酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

真夏のイベント~五輪開会式、心の花火、国会包囲、PANTAさんとの出会い

2012-07-30 23:50:00 | 独り言
 五輪に殆ど関心がなく、〝公的臭〟が漂うセレモニーに拒否反応を示す……。かくの如く歪んだ質だが、ロンドンの開会式は楽しみにしていた。ダニー・ボイル=アンダーワールドのタッグとなれば、ロック色が濃くなる可能性が大きいからである。仕事で帰宅は未明だったが、眠さを堪えてテレビ画面に食い入った。

 地下鉄を舞台に〝ボーイ・ミーツ・ガール〟が描かれる。「スラムドッグ$ミリオネア」ロンドン版は、ビートルズ、ストーンズ、ザ・フー、デビッド・ボウイらロックレジェンドの曲に彩られた<夢のような1時間>だった。クラッシュ、ジャムらパンク勢もラインアップされていたが、驚いたのはカウントダウン(ミューズの「マップ・オブ・ザ・プロブレマティック」)直前だ。ロンドンの光景にセックス・ピストルズの「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」(放送禁止曲)が重なり、本編では「プリティ・ヴェイカント」が他の曲より長めに流れていた。

 感動をもう一度と、再放送(午後2時)にチャンネルを合わせたら、<夢のような1時間>は丸々カットされている。これが、NHKのセンスということか。掉尾を飾った「ヘイ・ジュード」にノスタルジックな気分を味わった。ポール・マッカートニーは老けていたが、楽曲の力は褪せることがない。

 初体験を楽しみにしていた隅田川の花火だが、協賛費を払って観覧席を準備してくれた人が、詮方なき事情で参加出来なくなる。楽しみを来年に持ち越せればいいが、定まりなき人の縁は、夢のように砕け散るかもしれない。テレビ中継では味気なく、音を消して目を瞑り、心に光の華を咲かせた。

 前々稿で<29日はパスし、前日に中野で開催される集会とデモに足を運ぶ>と記したが、急きょ予定を変更し、「脱原発~国会大包囲」に参加した。仕事先の先輩Yさんに、「PANTAグループとして行かないか」と誘われたからである。ちなみにYさんとPANTAさんとは親友だ。フェイスブックで集合地点を知った人を含め、30人以上で国会へ向かう。

 別稿(7月21日)で金曜恒例の官邸前デモについて冷ややかに記したが、スピーチエリアという最悪の場所に陣取ったことで、俺は本質を見誤っていた。まず、参加者の層の広がりに改めて驚いた。20歳前後とおぼしき女性数人組、幼子を連れた家族、老人会、カップル、単身者……。老若男女が様々な形で集まっている。目を見張ったのは各自の想像力と創意工夫だ。お手製のTシャツ、帽子、団扇、ボードに思い思いのメッセージが書き込まれていた。

 何より驚いたのは情熱である。三々五々、国会を包囲した参加者は、行動が終わる8時まで3時間も声を嗄らし続ける。シュプレヒコールの音頭を取る者はいないが、誰もが思いの丈を暮れなずむ夜空にぶつけていた。驚いたカラスが、ヘリコプターの下を所在無げに舞っていた。

 騒然とした方向へ行ってみると、進入禁止だった車道に参加者が溢れている。その横のスピーチエリアで国会議員(恐らく亀井静香氏)がアピールしていたが、参加者の「再稼働反対」「原発いらない」に掻き消されて何も聞こえない。間接民主主義が泥に塗れた今、直接民主主義で意志を示すしかない……。そんな参加者の思いが国会を超えた。俺は歴史的な現場に居合わせたのかもしれない。

 カラフルな反原発運動を、俺は1930年前後のうねりと重ねているが、捉え方は人それぞれだ。60年安保や全共闘運動と比較する人、アラブの春、天安門広場、ウォール街占拠運動、東欧の体制崩壊との共通点を指摘する人もいる。

 非効率な原発抜きでも電力は十二分に賄えるが、問題なのは廃炉に至る道筋と、その過程で生じる膨大な経費だ。巨大な壁は壊すためには、野田政権を倒した先を見据え、リアリティーある方針が求められる。実現性ある夢を示せないと、デモを烏合の衆と嗤う連中の思うツボになる。

 デモ後、PANTAさん、Yさんら数人で一席設けた。PANTAさんは頭脳警察(1972年)でパンクの空気を先取りし、解散後も傑作を次々に送り出した。PANTA&HALの「マラッカ」(79年)と「1980X」(80年)は邦楽ロック史上のツインピークスであるばかりか、コンセプトといいサウンドといい、世界の最先端に位置するアルバムだった。PANTAさんは俺にとって、ピート・タウンゼント、パティ・スミス、ジョー・ストラマーと並ぶ<ロックイコン>である。

 お会いして驚いたのが、その謙虚さ、気配り、懐の深さだ。「(頭脳警察の)構成はTレックスの影響ですか」なんてぶしつけに聞く俺に丁寧に答えてくれる。上記の2作に加え、重信房子さんが作詞を担当した「オリーブの樹の下」(07年)を好きなアルバムとして挙げた。少し間を置いて「クリスタルナハト」(87年)を付け加えると、PANTAさんは「あれはいいでしょう」と笑顔を浮かべた。本人にとってベストアルバムなのだろうか。

 PANTAさんというとラディカルというイメージが強いが、その作品から窺える奥深い知性と高い文学性に加え、人間性にも惚れた。PANTAさんと再会するため、アコースティックライブのチケットを申し込んだ。ゲット出来たら幸いである。
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「悪童日記」再読~アゴタ・クリストフの一周忌に寄せて

2012-07-27 03:16:22 | 読書
 なでしこジャパンに続き、サッカー男子五輪代表が初戦を飾った。関塚監督の采配を含め不安材料が幾つも挙げられていたし、相手は世界最強スペインの弟分である。下馬評通り予想していたが、相手の退場もあったとはいえ、内容も日本が押していた。俺はかつて、<サッカーは政情や経済に不安を抱える国の方が強い>との偏見を抱いていた。言い換えれば〝国破れてサッカーあり〟だが、今の日本にも当てはまるような気がする。

