲間内で孤立していった。

 レコードに付いていたブックレットに記されたピートによるストーリーと写真を基に、映画「さらば青春の光」が制作される。ジミー役のフィル・ダニエルズの好演、モッズのリーダーを演じたスティングの格好良さが光るロック映画の傑作だった。

 かつてピートは、「ザ・フーとは3人の天才と1人の凡人から成るバンド」と語っていた。3人の天才とはピート自身、ジョン・エントウィッスル(02年没)、キース・ムーン(78年没)だ。1人の凡人とけなされたロジャーだが、「フーズ・ネクスト」(71年)でフーの声としての地位を確立する。今回のライブで69歳のロジャーは、シャウトと高音で〝努力する天才〟の力を見せつけていた。

 背後のスクリーンに、戦中から戦後の英国のニュースフィルムが流れる。ステージの進行に合わせて在りし日のジョンとキースの演奏シーンが映し出され、ピートとロジャーが笑顔で見入っている。絆の強さを感じる場面だった。

 小説、映画、音楽との出合いが、若き日の孤独を癒やし、潤してくれた。生命維持装置といえた文学の要素が濃いフーの作品群に心から感謝している。
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アートの冬?~チューリヒ美術館展で行き着いた自分史の謎

2014-12-09 23:34:55 | カルチャー
 自公圧勝という酷いシナリオが現実になりそうだ。原発再稼働、TPP参加、辺野古移設が強行され、格差拡大に拍車が掛かるだろう。安倍首相は批判に対し、「皆さんは私を支持しましたね」と居直るに違いないが、構造を根本から変える真の闘いは、選挙後にスタートする。

 皮下脂肪を長年蓄えてきた身にも寒さが染みる。仕事を終えて帰宅した土曜未明、風邪薬を規定量の2倍飲んで眠った。目が覚めると熱は下がっていたが、時計の針は3時……。反秘密保護法の集会(日比谷野音)はとっくに始まっている。

 「やっちまった」と独りごち、方向転換して閉幕間近のチューリヒ美術館展(国立新美術館)に足を運んだ。混雑を覚悟していたが、意外なことに空いていた。1時間待ちだった北斎展と大きな違いである。俺のような美術初級者は楽しめても、目の肥えた愛好家には<総花的>と映ったのが不入りの理由かもしれない。

 審美眼を持ち合わせていない俺が何を書いても説得力はない。掲示された説明を読み、何となく背景を掴んだぐらいである。分割主義、象徴主義、印象派、ポスト印象派、ナビ派、表現主義。フォーヴィズム、キュビズム、シュルレアリズムetc……。様々なムーブメントが交錯し、戦争など社会的事象、失恋や別離といった個人的事情に衝き動かされ、画家たちは心象風景を形にしていた。

 印象に残った作品を列挙する。まずは「虚栄」(セガンティーニ)だ。水浴びしようと少女の清楚な裸体を、怪物が岩陰から眺めている。原罪が描かれているのだろうか。「遠方からの歌」(ホドラー)には躍動とストイシズムの融合を感じた。

 「訪問」(ヴァロットン)は男女の逢引きを描いた官能的な作品だが、部屋のドアがなぜか開いている。些細なことが気になった。浮世絵は19世紀後半の欧州絵画に大きな影響を与えたという。ヴァロットンの作品やココシュコの風景画などに北斎が重なった。

 「叫び」で知られるムンクだが、普通の肖像画も描いていた。困窮から逃れるための手段だったという。抽象絵画は理解を超えていたが、格好の先生を近くにいた。美大生らしい3人組が意見をぶつけ合っていたが、「これ、凄いな」と揃って感嘆していたのが「赤、青、黄のあるコンポジション」(モンドリアン)だ。単純な俺は、同画をモチーフにしたTシャツをショップで購入した。

 以前から興味のあったシャガールの作品に魅せられた。「婚礼の光」と「戦争」に登場する擬人化された山羊は、作者にとって家族の象徴らしい。シャガールを創作に駆り立てた苦悩の一端を知ることもできた。

 話は変わるが、年齢の近い旧友と先日、食事する機会があった。30年以上も前を振り返り、次のように話していた。

 <大学生の頃、ラーメン屋で1年半、バイトしていた。厨房まで任せてくれたけど、あれほど充実した日々はなかった。就職が決まってやめたけど、グルメ関係が僕の天職だったかもしれない>……。

 友の言葉に触発されたのか、チューリヒ美術館展を訪れた後、ある記憶が甦ってきた。

 小学生当時、俺は絵が下手くそだった。どぎつい色遣いに犯罪者の予感を抱いた両親は、〝矯正〟を試みる。近くの幼稚園で開かれていた絵画教室に俺を通わせたのだ。先生の的確なアドバイスもあり、たちまち上達する。担任を驚かせただけでなく、「雨の日の立ち小便」と密かに名付けた抽象的な絵が市内のコンクールで上位に入賞した。

