酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「カラマーゾフの妹」~甦るドストエフスキーの遺志

2013-02-28 23:20:08 | 読書
 傍目には独裁者と映るプーチン大統領だが、晩年のソルジェニツィンは〝ロシア的君主の理想像〟を見いだして支持した。風土と伝統に根付く指導者であることは間違いない。プーチンは3・11直後、「アメリカの半値で天然ガスを融通する用意がある」と日本に提案する。属州に決定権がないことを承知の上での発言だったが、「あの国に同情された。日本は〝まじでヤバい〟のか」と心配になった人も多かった。

 〝まじでヤバい〟ことは、とっくに明らかになっている。郡山市の小中学生と保護者が集団疎開を求めて市を提訴した裁判で、松崎医師が衝撃的な内容の意見書を提出した。チェルノブイリと福島のデータを対照した上で、<福島の子供たちはチェルノブイリより危険>と結論付けた。日本の国土の狭さを勘案すれば、首都圏でも多くの子供たちが甲状腺がんを発症する可能性が高い。国の将来を担う層の生存をめぐる問題なのに、抗議の声は広がらない。

 江戸川乱歩賞受賞作「カラマーゾフの妹」を読了した。題名から想像がつくように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の続編の形を取っている。ミステリーである以上、内容にあまり踏み込むわけにはいかない。アウトラインと俺自身のドストエフスキーへの思いを中心に記したい。

 「マシニスト」では不眠が1年以上続くトレバー(クリスチャン・ベール)が、「白痴」導眠剤に用いていた。「いつか読書する日」では美奈子(田中裕子)が「カラマーゾフの兄弟」を読みながら眠りに落ちた。残念ながら、<ドストエフスキーは難解だから眠くなる>が〝常識〟として定着している。偉い大学の先生たちが1世紀近く、「教養として読め」とドストエフスキーを薦めてきたことも、誤解が生じた原因のひとつだ。

 俺にいわせれば、ドストエフスキーは<R50の至高のエンターテインメント>だ。語り口にはユーモアと毒があり、展開を暗示する思わせぶりに引き寄せられる。神と悪魔、罪と罰、純粋さと欲望、秩序と反抗、愛と嫉妬、正義感と沈黙、救いと堕落……。深淵なテーマを対比し、カタルシスとカタストロフィーに至るドラマツルギーは、史上最高の作家と呼ぶに相応しい。

 <R50>指定の理由は、齢を重ねるごとに作品への理解が深まるからだ。俺のように50代半ばになれば、見えてくるものもある。第一は近づきつつある死とそれへの対処だが、カラマーゾフ家の家長フョードルのように老いてもなお迷い惑う姿に、煩悩深き我が身が重なる。

 数年前、未読、再読問わず、主立ったドストエフスキーの小説を読んだ。途中でページを繰る指を止め、来し方を振り返ることがしばしばあった。他者を傷つけた言動、偏見、差別意識、衝動による失敗といった人生の負の蓄積と恥の数々は、ドストエフスキーを読む上で必要な養分になり、作品は心の内側に染み渡ってきた。自省や悔恨と無縁の人生を送っている人には、決してドストエフスキーを薦めない。

 「カラマーゾフの妹」が秀逸なのは、ドストエフスキーの遺志を継承した点だ。続編の構想を練りながら死んだドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」は序章に過ぎないと考えていたようだ。続編では<父殺し>から<皇帝殺し>へと飛躍したはずで、イワン、アリューシャ、リーザの三角関係のその後など、続編の核になるべきテーマを「カラマーゾフの妹」は掴んでいた。作者が女性ゆえか、カラマーゾフ家の混乱を招いたグルーシェニカが、意外な形で登場する。

 ドストエフスキーはそれぞれに役割を完璧に演じさせるが、「カラマーゾフの兄弟」では、コーリャらアリュ-シャ周辺の少年たちの描き方が中途半端だった。青年に成長した彼らが明確な目標(=皇帝暗殺)で結ばれる革命集団を結成するのは、自然の成り行きだろう。その時のアリュ-シャの行動は、「カラマーゾフの妹」で一つの答えが提示されている。

 歴史改変小説が高野の十八番という。フョードル殺しから13年後に真相が明らかになるという設定だから、「カラマーゾフの妹」の時代背景は1880年代初頭となる。ニーチェが注目を浴び、精神分析が確立した時期、内務省特別捜査官になったイワンは多重人格者として描かれ、協力者であるトロヤノフスキーが催眠療法を施している。ちなみに、イワンの内部で対峙するのは神と悪魔である。SFチックな革命集団の描き方は作者の遊びで、デビューしたばかりのホームズの探偵術が英国から伝播していた。

 
 「こんな方法があったのか」と選者を瞠目させた高野の禁じ手は、巧妙なプロット、ドストエフスキーへの理解度の高さの上に成立した。読了後、「カラマーゾフの兄弟」をもう一度、読みたくなる。惚けないうちとなると、せいぜい10年後か……。3度目にはまた、新たな骨格が見えてくるだろう。
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「駆ける少年」&「TOKYOてやんでぃ」~新宿で週末、映画に親しむ

2013-02-25 23:43:57 | 映画、ドラマ
 アメリカで昨秋話題になったのは、ポール・ライアン共和党副大統領候補の「お気に入りバンドはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」発言だった。<1%>の守護神で低所得者切り捨てを推進するライアン氏と、反グローバリズムの旗手で<1%>を徹底的に穿つレイジ……。両者のあまりの距離に、「ライアン氏にはカウンセリングが必要」との声まで上がった。

 似たような話が英国を賑わせている。熱烈なスミスファンとして知られるキャメロン首相(保守党党首)に、ジョニー・マーは嫌悪感を隠さなかったが、遂にモリッシーも参戦する。「(首相の猟好きは)スミスが体現していたあらゆることの否定につながる」とかつての友と共闘したが、首相は「何を言われても聴き続ける」と頑なだ。スミス時代からモリッシーは、王室や保守派に鋭い刃を向けてきた。首相の心情は、英国人にも理解不能のようである。

