酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

妹の死~人生最悪の日に思うこと

2012-05-28 23:43:19 | 独り言

 仕事中、妹の死を知らせる母の電話が入った。召されたのは昨夜で、職場に泊まり込んで大事業の指揮を執っていた義弟は、異変に気付きようもなかった。

 膠原病を患う妹は3年前(09年)の春、死線を彷徨っていた。帰省して毎日、京大病院に妹を見舞ったこと、深刻な病状から少しずつ回復して退院に至ったことは、当ブログで記した通りである。

 人工透析は続けていたが、その後は順調に推移する。昨日朝に実家に電話した時、居合わせた妹と最後の会話を交わした。ホームコンサートが開かれる友人宅を訪ねることを、明るい声で話していた。夏にはかつて勤めていた会社の同窓会、自費出版本の発刊、秋にはピアノコンサート主催と楽しい行事が待ち受けていた。急変が残念でならない。

 絶望、喪失感、悲しみ、やるせなさ……。様々な思いが、妹との思い出の場面とともに去来する。俺より身近に接していた母と義弟の胸の内を思うと言葉もない。

<俺と妹は、そのまま「男はつらいよ」の寅さんとさくらの愚兄賢妹だ。俺は享楽的に世を渡るキリギリスで、妹は病気と闘いながら前向きに生きるアリだった>……。

 今年のGWに帰省した際、このように記した。信じ難いほど異性に人気があり、大企業に就職と順風満帆の人生が、膠原病の発症で暗転する。だが、闘病によって妹が身に付けたものは大きかった。それは社交性、優しさ、犠牲的精神で、他人を支え、他人から支えられるビーズの結び目のような存在になる。

 俺が死んだって、涙を流すのは母、妹、義弟を含めて5人ぐらいのものだが、妹の訃報に触れて多くの人が泣くだろう。祖母にとって、介護を厭わない妹は宝物だった。先日亡くなった伯母もまた、足繁く訪れる妹に深く感謝していたという。この世で妹の死を悼む者は多いが、あの世で待ち詫びている者も多いのは救いといえる。

 すべてが月とスッポンの兄妹だが、俺が感じた最大の差は<正しく愛する力>だった、正しく他者を愛せるから相手も応え、妹を最高の話し相手、アドバイザーとして慕ってくる。よく「仲のいい兄妹ですね」と言われたが、それは愚兄を妹が見捨てなかったからだ。身内を褒めることは流儀ではないが、妹は俺が知りえた最も高潔で温かい人間だった。

 今日は仕事中、そして帰りの電車と必死で泣くのを堪えていた。明日は涙を搾り取った後、新幹線に乗車したいと思う。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブリランテ&フェノーメノ~愛と意地の日本ダービー

2012-05-25 22:27:30 | 競馬
 河本準一の謝罪会見が、仕事先のフロアに流れていた。経緯からしてメディアのサンドバッグになるのは当然だが、何をやってもお目こぼしされる輩がいる。<原子力村>の住人たちだ。

 内閣原子力委に属する推進派(経産省や電気事業者など)が秘密会議を開き、総合評価を書き換えて小委員会に提出していたことが、毎日新聞のスクープ(24日付朝刊)で明らかになった。続報によれば、同様の会合は昨秋から20回以上に及び、近藤委員長も4回、出席したという。4号機の深刻な現状、放射能汚染が若い世代を蝕む可能性など一顧だにしない<原子力村>は、良心や倫理とは無縁の〝獣の巣窟〟と断じていいだろう。

 毎日の報道を受け、昨日の「報道ステーション」に飯田哲也氏が出演した。<原子力村>の国民愚民視、閉鎖性、上から目線を批判する過程で、残念なことに飯田氏は差別表現を用いてしまった。権力に対峙する側には高いハードルが求められる。それが脱原発なら尚更で、小さなことで足をすくわれかねない。

 明後日の日本ダービーを格別な思いで迎える。POG指名馬のディープブリランテとフェノーメノが出走するからだ。ワールドエースとゴールドシップが前々日売りで単勝2倍台と人気を集める中、ブリランテは離れた3番人気(13・5倍)、フェノーメノは7番人気(23・1倍)とおいしい配当になっている。両馬の馬連⑩⑪は71・5倍で、ワイドでも20倍超だ。

 射幸心と肉親の情で判断が鈍るのは致し方ないが、<ワールドエースとゴールドシップの2強対決>という図式はピンとこない。ワールドエースは爪、ゴールドシップは気負いと懸念材料があり、ともに調教は控え気味だった。

 ブリランテはかかる気性が問題で、フェノーメノには〝青葉賞馬は勝てない〟というジンクスが立ちはだかる。同一馬主(サンデーレーシング)のヤンチャ坊主で、ともに岩田のお手馬だった。先行して差されるブリランテに、「外国人なら上手に御せるのに」……。中山でフェノーメノの能力を引き出せなかった時は、「騎手を代えろ」……。岩田は両馬の騎乗で批判の矢面に立たされた。

 更なる試練が岩田を襲う。NHKマイルCで落馬事故の原因をつくって失格となり、4日間の騎乗停止処分を受けた。〝災いを転じて福となす〟とはこのことで、岩田はこの2週間、ブリランテに付きっきりになる。<愛>を込めて接し、人馬の絆を育んだ。調教の動きは超抜で、気性をなだめる秘策(馬具)も用意したという。

