酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

山中貞雄~未完で閉じられた伝説

2005-07-31 01:53:47 | 映画、ドラマ

 キネマ旬報が10年前、日本と世界に分けて「映画史上ベストテン」を選定した。100人ほどの選者によるポイント制である。邦画編で黒沢、小津、溝口に伍していたのが山中貞雄だった。「人情紙風船」(37年)が4位、「丹下左膳餘話 百萬両の壺」(35年)が9位、消失したデビュー作「磯の源太 抱寝の長脇差」(32年)が86位にランクされていた。現存するフィルムが3本だけというハンデを考えると、驚異的な高評価といえる。

 本稿では「評伝山中貞雄」(千葉伸夫著=平凡社ライブラリー)を基に山中の人生を紹介し、先日WOWOWで放映された「丹下左膳――」の感想も合わせて述べることにする。

 山中は京都一商卒業後、18歳で草創期の映画界に身を投じる。折しもサイレントからトーキーへの移行期、山中はシナリオライターで実績を積み、22歳で監督デビューを果たした。欧米の作品に影響を受けつつ、自らのスタイルを追求した山中だが、たちまち第1の壁にぶつかった。野心作「盤嶽の一生」が、検閲によって切り刻まれたのである。戦時体制が確立し、表現の自由は蝕まれつつあった。

 山中は長いアゴと巧まざるユーモアで、誰からも好かれる存在だった。仲間と酒を酌み交わし、映画以外の知識も積極的に吸収した。シャイな硬派で、女性は苦手だったらしい。そのせいか、「恋愛描写がいまひとつ」と評されたこともある。一方で、裏方や助監督には優しく接した。共同性を重視する山中の姿勢は、作品の完成度にもプラスに作用する。「街の入墨者」に出演した中村翫右衛門ら前進座の芸達者たちは、完成試写を見て一斉に泣き出した。自らの演技力を極限まで引き出す山中の技量に感激したからだという。

 映画人との交流の中で、特筆すべきは小津安二郎との<兄弟>関係だろう。山中が京都から東京に拠点を移したのは、小津の存在が大きかった。ともに遊び、飲み、語り、歌舞伎を見る。小津は6歳年下の山中を「ウィリアム・ワイラーになりうる器」と絶賛していた。山中も小津を慕い、アドバイスを頻繁に受けていた。

 以下に、見たばかりの「丹下左膳餘話 百萬両の壺」の感想を。ストーリー展開の妙、テンポの良さ、スピード感、音楽の斬新な使い方と、黒沢の代表作と比べても見劣らぬ、爽快で愉快なホームドラマ風時代劇だった。飄々とした左膳(大河内伝次郎)と独特のイントネーションのお藤(喜代三)の掛け合いが最高だが、二人のセリフには<逆手の話法>が繰り返し用いられている。柳生家所有の「百萬両の壺」が狂言回し役だが、次第にお上の事情はお構いなしになる。エンディングに<戦争より庶民の生活の方が大切>という山中の意思を読み取ろうとするのは、穿ち過ぎだろうか。

 「丹下左膳――」の後、山中は第2の壁に跳ね返される。<時代劇という表現形態の限界>と<大衆性と芸術性の狭間>に悩み、精彩を欠いたのだ。母親の死も大きかった。間もなく山中はスランプを脱したが、「人情紙風船」でその映画人生の幕が下りた。別項(6月5日)でも簡単に触れたが、同作は絶望的な暗さに覆われている。評伝の著者による的を射た分析を以下に示したい。<(前略)この映画のドラマは、市民的個人的レベルでの近代の日本へのひそかな闘いの敗北の叙述だったろうと思わせられる。敗北を確かめたとき、山本の魂は紙風船となって、黒々とした溝の闇のなかに吸いとられ遊離していったのだろう>(374㌻)。撮了後、山中は召集令状を受け取った。

 <(バンザイを)叫ぶ人の悲劇 叫ばれる奴の悲劇 喜劇かもしれない>と書き残し、山中は戦地中国に赴いた。過酷な転戦で心身をすり減らしたが、映画への思いは断ち切れず、幾つものアイデアを温めていた。病の床に臥しながら最期まで気遣いを忘れない姿に、戦友たちは涙したという。享年28歳、早すぎる天才の死だった。「人情紙風船」は映画史に燦然と輝いているが、山中自身「これが僕の最後の作品では浮かばれない」と述べている。先輩の伊丹万作監督(十三氏の父)は、「山中が発揮したものは本人の才能からすれば微々たるもの」と追悼の言葉を寄せていた。