 ストーン・ローゼス復活が話題のフジロック'12が開幕する。フジロックといえば、第1回(1997年)の悪夢が甦る。暴風雨下、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの〝ロックの神〟が降臨したかのような凄まじいパフォーマンスに衝撃を受けたが、晴れ上がった翌日は中止になった。天候に加え、周辺自治体の冷淡さ、会場へのアクセスなど主催者の不手際が目立ち、〝悪しき伝説〟として語り継がれるイベントだったが、当時40歳だった俺は個人的な問題も抱えていた。自業自得の体調不良である。

 毎週のように焼き肉屋に足を運び、ジャンクフードを大量の炭酸飲料で流し込む。アイスは箱ごと一気食いだ。結果として弾き出された悲惨な数値は、気力の低下を招いていた。節制と無縁の〝失われた10年〟だったが、俺が辛うじて知的好奇心を保てたのは書物のおかげである。一周忌を迎えたアゴタ・クリストフへの感謝を込め、「悪童日記」(86年)、「ふたりの証拠」(88年)、「第三の嘘」(91年)の3部作について記したい。

 夫、娘と共に移住したフランスでデビューしたため「アゴタ・クリストフ」と紹介されていたが、最近ではハンガリー語の「クリシュトーフ・アーゴタ」の表記が一般的になっている。日本ではほぼ同時期に発刊された3部作を先日、20年ぶりに再読した。

 東欧革命の息吹と軌を一にして世に出た第1部「悪童日記」は、双子の少年の意識を分離せず<ぼくら>で通した実験性でも世界を瞠目させた。作文の形を取る「悪童日記」は、「ぼくらの学習」の章に記されたルールに則っている。感情を定義する漠然とした表現を用いず、物象、人間、自らの行動の描写で構成されているのだ。

 戦後の東欧といえば、悪魔もしくは悪魔的な存在が頻繁に登場するポーランド映画に魅了されてきた。その根底に悲運の連続があるが、「悪童日記」もまた、ハンガリーの苦難の歴史が背景になっている。戦争とドイツ軍進駐、ユダヤ人やジプシーへの迫害、窮乏する生活、そして解放軍であるはずのソ連と傀儡政権による弾圧……。涙も涸れる酷い現実が、ぼくらの視線で切り取られていく。

 ぼくらは首都ブダペストから母に連れられ、「魔女」と呼ばれるおばあちゃん宅に預けられる。「牝犬の子」とおばあちゃんに罵られるぼくらは、生き残るための術と酷薄さを身に付け、時に人としての本質的優しさ――木枯し紋次郎や矢吹丈にも通じる――を発揮する。

 <クリアな闇>というべき「悪童日記」で覚えた高揚感は、ぼくらが離れ離れになった「ふたりの証拠」で後退し、<曖昧な霧>に覆われる。ハンガリー動乱後の絶望的な状況下、国内にとどまったリュカを軸にストーリーは進行する。原罪を背負う少女ヤスミーヌとその息子、夫をスターリニストに殺された図書館司書クララ、信者を失くした司祭、党地方幹部ペテール、本屋店主ヴィクトワールらが紡ぐ物語に光は射さず、ページを繰るごとに人生の深淵へと下っていく。

 「第三の嘘」ではリュカとクラウスの主観、過去と現在が交錯する。かつての登場人物が異なる設定で現れ、時空を超えた重層的パラレルワールドに閉じ込められたかのような錯覚に陥る。ミステリアスな3部作を読了した時、言い尽くせぬ寂寥が体内に広がった。<落ちる>あるいは<沈む>という感覚に苛まれた小説は久しぶりである。俺は当ブログでドストエフスキーの小説を<R50>に指定したが、人間の孤独を追求した3部作も、混沌と暗澹を知る中高年層に薦めたい。

 20年前とは感想が異なるのは当然で、俺はすっかり老い、死に近づいたから……と書くと嘘になる。俺は恐らく、今より当時の方が死に近かったのだ。怠惰で不摂生な30代、40代のおかげで、俺は今、勤勉な50代を過ごしている。自分の過去を反面教師にしているのも珍しいのではないか。 

 心にしこりを残す3部作の消化剤として、小川洋子の最新作「最果てアーケード」を読み始めた。近日中に感想を記すことにする。


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納涼アイテムはダーティー・プロジェクターズ

2012-07-24 23:00:42 | 音楽
 反原発関連では、様々な集会や講演会の模様が動画サイトにアップされている。視聴による参加は邪道と承知しつつ、グータラなロートルはつい楽な方を選んでしまう。29日の大掛かりな国会包囲行動はパスし、その前日、中野で開催される集会とデモに足を運ぶことにした。初回のアクションで、まだ手作り感覚に溢れていることに期待している。

 政治以上に映像公開が著しいのがロック界だ。ボナルー・フェス(米テネシー州)では、レッド・ホット・チリ・ペッパーズとレディオヘッドのライブを主催者がフルタイムで配信した。フジとサマソニも、オフィシャル映像を流すらしい。

 〝Youtube時代の申し子〟ミューズは1年前、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの結成20周年イベントに招かれた。前作「レジスタンス」の冒頭曲「アップライジング」(叛乱)はタイトル通りロンドン蜂起の空気と近く、ラディカルまっしぐらかと思っていたが、新曲“Survival”がロンドン五輪の公式テーマに選ばれた。ライブ映えしそうな曲だが、競争相手に勝った理由がわからない。

 ミューズだけでなく、成功したバンドに多いパターンは、失くした芯をオーバープロデュースでカバーしていること。俺は10歳の頃、ビートルズの「シー・ラブズ・ユー」の魔法の旋律でポップの世界に迷い込んだ。ストーンズの「サティスファクション」、フーの「マイ・ジェネレーション」、ドアーズの「ハートに火をつけて」etc……。当時の曲は骨量と筋肉を誇り、トランジスタラジオから流れていても胸に響いた。