 一方のフェノーメノは、ベストディール回避で空いていた蛯名を鞍上に据える。オークスではレース中の故障もあり、1番人気ミッドサマーフェアで⑬着と惨敗した。先週のというより、過去19回のダービーの雪辱を果たしたいというのが、蛯名の本音だろう、ベテランジョッキーの<意地>を懸けた大一番だ。

 先週の府中の芝は異常な高速馬場だった。オークス直前のフリーウェイSで1分19秒6のレコードで勝利したのは、10年度のPOG指名馬ミトラである。新馬戦の芝で⑫着惨敗後、ダートに戦いの場を移して頭角を現した同馬がスピードで圧倒するなんて、俺は今も信じられない。奇跡を現実にする〝亜空間〟馬場で、ダービーはいかなる結末を迎えるのだろうか。

 週明けからいれ込み気味だったが、ブリランテとフェノーメノがともに掲示板を外しても、さして落胆しない。POGの継続が決まり、心は既に来年のダービーに向かっているからだ。アンドレ・マルローいわく、「希望とは人間にとって最大かつ最後の病」……。〝負け続けた男〟の心に、痛いほど染みる言葉である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ル・アーヴルの靴みがき」~社会を見据えるカウリスマキの優しい眼差し

2012-05-22 23:17:09 | 映画、ドラマ
 自然って何て神秘的なんだろう……。昨日朝は柄にもなく、金環食に感動した。深海魚だって時には海面に顔を覗かせ、煌めきを見たくなる。裸眼で眺め続けたせいか、仕事先のみんなの顔が、酩酊したように赤く見えた。

 リーマン・ショックからユーロ危機と、経済は崖っ縁に立っているという。だが、騙されてはいけない。ギリシャやフランスの民意に異を唱えるメディアは、<1%>の代弁者なのだ。常に<99%>が煽りを食うという仕組みが浮き彫りになった今、社会主義と反グローバリズムが燎原の火のように広がりつつある。

 「人生に乾杯」(ハンガリー)、「フローズン・リバー」(米)、「春との旅」(日)、「ルイーザ」(アルゼンチン)、「海炭市叙景」(日)、「ウィンターズ・ボーン」(米)……。この2年、映画館で見た<格差と貧困>をテーマに据えた作品を挙げてみた。邦画2作は悲痛な結末を迎えるが、洋画4作は違う。絶望の淵に一条の光が射すラストに重なるのは、アキ・カウリスマキ監督の作品だ。新宿で先日、新作「ル・アーヴルの靴みがき」(11年)を観賞した。

 カウリスマキは「浮き雲」、「過去のない男」、「街のあかり」の<敗者の三部作>で知られるフィンランドの巨匠で、市井の人々の情感と悲哀を淡々と描いてきた。主人公は非運の連続で冴えない日常から転落する。〝板子一枚下は地獄〟かと思いきや、スプリングボードが用意されていた。

 「ル・アーヴルの靴みがき」は、<敗者の三部作>のエンディングから逆回転して進行する物語といえる。台詞で説明されるが、側溝に倒れていたマルセル(アンドレ・ウィルム)はアルレッティ(カティ・オウティネン)に救われて人生をリスタートした。舞台はノルマンディー地方の港湾都市ル・アーヴルで、マルセルの生業は靴みがきだ。仕事仲間のチャング(ベトナムからの移民)との会話にも、フランス社会に息づく自由と平等の精神、高福祉が窺えた。

 年齢(50歳)以上にくたびれたオウティネンこそカウリスマキ組の姉御で、聖性を纏う女優だ。<敗者の三部作>でも傷ついた男を包み込む菩薩の如き女性を演じていた。本作でも、いまだキリギリスの気風が抜けないアンドレを、アリのように我慢強いアルレッティがコントロールしていた。

 小津安二郎の影響が濃いカウリスマキだが、本作には社会性とエンターテインメントが加味されている。パンフレットには監督のメッセージが寄せられ、悪化する政治や経済、崩壊するモラルに警鐘を鳴らしつつ、難民問題を取り上げた経緯を記している。

 ガボンからの不法移民がすし詰めになったコンテナが、港で発見された。マルセルは脱走した少年イドリッサを、妻が入院中で不在の自宅に匿うことになる。人間は人種、性別、年齢を超えて理解し合える……。この信念を前面に創作を続けてきたカウリスマキは、いかなる差別や偏見にも与しない。本作ではイドリッサを守るコミュニティーが出来上がり、復活したロックミュージシャンや警視まで支援の輪に加わる。法を超えた正義、倫理、ヒューマニズムが高らかに謳われていた。

 マイケル・ムーアが「シッコ」で抉ったように、アメリカでは金が払えない患者は、病院から文字通り捨てられる。マルセル夫妻の暮らしは赤貧洗うが如しだが、医療体制が充実したフランスでは高度な医療も無料で受けられる。アメリカ化を目指したサルコジは、〝生活の質〟の捉え方の違いで国民の支持を失ったのだ。

