酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「リッキー足立のコスタリカ・トーク~〝まぼろしの鳥〟ケツァールを求めて」に参加して

2017-02-27 22:56:22 | カルチャー
 将棋のA級順位戦最終局で稲葉陽八段が森内俊之九段を破り、8勝1敗で佐藤天彦名人への挑戦を決めた。20代対決の名人戦は21年ぶりだ.当時の対局者、羽生善治3冠は今期の勝率が5割5分弱、もう一人の森内はB級1組陥落と、世代交代の波が押し寄せている。

 俺が楽しみたいのは盤上の闘いだが、盤外がざわついている。三浦弘行九段のソフト不正疑惑問題を巡る騒動は収まる気配がない。本日の棋士総会では3人の理事が解任された。この際、外部の有識者を招き、再生の道を歩むべきだと思う。

 棋界の内紛、安倍晋三小学校(塚本幼稚園)、トランプ暴走……。「リッキー足立のコスタリカ・トーク~〝まぼろしの鳥〟ケツァールを求めて」(高円寺グレイン)に参加して、憂鬱な気分が一瞬晴れた。足立力也氏は「丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略」(扶桑社文庫)などで知られるコスタリカ研究家だ。留学を含め何度も当地を訪れており、政治家にも知己は多い。

 足立氏を知ったのは一昨年のグリーンズジャパン総会だった。「丸腰国家」再版を報告し、「この出版社(扶桑社)には異質の本です」と笑いを取っていた。「コスタリカ・トーク」には志葉玲氏(ジャーナリスト)も娘さんとともに足を運んでいたが、野鳥の会などバードウオッチャー、自然愛好家が多くを占めていたこともあり、政治抜きの穏やかな会になった。

 グアテマラの国鳥であるケツァールをはじめ、中米は野性動物の宝庫だ。とりわけコスタリカの雲霧林に棲息するケツァールは評判を呼び、重要な観光資源になっている。「火の鳥」(手塚治虫)のモデルになったようにカラフルな容姿はひときわ目を引く。周到に準備していただけあって、足立氏が撮影したレアな画像と映像に、野鳥の会の人たちも感嘆の声を上げていた。ケツァールは薄暗い雲霧林に同化せず、カラフルな彩色を施したかのようだ。

 雲霧林にはケツァール以外にも、昆虫、両生類、サル類など珍しい種が棲息している。微笑ましいのはホバリングを繰り返すハチドリで、親近感を覚えるのがナマケモノだ。一日に20時間眠り、週に1回、排泄のために木から下りるという。俺の前世、いや来世かもしれない。弱肉強食の掟より、共存と共生の志向を感じたのは俺だけだろうか。

 「丸腰国家」について簡単に紹介しておく。今後、憲法や平和を論じる稿で、日本と重ねて言及することになるだろう。コスタリカに軍隊は存在しない。国境警備隊、警察を〝疑似軍隊〟と見做して論じる向きもあるが、コスタリカ人にとって、<軍事化>とは軍隊で見られる暴力性、上意下達と集団化を指す唾棄すべき言葉なのだ。

 本書は足立氏の〝青春日記〟風の味わいもある。足立氏は中学時代の公民の授業でコスタリカを知った。「コスタリカ人は、軍隊がないことが最大の防衛力と考えている」という新聞記事の切り抜きに受けた衝撃が冷めず、コスタリカに留学することになった。博士課程1年目、スペイン語が堪能ではないのに、哲学が必修科目に含まれていた。悪戦苦闘するうち、足立氏は社会科学、人文科学を学ぶ上での道筋を体得する。

 コスタリカを含む中米は〝火薬庫〟といっていい紛争続発地帯だ。権力者を思いのまますげ替えるアメリカの力をコスタリカは利用し、自国が民主主義国であることを欧州各国に印象付ける。巧みな外交に加え、徹底した平和教育で、平和と非武装はコスタリカ人の〝内在する価値観〟になる。

 足立氏が街行くおばさんに「平和とは何?」と尋ねると、「自由」と返ってくる。日本の小学5年生に「平和で連想する言葉は何?」と聞くと対語である「戦争」が返ってくるが、同年齢のコスタリカの子供からは「民主主義」「人権」「環境」「愛」と多彩な答えが返ってくるという。

 生物多様性、環境保護を早い段階から政策に取り込み、教育費と医療費が無料のコスタリカは、果たしてパラダイスなのか……。実態を知る足立氏の答えは「NO」だ。役人の腐敗、麻薬の蔓延、格差と貧困の拡大、公共サービスの質の低さなど、問題点は数え切れない。それでも、日本が学ぶことは多い。最たるものは<自由の気風>かもしれない。