 ロックは試行錯誤を繰り返しつつ進化したと思うが、声では明らかに後退した。かのピンク・フロイドだって、「エコーズ」で見事なハーモニーを聴かせていたのだから……。ここ数年で発見したバンドで、ローカル・ネイティヴスとともに声を復権させたのがダーティー・プロジェクターズ(DP)だ。担当楽器を取っ換え引っ換えし、曲ごとのコンセプトを明確にしながら、全員で歌うというスタイルを取る。新作「スイング・ロー・マゼラン」を読書のBGMとして、納涼アイテムとして繰り返し聴いている。

 前作「ビッテ・オルカ」で世界にその存在を知らしめ、ビョークを迎えたコラボ「マウント・ウィッテンベルク・オルカ」で評価は一層高まった。新作でも殊更キャッチーさを追求することなく、手作り感覚とアマチュア精神を前面に、自然体でプリミティヴ、ノスタルジック、祝祭的なアンサンブルを奏でている。表情は豊かだが贅肉のない12曲42分だ。

 変化に富みアルバムで一番ロックしている♯1“Offspring Are Blank”、柔らかな女性ボーカルが牧歌的ムードを醸し出す♯10“The Socialites”、歌心に溢れた♯11“Unto Caesar”も耳に残ったが、俺の一押しは変調を取り入れたダウナーな♯3“Gun Has No Trigger”だ。彼らと再会出来るのは10月だ。爽快な至極のライブが待ち遠しい。女性たちもみんな可愛いし……。

 別稿(11年6月30日)で、俺はロックを<原発的>と<エコ的>に分類した。DPなど<エコ的>の典型で、改革者の驕りと無縁で、量的な成功にも執着しない……というか売れない。前作「ビッテ・オルカ」でも本国アメリカで9万枚弱。でも、彼らは気にもしていない。スクエアな目線で矜持を保つのがNY派たるゆえんなのだ。

 そういや、もう一つの贔屓バンド、ローカル・ネイティヴスはメンバー脱退以来、とんとニュースを聞かない。俺という疫病神に憑りつかれて消えたバンドは数知れず。心配になってきた。


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想像力とリアリズム~官邸前デモで感じたこと

2012-07-21 21:47:34 | 社会、政治
 「遺留捜査」第2シリーズ初回は興味深い内容だった。警察署内の陰湿ないじめが伏線になっていたからである。自立しない個が集団でターゲットを撃つという構図は、社会に蔓延している。子供の世界では残酷さがより剥き出しになるが、大津のいじめ事件で誰より罪に問われるべきは、見て見ぬふりを通し、少年の自殺後は隠蔽に加担した教師たちだ。

 その教師たちもまた、〝牢獄〟で喘いでいる。東京を筆頭に教育現場で〝物言えば唇寒し秋の風〟が進行し、教師は職員会議で手を挙げて発言することさえ許さない雰囲気に怯えているという。俺は別稿(7月13日)に、<良心と勇気が失われた学校に、原子力村と共通するものを感じる>と記した。脱原発ムーヴメントは閉塞感に風穴を開けるチャンスではないかと俺は期待している。昨日ようやく、金曜夜の官邸前デモに足を運んだ。

 仕事先の友人N君と業後、俺の提案で溜池山王駅から目的地に向かったが、雨中を右往左往。「学生時代の先輩と会えるかな」と言うと、遠回りにキレ気味のN君に「何万人も来るのに、出会うはずないじゃないですか」と一蹴された。ところが、奇跡は起きる。遠回りした揚げ句、永田町駅前を通り過ぎた地点でKさんと出くわし、おっさんトリオ(平均年齢50歳超)での参加になった。

 行きつ戻りつして、国会正門を見据える<スピーチエリア>前方で進行を見守った。最高のスペースに思えたが、次第に倦んできたのはKさん、N君も同様だった。「脱原発への思いが足りない」と叱責されるのも覚悟で、以下に感想を記す。結論を先に言えば、<スピーチエリア>は最悪のスペースだった。自然で自由な感性、創意工夫と祭り感覚とは対極の、宣伝の場と化していたからである。次回(早くて8週後)は周辺を歩き回り、全体の空気を確認したい。

 ウンザリしたのは、発言者の多くが国会議員であったこと。志位委員長ら共産党、福島党首ら社民党から数人ずつ、加えて国民の生活が第一、みどりの風に所属する議員もアピールしていた。小野議員がマイクを手にしたことには驚いたが、小泉イズムを継承するみんなの党は〝効率が悪い原発には反対〟とN君に教わり納得する。

 おっさんトリオが痺れを切らせて場を離れた後、鳩山元首相が登場し、「デモ主催者と野田首相が会談できるように仲介する」と語ったらしい。自身の選挙区(北海道9区)に松山千春氏(新党大地)が出馬すると聞いて焦ったのだろうか。茶番といえなくもないが、鳩山氏がこれを機に民主党から出て、反原発を掲げて新党を結成するなら文句はない。

 一聴の価値があったのは、勝谷誠彦氏と湯川れい子さんのアピールだった。勝谷氏は「私は右翼」と前置きし、「愛国者だからこそ、今の状況は堪らない」と続ける。子供の未来を案じる気持ち、環境や風土への愛着に思想の左右はない。<健全なナショナリズムが反原発の軸になる可能性>を綴ってきた俺の耳に、勝谷氏の情念の爆発は心地良かった。

 湯川さんは自らが環境問題に関心を持ち、反原発に傾いた経緯を語る。勇み足と思える部分もあったが、敵の巨大さと見えざる闇の構造を指摘していた。俺は前々稿で「日本はダブついたウランの〝廃棄処理場〟になりつつある」と記したが、湯川さんの発言に重なる部分があった。音楽を通して世界を半世紀以上見据えてきた湯川さんのスケールの大きさが窺えるアピールだった。

 勝谷氏も湯川さんも、表現を武器に社会と向き合ってきた。だからこそ、豊かな<想像力>で聞く者を惹きつける。対照的なのは政治家たちの貧弱な言葉だ。志位共産党委員長は「再稼働撤回、原発即時停止」と叫んでいたが、その道筋を具体的に示さなかった。理論派で鳴る志位氏でさえ<リアリズム>が欠落しているのだから、他の議員も推して知るべしだ。