 「ディーバ」(81年)のゴロディッシュほどではないが、ストーリーが進むにつれ、マルセルは只者ではないと思わせるもう一つの貌を前面に、イドリッサの希望が叶うよう尽力する。パリにたむろするボヘミアン時代、危ない橋を渡ったこともあったに違いない。一方で、生活第一に見えるアレッティだが、病室では知人の女性が読むカフカを導眠剤に用いていた。夫婦そろってミステリアスである。「アーティスト」のマギーのように、マルセル家の愛犬ライカの活躍も見事だった。

 ラストはまさに人生賛歌で、心に染み入る作品だった。カウリスマキが描くのは敗者ではなく、実は勝者ではないか。死を射程に入れつつ、伴侶と人生をソフトランディングするマルセルが羨ましくて仕方ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マニックスat新木場~褪せることなきUK国宝バンドの煌めき

2012-05-19 18:52:00 | 音楽
 「未来シアター」(昨夜放送)を見た。二階堂ふみのコーナーでは鮮烈な「ヒミズ」の記憶が甦ったが、武豊のミニドキュメントには首をかしげる。武不振の真の理由――栄華を極める社台グループが武に破門状を出し、有力厩舎も追随した――なんてテレビが伝えられるはずはない。一方で、勝ち星を減らした武を判官びいきで応援するファンが増えている。

 香川真司のマンチェスター・ユナイテッド入りが濃厚になった。プレミアは年末年始もない過密日程で、持久力とタフネスが求められる。果たして香川は、ファーガソンが求めるフィジカルのレベルをクリアできるだろうか。マンUのエースといえば、ピッチを駆け回り、強烈なシュートを決めるウェイン・ルーニーだ。武骨、誠実、情熱的といったルーニーのイメージと重なるのが、マニック・ストリート・プリーチャーズのジェームズ・ディーン・ブラッドフィールドだ。

 新木場スタジオ・コーストでマニックスを見た。シングル集「ナショナル・トレジャー」収録の38曲を17.18の2日にわたって演奏するという趣向だったが、仕事の関係で足を運んだのは初日だけである。早々に入場し、フロア後方で柵に身を預けた俺は、邪念抜きで右隣の女性に話しかけようと思った。20代前半に見える彼女がいかなる経緯でマニックスを聴くようになったか、興味を抱いたからである。

 以心伝心という。俺の気持ちは右ではなく左隣に伝わった。俺が着ていたマニックスのツアーTシャツがきっかけで、40歳の男性と中高年のマシンガントークが炸裂する。彼は翌日のマニックスはもちろん、モリッシーのジャパンツアーにも4日、足を運んだという。「ザ・ザはU2より上」、「オアシスは最初の2枚、レディオヘッドは最初の3枚以外、聴く価値なし」と耳に心地よい〝暴言〟が続いた。

 俺はダーティー・プロジェクターズとローカル・ネイティヴスを薦めたが、US系には関心を示さない。「UKなら肉親の情でミューズかな」と言うと、「今じゃコールドプレイより格上のバンドですけど、勝手にどうぞって感じです」と素っ気なかった。言葉の端々に反米感情が窺えたが、マニックスのファンなら当然かもしれない。

 Gruff Rhysのサービス精神たっぷりのアコースティックセットのオープニングアクトに和んだ後、「マニックスで聴きたい曲は何ですか」と尋ねられた。2曲挙げたうちの一曲「享楽都市の孤独」でライブはスタートする。アルベール・カミュに捧げられた同曲は、以下のような歌詞だ。

 ♪文化は言語を破壊する。君の嫌悪を具象化し頬に微笑を誘う。民族戦争を企て他人種に致命傷を与え、ゲットーを奴隷化する。毎日が偽善の中で過ぎ去り、人命は永遠に安売りされていく……

 「オーストラリア」、「エヴァーラスティング」と続き、「ツナミ」の前のMCで、東日本大震災に言及する。キャッチーな曲の連続で、稠密な時は軽やかに過ぎていく。日本を意識したのか、桜の木が浮き上がるライティングも鮮やかだった。ニッキー・ワイヤーがいつもより地味と感じたのは俺だけだろうか。

 コンビレーションのタイトルは和訳すれば「国宝」になる。日本人は違和感を覚えるだろうが、ロックが文化として定着している英国において、不在のリッチーを含め3人の詩人が提示する奥深くメッセージ性の強い歌詞により、マニックスは<UK国宝バンド>の称号を得た。初期は風紀紊乱、頽廃的、暴力的といったイメージで語られてきたが、現在は知的、ラディカル、癒やしがマニックスを表現する形容詞だ。全欧に中継されたミレニアムギグで新左翼のメッセージを流したり、キューバで演奏したりと、マニックスは信条を貫く〝労働者階級の英雄〟といえる。

 「モータウン・ジャンク」の後、俺はドキドキした。ラストは二択で、「デザイン・オブ・ライフ」もしくは……。左隣の彼に挙げたもう一曲のイントロが鳴った瞬間、涙腺が壊れそうになる。3・11直後、俺はこの曲をモチーフにブログを書いた(11年3月19日の稿)。スペイン市民戦争にインスパイアされた「輝ける世代のために」である。

 ♪これを黙認すれば、おまえの子供たちが耐えなければならない。これを許容すれば、子供たちの世代が同じ目に遭わなくてはならない……

 歌詞を紹介し、日本にとって「これ」とは常に<棄民>で、3・11に照らせば<救援物資が届かない福島第1原発周辺の住民であり、いずれ放射能汚染に苦しむ可能性が高い人たち>と記した。政官財は俺が危惧した通りの方向に進み、<輝ける世代>は放射能の危険に今も曝されている。