 死の半年ほど前、山中と小津は南京で再会を果たした。30分ほど映画の話をし、「今度会う時は東京だ」と言って別れた。生死を分かったものは、紛うことなく運である。山中が生きていれば、映画史は大きく書き換えられ、<黒沢天皇>と異なる<柔らかな監督像>を提示したことだろう。死神から逃れた小津は数々の名作を送り続ける。志半ばで斃れた山中ら映画人の死が、創作の原動力になったことは想像に難くない。


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自由からの逃走?~閉塞感が漂う中で

2005-07-29 04:12:39 | 社会、政治

 高校1年の時、<自由>について初めてまじめに考えた。きっかけは国語の教科書に掲載された小林秀雄の評論である。<自由>は<自由な制度>ではなく、<自由を願う精神>の中に存在する……。論旨はこんな感じで、妙に納得した記憶がある。

 10代の頃、<自由>について思い巡らす格好の題材は、お隣の韓国だった。1973年に金大中事件が起き、翌年には「民青学連」のでっち上げで、金芝河氏が逮捕される。民主化のシンボルだった<二人の金>の生命は、風前の灯になっていた。騒然とする<不自由な韓国>を、<自由な日本>からを訪れた人がいた。日本ペンクラブの理事、藤島泰輔氏と白井浩司氏である。74年のこの日(29日)、ペンクラブは大混乱に陥った。藤島氏らが「金芝河氏の逮捕は言論弾圧ではない」「韓国には<一定の自由>がある」と報告したからで、司馬遼太郎、有吉佐和子氏ら、抗議の脱会者が相次いだ。

 俺は早速、小林秀雄の一文を下敷きに、軸が定まらぬ青い頭脳を回転させてみた。藤島氏らの発言は明らかにピンボケだったが、ある考えが、浮かんでは消える。即ち、<自由>を求める精神が横溢する韓国の方が、<自由>を持て余す日本より<自由>かもしれない……。日韓問題に真剣に取り組む人たちにとり、唾棄すべき戯言に相違なかった。

 あれから30年、<自由>に関する限り、日韓の立場は逆転したのではなかろうか。光州事件の痛みを経て、復権した金大中氏が大統領に就任するなど、韓国民衆は変革のダイナミズムを体感した。先日の反米デモに見られるように、エキセントリックな傾向はあるが、<自由国家>として地歩を固めているように映る。

 一方の日本はといえば、「ヒッキー」、「ニート」と若者のベクトルは内側に向かった。大人たちも元気がない。森永卓郎氏は「TVタックル」で、「(サラリーマン増税のような方針に対し)フランスなら全土でデモが起き、韓国なら労働者が火炎瓶を投げている」とコメントしていたが、日本では抗議の声は上がらない。「物言えば唇寒し秋の風」的状況である。

 俺が学生の頃(70年代後半)、大学は既に閉塞感が漂っていた。大半の学生は、環境保護のような穏当なアピールに対しても署名を拒否していた。自分の名が企業に流れたら就職出来なくなるというのが言い分である。「アホな」と思ったが、彼らの不安が的外れではなかったことが明らかになる。早大で江沢民中国主席が講演を行った時(98年)のこと、大学当局は参加した学生の名前と住所のリストを警察に渡していた。戦前の治安維持法下でも、「学の独立」を謳う以上、こんな情けない事態は起きなかったと思う。この事件が氷山の一角だとしたら、日本はかなり高度な<警察国家>ということになる。

 20年近く前、俺が勤め人になって間もない時期の話である。全社的な講習会が近くの区民館で開かれた。平均年齢が低く、10分足らずの会場まで徒歩で向かう若者の群れに、不審の目を光らせていたのが公安担当者だった。後日、区民館や会社に問い合わせがあったという。これが<集会の自由>を憲法で保障している日本の現実だとしたら、北朝鮮の<不自由>を嗤うわけにもいかなくなる。<与えられた自由>は、いまだ血肉化に至らずなのだろうか。

 最後に、気になっていることを。その一。CMで頻繁に流れている「永谷園ウーロン茶漬け」の実物が見つからない。どこで売っているのだろう。その二。世界水泳でフライングする選手がいない。ミュンヘン五輪で田口選手は、確信犯的にフライングして、不敵な笑みを浮かべていた。ルールが厳しくなったのだろうか。

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逮捕から29年~<田中的>の現在

2005-07-27 03:28:47 | 社会、政治

 学生時代、岡野加穂留氏(後に明大学長)に怒鳴られたことがある。同氏は週に1度、俺の大学でも講義されていた。ある日のこと、最後方の席に座った俺は、暑さしのぎにノートをパタパタ振った。その様を見咎めた同氏は、「角栄みたいなマネするな」と俺を指差し、一喝されたのだ。角栄みたいなマネ? なるほどと思い、立ち上がって頭を下げた。扇子で風を起こすのが、田中元首相のお決まりの動作だったからである。田中氏を「民主主義の破壊者」と断じ、誰より糾弾されていたのが岡野氏だった。一学生の失礼な振る舞いに、敵の姿がダブったに違いない。

