酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

さよなら「朝日ニュースター」~中身が変われば蜜月も終わる

2012-03-29 23:54:29 | 社会、政治
 イチロー凱旋試合の合間、3人の死刑囚に刑が執行された。大道寺将司死刑囚の全句集「棺一基」を予約したばかりの俺は、暗い気分になる。一方で死刑賛成派は、「腰抜け」と攻撃してきた小川法相に喝采を送っているはずだ。

 消費増税法案が可決される見通しだ。反対の根拠を明確に示せない俺だが、「欧州では遥かに税率が高い」と喧伝する賛成派が詐欺師であることぐらいわかる。17・5%の英国は食料品0%、19・6%のフランスでは同5・5%……。欧州では贅沢品と生活必需品に分別して課税しているからだ。低所得層に〝針の雨〟を降らせる野田内閣の意図が透けて見える。

 かつて税率アップには枕詞があった。<北欧型高福祉国家を目指すため>、あるいは<年金・医療制度を再構築するため>……。枕詞はいつしか消え、使途が曖昧になっている。29日付夕刊1面の<東電 公的資本1兆円受け入れ 賠償支援も要請>の見出しにビビッときた。増税分の多くが東電救済と原発継続のために投入されるのではないかと……。

 世を無力感と閉塞感が覆っているが、片隅で抵抗するメディアもあった。「朝日ニュースター」である。3・11直後、「ニュースの深層」は広瀬隆、広河隆一両氏を相次いでスタジオに招き、当然のように電事連はスポンサーを降りた。実は3・11直前にも〝事件〟が起きていた。上杉隆氏は鎌仲ひとみ監督(「六ヶ所村ラプソディー」など)を「ニュースの深層」に呼ぼうとしたが、NGが出た。鳩山邦夫議員の秘書を務めた上杉氏は、当時のつてを頼って凄まじい圧力をはねのけたに違いない。

 〝日本のメンゲレ〟山下俊一氏に「がん大賞」を授与した朝日新聞にとって、「ニュースの深層」と「愛川欽也~パックインジャーナル」は鬼っ子的存在になる。「朝日ニュースター」の組織改編は、政官財の怒りを鎮めるためと考えるしかない。4月の番組表を見て、局名は同じでも魂が消えたことに気付く。蜜月は終わり、契約解除の手続きをした。

 「デモクラシーNOW!」は動画サイトに移り、継続して視聴できる。この半年、「ウォール街を占拠せよ」を繰り返し特集し、反グローバリズムの理論的支柱であるナオミ・クラインとマイケル・ムーアが頻繁に登場していた。番組を続けて見ていて、俺は自分の無知に気付く。「ウォール街――」は起点ではなく通過点だったのだ。

 クラインはムーブメントの端緒を01年のアルゼンチンに遡っていた。4代続いた政権を倒した数百万人のデモに、<水平に繋がる>新たな形が現れる。従来の世界観が崩壊した今、旧来の<指導者―追随者>のタテの関係に変わるヨコの組織論が運動体を貫くようになる。先行したのはイタリアやスペインの闘いで、アドバスターズ紙(カナダ)の呼びかけでウォール街占拠に立ち上がった中心メンバーは、欧州型直接民主主義をイメージしていたという。

 ウォール街に先んじたロンドン蜂起に関わった女性ジャーナリストのコメントが印象的だった。日本で〝暴動〟と報道されたロンドン蜂起は理念的に「ウォール街――」と重なり、メディアや警察の対応も同じと指摘した。ブルックリン橋での一斉逮捕直前、ロンドンでの徹底的弾圧の記憶が甦り、事態を察知した彼女は隊列から離れた。

 マイケル・ムーアの「シッコ」をご覧になった方は、アメリカの企業メディアが隣国カナダの充実した医療保険制度を「社会主義的」と批判する様子に愕然としたはずだ。「ウォール街――」で3大ネットワーク(ABC、NBC、CBS)、CNN、FOXは共同で情報操作を行う。集会参加者に片っ端からインタビューし、膨大なフィルムから口下手の人の声だけピックアップしてオンエアする。クラインは「マスメディアの使命は社会の知的レベルをどん底に落とすこと」と憤りを隠さなかった。

 紀伊國屋でクラインの著作を手に取り、店員がレジを打とうとした刹那、「俺には無理です」と頭を下げてカウンターから引き返したことがある。世界の本質を的確に指摘するクラインの言葉に再び触れ、次の機会には必ず購入し、時間がいくら掛かろうが放棄せず読了しようと誓った。反グローバリズムのバイブル「ブランドなんか、いらない」で世界を瞠目させたクラインは、30代半ばにして(現在41歳)世界最高の知識人のひとりと謳われるようになった。最前線で権力と対峙するチャ-ミングな女性活動家でもある。

 マイケル・ムーアは「5000万人が医療保険の外に置かれ、4000万人が読み書きできない絶望の国に、反ウォール街の運動は希望を灯した」と語り、仕掛け人としてバクダッドの民間人虐殺をウィキリークスに告発したブラッドリー・マニングの名を挙げていた。個としての決意と勇気が民主主義に至る道のりである点は、日本でも変わらない。

 3・11から1年以上経ち、怒りを失くした日本人は、赤子の手をひねるが如く政府とメディアに屈している。テレビは電力不足を喧伝するが、<全原発を停止しても十分供給は可能>と説く学者やジャーナリストは画面から消えた。前原政調会長は「5月5日までに原発再稼働」との方針を明かした。〝本籍ワシントン〟の前原氏にとり、放射能に脅かされる子供たちなど大した問題ではないのだろう。