 終了後、志葉氏と話す機会があった。劣化ウラン弾が投下され、ヒロシマ、ナガサキを彷彿させる状況を現出させたファルージャ空爆について、小泉純一郎元首相に問いただした時の様子を尋ねた。<小泉氏は脱原発を語る資格はない>と決めつけていたが、志葉氏によれば、バツの悪そうな表情を浮かべていたという。心の内の悔悛が、小泉氏を脱原発に駆り立てているのかもしれない。
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脈打つ点を繋げよう~「脱成長ミーティング」で決意したこと

2017-02-24 12:12:46 | 社会、政治
 鈴木清順監督の死が公表された。日活時代の怪作の数々にはあまりピンとこなかったが、例外は「けんかえれじい」(1966年)で、型破りな青春映画の金字塔である。「ツィゴイネルワイゼン」(80年)は清順美学の結晶で、同作で製作を担当した荒戸源次郎の監督作「赤目四十八瀧心中未遂」(2003年)は「ツィゴイネルワイゼン」の影響が窺えた。国内外に多くのフォロワーを生んだ映像作家の死を悼みたい。

 2週間ほど前の「報道ステーション」である疑問が解消した。トランプ大統領の経済政策を<保護主義≒反グローバリズム>と捉える論調が目に付くが、萱野稔人津田塾大教授は、<トランプは国境を超えた資本の行き来を奨励しており、決して反グローバリズムではない。TPPなど多国間交渉には否定的だが、圧力をかけやすい二国間交渉には積極的>(趣旨)と語っていた。専門家でも見方が別れるぐらいだから、経済は難しい。

 先週末、第12回公開研究会「脱成長ミーティング」に参加した。俺にとって3度目で、白川真澄さん(ピープルズ・プラン研究所)と高坂勝さん(SOSAプロジェクト理事、緑の党前共同代表)が発起人を務めている。ちなみに、緑の党大会で聞きした白川さんのトランポノミクス分析は萱野氏に近かった。今回のテーマは、<高坂さんの新著「次の時代を、先に生きる」をベースに、脱成長の意味を考える>である。

 冒頭で3人が同書に即してコメントし、高坂さんが応答する。1人目はSOSAプロジェクトに加わり、3年前に米作りを始めた田部知江子さんだ。弁護士として貧困、DV、イラク邦人拘束事件、ホームレス問題等に関わっている田部さんは、高坂氏の新著について<情緒的過ぎず、硬過ぎず、楽しむことを忘れず社会と向き合っている>と評していた。まさに高坂さんのキャラクターそのものである。

 2人目は整体師として心身のケアを生業にしながら、環境と農業、「希望のまち東京をつくる会」(宇都宮健児主宰)など様々な活動に取り組んでいる石崎大望さんだ。緑の党運営委員であり顔馴染みだったが、石崎さんお初心、現在に至る道程を知ることが出来て幸いだった。3人目の浅野健太郎さんは貧困をテーマに活動し、悩み苦しむ若者に寄り添っている。自身の経験を踏まえて前向きに語る明るいキャラクターに好感を持った。「反貧困ブログ」も俺とは対照的に、多くの読者を獲得している。

 官僚、バンカー、経済学者、カウンセラー、教育者らが集って重いテーマを議論するが、知と理に走ることはなく、互いの思いを酌み取り、和やかに進行するのが当会の特徴だ。今回も仕事を辞めて地方で農業に従事している人、派遣労働者、ミニマリストの若者らが意見を述べたが、<生き方、働き方を問う>が一貫したテーマである。
 
 株価、GDP、貿易収支と経済を測る指標は多いが、衆知を集めたアベノミクスは失敗し、トリクルダウンは起きなかった。鈍感な俺だが、コンビニやスーパーで愕然とするケースが増えてきた。食料品からティッシュペーパーまで、明らかに量が減る〝実質値上げ〟を体感するからだ。近くのスーパーでは8時過ぎ、半額になる弁当や総菜に客が群がっている。この場面こそ、格差と貧困が広がる日本の状況の象徴といえる。もっともらしい言葉より、実感の方が本質に迫れるのではないか。、

 高坂さんは数々のエビデンスを提示していた。<脱成長>には様々な要素が錯綜し、絡み合っている。前提になるのは公正と平等の理念で、地方分権と地産地消、ミニマリズム、半農半X、分散型資本主義(社会主義)、脱GDP、太陽光発電など環境との調和、ワークシェアリング、ダウンシフトだ。政策的にはセーフティーネットの重要性を掲げており、次回のテーマは<格差と貧困の克服>である。

 還暦になった俺も世間の流れと同様、経済状況が厳しくなるが、生き方を変えるチャンスと考え、ダウンシフトとミニマリズムを生活に組み込むことにする。空いた時間は、この間のテーマ、<人と人を結ぶ>に使いたい。頭のあちこちで幾つもの点が脈打っている。幸いなことに、それらを繋ぐ場所もすぐ近くにある。

