酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「テルマエ・ロマエⅡ」&「そこのみにて光輝く」~鮮やかなコントラストに浸る

2014-04-30 22:54:13 | 映画、ドラマ
 1995年の阪神淡路大震災、そして2011年の東日本大震災……。この16年の間、俺の感性は大きく変化した。情緒化、和製化が進行し、今では桜,蛍、花火、紅葉と四季の移ろいに親しむようになった。

 神戸の甚大な被害を別世界のように眺め、東京で享楽の日々を過ごしていた俺は、明らかに〝人間未満〟だった。老いも悪いことばかりではない。思考に死がインプットされ、少しは優しくなれるのだ。3・11は原発事故も相俟って、心を激しく揺さぶられた。哀しみ、怒り、虚しさが主成分の涙を毎日のように流し、翌年の妹の死は更に俺を繊細にした。

 俺はある時期まで、「映画やドラマで泣いたことは一度もない」と広言していた。それほど乾いていたということだが、最近はたちまち涙腺が決壊するようになった。しかも、予告編で泣けるのだから困ったものだ。

 GWに入って2本の邦画を見た。公開直後の「テルマエ・ロマエⅡ」(武内英樹監督)と「そこのみにて光輝く」(呉美保監督)で、ネタバレを避けるため、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。

 色調は180度異なり、続けて見るとコントラストが浮き彫りになる。前者はルシウス(阿部寛)と真実(上戸彩)の時空を超えたロマンスで、後者は達夫(綾野剛)と千夏(池脇千鶴)が互いの瞳に自らの絶望を重ねる行き止まりの愛だ。無理やり共通点を挙げれば、ラストシーンが海辺であることだ。

 「テルマエ――」は今後、映画館でご覧になる方も多いだろう。デートにはうってつけで、DVD化された暁にはレンタル店で人気になること請け合いだ。第1作にも引けを取らず、細部まで趣向が凝らされたエンターテインメントといえる。上戸彩の入浴シーンもウリのひとつだが、裸といえば男性陣だ。阿部だけでなく北村一輝(ケイオニウス役)らの入浴シーンには、女性だけでなくゲイも陶然とするだろう。

 日本の温泉地と古代ローマを行き来するのだが、平和主義対軍国主義が対立項になっている。元老院の中に、ハドリアヌス皇帝(市村正親)の穏便な外交政策に反旗を翻す動きがある。「強いローマ」を掲げる者に重なるのは現政権だが、平和に価値を見いだす本作を製作したのは、〝安倍機関〟の優等生であるフジテレビだ。

 家族団欒のアイテムというべき「テルマエ――」と対照的に、「そこのみにて光輝く」は内なる闇と対峙する作品で、かつてのATGを彷彿させる。佐藤泰志原作で函館が舞台といえば、兄(竹原ピストル)と妹(谷村美月)を軸に展開する、ラストが悲痛な「海炭市叙景」(10年)だ。本作では兄を思う妹の手紙が冒頭とラストに重なる。

 夜のシーンが多いのは主な登場人物の心象風景を反映しているからだろう。石切り場での死亡事故を自らの責任と受け止めている達夫、刑務所帰りの拓児(菅田将暉)、そしてその姉で生活のために体を売る千夏の3人が紡ぐダウナーな青春ドラマだ。

 佐藤泰志が自殺したのは1990年である。同窓(函館西高校)の辻仁成とは対照的で、作品も人生も今風とは真逆の<暗くて切ないトーン>だが、「海炭市叙景」に感じたのは、世間の時計の針が佐藤の時代に戻ったことだった。兄妹は出口の見えない貧困に喘いでいたが、「そこのみにて光輝く」の千夏と拓児の姉弟にとって家族は桎梏で、互いの足首を鎖で結わえたような暮らしを強いられている。

 佐藤の屈曲、呉監督の女性の視点、演技に心血を注いだ綾野と池脇、闇と光を交錯させたカメラワーク、函館のセピア色の風景が織り成す世界は、俺の心に錨を下ろす。ラストは早朝の海辺で、達夫と千夏は涙を堪えながら微笑を浮かべ、互いを見つめる。シナリオには<二人は、そこのみにて光輝いていた>と記され、暗転してエンドロールに至る。二つの魂が相寄った先、仄かな希望が灯るのを感じた。

 中1日で見た両作は、俺にとって恰好のバランスシートになった。ちなみに俺は、函館に魅入られたひとりで、<失踪して函館>という妄想を何度となく楽しんだ。他の佐藤作品の映画化を心待ちにしている。
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講演会「チェルノブイリと福島」で心を洗われた

2014-04-27 23:24:18 | 社会、政治
 小泉、細川の元首相コンビが社団法人「自然エネルギー推進会議」を設立する。都知事選で細川氏を熱烈に支持した仕事先の夕刊紙は第一報(ネット版)で、「社団法人はカムフラ~〝進次郎新党〟へ」と見出しを打ち、生臭さをにおわせていたが、細川氏は「福島県知事選を含め政治的コミットは避ける」と明言している。

 都知事選で一部の人が主張した<小異を捨てて大同につけ>、<原発に左右は関係ない>に俺は違和感を覚えていた。反原発集会で林立する旗や幟に、それぞれの立脚点が表れている。劣悪な労働条件の改善、差別糾弾、TPP反対、貧困と格差の是正、アジアとの協調、辺野古移設反対、護憲と秘密保護法反対etc……。弾圧と妨害に晒されながら、様々な課題とともに反原発にも関わってきた大多数の<左>に位置する人たちは、<小異>ならぬ<大異>と闘ってきたのだ。

 <私も原発推進派でしたが目が覚めました>……。この言葉をもって小泉氏を免罪する人もいる。同氏が首相として加担したイラク戦争、ファルージャ攻撃で何が起きたかご存じか。米軍が用いた兵器による放射能汚染で、多くの子供が生後間もなく死んでいる。その点を追及したジャーナリストに対し、小泉氏は無視を決め込んだままだ。ファジーでアバウトな俺だが、<人間としての罪>を看過する気は毛頭ない。