 田中氏がロッキード事件に連座して逮捕されたのは、1976年のこの日(27日)である。暑い日と記憶していたが、調べてみると東京の最高気温は30度だった。9時(逮捕10分後)に29度に達していたから、暑い朝ではあったのだが……。田中氏は立花隆氏が先鞭をつけた金脈追及により、首相の座を辞していたが、逮捕によって「完全無欠のヒール」になる。<田中的>という言葉が悪い意味の修辞として国民に定着した。

 ロッキード事件をアメリカの陰謀とする論考も少なくない。田中氏は首相就任直後(72年)、「アメリカ製航空機を3億2000万㌦以上購入せよ」というニクソン大統領の要求を呑んでいる。首脳会談での約束を実行する過程で起きた出来事ゆえ、さまざまな憶測を生む結果になった。独自の資源外交を展開する田中氏が、アメリカの勘気に触れたことを事件の理由とする説もあるが、いずれにせよ、真相は薮の中だ。

 俺も若い頃は<田中=悪>という公式に則っていたが、今さら正義面して論じる気はしない。別項(宮本常一関連=1月13日)に、田中型補助金行政が民衆の自立の芽を摘むという側面を記したが、繁栄から取り残され、冷害、雪害に苦しむ地方の人々の目に、田中氏もしくは<田中的>存在が頼もしく映ったことは否定出来ない。

 田中氏の実績は表でも裏でも、ルーキー時代から飛び抜けていた。20代で代議士になるや、第2次吉田内閣誕生の功労者となる。炭鉱国管汚職事件で逮捕されるも、獄中から立候補して2度目の当選を果たす(後に無罪)。いかにもという感じだが、汚職は決して田中氏の専売特許ではない。戦後の首相経験者に限定し、黒い経歴を追ってみる。

 造船疑獄に関与した池田、佐藤の両氏は、指揮権発動で辛うじて逮捕を免れている。ちなみに同件で、清廉のイメージが強い石橋、三木の両氏まで事情聴取されている。田中氏のライバルだった福田氏は大蔵省時代、昭電疑獄に連座し収賄容疑で逮捕された。鈴木氏も共和事件で証人喚問されているし、細川氏は佐川急便問題で政権を放り出した。橋本氏は日歯連事件が記憶に新しい。

 岸氏も造船疑獄で事情聴取されるなど、黒い噂が絶えなかった。リクルート事件に直撃されたのが中曽根、竹下、宮沢の3氏である。とりわけ中曽根氏は、「塀の上を歩いても内に落ちない男」と評されるほど疑惑まみれだったが、見事逃げ切り大勲位である。<田中的>な腐敗の罪を田中氏一人に着せるのは、正しい見方ではないと思う。

 ロッキード事件のキーマンは児玉誉士夫氏だった。田中氏ら大物政治家、全日空や丸紅の関係者も、児玉氏のシナリオ通りに動く役者に過ぎなかったはずである。児玉氏といえば戦時中、児玉機関を興して天文学的な富を築いた。A級戦犯で下獄しながら釈放され、CIAの協力者になる。保守合同のスポンサーでもあり、黒幕として政界を動かした。ロッキード事件がアメリカの陰謀だとしたら、田中氏追い落としより、巨大になり過ぎた児玉氏との縁切りが目的だったのかもしれない。失脚した児玉氏に代わり、闇将軍に鎮座したのが田中氏というのも、皮肉な話ではあるが……。、

 他の首相経験者に比べ、反<田中的>を旗印に政界を泳いできた小泉氏には清潔感がある。だが、その小泉氏さえ、田中氏と無縁ではない。森前首相とともに小泉政権を支える青木参院会長は、<小田中>として政界を支配した竹下氏の大番頭で、<田中的>の継承者なのである。いや、カンフル剤的な田中氏と比べ、恒常的で柔らかい仕組みを作り上げた竹下―青木ラインは、<進化した田中的>といえなくもない。小泉氏と青木氏が長年にわたって昵懇であるという事実に、権力構造の底に潜むものを感じてしまう。

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炎のごとく~ダイアン・アーバスが問いかけるもの

2005-07-25 04:50:19 | カルチャー

 1971年の夏、ダイアン・アーバスは自ら命を絶った。享年48歳、あす(26日)が命日に当たる。本稿ではダイアンの伝記である「炎のごとく」(パトリシア・ボズワース著)を下敷きに、論を進めたい。