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「太陽の下で」&「バレンタイン一揆」~秀逸なドクメンタリーを堪能する

2017-02-20 22:57:31 | 映画、ドラマ
 米大統領選のさなか、陰謀論好きがあれこれネットにアップしていた。その中に<プーチンとトランプが手を携え、ユダヤ系の力を削ぐ>というのがあったが、的外れだった。トランプは似た者同士のイスラエル・ネタニヤフ首相との会談で、米政権が踏襲してきた<2国家共存>の見直しを示唆した。

 <福島-パレスチナ-沖縄>を同一の視座で捉えるリベラル&左派にとって、日本を加えた〝悪の枢軸〟が成立しつつある。ある意味、わかりやすくて好都合だが、「脱」や「反」の定冠詞を用いると、言葉の内実を貧弱にする。直感で動くべき若い世代はともかく、還暦を過ぎた俺は腰を据えて現実に向き合いたい。

 先週は2本の秀逸なドキュメンタリーを堪能した。まずはシネマート新宿で見た「太陽の下で」(15年、ヴィタリー・マンスキー監督)から。金正男暗殺事件が動員アップに繋がったのか、まずまずの入りだった。

 本作には仕掛けとフェイクがある。主役は平壌の高級住宅街に両親と暮らす8歳の少女ジンミだ。北朝鮮最大の祝日「太陽節」で、ジンミが踊りを披露するというシナリオに沿って、北朝鮮側の演出担当者が指示を出している。ちなみに、ジンミの父は新聞記者だが、本作では工場長という設定になっていた。

 「1984」の未来形である北朝鮮では、<ビッグブラザー=朝鮮労働党>が人々を監視している。ストーリーに組み込まれた配役だけでなく、数万倍に及ぶ一般市民も恐怖に駆られて演技している。その姿を撮りながら、マンスキーは表情の奥に潜む心情を影絵のように焼き付けていた。空疎な仕組みに馴染んでいない子供たちにも、自由の扉は閉ざされている。ラストで「楽しいこと、好きなこと」を問われたジンミの反応が切なかった。

 俺の母は北朝鮮の映像を見るたび、戦前の日本を思い出すという。1930年代、労働争議、小作争議が相次ぎ、学生たちも体制に異議を唱えた。都市部ではジャズが流行し、ダンスホールには人が溢れていた。チャプリンは32年、ベーブ・ルース一行は34年、ヘレン・ケラーは37年に来日し、それぞれ大歓迎を受ける。「駅馬車」公開は40年だが、1年後には「鬼畜米英」がスローガンになる。国民洗脳のスピードは北朝鮮以上かもしれない。現在の日本が恐ろしくなる。

 週末には第14回ソシアルシネマクラブすぎなみ上映会(高円寺グレイン)で「バレンタイン一揆」(2012年、吉村瞳監督)を見た。テーマは「フェアトレード」、即ち<発展途上国で作られた食物や製品を適正な価格で継続的に購入することで、生産地の生活向上を目指すこと>である。ガーナに赴いた10代の女性3人の奮闘と比べ、実践を伴わず<反グローバリズム>なんて吐き散らかす自分が恥ずかしくなった。

 彼女たちはカカオ農園における児童労働の実態を知り、子供たちを学校に通わせようと尽力するプロジェクトのリーダーと交流して、日本で見えなかった<世界の真実>に触れる。「ポバティー・インク」(14年)を紹介した稿(1月25日)でも記したが、〝偽善的慈善〟は構造を変えない。生産者と消費者を結ぶフェアトレードがスタートラインになるのだ。カカオ農場の人々は誰も完成品を食べたことがなく、3人に手渡されたチョコを口に含み、誰もが笑みを浮かべていた。

 帰国した3人は仲間とともに、<フェアトレードで輸入されたチョコをバレンタインデーに贈ろう>というイベントを企画した。若い女性たち中心に週末の銀座で街宣するが。反応は悪い。話を聞いてくれても、フェアトレードの理念に関心を持つ人はいなかった。俺も時折、街でビラをまく。汚らしいオヤジは当然、冷たくあしらわれるが、若い女性たちでも状況にさほど変わりない。意見をフェアに戦わせるという空気は、この国から消えてしまったようだ。

 観賞後、日本とメキシコを行き来し、フェアトレードに取り組んでいる杉山世子さん(豆之木代表)をゲストに迎え、トークセッションが催された。アフリカでも暮らした経験がある杉山さんは、両地の気質の違いを話してくれた。熊本を筆頭にフェアトレードタウンを目指している自治体も増えてきており、杉山さんは浜松でプロジェクトに参加している。日本も変わりつつあるが、まだ間に合うのだろうか。
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多様性と連帯~グリーンズジャパンの未来へのステップは