 日本時間25日、アカデミー賞が発表された。「アルゴ」の作品賞受賞は意外だった。「レ・ミゼラブル」、「ライフ・オブ・パイ」に対抗できる作品とは思えないからである。政治を背景にしながら、いずれにも与しない姿勢が評価されたのだろうか。

 「アルゴ」でイラン官憲が映画撮影のトリックに引っ掛かった理由は、国民が映画に抱く尊敬の念ゆえだと思う。90年代以降、イランは世界が認める<映画の聖地>になった。俺の一押しはモフマン・マフバルマフで、神話、寓話の域に達しているイラン映画は数多い。その先駆けとなった「駆ける少年」(アミール・ナデリ監督、85年)を22日、シネマート新宿で見た。監督の自伝的作品で、舞台は1970年代初頭のペルシャ湾沿岸の港町である。

 廃船で暮らす孤児のアミルは、ゴミ拾いや瓶集めで糊口をしのぐが、年長の少年の縄張りを奪えない。独立心旺盛で機転が利くアミルはグループから離れ、氷水売り、靴磨きを生業に片隅で根を張っていく。フェンスの向こう、海の彼方に憧れを抱き、ペルシャ語さえ読めないのに、飛行機が表紙になった海外の雑誌を買い漁る。

 アミルは題名通り走り、叫び、そしてジャンプする。屈託ない笑みに、純真さと希望が表れていた。ハイライトは燃え盛る炎(油田から上がるガス?)の中での駆けっこだ。少年たちは体をぶつけ合い、相手の足を払うなど妨害を重ねながら氷が置かれたドラム缶を目指す。競走というより、生存競争さながらの過酷な闘いが展開する。

 自由への希求、生きる輝きを表現した伝説の映画をともに観賞したのは10人ほどだった。1日1回のスケジュールでの最終上映日……。それでこの数字は寂し過ぎる。パブリシティーの打ち方に問題があるのか、シネマート新宿は上映作品の質は高いのに、常に閑古鳥が鳴いている。近日中に「マーサ、あるいはマーシー・メイ」、「魔女と呼ばれた少女」を同館で観賞する予定だが、客の入りはどうだろう。見る側にとっては空いている方がいいけど、少し心配になってくる。

 翌23日はケイズシネマで公開初日の「TOKYOてやんでぃ」(神田裕二監督、13年)を見た。春風亭昇太の創作落語をベースにした芝居の映画化で、寄席の楽屋を描いた一幕物だ。主人公は前座を9年半務める立花亭ピカッチ(ノゾエ征爾)で、小松政夫、でんでん、伊藤克信、石井正則ら個性派、黒田福美、真野響子、安達祐実、南沢奈央ら世代を超えた美女が脇を固めている。

 本作で初めて知ったのは楽屋を仕切る「タテ前座」の存在だ。弟弟子と一緒に進行役を務めるピカッチに、トラブルが次々襲いかかる。時間通りに来ない噺家や芸人、目立ちたがる席亭の悪戯で、混乱の極みとなる。合間を縫って女性記者ら招かれざる者たちが訪れるが、その中にピカッチのかつての恋人がいた。彼女の変身ぶりが、格好のスパイスになっている。公私とも失意の底に沈むピカッチに、光は射すのか……。

 全編を通し、ホロリとさせる人情噺の趣がある。テンポの良さに時が経つのを忘れるが、理解に苦しむ点もあった。ピカッチの芸が二つ目を凌駕していることは明白なのに、なぜか前座に留め置かれている。かと思えば、情実の昇進も横行していた。映画にリアリティーを求めても仕方ないが、実態に即していない部分が年季の入った寄席ファンの失笑を買うかもしれない。

 エンドロールで映ったロケ地の新宿末広亭入り口に、柳家小三治の看板が立っていた。4月の独演会が楽しみである。3月には弟弟子の柳亭市馬がトリを務める紀伊國屋寄席に足を運ぶ。俺もピカッチ同様、〝落語ファンの二つ目昇進〟はかなり先になりそうだ。
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「世界から猫が消えたなら」~死を待つ青年と悪魔が織り成すメルヘン

2013-02-22 11:05:14 | 読書
 「DAYS JAPAN」最新号を読み、この国を、いや、世界を悪魔が闊歩していることに気付いた。フランス軍がなぜ、マリに侵攻したのか。多国籍企業という名の悪魔に土地を奪われた農民の支持を受け、イスラム系武装組織が勢力を拡大している。だが、マリ政府の要請がフランス介入の真の理由ではない。隣国ニジェールからウラン燃料の33%を輸入している原発大国にとって、同地域の安定は国家の命運に関わる問題なのだ。

 広河隆一編集長がIAEAという名の悪魔の企みを暴いていた。チェルノブイリで現地の医者の声を封殺し、小児甲状腺がんの増加と原発事故との因果関係を否定した悪魔は、同様の所業を繰り返すべく福島に乗り込んでいる。チェルノブイリの現在を狭い日本に置き換えたら、子供たちの深刻な内部被曝は国全域に及ぶ可能性が高い。自民党圧勝で動きやすくなった悪魔は、おとなしい子羊たちを嗤っている。

 きょう2月22日は猫の日だ。1年前は猫が活躍する「夏への扉」を当ブログで紹介した。今年も同じ手を使おうと紀伊國屋に足を運んだら、本屋大賞候補作が山積みされている。その中から「世界から猫が消えたなら」を選びレジに向かった。

 作者の川村元気は「告白」と「悪人」(ともに10年)を手掛けた若き俊英プロデューサーとして、映画界にその名を轟かせている。俺は圧倒的に「告白」派だが、それはともかく「世界から猫が消えたなら」には、「告白」の鋭利な孤独、「悪人」の日本的メンタリティーという対照的なトーンが程良く混ざり合っていた。ラストに向かうにつれて後者の色が濃くなり、俺は涙を滲ませながらページを繰っていた。

 僕は30歳の郵便配達人だ。猫のキャベツと暮らす平凡な主人公は悲運に直面する。末期の脳腫瘍で余命1週間を宣告されるのだ。俺ぐらいの年(56歳)になれば、身近な人を多く亡くした経験で死への構えが整いつつあるが、青年にはあまりに過酷な状況だ。本作では「死ぬ前にしたい10のこと」(03年)が繰り返し言及されているが、誰しもアン(サラ・ポーリー)にように自分の死後を冷静に見据えるわけにはいかない。戸惑う僕の前に悪魔が現れた。