 幸いなことに、反原発側の分裂は修復に向かっている。都知事選では立場が分かれた三宅洋平氏(宇都宮支持)、山本太郎氏(中立)、広瀬隆氏(細川支持)は、衆院選鹿児島2区の補欠選挙で再度結集した。川内原発再稼働阻止を掲げて立候補したありかわ美子候補(新党ひとりひとり)を応援する選挙フェスを、同党代表の山本、三宅、広瀬の3氏が盛り上げる。結果は3位に敗れたが、同じく反原発派の共産党候補を上回った。

 当ブログで上記の広瀬氏と小出裕章氏を<反原発のキリスト>と評したが、肝心な人を忘れていた。広河隆一氏(元DAYSJAPAN編集長)である。先日、「チェルノブイリと福島」と題された講演会(文京シビックセンター小ホール)に参加した。俺も一員である「未来の福島こども基金」が「チェルノブイリ子ども基金」(広河氏が設立)とともに、主催者に名を連ねていた。

 最初に登壇したのは4歳の時、チェルノブイリ事故で被曝したシネオカヤ・インナさんで、甲状腺がんとの闘いを支えてくれた家族の絆、福島への共感が伝わってきた。出産は母子ともに危険とする医師の警告を振り切ったインナさんは娘を得た。万全の医療体制が整っていれば甲状腺がんの悪化は防げることを、インナさんは教えてくれた。

 日本でも数年後、若い世代の甲状腺がん発症が社会問題になることは確実だが、国が原発事故との因果関係を認めない可能性は高い。「チェルノブイリ子ども基金」はドイツなどの団体とともに、幼いがん患者のために保養施設を造った。既に6万人以上が訪れ、インナさんもその施設で保養したひとりだ。

 休憩後、広河氏が壇上に立った。パレスチナ、チェルノブイリの絶望的状況と接しながら、情勢に流されることなく正義を追求する姿勢に感銘を受けてきた。3年ぶりに訪れたチェルノブイリで調査した結果を福島と重ねることが、今回のテーマである。詳細なデータは「DAYSJAPAN」次号に掲載されるので、ここでは概要を記したい。

 10年ほど前に存在していた町が廃虚になっていたことに、広河氏は衝撃を受ける。福島でいえば双葉町や伊達市と同じ測定値を示す自治体である。ウクライナの担当者は<そこ(福島)に子供や女性が暮らしている>と聞いて絶句したという。除染は不可能で、「汚染地域から人々を遠ざけることが第一」と広河氏に語った。

 インナさん、そして彼女の世代から生まれた子供たちの病状を見れば、いずれが間違っているかは明白だが、福島では今、恐ろしい事態が進行中だ。「福島子ども基金」や「DAYSJAPAN」らの協力で子供たちの保養施設「沖縄・球美の里」が造られたが、訪れる側に圧力が掛かっているのだ。

 保養施設訪問は放射能汚染を認めることであり、山下俊一氏らによる公式見解「福島は大丈夫」に反するとして村八分になるという。日本の最大の病巣「集団化」が端的に表れているのだ。子供たちを迎える久米島は様々なイベントを用意するなど大歓迎で、絆は深まりつつある。反戦の歴史によって育まれた反骨精神が、福島の子供たちを温かく包んでいる。

 少額の寄付に加え、宮崎駿デザインによる「球美の里」Tシャツと、ホールに流れていたナターシャ・グジーのCDを購入した。ナターシャはウクライナ生まれの歌手で、チェルノブイリだけでなく福島の救援活動にも携わっている。静謐なアルバムを聴きながら当稿を書いていると、汚れた俺の心にも清々しさが滲んできた。

 俺も広河氏のように情勢に流されず、自分の立ち位置を明確にして、微力ながら社会に貢献したい。この国で周りを窺えば、自らを見失い、集団化、保守化の渦にのみ込まれてしまうのだ。
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「グロテスク」~重ならぬ五つの闇

2014-04-23 23:33:55 | 読書
 俺にとってブログは、ボケ防止のための忘備録として、超小人が不善を成さぬためのストッパーとして十分に機能している。還暦が近づくと同世代の訃報が相次ぐが、不摂生の俺が生かされているのは神様の気まぐれというべきだ。ブログは思いを残さぬための遺書代わりでもある。

 テーマを探すことは発見に繋がる。例えば読書……。今年になって保坂和志、町田康、長嶋有の作品に初めて触れて感銘を受けた。文学通を気取ってはいるが、出会いのたびに自分の無知を思い知る。齢を重ねるごとに謙虚になったことが、ブログ最大の効能かもしれない。

 今回は桐野夏生の「グロテスク」(上下/03年、文春文庫)について記したい。一言で感想を述べるなら、<4人の女と1人の男の交わらぬ深い闇の物語>といったところか。桐野は俺より5歳年上だが、写真を見る限りチャーミングな熟女で、本作にも〝女性の生理〟が滲んでいた。

 没個性を象徴的に示すためか、39歳の主人公には名前がない。翻訳家を目指したものの挫折し、今は区役所のアルバイト職員だ。スイス人の父と日本人の母の間に生まれたハーフだが、怪物的美貌を誇る妹ユリコと幼い頃から比べられ、コンプレックスに苛まれてきた。その結果、わたしは〝悪意〟という箱に身を潜め、世の中と接するようになる。

 姉妹が通ったQ学園は、歪んだエリート意識が差配する学び舎だった。クラスメートだった和恵は、平凡な容姿のわたしが優越感を覚えるほどで、他者との距離感が掴めず、垂直思考のみで物事を判断する。コケティッシュなミツルは成績優秀で、東大医学部卒に合格した。20年後、わたし以外の3人がメディアの餌食になった。娼婦になったユリコと和恵は相次いで殺され、カルトに入信したミツルは世間を騒がせた事件で罪に問われる。

 和恵のモデルは東電OL殺人事件の被害者で、ミツルが関わった宗教団体はオウムにそのまま重なる。わたし、ユリコ、和恵の手記とモノローグを軸に、カットバックしながら物語が進行する。芥川龍之介の「薮の中」のように人間の二面性、主観と客観の隔たりを追求することで、深みとスケールを増している。

