酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「その土曜日、7時58分」~神髄を示した巨匠の遺作

2011-04-29 02:13:31 | 映画、ドラマ
 当ブログで繰り返し記しているが、俺は中国の〝経済的実力〟を過小評価している。上海や深圳は眩いが、影が次第に濃さを増しているからだ。叛乱の歴史を誇る国のこと、貧困と格差拡大に軛を打ち込む革命が胚胎しているに違いない。

 翻って日本はどうか。海外ジャーナリストの目に、中国以上のいびつな姿が映っているようだ。新幹線で1時間40分弱の福島と2時間強の仙台の惨状、国境を越えたかのような東京の温さ……。大震災と原発事故は国が既に壊れていたことを教えてくれたが、飼い慣らされた国民は<節電キャンペーン=原発維持>を再度、刷り込まれようとしている。

 旧聞に属するが、シドニー・ルメット監督が今月9日に亡くなった。あらためて巨匠の死を悼みたい。俺が名画座巡りを始めた70年代後半、ルメットは既に名声を確立していたが、若者は常に刺激を求めるせいか、周りにファンはいなかった。ルメットは本国アメリカでも地味な存在で、オスカー(作品賞、監督賞)に縁がなかった。

 代表作「十二人の怒れる男」以外に、「質屋」、「セルピコ」、「狼たちの午後」、「ネットワーク」など10作以上は見ている。自己主張を抑えたルメットは、素材を大切に高い完成度を追求する職人タイプといえるだろう。

 訃報に接し、録画しながら未見だった遺作「その土曜日、7時58分」(07年)を見た。宝石商を営む厳格な父チャールズ、誰からも愛される母ナネット、不動産業界で重役まで上り詰めた長男アンディ、足元が定まらぬ次男ハンク……。ハンソン家を軸に、ルメットの定冠詞であるリアル、骨太、社会性がぎっしり詰まっていた。

 神話に通じる父子と兄弟の相克に、金が人を歪めるバルザック的な悲劇が織り込まれている。老境のルメットが時を切り取り再構築するという21世紀的手法を用い、重厚なテーマを浮き彫りにしていく。チャールズが示した凄絶な決意に、巨匠の遺志が窺えた。「君たちは青くて甘い。映画は小手先じゃないんだ」と、後進に伝えたかったのではないか。

 最も記憶に残るルメット作品は「旅立ちの時」(88年)である。同時期に読んでいたアメリカ文化関連の本の内容と、主演したリバー・フェニックスの生い立ちが重なったからである。

 カウンターカルチャーやXスポーツの担い手、ヒッピー、カルト教団、ドラッグ愛好家、ヘルズエンジェルズ、デッド・チルドレン、フォークナーやマッカラーズの作品に登場する流れ者や革命家……。起源はアメリカ建国以来の〝左翼狩り〟だが、自由を求めて定住しない彼らは<ボヘミアン階級>と総称される。

 映画の中のフェニックスの両親はラディカルな活動家だが、実の両親はカルト教団の信者だった。ボヘミアンの愛読書はヘルマン・ヘッセで、「シッタールダ」に出てくる「永遠の河」がフェニックスの芸名の由来である。

 俺の屁理屈で見る気が失せた方もいるかもしれないが、「旅立ちの時」は背景抜きにジーンとくる青春&ホームドラマだ。淡々と描いたことこそ、ルメットの真骨頂といえるだろう。

 日付が変わったが、今日29日は昼から「終焉に向かう原子力」講演会(明大・アカデミーホール)、夕方から仕事というスケジュールだ。GW前、睡眠不足の日々が続く。


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「瓦礫の中から言葉を」~辺見庸の鎮魂の思いに心洗われ

2011-04-27 01:14:47 | カルチャー
 大震災や原発事故について、蓄積もないのにあれこれ綴ってきた。浅い井戸は尽き、喉も涸れている。干からびた俺を洗ってくれたのが、「こころの時代」(NHK教育)に登場した辺見庸だ。タイトルは「瓦礫の中から言葉を」である。

 中原中也賞を受賞した第1詩集「生首」は、俺の'10ベストブックだった。何より自らを穿つ言葉の凄みに、遺書代わりではと想像していたが、画面に映る辺見の顔は、思いのほか血色が良かった。

 辺見は記者としてカンボジア、ソマリア、ボスニアなどの戦場、人々が飢餓と疾病で斃れていくこの世の地獄を取材してきた。そんな折、辺見を苛んだのは〝コスモポリタン(デラシネ)としての罪の意識〟だったが、故郷石巻の惨状を目の当たりにし、自らのルーツを痛いほど認識したという。

 <ぼくは葦にひそみ 葦と葦の間から 入江を見つづけた 入江の中央に 銀色の水柱がそばだつのを ざわっと聳えるのを じっと待ちつづけた>……

 「入江」(「生首」収録)に記された辺見の予兆、孕み、怯え、畏れは最悪の形で現実になった。3・11を表す言葉は、数字以外に存在するだろうか。メディアの空疎な言葉は、事態の本質に迫っているだろうか……。こう問いかけた辺見は、以下のように語る。

 <放射能の水たまりに浸けられた瓦礫の中に、我々が浪費した言葉たちの欠片が落ちている。それを一つ一つ拾い集めて水で洗って、抱きしめるように組み立てていく>……

 辺見はテオドール・アドルノ(ユダヤ系ドイツ人)の<アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である>という警句と、現在の日本と重ね合わせた。悲劇を経た後、文化が以前と同じであっていいはずはない。真綿でくるまれた表現は断じて許されないと……。