 終演後、固い握手で彼と別れた。彼も、そして右隣の彼女も孤独なんだなと勝手に想像する。ロックを熱く語れる友など、ザラにいるものではない。マニックスは今回のツアー後、活動休止が囁かれている。彼と再会する機会はあるだろうか。

 最後に、オークスの予想を。荒れるとみて、④オメガハートランドを軸に馬券を買う。相手は⑧ミッドサマーフェア、⑨ヴィルジーナの人気どころに、⑬サンシャインを考えている。桜花賞馬の⑭ジェンティルドンナは3連単の3着まで、⑯キャトルフィーユの取捨は直前までゆっくり考えることにする。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「遮光」~屈折し乱反射する中村文則のプリズム

2012-05-16 23:14:06 | 読書
 99年5月、マンチェスターUはロスタイムの2点でバイエルンを逆転し、チャンピオンズリーグを制した。あれから13年、奇跡は主役を代えて再現する。同勝ち点でリーグ制覇を争っていたマンチェスターCは最終節QPR戦、ロスタイムで2点を挙げ、マンUを天国から地獄へと突き落とした。様々な因縁と伏線が絡まった日曜深夜の劇的なかつ壮大なドラマに興奮が冷めず、睡眠不足のまま月曜日を迎えた。

 ギリシャの再選挙が確定した。スペインやイタリアにも緊縮財政反対が波及する可能性があり、<1%>の側に立つメディアは危機感を煽っている。結論がユーロ圏離脱としても、<99%>の側に立つ決断なら、それは正しい。世を斜めに眺める拗ね者の目に、善と悪が倒立した像が映っている。

 さて、本題。中村文則の「遮光」(04年、新潮文庫)を読んだ。俺が中村を発見したのは校閲を担当する夕刊紙である。亀山郁夫東外大学長が<ドストエフスキー的な課題を現在日本に甦らせた>(要旨)と中村を激賞していた。未読、再読含めドストエフスキーの主立った作品を亀山訳で読了した時期でもあり、「掏摸」を早速購入して感銘を受ける。「悪と仮面のルール」、「王国」をリアルタイムで追いかけつつ、「土の中の子供」、「最後の命」等の旧作にも触れた。

 「遮光」は中村の第2作で、文庫化に際し自身があとがきを寄せている。<僕は「陰鬱」と共に生きている>と記し、<本作を受け付けなかった人には、小説というものが平均化されていく現代において、こういう小説もまああるのだと認識してくださればと、作者としては願うしかない>と結んでいた。流行作家とは程遠い存在であることを自覚している。

 主人公は大学生の私で、心の中にプリズムを抱えている。真の自分、虚の自分、周りが望む自分、演じる自分……。それらが屈折し、乱反射して世間と軋轢が生じ、喘ぎながら逸脱する。私は他者とまともな会話が成立せず、虚言を繰り返し、時に感情を狂おしく爆発させる。タイトルから考えれば、<光が射さない闇のような小説>となるが、作者の意図は逆かもしれない。私の内面の陽だまりは外に洩れないよう遮断されているからだ。

 他の作品同様、背景にあるのは<親に捨てられた>という少年期のトラウマだ。疎外感、孤独、違和感、傷を巧みに文体に滲ませ、読む者に不安と焦燥を抱かせる筆力に、椎名麟三の「懲役人の告発」や島尾敏雄の「贋学生」が重なった。中村自身は「遮光」を<僕の中から、原石の固まりのようなものが、そのまま出たような小説>と評している。

 主人公には恋人がいた。隣の部屋と間違えてドアをノックしたデリヘル嬢の美紀である。「罪と罰」のラスコーリニコフ(殺人者)とソーニャ(娼婦)のように、欠落したふたりは身を寄せ合って互いを浄化する。崇高で掛け替えのない愛は、美紀の突然の死によって殻を失う。喪失感と絶望から自らを守るため、私は奇矯な行動に出た。一つは「美紀はシアトルに留学中」という虚言であり、もう一つは遺体から切り離した美紀の小指を瓶詰めにして持ち歩くことだ。

 <これ(美紀の小指)をさらけ出して持っている私は、この街のどのスペースにも、いることができないような、そんな気がした>……。小指は主人公にとって、弧絶の形であり、愛の証しでもあった。中村いわく<本作を受け付けなかった(大半の)人>は、異物を呑み込んだような不快を覚えるだろう。だが、俺にとって予定調和的で他にありえない鮮やかなラストだった。

 「遮光」と併せて、中村自身が自らの大きな変化を自覚したという「何もかも憂鬱な夜に」(09年、集英社文庫)を購入した。いずれ当ブログで感想を記すことになるだろう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛ゆえに狂う~「KOTOKO」に感じた痛さと希望

2012-05-13 22:57:53 | 映画、ドラマ
 オバマ大統領の同性婚容認は、世論調査で過半数の賛同を得た。対象が同性であれ、異性であれ、愛する者と共に暮らしたいと願うのは、人間の普遍的な心情だ。