 悪魔といっても、「DAYS JAPAN」で告発されているような冷酷な獣ではない。剽軽で物分かりがよく、自嘲的でユーモアに溢れている。定番とはかけ離れたアロハ姿だが、むろん悪魔の本分は忘れない。「この世界からひとつだけ何かを消す。その代わりにあなたは1日の命を得ることができるんです」と取引を持ち掛けるのだ。

 本作はこの辺りで、読者も引き込む哲学的メルヘンになる。本当に選んだものは世界から消えるのか。それとも、余命わずかな自分が住むパラレルワールドから消えるだけなのか……。俺は想像に耽り始めた。憎しみと嫉妬は愛の裏側だから、消すと愛まで消えてしまう。具体的な形なら、核兵器か原発と勝手に決めて小説に戻る。チョコレートが最初の候補に挙がっていたが、悪魔の反対で頓挫する。

 消失が社会を根底から崩壊させかねない二つのもの選ばれたが、外に出ると不思議なことに、風景は変わっていない。三つ目を消す過程で、かつての恋人との思い出が温かく湿っぽく語られる。「四つ目は猫」という悪魔の囁きに僕は迷う。猫に対する思いは亡き母の記憶に重なっているから、猫と人の関係を痛いほど知っているから……。

 悪魔が登場したり、猫が話し始めたりと仕掛けいっぱいのSFチックなエンターテインメントでもあるが、読み進むうちに、<人間にとって最も大切なものは何か>という普遍的なテーマに気付く。それは、恋人、友人、猫、そして何より父と母との絆だ。川村は人の心を浄化する方法――あざとくいえば涙を搾る手管――を既に習得している。

 僕は最後に、僕自身を消すことにした。前稿で紹介した含蓄ある一節を再度記したい。

 <自分が存在した世界と、存在しなかった世界。そこにあるであろう、微細な差異。そこに生まれた、小さな小さな〝差〟こそが僕が生まれてきた〝印〟なのだ>……。

 本作は確実に映画化されるだろう。俺が監督に推すのは是枝裕和だ。「ワンダフルライフ」は人生で最も煌めいた一瞬を死者に問うという設定で、「空気人形」では業田良家の不条理なメルヘンを完璧に映像化した。この実績から是枝がベストと思えるが、もちろん選ぶのは川村本人だ。「フラガール」と「悪人」の李相日が有力だが、情の部分が前面に出過ぎてしまうのではないか。

 俺は映画版を見ないだろう。いや、独りでは見たくないというべきか。ラストシーンで確実に号泣した後、横に誰かいないと死にたくなる……、そんな寂寥感に満ちた作品になりそうだから。

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フェイスブックなんていらない?

2013-02-19 21:19:40 | 戯れ言
 先週末、湯島天神を訪れた。目当ての梅は三分咲きだったが、受験シーズンは真っ盛り。菅原道真公が祀られているため、受験生が神妙な面持ちで手を合わせていた。凛とした空気を破ったのは騒々しい中国語である。「うるせえ」と一喝したいところだが、かつて日本人の一団が欧米の観光地で顰蹙を買っていたことを思い出す。大声での会話は〝成り上がり期〟につきものの現象なのだろう。

 福島原発事故で放射能汚染水を海へ放出したことが、世界中から批判を浴びている。<海洋テロ国家>のレッテルを貼られ、日本政府への賠償請求は300兆円を超えるとの試算もあるが、今の話題といえばPM2・5だ。深刻な格差と環境破壊で、中国は革命もしくは自滅に至るというのが俺の持論だが、生きているうちにドラスティックな変化を見ることは出来るだろうか。

 ニュースは億ションが次々に売れるなど景気好転を伝える一方で、孤立無業の働き盛り(20~59歳の男女)がこの5年で4割増え、162万人に達したという。別の国かと錯覚してしまいそうな映像だ。かつて人々を繋げていた紐帯は、今やゴムにように緩んでいる。プツンと切れた先、待ち構えているのは奈落の底だ。

 さて、本題。俺は意識しないうちにフェイスブックに登録していた。PANTAさんのライブ情報をチェックするため、公式フェイスブックを覗いていると、個人情報を記す欄があった。名前(アルファベット)と生年月日だけ書き込むと、フェイスブック側から「この人をご存じですか」メールが送られてくる。スパムと疑い、開けることなく削除していたら、数通目に知った名があった。勤め人時代の後輩であるFさんで、国連関係の仕事で現在、エジプトで働いているという。

 Fさんは今春までNGOとしてパレスチナで活動していた。ライラ・ハリドさん(パレスチナ民族議会評議会議員)の来日とPANTAさんとの共演をフェイスブックで告知したらしいが、それだけで繋がるものなのか。メールで経緯を告げて友達2号になった。ちなみに1号は当ブログで頻繁に登場する職場の先輩Yさんで、俳優、歌手、反原発関連の著名人を紹介するメールが次々に届く。

 心が動いたのが橋本美香さん(制服向上委員会代表)だった。イブのPANTAさんのイベントで間近に見て胸キュンになったが、唐突に友達申請しても〝オヤジストーカー〟と警戒されそうなので思いとどまった。ちなみに俺が橋本さんに懸想したのはルックスだけでない。聡明さと気遣い、そして反原発への覚悟が伝わってくるからである。

 Yさんは「実際に知ってる人に絞るべきかな」と話していた。となると、俺の場合、話す機会があったPANTAさんならOKということか。アメリカでは片っ端から友達申請する人が多いという。「デモクラシーNOW!」で興味深いリポートを見た。リベラルに属する人が右派と友達になったが、フェイスブック側が相いれないと勝手に判断し、いつしか友達リストから消去されていたという。俺とFさんを繋いだのも、フェイスブックの思想信条チェック機能だったのか……。だとすると、恐ろしい話である。