 ダイアンは23年3月14日、ユダヤ系の大ブルジョア、ネメロフ家の第2子としてニューヨークに生まれた。後に詩人、作家としてピュリツァー賞に輝く兄ハワードとの絆は強かったが、両親との関係は希薄だった。ダイアン自身、<わたしは孤児だった>と語っているほどである。<仮面家族>で育ったダイアンには、幼い頃から他者との奇妙な距離感――爪弾きされた者へのシンパシー――が芽生えていた。

 <(上流階級から)全力をあげて這いおりてきた>という回想通り、ダイアンは資産家の娘たる自分自身に反逆する。アラン・アーバスと恋に落ち、父の反対を押し切って18歳で結婚した。二人の娘の母として家庭を守りながら、ファッション写真家のアランに協力する。助手、メイク担当、アドバイザーに徹し、業界では<共生生物のような夫婦>として知られるようになる。

 美貌と独特の存在感で周りの者を魅了したダイアンだが、アランと組んでいる時期は奔放さを抑えていた。例外はアレックス・エリオットで、トリフォーの「突然炎のごとく」そのものの三角関係を演じたことは、伝記のタイトルが物語っている通りだ。<すべての形は正しく見れば美しい>というアレックスの言葉は、ダイアンを大きく触発したようだ。

 アランとの20年間のコンビを解消したダイアンは、独自の道を歩み始める。対象はホームレス、障害者、フリークス、倒錯者、異常者たちであった。師と仰いだリゼット・モデルは、<ダイアンの写真の多くは、自分の心にとりついている顔や夜の世界から自分を解放するために撮られたもの>と述べている。畏れとともに封印していた内なる<怪物>が、30代半ばにして覚めた。

 <ダイアンはあらゆるものの真実の姿を暴露したが、それは世の終末をあらわしているようだった>(「エスクワイア」誌編集者)、<ダイアンにカメラを与えるのは、赤ん坊に手榴弾を与えるようなもの>(ノーマン・メイラー)……。本書は数多くのダイアン評を紹介している。近代美術館で催された「ニュー・ドキュメンツ展」を経て、ダイアンは方法論のみならず、<フラッシュを直射して正方形の画面にまとめる>技法で、多くのフォロワーを生むことになる。革新者としての名声は得たが、生活は不安定のままで、金を稼ぐための現場では<禿鷹のように襲いかかり、フラッシュをたく>ことも厭わなかった。ダイアンをパパラッチの先駆と位置づける者もいる。

 ダイアンは独立後、多くの男女と性的関係を持つようになる。アランは再婚し、敬愛するマーヴィン・イズラエルには愛する妻がいた。セックスでは埋められない孤独が、ダイアンの心を次第に蝕んでいく。死の直前、ダイアンは少女時代のジレンマ――傑出していることの畏れ――と闘っていた。「ベネチア・ビエンナーレ」へのノミネートも、写真家として前例のない栄誉であり、エール大学からは開講の誘いを受けていた。本人の意思に反し、神格化され、「生ける伝説」になりつつあった。
 
 ダイアンの死後、追悼写真展が各地を巡回し、その名は世界に知れ渡った。キューブリックの「シャイニング」(80年)も認知度アップに貢献する。映画に繰り返し現れて恐怖を呼び覚ます「双子の女児」のイメージが、ダイアンの写真からの借用であることは明らかだった。双子(時には三つ子)もまた、ダイアンが執着したテーマの一つだった。  

 <ダイアンは人間の孤独の性質と、孤独に陥るまいとして涙ぐましい努力をする人間の姿を追求した。超自然的な能力で被写体と同化し、自ら侵害したように見えるプライバシーを浄化した>……。著者のアーバス論で印象的な部分をパッチワークすれば、上記のようになる。写真の世界は門外漢ゆえわからないが、ダイアンの精神を継ぎ、次代のニューヨークの女王に鎮座したのが、詩人、パンクロッカーとして一世を風靡したパティ・スミスだと思う。エキセントリックでストイック、スキャンダラスな点も共通している。

 80枚の写真から成る「ダイアン・アーバス作品集」をめくってみる。一枚一枚の迫力に息を呑んでしまう。目をそむけたくなる写真に対峙し、鈍いしこりを消化することが、自らの浄化に繋がるような気がしてならない。