 オバマ陣営は「スーパー・チューズデー~正義を売った日」(11年)を参考にしたに違いない。リベラルな民主党大統領候補モリス(ジョージ・クルーニー)は作品中、同性婚容認を掲げて支持を広げていた。

 1970年代、ハーベイ・ミルクがサンフランシスコで、同性愛者の権利を求めて立ち上がった。英国ではトム・ロビンソンが、決意と苦悩を滲ませ「グラッド・ツー・ビー・ゲイ」を歌う。翻って日本では、法制上はともかく同性愛に寛容で、美輪明宏、美川憲一、ピーターが60年代、ブラウン管を闊歩していた。オネエ言葉が席巻する現在のバラエティー番組に、カルチャーショックを覚える外国人もいるという。

 母の日に前稿の補足を。息子(大道寺将司)だけでなく他の死刑囚や獄中者を励まし続けた幸子さんの遺志は、「大道寺幸子基金」として結実している。大道寺の作品は幸子さん抜きに存在しなかった。辺見庸は昨年放映のETV特集「瓦礫の中から言葉を」で、<(ホスピスで暮らす)わたしのような者が生き残って申し訳ない>という母の言葉を咀嚼し、<老人、障害者、重い病を患う者、仕事がない者が生きられる社会こそ健全>と語っていた。

 俺は<心配の種も長生きの秘訣>と開き直る罰当たりな親不孝だ。キリギリス生活の果て、俺に蓄えがないことを母は重々承知している。「わたしの死後、このボンクラは生きていけるのか」と母は自問自答し、無理との結論に達している。イージーゴーイングな俺は高を括っているが、母親は老いても子供が心配なのだ。
 
 新宿で先日、「KOTOKO」(11年、塚本晋也)を見た。「鉄男」、「ヴィタール」をはじめ、塚本作品のテーマは痛みと変容だ。原案、企画、美術を担当した主演のCoccoも、痛さで知られるシンガーである。二つの<痛い>が中和され、昇華されることを期待していたが、痛さの二乗といえる作品だった。

 幼い大二郎を守らなければならない……。強迫観念に押し潰されそうな琴子に、二つの世界が見えるようになる。一つは平穏な日常で、もう一つは大二郎が傷つく架空の映像だ。本作はクランクイン直前に起きた東日本大震災と原発事故にインスパイアされており、Cocco自身も3・11後、救援活動に熱心に取り組んでいる。大切な者の命やコミュニティーが津波や放射能で奪われる現実に、主人公と同じく1児の母であるCoccoはビビッドに反応したのだろう。

 観賞中は「この国じゃシングルマザーは生きづらいだろうな」ぐらいの感想しかなかったが、その後、琴子にある個性が重なっていく。アメリカによるビキニ環礁での水爆実験直後に製作された「生きものの記録」(55年、黒沢明)の中島喜一(三船敏郎)だ。放射能の恐怖に南米移住を説く中島は家族に反対され、経営する工場に火を放つ。主人公が精神病院に送られるのも、両作の共通点だ。

 リストカッターの琴子は、周囲の男性にも攻撃的だ。自分の歌声に惹かれて接近した作家の田中(塚本晋也)まで傷つける。愛を量る血みどろの儀式の繰り返しには疑問を抱いた。琴子が雨に打たれるシーン(HPトップ)に覚えた解放感が前面に出ていればとよかったと思うが、再生への希望はラストに用意されていた。

 Coccoは撮影時、34歳だったが、年齢不詳の童女、シャーマンというべき魅力が備わっている。全編を彩る圧倒的な声が心に響き、沖縄の豊かな自然が目に染みた作品だった。

 琴子のように、愛ゆえ狂気に至ることもある。自己犠牲を厭わない愛もあれば、癒やしに満ちた愛もある、様々な貌がある愛に、死ぬまで幾つ出会えるだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ETV特集「失われた言葉をさがして」に去来する思い

2012-05-10 23:50:27 | カルチャー
 知人は先日、帰国中のジャーナリストと旧交を温めたが、想定外の展開で、ある会議のレセプションに同行することになる。そこに現れた野田首相は「ご指導のほどをお願いします」と低姿勢で挨拶し、会場を後にする。「陰謀論」好きによれば、その会議はクリントンら息のかかった者を世界中でトップに据え、陰で操っているらしい。

 野田首相もまた、傀儡のひとりかもしれない。サルコジ敗北やギリシャでの左派躍進を憂慮すべき事態と報じ、大飯再稼働、消費税増税を煽るメディアもまた、<1%>のために仕えているのだろう。<99%>が覚醒して叛乱を起こせば、怪しい会議なんて吹っ飛ばせるはずだ。

 ……と記しつつ、自分の言葉の軽さに笑ってしまう。同じ病に罹っているのは俺だけだろうか。先月放映されたETV特集「失われた言葉をさがして~辺見庸 ある死刑囚との対話」(NHK)を録画で見て、様々な思いが脳裏を去来した。

 その死刑囚、大道寺将司を知ったのは辺見庸の講演会(06年12月8日の稿)である。辺見が序文を書いた句集「鴉の目」に感銘を受け、別稿(07年3月7日)で紹介した。

 番組冒頭、カメラは大道寺の全句集出版に奔走する辺見の姿を追う。大道寺は三菱重工爆破事件で逮捕された確定死刑囚だ。〝危険なテロリスト〟の絶対売れない著作に出版社が躊躇するのも理解できる。だが、大道寺を「私など足元にも及ばない現在最高の表現者で、言葉本来の神的響きを提示している」と評する辺見の情熱は、「棺一基」(太田出版)として結実した。