 議員の合間に次々アピールする若者たちは、オスプレイを枕詞に「労働者、学生、市民の皆さんと連帯して……」と、反TPPや反消費増税を織り込みながら流暢に話を進める。締めのシュプレヒコールに周りの年長者が唱和できず、「何て言ってるの」と戸惑っていた。俺とKさんはデジャヴを覚えていた。言葉が堅い若者たちに、30年以上も前、キャンパスを支配していたセクトの姿が重なったからである。

 主催者が「誰かアピールしませんか」と周囲に声を掛けていた。手を挙げる寸前までいったが、自重する。「運動を継続させるエンジンは何か……。それは想像力とリアリズムですが、この場に少し欠けているのでは」なんて発言したら、ブーイングを浴びたかもしれない。

 <リアリズム>とは何か。原発より効率的なLNG発電、これまで開発費を削られてきた太陽光や風力などの普及、企業に浸透しつつある自家発電で、原発分は優にクリアできる。問題なのは、広瀬隆氏の受け売りになってしまうが、廃炉に要する莫大な金だ。国家的愚策(原発)を黙認してきた責任を負い、少しでも安全な環境を子供たちに残すためには、廃炉経費を電気料金に上乗せすることも許容せざるを得ない。「廃炉のために税率を上げる」と政権が提案したら、反増税派の俺も賛成するかもしれない。

 野田政権を打倒し、自公もしくは橋下氏率いるグループが権力を奪取しても、原発を巡る状況は変わらない。廃炉に向けた根本的かつ具体的な道筋を提示し、来るべき国政選挙で信を問うことが、反原発側に求められている。何より重要なのは<リアリズム>なのだ。

 早退したおっさんトリオは、池袋のリーズナブルな中華料理店で一席もうけた。福島出身で反原発だけでなく様々な問題に取り組む出版社労組委員長のKさん、社会全般に自説を持つN君はすぐに打ち解ける。デモだけでなく、楽しく充実した一日だった。
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蛍観賞会でノスタルジックに、センチメンタルに

2012-07-18 23:05:57 | 独り言
 16日の反原発集会(代々木公園)をサボってしまった。前日に小出裕章氏の講演会を復習し、「社会を変えていくのは数ではない。一人です(少し間を置き)二人です、三人です」の結びに再び感動した。なのに、当日は朝帰り。シャワーを浴び、「いざ出陣」のはずが、人々が続々集結する様子を知るや、「俺なんかいなくても」の怠け癖が出る。情けない限りだ。

 邪道と思いつつ、集会の模様をネット配信でフォローする。広瀬隆氏のアピールを参加者がどう受け止めたのか気になった。

 <我々の目的は、電力会社を潰すことでも、野田政権を倒すことでも、電力会社株を大量に保有する金融機関を破綻させることでもない。原発を停止に追い込むという唯一の目的に近づくためには、廃炉に必要な莫大なコストが電気料金に組み込まれても耐えるべきではないか>(論旨)

 この広瀬案を肯定的に捉える人も多い。原発という誤った国策を結果として黙認してきた国民は、ある期間、負担に耐えたら、未来を担う子供たちに少しでも安全な世界を準備できるのだ。

 15日夜、新宿区立おとめやま公園で蛍を観賞した。開場1時間前に整理券が配られるほどの盛況だったが、観賞時間は数分で、肩透かしと言えなくもない。だが、渡された資料に目を通し、自らの愚を知る。蛍が生育できる環境を都心でつくり出すこと自体が奇跡で、多く人の努力の結晶が、年に一度の観賞会なのだ。

 湧き水の清浄さを保ち、餌になるカワナニを育て、水辺の植物に配慮する。「落合蛍を育てる会」に協力しているのが、学校挙げて飼育に取り組む区立落合四小の児童、海城中高地学部の生徒たちだ。当日は模擬店が出るなど、苦楽を共にした仲間たちのお祭りなのだろう。育てる会事務局のメンバーは、「蛍が公園内を飛び交う日が来ることを目指しています」と飼育舎で話していた。光のページェントが闇を彩る夜を、俺も心待ちにしている。

 <提灯を借りて帰りぬ蛍狩り>と高浜虚子が詠んだように、蛍はかつて手が届くところにいた。大道寺将司死刑囚の句に繰り返し登場する蛍は、自ら殺めた者の魂のメタファーとも受け取れるが、<連れ立ちて川辺に黙す蛍の夜>にノスタルジックな気分になった、子供の頃、蛍を捕らえてかごに入れた記憶がある。祖父母が住んでいた園部町(現南丹市)なのか、宇治川の岸辺なのか判然としないが、その光景は幻や夢ではない。「きれいやなあ」と呟く妹の声、そして蛍独特の匂いを今も覚えているからだ。

 蛍はいつしか都会から消え、観賞する対象になった。パンフレットに記された<蛍にとって良い環境は、私たち人間にとって素晴らしいはず>との思いは3・11を経た今、ズシリと胸に響いてくる。

 妹だけでなく多くの死に立ち会うようになると、感性は次第に和製化し、関心のなかった桜、蛍、花火、紅葉に感応するようになった。自然を友に暮らしてきた日本人独特の無常観、死生観に近づけたが、政府の無策まで天災と甘受するマイナス面にも気付く。

 とはいえ、日本の民衆は常に飼い慣らされていたわけではない。16世紀に来日したキリスト教の宣教師は、利に敏い武士層の寝返りの連続にあきれ返ったが、一向一揆の真摯さ、キリシタンの殉教には敬意を抱いた。風向きは周期によって大きく変わる。あさっては官邸前デモに参加し、熱い空気に触れたいと思う。

 妹の処女作にして遺作の「ジュリアン」が送られてきた。自費出版で、中身は子供向きの童話である。俺は「善人ばかり出てくる話はよくない」とダメ出ししたが、知人が描いた挿絵とのコラボはなかなかいい。出来るだけ多くの子供に読んでもらいたいと、妹は願っているはずだ。近隣の保育園や幼稚園に一冊ずつ寄付することにしよう。
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船は行く、「氷山の南」へ~シンディバード号は池澤夏樹の理想郷?