 帰省時に会った従兄と、フェイスブックについて話す機会があった。国会議員を1期務めた従兄は、政界、仏教界、教育界のみならずアジア各国にも人的ネットワークを築いてきたが、還暦を機に責任ある地位から全て退き、悠々自適を楽しんでいる。ささやかな日常をブログに記しているが、「フェイスブックは人が増えすぎる。わしの手に負えん」と話していた。

 功なり名遂げた従兄でさえ、一線から身を引けばフェイスブックは重要なツールではない。東京砂漠の砂粒みたいな俺など日々、忘却の波に洗われるだけで、今さら〝友達の輪〟どころではない。ベクトルは完全に内向きで、本、映画、音楽を濾紙に汚れた魂を浄めている。そんな俺にフェイスブックを使いこなすのは難しく、友達は2人のままで終わりそうだ。

 次稿で紹介する小説に、気に入ったフレーズを見つけた。以下に抜粋したい。ベストセラーになっているので、ピンとくる方もいるだろう。

 <自分が存在した世界と、存在しなかった世界。そこにあるであろう、微細な差異。そこに生まれた、小さな小さな〝差〟こそが僕が生まれてきた〝印〟なのだ>……。

 俺にとって、〝印〟は今のところブログである。同時にソフトランディングするための道具で、思い残すことがないよう吐き出す遺書ともいえるだろう。
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「ハミングバード」~ローカル・ネイティヴスが運ぶ初夏の匂い

2013-02-16 14:57:21 | 音楽
 火事の夢を見た。近所で火の手が上がり、バケツリレーで延焼を食い止めるという内容だ。早速ネットで調べてみると、火事の夢は吉兆で、協力して消すというシチュエーションも悪くない。起きそうな吉事をぼんやり想像してみたが、競馬で勝つぐらいしか思い浮かばなかった。俺の心はマッチを擦っても、燃えるものなどない廃墟なのか。

 経済音痴の俺は、アベノミクスに懸念を抱いている。ヒット商品を開発したわけでもないのに、円安というだけで株価が上昇している企業が多いが、社員に還元されるわけではなさそうだ。参院選で自民党が多数を占めるや、バブルは砕け、円高と株安に逆戻り……。悲観論者の見解が正しければ秋以降、サブプライムローン並みの反動が待ち受けている。

 国家的詐欺というと失礼だが、〝どんな手を使っても見かけの数字を揃えたい〟というのが安倍首相の本音らしい。見据えているのは憲法改正で、維新や民主党右派も賛成に回りそうだ。由々しき事態と憂う俺は、総選挙の結果からしても少数派なのだろう。だが、絶望しているわけにもいかない。辺見庸の新刊「国家、人間あるいは狂気についてのノート」(毎日新聞社、25日発売)が、停滞気味の俺の心を奮い立たせてくれそうだ。

 寒い日が続くが、俺の部屋に初夏の風が吹き込んできた。ローカル・ネイティヴスの2nd「ハミングバード」に和みと癒やしを覚えている。日本盤ボーナストラックを含め、珠玉のタペストリーといえる作品だ。ちなみに「ハミングバード」とはハチドリで、鳥類の中で最も小さい。1分間に数十回ホバリングする際のブンブンが蜂に似ているので、日本でハチドリと呼ばれるようになった。本作は耳障りとは対極の心地よい羽音のシンフォニーで、ついばむ花蜜の香りが匂い立ってくる。

 1st「ゴリラ・マナー」の煌めきと抒情性にメランコリーが加味され、一層カラフルな音になっていた。俺にとって'12ベストアルバムだったグリズリー・ベアの「シールド」を優に超えるクオリティーの高さで、キャッチーなメロディーは聴くたびに内側に染み込んでくる。アルバムを紹介する場合、気に入った曲を幾つか挙げるようにしているが、本作では不可能だ。すべての曲が完璧なアンサンブルを構成しているからである。

 柔らかで稠密な音は、ライブでスケールアップする。'10フジロックのホワイトステージ、翌年2月の単独公演(渋谷・クラブクアトロ)で体感したライブを、俺は<神が宿ったパフォーマンス>と評した。5人(現在は4人)のメンバーが担当楽器や立ち位置を頻繁に変える。静と動のメリハリが鮮やかで、ビートとメロディーの融合にロックの未来形を感じた、ダーティー・プロジェクターズとともに〝声の復権〟を志向し、紡がれたハーモニーは祝祭的なムードを醸し出していた。

 アルバムの完成度の高さと成熟したライブが、むしろ不安の種だった。アンディー脱退も心配なニュースだったが、アーロン・デズナー(ザ・ナショナル)をプロデューサーに迎えて苦境を乗り切った。「ハミングバード」で大ブレークを期待したものの、インディー系は厳しい。本作はビルボードで11位止まり、最新作を比べてもグリズリー・ベアの7位、ダーティー・プロジェクターズの22位と同程度だ。「ロッキンオン」によればグリズリー・ベアの各メンバーの年収は600万円台で、ローカル・ネイティヴスも大差ないはずだ。ロック界のトップランナーのシビアな状況に義憤を覚えてしまう。

 昨年11月の「ホステス・クラブ・ウイークエンダー」は別の用事と重なって断念したが、<神が宿ったパフォーマンス>に再度触れることを心待ちにしている。とはいえ、肩透かしを食らう可能性だってある。過剰な期待を抱いて足を運んだダーティー・プロジェクターズのライブに、恐らく日本人で唯一失望を覚えたことは別稿に記した。混沌として自由だったバンドに序列が定まり、<普通のロックバンド>の枠内に収まったと感じたからで、ローカル・ネイティヴスに同じことが起きていても不思議はない。

 3月にはグリズリー・ベアのライブに足を運ぶ。中旬にはデヴィッド・ボウイの10年ぶりの新作「ザ・ネクスト・デイ」も発売される。アラカンだが、まだロックを卒業できそうにない。
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「悪人に平穏なし」~スペイン版<3・11>の背後に伸びた影

2013-02-13 21:03:31 | 映画、ドラマ
 あと1カ月で<3・11>から2年になる。アベノミクスの狂奔も被災地に届かず、復興特需は去りつつあるという。復興庁の位置付けもいまだ曖昧で、個々の思いと別に行政の機能不全が問われている。福島原発周辺では過疎化が進み、小中学校の廃校が続出しそうだ。