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甘味が効き過ぎた「青い塩」

2012-03-26 23:15:54 | 映画、ドラマ
 「TPPはビートルズ」の野田発言に愕然とした。アメリカがジョン・レノンで日本がポール・マッカートニーなら両国は対等だが、日本はことごとくアメリカに追随している。この上下関係を前提にした日本の政治風土に、地殻変動の兆しがある。原発事故とTPPが、排外主義と無縁の<健全なナショナリズム>を胚胎させたのだ。

 ビートルズを生んだ英国で、宮市(ボルトン)が先週末、決勝アシスト(CK)でチームを降格ラインから浮上させた。いずれ宮市がアーセナルに戻り、香川(ドルトムント)がマンチェスターUのオファーを受けたら、本場で夢の対決が実現する。〝日本から来たジョンとポール〟……。現地メディアはこんな風に2人の才能を絶賛するかもしれない。

 新宿で先日、甘味たっぷりの韓国映画を見た。「青い塩」(11年、イ・ヒョンスン監督)である。中年男のドゥホン(ソン・ガンホ)と謎めいた若い女性セビン(シン・セギョン)の相寄る魂を描いている。

 ソン・ガンホといえば「義兄弟~SECRET REUNION」(10年)が記憶に新しい。「義兄弟」と「青い塩」には以下の共通点がある。

□背景…「義兄弟」は南北の緊張関係、「青い塩」は闇世界の勢力争い
□W主演…「義兄弟」は元韓国情報員のハンギョ(ガンホ)と北朝鮮工作員(カン・ドンウォン)、「青い塩」は元ヤクザとその命を狙う女スナイパーとの葛藤と交流
□テーマ…「義兄弟」は体制を超えた友情、「青い塩」は年齢差を超えた恋愛

 ドゥホンとセビンの出会いは料理教室で、レシピが滑車の役割を果たしている。塩田での銃撃からラストへの急転回はいわば予定調和で、伏線はたっぷり用意されていた。青がベースの画集のような作品で、ソウルの花火や海の光景など、監督の美学が全編にちりばめられている。

 及第点は付けられるが、絶賛とはいかない。時系的に逆になるが、「青い塩」⇒「義兄弟」の順に見たら納得しただろう。最初にシャープな「義兄弟」を見た以上、「青い塩」に散漫な印象は拭えない。息詰まる展開のはずなのに、切迫感を覚えないのだ。牛乳、バター、生クリーム、アーモンド、チョコ、イチゴ、シロップ、ビスタチオetc……。タイトルと裏腹に、贅を尽くしたデコレーションケーキを供された感じがする。

 前稿で記した「おとなのけんか」の登場人物は4人だけだった。そこまでは無理でも、登場人物と設定を省けば、「青い塩」は締まった作品になったと思う。全体のトーンに準じ、ドゥホンも非情の牙を抜かれていた。元とはいえ、闇世界で名を成した男が裏切り者と妥協していた。
 
 あれこれケチを付けたが、「青い塩」はチョイ悪のやさぐれ中年と、アンニュイを滲ませる若い女との(疑似?)恋愛映画だ。プリクラに興じ、カラオケを楽しむ2人の様子も微笑ましい。ドゥホンとセビンの触れ合いをどう捉えるかは、見る側の年齢や人生経験によって変わると思う。

 俺にも男女関係について持論がある。理想は肉親の情に至ることだが、その過程には肉体的結びつきが不可欠というもの……。ピント外れの可能性大で、恋愛の真理を知らないまま召されることは確実だ。


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「おとなのけんか」~春一番から暴風雨へ

2012-03-23 13:15:23 | 映画、ドラマ
 喧嘩はかつて、火事と並んで江戸の華だった。当事者が引くに引けなくなった頃、野次馬の中から道理を弁えたご隠居が登場し、その場を収める。喧嘩は当時、ストリートに息づく文化だった。

 21世紀になっても、世間の喧嘩好きは変わらない。例えば、あなたの会社……。派閥争いや対立が話題になると、誰しも渋面を作る。でも、その口元は綻んでいる。小泉純一郎元首相、石原慎太郎東京都知事、橋下徹大阪市長といった人気政治家は、揃いも揃って好戦的な喧嘩屋だ。

 メディアにも<常在戦場>を実践する御仁がいる。朝日新聞、清武英利氏に挟撃されてアドレナリンが分泌されたせいか、渡辺恒雄氏は<ヒトラーを想起させる>と橋下大阪市長に喧嘩を売った。しばしの沈黙を経て、橋下氏は「渡辺氏の方が独裁的」とツイッターで反撃に転じる。

 喧嘩で勝つのは、声が大きい者、力が強い方と決まっている。原発など最たるもので、大飯で再稼働すれば、フクシマはやがて風化する。理念と情理を踏まえ、「未来を担う子供たちのため、原発は止めよう」と弱小ブロガーが叫んだところで、万里の長城に立ちションしているようなものだ。

 「おとなのけんか」(11年、ロマン・ポランスキー監督)を日比谷で見た。息子の喧嘩が両親に波及して大人の幼児性が暴かれる内容に、邦題が妙にマッチしていた。舞台はニューヨークだが、製作は欧州4国(フランス、ドイツ、スペイン、ポーランド)で、パリで撮影された。ポランスキーがアメリカに入国できないためである。

 登場人物はマイケルとペネロペのロングストリート夫妻、アランとナンシーのカウアン夫妻の4人だけ。息子が級友を傷つけたことを詫びるため、カウアン夫妻が被害者宅を訪れる。和解成立と思いきや、言葉の綾でこじれていく。物語はすべてロングストリート家で進行する。