 表現者の質が試される時代が来た。平野啓一郎は3月21日、以下の一文をブログに載せていた。

 <今回の出来事を作品を通じて受け止められないのであれば、僕がこの時代に小説を書き続ける意味はありません。(中略)人間について、社会について、この経験を踏まえて、改めて考え直すというのは、むしろ小説家として、最低限やるべきことです>……

 辺見はここ数年、カミュの「ペスト」について言及してきた。病原菌の恐怖におののくオランの街と、放射能に脅える現在の日本は似たような状況にある。主人公のリウー医師が実践したのは<誠実さ>だ。献身的に患者に接するリウーの周りに、志ある者が集ってくる。

 尊い無数の個の死が数字に埋没して軽くなるのと比例するように、団結や国難が合唱され、人々は集団的鼓舞に踊らされている。だが、現在試されているのはあくまで個であると、辺見は繰り返し強調する。

 3・11を境に起きた精神面の著しい変化を、辺見は二つ挙げていた。第一は<ありえないこと>、<ありうること>、<避けられないこと>を巡る意識が根底的に覆ったことだ。<ありえない>と刷り込まれてきた原発事故だが、起きてみると〝核をコントロールできる〟という発想自体が傲慢で、宇宙の摂理に反していると思い至る。三つあった選択肢は<ありうること>と<避けられないこと>の二択に狭まった。

 第二は、死生観の変容だ。俺のように東京で暮らす者でさえ<偶然生き残った>と感じるほど、生と死の距離は縮まった。チェルノブイリを検証すれば、放射能汚染による〝緩やかな死〟の進行は<避けられない>かもしれない。辺見は倒立した死生観、絶望と悲嘆、鎮魂と痛みを取り込み、外部の廃墟に見合った内部を創ることが自らの使命と考えている。

 番組最後に新作が朗読される。5月7日発売の「文学界」に一挙掲載される書き下ろし詩篇「眼の海――わたしの死者たちに」からの一篇だ。遠からず文藝春秋から発行される第2詩集が、俺にとって'11ベストブックになるだろう。

 俺の力量では辺見の思いを十分に伝えきれない。関心を持たれた方は30日午後1時からの再放送をご覧になってほしい。
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「カタロニア讃歌」再読~未来を底から俯瞰したオーウェル

2011-04-24 03:04:20 | 読書
 田中好子さんが亡くなった。同年生まれのスターの冥福を心からお祈りする。この時期だからこそ追悼番組として、放射能の恐ろしさを描いた代表作「黒い雨」(89年、今村昌平)を放映してほしい。

 厚労省で行われた会見で、千葉と茨城で母乳からヨウ素が検出されたことが明らかになった。チェルノブリで起きた事態が日本でも進行しているが、3大紙は報じなかった。21日付朝日朝刊3面に掲載された「ギャラップ・インターナショナル」の世論調査の結果は、<日本では原発賛成が62%⇒39%、反対が28%⇒47%>だった。読売(原発推進派)と大きく異なる数字だが、ここまでの経緯を踏まえると、いずれが信頼に足るかは明らかだ。

 クラシコ4連戦はレアル・マドリードの1勝1分けで折り返した。レアルは国王杯を獲得し、バルセロナはリーガ3連覇を確定的にする。普段の決定力が見られなかったバルサだが、チャンピオンズリーグのホーム&アウエーに向けて調子を整えてくるだろう。

 これまで当ブログでは、クラシコとスペイン内戦をセットで論じてきたが、<ファシズムVS自由>という図式に隠されてきた真実を記す日がようやく来た。73年前の明日(25日)に発行されたジョージ・オーウェル著「カタロニア讃歌」(筑摩書房)は、スペイン内戦の本質に迫るだけでなく、現在の日本をも鋭く穿っている。

 村上春樹の「1Q84」、ミューズの「レジスタンス」がともに「1984」にインスパイアされたことからもわかるように、オーウェルは21世紀になってもフレッシュなままだ。ニューレフトに与えた影響は絶大で、福島泰樹は処女歌集「バリケード・一九六六年二月」で<カタロニア讃歌 レーニン撰集も売りにし コーヒー飲みたければ>と詠んでいる。「カタロニア讃歌」は1960年代以降、変革を志す者のバイブルとして、世界中で読み継がれている。

 俺も大学入学後、〝ラディカル育成テキスト〟として、「憂鬱なる党派」(高橋和己)、「擬制の終焉」(吉本隆明)、「地下水道」(アンジェイ・ワイダ)、「日本の夜と霧」(大島渚)とともに、先輩から同書を薦められた。教育の効果で〝アンチ共産党〟になった俺は、いまだ三塁線外のファウルゾーンをうろついている。

 「カタロニア讃歌」はオーウェルによるスペイン内戦のルポルタージュだ。オーウェルはアナキストにシンパシーを抱きつつ、トロツキスト政党ポウムの義勇軍に加わり、フランコ反乱軍と対峙する。戦争の進行とともに、新たな黒い影が自由と平等を塗り潰していく。敵の正体は、ソ連の武器援助で勢力を増した共産党(コミュニスト)だった。

 コミュニスト、トロツキスト、アナキストといっても、ピンとこない方も多いと思うので、資質を重視してカテゴライズしてみた。
□コミュニスト=組織や思想に忠実で、能率と上意下達を好む。事務能力に長け、常に疑いの目で人を見る。感情の爆発を避け、真綿で首を絞めるように敵の力を削いでいく
□トロツキスト=自由と平等を尊重し、形式や裃を嫌う。カルチャー全般に関心が高く、人間を信じることが往々にして落とし穴になる。ちなみに、トロツキストの長所と欠点を拡大すればアナキストになる。