 効果が表れたことで絵画教室をやめたら、俺の画力は旧に復した。あれから半世紀近く経つが、何をやっても偏差値50以下の凡庸な人生を送っている。すっかり忘れていたが、俺が非凡に近づいたのは、絵画教室に通ったあの2年弱だけだったのだ。

 <この国がああだこうだと言っても、実は何もわかっちゃいない。それどころか、自分のことさえ知らないんだ>……。これが旧友との会話の結論だった。俺は今、自分という謎に戸惑っている。
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「アメリカを占拠せよ!」~チョムスキーの熱に心を火傷する

2014-12-06 23:42:40 | 読書
 第27期竜王戦は挑戦者の〝怪物くん〟こと糸谷7段が森内竜王を4勝1敗で破り、ビッグタイトルを獲得した。普通の若手棋士なら自身を〝常識〟に填め込むものだが、糸谷は驚異の早指しと頻繁な離席をテレビカメラが回る大舞台でも押し通した。 

 2日目(4日)午後、仕事中に棋譜をチラ見して新竜王誕生を確信する。帰宅して中継等をじっくりチェックすると、意外なことに「森内優勢」がその時間帯のプロの分析だった。棋界のトレンドは序中盤重視だが、前局に続き最終盤で敗勢を覆した「糸谷マジック」は、「羽生マジック」に次ぐブランドになったのではないか。

 <KY>が象徴するように、保守的な日本人は逸脱を嫌う。格好のネタといえる糸谷を茶化す書き込みが目立つのも当然の成り行きだろう。思い出せばメジャー移籍時、野茂へのバッシングも凄まじいものだった。総選挙の自民党圧勝予測も、〝寄らば大樹の陰〟を好む国民の意識の反映だろう。<日本最大の問題は右傾化ではなく集団化>と説く森達也の認識は的を射ている。

 さて、本題。今回は「アメリカを占拠せよ!」(ちくま新書)について記したい。ノーム・チョムスキーのオキュパイ運動についての論考、講演会でのやりとり、インタビューをまとめたものだ。

 チョムスキーの最新の話題は、国連総会ホールでの講演(10月)だ。アメリカのイスラエル支援とパレスチナ国家妨害を厳しく批判したチョムスキーは。<米国が国際法に従うのは難しいが、自国の法律に則って行動することも解決策のひとつ>と語り、アメリカの政策がいかなる点からも正義から外れていると主張していた。

 <あなたはどう考えますか>と問われると、チョムスキーは<あなたの思いと行動は>と返してから、縦軸(歴史)と横軸(現在)を踏まえて論理を展開する。最も重要なのは、言葉と行動で自分自身を変えること……。そのチョムスキーの姿勢は、<民主主義国家では市民全員が活動家にならねばならない>というマイケル・ムーアの言葉に通じている。<チョムスキー精神>と呼び得るものがあるなら、行動による思想の血肉化、身体化だと思う。


 本書で抉られるのはアメリカの矛盾だが、ページを繰るうち日本の現状と重なってくる。オキュパイ運動で提示された<1%>と<99%>の構図はさらに拡大し、今や<プルトノミー>と<プレカリアート>の対立が顕在化している。アメリカを牛耳る権力層(=富裕層)というべきプルトノミーは1%の10の1、即ち<0・1%>で、収奪される<99・9%>はプレカリアートと定義されている。

 フリッツ・ラングが「メトロポリス」(1927年)で描いた超階級社会が、100年も経たないうちに現実となった。起点はレーガン大統領の就任で、新自由主義はアメリカの中間層を凄まじい勢いで死滅させている。アメリカ人は先進国で最も働く時間が長い。低賃金ゆえ仕事を掛け持ちしないと家族を養えないからだ。同様の変化は、小泉政権以降の日本でも起きている。まさに、アベノミクスの本質だ。

 ハリウッドや金満ロッカーは大統領選挙のたびに民主党候補を支持することで、〝良心の免罪符〟を得る。ボブ・ディランなどオバマの2期目の当選に涙したらしい。対極に位置するレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンは00年8月、民主党大会会場前でゲリラライブを敢行した。<民主、共和両党の類似性は大企業が名を連ねる資金提供者名簿を見れば明らかだ。2人の悪党しか選択肢がなく、国民の半数が棄権せざるをえないシステムに抗議する>(概略)とバンドのHP上で訴えた。