 ペネロペは人権問題やアートに関心が強いリベラルで、夫マイケルはステレオタイプの<粗野なアメリカ人>だ。弁護士のアランと投資ブローカーのナンシーは勝ち組カップルだが、子育てや家族に対する考え方は正反対だ。口論の途中、人生観や価値観の違いが浮き彫りになり、夫妻間の亀裂も隠せなくなる。

 ナンシーの嘔吐をきっかけに、各自が3人を敵に回す展開になる。マイケルはブルドッグのように吠え、狡猾なアランはゲームを楽しんでいる。ペネロペ役のジョディ・フォスターは、メイクの陰から素顔を覗かせ、感情の高ぶりを表現していた。4人は果たして坩堝から解放されるのか? ネタバレになるが、カタストロフィを回避する仕掛けがラストに用意されていた。

 アランが顧問弁護士を務める製薬会社で薬害問題が発生し、マイケルの母は手術のため入院している。電話で同時進行する二つのサイドストーリーが密室劇と交錯し、登場人物のボルテージは上がる一方だ。このパターンを十八番にした故ロバート・アルトマンなら、同じ題材をどんな風にさばいただろう……。そんなことを考えながら帰途に就いた。

 クランクアップから半年後、反ウォール街のデモ参加者がブルックリン橋で一斉検挙された。子供たちの喧嘩は橋近くの公園で起きたという設定である。ペネロペが熱く語るスーダンの人権抑圧といえば、ジョージ・クルーニーが在米大使館前の抗議行動で逮捕されたニュースが記憶に新しい。

 処女作「水の中のナイフ」から半世紀、ポランスキーは常に時代や体制と格闘してきた。「ブルックリン橋」と「スーダン」を台詞に組み込んだのは、その過程で培った直感と予知能力の成せる業か。結果として「おとなのけんか」は普遍性だけでなく、時代性も獲得した。


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「眼の海」漂流~死と生を繋ぐ舫の網にくるまれて

2012-03-20 23:09:16 | 読書
 前稿冒頭に記した吉本隆明のように、詩人としてキャリアをスタートした物書きは多い。閃きを一瞬に昇華させる詩作は、音楽や数学と同様、才能の絶対値が問われる分野といえ、ランボーは二十歳を過ぎて一編の詩も残さなかった。

 五臓六腑から吐くように言葉を紡いできた辺見庸は、還暦を過ぎて詩人になった稀有の例かもしれない。第1詩集「生首」(10年)は中原中也賞、今日紹介する第2詩集「眼の海」(11年)は高見順賞と、相次いで栄誉に浴した。

 <消化不良で反芻中>と前稿に記した通り、「眼の海」は俺のレベルを遥かに超えていた。大学生の頃(35年前)、先輩に勧められて詩集をめくった程度の俺に、本作を読み解き、感じる力は備わっていない。一夜漬けで書いたリポート程度の感想を以下に記す。

 海底深く沈む魂の森から、死者が生者を試すように眺めている……。そんなモノトーンの光景が、けさ読み返すや、赤を基調にしたカラフルな世界に転じていた。

 ハマレイの赤い花、ぬぐっては流れだす赤い光、赤錆色した水面、ピラカンサの実の赤いひと粒、赤い爪の先、あんなにも赤い残照、真っ赤に変色したカメどもの甲羅、(蒼い牛の霊の)赤い心臓のきざはし、赤いハナカンナ、アカエイ、双子座のポルックス(赤みを帯びた巨星)etc……。

 辺見は赤を意識的に配し、血、炎、夕陽も頻繁に織り込んでいる。

 乳色の半透明膜、銀色の宇宙塵、みぎわを暮れがた音なくすべっていくふたしかなもの、月白色の薄片、担子菌、飛ぶ胞子、運転手の瘠せた背に映るほの暗い恒星etc……。直接的な表現はないが、放射能の暗喩が全編にちりばめられていた。

 辺見の思弁を屈折させ反射させる脳内のプリズムを、以下に挙げてみる。

 プリズムAは<少年期の原光景>だ。辺見の故郷石巻は津波の被災地だった。散文詩「赤い入江」に描かれるのは少年時代の記憶と秘められた予感である。プリズムBは<死と生の境界>だ。脳出血で倒れ、大腸がんで病床に伏した辺見と死との距離は、津波で知人が召されたことでさらに縮まった。

 岩棚の三つの首たちは 眼窩をさらし 流星群に見入っている 右側の首は思う <はじまったのか> 真ん中の首はおもう <おわったのか> 左側の首はいぶかる <それらは同じではないか> 汀線はいま世界のどこにもない(「夜の岩棚の首たち」)

 世界とはせいぜいがひとびとの体面の幻影程度にすぎない海市のことである。刻はちかごろしばしば太古に向かい逆進している(「行方」)

 プリズムCは<3・11前と後の連続性>だ。辺見にとって3・11は、進行していた崩壊の象徴であり、来るべきカタストロフィーの予兆だった。時系列は解体し、空間の整合性にズレが生じる。世界は既に、無に帰しているかのように……。

 プリズムDは<個として個に向き合う>だが、辺見は道程の険しさを味わっている。

 浜菊はまだ咲くな 畔唐菜はまだ悼むな わたしの死者ひとりびとりの肺に ことなる それだけのふさわしいことばが あてがわれるまで(「死者にことばをあてがえ」)

 オオマツヨイグサが咲いた しおさいはかすかに泣いた わたしの死者たちの洞に ことばは ついに あてがわれなかった(「眼の化野」)

 プリズムEは<地獄絵図の記憶>だ。辺見はジャーナリストしてポルポト政権の虐殺の傷痕、サラエボ空爆などを取材したが、斃れていく人々に同化できなかった。プリズムFは当時に遡及する<原罪意識と無力感>だ。
 