 俺も同書を購入したが、句の背景にある大道寺の思いに迫るには最低でも数回、通読しなければならない。辺見の解読をそのまま紹介しても意味はなく、俺の背丈に見合った感想をいずれ記したい。

 <3・11以前に、既に壊れていたのではないか>……。辺見の問題意識は「水の透視画法」や詩集「眼の海」(ともに11年)に提示されていた。生まれ故郷の石巻の惨状を目の当たりにした辺見は、「この崩壊を表現する言葉は失われていた」と呟く。3・11以降、大道寺を訪ねた辺見は、「世間では絆とか勇気といった空虚な言葉が蔓延しているが、誰の心にも達していない。荒みは獄外においてこそ進行している」と話しかけた。辺見が自身の表現について抱いた猜疑心は、大道寺と会ったことでほどけていったという。

 番組は三菱重工爆破に至るまでの大道寺の道のりを追っていた。生まれ故郷の釧路で見聞したアイヌ差別、浪人中に足を運んだ猪飼野、生活費を稼いだ釜ケ崎……。<手触り感のある正義>に目覚めた大道寺は、運動が退潮する70年以降、武装闘争に傾斜する。NHKが未遂に終わった<虹計画=昭和天皇特別列車爆破>にまで言及したのは意外だった。

 記者として新聞協会賞、ジャーナリストとして講談社ノンフィクション賞、小説家として芥川賞を受賞した辺見を詩作に向かわせたのは、大道寺の影響かもしれない。「生首」で中原中也賞、「眼の海」で高見順賞とこの2年、辺見は詩人として最高の栄誉に浴した。辺見と大道寺は創作のベクトルが共通している。

 辺見は大手メディアの政治記者を「糞にたかるハエ」と糾弾したこともあったが、当ブログで繰り返し言及したように、その言葉は何よりも自らを穿つ。<他者に刃を向けるのではなく、自身の生身の恥の部分に光を当てること>を自らに課しているのだ。大道寺の句に込められているのは、被害者たちへの<時効のない自責の念>で、重くて深い慟哭、贖罪の思いと、絶対的な孤独の中で対峙している。

 記者クラブの一員として警察に詰めていた辺見は74年、爆破の凄まじい映像に衝撃を受けたという。学生時代に逮捕歴があったにもかかわらず、警察と親しく付き合っている現状に矛盾も覚えなかったと回想している。その目に大道寺は〝突破者〟と映ったに違いないが、30年を経て両者の人生は交錯する。辺見が全句集出版に執着したのは、大道寺が現在最高の表現者であるだけではない。自らの戦後を総括し、証す試みでもあるからだ。

 爆破事件から37年、11年8月30日に大道寺は辺見に手紙を書いた。震災被災者の悲痛な言葉に接した大道寺は「三菱重工爆破と自然災害の犠牲者を同一に論じることはできないが、自分の過ちの深さを突き付けられた」と綴っている。大道寺は3・11以降も作句を続けているが、辺見には印象的な句として<暗闇の陰翳刻む初蛍>を挙げていた。放射能を蛍火に形象化し、目に見えない恐怖を詠んだ句と解読していた。三十数年、獄中で暮らす大道寺は、想像力と創造力で獄外と拮抗しているのだ。

 この番組を見た後、来し方を振り返った。俺の言動で何人傷つけたか指折り数えているうち、眠れなくなった。辺見、そして大道寺の著作に触れた以上、俺は死ぬまで罪と恥に向き合うしかない。当ブログに記すことはないと思うが……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「われら猫の子」~浸潤するアイデンティティーの奔流

2012-05-07 23:10:56 | 読書
 知人の女性はGW中、福島に赴いた。飼い主と離れ離れになった猫をケアするボランティアである。猫と寄り添うといっても、実家でポン太と惰眠を競っていた俺とは、心ばえが全く違う。

 実家にガタがきているため、京都では妹夫婦と某社モデルハウスを見学した。値段の高さに絶句したが、担当者が強調したのは太陽光発電だ。<政権中枢―経団連トップ―霞が関―メディア>は原発再稼働に躍起になっているが、民間企業は国民のニーズに敏感で、再生可能エネルギー導入に積極的だ。

 フランスでサルコジが敗北し、ギリシャでは左派が躍進した。既に破綻した新自由主義を持ち込んで格差拡大を招いたことも、選挙結果の背景にある。グローバリズムの美名の下、欲望の連鎖によって良心と倫理は地に堕ちた。公正と平等を説く社会主義政党が支持されるのも当然の成り行きか。

 さて、本題。今回はGWに読んだ星野智幸の短編集「われら猫の子」(講談社文庫)を紹介する。<核のように硬くなく、割れた数個の卵が混ざり合うような、軟らかい浸潤としてのアイデンティティーを追求している>(11年1月6日の稿)と星野作品について記したが、11編からなる本作にも同様の感想を抱いた。

