酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「三の隣は五号室」~半世紀にわたって輪唱された人生賛歌

2024-07-17 21:28:17 | 読書
 欧州サッカー選手権決勝はスペインがイングランドを2対1で下し4度目の優勝を果たした。<煌めきの差でスペインが上回る気がする>と前稿の枕で記した予想はたまたま当たったが、現在サッカーの到達地点を確認出来てよかった。選手たちは高度な戦術のマスターと局面への対応力を求められていることを、的を射た解説で実感出来た。サッカーは知的なゲームに進化しているようだ。

 1カ月ほど前、「国際報道24」(NHK・BS)で<韓国でJPOPが人気>という特集が組まれ、羊文学が紹介されていた。YouTubeでチェックすると、イメージを喚起する抽象的な歌詞は名の通り文学的で、透明感あるボーカルとアンビバレンツなオルタナ風の歪みも魅力的だ。気鋭の評論家は<自分たちの志向を維持しながら横浜アリーナを3分でソールドアウトするという奇跡を成し遂げた>と語っていた。かのパティ・スミスも絶賛しているという。俺がまず惹きつけられたのは、ギター&ボーカルの塩塚モエカの儚げなルックスだったが……。

 「三の隣は五号室」(2016年、長嶋有著/中公文庫)を読了した。長嶋作品を読むのは「夕子ちゃんの近道」以来、10年ぶりになる。「三の隣は五号室」を読むきっかけになったのは、別稿(6月13日)で「高架線」(17年、滝口悠生著)を紹介した直後、読書好きの知人から「設定が近い小説がある」と教えられたからだ。

 ほぼ同時期、一つの部屋を巡る物語を2人の作家が書いていたことになる。「高架線」は2000年前後から十数年にかけての東長崎にあるアパート2号室が舞台だったが、「三の隣は五号室」は横浜の北に位置し、ぼこぼこの隆起した地形の上に無理やり広げた街の日当たりが悪い第一藤岡荘の半世紀にわたる住人たちの物語だ。ランドマークはセブン-イレブンとバッティングセンターだ。

 第一話「変な間取り」の後に、部屋の間取り図が挿入される。読む側は〝変〟を共感しながら読み進めることが出来るのだ。13世帯の暮らしが時代を下っていくのではなく、テーマごとにカットバックして綴っていく。本作の主人公は<五号室>なのだ。住人たちは平凡な人生を送っているが、唯一の例外は裏社会と繋がっていた三輪密人で、射殺されることになる。

 誰しも自分が暮らす部屋を少しは良くしたいと考える。ゴムホースや風呂栓に悪戦苦闘したり、ブレーカーが頻繁に落ちるからアンペアを上げたり、和式トイレを洋式にしたり、蛇口を取り替えたりと、各自が残した痕跡が次の住人に受け継がれていく。雨音や天井の模様、柱時計の音についても各自の感想が記されていた。

 不動産屋は「隣室の住人は医者」と話していたが、入浴中に洩れてくる電話を聞いた居候の女性は、彼が劇団員であることを突き止めた。「ガッチャマン」、「キイハンター」「怪奇大作戦」、「11PM」、キムタクなど、時代を反映するテレビ番組が紹介されていた。時代が経つにつれ国際化し、イランからの留学生が入居するだけでなく、向かいの第二藤岡荘にも多くの外国人が暮らしている。

 読む人によってポイントは変わると思うが、第七話「1は0より寂しい数字」が一番楽しめた。五号室の住人がタクシーで帰宅する車内で、「ワン」が流れる。俺はスリー・ドッグ・ナイトによる同曲が記憶に残っているが、本作で扱われるのが作詞作曲者のニルソン版と1995年のエイミー・マン版だ。♪1は孤独な数字 独りぼっちは寂しい経験なんだという歌詞は、住人たちの心象風景と重なっている。

 本作は見知らぬ者たちが織り成す人生賛歌で、読み終えた時、来し方が並以下の俺でさえ、〝生きていてよかったと感じることが出来た。「高架線」と合わせて<アパート文学>の誕生かもしれない。
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「侍女の物語」~アメリカの現在を映すディストピア

2024-07-09 20:39:33 | 読書
 イラン大統領選で欧米との協調を掲げる改革派のベゼシュキアン氏が当選した。イラン映画ファンの俺は、スクリーンに滲む自由への渇望に心を打たれてきた。強大な保守強硬派の圧力を堪えて民主化を進めてほしい。イギリス総選挙では予想通り、労働党が圧勝した。背景はブレイディみかこ著「R·E·S·P·E·C·T リスペクト」(今年3月19日の稿)に描かれていたように、保守党政権下の緊縮財政で生活苦に喘ぐ人々が「NO」を突き付けたことだ。