2017-02-17 12:23:24 | 社会、政治
 昨日(16日)は母の誕生日だった。金正日、高倉健と同じである。1927(昭2)年生まれだから満90歳。体のあちこちは傷んでいるが、内臓は丈夫だという。俺に出来る唯一の親孝行は先立たないことだ。

 <俺の人生は文学に衝き動かされてきた。星野(智幸)、そして池澤夏樹らの小説を読んで、どのように変わったかを次稿に記したい>……。

 前稿をこう結んだ。文学は大抵、人を浮世から遠ざけるものだが、俺は特異体質らしい。20代の頃、文学に育まれたマグマが政治に噴出した。会社を辞めて再度、小説に親しむようになると、ケミストリーが生じる。星野や池澤らが提示するアイデンティティーの浸潤、多様性の尊重に感銘を覚えているうち、志向性が近い緑の党に行き着いた。

 入会後、社会は明らかに悪くなった。殺伐とした空気が世界を覆い、安倍内閣の支持率は10%以上もアップする。原発輸出、辺野古移設強行、共謀罪と暗いニュースに憂鬱になるが、個人的には収穫があった。「脱成長ミーティング」発起人の高坂勝さん、「武器輸出反対ネットワーク」(NAJAT)代表の杉原浩司さん、各種イベント(映画、音楽等)をプロデュースする大場亮さんら誠実に社会と向き合っている人たちと出会えて、大海に乗り出すことができた。

 同時に、自身の〝政治音痴〟を痛感することになる。この間、<日本の政治を変えるためには、まず永田町の地図を破り捨てること>と繰り返し記してきた。ポデモス、スコットランド独立党、サンダース旋風を生んだのは直接民主主義の動きだったが、日本では通用しない。そのことを思い知らされたのが、先週末に参加した緑の党の定期大会だった。

 臨時を含め大会に参加するのは4回目(たぶん)だったが、以前と比べて穏やかなムードだった。主役というべきは、参院選新潟選挙区、知事選で野党統一を中山均共同代表とともに主導した佐々木寛新潟国際大教授で、オープンディスカッション「2017政治のゆくえ――私たちの向かう未来へのステップ」の講師を務めた。実践に基づいた講演は、まさに〝目からウロコ〟といえた。

 緑の党の役割を緩衝材、接着材と考える佐々木氏は、泥を被ることを厭わない<知識人+オルガナイザー>といえる。氏の実績への評価は、講演会と交流会(俺は不参加)に馳せ参じた顔ぶれ――菅直人元首相、福島瑞穂参院議員ら――が証明している。日本共産党中央委員会、小沢一郎自由党代表、宇都宮健児弁護士ら多くの関係者からの祝辞も届いていた。文明論の重要性をユーモアを交えて説く佐々木氏は、自然エネルギーの広まりを目指す「おらって~にいがた市民エネルギー会議」を支えるなど、緑の理念を体現している。

 講演を早めに切り上げ、質疑応答に入る。俺は最後の最後、佐々木氏が言及した「ポストトゥルース」に関連する質問をした。<「ポストトゥルース」の時代、情念や感情が軸になると危惧されているが、リベラルや左派が若者に浸透するためには何が必要か>という内容である。

 佐々木氏の答えは、<「ポストトゥルース」に対置すべきは「トゥルース」>だった。学生の多くが奨学金に悩んでいることを知り、具体的な解決方法を野党統一候補の政策に織り込んだという。「自民党への支持が高い若者だが政治に無関心ではなく、壁を感じている」と語っていた。

 採択された決議は<差別と分断から多様性と連帯の社会>だった。今年は3月末からリバプールで「グローバル・グリーンズ世界大会」が開催され、日本からも若手中心に参加する予定だ。オーストリアのファン・デア・ベレン大統領(前緑の党代表)も登場するかもしれない。

 国内で最も大きなテーマは都議選だ。小池知事は日本会議の一員で、他府県で延長が次々に決まっている原発事故自主避難者の住宅支援も打ち切り、誓願をはねつけ定時制高校廃止を方針通り行う。弱者に冷酷な〝自分ファースト〟の小池知事に対する闘いは、すでに始まっている。
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「在日ヲロシヤ人の悲劇」~星野智幸による21世紀の黙示録

2017-02-13 23:20:44 | 読書
 第10回朝日杯将棋オープン決勝は、22歳の八代弥六段(優勝後に昇段)が佐藤慈明七段(NHK杯)との息詰まる熱戦を制した。山崎隆之八段のユーモア溢れる解説に、佐藤康光九段(連盟新会長)ら豪華ゲストが加わる。聞き手を務めた可憐な山口恵梨子女流二段との呼吸もピタリだった。

 並み居る強豪を次々に倒した八代へのご褒美は、何と1000万円! またもや新星誕生である。今回もそうだったが、後手番の勝率が高いというから、常識にかからないタイプなのだろう。テレビ画面の上部に表示されたポナンザ(最強ソフト)の局面評価の正確さに感嘆させられた。