 下巻冒頭、中国からの不法入国者チャンの上申書の内容が記されている。チャンはユリコ殺しは自供したが、和恵の件は無関係と主張している。詳らかにされる中国における格差と貧困、凄まじい生存競争、はびこる悪徳は、息を呑むほどグロテスクだ。自分を罪人にしたのは社会と言いたげだが、第三者の証言ではどうしようもない嘘つきの大悪党である。抱える闇の濃さが近いのか、和恵が誰よりも心を開き、行為の最中で唯一、快感を覚えたのがチャンだった。

 ストーリーを紡いでいたのが木島親子だ。成績の悪いユリコの編入を認めたのがQ学園教師の木島で、息子の高志は女衒となってユリコの商売を助ける。ゲイの高志は唯一、ユリコの魅力に惑わない男だった。高志に恋心を抱いたのが和恵で、本作の肝というべき和恵の日記は、高志、ミツルを経てわたしに預けられる。

 若き日の輝きが消えたユリコは、自身の堕落を意識し、行き着く先にある死を覚悟している。渋谷円山町でユリコと再会した和恵は、自身を冷徹に見る目を失くしていた。東電OL殺人事件をモチーフにした「恋の罪」(園子温)で、自らの行為を「城」(カフカ)になぞらえていた美津子と対照的だ。

 ユリコにとって売春とは世界と繋がる唯一の手段だったが、上昇と下降の区別がつかなくなった和恵は、3000円で体を売ることに誇りを抱くようになる。<背徳の彼方の純潔>に幻想を抱く男は多いが、桐野は女性の視点で和恵の狂いを残酷なほど抉っていた。

 佐野眞一は「東電OL殺人事件」で<Yはありとあらゆる病巣が巣くった円山町のなかで、画然と屹立する「病の怪物」だった。魂を深く病んだ人間にしか、魂を深く病んだ社会は見えない>と記していた。対象に接近する佐野らしい表現だが、本作の和恵にとって、<一流大卒の一流会社社員>のステータスだけが、社会との接点だった。

 「OUT」、「魂萌え!」の登場人物は壁を破った。「グロテスク」のわたしも、ユリコの息子である百合雄とともに<節度という軌道>から外れ、世界と向き合う。このラストが桐野作品の定番かもしれない。

 東電OL殺人事件は1997年に起きた。新宿、池袋はともかく、渋谷のディープゾーンは無縁だったが、映画を見た帰りに現場近くを通ったら、被害者と出くわしたかもしれない。その時、俺はどんな反応をしたか、妄想で楽しむことにする。
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「銀河英雄伝説」と「レッスルマニア」は民主主義の教材?

2014-04-20 23:03:03 | カルチャー
 フジキセキが屈腱炎で回避してから19年後、ラストクロップのイスラボニータが皐月賞を制し、父の無念を晴らした。POG指名馬ステファノスも15番人気で5着と大健闘で、馬券は外しても満足いく結果だった。

 リョサらと南米文学を牽引したガルシア・マルケスが亡くなった。南米文学といえばマジックリアリズムで、インド系など後世の作家に大きな影響を与える。複数の主観が交錯するセンテンスが、誌的なイメージの連なりとなって物語を紡いでいく。読む側は時空を超えた迷宮に閉じ込められてしまうのだ。

 マルケスは「百年の孤独」を含め10作ほど読んだ。訃報に触れ、あすにも未読の「コレラの時代の愛」を購入する予定だが、500㌻を超える長編(恐らく難解)に俺の脳と体が耐えられるだろうか。ともあれ、文学の魔法を教えてくれた巨匠の死を心から悼みたい。

 クーデターや独裁が定番の南米で、マルケスが思いを馳せた民主主義は、今や腐臭を放っている。アルゼンチンに端を発した直接民主主義のうねりは欧米に波及したが、時に議会制民主主義が壁になって行く手を遮っている。日本でも護憲、反秘密保護法、脱原発、辺野古移設反対が世論調査で過半数を占めるのに、国民の声は永田町に届かない。

 日本映画専門Cでオンエアされた「銀河英雄伝説~劇場版」の録画を2本続けて見た。20年近く前、知人に薦められたアニメ版にハマり、毎週のようにレンタル店に通った記憶がある。「銀河帝国」と「自由惑星同盟」が対峙する壮大なスペースオペラで、互いに敬意を払う帝国のラインハルトと同盟のヤン提督(アジア系)が主な登場人物だ。

 底に流れるテーマは<超越した支配者による独裁制は民主制に勝る>……。安倍首相支持者は飛びつきそうだが、首相は超越した支配者から程遠い。原作(田中芳樹)は左翼的な空気が濃密という。若くして軍のトップから皇帝の座に就いたラインハルトは、民衆の幸福を第一に考え善政を敷く。対する同盟は衆愚に堕し、政策は一貫しない。能力はラインハルトに匹敵するヤンだが、その言葉通り「帰趨は闘いの前に決していた」。

 「銀河英雄伝説」の帝国と同盟の関係に近いのが、レスリングウオーを繰り広げたWWEとWCWにである。テッド・ターナーの莫大な資金を後ろ盾にしたWCWはホーガンやフレアーらを掻き集め、WWEを壊滅寸前まで追い詰めるが、ロッカールームでの闘いが激化したことで混乱に陥る。一方のWWEは、絶対的権力者のビンス・マクマホンがオースチンを前面に立て、反転攻勢に打って出る。戦況は少しずつWWEに傾き、遂にWCWを吸収した。

 WWE最大の祭典「第30回レッスルマニア」を10日のタイムラグで見た。WWEでは今、上層部がファンをコントロールするという図式が崩れ、ファンの声が団体を動かしている。直接民主主義が全面的に機能する稀な例になっているのだ。変化の兆しは「ロイヤルランブル」(1月末)に現れた。初戦で死闘を演じたダニエル・ブライアンの名を、ファンはその後も連呼し続ける。翌日にCMパンクが急きょ退団したことで、どの会場でも「CMパンク」のチャントが繰り返し起きていた。その声を止めるためにも、上層部は軌道修正を強いられる。