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ジャン・ルノワール~醒めた目の観察者

2005-07-23 05:02:00 | 映画、ドラマ

 ジャン・ルノワールの「ゲ-ムの規則」(39年)と「草の上の昼食」(59年)をシネフィル・イマジカで見た。感想を以下に記してみる。

 「ゲ-ムの規則」は映画史上ベストテンで上位にランクされているが、公開当時は評論家にも観客にも無視されたという。同時代のカルネやデュヴィヴィエの宿命に彩られた作品群と比べると、本作は明らかに異質だ。ラ・シェネイ侯爵の別荘を舞台にしたソープオペラ風群像劇で、その手法がアルトマンらに影響を与えたことは想像に難くない。ルノワール自身が挫折した芸術家役で出演している点も興味深い。

 侯爵夫人のクリスチーヌは、物憂げな佇まいで男たちに色目を流し続ける。彼女への思いを胸に大西洋横断飛行に挑んだアンドレに対しても、その一途さに危険を感じた途端、冷たく振る舞う。クリスチーヌに限らず、登場人物たちが望んでいるのは、<崇高な愛>ではなく、<一夜のアバンチュール>なのだ。「ラ・シェネイは(貴族という)階級を守った」というラストの将軍の述懐が、体裁を繕い、傷つかないで生きるための<規則>を雄弁に物語っている。上流階級は自らを守るために罪を共有し、いかなる犠牲も顧みない。支配層のモラルの紊乱を暴くことは、第2次大戦を控えた時期、寛容なフランスにおいても御法度であったはずだ。ルノワールの不遇は、虎の尾を踏んだせいと推測するしかない。

 本作で思い出すのがフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」だ。「ゲーム――」はフランス、「華麗なる――」はアメリカと国は違えど、20~30年代の上流階級の堕落を描いている。ブルジョア出身ではないロマンチストの男が、愛と夢を追いながら非業の死を遂げる結末も、不思議なほど似ている。

 「草の上の昼食」は設定に妙のある社会派コメディーだ。アレクシ教授は人工受精の適用を掲げ、「ヨーロッパ連合」の初代大統領選挙に立候補する。その考えに共鳴した田舎娘ネネットは、召使としてアレクシ家に潜り込んだ。アレクシの理論たるやナチスの優生学そのまま、婚約者のいでたちもヒトラー・ユーゲントと、ブラックユーモアに満ちている。森の中で催された婚約パーティーは、羊飼いの笛が招来した嵐で大混乱に陥り、アレクシとネネットが置き去りにされる。水浴びするネネットの裸体を覗き見たアレクシは、本能の赴くまま、主義に反する行為に走ってしまう。ネネットと恋に落ち、その実家に居候するアレクシだが、彼を利用せんと企む者に連れ戻され、二人は引き離された。すべて旧に復したかに思えた刹那、意外な方向に急転回する。

 本作は父オーギュスト(印象画の巨匠)に捧げられた自然賛歌だ。豊満で開放的なネネットは、父の絵から抜け出た裸婦そのもののイメージである。ルノワールは孤高の巨匠という先入観があったが、いい意味で肩透かしを食らった。作品はユーモアと皮肉に満ち、自嘲的で逸脱している。<醒めた観察者>が実像ではなかろうか。


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逆流する歴史~<戦後ではない>から49年

2005-07-21 12:37:18 | 社会、政治

 小泉首相の功績(功罪?)の一つは、<戦後が終わっていない>ことを白日の下に曝した点にある。郵政法案否決→衆院解散→靖国参拝→総選挙という道筋を辿れば、<戦後の在り方>が郵政以上の焦点になる可能性もある。

 <もはや戦後ではない>が流行語になったのは1956年のこと。同年7月に発表された「経済白書」に含まれていた言葉だが、中野好夫の一文から借用したものだという。56年が本当に戦後ではなかったのか、「昭和史全記録」(毎日新聞社刊)を参考に検証してみよう。
 
 同年5月に売春防止法が成立する。赤線女子従業員は組合を結成し、売防法に反対していた。結果的にザル法だったことは、皆さんがご存じの通りである。売春といえば、タイ人少女をめぐる問題がマスコミを賑わせているが、当時の供給源は国内だった。冷害で娘を売るという深刻な構図は、戦前と変わらなかった。世論を排外主義→太平洋戦争に導いた農村の疲弊が、たやすく克服されるはずはなかった。

 東京や大阪に出現した公団住宅が、経済発展の象徴だった。水洗トイレ、ガス風呂付きで家賃は4000~5000円だったが、神武景気の恩恵に与った地域は限られていた。市街地の3分の1を消失した能代大火の原因は、水道の不備である。大都市圏と地方の格差は広がる一方だった。

 鳩山首相(由紀夫、邦夫両氏の父)は小泉首相ばりの強引な手法で、日ソ共同宣言にひた走った。郵政同様、自民党内に反対意見が根強く、党内抗争が起きていた。議決直前の賛成討論で「涙をのんでやむなく賛成」と述べ物議を醸したのは、若き日の中曽根元首相である。鳩山首相といえば、小泉首相も遠く及ばない放言癖があり、「自衛隊は憲法違反」「自衛のための攻撃は可」と超弩級の失言を連発していた。