 ヒトヨタケは、生涯をつうじ個としてたたかうということのない、群れと絆、斉唱と涙、断念と裏切りを好み、それらを美とし、無常をうそぶく、まぎれもない腐生菌であるという事実である(「ヒトヨタケの歌」)

 ぼくもあなたも、渚の近くのヒトヨタケ。傘たれて、うつむいた、しおれて冴えないヒトヨタケ(同)

 生きている人間は、生活に追われ忘却するが、死者はそれを許さない。散文詩「行方」は、何もなかったことにしようとする世間を、そして誰より自らを撃っていた。

 「眼の海」は鎮魂、慟哭、絶望、諦念の書に違いない。だが、俺が覚えたのは、無間の闇に置き去りにされたような寂寥だった。目を細めると、<赤>が微かに揺れている。辺見が<赤>に何を託したのか知るために、俺は何度も「眼の海」を漂流するだろう。死と生を繋ぐ舫の網にくるまれて……。
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「預言者」~鮮やかに胸を打つフレンチノワール

2012-03-17 22:08:03 | 映画、ドラマ
 原発肯定論(週刊新潮掲載)は物議を醸したが、吉本隆明氏が亡くなった。吉本信者どころかファンともいえぬ俺だが、<知の巨人>の冥福を心から祈りたい。俺の中で吉本氏は、情と感に根差した詩人である。凡人に手が届かない宙を浮遊する感覚、地表深く沈む普遍的心情をキャッチして思弁に組み換える様に、何度も感銘を受けた。

 最初に読んだのは政治評論集「擬制の終焉」だった。60年安保で最前線から逃亡した日本共産党を鋭く批判し、<共産党=前衛>の擬制が終焉したと高らかに告げる書である。悲しいかな共産党は、吉本氏の直感を証明し、<闘いより票>を実践して今日に至った。メディアが書き立てる<全共闘世代の教祖>の〝冠〟に相応しいのは吉本氏ではなく高橋和己で、吉本氏の著作は次第に〝書斎派のバイブル〟と化していく。

 さて、本題。吉本氏と接点(対談集「夜と女と毛沢東」)、共通点(詩人としてのキャリア)のある辺見庸の第2詩集「眼の海」について記す予定だったが、挫折した。中身は俺の力量を遥かに超えており、消化不良で今も反芻中だ。次稿以降に延期し、今回は「預言者」(09年、ジャック・オーディアール)を紹介する。

 意味ありげなタイトル、フランス映画、カンヌの実績(審査員特別グランプリ)、長尺(150分)、控えめなパブリシティー、ガラガラの客席……。映画が始まる前、俺は爆睡を覚悟した。

 オープニングでマリク(タハール・ラヒム)が刑務所に移送されてくる。刑務官とのやりとりで、懲役6年(警官への暴行?)、天涯孤独が明らかになる。アラブ系ながら容貌に白人のDNAが窺え、豚を食べることから敬虔なムスリムではない。19歳でアイデンティティー喪失状態のマリクは、刑務所で最も生きづらいタイプだ。

 人種、宗教を軸にした集団が内庭にたむろしているが、刑務所を支配しているのはコルシカ系マフィアのボス、セザール(ニエル・アレストリュプ)だ。セザールはアラブ系グループに加わらないマリクを仲間に誘った。厳しい条件をクリアしたマリクは、「アラブ」と罵られながらコルシカ系の懐深くに入っていく。

 マリクの長所は向上心だ。刑務所内で縫製の技術、フランス語の読み書き、経済学の基礎を学んでいくが、最も役に立つ講座はセザールによる<社会の力学>だ。孤児のマリクにとり、セザールは高圧的で理不尽な仮想の父だ。本作は<父殺し>の要素も濃く、両者の立ち位置のドラスチックな変化が象徴的に示される。

 フランスでは、刑務所の内側は外の世界と無縁ではない。麻薬取引を巡り鎬を削るコルシカ系、イタリア系、エジプト系の争いで主導権を握りたいセザールの指示により、外出日にあちこち訪ねる過程で、マリクは自らのコネクションを築いていく。内気で孤独なマリクの内側で怪物が覚醒していた。

 タイトルの「預言者」は、あるマフィアがマリクを評した言葉だ。マリクは直観力と機転を発揮し、預言者の如く予定調和的に道を切り開いていく。他者と向き合えなかったマリクだが、最後の試練を鮮やかに突破する。ラストシーンでマリクは、「ミッション・インポッシブル」のトム・クルーズに負けないオーラを放っていた。

 フレンチノワールの系譜に連なる胸がすくエンターテインメントで、実験的試みもちりばめられている。効果的だったのは繰り返しインサートされるイメージで、悔いや友への思いなどマリクの心的風景が表現されていた。爆睡どころがアドレナリン全開で帰路に就く。

 マフィア、ギャング、ヤクザというと顔を顰めるむきも多いが、日本の政治も怪しい輩に牛耳られている。田中康夫議員のコラム(仕事先の夕刊紙掲載)によれば、「震災がれき」受け入れを主導する枝野経産相の実家は北関東有数の産廃業者という。玄海原発を巡る<佐賀県知事―玄海町長―九州電力―建設会社>の構図と何ら変わらない。原発は日本の政界を〝塀の中色〟に染めたようだ。
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覚悟を秘めた四筋の光芒~「福島原発事故から1年」集会に参加して

2012-03-14 23:52:36 | 社会、政治
♪誤魔化さないで そんな言葉では 僕は満足出来ないのです てんびんばかりは重たい方に傾くに決まっているじゃないか どちらももう一方より重たいくせに どちらにも傾かないなんておかしいよ(「てんびんばかり」/河島英五作詞)