 ブライアンが「レッスルマニア」のメーンで闘う可能性はゼロだったが、会場を覆うファンの「イエス」は全世界(100カ国以上で放映)に伝播していく。ファンによるリング占拠を経て「イエス旋風」は全てをなぎ倒し、「レッスルマニア」で大団円に至る。王座を獲得したブライアンは7万5000超の観衆から、「イエス」のチャントで祝福されていた。

 小柄(170㌢前後、80㌔台)で見た目も平凡なブライアンだが、長い下積み時代に習得した技量(関節技、蹴りとダイブ、受けの巧さ)で目の肥えたファンの支持を得た。そのことは素晴らしいが、今後に問題を残している。

 常日頃の称揚とは相容れないが、直接民主主義は過剰さを伴う。シナへの酷い罵声はオートン、バティスタら主要レスラーに及び、代わりに支持されているのが〝番犬〟から〝反逆児〟に転じたシールド、カルト風のワイアット・ファミリーだ。アウトローが闊歩するのは気分がいいが、支持が偏るとエンターテインメント性が損なわれ、従来のファンが離れる可能性もある。

 俺はこの年(還暦間近)でプロレスを楽しんでいるが、想像を遥かに超える展開を見せるWWEともう少し付き合うことになりそうだ。直接民主主義はどこまで続くのか、それとも上層部が巧みに収束させるのか……。興味は尽きそうもない。
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人馬が織り成す宿命のドラマ~人生こそ競馬の比喩?

2014-04-17 22:31:58 | 競馬
 米ワシントン・ポストと英ガーディアンがピュリツァー賞を受賞した。エドワード・スノーデン氏(元CIA、NSA局員)の証言を基に、米政府の違法な情報活動を告発したことが評価された。敵が国家であっても、自由と民主主義を阻害するなら決して許さないという姿勢と対照的に、安倍機関と化した日本のメディアは〝大本営発表〟を垂れ流している。

 アーケイド・ファイアがフジロックにブッキングされ、前稿で記した希望的観測が現実になった。コーチェラでの映像を見たが、祝祭的なパフォーマンスを展開していた。前後に単独公演をセットしてほしい。同じくヘッドライナーを務めたミューズには、体調不良や家庭の問題が囁かれているが、煮詰まっているという印象は否めない。億単位のギャラを得ながら反抗を掲げるという矛盾から解放される日は来るだろうか。

 1999年の米三冠レースを追ったドキュメンタリーを見た。「カリズマティック~名ジョッキーの運命と共に走った最強馬」(JSPORTS)である。2歳時は7戦1勝、3歳になっても⑤⑤着のカリズマティックは、クレーミング競走(売却を前提にしたレース)出走を余儀なくされたほど裏街道を歩んでいた。

 クリス・アントレーは18歳で年間最多勝(469勝)を挙げた天才騎手だが、馬主、調教師、ファンからのプレッシャーに耐え切れず、薬物と酒に溺れて転落する。治療を受けてリハビリに励み、シェイプアップしたアントレーに再起のチャンスが訪れた。ケンタッキーダービーでカリズマティックの騎乗を依頼されたのだ。

 米三冠レースはインターバルが短い。12番人気という気楽さもあり、完璧な騎乗でダービーを首差で制するや、2週後のプリークネスSを楽勝し、中2週でベルモントSに向かう。燃え盛る業火に放り込まれたアントレーの様子に不安を覚え、関係者に騎手変更を提案する者もいた。

 才能を突然開花させた馬、地獄から這い上がった騎手……。21年ぶりの三冠馬誕生に期待を寄せた競馬ファンは、想定外の歴史的シーンを目撃する。先行したカリズマティックは直線で力尽き、3着に終わる。異変に気付いたアントレーはすぐさま下馬し、折れ曲がった同馬の脚を抱え、馬運車の到着を待った。応急処置が奏功し、カリズマティックは生き永らえる。

 人馬のその後は、決して平坦ではなかった。カリズマティックは02年に日本に渡ったが、活躍馬はワンダーアキュートだけだ。年内に引退したアントレーは翌年、遺体で発見される。不審な点はあったものの、薬物の過剰摂取が死因と発表された。家族の証言によれば、アントレーは日々壊れていったという。「人生こそ競馬の比喩なんだ」と語った寺山修司は、栄光と悲劇に彩られた人馬のドラマをどのように表現しただろう。

 皐月賞の枠順が確定した。俺が注目するのはフジキセキ産駒のイスラボニータとロサギガンティアだ。競馬サークルを残酷なほどの格差社会に変えたのはサンデーサイレンスである。その初年度産駒がフジキセキだが、種牡馬としての守備範囲は、マイル以下とダートだった。種付けが終了した今、ラストクロップとなる上記2頭が定説を覆せば、血の魔力によるドラマチックなエピローグになる。

 POG指名馬ステファノスに中山2000は厳しいが、雨が降れば馬券に絡む可能性もある。さらに、カリズマティックと同じストームバード系のアジアエクスプレスも買う。理屈より心情を重視し、◎⑬ロサギガンディア、○②イスラボニータ、▲⑧ステファノス、注⑯アジアエクスプレスの4頭をチョイスした。少額投資でレースを楽しむことにする。
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ジェイク・バグ&フォスター・ザ・ピープル~ロック雑感あれこれ

2014-04-14 23:44:15 | 音楽
 '13は俺にとって〝ロック豊饒の年〟だったが、今年は一度もライブに足を運んでない。購入したばかりのCDを含め、ロック雑感をまとめて記したい。

 WOWOWで先日、サーティー・セカンズ・トゥー・マースのライブがオンエアされたが、フロントマンの容姿に見覚えがあった。「ダラス・バイヤーズクラブ」で女装の青年レイヨンを演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得したジャレッド・レトその人だったからである。俺が〝現役ロックファン〟なら、彼らのアルバムを既に聴き、映画観賞中にレトに気付いていたに相違ない。

 ポール・マッカートニー、エリック・クラプトン、ローリング・ストーンズ、ジェフ・ベック、ボブ・ディラン……。1970年前後、既に神格化されていたレジェンドが相次いで来日したが、俺は全く興味がなかった。<ロックは瞬間最大風速かつ微分係数>が持論で、「絶大な敬意を払うからこそ、今の彼らは見ない」が正直な気持ちだ。