 日ソ共同宣言の批准に合わせ、1000人以上の抑留者が解放される。戦後11年、ソ連の非人道的な体質には驚くしかないが、帰国者の妻のうち1割以上が再婚していたという事実も、戦争の悲劇を物語っている。兵士の帰郷は北からだけではない。フィリピンやインドネシアからも、敗戦を知らずに過ごした旧日本兵の帰郷が相次いだ。<戦後>どころか<戦時>のまま戦っている日本兵は相当数に上るという証言も「昭和史全記録」に掲載されていた。<もはや戦後ではない>は戯言に過ぎなかったのか。今年5月に世間を驚かせた旧日本兵問題の根は、実に深かったのだ。

 時代の寵児は太陽族の石原兄弟だった。慎太郎氏は前年「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、この年デビューした裕次郎は瞬く間に大スターになった。今や都知事として取り締まる側の石原氏だが、「慎太郎刈り」は当時の不良のシンボルだった。同氏原作の「処刑の部屋」に刺激されて暴行事件が起きるや、「慎太郎もの」の上映自粛を求める声が全国に広がる。まさに「社会の敵」扱いだったが、太陽族より質の悪い集団が街を闊歩していた。暴力団の人材源というべき愚連隊である。

 三島由紀夫の「金閣寺」、石川淳の「紫苑物語」はこの年に発表された。映画はというと、キネ旬1位は今井正監督の「真昼の暗黒」だった。キネ旬に限ると、トップ10が23作、そのうち5作が1位と、今井監督の高評価は群を抜いていた。反体制の側に立ち、リアリズムに徹した姿勢が支持された理由かもしれない。
 
 上げ底気味の<もはや戦後ではない>に並ぶ流行語は、大宅壮一の<一億総白痴化>だった。世紀をまたいで振り返ると、<一億総アメリカ化>が正しかったように思えてくる。56年といえば、俺が生まれた年でもある。<戦後ではない年>に産声を上げ、49年後の今、<終わっていない戦後>の真っただ中を生きている。不思議な感じがしてならない。

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函館は昼行灯?~朝と夜に輝く街

2005-07-19 11:03:27 | 戯れ言

 3泊4日で函館を訪れ、時間に縛られず街を満喫した。昼行灯というと語弊はあるが、函館は朝と夜に輝きを増す街だと実感した。

 朝市の起源は戦後の混乱期、かつぎ屋たちが駅前で開いた闇市というが、その熱気たるや凄まじい。「わが店こそ一番」との触れ込みで、客引きのかまびすしいこと、ねちっこいこと。猥雑であけすけな空間である。評判の食堂には観光客が群がっている。<列の長さは味と比例>の<公式>に則ると、「きくよ食堂」と「あけぼの食堂」が人気の双璧か。ハシゴして食べてみたが、言うまでもなくおいしかった。

 昼の函館は魅力を隠している。五稜郭にしても7~8月は夜こそのスポットだ。週末には特設ステージで野外劇が演じられ、花火も上がる。教会通りや赤レンガ街も同様だ。夕刻にはライトアップされ、息を呑む美しさを湛えている。函館山からの夜景だが、「着きました、これが完成した夜景です、帰りましょう」なんてツアーは避けるべきだ。今回は日没1時間前から展望台に陣取った。薄暮から闇が海にこぼれるまで、萌えた光が街を織っていく情景に強く心を打たれた。

 函館はお化粧上手の街と思われるかもしれないが、それは誤解だ。ディズニーランドのような<人工的目くらまし>と大いに異なり、スッピンの頬には歴史の皺が刻まれている。どこか京都――それも1970年前後の――に重なる部分がある。市電は走っているし、高い建物もない。整然として落ち着いた街並みは、いい具合に寂れている。開明的で自由な土壌ゆえか、亀井勝一郎や辻仁成といった作家たちを輩出している。石川啄木や井上光晴も函館にゆかりある文学者だが、ともに「反逆」と「不遇」のイメージが濃いのは、街の風土と関係しているのだろうか。

 現地で目に付いたのが太めの女性だった(失礼)。食道楽には最高の街で、牛みたいに胃が四つあればと思ったほどだ。頻繁に耳にしたのが中国語である。家族連れ、若者グループに限らず、かなりの数の中国系観光客が函館を訪れていた。