 この一年、英五のラストの絶叫が脳裏で鳴り響いている。37年前の名曲は、当時の、そして現在の日本人の〝中立病〟を抉っているのだ。原発に置き換えて考えてみよう。

□原発推進派…安全神話は崩壊したが、経済的な面から早急に再稼働を進めるべきと考える。
□脱原発派…放射能から子供たちを守るため、地震大国日本で原発は即刻止めるべきと考える。

 自治体・学界・不透明な外郭団体(天下り先)に流れる原発マネー、事故が起きた際の天文学的な賠償額(海外も含め)を勘案したら、原発は決して安価ではない。だが、てんびんばかりは、若い世代の内部被曝を犠牲にしても既得権益を守る方向に傾いている。下支えしているのが、有識層の〝中立病〟だ。

 <政官財―メディア―学会―アメリカ>の巨大な連合体と闘っている者がいる。さる11日、<日比谷公園⇒人間の鎖>という選択肢もあったが、DAYSJAPAN主催「福島原発事故から1年」集会(なかのZEROホール)に参加した。パネリストは鈴木薫さん(いわき放射能測定室)、上杉隆(自由報道協会代表)、広瀬隆(ジャーナリスト)、広河隆一(デイズ編集長)の各氏である。覚悟を決めた者たちの光芒に触れた2時間半だった。

 鈴木さんはいわき市で内部被曝を抑えるべく奮闘している。人間への検査、食品の放射能汚染の測定に加え、あらゆる相談を引き受けている。毛が空中を舞うセシウムを吸収しやすいため、犬を飼うのは難しくなっており、洗濯物は外に干せない。とりわけ若い女性の不安は大きく、他の地域から移住してきた人は「逃げたこと」で罪悪感に苛まれている。最前線で心身のケアに取り組む者の貴重なリポートだった。

 上杉氏については繰り返し触れてきたので、欧州委員会とフランス原子力規制局が共催した会議に出席した時の報告に絞りたい。欧州各国の在日大使館が、信頼できると本国に伝えたのが、フリージャーナリストによる情報だった。その連合体である自由報道協会の代表を務める上杉氏が日本から唯一招待されたのは当然といえよう。
 
 チェルノブイリ事故当時、旧ソ連はキエフから小学生を一斉に退避させるなど無策ではなかった。公式の場、あるいはコーヒーブレークで多くの参加者が上杉氏に疑問をぶつける。「民主国家であるはずの日本は、なぜ住民に情報を隠蔽するのか」「メディアはどうして、政府や東電の言動をチェックしないのか」「日本政府はなぜ、子供を逃がさなかったのか」……。原発関連企業幹部も参加した当会議は、推進派が多数を占めた。日本政府の対応に怒りを隠さなかったのは、今後の事業展開を危惧する推進派の方だった。

 上杉氏の後は、自称〝放送禁止物体〟の広瀬氏が登場する。普段通りイラストや図表を提示し、視覚的に講演を進めた。メーンに据えたのは福島原発4号機の状況で、「週刊朝日」掲載のアーニー・ガンダーセン氏(米原子力技術者)との対談に沿っていた。具体的には、ウランを包むジルゴニウム合金が燃焼する危険性である。

 広瀬氏は地震学者と交流が深く、双葉断層での地震発生を指摘する趙大鵬東北大教授の説にも触れていた。「11年3月10日より、今この瞬間の方が地震が起きる可能性は高い」……と広瀬氏の言葉を記していたら、強い揺れを感じ、ドキッとする。上杉氏も指摘していた海への汚染水放流だけでなく、広範囲に及ぶ地下水の汚染についても警鐘を鳴らしていた。次なる地震が原発事故を引き起こしたら、あちこちで「タイタニック」級の混乱が起きる。最優先するのは幼い順から子供、そして女性……。前もって避難のルールを作るべきと説くのは、アジテーターの広瀬氏らしかった。

 広河氏は時間が押していたこともあり、自ら編集した「検証・原発事故報道 運命の1週間 3月11日~17日」(デイズ刊)を中心に進めた。広河氏の発言は、ブログで同署を紹介する際に併せて記すことにする。広河氏が提示した一枚の集合写真に心が痛んだ。ウクライナかベラルーシか、20人ほどの母親が、生まれたばかりの子供を抱いて写っている。左端の赤ちゃんは25年後、全身の腫瘍で苦しんでいるという。

 <この世の中には情に動かされない不思議な人々がいる。それは聖職者だとわたしは思うんだ>(「ウルフ・ホール」から)

 今読んでいる長編小説に、こんな記述があった。この一年、この国に<不思議な人々>が無数に存在することを知る。〝悪魔〟山下俊一氏に従う医師、〝東電の犬〟になった政治家、冷血な官僚、利だけ追う財界人、過ちを認めない研究者……。俺は性善説を信じている。彼らの中から良心に目覚める者が続出する日を待ちたい。
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内なる<3・11>~上滑りへの自戒を込め

2012-03-11 17:28:06 | 社会、政治
 <3・11>から1年……。メディアは特集を組み、数々の催しが全国で開かれた。これから参加する「DAYS JAPAN」主催の集会(広河隆一、広瀬隆、上杉隆各氏の講演)は次稿、「眼の海」(辺見庸)は次々稿で取り上げる予定だ。今回は内なる<3・11>を、自戒を込めて記したい。

 あの日午後、仕事先で地震を体験した。アンテナが倒れてテレビが映らなくなり、ネットも不調で情報過疎に陥る。運転を再開した地下鉄を降りると、〝夜のピクニック〟に吸収された。帰宅してテレビをつけ、深刻な被害をようやく知る。しばらくの間、映画や読書に時間を割く気にならなかった。3月末までのブログのタイトルを列挙する。