2012-07-16 13:14:27 | 読書
 3・11直後、ロシアのプーチン首相(当時)が「日本に天然ガスを供給する用意がある」と言明した時、多くの人が「あの国から同情されたらおしまい」と嘆いた。確かに、プーチンは同情していた。法外な高値(国内の6倍)でアメリカから天然ガスを輸入せざるを得ない日本に……。

 日本の脱原発サイドの研究者だけでなく、アメリカの政府機関やマサチューセッツ工科大は、LNG発電は原発より遥かに安価であることを数値で示している。ところが野田首相は、「ガス発電にすると電気料金が上がる」と真逆の理屈で原発再稼働を推進している。韓国のようにアメリカからシェールガスを輸入しないのは、<電気料金に燃料費を加算できるシステムなので、安く抑える必要がない>からだという。メディアまで国家的詐欺の片棒を担いだ結果、日本はダブついたウランの〝廃棄処理場〟になりつつある。

 原子力を巡る歪んだ構造を把握している作家といえば、「すばらしい新世界」(00年)で風力発電を取り上げた池澤夏樹だ。ルポルタージュ「春を恨んだりはしない~震災をめぐって考えたこと」(11年)では技術論で原発を否定し、<3・11が集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への転換点になること>に期待を寄せていた。

 池澤の最新作「氷山の南」(文藝春秋)を読了した。09年9月から1年間、一貫して脱原発を掲げる東京新聞に連載された550㌻の冒険譚である。3・11以前とはいえ、作家とメディアの偶然とはいえない縁を感じる。

 18歳のジンがシンディバード号に密航するところから物語は始まる。アイヌの血を引き、先住民交換プログラムでニュージーランドの高校に留学したジンは、若き日の放浪で世界と日本を繋ぐ巨視を獲得した作者自身の投影といえるだろう。

 「シンドバッド」を原典(アラビア語)で発音すれば「シンディバード」となる。南極に向かうシンディバード号は、水不足のオーストラリア南西部まで氷山を曳航するという使命を帯びていた。様々な分野の研究者、技術者、船乗り、料理人が乗船し、族長と呼ばれるスポンサーはオイルマネーで富を成した老人だ。彼らは自己主張しながら互いを尊重し、オルタナティヴで柔らかな融合が形成されていく。

 池澤にとっての理想郷で、紐帯の役割を担うのがジンだ。厨房助手としてパンを焼き、船内新聞記者として乗船者の声に触れる。ジンはアイヌであることを前面に出し、民族楽器ムックリを異文化に繋がるアイテムとして用いている。<独自性と親和力こそ真のグローバリズムのスタートライン>という池澤の思いが、ジンの言動に表れている。

 ジンにとって特別な存在は生物学者のアイリーンだ。オキアミが地球に与える影響、クジラの歌など自然の驚異だけでなく、愛することの意味をも教わっていく。冒険譚と記したが、途轍もない事件や災害に襲われるわけではない。<差異を克服する>という、より高いハードルをクリアする過程で、ジンはプロジェクトの敵として現れるアイシストとも交流し、考え方の肝を吸収していく。

 本作のハイライトは、ジンが船を一時離れた時のエピソードだ。密航前に知り合ったアポリジニの少年画家ジム、長老のトミーじいさんとともに、ジンは広大な<カントリー>を彷徨う。感応力に優れたジンとジムの鋭いニューロンは宇宙と大地に優しく包まれる。アポリジニとアイヌにとって、<大人になる=自然と調和する方法を知ること>だった。ジムを連れてシンディバード号に戻ったジンは、南極で拾った始原的隕石に導かれ、アイリーンを含む3人で時空を超えた神秘的な旅に出る。

 口に含んだ氷が溶け、消化剤のように、安定剤のように心身に染み込んでいく……。本作の感想を手短に記すなら、こんな風になる。作者の問題意識、世界観、感性に癒やされる作品だった。

 池澤の父福永武彦を30年ぶりに読みたくなり、「死の島」(上下/新潮文庫、絶版)を部屋で捜したが見つからない。優秀な編集者でもある池澤が、父の最高傑作を復刊してくれないだろうか。
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「臨場劇場版」~死に彩られた清冽なエピローグ

2012-07-13 11:51:03 | 映画、ドラマ
 未曾有の豪雨で亡くなった方々の冥福を心から祈りたい。総工費3兆円超の整備新幹線事業費を削って被災地の復興に充てるなんて発想は、<増税分⇒公共事業>に舵を切った民自公から浮かんでくるはずもない。

 大津市で起きた<いじめ自殺>に胸が痛むが、責めを負うべきは見て見ぬふりを決め込んだ教師連中ではないか。加害グループの目配せ、異様な空気、死に至った少年の絶望と憔悴……。事態を十分察知していたはずなのに、教師たちは手を打たず、少年の死後は隠蔽に加担した。

 良心と勇気が失われた学校に、原子力村と共通するものを感じる……などと他人事のように書く資格は俺にない。社会を閉塞させた責任は俺たち中高年にあると肝に銘じているからだ。子供は大人を写す鏡といわれるが、大人社会でも陰湿ないじめが進行している。

 新宿で昨日、「臨場劇場版」(12年)を見た。同局(テレビ朝日)、同時間帯(午後9時)の「相棒」に次ぐ映画化だが、大掛かりでアクション満載の「相棒」2作より、死に彩られた本作の方が遥かに心にフィットした。

 第1シーズンで1・4%、第2シーズンで4・9%、平均視聴率で「相棒」を上回った「臨場」は、第3シーズンでテレ朝の看板番組になるはずだった。ところが、倉石検視官を演じる内野聖陽のスキャンダルで頓挫する。ピリオドを打つために用意されたのが今回の劇場版だ。

 陰で支える小坂(松下由樹)とともに倉石の〝相棒〟というべきは、高嶋政伸が演じる立原管理官だ。常に罵り合う両者だが、強い絆で結ばれている。倉石は立原の正義感を頼り、立原は倉石の眼力を信じている。孤独を知る者しか持ちえない優しさを、内野ほど表現できる役者はいない。離婚騒動の渦中にある高嶋は、〝熱く屈折したヒール〟がはまり役になった。醜聞が表現者にとって最大の糧であることは言うまでもない。