 原発事故関連のニュースを枕としてブログに記してきたが、最近はやり過ごすことが増えた。被災地への思いを忘れ、安逸をむさぼる俺は、人ではなく獣と同類だ。権力者を何より喜ばせるのが忘却と無関心であることを肝に銘じたい。

 スペイン人にも忘れられない<3・11>がある。04年3月11日、首都マドリードで起きた列車爆破事件で、191人が犠牲になり、2000人以上が重軽傷を負った。分離独立を求める「バスク祖国と自由」(ETA)による犯行と当局は発表したが、その後は二転三転。スペインのイラク戦争協力に抗議するアルカイダの関与が定説になっている。

 前稿に記したように、ここ数日は風邪で体調が最悪だったが、ネット予約していたので、渋谷で「悪人に平穏なし」(11年、スペイン/エンリケ・ウルビス監督)を見た。スペイン版<3・11>に至る数日を独自の視点で抉った作品で、ゴヤ賞の主要部門を独占した。ウルビス監督らスタッフは、被害者や遺族の感情に配慮して製作を進めたという。

 難解という評もあり、葛根湯ドリンクと眠々打破を飲んで観賞したが、冒頭でいきなりハイテンションになる。主人公のサントス刑事(ホセ・コロナド)が酒場で3人を殺してしまい、いきなり「その男の衝動は、正義か邪心か――。」というキャッチコピーの出番ときた。サントスは特殊部隊に選抜されるなどエース級の警官だったが、ある事件をきっかけに信頼を失い、現在は失踪者の捜索を担当している。孤独で荒廃したサントスの心象風景が巧みに描かれていた。

 予告編やチラシでは、3人殺害は酔った上での衝動的振る舞いとされている。証拠隠滅を謀るサントスは悪徳刑事というしかないが、熱に浮かされた俺の脳裏に別の貌が浮かんだ。敏腕デカとして麻薬組織やテロリストと向き合っていた頃の直感、トラウマ、デジャヴ、贖罪の意識……。それらがいきなりショートして甦ったのではないか。サントスが殺した男2人は平凡な市民ではなく、列車爆破事件に関わっていた。

 公開直後の作品であり、いずれDVD等でご覧になる方も多いはずだ。興趣を削ぎたくないので、主に本作の背景を記したい。俯瞰の目で見ないと、肝に迫るのは難しいと考えるからだ。

 すべてを吸収し撹拌する巨大な坩堝というのが、スペインに抱くイメージだ。バスクのみならず、マドリード、カタロニア、アンダルシアの地域対立は根が深い。規律と自由、カトリックと社会主義といった相容れない価値観は、今日も様々な局面で角突き合わせている。ユーロ危機で国家破綻が憂慮されたこともあり、スペイン人は怠け者と見る向きも多いが、生産性で独仏に匹敵する優良企業はかなりの数に上るという。本作にも勤勉なスペイン人が登場する。

 相反するイスラム教への反応も興味深い。イスラム統治を屈辱と考える者は、モロッコからの移民に対し差別的に振る舞う。そのことがイスラム原理主義者の反発を呼び、爆破事件の要因になったとみる識者もいる。一方で、イスラム時代は後のカトリック支配より遥かに寛容だったと評価する声もある。

 本題に戻るが、後半になってようやく、時間が大きな意味を持っていることに気付いた。「3月7日に、あなたは何をしていたのか」という問いは、<3・11>へのカウントダウンの意味がこもっている。サントスは身を賭して濃い影の実態に迫る。サントスを追う警察は終着点を見誤り、悲劇のスイッチを止めることはできなかった。

 本作のタイトル「悪人に平穏なし」は聖句(旧約聖書)から採られている。監督のインタビューによれば、同様の言葉はコーランにもあり、イスラム原理主義の指導者も時に引用しているという。監督はシナリオを書くにあたり、サントス刑事、怠慢な警察組織、爆破に関わったテロリストや麻薬組織などすべてに、悪人を重ねていたようだ。

 俺は悪人というほどではないつもりだが、善人でもない。俗物、嘘つきといったところだが、残念なことに平穏ではない。
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熱に浮かされながら「彼岸先生」を読む

2013-02-10 11:40:57 | 読書
 冷蔵庫に閉じ込められたみたいだ。真冬に強い自称〝薄着日本一〟だが、今年は珍しく風邪をひいてしまう。私的なイベントが重なり、加齢臭が気になる俺は、風呂に入る回数が増えてしまった。俗にいう湯冷めで、湿っぽい俺の髪は乾ききらないと風邪の原因になる。用事を作らず、入浴を出来るだけ減らすことが、俺にとって効果的な風邪予防である。

 風邪をひくと気力が萎え、録画番組を眺めることになる。WWEの「ロイヤルランブル」には愕然とした。昨年の「レッスルマニア」に続き、ロックのいいとこ取りである。CMパンクが、かつては名選手だったとはいえ、俳優に負けるなんてストーリーラインは、プロレスの冒瀆ではないか。

 救いはアルベルト・デルリオの世界王座防衛だ。日本マットに敬意を払うデルリオは、猪木の影響なのかタオルを首に掛けて登場する。表現力は完璧で、最近ベビーターンしたとはいえ、佇まいは60年代の外国人ヒールに近い。大柄ながら父ドスカラスと伯父マスカラスからルチャのDNAを受け継ぎ、五輪レスリング代表を経て総合格闘技でキャリアを積んだ。デルリオこそプロレス史上、最も引き出しの多いレスラーだと思う。

 熱に浮かされながら「彼岸先生」(島田雅彦、新潮文庫)を読んだが、ピンボケの写真が数枚、脳裏に貼りついている感じだ。当ブログでは「悪貨」、「無限カノン三部作」、「退廃姉妹」、「カオスの娘」と島田作品を紹介してきたが、92年発表の「彼岸先生」は最も早い時期に書かれ、賞レースで不遇だった島田が泉鏡花賞を受賞している。