 作者の妖術というべきか、「ててなし子クラブ」でいきなり迷路へと誘われた。亡き父が実在するかのように語り合うクラブを立ち上げた俺は、同じ境遇のクルミと恋人になる。父を含めた4人で交わされる会話は、透明なガラスの裏表で展開するパラレルワールドだ。裏面に水銀が塗り込められた時、ガラスは現実だけを写す鏡になり、関係も終わる。

 表題作「われら猫の子」は、親交の深い島田雅彦の「無限カノン三部作」にインスパイアされた可能性もある。主人公カップルは「ナルちゃん」、「マサコ」と皇太子夫妻から名前を拝借しており、子供の誕生を心待ちにされるという設定も似ている。セックスレスに至る夫婦の隙間を暗示的に行き来するのは、「サッカー」という名の猫だ。

 星野作品の下地になっているのが南米体験だ。「チノ」では中米を訪れ左翼ゲリラになろうとする俺と、当地で暮らす日本人女性マキとの溝がメーンテーマだ。世界とは、革命とは、円とは……。タイトルの「チノ」は中国人の意味で、「俺は日本人」と主張しても相手にされない。国外に出た日本人が突き当たるアイデンティティーの問題を、皮肉を込め滑稽に描いている。

 「トレド教団」、「雛」、「エア」の後半3作では、アイデンティティーを語る上で最も重要なセクシュアリティーの深淵に迫っている。愛の対象と形には決まったルールやノウハウはなく、人がアプリオリに信じている価値や習慣に、星野は疑義を呈している。ボルヘスらしき作家が登場する「砂の老人」も、ボルヘス以上にボルヘス的で興味深かった。

 <小説とは、何かに成り代わりたいという幸福な意識と、何かに成り代わることは不可能なのだという不幸な意識とのあわいに、陽炎のように立ち昇る芸術であると思う>……。

 俺が最も魅せられた「紙女」で、作者は小説論を披歴する。私小説風の始まりだが、「カミ」という女性との出会いと結婚が主人公を不条理な世界へ追い込んでいく。上記した<成り代わり>はカミの<紙化>として描かれ、息が詰まるほど痛くて官能的な掌編だ。「紙女」が象徴的だが、星野作品はその志向性で、安部公房やカフカと通底している。

 同じく「紙女」で、作者は<読んだ本が体の中にプリントされてしまうような読書をする人は絶滅しかかっている>と記していた。知力、気力、体力の衰えが著しい俺だが、何とか<絶滅種>の範疇にとどまりたいと願っている。

 アイデンティティーが増殖し叛乱する代表作「俺俺」(10年)が映画化される。主演の亀梨和也は20以上の役を演じ分けるという。玉が散乱したビーズを繋ぎ合わせるような困難な作業が予想されるが、三木聡監督の力量に期待したい。「群像」連載中の「夜は終わらない」の単行本化も待ち遠しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリギリスも時には悩む~事件の現場で過ごすGW

2012-05-04 17:02:08 | 戯れ言
 本稿は亀岡のネットカフェで更新している。帰省時の新幹線車内に、<瀬戸内寂聴さん 大飯原発再起動に抗議のハンスト>のテロップが流れていた。瀬戸内さんが澤地久枝さんらと2日、経産省前で行ったアピールについて、翌日の京都新聞は一行も触れていなかった。瀬戸内さんと京都との縁を考えると腑に落ちない。

 ここ数日、陳光誠氏をめぐる動きが報道されている。米中は陳氏の扱いを巡って苦慮していたが、中国は出国を容認するようだ。1920年代から30年代、国を追われたアジアの活動家は日本に拠点を求めた。彼らを厚遇したナショナリストはアジアとの連帯を説き、多くは中国革命に馳せ参じる。当時は日本の反体制運動の黄金期でもあった。<戦前=不自由な暗黒時代、戦後=民主主義の明るい時代>……。アプリオリに信じてきた対比が、俺の中で綻び始めている。

 昨年のゴールデンウイークは3・11から間もない時期だったが、東京とのあまりの温度差に驚いた。国道9号が延びる先は日本有数の原発団地なのに、危機感を抱いている人は少数だった。あれから1年、今度は亀岡が全国の耳目を集める〝事件の現場〟になった。ネット上には加害者3人の実名を含め様々な情報が流れているが、その割に地元は平静だった。被害者家族の怒りは当然だが、その言動を繰り返し流すメディアは、厳罰を望む世論におもねっている感もある。

 勤め人の頃は盆暮れ関係ない仕事(スポーツ紙)だったので年に一度だった帰省が、最近は年末年始、GW、秋と3回に増えている。80代半ばの母に顔を見せるのも親孝行のひとつだが、俺自身が〝老前〟となり、10年後、20年後を直視すべき時機が到来した。

 俺と妹は、そのまま「男はつらいよ」の寅さんとさくらの愚兄賢妹だ。俺は享楽的に世を渡るキリギリスで、妹は病気と闘いながら前向きに生きるアリだった。俺は独身だが、妹の夫は堅実な公務員である。だが、55歳にもなれば、もう生き方の違いでは済まなくなる。ズバリ言えば、金が重要な物差しになるのだ。

 実家は築30年超でガタがきている。リフォームは難しく、壊して建て直す案が出ているが、宝クジでも当たらない限り俺には発言権がない。財力がある妹夫婦、素寒貧の俺……。俺はこの現状を反省すべきだろうか。。
 