 前稿の枕で<〝もしトラ〟は現実になりそう>と記した。トランプに異議を唱える人たちの〝バイブル〟というべき小説の存在はニュースサイトで知っていたが、紀伊國屋書店で文庫版を見つけたので購入する。マーガレット・アトウッド著「侍女の物語」(斎藤英治訳/ハヤカワepi文庫)は1985年に発表されたディストピア小説で、カナダ生まれのアトウッドはジョージ・オーウェル著「1984」を意識して準備を進めていたという。

 本作は15章と最後の「歴史的背景に関する注釈」で構成されている。主人公はオブフレッドという名を与えられ、赤い服を着用する<侍女>だ。舞台は北米のギレアデ共和国で、かつてはありふれた先進国だったことが、オブフレッドの回想で語られる。彼女にはルックという夫と1女がいて、母は女性の権利を訴える活動家だった。原発事故、産業廃棄物による環境破壊、エイズなどの感染症による出生率低下による社会不安で、キリスト教原理主義に基づくクーデターが起きる。

 白人至上主義の社会で、高い地位にある司令官たちの子供を妊娠することを義務付けられた<侍女>という階層が形成された。出産経験者であることが条件で、30すぎのオブフレッドも組み込まれた。オブフレッドは自由な会話や読書を禁じられ、沈黙の掟の下、司令官の屋敷で暮らしている。本作で人々は幾つもの階層に分かれていた。監視組織としての<目>、見張り役の<保護者>、侍女教育係の<小母>、そして兵士の<天使>といった具合だ。独裁国家特有の公開処刑<救済の儀>が頻繁に開催される。

 妊娠出来なかったら収容所行きは免れない。司令官の授精能力に疑惑を持つ妻セリーナは運転手であるニックとのセックスを勧める。ニックは<目>の一員もしくは、逃走を助ける地下組織のメンバーの可能性もある。司令官とオブフレットの関係にも変化が生じた。オブフレッドは司令官の書斎に招かれ、ゲームに興じ、贈り物を貰う。司令官に連れられ、秘密のクラブに足を踏み入れた。

 そのクラブで、オブフライドは親友のモイラと再会する。モイラは自由奔放なレズビアンで、侍女養成機関から脱出したものの、捕らえられてクラブに送られた。キリスト教原理主義とは相容れないクラブに集うのは支配者階級であり、外国からの訪問者だった。オブフライドにも変化の兆しが訪れる。愛はまやかしだったが、生々しい欲望が甦ったのだ。

 ラストの「歴史的背景に関する注釈」で、謎が一気に晴れた。2195年の学術会議で、発見されたテープの解析が行われ、2000年前後の北米が舞台であることがわかる。発表当時、キリスト教原理主義は大きな力を持っていなかったが、トランプの台頭とともに力を増してきた。2022年にトランプに任命された判事が多数になった最高裁で、人工中絶の権利を認めた判決が覆された。女性たちは本作で侍女が纏った赤い服を着て抗議した。

 <アメリカをギレアデにするな>をスローガンに、反トランプ派は全米で活動を続けている。「侍女の物語」は現在のアメリカを映すディストピアとして読み継がれているのだ。本筋とは関係ないが、本作には猫が何度も登場する。アトウッドは愛猫家なのかもしれない。続編の「誓願」も年内には読む予定だ。

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クッツェー著「マイケル・K」~自由への限りない逃走

2024-06-30 21:38:29 | 読書
 ガザに住む50万人近くのパレスチナ人が「壊滅的レベル」の飢餓に直面していると、国連支援機関の報告書が警告している。イスラエルが国際人道法に違反して封鎖してきたガザは<天井のない監獄>と呼ばれ、ツツ大主教が<現在のアパルトヘイト>と断罪してきた。そのツツの祖国である南アフリカの小説「マイケル・K」(J.M.クッツェー著、くぼたのぞみ訳/岩波文庫)を読了した。

 <マイケル・Kは口唇裂だった>から、本作は始まる。Kがどの人種に属するか記されていないが、黒人であることは推察される。時代背景は20世紀半ばと考えていたが、実は1980年前後で、アパルトヘイトを維持しようとする政府側と反対派との武力衝突が激化していた時期だった。Kは病んだ母を車椅子に載せ、内戦で疲弊したケープタウンから、母が少女時代を過ごしたプリンスアルバートの農場を目指す。母が途中で死に、遺灰を手に目的地に向かう。

 解説によると、本作は検閲を逃れるため、細部にまで精緻に表現に留意していた。弾圧下の表現といえば、思い浮かぶのがイラン映画で、作品の数々は神秘性を纏い、神々しい寓話に飛翔している。内戦下、Kは政治信条を表明することなく、行く先々で暴力と管理の鞭を震われるが、行間には痛みを緩和する奇跡の癒やしがちりばめられている。