 本作に興味を持ったのは、「こころ」(夏目漱石)を下敷きにしていると知ったからである。高校生の頃、「こころ」に強い感銘を受けたが、漱石全作品読破の一環で再読した時、心に響くものが何もなかったのは別稿(08年8月21日)に記した通りである。「10代の頃の繊細さと鋭敏さを失くしてしまったのか」と俺は自分に問うたが、答えは否だ。「草枕」、「虞美人草」、「三四郎」には、最初に読んだ時を超える感動に浸れたからである。

 「それから」の代助は社会主義にシンパシーを抱き、衝動のまま愛する人を友人から奪う。作品には生々しい感情の迸りが溢れていた。その5年後、漱石が「こころ」を書いたきっかけは、明治天皇の死と乃木大将の殉死だった。大西巨人風にいえば<俗情との結託>に堕していたと、俺は落差を分析していた。俺が研究者で、このような趣旨の論文を発表したら、袋叩きに遭って学会から追放されたかもしれない。

 「こころ」から約80年後に発表された「彼岸先生」も、先生と主人公(ぼく、菊人)の交遊を描いている。パロディーとも評されるだけあり、構成も似ている。「こころ」の遺書は、「彼岸先生」では日記に相当する。彼岸先生はさほど有名ではない中年の作家、ぼくは外大でロシア語を学ぶ19歳の学生という設定で、ともに島田本人の分身といえるだろう。彼岸を辞書で引くと「生死を超越した理想の境地、悟りの境地」とある。ぼくの目に、彼岸先生は何ものにも囚われずに生きている遊民と映る。

 「こころ」の先生は彼岸先生と対照的に縛られていた。封建的な価値観、自由恋愛は御法度という空気、そして罪の意識とくれば、自ら命を絶つのも無理はない。ちなみに、則天去私の高みに達したとされる漱石だが、家人らの証言によると噂の類が大好きで、井戸端会議に耳をそばだてていたという。俗物性も持ち合わせていたのだろう。

 彼岸先生は色事師で、ぼくの姉とも関係を持つ。師たる者、弟子の姉妹にちょっかいを出すなんてタブーのはずだが、先生もぼくも気にしない。「こころ」で二人の死者を出した三角関係も奨励され、ぼくが先生の愛人のひとりである響子と関係を持っても波風は立たない。ちなみに、先生の奥さんをめぐる三角関係も描かれているが、「こころ」ほど深刻ではない。彼岸先生は恋愛に身を焦がすというより、女の海で抜き手を切っている。先生の仲間といえば、此岸でこそ輝く俗物連中だ。

 人生を享受しているかのような先生に異変が起きる。自殺を試み、精神病院に収容されるのだ。先生と自殺というミスマッチの謎を解くべく、ぼくは女性遍歴が綴られた先生の日記を読む。俺もぼくの身になり、死を選んだ理由を探ろうとしたが、熱でぼんやりした頭に核は浮かんでこない。職業的嘘つき、反面教師を自任する先生の真情も掴めぬまま、自殺が狂言であったことが明らかになる。自由奔放なはずの先生を縛っていたのはフィクションと嘘だったのだろう。先生は筆をおき、奥さんとささやかな余生にこもる。そこは果たして先生にとっての彼岸だったのか……。別の彼岸に渡った響子が先生に宛てた手紙がラストで示される。先生と、最も忠実な弟子であるぼくと響子のその後が鮮やかに描かれていた。

 読み終えた頃、ようやく熱が下がったが、作品は夢で読んだようにオブスキュアのままだった。読み解いてくれたのが、巻末の蓮實重彦氏の解説である。優れた評者はここまで掘り下げられるのかと感心した。ピンポイントで「彼岸先生」の本質に迫りたいなら、解説込みの文庫本がお薦めだ。
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「VANISHING POINT」~ブランキー・ジェット・シティが蒼い焔になった夜

2013-02-07 23:51:51 | 音楽
 コーチェラがスミスに再結成のオファーを出し、モリッシーが断りのコメントを発表するというのが、ここ数年のお約束になっている。今年もフラれた主催者が代わりとばかりストーン・ローゼスをメーンに据えたことが、全米で波紋を広げている。

 英国では再結成ギグに20万人超(3日間)を集めたストーン・ローゼスだが、アメリカではオルタナ系ファンでさえその名を知らず、「ローゼスって何者?」状態らしい。ピュリツアー賞受賞作「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」(ジュノ・ディアス著)には、スミスやキュアーといったUKニューウェーヴの浸透ぶりが描かれていたが、数年後の<マンチェスター・ムーヴメント>は大西洋を越えなかったようだ。

 フジロックは04年、1日限りのルースターズ再結成を演出した。「あのバンドも」とファンが心待ちにしているのがブランキー・ジェット・シティ(BJC)だ。その布石かと勘繰りたくなるのが、ファイナルツアー(00年)を記録したドキュメンタリーの公開である。「VANISHING POINT」(翁長裕監督、13年)は、BJCの3人、浅井健一(ベンジー)、照井利幸、中村達也の素顔を浮き彫りにし、バントとは何かを問い掛ける迫真の作品だった。

 〝日本のロックなんて聴く価値なし〟という洋楽派の偏見をぶち壊してくれたのが、BJCの「LOVE FLASH FEVER」(97年)だった。衝動的、前衛的、実験的、暴力的、刹那的、感傷的……。こんな形容詞が詰まった音の塊に脳天をかち割られる。不惑を過ぎていた新参ファンに、若者に交じってモッシュする勇気はなく、ライブに唯一触れたのは豊洲開催の'98フジロックだった。CDと映像作品でBJCを〝学術的〟に分析した俺の言葉に説得力はないが、「VANISHING POINT」の感想を以下に記したい。

 初期のBJCはヤンキー、不良、与太者、チンピラ、ロックンローラー、暴走族といったアウトローに支えられていたが、メンバーの立ち位置もファンと変わらなかったのではないか。本作で照井は上半身にびっしり彫られたタトゥーをさらしていたし、中村は「出所した友人が家に押しかけてきた」と話していた。〝危ない奴ら〟のイメージは実像に近かったが、優れた音楽性と浅井のナイーブさが、ファン層を少しずつ広げていく。