 競馬場は予想通り、小ぢんまりして快適だった。元も取れたし、言うことなしである。一休みしてから飯を食いにホテルから出ると、浴衣姿の女性が目の前で連なっていた。花火大会らしい。後を追い、3分足らずの所に腰を下ろす。音楽とのコラボレーションという趣向だったが、火薬の匂いが漂う特等席で、二十数年ぶりのページェントを楽しんだ。

 函館通気取りでアドバイスを。重複するが朝は食い、昼はおとなしく、夕方から張り切るプランを立てること。大概のホテルは宿泊者の都合に合わせ、掃除時間を調整してくれるはずだ。移動手段だが、函館は狭い街だし、歩き>市電>バスの順で考えればいい。五稜郭や外人墓地まで足を延ばす時は、市電の一日乗車券がリーズナブルだ。夜景を見る際に混雑を避けたいのなら<行き=バス、帰り=ロープウエー>をお薦めする。ロープウエーを降りて坂を下ると、数分で電停「十字街」に着く。そこから函館駅まで、歩いても10分ほどの距離である。

 昨夜、梅雨明けの東京に戻ってきた。暑さと湿気にうんざりしてしまう。啄木じゃないが、人生の最後は函館って気にもなる。何か仕事があればいいが……。

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函館にて~コルトレーンを聴きながら

2005-07-17 10:35:52 | 戯れ言

 今、函館のネットカフェにいる。失踪? いや、旅行中。函館は“My Favorite Town”だし、小金を掴めばひっそり住みたい街だ。

 俺は函館が好きである。なぜかというと……。

 いい具合に寂れていて、自分の体温や湿度と合っている。食いしん坊ゆえ、新鮮な魚介類を満喫できるのもいい。異国情緒たっぷりで、文化の薫りがする。ウオーキングコースにも事欠かない。競馬場まであるから好都合だ。府中や中山の喧騒は好きになれないが、函館ではゆったり楽しめそうだ。

 CDウォークマンでコルトレーン聴きながら、ブログを更新している。アルバムのタイトルはくしくも“My Favorite Things”。今日(17日)はコルトレーンの命日だし、旅の友に選んでみた。ノスタルジックで落ち着いた音は、函館にとても合っている。

 これから五稜郭を訪ねる。もちろん競馬場にも足を運ぶ。以下に予想を。

 9RマリーンSは◎③ラントゥザフリーズ、○⑤ハードクリスタル、3着付けで▲⑩グランパティシエ。10R北海HCは◎④アップルアロー、○①ニューヨークカフェ、3着付けで▲③ミキノマーベラス。3連単中心に考えているが、堅めの予想だし、当たったところで旅費を稼ぐのは難しそうだ。ついでに北九州記念は、④ヴィータローザと③チアズメッセージを軸に3連単で。

 ってな感じで、今回はサラッと。胃の方はサラッどころか、美味いものを食い過ぎて重くて仕方ない。次回は旅行記を書くつもり。

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「絞死刑」が問い掛けるもの

2005-07-15 01:01:30 | 映画、ドラマ

 日本映画専門chで大島渚監督の「絞死刑」(68年)を見た。

 冒頭、<死刑制度に反対ですか、賛成ですか>と字幕で問い掛け、<死刑廃止反対71%、廃止賛成16%>の世論調査(67年、法務省)の結果が示される。さらに<死刑場を見たことはありますか>と続き、死刑執行の場面が映し出される。目隠しされてぶら下がったRの肉体は<死刑を拒否する>。執行完遂を目論む関係者は、蘇生したRの記憶を回復させようと試み、ブラックユーモアに満ちた不条理劇が展開する。

 下敷きになっているのは、58年に起きた小松川高校事件だ。劇場犯罪の要素もあり、マスコミの反応も過熱気味だった。「R」すなわち同校定時制に通う李珍宇被告が逮捕され、もう一件の殺人も自供する。翌年の第一審では、未成年にもかかわらず死刑判決を受けた。検事は論告求刑で「人間としての生存価値はない」と述べている。

 李被告は朝鮮人集落の中でも極貧の家庭で育った。優秀な成績で中学を卒業するが、差別ゆえ大企業に採用されず、就職先が倒産するなど辛酸を舐めていた。ドストエフスキーやゲーテに親しみ、獄中でカトリックに帰依した。更生の可能性も高く、大岡昇平らによる減刑嘆願運動も起きたが、62年に刑が執行された。

 映画の後半、チョゴリを着た空想の女が登場し、朝鮮人としてのアイデンティティーをRに説く。Rは女に「僕が殺した人たちも、一枚ヴェールがかかったようにしか感じられない」と告白した。Rの現実への疎隔感は、抽象的でありながら触感を伴う女の存在により克服される。