 本作のキーワードは<暴力>と<自由>だ。<暴力>は軍隊、監獄、キャンプで蔓延し、Kは無気力に服従を拒む。寡黙であることで知的障害を疑われたKは第2部で病院に収容され、医師たちの手厚い看護を受ける。病院でKはなぜか〝マイケルズ〟と呼ばれた。Kにとって多少なりの束縛をもたらす保護、善意、慈善でさえ<暴力>であり、身を固くして拒絶する。

 他の作品は読んでいないので、クッツェーが志向することを理解したとは言い難い。ノーベル文学賞授賞理由のひとつに<西欧文明が掲げる残酷な合理性と見せかけのモラリティーを容赦なく批判した>ことが挙げられていた。〝残酷な合理性〟とは、国家による管理=<暴力>で、対置されたのが<自由>だ。だが、Kは原理としての<自由・民主主義>を唱えることはしない。ステレオタイプの言葉に背を向けているのだ。

 降りかかる理不尽や不条理に耐えながら、否定し、振り払うこともなく、ひたすら受け入れ歩んでいく。そして、Kは自分が庭師であることを実感する。太陽の動きを察知し、動植物に親しむ。荒野にカボチャの種を撒き、栽培して食べる場面は至福に満ちていた。種は環境が整った時に実を結び、自他の多数の種へと繋がって、他者の飢えを癒やす。Kのことを石に例える描写があった。「土のように優しくなればいい」とモノローグする場面もある。第3部で出会うボヘミアン風の若者が何のメタファーなのかわからなかったが、読み終えた時に充足感と希望を覚えた。

 内戦が終わった後、Kは恐らく庭師、農夫として自然と交感し、カボチャやその他の種子をまき、水やりを心掛け、ささやかな生活の糧にする。山羊や鳥、そして昆虫とも共存して生きていくのだろう。ヘンリー・ソローや老荘思想とも異なる自由の果てを、自然体で進んでいくのだ。
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「バグダードのフランケンシュタイン」~〝モザイク国家〟を疾走する人造人間

2024-06-21 22:44:19 | 読書
 叡王戦第5局を伊藤匠七段が制し、藤井聡太八冠は七冠に後退した。二転三転の熱戦だったが、131手の6四桂から形勢は伊藤に傾いた。5五桂なら藤井優勢だったようだが、秒読みで正着を指し続けるのは藤井でさえ難しい。同い年のライバル関係で、将棋界はさらに盛り上がるだろう。持将棋を挟み藤井に10連敗していた伊藤だが、負け続ける中で掴んだものは大きかく、第5局では腹を据えた踏み込みで流れを引き寄せていた。

 この1年に限定しても、その国の小説を初めて読む機会は何度かあった。「ある一生」はオーストリア、「わたしの名は赤」はトルコ、「自転車泥棒」は台湾、「マイ・シスター、シリアルキラー」はナイジェリアと、各国文学事始めの感がある。今回紹介するのは初めて読むイラク産「バグダードのフランケンシュタイン」(2014年、アフマド・サアダーウィ著、柳谷あゆみ訳/集英社)で、ブッカー国際賞、アーサー・C・クラーク賞の最終候補に残った。

 舞台はイラク侵攻でサダム・フセインが逮捕され、米軍が駐留する2005年のバグダードだ。俺が抱いていたイラク像といえば、〝スターリンに憧れたサダム・フセインがつくり上げた独裁体制の下、不自由で一枚岩の国〟。色でいえば黒というイメージだ。だが、本作読了後、それが全くの的外れであることを知る。

 「バグダードのフランケンシュタイン」のタイトル通り、当地に現れた人造人間を巡る物語だ。メアリー・シェリー著の「フランケンシュタイン」と共通しているのは無尽蔵の体力と優れた知性、容貌の醜さ、そして孤独だ。バグダードのフランケンシュタインは原典のようにひとりの科学者によって造られたのではなく、自爆テロの巻き添えで亡くなった若い警備員のハスィーブのバラバラの遺体を繋ぎ合わせて出来上がった。腐敗した部位は、連日の爆弾テロの被害者の肉片で補強される。

 フランケンシュタインだけでなく、バグダードの街もまた多様な要素からなるモザイクタウンであることを本作で知った。脚本家や映画作家としてのキャリアを生かした斬新で実験的な手法による本作は、老婆ウンム・ダーニヤール、不動産会社を経営するファランジュ、古物屋ハーディー、ジャーナリストのマフムード、彼が懸想する自称映画監督のナワール・ワズィール、マフムードの上司サイーディー、スルール准将、ラストで本作の作者に擬せられる作家らのモノローグで綴られる。

 彼らの来し方、信仰も様々で、キリスト教徒のウンム・ダーニヤールはイラン・イラク戦争に応召して帰還しない息子の生存を信じている。多くはイスラム教徒だが、シーア派、スンニ派、アルカイダ支持のスンニ派、バアス党の残党らがせめぎ合い、爆破事件が収まらない。ユダヤ教の伝統を継ぐ建物もあり、バグダードの街並みが鮮やかに切り取られていた。