□13日=原発廃止が生きる道~東日本大震災に思うこと
□16日=オルタナティブに、フレキシブルに~脱原発は地方分権から
□19日=輝ける世代のために~棄民国家の大本営発表に騙されるな!
□22日=真実と風評の狭間~〝原発銀座〟近くで考えたこと
□25日=緊急報告会「福島原発で何が起きているか?」に参加して
□28日=震災と原発が写す〝ハダカの日本〟~南相馬市長の言葉が抉るもの
□31日=「石の来歴」に示された<負の円環>~大震災は脱出への契機になるか

 「棄民」や「大本営発表」を、他のメディアに先行して用いたという自負はある。その後も折に触れ、<3・11>をテーマに掲げてきたが、1年を経た今、違和感が膨らんでいる。言葉の上滑りが否めないからだ。地震は天災、原発は人災がたちまち了解事項になり、<3・11>から地震の部分が消えていく。悲しみ、喪失感、絶望は剥がれ落ち、<3・11≒原発事故>に記号化される。俺のブログも、知と理に根差すフワフワした言葉で溢れるようになった。

 昨春は法事とGWで2度帰省した。東京と京都との温度差に戸惑ったが、阪神淡路大震災時の自分を思い出して納得する。当時38歳だった俺は、浮草ライフを満喫し、被災地を他人事のように眺めていた。しばしば<感応力>と<想像力>の重要さを説く俺だが、17年前は両方が欠落した人間未満で、被災者の痛みに共感することは出来なかった。東日本大震災だけでなく、阪神淡路大震災の犠牲者に改めて哀悼の意を表したい。

 揺れを経験したこと、老いて死を間近に感じるようになったこと、放射能が若い世代を蝕む可能性が大きいこと……。いくつも理由が重なり、<3・11>には人間として向き合えた。とはいえ、生活を抱えている以上、出来ることは限られている。俺に当てはめれば、集会やデモへの参加、少額の寄付、そしてブログでの意思表示だ。

 防災対策の不備、奇妙なエネルギー政策、クチクラ化した縦割り行政、進まぬ地方分権、一貫した対米隷属と、<3・11>は日本が抱える問題点を明るみにした。悲劇を機にギアチェンジし、新たな方向に舵が切り替えられるはずが、混迷は深まるばかりだ。復興への道筋は見えず、政府は〝亡国のエネルギー〟原発の再稼働に躍起になっている。被災者の苦しみは浸潤せず、<石原―橋下>の強者の論理が喝采を浴びている。人間として当然の感情が置き去りにされ、自らが弱者になることに誰もが怯えている。

 <3・11>以前、既に日本は壊れていたのではないか。辺見庸は「水の透視画法」で、底が抜けた価値観、日常の不連続、社会の軋みを提示していた。辺見にとって<3・11>は崩壊の象徴ということになる。一方で、<3・11>をシステム崩壊への最後の一撃と捉える政治学者、歴史学者もいる。「中国化する日本」(文藝春秋)で知られる與那覇潤氏(愛知県立大准教授)ら若い世代が多い。

 終焉のシナリオは蔓延しているが、希望に満ちたビジョンは目にしない。老い先短い俺だが、再生への起点を見いだしたいと思う。グローバリズムが崩壊した今、ヒントを欧米に求めても無意味だ。かつて異端視された日本式の中に、それは隠れているのではないか。
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「六ヶ所ラプソディー」~柔らかなナイフが抉るもの

2012-03-08 22:57:05 | 映画、ドラマ
 当分の間、3・11を軸にブログを更新する予定だ。厳粛かつ勤勉に時を過ごすつもりだったのに、春の気配のせいか、ここ数日、眠くて仕方ない。酔生夢死状態の合間に、録画しておいた「六ヶ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督、06年)を見た。

 米軍の劣化ウラン弾投下で白血病に侵されたイラクの少年少女、核関連施設(米ワシントン州)の風下で頻発した体内被曝、原爆症患者に冷酷な日本政府をリンクさせた鎌仲監督の前作「ヒバクシャ~世界の終わりに」(03年)は、境界線なき被曝と被爆を訴えたドキュメンタリーだった。「六ヶ所ラプソディー」はトーンが異なり、鋭い切っ先を柔らかく包んでいた。2年にわたって六ヶ所村にカメラを据え、核燃料再処理施設を受け入れた住民の声も伝えている。四季の映像と津軽三味線のエキゾチックな響きが印象的だった。

 住民の生活を顧みず自然を破壊する国の姿勢は、足尾鉱毒事件以来、一貫している、水俣病やイタイイタイ病も、被害を訴える声は当初圧殺されていた。3・11以降は、情報を隠蔽し、棄民国家としての貌を世界に晒すことになる。国策としての原発に揺るぎはなく、民主党政権は再稼働に向け準備を整えている。

 エネルギー開発費の95%は原発関連だ。恩恵に与った班目春樹東大教授は、「原発で安心する日なんて来るはずはない」と本作で語っていた。「ボーリング調査の工事を受け入れただけで20億円ですが」と問うと、班目教授は「あの世界では大した額じゃない。原子力は儲かるんですよ」と答える。原発マネーは3兆円以上(「NHKスペシャル」)というから、20億円は些少な額なのだろう。

 班目教授は現在、原子力安全委員会委員長で、3・11以降、拙い対応でも批判を浴びた。不遜な班目教授と対照的だったのが小出裕章京大助教で、真摯な語り口でプルトニウムの危険性を訴えていた。両者の置かれている立場こそ、この国の倒立ぶりを象徴的に表している。