 ストーンズを見て「サティスファクション」とのたまった安倍首相は最近、パフォーマンスに走っている。ポールの再来日公演(5月)には足を運ぶのではないか。安倍首相とストーンズやポールの組み合わせに違和感はないが、英キャメロン首相(保守党)は「スミス好き」を公言して失笑された。反体制、反王室の姿勢を隠さないモリッシーとキャメロン首相が真逆に位置することは、誰の目にも明らだからである。

 米コーチェラフェスは毎年、「スミス再結成」をオファーするのがお約束になっているが、今年も実現しなかった。英米のメガフェスが争奪戦を繰り広げる中、フジロックとサマソニが割を食っている印象は否めない。サマソニはアークティック・モンキーズで格好をつけたが、フジの起死回生策と囁かれるのがアーケイド・ファイアだ。

 俺とロックを繋いでいるのは「ロッキンオン」だ。業界の規模は英米の10分の1程度だろうが、メディアとしてのクオリティーは同誌が世界一だと思う。<ロックは社会に対峙すべき>という思い――今や幻想に近い――が行間から伝わってくる。全社挙げて反原発フェスを主催しているし、リベラルを標榜する「SIGHT」の表紙右肩に刻まれた<ロックに世界を読む>に、渋谷陽一氏の思いが込められている。

 その「ロッキンオン」一押しといえばジェイク・バグとフォスター・ザ・ピープルだ。HPに訪れるうち洗脳されたのか、それぞれの1st、2ndアルバムを合わせて購入した。無駄を削ぎ落としたジェイク・バグ、音楽の境界線を行き来するフォスター・ザ・ピープルと志向は異なるが、読書の友として聴く日が続いている。

 ジェイク・バグは何と20歳! 18歳で発表したデビュー作「ジェイク・バグ」は全英チャート1位に輝いた。フォーク、カントリーの要素を取り入れたソリッドなロックというべきだろう。既視感ならぬ既〝聴〟感を覚える作品で、ロックの原点と初期衝動を思い起こさせてくれる。

 人口の10%を学生が占めるノッティンガムが、ジェイクの才気を育んだのだろう。そういえば、アラン・シリトーも当地出身だ。シリトーの反骨精神とシニシズムは、ザ・フーやブラーにも影響を与えている。ジェイクもまた〝シリトーズ・チルドレン〟といえるだろう。

 撥水性のモノクロームの世界は、2nd「シャングリラ」でも変わらない。3rd以降、カラフルに転じるのか興味はある。今月末の東京公演(ZEPP TOKYO)のチケットは入手可能だが、今回は見送った。ジェイクは俺の3分の1ほどの年齢で、観衆の平均年齢も似たようなものだろう。自分が若く思える反原発集会に馴染んでしまった初老男にとって、若者に混じるのは結構ホネなのだ。

 フォスター・ザ・ピープルはバンド名を冠した1stアルバムでいきなりブレークしたウエストコーストのバンドだ。2nd「スーパーモデル」ではより一層、カラフルになっている。ここ数年のお気に入りであるグリズリー・ベア、ダーティー・プロジェクターズ、ローカル・ネイティヴスらと同様、遊びの精神と前衛性に溢れている。

 <ダフト・パンク+アーケイド・ファイア>と絶賛する声もあるし、初期デペッシュ・モードを彷彿させる繊細シンセポップもある。雑食性のバンドにとって肝というべきは、表情豊かでポップな音を奏でることだ。UKでいえばフォールズに近いが、彼らほど芯はない分、軽やかに飛翔している。

 ジェイクとフォスター――を聴いて、新鮮さだけでなく、和みとノスタルジックな気分を味わった。過去の良質な音を取り込んで彩りを添えるのが、デジタル世代の長所なのだろう。

 立ち読みした「ロッキンオン」最新号はプログレを特集し、30枚のアルバムを紹介していた、1位に挙げていたキング・クリムゾンのデビュー作「クリムゾン・キングの宮殿」(1969年)は、俺にとってプログレだけでなく、ロック史上NO・1の傑作だ。あれほどの衝撃を受けた作品はほかにない。

 30枚のうちイタリアンプログレがPFM一枚きりという点に違和感を覚えた。「UKの有名バンドと匹敵する演奏力」と書かれていたが、俺は明らかに超えていたと思う。イタリアンプログレは当時ジャズ界を席巻していたクロスオーバーを凌駕し、ワールドミュージックの扉を開いたと理解しているが、世間の評価は異なる。ジャンルを問わず、俺が肩入れすればロクなことはない。
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「白ゆき姫殺人事件」~増殖する悪意を克服する道筋は?

2014-04-11 12:02:49 | 映画、ドラマ
 ♪そうさ 俺のせいでいいさ ほんとはおまえから 別れを言い出した

 男の未練を歌った「やすらぎ」(黒沢年男)の一節は、女性の本質を言い当てている。女性は正しさに固執し、被害者の側に身を置くことで落ち着きを覚えるという、歪んだ女性観を持つ俺は、小保方晴子さんの会見に納得してしまった。

 「200回以上もSTAP細胞作製に成功した」「実験ノートは数冊ある」……。正しさを主張した小保方さんに、専門家は厳しい目を向けている。一方で、彼女の指導役を務めた理研の笹井氏は、「STAPは本物の現象」と朝日新聞の取材に答えている。騒動が収束する気配はない。

 <自己愛が強く虚言癖のあるモンスター>と小保方さんを評し、「キュートさをフル稼働して地位を築いた」と報じるメディアもある。本題ともリンクするが、証言の集め方にバイアスが掛かっていれば、真実を見誤る可能性もある。

 「灯台へ」(V・ウルフ)で疲れた脳を休めた後、「グロテスク」(桐野夏生)を読み始めた。主人公(わたし)と2人のモンスター――絶対的美貌を誇る妹ユリコ、東電OL殺人事件の被害者をモデルにした和恵――を巡る物語で、女性の内面を独白の形で抉っている。またも消化不良を起こしそうな長編だ。女同士の葛藤をベースにした点で同作に重なる「白ゆき姫殺人事件」(中村義洋監督)を見た。公開直後でもあり、ネタバレは最低限に記したい。