 あえて主人公を選ぶなら、ハーディーとマフムードだ。「名無しさん」と呼ばれるようになるフランケンシュタインの創造主はハーディーで、偶然知り合ったマフムードとは取材だけでなく、個人的な会話も交わすようになる。名無しさんの魂はハスィーブだが、部位を補強するうち、多くの人たちの報われず癒やされない思いが積み重ねられ、<壊れたもの、失われたものの記憶>が醸成されてバグダードを疾走する。

 現在のイラクも2005年と変わらず、幾つもの勢力がぶつかり合っており、大規模な反政府デモも開催されている。本作をきっかけに多くの小説が世界で読まれ、日本語にも翻訳されることを願っている。
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「高架線」~滝口悠生が描く青春グラフィティーat東長崎

2024-06-13 21:52:31 | 読書
 「にっぽん縦断 こころ旅」(NHK・BS)について何度か記した。火野正平が視聴者の思い出の風景を自転車で巡って手紙を読むという紀行番組で、放送回数は1000を超えたが、火野の腰痛で現在は休止中だ。俺の心に残る街はどこだろうと記憶の底をつついた。答えは1977年から2000年まで過ごした<江古田>である。どの場所ということはないが、中野に引っ越した時、〝永い青春時代〟が終わったことを実感した。

 西武池袋線で隣の駅といえば東長崎だ。池袋から徒歩で帰ったことも多く、馴染み深い街である。駅から徒歩5分のアパート「かたばみ荘」を舞台にした小説「高架線」(2017年、講談社文庫)を読了した。滝口悠生は初めて読む作家で、2016年には芥川賞を受賞している。料理に関する記述が秀逸なのは、主夫志向だったゆえんといえるだろう。

 4室から成るかたばみ荘は年季が入っており、バストイレ付きながら家賃は格安の3万円だ。住人は引っ越す時、次の入居者を探しておくというシステムで、不動産屋は通さないから礼金も敷金もない。2000年前後から十数年の2号室の住人、その知人たちの計7人のモノローグが「*」で繋がっていく。冒頭は大学3年生の新井田千一だ。新井田が語る高校時代の文通に、別稿で紹介した井上ひさし著「十二人の手紙」の「ペンフレンド」が重なった。

 大学卒業後、新井田は職場に近い場所に引っ越した。伝手を頼って見つけた入居者はバンドマンの片川三郎だった。語り手も片川になるかと思いきや、片川は失踪し、友人である七見歩、七見の妻・奈緒子が継いでいく。前半の主人公は片川で、虚実の境を彷徨うキャラクターは、他の滝口作品にも描かれているはずだ。

 淡々と流れるかと思ったら、語り手が27歳の峠茶太郎にリレーされるあたりで、大家さんまで巻き込むドラマチックな展開になる。秋田出身の茶太郎は波瀾万丈とまではいわないけど、割と派手な生き方をしている。片川の知人の紹介でかたばみ荘に引っ越した。2011年の東日本大震災を契機に、環境運動に関わるようになった恋人との別れも描かれている。

 後半のキーワードはヤクザだ。茶太郎が秋田を出たのはヤクザの情婦とねんごろになって身の危険を感じたからだし、かたばみ荘の隣人はヤクザのコスプレをしているような松林千波だ。転んだおばあさんを目撃し、慌てて助けようとして階段から落っこちて胸骨を骨折するほどお人好しの松林と交遊するようになった茶太郎は、語り口まで似てくる。松林が憑依したように、映画「蒲田行進曲」について熱弁する。聞き手はかたばみ荘近くの喫茶店オーナーである木下目見で、ラスト近くで語り手を引き継ぐ。福岡出身の目見は学生時代のバイトから喫茶店を任された東長崎の主的存在で、駅前の西友で買い物する場面が頻繁に出てくる。

 「蒲田行進曲」の話が延々と続くうち、最後の語り手である日暮純一が、喫茶店の客として登場する。「蒲田行進曲」が大家夫妻の青春と重なることが明らかになり、滝口の構想力に驚かされた。〝青春グラフィティーat東長崎〟の趣がある本作には滝口の柔らかく優しい眼差しが込められている。かたばみ荘が取り壊されるシーンに、数十年にわたる何十人の青春時代の終焉を感じた。滝口の他の作品も読んでみたいと思った。
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奥泉光著「虫樹音楽集」~荒野で宇宙と感応するテナーサックス