 見る者に<あなたは何を最優先して生きてますか>と問い掛ける作品だった。再処理施設への賛否は、各自の価値観によって異なる。放射能による健康被害が住民、とりわけ子供たちに及ぶことを危惧する者は、すべての原発に「NO!」の声を上げる。だが、周囲との軋轢を恐れ、安定した収入を求めるなら、再処理施設で働くことも選択肢に加わる。それぞれに事情と生活があり、賛成派を批判する気にはなれなかった。

 3・11後に敷衍すれば、<あなたはそれでも原発再稼働を支持しますか>との問いになる。安全神話は崩壊し、大島立命館大教授など、データを示して原発の効率性に異議を唱える研究者も多い。<原発抜きでは電気代が上がり、結果として経済発展を妨げる>という政官財の脅しも怪しくなってきた。そもそも経済発展は、国民にどのような恩恵を与えてきただろう。老人になるまで働かないと生きていけない社会……。これが、ご褒美だったのか。

 本作に登場する反対派は有機農業を実践している。自然、環境、健康に最大の価値を置いて暮らしてきたから、反原発のメッセージと矛盾しない。孤立しながら運動に取り組んできた人々に敬意を表したい。彼らの勇気と決意は希望に転じ、この国を変えていくと確信している。都会生活を享受してきた俺に、反原発を説く資格はあるだろうか? 思考は堂々巡りするが、若い世代を蝕む原発を止めるために必要なら生活の質を変えることを厭わない。

 
 閉鎖が決まった英セラフィールドの再処理工場周辺における、放射能汚染の実態と白血病発症率の異常な高さがリポートされていた。セラフィールドは再処理施設が稼働した時の六ヶ所村の未来? チェルノブイリの現在が3・11後の日本の未来? 暗澹たる気分になるが、まずは現実を直視することが大切だと思う。 
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将棋と麻雀に見る老いの意味

2012-03-05 23:52:03 | 戯れ言
 「八日目の蝉」(11年)が日本アカデミー賞で10部門を独占した。広範な層のファンに支持される作品なのだろう。ちなみに主演女優賞=井上真央、助演女優賞=永作博美は逆のような気がする。

 コクでは「八日目の蝉」に及ばないが、先週末に見た「麒麟の翼」(12年)もまずまずの出来栄えだった。阿部寛、中井貴一を筆頭に豪華なキャスティングで、法が問うべき罪、正義と道義で問うべき罪を併せて追求している。格差社会の歪みも背景に描かれていた。上記の2本に重要な役で出ていたのが劇団ひとりで、<深みと責任感のない男>がハマっていた。

 さて、本題。今回はテレビ大好き初老男にとって最高のアイテム、将棋と麻雀について。ともに実戦から遠ざかっているが、スポーツ感覚で観戦している。将棋はNHK杯トーナメントとタイトル戦(名人戦、竜王戦)の中継、麻雀ならMONDOの週1回の対局とスカパーで復活した「われめDEポン」で、いずれも録画で楽しんでいる。

 先日、BSプレミアムで「将棋界の一番長い日」が放映された。ファンの耳目を集めるA級順位戦最終局だが、今年は8回戦終了時点で羽生2冠が名人挑戦権を獲得しており、例年より盛り上がりに欠けた。俺が今、最も応援している久保2冠がA級から陥落という残念な結果に終わる。ちなみに久保は王将、棋王も失冠の危機で、剣が峰からの逆襲に期待するしかない。

 51歳の高橋9段は最終局で谷川9段を破り、2勝7敗ながら残留を決めた。50歳前後といえば、社会でいえば脂が乗り切った時期だが、棋界では事情が異なる。棋力のピークは30代半ばまでで、4月に五十路を迎える谷川ともども、アラフィフの高橋がA級を守っているのは偉業と言うしかない。かつて鬼だった羽生も、不惑を迎えるや大一番での勝負強さが薄れている。

 将棋界と景色が似ているのが物理学やポップミュージックで、天才は20代のうちにその閃きで周りを瞠目させる。才能の絶対値で勝負する世界だから、修練によって人間が磨かれることなく、自然児のまま年輪を重ねる。名人戦の朝日移管問題で連盟が混乱した時、渡辺竜王(当時22歳)は筋の通らない大先輩たちの言動を非難し、世間の支持を得た。同じ頃、〝毒舌王子〟山崎7段はNHK杯の解説で青野9段を「将棋界に珍しい人格者」と紹介し、聞き手の〝暴言女王〟千葉女流4段を絶句させていた。

 将棋は知的なゲームで、麻雀はギャンブル……。これが一般的なイメージだ。将棋では不可能だが、麻雀なら俺のようなヘボでも、プロと半荘2回を互角で終えることも起こりうる。だが、対局を毎週見ているうち、麻雀というゲームの奥の深さに気付き始めた。

 理と知を追究する将棋では若手が優勢だが、運の要素が濃い麻雀では、50歳以上の方が強い。人生経験、個性、美学が打ち筋に反映しているのだ。中堅相手のモンド杯で力量を見せつけていた土田浩翔も、戦いの場を名人戦に移すや、ベテランたちの存在感に気圧されたのか、2年続いて結果が出なかった。

 小島武夫は76歳の今も、最も魅力的な雀士だ。解説も聞き応え十分で、データや効率を重視する若手デジタル雀士を否定している。麻雀はツキの流れを意識的に引き寄せるゲームで、勝つためには洞察力や直感を養うべしというのが、小島の持論である。ちなみに贔屓にしている新津潔は受けが雀風で、同い年(1956年)生まれだ。顔色を心配していたが、黒さは病気ではなく、趣味のスキューバダイビングのためと知り、少し安心した。