  数カ所の刺し傷が残る無残な女性の焼死体が見つかった。被害者は化粧品会社OLの典子(菜々緒)で、回想シーンで頻繁に登場する。典子は「グロテスク」のユリコ同様、完璧な美貌の持ち主で、会社の商品(石鹸)にちなんで「白ゆき姫殺人事件」と命名される。ネットで犯人と名指された同僚の美姫(井上真央)は、「グロテスク」のわたしのように容貌は平凡だ。

 事件を追うのがテレビ局ディレクターの赤星(綾野剛)だ。綾野は「LINK」(WOWOW、全5回)で、絶望の淵にいる人間を孤独から解放し、有機的に結び付けることを志向するショーンを演じていた。本作で演じた赤星は対照的にSNSに踊らされる。典子が元カノの里沙子(蓮佛美沙子)の先輩だったこともあり、赤星は係長(金子ノブアキ)らを取材して社内事情に詳しくなる。

 ネットで<美姫犯人説>が暴走し始めると、誰しも〝結論〟に沿った証言しかしなくなる。事件後に姿を消したこともあり、美姫は小保方さん以上の四面楚歌状態に陥った。当ブログで<インターネットはタコツボ社会を生んだ>と繰り返し記しているが、今や多くの人々は二進法でしか考えられなくなっている。美姫は本当にモンスターなのか? 典子は果たして? 犯行の動機は? 本作は十進法的手法で時間を行き来しながら、真実に迫っていく。

 見終えた後、ある妄想に耽っていた。超凡人たる俺が万が一、何か事件に関わったとしたら、数々の証言から〝モンスター〟になり得るだろうか……。人生の消しゴムが欲しいぐらい、俺は愚行と失敗を繰り返してきた。証言に基づいてすべてのピースを嵌め込んだら、<異常なモンスター>という名のジグソーパズルが完成するかもしれない。

 谷村美月や貴地谷しほりが美姫に寄り添う友を演じ、生瀬勝久、染谷将太ら錚々たる面々が脇を固めている。同じく湊かなえ原作の「告白」ではレディオヘッドの「ラスト・フラワーズ」が効果的だったが、本作ではクラシックユニットのTSUKEMENが芹沢ブラザーズとして登場し、ストーリーにもしっかり絡んでいた。

 STAP騒動、袴田さん釈放と本作を重ねることもできる。「クラウド 増殖する悪意」(森達也)は増殖した悪意が日本を覆っていることに警鐘を鳴らしていた。「白ゆき姫殺人事件」が秀逸なのは、優れたエンターテインメントでありながら、増殖した悪意を克服する道筋を示している点だ。ラストに温かいカタルシスが待ち受けている。

 本日のテーマは、結果的に<女性>だった。最後に少女たちの闘い、桜花賞の予想を……。といっても、既にモンスターと認知されているハープスターが馬券から外れることはなさそうだ。大外⑱番も追い込み一手の同馬にとって都合がいい。⑩ヌーヴォレコルトとの馬連、⑩⑱2頭軸の3連単マルチを買う予定でいる。
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落語と桜を愉しみつつ、日本の現状を考える

2014-04-08 23:13:51 | 独り言
 週末は鈴本演芸場の夜の部に足を運んだ。若手本格派の古今亭文菊、ぶっ飛んでる春風亭百栄、豪放な橘家文左衛門、毒とクールを併せ持つ春風亭一之輔ら充実したラインアップで、ほぼ満員の盛況だった。落語だけでなく曲芸、奇術と匠の芸も堪能する。ホンキートンク(漫才)の切れ味とテンポに魅せられた。

 一之輔は枕で、「シャブの売人(?)とその客(百栄)ら怪しい輩ばかり」と楽屋の面々を揶揄していた。佇まいの危険な面々が雁首を揃えていたが、落語に登場するのは怪しいというより、間抜け、強欲、早とちりといった連中で、彼らが引き起こす騒動が何となく収まって(オチて)、客席は笑いの渦に包まれる。創作落語の百栄以外、馴染みのある噺が続いたが、各の才気と工夫に時間が経つのを忘れていた。

 終演後、徒歩数分の上野公園と不忍池を訪ね、夜桜を観賞する。入場無料の施設ゆえ、ライトアップの趣向はないのだろう。仄かな月明かりの下、散りかけた桜もまた風情があった。寒さもあって宴も一段落し、退出する若者たちと擦れ違う。さあ二次会といったところだった。

 落語に桜と感性が<和化>したのは、五十路を越えた者に必然の現象だが、東日本大震災と妹の死が大きかった。俺はもともと非論理的人間で、無常観や情緒に振れる傾向がさらに強くなった。日本、そして日本人についてのイメージは、それぞれ大きな隔たりがある。安倍内閣支持者は<強さこそ正しい日本人像>と考え、俺みたいに<寛容と調和>に価値を置く者は少数派だ。

 安倍首相の<戦前回帰と右傾化>に警鐘を鳴らす声は強いが、同時に感じるのは<集団化>と<鎖国化>だ。日本を戦争に導いたのは、陸軍、とりわけ関東軍の暴走というのが定説だが、NHKが3年前に放映した「日本人はなぜ戦争に向かったのか」(全4回)は、興味深い事実を提示していた。

 国内では穏健派の軍部官僚が満州に赴任すると、イケイケに転じる。逆もありで、強硬意見を主張していた関東軍幹部が東京に帰任すると突然、慎重派になる。誰しも状況に応じて立場を変え、一貫して好戦的だったのは、昭和天皇から絶大な支持を得ていた東条英機ぐらいではなかったか。

 大恐慌後、労働者や農民の命懸けの闘いは凄まじい弾圧で敗北するが、怒りと熱気は排外主義に取り込まれた。むのたけじは番組内で、「新聞社はポピュリズムに乗って強硬論を主張し、部数を伸ばすためにも戦争ムードを煽った」と証言していた。<集団化>した日本が真空状態のまま戦争に突入したというのが、真実に近いのかもしれない。