2024-06-05 22:05:23 | 読書
 この10日あまり、YouTubeで「怪奇大作戦」(全26話、欠番1)を一気見した。本作は俺が小学6年生だった1968年9月から半年にわたって放映されたが、見た記憶はない。舞台はSRI(科学捜査研究所)で、メンバーの的矢所長(原保美)、牧(岸田森)、三沢(勝呂誉)、野村(松山省二)、さおり(小橋玲子)と町田警部(小林昭二)が協力し、怪奇現象の謎を解き明かしていく。

 円谷英二監修の下、科学技術の進歩の功罪、熾烈な企業間の競争、癒えぬ戦争の傷、環境破壊、伝統文化の衰退、蒸発、コンピューター導入といった当時の世相を錚々たる脚本家が物語に織り込んでいる。キュートなさおりがお茶くみ役というのは仕方ないとはいえ、<美しいという観念の裏側には残酷な何かが潜んでいる>といったルッキズムに関わる台詞もあった。一番記憶に残ったのは牧の恋が描かれた♯25「京都買います」である。

 怪奇現象を扱った小説といえば、まず頭に浮かぶのがカフカ著「変身」だ。同作にインスパイアされた「虫樹音楽集」(奥泉光著、集英社文庫)を読了した。奥泉は15作以上読んでいる馴染みの作家だが、本作を読み終えた時、書評の〝核〟が見つからず、数日経つと全体が剥落していく困った状態になった。いつも以上にピント外れの中身になることをご容赦願いたい。

 本作は前衛的かつ実験的な小説で、時空がカットバックし、メタフィクション、マジックリアリズムの手法を用いている。伝説的なテナーサックス&バスクラリネット奏者、イモナベこと渡辺柾一の<変身>、いや<変態>を巡る9編から成る連作短編集だ。通底音になっているのはカフカの「変身」で、主な語り手である私(作家)はイモナベの消息を追っている。♯1「川辺のザムザ」は短編小説で、ザムザとは「変身」の主人公だ。科学雑誌や音楽評論がテキストとして挿入され、イモナベの血縁である青年の独白で<変態>する者の奇妙な生態が描かれている。

 奥泉は音楽に造詣が深い。「ビビビ・ビ・バップ」ではモダンジャズの巨人たちのアンドロイドがジャムセッションを展開していた。「シューマンの指」の<「音楽」はもう在るのだ。氷床の底の蒼い氷の結晶のように。暗黒の宇宙に散り輝く光の渦のように>という記述が印象に残っている。「虫樹音楽集」のイモナベはフリージャズのプレーヤーで知られる存在だったが、全裸で演奏するなど奇矯な振る舞いが目立ち、シーンから消えていく。

 かつてジャズファンの知人からアルバート・アイラ-のアルバムを借りたことがあった。フリージャズとは究極の自由を表現する音楽だと説明されたが、俺は理解出来なかった。人間が虫に<変態>するというのは後退に思えるが、イモナベは解放を志向する過程で虫に<変態>した。♯4「虫王伝」でミュージシャンのザムザは<虫樹>を求めて東アフリカに向かう。宇宙の進化を司る究極の言葉<宇宙語>に最も近いのが音楽で、ザムザは<宇宙語>を聞き取るために<虫樹>の下に立って虫に<変態>しようとする。<変態>とは<進化>なのだ。

 「東京自叙伝」では地霊に導かれた6人の「私」が、分身となって物語を紡いでいた。時にスピリチュアルな傾向を感じることもある奥泉ワールドの一端に触れたような気がしたが、本作の「私」同様、混乱を収拾出来ないままページを閉じた。無人の荒野で<変態>しつつあるイモナベが宇宙と感応する、そんなイメージが目の裏に焼き付いている。

 棋聖戦があす開幕する。AI超えの藤井聡太棋聖(八冠)とAIに捕らわれない独創的な山崎隆之八段と、好対照の棋士が相まみえる。タイトル奪取は厳しそうだが、関西の将棋ファンの希望に応えて、淡路島で行われる第4局の実現を願っている。将棋ファンの奥泉も注目しているはずだ。
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「フリアとシナリオライター」~リョサが仕掛けるスラップスティックコメディー

2024-05-27 22:24:01 | 読書
 前稿でダービーを予想した。4頭挙げ、⑮ジャスティンミラノ、⑬シンエンペラーは2、3着だったが、勝った⑤ダノンデサイルは全くのノーマークだった。同馬は皐月賞をゲートイン直前に回避した。輪乗りの段階で横山典騎手が違和感を察知したからである。安田翔伍師とスタッフは翌日、打撲痛の症状を確認し、ダービーに向けて調教を積み、栄冠に輝いた。

 横山典は〝感性の騎手〟と評される。56歳で3度目のダービー制覇で、検量室ではトップジョッキーである息子の和生、武史と抱き合っていた。一方で安田翔伍師の父は名伯楽(GⅠ・14勝)の安田隆行前調教師である。騎手時代はトウカイテイオーでダービーを制しているが、調教師としてのダービー制覇の夢を息子が叶えたことになる。競馬は〝ブラッドスポーツ〟であるが、関わる人たちも血と絆で紡がれている。