 コミュニスト(共産党)の体質は国境を超えても変わらない。ソ連、スペイン、英国、そして日本……。キューバ革命に共産党が加わらなかったことは、「チェ 28歳の革命」で描かれた通りだ。また、自称トロツキストが初心を忘れ、コミュニストに堕落しているケースは極めて多い。

 トロツキスト、アナキストの資質に富んだスペイン人は、一時的にせよ階級と差別がない社会を創り上げたが、革命頓挫を企図する共産党に外堀を埋められていく。バルセロナは次第にモスクワ化し、内戦初期に成立した<ファシズムVS自由>の構図は、<ファシズムVS全体主義>に質を変えていく。

 共産党の意を受けた秘密警察に追われたオーウェルは、辛うじて逮捕を免れた。フランコと共産党のいずれが勝利を収めるにせよ、スペインの未来は暗いと感じ、以下のように述懐している。

 <スペイン人の高貴さと寛容さがあるからこそ、スペインではファシズムさえも、我慢できる比較的だらしない形をとるのではないか。現代の全体主義国家に必要な、呪うべき一枚岩の能率のよさは、スペイン人の持たないものである>(要旨)。

 「カタロニア讃歌」が発行された1938年、共産主義は多くの知識人にとって希望の灯だった。だからこそ、共産党とソ連を<革命への桎梏>と告発した同書は禁書扱いで、オーウェルが50年1月に死んだ時、母国英国で900部しか売れていなかった。

 <嘘をつくのを職業にしている人間というのを見るのは、ジャーナリストは別にして、これ(ソ連共産党のスパイ)が初めてだった>……。

 この辛辣な記述は、大本営発表に加担する日本のメディアへの警鐘といえる。オーウェルは共産党の作り話をそのまま掲載する英国のメディア、真実を見抜けないジャーナリストに絶望していた。トロツキストのレッテルを貼られたオーウェルは、共産党やリベラルから有形無形の圧力を受けたに違いない。だから無名のまま、人生を終えたのだ。

 「学問のすすめ」で西部邁氏がオーウェルを<世界を底から見た人>と評していた。俺のイメージと遠い気がしたが、佐高信氏との対談が進行するうち、西部氏の真意が掴めてきた。オーウェルは純粋かつ柔軟に物事を見る〝下降生活者〟だ。地面に寝そべって大空を眺めるうち、世界と自分が倒立し、俯瞰の巨視を獲得した。精神が澄んでいたからこそ起きた奇跡の逆転で、その目には当時とさほど変わらぬ21世紀の姿まで映っていたのだろう。

 自らの来し方とも関わるテーマゆえ、かなりの量を書き殴ってしまった。昼前に起きて、WIN5の予想に時間を費やすことにする。何を読んでも何を見ても、悲しいかな俺の心は漉し取られることはなく、煩悩と欲望で汚れたままだ。


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才気と歌心とお茶目さと~レジーナに癒やされる日々

2011-04-21 00:58:24 | 音楽
 ソフトバンク孫会長が脱原発を目指し「自然エネルギー財団」を設立する。10億円を準備し、内外の研究者を招くというプランだ。原発に年間4500億円の補助金、エネファームには80億円という<官>の姿勢に対抗し、<民>の立場で行動を起こした孫氏の試みに注目したい。

 原発について調べていると、奇妙な構図が浮き上がってくる。俺は<原発=秘密主義、棄民、言論弾圧を前提に成立する暴力装置>と定義したが、自由が隅々まで浸透するフランスは、世界で最も原発依存度が高い国だ。俺の論理は明らかに破綻している。そのフランスも、フクシマの影響で空気が変わりつつある。野党第一党の社会党では大統領選に向け、脱原発を訴える環境派が力を増しているという。

 〝穏やかなアメリカの隣人〟というイメージが強いカナダだが、原発と核兵器に不可欠なウラン鉱石の世界最大の生産国でもある。<恐怖のシステム>に組み込まれたカナダの〝素顔〟に俄然、興味が湧いてきた。ともあれ、上辺だけ眺めていると、闇で蠢く〝悪い奴ら〟を見失ってしまいそうだ。

 今回は久しぶりに音楽について記すことにする。ザ・ナショナルの来日公演(3月17日)は当然のように延期になったが、震災と関係なく、今年に入って残念なニュースが相次いだ。ホワイト・ストライプスは解散し、ローカル・ネイティヴスからベースのアンディが脱退する。

 先日、久しぶりにタワレコに足を運んだ。キルズの「ブラッド・プレッシャーズ」とヴィヴィアン・ガールズの「シェア・ザ・ジョイ」を予定通りゲットしたが、グリズリー・ベアの「ブルー・バレンタイン」(サントラ)は品切れだった。もう一枚買おうか迷っているうち、レジーナ・スペクターの「ライブ・イン・ロンドン」(輸入盤/CD+DVD)を発見した。

 歌心に満ちた最新作「ファー」は、俺にとって文句なしの'10ベストアルバムだった。旧作(国内盤なし)と合わせて聴くうち〝鼓膜の恋人〟になったレジーナは、DVDを通して〝瞼の恋人〟にもなる。この年になって笑えるほどの片思いだ。