 ちなみに森達也は「クラウド 増殖する悪意」で、異物をチェックし、敵を見つける過程で形成された帰属意識の上に成立するのが安倍政権と分析している。個々がコミュニティーにおける同調圧力(=集団化)に逆らうことが変革のスタートラインだが、自由の気風が沸き立つ気配はない。

 <鎖国化>もかなり深刻だ。普天間基地の辺野古移設、秘密保護法について、海外の識者が反対声明を出した。〝日本はどうなっているのか〟という危惧が先進国に広がっているが、国内で同調する声は小さい。俺が死刑廃止を存置派に振っても、「日本には独自の文化があるから」、「日本はECと関係ないから、廃止する必要はない」と一蹴され、議論はジ・エンドになってしまう。意識をグローバル化するはずのインターネットが普及した結果、タコツボ社会が生まれたというのも皮肉な話だ。

 「SIGHT」最新号の表紙に「原発、秘密保護法、靖国参拝に反対する私たちは少数派だとは思えない」と記されているが、世論調査の結果からも明らかに〝私たちは少数派ではない〟。だが、永田町は国民の声と懸け離れている。

 公明党は武器輸出に賛成して〝平和の党〟の仮面を捨て、原発再稼働賛成の連合に牛耳られた民主党は「対トルコ原子力協定」に賛成した。愕然としたのは結いの党だ。「護憲と脱原発を軸にした勢力が結集する可能性がある」と昨年末の講演で語っていた古賀茂明氏だけでなく、天木直人、田中秀征の両氏も江田憲司代表に期待を寄せていたはずだが、改憲を主張する維新と合流する。

 文句を言っていても仕方ない。俺は「反貧困ネットワーク」と「未来の福島こども基金」の会員だが、よりアクティブに社会に関わるため緑の党に入会した。緑の党は上記した<寛容と調和>を希求し、池澤夏樹や星野智幸が志向する<アイデンティティーの浸潤>と重なる。入会したばかりで様子見状態だが、いずれ語り合える友が出来たら幸いである。
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「ネブラスカ」~荒野にしっとり咲く和みの花

2014-04-05 15:21:36 | 映画、ドラマ
 田中将大が初登板で初勝利を挙げた。先頭打者ホームランを浴びるなど立ち上がりは不安だったが、3回以降はさすがの投球を見せた。イチローもこの試合の主役だった。第5の外野手と呼ばれているが、不惑男の意地を見せてほしい。

 庶民が増税に苦しむ一方、安倍内閣は法人税を引き下げる方向で、〝改憲のお仲間〟渡辺喜美みんなの党代表は8億円借入問題で世間を騒がせている。政治家の金銭感覚にはあきれてしまうが、俺に必要な金はいかほどだろう。出版不況の折、俺より有能な同業者(フリーの校閲)の多くは辛酸を舐めている。今以上を求めたらきっと罰が当たる。

 100万㌦(約1億円)に纏わるドラマと映画を続けて見た。「CSI:ニューヨークファイナル」(WOWOW)の♯11「コマンド+P」の冒頭、ニューヨーク在住の10人に100万㌦の小切手が届けられた。匿名の篤志家の正体は、末期がんを宣告された検視官のシドだった。

 特許によって莫大な富を得たシドは、自身が検視に関わった悲運の死者と遺族のその後に心を痛めていた。シドは善意に基づき決断したが、おいしい話には大抵、悪意がある。「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」(13年、アレクサンダー・ペイン監督)は、虚偽の賞金的中(100万㌦)を知らせる手紙を受け取った老人と、その家族をめぐる物語だった。

 ウディ(ブルース・ダーン)と次男デヴィッド(ウィル・フォーテ)は、モンタナから送り主のオフィスがあるネブラスカに向かう。邦題のサブタイトル「ふたつ」が示すように、スタートと帰路は2人だが、途中で母ケイトと兄ロスも合流する。デヴィッドがインチキと知っていながら同行したのは、別れを切り出された傷を癒やすためだった。

 痴呆症と放浪癖で老人施設入りを勧められるウディは、自身を〝人生の敗残者〟と見做している。ニュースキャスターを務めるロス、オーディオ店経営者のデヴィッド……。堅実に生きる息子たちに何も残せなかったという忸怩たる思いに苛まれていた。何度も騙されてきたウディがネブラスカ行きに固執したのは、100万㌦に目がくらんだからではなく、<信じる>という自身の流儀に殉じるためだ。

 アメリカのロードムービーの主役は荒野だ。対向車はまばらで、都市があだ花のように点在する。レーガノミックス以降、アメリカを支えてきた中流階級は崩壊した。〝貧すれば鈍す〟ではないが、再会したウディの旧友や親族も、かつての矜持や倫理を失くしていた。仮想の100万㌦に踊らされ、ウディを脅迫する者までいる。故郷で人々の荒みを知ったウディの心境を、カンヌで最優秀男優賞を受賞したブルース・ダーンが巧みに表現していた。

 馴染みのない俳優がキャスティングされていたことで、本作はリアリティーを増す。他のモノクロ作品同様、物語は外から包むのではなく、内側に忍び寄ってくるのだ。俺の中でノスタルジーが溶け、父と息子の葛藤という普遍的テーマを、自分に置き換え体感していた。率直な物言いで周囲を圧倒するケイトに親近感を覚えたのは、俺の母のキャラと重なったからである。

 息子にとって存在感が希薄だった父は、旅の過程で光を放ちだす。朝鮮戦争では戦闘機の整備士と聞いていたが、負傷するまでパイロットだったと知る。何人もの女性のハートを射止めた父、憧れのマドンナだった母……。くたびれた老夫婦はかつて、誰もが羨む〝勝ち組カップル〟だったのだ。

 俺が父の意外な貌を知ったのは葬儀の際だ。閑職に追いやられ、中庭で日曜大工を始めた。同僚の要望に応えて作業する様子に焦った上司は、父を元のポジションに戻す。仕事で連携する警察で、父の怒声を恐れた幹部は時に居留守を使ったという。反骨精神に彩られた数々のエピソードを知り、死後になって父に敬意を抱いた。