 さて、本題……。入り口は太宰治だったが、読書に親しむようになってから四十数年が経つ。最も感銘を覚えた作家を一人挙げるなら、マリオ・バルガス=リョサになる。今回は読了したばかりの「フリアとシナリオライター」(1977年、野谷文昭訳/河出文庫)を紹介する。<全体小説=取り巻く現実とともに人間を総合的に表現する>を掲げるリョサは、複数の視点で1950年代のリマを描き出している。

 リョサの作品の多くは重層的でシリアスだが、自伝的作品である本作はポップな色調でユーモアに溢れている。18歳のマリオが32歳で離婚歴のある叔母のフリアと恋仲になる。結婚に至るドタバタと並行して描かれているのは、マリオが勤める系列ラジオ局に招かれる天才脚本家ペドロ・カマーチョとの交遊だ。キーワードはボリビアで、フリアもペドロもともに当地からリマにやってくる。ペドロのアルゼンチン人への嫌悪、キューバ革命への過渡期も描かれていた。

 作家志望で短編を書きためているマリオは、ストイックに魅力的なシナリオを生み出すペドロに驚嘆して惹きつけられ、理想的な作家像を重ねていく。リマの地図を参考に、様々な情報をシナリオにぶち込むマリオに狂いの兆候が表れてくる。登場人物やストーリーが錯綜して収拾がつかなくなるのだ。煌めいた才能が廃人に転落した様子はラストに描かれていた。

 550㌻を超える長編ながらリョサにしては読みやすいと感じてページを繰るうち、俺もまた混乱を覚えるようになった。「アンデスのリトゥーマ」、「ささやかな英雄」の主人公である警察官のリトゥーマ軍曹は本作にも繰り返し登場する。マリオに加え、リマのスキャンダルや事件を俯瞰の目で観察する冷徹な語り手がいて、さらに作家として成功したリョサ自身も冒頭とラストで語り手に加わっている。ペドロが提示する脚本は<劇中劇>の様相を呈していき、虚実が入れ子構造を形作るさなか、現実はカタストロフィーを迎える。

 解説の斉藤荘馬氏は本作に自らの青春時代を重ねて綴っていた。リョサの入門編にはもってこいのスラップスティックコメディーだが、それでも様々な仕掛けが講じられた作品だ。リョサは歴史に造詣が深く、リアリズムを追求する作家と評される。平易に思える本作だが、メタフィクションやマジックリアリズムの要素も濃い。俺が囓っているのは巨大な蜃気楼の端っこに過ぎないことを実感させられた。
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「マイ・シスター、シリアルキラー」~連続殺人犯は無垢な美女

2024-05-15 21:00:35 | 読書
 グレタ・トゥーンベリさんが逮捕された。自国スウェーデンで開催された「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」決勝大会にイスラエル代表が参加したことに抗議し、<ジェノサイドをやめろ>といったパレスチナへの連帯を示すプラカードを掲げて会場を取り囲んだ数千人の中にトゥーンベリさんもいた。

 欧州や全米各地の大学で大規模なデモが行われているが、前稿末にも記したように、<反ユダヤ主義>ではなく、自由と民主主義、反戦を訴えるリベラリズムに基づいている。反貧困、ジェンダー、気候正義、反ジェノサイトなど複数のカテゴリーが人々を紡いでいくインターセクショナリティー(交差性)をトゥーンベリさん体現しているのだ。

 「マイ・シスター、シリアルキラー」(オインカン・ブレイスウェイト著、粟飯原文子訳/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読了した。ミステリーやサスペンスは面白いのはわかっているから、<読書は修行>が染みついている俺は読まないようにしているのだが、紀伊國屋で目に留まった本作を購入した。

 作者はナイジェリア出身の女性だ。文学賞を受賞した時期を考えると、30歳直前に本作を発表したようだ。ポップかつスタイリッシュな記述で短い章で紡がれており、200㌻弱を一気読みしてしまった。舞台はナイジェリア最大の都市ラゴスで、コレデ、アヨオラの姉妹が主人公だ。語り手のコレデは大きな病院の看護師長に任命されるが、優秀さは病院だけでなく、妹の殺人の後始末にも発揮される。タイトル通り、アヨオラはシリアルキラー、即ち連続殺人犯なのだ。

 本作はミステリーにカテゴライズされるが、謎解きの要素はない。冒頭でコレデがアヨオラのSOSで駆けつけると、恋人フェミの死体が転がっていた。コレデは部屋を完璧に清掃し、死体を遺棄した。3度目のことである。姉妹のキャラクターは対照的で、コレデは平凡でまじめな性格、アヨオラは圧倒的な美貌で周りの男を夢中にさせる。