 フランス革命以降、世界が育んできた調和、協調、平等といった理念を軽んじるムードは、トランプ登場以前どころか、世紀の変わる頃、既に醸成されていた。変化の兆しをいちはやく嗅ぎ取り、小説で表現してきたのが星野智幸である。先日、「スクエア~星野智幸コレクションⅠ」(人文書院)に収録されている「在日ヲロシヤ人の悲劇」(05年)を読了した。

 星野は多様性の尊重とアイデンティティーの浸潤を志向している。リアルタイムで<1999年を日本の右傾化元年>と位置付け、憲法の精神を捻じ曲げてイラク派兵を強行した小泉元首相を痛烈に批判し、個人の公への屈服を是とする風潮に、<徴兵制を幻視させる>と述べていた。「ロンリー・ハーツ・キラー」(04年)に安倍首相を連想させる人物が登場するなど、10年後を穿つ慧眼に驚くしかない。

 「在日ヲロシヤ人の悲劇」は崩壊した市原家と、閉塞した日本社会を合わせ鏡にして描いている。百貨店に勤める父の憲三、離婚後に自殺した母貴子。ハンスト中に不審な死を遂げた好美、そして独りで街宣する右翼の純……。家族それぞれのモノローグで構成されている。時空は錯綜し、循環する。ラストで冒頭の嵐の日に繋がった。

 憲三は50歳前後という設定だから、俺と年齢が近い。近親憎悪を覚えるほど、世代の欠点を体現している。リベラルっぽく振る舞うが定見はない。10代の頃から道を外してきた好美に依存し、〝理解ある父親〟の立場を守り続ける。好美にセックスへの忌避感を知らされ、煮え切らない態度で浮気相手を傷つける。

 日本はアナメリカ(=アメリカ)に隷従し、ヲロシヤ(=ロシア)への軍事行動に加わっているという、現在の<トランプ=安倍>と変わらぬ設定だ。ヲロシヤにはプーチンのような独裁者がいて圧政を敷き、イスラム教徒を弾圧する。在日ヲロシヤ人の登場を心待ちにしつつページを繰ったが、登場しない。それらしいのは好美の同志で「ヺロシヤン・コネクション」を主導するイワンだが、彼は在アナメリカのヲロシアンである。<在日ヲロシヤ人>とは絆を喪失した市原家のメタファーかと考えてしまった。

 好美の遺志を継いでデモに参加した憲三が、「戦争反対、平和も反対」とシュプレヒコールする場面が興味深かった。何かにつけて目を覆いたくなる――まさに俺自身を見ているように――憲三だが、一昨年夏、国会前で叫ばれていた言葉より親近感を覚えた。

 好美はラディカル、純は右翼と真逆に見えるが、両者には〝痛み〟という共通点があった。純はアナメリカへの隷属を当然と受け止める多数派右翼にリンチされることがあり、ネットやメディアに<ヲロシアンと寝た牝犬>と罵倒される好美を気遣っていた。

 テントで好美に何が起きたのか。ハンスト中の急死は<緩やかな自殺>と言えないこともない。同志、友人、純がテントに持参した飲料の名は「アポカリプス=黙示」だ。黙示とは、<暗黙のうちに意思や考えを示すこと、神が人意を超えた真理を示すこと>と辞書にある。「夜は終わらない」(14年)を神話の領域に到達したと評した。預言の書ともいえる「在日オロシヤ人の悲劇」は、21世紀の黙示録かもしれない。

 俺の人生は文学に衝き動かされてきた。星野、そして池澤夏樹らの小説を読んで、俺がどのように変わったかを次稿に記したい。

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日本人の原像を問う「沈黙-サイレンス-」

2017-02-09 23:10:40 | 映画、ドラマ
 新宿で先日、「沈黙-サイレンス-」(16年、マーティン・スコセッシ監督)を見た。2時間40分の大作だが、緩みは一切感じなかった。シーンの数々がスクリーンから体の中に浸潤し、陰画になって心の壁に貼り付いてくる。信じるとは、闘うとは、信仰とは、キリスト教とは、江戸時代とは、武士とは……。それらの問いが坩堝で混ざり合い、<日本とは、日本人とは何か>に収束していく。

 遠藤周作の原作「沈黙」(1966年)を読まれた方は多いだろう。篠田正浩監督による映画(71年)をご覧になった方もいるはずだ。ストーリーも広く知られているから、ネタバレを気にする必要はない。反芻しながら去来した思いを以下に記したい。

 島原の乱が鎮定された後、切支丹への苛烈な弾圧が始まった。農民たちだけでなく、イエズス会の宣教師も棄教を迫られる。フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)の消息を探るため、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルベ(アダム・ドライヴァー)の2人の神父が、キチジロー(窪塚洋介)の手引きで長崎に上陸した。待ち構えていたのは井上筑後守(イッセー尾形)である。