 「ネブラスカ」は家族の絆、人生の価値、愛の意味を優しく問う作品だった。ウディとデヴィッドの心の荒野に和みの花がしっとり咲き、見る者にも潤いを与えてくれる。アカデミー作品賞にノミネートされた6作品を観賞し、オスカーを獲得した「それでも夜は明ける」を残すのみとなった。
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「灯台へ」~濃密で痛いウルフの世界

2014-04-02 23:02:38 | 読書
 プロ棋士とコンピューターが対決する電王戦3局は豊島将之七段がYSSを破り、人間側が初勝利を挙げた。豊島は仲間との研究会をパスし、YSSと実戦を積んだという(数百局とも)。残り2局にも期待したい。

 前稿の枕で書いたように、母はボケ防止のためプロ野球に親しむつもりでいる。龍谷大平安が優勝したセンバツは見たのだろうか。ちなみに、愛国心と愛校心には無縁で、勤め人時代は愛社精神ゼロだった俺だが、郷土愛だけは人並みにある。本日も仕事中、遠目にテレビ画面を眺めつつ、平安を応援していた。

 母は野球観戦より効果的なボケ防止策を既に実践している。それは読書で、この3カ月で15冊以上読んだという。母が「永遠の0」(百田尚樹著)を酷評していたことは別稿で記したが、読書傾向を勘案し、小川洋子、角田光代、宮部みゆき、横山秀夫あたりを見繕って送ることにした。

 俺はといえば昨年後半、本を途中で放り出すことが増えた。世代が近い日本の作家で心身をならし、ブログに感想を記してきたが、久しぶりに険阻な山に挑むことにした。積読本だったヴァージニア・ウルフの「灯台へ」(1927年)に恐る恐る手を伸ばし、何とか読了できた。子供じみた自己満足に浸っているところである。

 ヴァージニア・ウルフはジェームズ・ジョイスと並ぶモダニズムの旗手である。<意識の流れ>を作品の軸に据えたウルフは、フォークナーより10年早く文壇にデビューした先駆者だ。卒論、いや、修士や博士の研究課題に相応しい対象だから、俺はページを繰るのに必死で、光景を楽しむ余裕などない。時に闇を彷徨い、岩場を這いながら、頂上を目指した。ラムジー家の3人が灯台に到着するラストで一気に視界が開け、解放感を覚えた。

 表の主人公は8児の母であるラムジー夫人だ。生活臭と無縁の、毅然とした佇まいの女性で、50歳近くになっても男性の、いや、女性の目さえ惹きつけるほどの美貌を誇っている。モデルはウルフの母という。夫は英国を代表する哲学者だが、咆哮しながら歩いたり、感情を爆発させたりと野人の趣で、周囲を緊張させるタイプだ。末っ子のジェイムズ、そして画家のリリー(裏の主人公?)は、ラムジーが近づくと恐慌を来す。

 3部構成の本作は、10年以上のタイムラグを経た2日の出来事を追った物語だ。第1部「窓」はラムジー家の別荘での一日を、ラムジー夫人、リリー、他の登場人物、そして謎めいた語り部へと主観を移しながら綴っていく。主体と客体の乖離に違和感を覚えなかったのは、バルガス・リョサ、ガルシア・マルケス、ホセ・ドノソらの南米文学に慣れていたからだ。そもそも順番が逆で、ウルフの前衛的な試みにインスパイアされ、壮大な城を築いたのが南米の巨匠たちなのである。

 本作にはリリーがラムジー夫人に寄せる仄かな思いが記されているが、ウルフの革新性は性的アイデンティティーにも表れる。幼い頃に受けた性的虐待が作品に反映しているとされ、フェミニズムの提唱者に挙げられている。1年後に発表した次作「オーランドー」で、ウルフは性の超越を主人公に託す。メタ伝記風のファンタジックなスタイルは、サルマン・ラシュディに影響を与えたはずだ。

 第2部「時はゆく」では、第1次大戦を挟んで一変した時代の空気が淡々と記されている。ラムジー夫人の急死、アンドルーの戦死、出産後のブルーの死と一家の悲運を象徴するように、別荘は寂れ果てていた。ようやく修復がなされ、孤独、郷愁、喪失感に満ちた水彩画にフレームインするのがリリーだ。

 第3部「灯台」で老いたラムジーは、キャムとジェイムズを伴って灯台に向かう。第1部で灯台行きのピクニックを楽しみにしていたジェイムズの願いを拒絶したのが父だった。姉弟は父に憎しみを抱いているが、ジェイムズが漕ぐ小舟が灯台に近づくうち、葛藤は薄れていく。3人が乗る舟を眺めるリリーは、ラムジー夫人の不在を嘆きながら、カンバス中央に一本のラインを描き入れる。<わたしはようやく自分のヴィジョンをつかんだわ>のリリーのモノローグで本作は終わる。

 訳者である鴻巣友季子さんの解説に瞠目させられた。鴻巣さんは<このラインは絵をふたつの個に分かつものであると同時に繋ぐものでもあるのだろう。この一本の線がpassageとなって、ひとつの世界が完結したのだ>と解題していた。ふたつの個とは、ラムジー夫人とリリーで、旧世代を夫人に、新世代をリリーに重ねるウルフの意図をくみとっている。

 ラムジー夫人には「ダロウェイ夫人」のクラリッサ同様、ブルジョワジーの倦怠と憂鬱が色濃く反映されている。夫との間にある溝は、ウルフ自身の私生活の影響だろう。精神を病みつつ執筆するヴァージニアを、自殺に至るまで献身的に支えたのは夫レナードだ。本作における<奔放な夫、控えめな妻>は実際のウルフ夫妻と逆パターンではなかったか。「オーランドー」の主人公はウルフの当時の恋人がモデルという。それを考え合わせると、なかなか手ごわい女性だ。

 ウルフの作品は濃密かつ繊細で、しかも痛い。俺は別稿で<ウルフの小説は読む者の心を研ぐヤスリ>と評した。読書は時に苦行だが、ふやけた日常を送る俺には胃を荒らす〝文学の毒〟が必要なのだ。
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