 共依存はなぜ成立したのか、物語がカットバックしながら仄めかされる。ナイジェリアの現状や宗教についてはわからないが、独裁者の父が、14歳のアヨオラの嫁ぎ先を勝手に決めたことへの反発で、姉妹は〝共犯関係〟になる。そのメタファーはナイフで、アヨオラが凶器として用いることになる。

 通常のミステリーだと鑑識や監視カメラが大活躍するが、本作では警官でさえ、アヨオラの魅力にノックアウトされて殺人を見抜けない。ブラックジョークとしか言いようがないが、最大の理由はアヨオラが贖罪の思いを持ち合わせていないことだ。コンデは医師のタデに思いを寄せていたが、予感通り妹に奪われ、刃傷沙汰を引き起こす。さらに、アヨオラとドバイを訪れたビジネスマンが不審死を遂げた。

 上記したように語り手はコンデだが、ストーリーを回転させる聞き手がいた。昏睡状態のムフタールで、コンデは鬱憤や不安を吐き出すように語り掛ける。彼女の行為に効果があったかはともかく、ムフタールは意識を回復する。昏睡状態での記憶が姉妹を有罪にすることはあり得ず、ムフタールはコンデに謝意を伝えて退院した。〝共犯関係〟継続を予感させるラストも皮肉が効いていた。

 俺の知人に、男たちの心を引き裂いていく女性がいた。近づいてくる男たちと恋人関係になりながら、2、3カ月経たないうちに別れていく。アヨオラのように命は奪っていないが、心を殺していたのかもしれない。幸か不幸か、俺は恋愛の対象ではなかった。
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「自転車泥棒」~歴史の断面に喪失感を刻んだ台湾の小説

2024-05-07 21:59:24 | 読書
 第10回憲法大集会(3日、有明防災公園)に足を運んだ。開会前、グリーンズジャパンの街宣を行ったが、参加者は〝同志〟ゆえ配布物を次々に受け取ってくれる。法律違反の裏金議員の多くは、戦前回帰の改憲を志向する安倍派所属だ。武器輸出の制限が緩和され、自衛隊を米軍の指揮下に組み入れる動きが顕著になった今だからこそ、憲法9条の存在意義は高まっている。

 日本がアジアを侵攻していた時代も描かれていた台湾の小説を読んだ。呉明益著「自転車泥棒」(2015年、天野健太郎訳/文春文庫)である。呉は環境活動家であり、チョウの生態に詳しいことは本作にも生かされている。大学教授でもある呉は文献や史料を駆使し、様々なカルチャー、歴史の断面を本作にちりばめている。小説を書く意味についての自問自答も興味深い。

 時空を行きつ戻りつ疾走し、虚実の狭間を彷徨う複層的かつ多面的な実験小説だ。語り手は8人いるが、主人公(ぼく)は1992年に解体された台北にある住居兼商業施設<中華商場>生まれで、父は背広を扱う仕立屋を営んでいた。自転車とともに消えた父への思いから、ぼくは自転車マニアになった。各章のつなぎとして自転車についてのノートが挿入され、イラストは作者自身が担当している。

 ぼくの家族史の起点は、日本統治時代の初期にあたる1905年だ。明治38年と日本の元号を併記していたことから明らかだが、日本との密接な関係が本作に刻印されていた。ぼくは自転車の行方を追って多くの人と出会う。通ったカフェは、三島由紀夫の小説にちなんで「鏡子の家」と名付けられていた。後半では高齢の日本人女性、静子と交流することになる。〝台湾人は親日的〟という先入観があり、文化的結びつきの強さは本作にも描かれているが、戦争が影を落としている以上、日本軍による虐殺も冷徹に綴られている。

 ある語り手は日本軍として戦い、ある語り手は連合軍の一員だった。ともにぼくが自転車捜しをする過程で知り合った知人の父である。マレー半島やラオスでの戦闘で英国軍を追い詰めた銀輪部隊の存在を本作で知る。銀輪部隊は自転車で行軍して機動力を発揮した。ジャングルにおける戦闘が過酷であることは言うまでもないが、本作は詩的かつ繊細に綴っている。作者の自然、そして生きるもの全ての敬意が滲んでいる。ゾウは輸送手段だったが、語り手が愛情を注いだゾウは数奇な運命を辿り、台北の動物園に行き着く。

 放射線状に拡散した物語はぼくの家族の絆で終息する。ぼくの父を含め、時代に翻弄された者について<みな、なにか尖ったとげのようなものが体に刺さっているような気がしてならない。時間をかけて、必死になってそれを抜いているのだが、最後の一本のところになると、また押し込んでしまう>と記していた。

 〝とげ〟とは恐らく〝歴史〟なのだろう。ぼくだけでなく、登場人物は何かを探し続けている。根底にあるのは叫びたいような喪失感だ。台湾の小説を読むのは初めてだったが、呉の力量に感嘆した。