 スコセッシは人間キリストを描いた「最後の誘惑」(88年)で物議を醸したが、当時から「沈黙-サイレンス-」の映画化を準備していた。感心したのはキャスティングで、上記以外にも浅野忠信(通辞役)、塚本晋也(モキチ役)、笈田ヨシ(イチゾウ役)らが個性的な演技で作品を支えていた。

 来日した宣教師は、大名から足軽に至るまで、武士の変わり身の早さに衝撃を受けたという。その典型が洞ケ峠で、得になる方に付くというのが<素の武士像>である。様々な美学に飾られている武士道の本質を突いたのは「子連れ狼」で、拝一刀は「帯刀しているから武士ではなく、士たる魂を秘め、正しく振る舞う者が武士である」と語っている。その伝でいけば、切支丹の農民こそ武士(もののふ)であり、弾圧する役人は武士の名に値しない。

 <武士道とは死ぬことと見つけたり>(葉隠)は誤解されながら特攻隊にまで引き継がれたが、武士の本質は要領よく生き延びることだ。死をも恐れぬ一向一揆、そして切支丹に武士は衝撃を受ける。凄惨な弾圧の原動力は恐怖だったのか。

 教会関係者は「神父が棄教するなんてあり得ない」と遠藤の原作に抗議した。本作に対しても、海外のキリスト教徒は納得しないだろう。神父たちを転ばせよう(棄教させよう)とする筑後守や通辞の手練手管に、「日本人は何て陰湿なんだ」と嫌悪を覚えても不思議はない。だが、<転ぶ>は日本において常に美徳だったのだ。

 武士は上記の通り日和見だし、尊王攘夷派は維新後、文明開化の旗振り役になり、国家を私物化する。暴力への怯えもあって転向した戦前の左翼に対し、世間は寛容だった。全共闘世代が主導した社会は、40年前の彼らの理想と真逆である。国民の期待を裏切った旧民主党の裏切りも<転び>の典型である。天下りで私腹を肥やす文科省の役人、良心を捨て米空軍の資金を受けた科学者らも〝転んだ〟のだろう。

 本作には踏み絵のシーンが繰り返し出てくる。俺ならキチジロー同様、抵抗なく踏み、何度も懺悔するだろう。前稿で紹介した「1984年」で、ビッグブラザーは<ウオッチング・ユー>のスローガンで不可視の内面を把握しようとする。それは権力者の常で、現在の共謀罪と重なっている。踏み絵とは信仰の有無を峻別する苦悩の装置だった。

 ロドリゴとガルベは文化も習慣も異なる異国で深い信仰に触れ、神に邂逅を感謝する。日本化したキリスト教に多少の違和感は覚えるが、些細なことだ。捕縛された後、目の前で惨殺される信者たちを救えず、絶望に苛まれたロドリゴを、「あなたが棄教すれば、彼らは救われる」と井上は唆す。タイトルの「沈黙」は即ち<神の沈黙>だ。目の前で繰り返される虐殺に成す術がないロドリゴは、フェレイラとの再会で決断する。

 キリストには革命家としての側面があった。映画「ミッション」(86年)には革命と信仰の結合が描かれていたが、一向宗、キリスト教が勢力を得たのは、不条理や不公平と闘いという側面もあったのではないか。

 「沈黙-サイレンス-」は俺自身、そして日本にあまりに重なっているから、冷静に評価出来ない。<日本とはキリスト教の姿形さえ変えてしまう奥深い沼>という表現も的を射ていた。本作は俺の内で沈殿し、血肉と化しつつある。現在の日本は当時と対照的に、依って立つこと、旗幟を鮮明にすることへの忌避感が蔓延している。いずれが日本人の原像に近いのか考えてしまう。
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世界を穿つ辺見庸~「1★9★3★7」完全版刊行記念講演会に参加して

2017-02-05 22:55:42 | カルチャー
 棋王戦第1戦で挑戦者の千田翔太六段(22歳)が渡辺棋王を下した。控室の棋士たちを驚かせる手を何度か指したという。棋界で最もAIに精通している千田は故村山聖の弟弟子で、将来の名人候補である。山崎隆之、糸谷哲郎両八段ら個性派を次々に輩出する森信雄一門には驚くしかない。

 <「1★9★3★7」完全版(角川文庫、増補120枚)刊行記念&城山三郎賞受賞記念>と銘打たれた辺見庸講演会(1月30日、紀伊國屋ホール)に足を運んだ。「いまなにがおきているのか? 1★9★3★7と現在~そして近未来のイメージ~」と題された講演では、トランプ大統領就任が明らかにした世界の貌を抉っていた。開演前はクラシック(主にバッハ)がお約束だが、今回は趣を変え、モダンジャズが会場に流れていた。