 「ファー」から10曲前後、旧作から10曲弱、サントラに提供した曲が3~4曲という構成で、オフステージの様子も収録されている。レジーナに重なったのは、映画「アマデウス」のモーツァルトだ。パフォーマンスは真剣だが、キュートでコケティシュ、お茶目で天真爛漫な素顔に魅入ってしまう。
 
 本作でも曲のクオリティーの高さに圧倒された。骨のない曖昧な音をクリアに加工して売ることが蔓延しているが、レジーナの曲はビビッドだ。メロディーの輪郭がくっきりし、陰影と表情に富んでいる。〝ブロンクスのビョーク〟と評される反骨精神と革新性の土壌で、幅広い音楽的素養――クラシック、ジャズ、ブルースetc――がカラフルな花を咲かせた。整合性を意識的に壊すアヴァンギャルド精神も窺える。

 ウィキペディアの受け売りだが、神話、シェイクスピア、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ヴァージニア・ウルフらにインスパイアされた歌詞も、独特で奥深い世界を創り上げているという。

 話は逸れるが、<音楽(歌)で被災者を励ます>というフレーズが気になっている。気持ちを込めて作った曲が期待通りの結果を生むとは限らないからだ。戦後混乱期の日本人を励ましたのは「リンゴの唄」で、被災地では現在、「上を向いて歩こう」を口ずさむ人が多いという。ともに励ましを目的に作られたわけではなく、素直な気持ちを等身大で表現することにより、横に繋がるパワーを得た。普遍かつ不変の感情を形にできるソングライターは、果たして今の日本にいるのだろうか。

 俺はといえば、レジーナ・スペクター、PJハーヴェイら女性シンガーに癒やされる日々だ。励まされているというより、心地よく沈んでいるというのが実感だけど……。




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葛藤の末、真の家族に~「ザ・ファイター」が示したこと

2011-04-18 00:49:12 | 映画、ドラマ
 この1カ月、若い世代を放射能に曝す政府への怒りをエネルギーにしてブログを書いてきたが、黙殺されてきた反原発派の声をメディアが大きく報じるようになった。俺の仕事先である夕刊紙もそのひとつで、当ブログとの温度差は今や殆どない。〝反原発の旗手〟小出裕章氏(京大助教)のコメント、「計画停電は原発維持のための政府の陰謀」といった記事が日々掲載されている。

 空気は明らかに変わってきた。反原発を訴える集会、講演会、映画会が全国で開催され、若者の参加者が増えている。80年代前半、反核集会は全国で数十万人を動員した。反原発への思いが繋がれば、当時の規模を超えるムーブメントになるだろう。

 世間が騒げば引っ込むのがへそ曲がりの習性ゆえ、今後はあれこれ書き散らかす以前のパターンに戻っていくだろう。今回は映画「ザ・ファイター」(10年)について記したい。

 本作はディッキーとミッキーの対照的な兄弟ボクサー、マネジャーでもある母アリスを軸に据えた物語である。ミッキー・ウォードの伝記映画である以上は当然だが、冒頭からラストまで徹底してリアルだった。舞台はブルーカラーの街ローウェルである。

 俳優は〝いかに役をつくるか〟で評価される。本作でオスカーの栄誉(助演賞)に浴したのは、兄ディッキー役のクリスチャン・ベールと母アリス役のメリッサ・レオだ。ベールの役作りといえば「マシニスト」(04年)を思い出す。「野火」の船越英二、「レイジング・ブル」のロバート・デニーロを超える衝撃的な肉体改造に息をのんだ。抑え気味だった「フローズン・リバー」から一転、レオはミニスカートで熟女の魅力を弾けさせている。

 ミッキー役のマーク・ウォールバーグは周到な準備で本作に臨んだに違いない。心身ともボクサーの域に近づき、自然体にミッキーを演じている。〝ノーメイクを思わせるメイク〟を実践したウォールバーグの骨太な佇まいが、激しいファイトシーンを支えていた。

 ご覧になる方は多いはずなので、ストーリーの紹介は最低限にとどめたい。本作のテーマは家族の絆だ。支配的な母、天才と謳われながら薬物に溺れ大成できなかった兄、不器用な弟、母の取り巻きというべき7人の姉妹……。彼らはDNA上の家族だったが、真の家族になってはいなかった。

 本作は<家族である>ことと<家族になる>ことの違いを教えてくれる。ディッキーの転落とミッキーの自立で<家族である>ことが壊れる。時間と距離によって傷は縫われ、一つの夢を追いかける<家族になる>。新しい家族は血縁を超え、新トレーナーやミッキーの恋人シャーリーンも含まれていた。

 ミッキー・ウォードのピークは、本作のラスト(97年)の5年後(02年)に訪れる。翌年にかけてのアルツロ・ガッティとの3試合は全世界を熱狂の渦に巻き込み、2年続けて「リングマガジン」のベストマッチに選出された。遥かに格上だったガッティとのラバーマッチにより、ウォードもまたボクシング史にその名を刻む。

 俺も「エキサイトマッチ」(WOWOW)で骨身を削る3試合を観戦し、強く心を揺さぶられた。ガッティは今、何をしているんだろう。気になって検索してみたら、2年前に亡くなっていた。ブラジル旅行中の出来事で、殺人容疑でいったん逮捕された妻は釈放され、自殺として処理される。一方のウォードは慈善事業にも取り組むなど、故郷ローウェルで穏やかな日々を過ごしている。