 BJCの歌詞の世界に近いのが映画「ウォリアーズ」(79年、ウォルター・ヒル)で、象徴的な曲は「絶望という名の地下鉄」だ。BJCはファンにとって、殺伐として夢のない日常に、救いとカタルシスを与えてくれる唯一の存在だった。「ウォリアーズ」はニューヨークが舞台だったが、BJCとファンが形成したサンクチュアリに重なるのはウエストコーストパンクである。

 10年以上も切磋琢磨し、しかもファイナルツアーというのに、バンド内にさざ波が生じてくる。ライブの出来が悪いと、負の感情が剥き出しになるのだ。曲を作るベンジーがイニシアティブを取っていると思い込んでいたが、カメラが捉えたバンドの〝ハート&ソウル〟は照井で、妥協を許さぬ「ロックンロールの求道者」といえる。自然児の中村は引き気味で、ベンジーは「テルちゃんが言いたいことはわかるよ」と調整役に回っていた

 「うまくやる必要なんてない。魂が入ってない」と刃を突き付ける照井に、「ブランキーは別の次元に行ってるんじゃ」と返すベンジーと中村にしても、充実したライブを見せたいという気持ちは変わらない。照井の情熱に触発され、本番前のセッションにも気合が入る。グルーヴを取り戻していく様子は感動的で、バンドが生き物であることを再確認した。帰宅後、部屋でDVD「LAST DANCE」を見たが、吹っ切れた照井の表情が印象的だった。

 浅井は本作で、「達也のドラムはパンクで、テルちゃんのベースは柔らかいから、相手に遠慮すると自分の持ち味を殺すことになる」(要旨)と話していた。音楽誌のインタビューで中村と組まない理由を聞かれ、「達也のドラムは歌うんで、自分と重なってしまう」と抽象的に答えていた。互いの個性と才能を知り尽くしているからこその言葉だと思う。

 かつて中村は、「俺はただ、ベンジーという稀有な才能を世に出したかった」と話していたが、夢が実現した時、志向性が異なる3人を繋ぎ止めるのは不可能だったのだろう。バンド内で闘いつつ調和し、ステージに立てば観衆と真剣勝負を演じてきたBJCは、蒼い焔になって消滅する。

 BJC解散後、ベンジーはシャーベッツ、JUDE、ソロと次々にユニットを変えながら今日に至る。俺も数回、ライブに足を運んだ。照井はROSSOを経てベンジーとPONTIACSを立ち上げたが、1回のツアーで休止した。中村は日本一多忙なミュージシャンで、音楽界、映画界から殺到するオファーをさばき切れない状態という。3人とも現役で、基本的にフリーとくれば、一夜限りにせよ再結成は夢物語ではない。美学に反すると言われたら、それまでだけど……。
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「ライフ・オブ・パイ」~トリックに満ちた哲学的ファンタジー

2013-02-04 21:49:28 | 映画、ドラマ
 スーパーボウル(SB)はレイヴンズが49ersの追い上げをかわし、12季ぶりに王座に就いた。ハイスコアでエキサイティングな最終決戦は、今季を象徴する内容の濃いゲームだった。今回は両チームを率いる兄弟ヘッドコーチ、新旧悪童対決が話題になった。HC対決では地味な兄ジョンがスターQBだった弟ジムに、悪童対決ではベテランLBのレイ・ルイスが新鋭QBキャパニックに、それぞれ貫禄を示した。

 NFLではシーズン後半に勢いづいたチームが頂点に上り詰めるケースが多い。12月に1勝4敗だったレイヴンズに目はなかったはずが、プレーオフ突入とともに空気が変わる。ルイスの引退宣言がケミストリーを生み、アップセットの連続でSBに進出した。勢いの差でレイヴンズ有利とみていたが、爆発的な攻撃力を誇る49ersは停電による中断後、勝利にあと一歩まで迫った。終了直前の微妙な判定が明暗を分けたが、あの場面でイエローフラッグを投げられるレフェリーはいるだろうか。

 NFLでは優秀な脚本家が束になっても太刀打ちできないドラマが起きるが、ハリウッドだって負けてはいられない。先週末、新宿ピカデリーで「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(アン・リー監督/12年、米)を見た。俺にとって3D初体験で、スクリーンから零れてくる自然の神秘に陶然とする。

 モントリオール在住のパイ・パテルが、空前絶後の物語を作家に聞かせるシーンから始まる。家族とインドからカナダに移住する途中、船は遭難し、少年パイ(スラージ・シャルマ)がベンガル虎のリチャード・パーカーと救命ボートで漂流する。パイが存命である以上、作品のテーマはサバイバルではない。

 インド人、いや、日本人も感覚的に理解している汎神論――万物に神が宿り、一切が神である――をベースに、哲学的テーマを追求している。リー監督は台湾人だからこそ、西洋的な合理主義と一線を画すオリエンタルな思考を作品に組み込むことができたのだろう。

 パイは少年時代、ヒンズー、イスラム、キリスト教に関心を示し、現在は大学でユダヤ教のカバラを教えている。一つの世界に囚われることなく自らを解き放つパイの志向は、インド系の作家たちに通じている。南米から<マジックリアリズム>を継承したサルマン・ラシュディを筆頭に、アラヴィンド・アディガ、キライ・デサイらが文学の最前線を疾走している。

 小説家だけでなく、インドは数学者の宝庫だ。高等教育とは縁がなかったラマヌジャンは直感で数学界を瞠目させ、<数学の秘儀を授かった人>と評された。ちなみに本作のパイの呼称は、小便を連想させる本名から逃れるためにπ(円周率)を暗記したことによって定着した。パイはインドの大地に根付く閃きを受け継いでいる。

 全編CGで創り出されたパーカーは、父が運営していた動物園で飼われていたという設定ゆえ、全くの野生ではない。海に潜って餌を自力で補給するより、パイが加工した切り身を食べる方を選ぶなど〝飼い虎〟状態だ。海からボートに這い上がれず、パイの助けを借りるシーンが微笑ましい。パイとパーカーの距離の縮まりは、両者が交わす視線に表れていた。