 前稿冒頭で記した萩原聖人も強豪雀士で知られている。その萩原を前回の「われポン」で下したのが見栄晴だった。馬券師であり、「競馬予想TV!」の司会ぶりに毎週接しているが、麻雀も強いとは知らなかった。同番組の顔ともいえる血統予想家の水上学氏は自身のHPで、「見栄晴さんと何度も卓を囲んだが、互角だった」と記している。水上氏もまた、相当の打ち手なのだろう。

 MONDOTVの正月特番では、プロを抑えて有名人チームが優勝することもある。インフレルールの「われポン」では、見栄晴が前回見せたようなオープンリーチ一発ツモなんて場面に頻繁に出くわす。何十年もその地位をキープしている芸能人は、持って生まれた運が俺などとは違うのだろう。

 老後に楽しむなら、麻雀を選ぶ。将棋は負けると人間性まで否定されたように感じる残酷なゲームで、老人ホームでも喧嘩や傷害事件の原因になっていた。一方で麻雀は、大金が絡まない限り、負けても運を理由に鷹揚な気分でいられる。

 世知辛い世の中、老人ホームでのんびり余生を過ごすなんて運を、俺は持ち合わせていない。いや、運というより、キリギリス人生を選んだ自業自得というべきか。

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「ヤコブへの手紙」~心を濾過する掌編

2012-03-02 14:06:36 | 映画、ドラマ
 俺はテレビ大好き初老男だが、リアルタイムで見るのはスポーツぐらいだ。15話(2月8日放映)まで追いついた「相棒」にゲスト出演していた萩原聖人は、スピンオフ映画での縁もあり、及川光博の後任に名が挙がっているが、ありえない話だ。最近マトモな役が多い萩原だが、似合うのは屈折したアウトロー。個性も強く、水谷豊と折り合えるとは思えない。

 その「相棒」を見ていて、目が点になった。〝反原発派〟坂本龍一が日産の電気自動車「リーフ」のCMに出演していたからである。広瀬隆氏によれば、充電が必要な電気自動車は、平均的に稼働することが最適の原発にとって理想的な車だという。「CO2が出ないわけですから、こんなに気分がいいことはない」という台詞もそぐわない。武田邦彦中部大教授を筆頭に、「CO2温暖化説は原発容認のためのレトリック」と主張する識者は多い。ブログのネタにしようと思ったら、ネットには既に坂本への疑義が多くアップされている。タイムラグが1カ月もあれば、今さら何を言っても仕方ない。

 CMにもネットにも、デラシネの軽い言葉が溢れている。このブログも同様で、虚言、暴言、妄言の罪で閻魔大王に厳罰を下されるだろう。書き散らかすのが好きな割に、年賀状を含め手紙やハガキを書く習慣はない。無礼、失礼を絵に描いたような俺だが、悪筆の理由の一つだ。若い頃、「字が汚い人は心が奇麗」と慰められたことがあったが、当の女性もかなりの悪筆だった。

 前置きが長くなったが、今回はWOWOWで録画した「ヤコブへの手紙」(09年、クラウス・ハロ監督)を紹介する。心が濾過されるのを覚える70分強の掌編だ。

 いきなり横道に逸れるが、フィンランドについて調べてみた。教育制度の充実とハイテク技術が経済を底上げし、ECでも有数の生活水準を誇るという。清潔な政治と高福祉でも知られるが、本作の背景にも、社会全体が育んだ、片隅で生きる者への温かい視線が窺える。もちろん、いいことばかりではない。列強に蹂躙された苦難の歴史からか銃規制は緩やかで、07年、09年と乱射事件が世界の耳目を集めた。

 本作の舞台は1970年代だ。12年服役していたレイラは恩赦で釈放され、仕事を斡旋される。その内容は、盲目のヤコブ牧師の元に配達された手紙を読み、返事を代筆することだ。美しい自然に彩られ、ストイックかつアンダンテに物語は進行する。

 レイラとヤコブは世間から隔絶し、ともに死者のように生きているが、志向するものは逆だ。ヤコブは優しい気遣いを絶やさないが、レイラは周囲の偏見に自らを合わせるかのように、手紙を捨てるなど邪悪な振る舞いをする。本作で重要なアクセントになっているのは、歌うように手紙の到着をヤコブに知らせる郵便配達人だ。

 高潔な人柄、深い洞察力、豊かな記憶力、鋭い直観力を誇るヤコブだが、手紙が届かなくなり、次第に追い詰められていく。誰もいない教会でのヤコブの奇矯な振る舞いに自らの孤独を重ねたレイラは、絶望の淵で自殺を試みる。

 <今まで私は、自分が神のために役立っていると信じてきたが、逆だったのかもしれん。手紙はどれも私のためだったのだ。神が与えてくださったのだよ。すべてはこの私を天国に導くため>……。レンブラントの絵を思わせる光と影のコントラストで、ヤコブはレイラに語りかける。

 レイラは罪を告白し、「私は許されますか」とヤコブに問う。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とヤコブは答えた。法は許しても神は許さない、あるいは神は許しても法は許さない……。<神と法の対置>は死刑問題を考える上でヒントになる。仏教国に置き換えれば<仏と法の対置>だが、日本の裁判員制度の下、レイラはいかなる罪に問われるだろう。

 フィンランド映画といえば、<敗者の3部作>のアキ・カウリマスキだ。非運も重なって主人公はひたすら沈んでいくが、底を打った瞬間、一条の光が射し、生きる希望を取り戻す。「ヤコブへの手紙」も同じ構図で、鮮やかなラストが用意されていた。細い糸に絆が紡がれ、レイラを再生の地へと誘う。

 最近、手紙どころかメールさえ面倒になって、電話で済まそうとするケースが多い。じっくり綴る心情なんて、どこを叩いても出てこないのだ。よくも悪くも、枯れたということか。
コメント (2)
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