 ガッティとウォードの闘いと友情、そして対照的な引退後を描いた「ザ・ファイターⅡ」に期待している。ボクシングと人生の本質により迫った奥深いドラマになるはずだ。


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「すばらしい新世界」が志向するオルタナティブかつ柔らかな未来

2011-04-15 02:06:13 | 読書
 「ニュースの深層」で「創」の篠田博之編集長は、震災後に露呈した最大の問題点として<日本社会の硬直化>を挙げていた。反原発派はこの20年、公の場からパージされ、結果として国民は〝脱原発〟という選択肢に気付くことがなかった。原発に限らないが、情報公開と自由な議論が失われている現状を、篠田氏は上杉隆キャスターとともに憂えていた。

 御用学者と決めつけていた研究者グループが建言書を提出した。絶望的なのは、彼らの自責の念に駆られた行動を政府が無視したことである。原発推進と一括りにしていた自民党にも、一貫して反対を訴えてきた河野太郎氏がいる。○○だから悪、××だから敵……。ファジーと寛容を好む俺だが、怒りのあまり〝二元論的思考〟に陥っていたことに気付く。俺もまた硬直していたのだ。
 
 去る9日、飯舘村の菅野村長がバイオマス燃料の原料(ヒマワリやナタネなど)を作付けしたいと鹿野農水相に訴えた。東京電力のエコエネルギー部門が協力し、近郊にバイオマス工場を造る案も紹介されていた。東電と被害地域のタッグが実現すれば、脱原発の画期的な試みになるはずだったが、飯館村は12日、全ての農作物の作付けを断念する。
 
 作者の脱原発への希望が織り込まれた小説を読んだ。社名は出てこないが、主人公は明らかに東電社員である。〝俺は面白かったけど……〟が分野を問わず当ブログのスタンスだが、「すばらしい新世界」(池澤夏樹/中公文庫、00年)は違う。「今すぐ本屋に走れ」と叫びたいぐらいお薦めだ。自然とは、進歩とは、絆とは、幸せとは、豊かさとは、信じることとは……。現在の日本に即したテーマが緩やかに紡がれ、読む者を柔らかく包み込んでくれる。

 主人公の天野林太郎は風車の設計者だ。妻のアユミは環境問題に取り組むNGOの一員で、互いに感応して近似的な未来を見据えている。利発な長男森介も重要な役割を果たしている。池澤は本作発表以前から、原発への危惧を記していた。本作では林太郎とアユミが会話の中で、死者2人、被曝者667人(公式発表)を出した東海村臨界事故(レベル4、99年)に言及している。

 林太郎は中国、チベット、ネパールと国境を接する架空の国ナムリンに赴き、風車を建てる。その過程で<技術が意外に無力であること、自然が思った以上にやっかいな相手であること>を思い知り、現地の文化や環境を理解した上で、作業を進めていく。

 林太郎が属する部署で、30年後(2030年)の日本のエネルギー事情を議論するシーンがある。風力、太陽光など候補は挙がるが、「原発はほとんど消滅」という意見は違和感なく受け入れられていた。

 <原発ほど環境を汚染し、非効率でお金がかかるシステムはない>というのは、日本のような地震国では疑いようもない真実だ。「すばらしい新世界」はオルタナティブかつ柔軟な発想で、次世代のエネルギーについて考えるヒントを与えてくれた。別稿で記した私案とも重なるが、風土と気候に適したエコエネルギーを各自治体が追求し、足りない部分は火力と水力で補完する形がベストではないか。「そんなことでは二酸化炭素が……」と言う人がいまだにいるが、<二酸化炭素地球温暖化説>は今やオン・オブ・ゼムで、諸説のうちの一つに過ぎない。

 時節柄、エネルギー関連について偏って記してしまったが、「すばらしい新世界」ではオウムや<コンビニの荒野をさまよう若者>についても言及している。林太郎が目の当たりにした、ヒンズーの行者が仏教の聖地へ巡礼する場面に、「タナトノート」(ベルナール・ヴェルベール著、07年11月30日の稿)を連想した。

 アメリカが主導するグローバリズムが途上国の産業を破壊することへの憤りを行間に滲ませ、リーマン・ショックを予見するような記述もある。中国のチベット弾圧を批判するだけでなく、ノンポリの林太郎がチベット側に協力するという設定まで準備していた。

 20代前半の頃、池澤の父である福永武彦を耽読した。思いを寄せる女性に一冊プレゼントしたところ、冷たくあしらわれた苦い記憶もある。父が情念なら、息子は俯瞰の透徹した目が真骨頂だ。息子が父を超えるなんてありえないという先入観は、3作目にして既に揺らいでいる。



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争点なき統一地方選~被災地復興と原発廃止への道標は?

2011-04-12 06:25:41 | 社会、政治
 <秘密主義、棄民、言論弾圧を前提に成立する暴力装置というべき原発を守るためなら、狼はいかなる手段も厭わない>……。前稿(9日)をこう締めくくったが、狼(政府―東電―メディア)は既に牙を剝いていた。

 ラジオ番組(TBS)で政府と東電を厳しく批判した上杉隆氏は、プロデューサーから降板を通告される。電事連は広河隆一、広瀬隆両氏を「ニュースの深層」に出演させた朝日ニュースターから広告を引き上げた。片山善博総務相は「ネット上の(原発事故関連の)流言飛語に注意すべき」と言論封殺に前向きな姿勢を見せた。

 「黙っちゃいられない」と意思表示した者がいる。忌野清志郎に敬意を抱く斎藤和義が、反原発ソング「ずっとウソだった」(自曲の替え歌)をYouTubeにアップロードする。山本太郎は「黙ってテロ国家日本の片棒担げぬ」とツイッターに書き込み、反原発集会(10日、都内)に1万5000人のひとりとして参加した。

