今年最後は大晦日に更新と記したが、帰省その他、用事が立て込んだので難しい。年末年始の雑感を来年早々、京都でアップすることにした。この一年、雑文に付き合っていただいた読者の皆さん、いい年をお迎えください。
あらゆるジャンルで関心が著しく低下した一年だったが、読書はきっちり日々のサイクルに織り込めた。最後に読了したのはドストエフスキーの「白痴」(亀山郁夫訳、全4巻/光文社文庫)で、再読ではなく初読だった。自伝的要素も濃い作品で、作者が置かれていた状況を重ねて綴りたい。
「白痴」が発表されたのは1868年、ロシア革命の端緒となった「血の日曜日」は37年後だった。ドストエフスキー自身、社会主義者のグループに属し、シベリア流刑も経験している。国事犯として追放され、欧州を転々としながら本作を執筆した。癲癇を抱える主人公のムイシュキン公爵には作者自身が投影されている。
ドストエフスキー作品では、革命、哲学、キリスト教、芸術などについて登場人物が繰り返し対話する。「白痴」も同様で、ニヒリストや無神論者らが、黙示録や女性解放を俎上に載せる。革命前夜、狂おしい空気が横溢していることが窺えた。自称デモクラットの公爵は、自身が属する階級と距離と置いている。
何幕物かの芝居のように、大人数が一堂に会する場面の連続だ。恋愛小説の白眉と評される本作では、<ムイシュキン=ナスターシヤ=ロゴージン>、<ナスターシヤ=ムイシュキン=アグラーヤ>の二つの三角関係、いや四角関係が回転軸になっている。
本作を支えているのは圧倒的なドラマトゥルギーだ。冒頭のペテルブルグ行き列車の場面で公爵と知り合ったロゴージンとレーベシェフは、生い茂る枝葉となってストーリーを広げていく。厳しい経済状況と監視の下、ドストエフスキーは口述筆記で本作を完成させた。その構成力は神の領域に達している。
「白痴」とは知的障害を指し、差別語の範疇に含まれるが、ムイシュキンは字義通りではない。頭の回転が鈍いと診断された公爵は少年時代、スイスで庇護され療養していた。ロシア帰国後も周囲との距離感が掴めず、子供じみた言動で「おばかさん」と笑われることもあるが、直観力で人々を感嘆させ、時に柔らかな言葉で刺々しい空気を融和する。だが、自身の能力に公爵は気付いていない。
ドストエフスキー作品の魅力は、ズームアップ、ロング、そして俯瞰(語り手)の主観を交錯させて物語を織り成すことだ。エバンチン家のパーティーで失態を演じた公爵は、なぜかアグラーヤ(エバンチン将軍の三女)との婚約お披露目の席との認識がない。語り手が社交界を闊歩する高級娼婦と評したナスターシヤに、公爵は〝背徳の彼方の純潔〟を覚え、その内面の壊れやすさに怯えているのだ。
辺見庸は講演会で、「月」の映像的基調はマリオ・ジャコメッリの写真集であると明かしていた。「白痴」にとって該当するのは「死せるキリスト」(ハンス・ホルバイン)で、公爵をはじめ複数の登場人物に爪痕を残す。訳者の亀山氏は公爵とロゴージンをキリストとユダになぞらえていた。読了後、俺は閃いた。ナスターシヤとアグラーヤは、キリストを巡る二人のマリアではないのかと……。
聖母マリアは理想主義者で潔癖なアグラーヤに近い。ドストエフスキーはナスターシヤに、罪深い女(娼婦)とされ、キリストの遺体に香油を塗るため墓を訪れたマグダラのマリアを重ねたのではないか。そう考えたら、ホルバインが描いた傷つき苦しむキリストが「白痴」の映像的基調である点にも納得がいく。
短期間にせよ同じ屋根の下で暮らしていた事実が明かされた公爵とナスターシヤだが、<性>は捨象されていた。俗っぽいメロドラマとは対極の、宿命に彩られた神話の領域に本作は飛翔している。引力と遠心力が織り成す愛の謎は、悲劇的結末を迎えても解けない。再読したいが、俺にそんな時間は残されていないだろう。
亀山氏が<ドストエフスキーの課題を現在日本に甦らせた>と激賞する中村文則の小説を映画化した「去年の冬、きみと別れ」を、俺は年間ベストテン4位に挙げた。WOWOWで昨日オンエアされたのを見て、一級のミステリーであることを再認識する。高橋和己ほど饒舌ではないが、中村もまたドストエフスキーのDNAを受け継ぎ、社会、そして愛の本質を追求している。