 「臨場」は正義を振りかざす他の警察ドラマと一線を画している。法を超越した罪と罰、善悪の彼我を追求する点で、伊坂幸太郎原作の「重力ピエロ」(09年)や「ゴールデンスランバー」(10年)と重なる部分がある。倉石の決め台詞「おまえの人生、根こそぎ拾ってやる」が端的に示すように、倉石は個として死者と対峙するのだ。

 不謹慎な例えであることは承知の上だが、いじめで自殺した少年を倉石が検視したらどうなるか。一つの死には、語り尽くせぬ物語が寄り添っている。倉石は少年の無念に迫るため、あらゆる場所に土足で踏み込み、最期の声を聞こうとするだろう。悔恨の情が芽生えるまで加害少年や教師に付き纏い、法的な罰が下されなくても、<学校ぐるみの殺人>として告発するはずだ。

 劇場版はドラマを見ていないとピンとこない部分もあるだろう。義妹であるスナックのママ(伊藤裕子)とのさりげない別れのシーンが、倉石の覚悟を暗示している。「続編に期待」と記した某評論家は明らかにピント外れだ。ちなみに倉石の妻は通り魔によって殺されたという設定で、劇場版のテーマとリンクしている。そして、倉石にも死の影が忍び寄る。オープニングとエンドロールの繋がりに余韻が去らない。

 愛するとは、死とは、冤罪とは、組織とは、家族とは……。幾つもの綾が紡がれ、ラストに向けて一本の太い糸になる。瞠目したのが通り魔犯役の柄本佑で、父が柄本明、妻が安藤サクラと知って妙に納得する。殺された娘との絆を探して街を彷徨う母親を、若村麻由美が好演していた。

 横山秀夫の小説は数多くドラマ化されているが、白眉といえるのが「第三の時効」シリーズ(全6話)だ。TBS系の地上波、BS、CSでも繰り返し再放送されているので、ご覧になってほしい。シリーズで重要な役柄を演じていた段田安則は、本作でも存在感を示していた。

 「サニー 永遠の仲間たち」のハ・チュナ、そして「臨場劇場版」の倉石は、ともに死を意識的に生に組み込んだ。今さら枯れるなんて俺には無理だが、いい死に際を迎えるためにも、日々を精いっぱい生きたい。それが妹への供養になると考えている。
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「サニー 永遠の仲間たち」~胸に染みる人生賛歌

2012-07-10 22:47:35 | 映画、ドラマ
 ユーストリームにアップされた広瀬隆氏の講演会を見た知人からメールが届いた。「目からウロコ」、「ずっと騙されていた」、「説得力に驚いた」……。感想は三人三様だが、ノンポリだった彼らを反原発の側に引き寄せられたと思う。ブログで紹介してよかった。

 原発再稼働、オスプレイ配備、TPPと対米隷属まっしぐらの野田政権だが、国民の「NO」の声は燎原の火の如く広がっている。格差と貧困、閉塞感など様々な背景が考えられるが、<健全なナショナリズム>もまた、核のひとつだと思う。環境汚染と子供の被曝は、思想の右左関係なく、人間としての怒りを呼び覚ますからだ。

 山田五十鈴さんが亡くなった。俺がその神髄に触れたのは世紀が変わってからである。日本映画専門チャンネルで放映された「浪華悲歌」(1936年、溝口健二)、「歌行燈」(43年、成瀬巳喜男)など戦前の作品を見て、山田さんが表現する薄幸、妖艶、一途、清純、アンニュイ、退廃に魅了された。不世出の女優の冥福を祈りたい。

 新宿で先日、韓国映画「サニー 永遠の仲間たち」(11年、カン・ヒュンチョル監督)を見た。俺だけでなく、デジャヴを覚えた中高年が多かったのではないか。青春期を過ごした仲間と再会し、空白の時間を埋めるというパターンは、ドラマだったか、映画だったか、それとも小説だったか、もどかしいけど思い出せない。記憶の底をまさぐるうち、自分の経験と重なることに気付く。本作ほど劇的なケースは稀だけれど……。

 主人公のイム・ナミは、世間から見れば恵まれた生活を送っている。超エリートの夫は、妻と娘だけでなく義母にも気配り十分だが、どこか空虚で希薄だ。魂がなく何事も金に換算するタイプと映る。入院中の母を見舞ったナミは、個室にハ・チュナの名札を見つけた。25年ぶりの再会である。ともに笑い、ともに泣いた17歳の頃の仲間に会いたいと願うチュナに、ナミは自分探しを兼ねて応える。7人の特徴を掴んだキャスティングの妙で、カットバックはスムーズに進行していた。

 地方からソウルの女子高に転校してきたナミは、初日にいきなりチュナが率いるグループの一員になる。肝が据わったチュナ、和みのチャンミ、言葉が汚いジニ、時に凶暴になるクムオク、ミスコリアを目指すポッキ、なぜかナミに冷たい美少女スジ……。個性豊かな面々に、初心で世間知らずのナミが加わり、グループはサニーと名付けられる。基本的に遊び仲間だが、スケ番風に縄張り争いもする。

 サニーが17歳だった頃、韓国は転換期を迎えていた。強権的な全斗煥政権下、自由への闘いが広がりつつあったが、時代背景は深刻ではなく、戯画的に描かれていた。警官隊とデモ隊が衝突する横で、サニーが敵と闘うシーンはコミカルだったし、熱心な活動家だったナミの兄の後日談も滑稽だ。全編にユーモアがちりばめられ、シリアスな韓流ドラマも笑いの対象になっていた。

 人生とは大抵、希望通りに運ばない。サニーたちも、荒んでいたり、経済的に追い詰められていたり、縛られていたりと、溺れそうになりながら抜き手を切っている。彼女たちは再び集うことで、勇気と輝きを取り戻す。本作はポジティブな人生賛歌で、世代や国境を超え、誰もが思いを共有できる普遍性を獲得している。ナミが初恋の相手と再会するシーンも印象的だった。

 カン監督は「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)にインスパイアされたのではないか。「サニー」のチュナと「死ぬまでに――」のアンは、ともにがんに侵され余命2カ月。自分の死後、周りが幸せになることを願ってプランを練る。再結成されたサニーの紐帯は死せるチュナだ。空白の25年の精いっぱいの生き様が、仲間に希望を灯す。予定調和的で監督の狙いが窺えるラストシーンに安堵した。