 欧米の著名ロッカーやハリウッドスターは権力者の掌で踊っているから、反グローバリズムと反原発には言及しない。彼らと対照的に、〝構造〟に踏み込んだ斎藤と山本の勇気が新鮮に映る。契約解除、メディアやCMからの締め出しも覚悟の上だろう。

 日本各地で昨秋、数千人規模を集めた反中国デモを主要メディアが黙殺したことを、右派の知人は憤っていた。山本太郎が参加した10日の反原発デモについても11日付朝日朝刊は一行も触れず、テレビクルーも海外のみだったという。「情報最貧国」という上杉隆氏の表現が、この国の危険な現状を抉っている。

 統一地方選前半戦で民主党が惨敗した。一昨年夏の高揚はどこへやら、閉塞感打破、情報公開、政治主導への期待はことごとく幻に終わった。皮肉なことに、菅内閣の原発事故への拙い対応を敵失に党勢を維持したのは、原発を推進してきた自民党だ。原子力をきっかけにした中曽根康弘元首相と読売新聞の蜜月の始まりは、1950年代にまで遡ることができる。

 統一地方選の争点にはならなかったが、今回の大震災があぶり出したのは国の頼りなさだった。福島第1原発から20~30㌔地点に位置する南相馬市が深刻な状況に陥った時、実効ある救いの手を差し伸べたのは、国ではなく全国の首長たちである。

 「田中康夫のにっぽんサイコー!」(BS11)に小野寺五典衆院議員(自民党)がゲスト出演した。小野寺氏は選挙区(気仙沼市など)での救援活動の傍ら、着手可能な漁業再開の手順を政府や関係省庁に提案したが、〝手続き民主主義〟に妨げられ、はかばかしい答えが返ってこない。小野寺氏は郵政民営化に賛成したが、既得権益集団と決めつけた特定郵便局員が避難所で大きな役割を果たしていることに気付き、忸怩たる思いを抱いている。

 <国とは砂上の楼閣で、小さな単位こそ復興と再生の軸になるべきではないか>……。俺は最近、考えが少し変わってきた。別稿「民主主義の条件は人口にあり?」(08年1月7日)で示した直感は、意外に的を射ているのかもしれない。脱原発も地方分権が条件と考えている。次稿の冒頭で、飯館村を例に挙げて記したい。

 石原慎太郎氏が都知事選で圧勝した。俺がずっとアンチなのは、氏の正体が掴めないからである。石原ファンの方は、以下の謎を解けるだろうか。

<謎①=反中or親中?>…石原氏は世間的に〝反中派〟の頭目だが、盟友の一人は〝親中派〟野中広務氏だ。石原氏は野中氏の仲介を得て、北京五輪開会式に出席できた。

<謎②=君が代、日の丸強制はなぜ?>…石原氏は「皇室への尊崇の念はない」と繰り返し語っている。豪州在住の森巣博氏は友人に祝日の石原邸を見張らせていたが、日の丸は一度も掲揚されなかった(事実が明かされた後は知らない)。だが、石原氏は教育現場に君が代と日の丸を強制している。

<謎③=本当に文化人?>…石原氏は伝統保護を訴える団体から、文化財や建造物への冷淡さを批判されている。築地移転や五輪誘致など、関係の深いゼネコンに引っ張られているだけかもしれない。

<謎④=健忘症?>…漫画規制条例に情熱を燃やした石原氏は日本文学史上、最も性犯罪を誘発した作家である。表現の自由を盾に自己弁護した若かりし日々を、すっかり忘れているに違いない。

 <石原慎太郎という虚像を演じる石原慎太郎>とあと4年付き合わされると思うと愕然とするが、「天罰発言」などブログのネタを提供してくれることは間違いない。


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放射能の恐怖と滅びの予兆~ウオーキング花見で感じたこと

2011-04-09 06:25:41 | 独り言
 勤め人時代、妄言、暴言、セクハラ発言を連発し、顰蹙を買ったことが一再ならずあった。その中のひとつを以下に挙げる。

 <地軸変動で2012年、世界中の原発が爆発し、現在の文明は終焉する。〝リビング・デッド〟の俺を反面教師に、君たちは残された時間を精いっぱい生きろ>……。

 「神々の指紋」(グラハム・ハンコック著)の受け売りを研修の場で披歴する先輩に、新人たちはあきれ果てたに違いない。トンデモ本と評される同書はさておき、地震学者の石橋克彦氏(神戸大名誉教授)はこの十数年、周期性とプレートを考察した上で警告を発し続けてきた。内外の研究者は<スマトラ沖⇒ニュージーランド⇒東日本>を一つの流れとして捉えている。

 <環境を夥しく破壊するだけでなく、地震が発生すれば深刻な事態に陥る可能性が大きいから、原発を即刻止めるべき>……。掻き消されてきた反原発側の声に耳を傾けたい方は、「終焉に向かう原子力」第11回集会(29日、明大リバティータワー)に足を運んでほしい。プレート上に立つ浜岡原発の現状報告、小出裕章氏と広瀬隆氏の講演会の2部構成になっている。

 一昨日(7日)夕方、哲学堂、北野神社、新井薬師を巡るウオーキング花見を楽しんだ。桜は見る時の気持ちで貌が変わってくる。夕陽が逆光になったせいか、強風に散る花の色が、例年より白く映った。
 