 贖罪意識に目覚めたRだが、「僕を有罪とする国家がある限り無罪です」と主張する。「君のそういう思想を生かしておくわけにはいかない」との検事の言葉に納得したRが、「あなた方を含め、すべてのRのために、Rであることを引き受け、今死にます」と話すと、踏み板が外された。だが、吊るされたはずのRの肉体は消えている。大島監督は、国家の抽象性を提示したかったのだろうか。

 Rを演じた尹隆道以外は、佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏、小松方正、奥さんの小山明子と、おなじみの顔ぶれが脇を固めている。さらに、教誨師役の石堂淑朗(脚本家)、保安部長役の足立正生(映画監督、日本赤軍結成メンバー)、検察事務官役の松田政男(評論家)と、大島ファミリー総出演といった感がある。

 メーンテーマである死刑についてだが、容認派が漸増傾向にあるという。直近の世論調査(総理府)でも「場合によってやむをえない」が80%を超え、そのうちの60%強が「将来も廃止すべきでない」と答えていた。

 殺人が死刑に値すると仮定しても、起因するものを一括りに出来ない。個人的感情、通り魔、ゲーム感覚、テロ、戦争、企業や医療機関の過失……。死刑の是非について明確な意見を持てるほど、俺はまだ成熟していない。25年以上前の映画館、15年前のレンタルビデオに続き、本作は3度目の観賞だったが、次に見る時まで――そんな機会があればだが――、自分なりの答えを出しておきたい。

コメント (1)
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「列車に乗った男」~交差しない二つの影

2005-07-13 00:59:55 | 映画、ドラマ

 WOWOWで録画した「列車に乗った男」(02年)を見た。パトリス・ルコント監督らしく、<出会い>に工夫が凝らされた作品だった。感想を以下に述べたい。

 くたびれた中年男が鄙びた駅に降り立った。ブルートーンの画面、流れ者のミランを拒否するように、シャッターが閉ざされていく。ミランは薬局で初老の元教師、マネスキエと知り合った。“Boy meets girl”ならぬおじさんたちの<出会い>だが、一瞥をくれた瞬間、互いの中に自分と同じ匂いを嗅いだ。

 ミランが<さすらう人>なら、マネスキエは<とどまる人>である。共有するのは孤独だけだが、表現の仕方は大きく異なる。絆を求めないミランに対し、マネスキエは常に<出会い>を求めている。施錠されていない門と玄関が、その心情を端的に表している。

 公式HPに紹介されている通り、アラゴンの「ポンヌフ(新橋)でわたしは会った」が作品の骨格を成している。<ポンヌフでわたしは会った 人生の端にいたわたしの影に あけぼのにいたわたし自身に あの頃のようにきょうも煙って>(大島博光訳=以下同)の一節が、二人の<出会い>と重なっている。人物設定も然りだ。マネスキエは老境に達しても、<ひたすらうつろな妄想にふけり 根も葉もない詩などにとり憑かれ 夢想のとりこだった二十歳の若者>のままだ。一方のミランは、<ノートル・ダムの塔の間を はぐれてさまよう鳩のような こころも荒んだ遊び人>である。

 罪と善、暴力と慎み、放埓と禁欲……。来し方が対照的な二人の影は、人生の黄昏を迎えて歩み寄る。互いの生き方を理解し、憧憬まで覚えるようになる。<ポンヌフでわたしは会った 仮装したもうひとりのわたしに そうしてかげってゆく陽ざしのなかで かれはそっとささやいた 「同士よ」と>。だが、影は重なることなく離れていく。最後の食卓、マネスキエはアラゴンの詩集をミランに贈る。3日間の共同生活が終わると、二人はそれぞれの死地で、<かつてわたしの光だった おんなじ夢>を見ながら息絶えた。二つの魂が入れ替わり、戯れるかの如きラストシーンが強く胸を打った。

 朝10時に一言だけ発する運転手、パン屋の逸話など隠し味は効いていたが、ミランを演じたフレンチロックの巨人、ジョニー・アリディの存在感には圧倒された。色気、毒気、哀愁、諦念が全身から滲んでいた。

 アラゴンは<女は男の未来だ>や<幸せな愛はない>というアフォリズムでも知られるシュールレアリストだ。スノッブ御用達と思いきや、世界中のまじめな先生に支持されている。<学ぶとは、誠意を胸に刻むこと。教えるとは、ともに希望を語ること>というアラゴンの言葉は、教育者に強い感銘を与えるようだ。

 同じくルコント監督作の「橋の上の娘」(99年)をシネフィルイマジカで見た。宿命的な愛の形が描かれており、繰り返し流れるマリアンヌ・フェイスフルの声も印象的だった。

コメント (3)
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