 俺には大学時代のサークル仲間が、サニーみたいなものだ。20年ぶりに再会しても、時はあっという間に逆戻りし、それぞれの個性が弾む会話で自然に滲み出た。次の宴では、亡き妹を偲びつつ、酒の肴にしよう。ちなみに、妹が気に入っていた訥弁で大らかなFさんは、いまだ消息知れずだ。会える日は来るだろうか。

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醒めた焔が立ち昇る~広瀬隆緊急講演会に参加して

2012-07-07 23:03:55 | 社会、政治
 福島原発を検証した国会事故調の報告書が提出され、<地震による電源喪失>と<事故=人災>が公に認められた。とはいえ、野田政権が真摯に受け止め、大飯原発をストップする可能性はゼロである。

 金曜夜の官邸前デモには仕事の関係でなかなか参加できないが、熱気の幾許かに触れようと広瀬隆緊急講演会(4日、文京区民センター)に足を運んだ。急きょ開催が決まった同会に、主催者の予想を上回る参加者(400人弱)が集まった。    

 講演内容を正確に伝えるには、俺はアバウト過ぎる。ユーストリームのサイトで「終焉に向かう原子力」(主催者名)と検索すれば、当日の映像に行き当たるので、ぜひご覧になってほしい。
 
 広瀬氏はサイエンティスト、アジテーター、オルガナイザーの三つの貌を持つ。経産省、東電、関電、各自治体などが公表したデータを分析して反転させ、<反原発の根拠>に変えていく。知と理に則った上で情念を爆発させる広瀬氏の背後に、醒めた焔が立ち昇っていた。

 3・11以前は集まりが悪い講演会が多かったが、広瀬氏は開場時、必ず場内にいた。今回も同様で、69歳の広瀬氏は講演終了まで3時間、立ちっ放しである。その姿に重なるのは、谷川雁の著書に登場する「工作者」だ。常に相手と膝を突き合わせ、同じ目線で同志的結合を形成していく。

 広瀬氏は国会事故調にかかわった田中三彦氏をはじめ、様々な分野の研究者や技術者に教えを請い、論拠を積み上げていく。小出裕章氏や広河隆一氏とは長年、強固な信頼関係を築いてきた。<原発こそ改革のスタートライン>と説く古賀茂明氏とは官邸前のデモで出会い、交流が始まった。

 前稿で<多くの企業が脱原発に舵を切りつつある>と記したが、広瀬氏には企業からの講演依頼がいくつも来ている。名古屋では300人以上の経営者が集まったが、居合わせた民主党幹部の秘書たちに愕然としたという。主催者が発言を求めても、口を閉ざしたままだったからである。〝もの言えば唇寒し秋の風〟が民主党の体質なのだろう。

 脱原発を支持する吉原毅氏(城南信用金庫理事長)と意気投合した広瀬氏は、吉原氏の命名による基金「正しい報道ヘリの会」を同金庫に開設した。反原発デモを黙殺するメディアに対抗するためだが、カンパは数日で700万円(一回の飛行に必要なのは100万円強)を超えた。その殆どが、広瀬氏が知らない個人や企業から寄せられたものという。

 経産省のデータでは今年3月までの15カ月間、一般用発電機の生産量は全国で原発9基分の880万㌔㍗に達した。近畿経済産業局の同時期の統計では236万㌔㍗で、くしくも大飯原発2基分と同じ数値だ。4月以降、この動きは加速しており、関西では大企業が続々と自家発電機を導入している。節電とは想定不要の仮説の上に成立した中小零細企業いじめの愚策なのだ。

 関電は一昨年の偏西風蛇行による猛暑をベースに、15%の節電を要請しているが、昨年程度の気温なら必要ない。猛暑だったとしても、午後2~4時に企業や個人が発電機を起動させれば、ピーク電力をクリアできる。公的機関のデータを示した広瀬氏は、<原発ゼロでも電力供給は十分可能で、地域を問わず節電は一切不要>と断言する。

 野田首相は「原発が稼働しなければ病院も停電する」と脅しをかけたが、病院や学校など一定の規模を持つ建物は、送電が途絶えても混乱を来さないよう非常用電源の設置を義務付けられている。一国の首相が堂々と嘘をつき、メディアが追認する。まさに〝国家的詐欺〟といえるだろう。

 原発は地震時、原子炉に制御棒が突っ込まれ、運転を停止する。冷却用の外部電源が必要になるが、福島では送電塔も地震と津波によって倒壊した。危険性を認識した関電は昨年、図解入りで大飯原発の安全対策を公表したが、背後の斜面が崩落する可能性が指摘されている。 

 真夏のピーク時、若狭湾で地震が起きれば、大飯原発は崩壊熱の除去を開始する。福島のように送電不能の状況に至れば、どうなるか。関電は<大飯3・4号機では外部電源喪失⇒全電源喪失に至る確率は60%>という数値を発表している。研究者の学説、地震史を援用しながら、広瀬氏は大飯3号機直下の活断層の存在、地表のズレが起きる危険性を提示した。野田首相の「安全宣言」の根拠はどこにも見当たらない。

 衝撃的だったのは、TBSが先月末に放映した、福島原発から廃棄物が放出される映像だ。結果として周辺地域で空間線量が一気に上昇する。福島4号機のプールに入っているセシウム量は、1940~70年代に行われたすべての核実験で大気中に放出された量を上回る。広瀬氏と対談したガンダーセン氏は、<4号機が倒壊したら地球規模の巨大汚染が起こる>と警告している。

 電力会社の株主総会で脱原発の提案がことごとく否決されたのは、委任状を提出した銀行の意向が大きい。一蓮托生の電力会社を潰したくない銀行だが、東電や関電が原発以外のエネルギーを志向して生き残る方策があれば了承するかもしれない。脱原発側が目指すのは東電崩壊ではなく原発停止だ。ならば、その道を探ってみよう……。こう考えた広瀬氏は、上記の古賀氏に知恵を拝借する予定という。