 哲学堂でベンチに腰掛け、哲学しているかのような表情で「腹減った、どこで晩飯食おうか」と考えている俺の前を、初老の夫婦、若者たち、カップルが通り過ぎていく。若夫婦に手を引かれてはしゃぐ幼児の姿に胸が痛んだ。

 諸外国は日本に滞在する自国民に対し、5歳までの幼児を関東圏から退避させるよう通達している。片や日本政府は、福島第1原発から20~30㌔の住民を自主避難にとどめている。田中康夫氏はその理由を、<経費削減を優先した冷酷な意思の表れ>と批判している。避難指示なら国が、自主避難なら住民が、移動の経費などを負担することになるからだ。政府の対応の差が、少年少女の未来を分かつかもしれない。

 哲学堂では若者が閉園まで宴を張り、北野神社と新井薬師でもカラフルなシートが集う人を待っていた。控えめとはいえ、変わらぬ光景である。切迫した状況のはずなのに、日本人は妙に明るく、怒りや不安といった負の感情が窺えない。俺は太宰治の「右大臣実朝」(1943年)の冒頭を思い出した。

 <アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ>……。

 日本人、とりわけ若者の意識には<滅び>がインプットされているのかもしれない。前々稿(4月3日)で記した「わたしを離さないで」のキャシー、トミー、ルースのように……。俺が花見で感じた〝死の影〟が幻であることを切に願っている。

 子羊たち(おとなしい国民)に、狼(政府=東電=マスコミ)は更なるマインドコントロールを仕掛けている。「風評被害を食い止めろ」、「風評に苦しむ農家」という表現がテレビで目立つようになった。その心は? 反原発のジャーナリトと研究者、海外メディアが提示する数字は〝風評〟に過ぎず、「大本営発表を信じなさい」という狼の意図が透けて見える。

 別稿(3月28日)に記した通り、福島と周辺県の農業従事者を救う自主マーケットには大賛成だ。だが、20歳以下には絶対食べさせてはいけない。放射能に対応力がある中高年世代を対象に、R30、R40、R50に分類し、割引を前提に販売すればいい。54歳の俺は喜んで食べる。

 一部識者が危惧しているのは自由の制限だ。マッカーシズムの発端は、原子力産業の勃興と軌を一にしていた。秘密主義、棄民、言論弾圧を前提に成立する暴力装置というべき原発を守るためなら、狼はいかなる手段も厭わないからだ。
コメント (8)
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無期限活動休止の真意は?~上杉隆はいずこへ

2011-04-06 00:51:26 | 社会、政治
 巨視と巨富を併せ持つ孫正義氏は別格だが、杉良太郎を筆頭に著名人の支援活動が報じられている。味の素スタジアムで同郷(福島)の避難者を炊き出しで励ました西田敏行が、4日付朝日朝刊に以下のコメントを寄せていた。

 <我慢強い人が多い福島ですけど、今度だけは、ね。東京電力や原発を進めてきた政治家たちに怒りの声を張り上げたい>……。極めてまっとうな西田の言葉をガス抜きに使った朝日の狡猾さに、俺は強い憤りを覚えた。

 東電・勝俣会長は地震当日(3月11日)、招待したメディア関係者とともに中国旅行を楽しんでいた。国営放送で嘘を垂れ流すS教授も、巨額の研究費で餌付けされた〝東電の飼い犬〟と報じられる。<政府―東電―記者クラブ―御用学者の連携プレー>だけでなく、被災者の怨嗟を先行して伝えているのは、フリーのジャーナリストと海外メディアである。

 1月末に設立された自由報道協会の暫定代表として政府、東電追及の最前線に立っている上杉隆氏がブログで突如、<無期限活動休止>を宣言する。4月1日付なのでまさかと思ったが、12月31日をもってジャーナリズムの世界から去るという。

 PANTAと重信房子さんの往復書簡を基に製作された「オリーブの樹の下」(07年)を聴いたことが、〝上杉発見〟のきっかけだった。レコーディングに参加した重信さんの娘メイさんを検索して、「ニュースの深層」の存在を知る。火曜日にメイさんとコンビを組んでいたのが上杉氏だった。

 肝が据わった男という第一印象は今も変わらない。昨日(5日)の「ニュースの深層」では、「お二人がいなかったら、東電は放射線汚染水の放出を認めなかったかもしれない」と紹介した日隈一雄氏(弁護士)、木野龍逸氏(ジャーナリスト)がゲストだった。両者は東電の会見に日参し、常に情報開示を求めている。

 <放出しているのはヨウ素主体の低濃度汚染水で、規定値の100倍程度。近隣の海で取れる魚介類を毎日食べても、自然の状態で被曝する量(1年)の4分の1>というのが大本営発表だ。妹からのメールによると、阪大教授は「ヨウ素には納豆が効く」とテレビでコメントしていたらしいが、「ニュースの深層」や海外メディアは180度異なる見解を提示している。

 そもそも低濃度とは根拠のないごまかしで、日隈、木野両氏は<超高濃度、高濃度に分類すべきで、低めに見積もって1日に規定の5000倍に当たる放射性物質を放出している>と語っていた。CNNは「セシウム(半減期30年)を含む高濃度の汚染水が放出された」と報じているが、今回の放出を<環境テロ>と位置付ける海外メディアもあるという。

 アメリカ、フランス、ロシア、イスラエル、そして総元締のIAEA……。原発マフィアが早い段階から協力を申し出たが、隠蔽を最優先したのか、東電も政府もはねつけた。結果として「喜劇としか思えない措置」(上杉氏)が幾つも重なり、悲劇はますます拡大している。