 サパティスタ(メキシコの抵抗組織)のシンパでもあるレイジのザックはチョムスキーと親交があり、両者の対談はレイジのライブ映像「ザ・バトル・オブ・メキシコシティ」のエキストラに収録されている。チョムスキーはブラジルやボリビアの左派指導者とも、政権獲得以前から交流が深い。

 アメリカの支配層にとってチョムスキーは危険な存在で、リベラル系メディアからも意識的に無視されている。反体制、ラディカル、左翼であることを前面に掲げるチョムスキーは、本書でも階級対立を論考の軸に据え、直接民主制、アナキズムの可能性について言及していた。

 興味深かったのは、キング牧師と北部リベラルとの関係だ。人種差別反対を掲げる運動が拡大するにつれ、反戦、反貧困を訴えるグループが合流してくる。北部リベラルを束ねる支配層(≒民主党)はキング牧師暗殺後、運動の徹底弾圧に与した。この史実を語ったチョムスキーは、リベラルに限界を感じているのではないか。

 ロックフェスのMCで反原発をアピールしたバンドはネットで嘲笑の対象になる。そんな日本の空気と異なり、台湾と香港では若い世代が立ち上がった。オキュパイ運動は突然現れたわけではなく、21世紀に入って南米や全欧で吹き荒れた反グローバリズムの嵐、ロンドン蜂起と繋がっているのだ。

 ややこしい論理ではなく、旗幟鮮明に、犠牲を覚悟で抗議することこそがチョムスキーが原点なのだ。怜悧ではなく憤怒に支えられたチョムスキーの熱さに触れ、心を火傷してしまった。
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師走の雑感~最終コーナーの回り方を考える

2014-12-03 23:24:14 | 独り言
 俺は<知・理・利>をスマートに語る人は信じないが、<信・義・情>を貫く生き様に敬意を抱く。孤立を恐れず反戦、反原発を説いた菅原文太さんは死の直前、元首相コンビが見捨てた? 福島知事選で熊坂候補を応援し、沖縄知事選では翁長候補に熱いメッセージを送った。文太さんは言葉の矢を放ちながら、常にユーモアを忘れなかった。

 出演作は30本近く見たが、「県警対組織暴力」、「ダイナマイトどんどん」、「太陽を盗んだ男」が特に印象に残っている。気高い男の冥福を祈るとともに、欠片でいいから遺志を受け継ぎたい。

 衆院選が昨日、公示された。独自候補擁立を見送った緑の党だが、①原発再稼働反対、再生可能エネルギー推進②集団的自衛権・秘密保護法反対③循環型経済・社会の実現の3点で一致する19候補を推薦、支持する。現状で大きな貢献は難しいが、近い将来、ケミストリーの軸になると確信している。

 人生のゴールが射程に入ってくると、日本的情緒が体に染み込み、季節の移ろいに敏感になる。23日はライトアップされた目白庭園で紅葉に親しんだ。知名度が低いスポットだが、若い外国人の姿が目立ち、ギターの伴奏で歌うグループもあった。一見ミスマッチも、妙に馴染んでいたのは。和の包容力というべきか。

 29日には傘を差して六義園を散策し、旧古河庭園に着いた頃には雨が上がっていた。六義園はそもそも柳沢吉保の下屋敷である。<江戸時代の格差の象徴>なんて屁理屈をこねるのは、この際よしておこう。初めて訪ねた旧古河庭園は、和洋折衷の名勝だった。津軽三味線のコンサートが開催中で、匠の芸に耳を傾けながら、盛りの紅葉とバラの最後の煌めきを満喫した。

 紅葉の後は鈴本演芸場に向かう。トリは古今亭文菊で、柳家三三、春風亭一之輔、五街道雲助ら中堅が脇を固めていた。子供連れや若者グループが詰め掛け、これまでにない雰囲気だった。鈴本の正月初席夜の部で2年続けてトリを務める三三が高座に上がるや、女性2人が席を立ち、数分後に戻ってきた。明らかなルール違反で、三三は心中、戸惑っていたに相違ない。「居残り佐平次」で締めた文菊は、旬の勢いを見せつけた。

 昨日は仕事先(夕刊紙)の忘年会で、Tさん(校閲部)の送別会を兼ねていた。Tさんは定年後も嘱託で仕事を続けていたが、余生を楽しむため身を引かれた。先月に退職されたUさん(整理部)とTさんの口添えがあって、俺は今の仕事に就いている。お二人には感謝しているが、まだまだ恩情に報いていない。

 整理記者Yさんも定年で職場を去られた。演劇評論家、反原発活動家であるYさんは、俺と立ち位置が近く、あれこれ教えを請う先生だった。Yさんがフェイスブックやブログに頻繁に記していたのは、<旗幟を鮮明にすること>……。その言葉を肝に銘じ、人生の最終コーナーを回りたい。
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