あらゆるジャンルで関心が著しく低下した一年だったが、読書はきっちり日々のサイクルに織り込めた。最後に読了したのはドストエフスキーの「白痴」(亀山郁夫訳、全4巻/光文社文庫)で、再読ではなく初読だった。自伝的要素も濃い作品で、作者が置かれていた状況を重ねて綴りたい。
「白痴」が発表されたのは1868年、ロシア革命の端緒となった「血の日曜日」は37年後だった。ドストエフスキー自身、社会主義者のグループに属し、シベリア流刑も経験している。国事犯として追放され、欧州を転々としながら本作を執筆した。癲癇を抱える主人公のムイシュキン公爵には作者自身が投影されている。
ドストエフスキー作品では、革命、哲学、キリスト教、芸術などについて登場人物が繰り返し対話する。「白痴」も同様で、ニヒリストや無神論者らが、黙示録や女性解放を俎上に載せる。革命前夜、狂おしい空気が横溢していることが窺えた。自称デモクラットの公爵は、自身が属する階級と距離と置いている。
何幕物かの芝居のように、大人数が一堂に会する場面の連続だ。恋愛小説の白眉と評される本作では、<ムイシュキン=ナスターシヤ=ロゴージン>、<ナスターシヤ=ムイシュキン=アグラーヤ>の二つの三角関係、いや四角関係が回転軸になっている。
本作を支えているのは圧倒的なドラマトゥルギーだ。冒頭のペテルブルグ行き列車の場面で公爵と知り合ったロゴージンとレーベシェフは、生い茂る枝葉となってストーリーを広げていく。厳しい経済状況と監視の下、ドストエフスキーは口述筆記で本作を完成させた。その構成力は神の領域に達している。
「白痴」とは知的障害を指し、差別語の範疇に含まれるが、ムイシュキンは字義通りではない。頭の回転が鈍いと診断された公爵は少年時代、スイスで庇護され療養していた。ロシア帰国後も周囲との距離感が掴めず、子供じみた言動で「おばかさん」と笑われることもあるが、直観力で人々を感嘆させ、時に柔らかな言葉で刺々しい空気を融和する。だが、自身の能力に公爵は気付いていない。
ドストエフスキー作品の魅力は、ズームアップ、ロング、そして俯瞰(語り手)の主観を交錯させて物語を織り成すことだ。エバンチン家のパーティーで失態を演じた公爵は、なぜかアグラーヤ(エバンチン将軍の三女)との婚約お披露目の席との認識がない。語り手が社交界を闊歩する高級娼婦と評したナスターシヤに、公爵は〝背徳の彼方の純潔〟を覚え、その内面の壊れやすさに怯えているのだ。
辺見庸は講演会で、「月」の映像的基調はマリオ・ジャコメッリの写真集であると明かしていた。「白痴」にとって該当するのは「死せるキリスト」(ハンス・ホルバイン)で、公爵をはじめ複数の登場人物に爪痕を残す。訳者の亀山氏は公爵とロゴージンをキリストとユダになぞらえていた。読了後、俺は閃いた。ナスターシヤとアグラーヤは、キリストを巡る二人のマリアではないのかと……。
聖母マリアは理想主義者で潔癖なアグラーヤに近い。ドストエフスキーはナスターシヤに、罪深い女(娼婦)とされ、キリストの遺体に香油を塗るため墓を訪れたマグダラのマリアを重ねたのではないか。そう考えたら、ホルバインが描いた傷つき苦しむキリストが「白痴」の映像的基調である点にも納得がいく。
短期間にせよ同じ屋根の下で暮らしていた事実が明かされた公爵とナスターシヤだが、<性>は捨象されていた。俗っぽいメロドラマとは対極の、宿命に彩られた神話の領域に本作は飛翔している。引力と遠心力が織り成す愛の謎は、悲劇的結末を迎えても解けない。再読したいが、俺にそんな時間は残されていないだろう。
亀山氏が<ドストエフスキーの課題を現在日本に甦らせた>と激賞する中村文則の小説を映画化した「去年の冬、きみと別れ」を、俺は年間ベストテン4位に挙げた。WOWOWで昨日オンエアされたのを見て、一級のミステリーであることを再認識する。高橋和己ほど饒舌ではないが、中村もまたドストエフスキーのDNAを受け継ぎ、社会、そして愛の本質を追求している。