 上杉氏とゲスト2人によると、東電の記者会見でマスメディアは親衛隊の役割を果たしている。フリーのジャーナリストが海水の汚染や上記の中国旅行について質問すると、記者クラブ所属の〝飼い犬〟から「どうでもいいだろう」といった怒声が飛ぶという。想像するだけで泣けてくる光景だ。

 上杉氏は駆け出しの頃から〝石を投げる少年〟だった。記者クラブと検察だけでなく、虎の尾を数え切れないほど踏み、〝いずれ消されるのでは〟とまで囁かれたが、抜群の行動力と求心力を発揮して自由報道協会結成に至る。42歳と若く、〝上杉時代の幕開け〟と思っていた時期だけに、活動休止は残念でならない。

 <活動休止宣言>はなかなかの名文で皆さんにも一読願いたいが、上杉氏が現在、最も危惧している点を以下に引用したい。

 <かつて在籍したニューヨークタイムズ紙などの世界の論調を眺めていると、私はひとりの日本人ジャーナリストとして、いま強烈な無力感に襲われています。それは、あたかも日本政府は原子力エネルギーをコントロールできない無謀な「核犯罪国家」であり、また日本全体が先進国の地位から脱落して、今後数十年間にわたって「情報最貧国」に留まることが決定付けられているような書きぶりだからです>

 東電前で男が1人、抗議運動を続けている。1人が10人、10人が100人、100人が1000人、1000人が1万人になって東電を取り囲んだ時、上杉氏の危惧は杞憂に終わる。国民は自らの身の丈に合った政府とメディアしか持てないのだから……。



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「わたしを離さないで」に感じた日本的メンタリティーの痛さ

2011-04-03 02:12:53 | 映画、ドラマ
 別稿(09年8月10日)で紹介し、その後も何度か言及した「ヒバクシャ~世界の終わりに」(03年、鎌仲ひとみ監督)が、アップリンク(渋谷)で上映中だ(13日まで)。

 広島と長崎の被爆者、米ワシントン州ハンフォード(核処理施設近郊)の被曝者、劣化ウラン弾による健康被害、チェルノブイリ事故と中国核実験の影響による日本での甲状腺がん患者の増加……。被爆と被曝の境界に迫った「ヒバクシャ――」は、現在の日本人にとって必見のドキュメンタリーである。

 「週刊現代」先週号の<外国人記者が見たこの国のメンタリティー~優しすぎる日本人へ>は興味深い内容だった。被災地入りした外国人記者は当初、日本人の節度ある言動を称賛したが、時がたつにつれて以下のようにトーンが変わってくる。

 <自分の国だったら、被災者に対する政府の拙い対応に怒りが爆発しているはずなのに、日本人は抗議しない。菅内閣、東電、記者クラブがタッグを組んだ原発事故関連の情報操作と隠蔽だけでなく、日本人は震災によって起きたあらゆる出来事を「仕方ない」で片付けようとしている>……。

 日本的メンタリティーがスクリーンから零れてくる映画を見た。クローンと臓器移植をモチーフにした「わたしを離さないで」(10年、マーク・ロマネク監督)で、原作者のカズオ・イシグロが製作総指揮を担当している。いずれご覧になる方も多いはずなので、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。

 長崎県生まれのイシグロは5歳の時、家族とイギリスに渡り、英語圏を代表する作家になった。日本文学の豊饒な薫りがする原作を紹介した稿で、以下のように記している。

 <「もののあわれ」、「滅びの美学」、「自己犠牲」、「予定調和」、「矜持」、「恥の意識」といった日本で死語になった価値が息づいている。ページを繰るうち、体の底から柔らかで儚い感覚が溢れ出て、自然に目が潤んでいた。懐かしさとともに、自分が日本人であることを再認識する>(07年3月8日)……。

 4年という歳月ではなく、東日本大震災と福島原発事故がクチクラ化した俺の感性を変えてしまった。原作読了後には湿感や癒やしを覚えたが、映画観賞後はしこりと棘が合わさった鈍い痛みが心に残ったままだ。

 語り部のキャシー(キャリー・マリガン)によって、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)、ルース(キーラ・ナイトレイ)との絆、共に過ごしたヘイルシャム(隔離施設)での思い出が綴られていく。諦念を滲ませた3人の瑞々しい演技に、作品への深い理解が窺える。英国育ちの彼らは、しぐさや表情で日本的メンタリティーを完璧に表現していた。

 結末は知っていたが、俺はキャシーとトミーに向かって叫んでいた。「モラルに反する制度をつくった支配者や金持ち、校長先生やマダムより、クローンである君たちの方が遥かに人間的じゃないか。理不尽で過酷な仕組みに抵抗しないなんて、まるで子羊の日本人みたいだ。闘えとは言えないけど、手を取り合って逃げ出すんだ」……と。

 粛々と宿命を受け入れるキャシーたちの生き方(=死にざま)は崇高なのだろうか。彼らと人災(原発事故)までも「仕方ない」と許してしまう日本人との距離が、今の俺には測れない。

 本作と併せて「アイランド」(05年、マイケル・ベイ監督)をご覧になると、欧米人と日本人の価値観の差が浮き彫りになる。日本では美徳とされる従順さや寛容さが、海外では時に軽蔑の対象になる。残念なことに3・11以降、<日本異質論>が世界に広がりつつあるという。

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