 コンピューターに則り、<二進法的思考>が幅を利かせているが、辺見は<十進法>で語る。五臓六腑に染み渡った思念を、逆流させて嘔吐するのだ。前日の昼飯さえ思い出せないぐらいボケているから、6日経って忘れた点もある。それでも咀嚼、反芻して記したい。

 南京大虐殺から80年、ロシア革命から100年。辺見は2017年と1937年に近似性を覚え、ロシア革命が提示した<団結と抵抗>、更に溯ってフランス革命が世界に定着させた<平等と自由>も消えつつあること憂えている。「1★9★3★7」の作意を以下のように明かしていた。

 皇軍は中国で<円>を作り、その内側で兵士(普通の人々)が殺戮、強姦、人体実験を行った。真実に即した堀田善衛、武田泰淳の小説を紹介しながら、辺見は自分に問い掛ける。もし自分が<円の内側>にいたら、何を成したのかと……。「自分も蛮行に加わっただろう」という答えが出発点だ。

 文庫版の表紙になった山下清の貼り絵「観兵式」(1937年)に、もう一つの作意が込められている。関東大震災で被災した山下は、知覚障害の後遺症で排除される側だった。その山下が観兵式会場にいるはずはなく、ニュース映像を再現したのではないかと辺見は想像している。〝役に立たないと打ち棄てられた側〟に立つことが、おぞましい世界を照射する手段だと語っていた。

 <嘘と本当(真実)は、どのくらいの割合で世の中にあるのかわからなくなる。大勢が本当だと言えば、嘘が本当になるかもしれない(略)>……。山下の至言は、偶然にも講演のテーマと重なっている。

 辺見は冒頭、俺も衝撃を受けたデストピア「白の闇」(1995年、ジョゼ・サラマーゴ)に言及する。人々が次々に視力を失っていくが、互いをかばい合う理性の欠片もなく、世界は獣性剥き出しの戦場に化す。リアルなパンデミックは、トランプ大統領を生んだ<価値の崩壊>を予言していた。

 オックスフォード大出版局が〝2016年の言葉〟として<ポストトゥルース>を選んだことを受け、<リアルタイムに自己と現実を客観化するのは至難の業になった>と辺見は語る。2017年、<脱真実あるいは真実後>の時代が始まった。トランプ就任式後、「最も多くの人々が集まった」と胸を張った補佐官だが、事実無根を指摘されるや事もなげに「そういう見方もある」とはぐらかした。

 日本でとりわけ顕著だが、物事の本質を探り、真実を追求しようとする者を嘲笑う風潮がある。理念が空洞化するばかりか根絶されようとしているのだ。フェイクニュースはたちまち広がり、NYタイムズなど既成メディアの影響力は夥しく低下した。普遍的な価値に取って代わったのは、ファシズムと全体主義が進行した80年前と同様、感情である。

 トランプ大統領は「7カ国国民の入国禁止」に署名したが、中東の混乱を招き、多くの難民が発生した最大の原因は。アメリカによるイラン侵攻だ。さらに、9・11の実行犯と目される人たちの多くはサウジアラビアのパスポートで入国している。自国の過ちを顧みないどころか、自身の事業に関連している国はリストから外されているという指摘もある。

 ノーマ・チョムスキーら哲学者、文化人の分析を俎上に載せていたが、とりわけ時間を割いたのは「1984年」(ジョージ・オーウェル)だ。独裁国家オセアニアでは、<戦争は平和である>、<自由は屈従である>、<無知は力である>といったスローガンがたなびき、人々を洗脳している。

 支配するビッグブラザーの意図は<不自由と不平等を恒久化すること>。そのためには、中間層と下層階級が手を携えて権力に刃向かう剥く事態(=革命)を避ける必要がある。スターリンを模したポスターには、「ビッグブラザー・イズ・ウオッチング・ユー」と書かれていた。双方向テレビジョンが追っているのは、目に見える言動だけではなく、人々の不可視の内面なのだ。

 歴史修正主義という改竄が横行し、80年代には読売新聞もその存在を認めていた従軍慰安婦、そして南京大虐殺が、日本史から抹消されようとしている。軌を一にするように、秘密保護法が成立し、人々の内面を裁く共謀罪が国会に提案される。辺見は現在の世界と日本を、1937年と対照することで読み解いていた。

 辺見の講演会は12月上旬にソールドアウトというプラチナペーパーだったが、同じく紀伊國屋ホールで開催される第11回「白鳥 三三 両極端の会」も十数分で完売という人気だった。3月末が待ち遠しい。
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PJハーヴェイの崇高なパフォーマンス~世界観と意志の力で軽やかに壁を超える