 今回の講演会で最も心に響いた言葉は、「広瀬を信じるな」だ。「私の言うことはまず疑い、自力で調べ、考えろ」と続けた。受け売りはやがて忘れる。俺も当ブログで「節電は不要」と記してきたが、いつしかメディアに洗脳され、あやふやになっていた。「○○信者」になってはいけない……。これも当講演会の教訓だった。
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薫風は嵐になって国を変えるか~京都であれこれ考えたこと

2012-07-04 01:23:38 | 社会、政治
 ユーロ'12はスペインの連覇で幕を閉じた。決勝前のセレモニーで、スペイン代表が国歌を歌っていないことに気付く。地域対立を抱えるスペインは、全国民が納得できる歌詞を作れないという。対戦国のイタリアも、ファシスト支配の歴史を鑑み、国歌に拒否反応を示す人々が多い。

 財政危機が伝えられるスペインとイタリアだが、サッカーだけでなく、既に世界に指標を示していた。水平に繋がる抵抗の力学は両国からロンドン蜂起を経て、<ウォール街を占拠せよ>へ受け継がれる。その波は日本にも伝播した。毎週金曜夜、大飯原発再稼働に抗議するデモが首相官邸を取り囲み、先週はその数が15万人にも達した。まさに初夏の薫風である。

 <指導者―追随者>のタテの組織論とは無関係で、自然発生的に生じたうねりを目の当たりにしたオールドリベラリストは、「60年安保を思い出す」と語っていた。当時の岸首相は「デモ隊をどう思うか」と聞かれ、「野球場にはもっと多くの民衆が集まっている」と答えて失笑を買った。「大きな音だね」と他人事のように漏らした野田首相はさらに酷い。国民への敬意が少しでもあれば、神妙に「大きな声だね」と言うはずだ。野田首相の思考停止した脳が再稼働する見込みはない。

 帰省時を含めこの1週間、様々な政治の動きが伝えられた。井戸端会議の俗論を超えることはないが、以下に雑感を綴りたい。

 河野太郎衆院議員ら超党派の国会議員が集う「原発ゼロの会」は、原発危険度ランキングを公表した。即時廃炉すべき24基のうち、上位を占めたのが敦賀や浜岡だった。腐臭漂う永田町を吹き抜けるそよ風というべきだが、6月30日付の京都新聞に愕然とした。京滋選出の国会議員22人(比例区含む)の大飯再稼働への賛否が掲載されていたが、反対は平智之(反原発で民主離党)、豊田潤太郎(きづな=反増税で昨年民主離党)、穀田恵二(共産党)の3議員のみだった。

 その国の民主度を測る物差しは、政索と民意の距離だと思う。国民の6割以上が反対している大飯原発再稼働が既成事実化し、半数以上が反対している増税も圧倒的多数で可決される。国会議員は<選良>と呼ばれるが、実は<選悪>もしくは<選愚>ではないか。日本は今や独裁国家か奴隷制国家の様相を呈している。

 俺はリアルタイムでテレビを見ない。スポーツでさえ追っかけ再生だが、帰省中はそうもいかない。実家で見たCMに各企業の思いを知った。原子力村の構成員である経団連のトップ連中はともかく、原発安全神話が崩壊し、効率的という通説も揺らいだ今、京セラを筆頭に主要な企業は脱原発に舵を切り、CMでクリーン、省エネ、エコを強調している。GWに帰省した際、妹、義弟と一緒にモデルハウスを見学したが、担当者は脱原発を前提に、太陽光やエネファームに時間を割いて説明していた。

 別稿(先月14日)の冒頭に記したように、日本の自動車メーカーは技術革新への情熱とチームスピリットでマスキー法をクリアし、世界に羽ばたいた。他の分野も後を追い、「メイド・イン・ジャパン」は80年以降、世界でブランドになる。高いハードル(脱原発)を掲げることで再生の手順が見つかるはずだが、野田政権は国の活力を削ぐ道を選択した。

 人間は失敗する生き物だ。そのたびに反省し、許しを乞い、過ちを繰り返さぬよう誓いを立てる。だが、3・11以降、日本の支配層が晒したのは、欲望のみに忠実な獣の顔だった。放射能に蝕まれる可能性が高い若い世代を一顧だにせず、原発利権を貪る連中は、理念や良心と無縁だ。「破れ傘刀舟」の決め台詞、「おまえら人間じゃねえ、叩き斬ってやる」が、多くの国民の本音ではないか。

 民主党圧勝が確実になった3年前の夏、<不気味なほど静かな革命>(09年8月22日)と題し、危惧の念を綴った。<投票所民主主義>の限界が今日の事態を招いたが、「民主主義国家ではすべての市民は活動家であるべき」と説くマイケル・ムーアの言葉が、日本でもリアリティーを持ちつつある。

 政権交代の脚本を書いた小沢一郎氏が、民主党を離党した。反増税、反原発、地方分権を軸に新党を旗揚げするらしいが、批判的なメディアが大半だ。読売新聞(ネット版)は以下のように伝えている。

 <(小沢氏は)「野田首相のもとでの民主党は、政権交代を成し遂げた民主党ではない」と述べ、社会保障・税一体改革を推進する野田首相を批判した>……。

 これぞまさに洗脳で、<小沢=悪、野田=善>を刷り込む詐術というしかない。俺は3・11以降、小沢氏の無為にあきれ果てたが、メディアを含め意図的な小沢バッシングがあることは理解している。

 消費増税が可決されるや、3兆円の整備新幹線3区間の着工が認可された。社会保障や福祉に充てるつもりなどないことは明らかで、逆進性にも一切策を講じなかった。民主と自民は手を携え公共事業に血税をつぎ込み、格差拡大に民は苦しむ。野田政権を持ち上げる読売も財務省の操り人形なのだろう。真実を報道すれば鞭打たれる。「朝まで生テレビ!」で上杉隆氏は、一貫して反増税、反原発を主張する東京新聞に査察が入ったカラクリを仄めかせていた。

 本日夕、広瀬隆氏の緊急講演会に参加する。金曜夜の官邸前デモには仕事の関係でなかなか参加できないが、熱気の幾許かを肌で感じ、次稿に記したい。
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