 作品後半で、ボートは無人島に辿り着く。真水が湧き出る池があり、木々が生い茂る島にミーアキャットの大群が暮らしている。食料が豊富な楽園に思えた場所が〝死の島〟であることをパイは見抜いた。あのまま滞在していたら、パイとパーカーは、剽軽な外見と裏腹に共食いも辞さない肉食獣の餌になったはずだ。

 メキシコに漂着し、パイは病院に搬送される。そこに登場したのは保険会社調査員の2人の日本人男性だ。これがステレオタイプの日本人なのか、目に見えるものしか信じないつまらない存在として描かれていだ。パーカーとの道行きを与太話と決めつけられたパイは、船員、コック、母に纏わるもう一つのストーリーを語る。映像ではそれぞれシマウマ、ハイエナ、オランウータンとして描かれていたが、それらが消えた後、パーカーが現れる。

 「ライフ・オブ・パイ」は一筋縄で収まらない作品だ。辻原登の小説に似て、複層的な構造を持ち、曖昧な虚実の境界線で事実と幻想が擦れ合っている。パイの救出後、森に姿を消したパーカーは、パイに潜む野性の象徴と見ることも可能だ。本作はトリックに満ちた哲学的ファンタジーといえるだろう。

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「冷血」~深淵と混沌に屹立する高村薫の世界

2013-02-01 14:24:52 | 読書
 園田隆二氏(女子柔道代表監督)が反省の弁とともに辞意を表明した。メディアの袋叩きに遭うだろうが、責める相手は他にもいる。田村厚労相は先月、パナソニック、NEC、ソニーなどにおける「追い出し部屋」の実態調査を指示した。〝いかにも〟と思える前田氏より、陰湿かつ大掛かりなパワハラを実行し、精神的暴力を振るっているのが大企業の紳士たちだ。

 この国で今、誰しも息を潜めている。職場やコミュニティーで許し難いことが起きても、あなたは抗議するだろうか……。恐らく、何もしない。大人社会の澱みは、子供たちに伝播した。自由が欠落した社会で、メディアは統治のツールになる。<3・11>以降の権力側への露骨な阿りと事実の隠蔽で、日本の報道の自由度は22位から53位に急落した。

 日本の閉塞を穿った小説を読了した。高村薫の新作「冷血」(上下/毎日新聞社)である。「報道ステーション」(28日)で「読み方もしいどい」と古舘キャスターが作者に話していたように、エンターテインメントとは真逆の長編(2段組み600㌻)だ。世田谷一家殺人事件(00年)と「冷血」(66年、トルーマン・カポーティ)が下敷きになっている。

 第一章「事件」で被害者一家の長女あゆみと殺人者たち(戸田吉生と井上克美)のモノローグが交錯し、第二章「警察」で事件発覚から逮捕に至る経緯が綴られる。語り部は前作「太陽を曳く馬」に続き合田雄一郎刑事で、本作では捜査の最前線と警視庁とのパイプ役である。雄一郎は権力争いによる捜査の停滞を正し、機を見た提案で事件の早期解決を導いた。

 サスペンスなら犯人検挙でジ・エンドだが、本作の肝は下巻を丸々使った第三章「個々の生、または死」だ。作品は「太陽を曳く馬」同様、〝人間という難解なミステリー〟に踏み込んでいく。「太陽を――」の秋道は他者と意思の疎通が図れない青年で、描く絵の構図と色彩が精神的な傷を表していた。秋道は他者との間に越えられない壁を築いていたが、「冷血」の戸田と井上は、同じ殺人者でも身近にいるような青年たちだ。

 「報ステ」で高村は、自ら設定した物語の根幹――2人はなぜ知り合った数日後、一家惨殺に至ったのか――について「私もわからない。わからないまま正直に書いた」と語っていた。戸田は孤独、井上はお調子者……。ともに激しやすいが、金銭や女性にはストイックで、慎ましい生活に慣れている。被害者と加害者の間に絶対的格差が横たわっているが、本作では遠景に過ぎない。取り調べで明らかになったのは、疎外されて生きてきた戸田と井上に、人生において最初で最後の友情が芽生えたことだ。別々に供述しながら、相手を貶めることは一切なく、刑事たちが驚くしかない〝五分の共犯関係〟が成立していた。

 ドラスチックな禁断の書というべき「神の火」と本作は、ともに実行犯が2人だ。「神の火」の島田はかつて原研研究員で旧ソ連への情報提供者、幼馴染みの日野はアウトローである。敦賀の原発を破壊し、世界にピリオドを打つ2人は確信犯の同志だが、戸田と井上は意志ではなく偶然の重なりに身を任せていく。作者が意図的に解答を放棄した<人間とは、家族とは、罪とは、そして死刑とは>という問いは、そのまま読者にぶつけられる。<考え続けることが生きる証し>と話す高村は、最高の教材として「冷血」を書き上げた。

 雄一郎は作者の分身として、戸田と井上の来し方、心象風景に迫っていく。教師である両親の期待に潰された戸田は工芸展に足を運び、「パリ、テキサス」(84年、ヴィム・ヴェンダース)に感銘を受けていた。粗野とナイーブ、単純と明晰というアンビバレンツを併せ持つ井上は、自然に強い憧憬を抱いている。2人と交流するうち、雄一郎の心の闇は濃さを増し、人間という存在が必然的に抱える不条理に行き着く。

 俺は当ブログで「太陽を曳く馬」を、<純文学を超えた天上の文学>と評したが、「冷血」は<深淵と混沌の極みにそびえる搭>といっていい。かつて田勢康弘氏は「高村さんと同時代に生きていることに幸せを感じる」と述べていたが、俺は本作でその思いをさらに強くした。高村はパティ・スミスと匹敵する稀有の女性表現者である。

 「マークスの山」から20年、作者(高村)も主人公(合田雄一郎)も齢を重ねて成熟したが、読者たる俺は果たして……。とまれ、3月にWOWOWで放映される「レディ・ジョーカー」(全6話)が待ち遠しい。合田雄一郎を演じるのは「マークスの山」に続き上川隆也だ。
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