2017-02-01 22:44:56 | 音楽
 先週末は「よってたかって新春らくご'17」(よみうりホール)に足を運び、気鋭の噺家たちの話芸を愉しんだ。柳家三三「転宅」→桃月庵白酒「ちはやふる」→春風亭一之輔「夢八」→三遊亭白鳥「天使がバスで降りた寄席」の順に高座は進む。枕もそれぞれ風刺が効いており、2時間余は瞬く間に過ぎた。

 「転宅」は馴染んだ演目だが、「ちはやふる」は年明けの一之輔といい、今回の白酒といい、演者の工夫でアヴァンギャルドに貌を変える。初めて聞く「夢八」で力業を披露した一之輔は「プロフェッショナルの流儀」(3月頃?)に登場する。落語家では柳家小三治に次いで2人目だ。ブラックな白鳥は、一之輔マークの撮影班を意識してか、「NHKではオンエアは無理です」と枕を締めて、ジャニーズをネタに破天荒な新作を披露した。

 一昨日(30日)は辺見庸講演会(紀伊國屋ホール)に足を運んだ。深くて重い言葉が未消化のままなので次稿に回し、今回はPJハーヴェイの来日公演(31日、オーチャードホール)の感想を記したい。22年ぶりの単独公演で、俺にとってPJ初体験である。

 1992年にデビューしたPJは、マーキュリープライズ(UKベストアルバム賞)に2度輝いた唯一のアーティストだ。最初の受賞作「ストーリーズ・フローム・ザ・シティ、ストーリー・フローム・ザ・シー」(01年)からは演奏されなかったが、2度目の前作「レット・イングランド・シェイク」(11年)からは3曲がセットリストに含まれていた。

 「レット――」の延長線上にある最新作「ザ・ホープ・シックス・デモリッション・プロジェクト」(16年)からは全11曲が演奏される。国内盤を買ったのもかかわらず、ゴミに紛れたのか、歌詞カードとライナーノーツが見当たらない。それでも、<壁も境界も超える自由で寛容な精神>に根差したPJの<世界観>が伝わってきた。

 PJを含め10人編成のバンドは、エミール・クストリッツアやトニー・ガトリフの作品に登場するバルカン、あるいはロマの楽団のように登場する。「ザ・ホープ――」は仮想のロードムービーで、コソボ、アフガニスタン、ワシントンDCを巡り、そこで触れた世界の真実――癒えぬ戦争の傷、広がる貧困、差別と軋轢――を作品に組み込んだ。アルバムのコンセプトそのまま、10人が担当楽器を変え、時にハモり、踊る。

 PJは曲によって声を使い分け、シェイプされたセクシーな肉体、表情の変化、柔らかいしぐさで客席の目を惹きつけながら、自身もまたバンドに気を配り、メンバーの〝心の糸〟を手繰り寄せている。痺れるような緊張感と闘いながら、荘厳で祝祭的な音を紡いでいた。初期衝動で世界を瞠目させたPJは、呪縛を解き放つように脱皮し、今では成熟した調和を体現している。

 ことロックに限れば、女神に愛されている時間は決して長くない。ロックとは微分係数、瞬間最大風速だから、勢いを維持するのは簡単ではない。デビュー四半世紀を経て、「ザ・ホープ――」が初めてチャート1位を獲得したように、PJは今、キャリアのピークにある。死の間際に「ザ・ネクスト・デイ」、「★」とベルリン3部作に引けを取らないアルバムを発表したデヴィッド・ボウイは別にして、PJも奇跡の道程を歩んでいるのだ。

 英国のEU離脱が決まった直後、PJはグラストンベリーのステージ上で、ジョン・ダンの詩を朗読した。<いかなる人も大陸の一部であり、全体の一部である。土壌が海に洗い流されても、ヨーロッパが失われないように>という一節が含まれる詩で、PJは離脱を弔鐘のように受け止めたことが窺える。あれから7カ月、壁と境界線を声高に叫ぶトランプの声が、世界を席巻しつつある。

 PJは何かを訴えるかもしれないと予想していたが、MCは一切なく、アンコールでステージに戻った時、日本語でたった一言「ありがとう」……。<私は曲で全てを表現しているから、言葉は必要ない>がPJの真意だと想像している。<壁>を否定するPJが、必要以上に<言葉の壁>にこだわっていたとしたら……。そんなことはないだろう。

 今回のパフォーマンスに触れ、<俺の仮説=PJはパティ・スミスを超えた>が真実だと確信した。PJこそ史上最高の女性ロッカー? いや、ロックという括りでPJを語ることは無意味だろう。PJは世界観と意志の力で、<ロックの境界線>を超越した。ジャンルを問わず現在、最も注目されるべき表現者だと思う。

 PJが示した未踏の境地に、近づいてくれるのでは……。そんな期待を寄せているダーティー・プロジェクターズが5年ぶりに新作を発表する。俺の〝過大〟な期待に応える作品であることを願っている。
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