 自転車といえば、頭に浮かぶのが「にっぽん縦断 こころ旅」(NHK)だ。火野正平が自転車に乗って視聴者の思い出の場所を訪ねる紀行番組で、何かが起こるわけでもないまったりした旅に心を癒やされている。火野の飾らないキャラとアドリブが魅力で放送回数は1000を超えたが、火野の腰痛で春のツアーは延期になった。名優も74歳……。頑張れと言うのは酷かもしれない。
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「エデとウンク」~ロマの苦難の歴史に射す光芒

2024-04-27 16:16:06 | 読書
 笠谷幸生さんが亡くなった。高1だった冬、札幌五輪70㍍級で笠谷さんのジャンプに飛翔感を味わった。90㍍級では1回目で2位につけ、連続金メダル確信した刹那、失速して7位に終わる。あの時覚えた墜落感が、その後の人生の主音になった。〝鳥人〟の死を心から悼みたい。

 前稿で紹介した映画「キエフ裁判」では、東部戦線におけるドイツ軍の蛮行が裁かれていた。パルチザンとの連携ありとの理由で、幾つかの村で数千人単位が銃殺され、ユダヤ人だけでなく、人種の異なる両親から生まれた子供もターゲットだった。人種とはロマを指すケースも多かったことが想定される。ロマはドイツ国内でもユダヤ人とともに弾圧の対象だった。

 ナチスが第一党になる2年前(1930年)のベルリンを舞台に描かれた「エデとウンク」(アレクス・ウェディング著、金子マーティン訳/影書房)を読了した。社会学者でもある訳者の詳細な解題、在日韓国人でピアニストの崔善愛の解説を含め充実した内容だった。根底にあるのは<差別と排除の論理>を超える<共生と寛容の精神>だ。興味深いのは著者が20代半ば、12歳のエデ、9歳のウンクの両方と知り合っていることだ。本書は児童文学の金字塔であり、同時にノンフィクションの要素も濃い。

 父親が突然解雇を言い渡されたエデは、一家の生計を支えるアルバイトを探す過程でジプシーの少女ウンクと出会う。ジプシーは現在、ロマと言い換えられるが、本作に倣ってジプシーという表現も用いることにする。ウンクはロマの下部グループであるスィンティの少女だった。新聞配達で自転車を漕ぐエデにしがみついているウンクの様子を描いた絵がブックカバーになっている。

 金子の解題によると、1929年にはある州で「ジプシー禍撲滅指令」が発布されていた。子供は世間の空気に流されやすいし、エデも偏見に毒されていた。それでもウンク一家――といっても広場に停まっている家馬車だが――と訪ねるうち、家族とも仲良くなる。自転車を盗まれた時にはヌッキおじさんに助けられた。ジプシーたちはナチスによって60万人が虐殺される。金子は資料を集め、本作に登場する11人のうち生き残ったのは1人だけだったことを突き止めた。ウンクも収容所でわが子を失って精神に異常を来し1943年、ナチスの医者に薬物を注射されて亡くなった。

 著者はユダヤ人の共産党員で、チェコ、アメリカ、中華人民共和国を経て東ドイツに戻った。著者の思想信条を反映し、子供たちも組合に好意的で、既成観念に縛られていたエデの父親も自身が解雇されて軟らかくなる。ウンクに優しく接し、指名手配の活動家の逃亡を助けていた。児童文学と社会運動の関係は日本でも多く見られた。プロレタリア児童文学運動には多くの作家が参加したし、アナキズムの影響を受けた作家もいる。ドイツも同様だったのだろう。反ナチスを貫いたエデは戦後に著者と再会している。

 ロマが登場する映画は、トニー・ガトリフやエミール・クスリトリッツァの作品を当ブログで紹介してきた。東欧では放浪者、スペインでは定住した文化の伝承者というイメージを抱いている。とりわけ音楽界への貢献は絶大で、ジャンゴ・ラインハルトは後世のギタリストに大きな影響を与えた。ジェスロ・タルのボヘミアン風の佇まいもロマそのものだ。

 小説で思い出すのは、1990年前後のパリを舞台にした「本を読むひと」(アリス・フェルネ著)だ。ウンク一家そのまま、主人公のアンジェリーヌは<縛られず、屈せず、自由に生きる>を実践していた。「エデとウンク」で煌めいていたのはエデとウンクの会話で、<金銭ではなく自由>に価値を置く人生観は両親や姉にも影響を与えていく。

 ロマ関連の小説や映画に親しんできたが、誤解していたことも多々ある。ロマは異教徒ではなく、移り住んだ国のメインの宗教を受け入れているようだ。「エデとウンク」は作品だけでなく、解題、解説もロマを学ぶための素晴らしい教材だった。
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