 読書、音楽、映画に幅広く、時に奥深く親しめば、価値観は世間と相容れなくなる。キリギリスの妄想といわれたらそれまでだが、坩堝の中で煮えたぎった何かが濾過され、蜃気楼のにように立ち上ることがある。脳内の数カ所でショートし、繋がったパルスが影絵のような像を描くこともある。妄想の類かもしれないが、それらはキリギリスにだけ見える<人生や社会の真実>なのだ。逆に言えば、アリの目に映る普遍的な景色は俺とは無縁だ。

 <老後は亀岡で>が既成事実になっていたが、別の可能性も出てきた。ともあれ、今さら俺がアリになったって手遅れだ。キリギリス道を全うして死ぬことにしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3連休に映画を楽しむ~「テルマエ・ロマエ」&「ヘルプ」

2012-05-01 23:45:24 | 映画、ドラマ
 小池清さんが亡くなった。冥福を心から祈りたい。小池さんが司会を務めた「アップダウンクイズ」は、日曜夜の団欒に欠かせない番組だった。9問正解でリーチを掛けていても、詰めを誤ればゴンドラは回転しながら落ちていく。<暗転>の具体的な形を、少年の心に焼き付けたくれた。

 <暗転>といえば、天皇賞で11着に終わったオルフェーヴルだ。陣営が気性難の同馬に施してきた工夫が、結果として<角を矯めて牛を殺す>ことになったと分析する評論家もいる。そういえば、俺のPOG指名馬ディープブリランテは、ヤンチャな性格が災いして結果を出せていない。ダービーではビートブラックを参考に、思い切って先行させてはどうか。

 3連休は新宿で、「テルマエ・ロマエ」(12年、日本)と「ヘルプ~心がつなぐストーリー」(11年、アメリカ)を見た。封切り直後の前者は最低限にとどめ、後者に重点を置いて記したい。

 漫画(ヤマザキマリ著)を映画化した「テルマエ・ロマエ」は、風呂をテーマにした抱腹絶倒のSFコメディーだ。メルヘンの要素たっぷりで、満足度は「大鹿村騒動記に引けを取らない。

 ストーリーの軸は、裸で勝負した阿部寛演じるルシウスと真実(上戸彩)の時空を超えたロマンスだ。ローマの街並みや大群衆(CG活用?)も見応え十分で、ルシウスがモノローグで語る文明論や日本人論も興味深い。ローマ人を演じた市村正親、宍戸開、北村一輝の濃い顔の面々だけでなく、個性的な芸達者が脇を支えていた。
 
 「ヘルプ」はシリアスな黒人差別を、切り口を変えて柔らかく抉った作品だ。ユーモアに溢れ、個々の温度差によって見え方が異なってくる重層的なヒューマンドラマといえるだろう。公民権運動の広がりとその後ろ盾だったケネディ大統領の暗殺が、異国の出来事のようにテレビ画面に映し出される。舞台となったミシシッピ州を、差別者であることを恥じない白人が闊歩していた。

 ユージニア(エマ・ストーン)は大学卒業後、地元紙に職を得た。家事のコラムの担当者である。作家志望の彼女には、秘めたプランがあった。黒人の家政婦(ヘルプ)の生の声を集め、一冊の本にまとめることである。聞き取りに協力するには命懸けの覚悟が求められるが、ユージニアはエイビリーン(ヴィオラ・デイヴィス)とミニー(オクタヴィア・スペンサー)を説得する。

 <差別者の貌は醜い>……。これは国や時代を超えた真実で、<差別する>を<偏見に囚われる>と置き換えてもいい。ユージニアの友人たちは上流階級に属し、容姿や身なりは洗練されている。だが、見栄えの美しさと裏腹に、頑迷さと固陋さが内側から滲み出て、獣性を表情に刻んでいる。群れのボスはヒリーで、ヘルプのミニーに酷い仕打ちをする。

 ミシシッピの富裕層は黒人のヘルプを雇い、炊事、掃除など家事全般から育児まで押し付ける。子供たちはヘルプに対し母以上の情愛を抱くが、一定の年齢に達すると洗脳され、ヒリーのような差別主義者に転じていく。ユージニアは例外で、コンスタンティンと育んだ絆が本を書くきっかけになった。

 貧しい家庭の生まれゆえブルジョア女性グループから村八分にされているシーリアだが、ミニーと友情を築くのに時間はかからなかった。財産、身分、特権は時に、人間らしい心と感情を持つための障害物になる。ミニーの見事な意趣返しに快哉を叫んだのは、俺だけではないだろう。ヘルプたちの怒りと勇気によって、ユージニアの試みは結実する。

 並木道のラストシーンは差別を乗り越える道が険しくて長いことを暗示している。カメラは理不尽な扱いを受けたエイビリーンを追う。ユージニアは物語の起爆剤だが、真の主人公はあくまでもヘルプたちなのだ。

 野田〝州知事〟が宗主国のオバマ大統領と会談した。映画「ナッシュビル」(75年、アルトマン)で同胞から「白い黒人」と罵倒される歌手がいたが、日本の自民党が清く見えるほど腐敗したシカゴ民主党で這い上がってきたオバマもまた、「白い黒人」ではないか。。選挙の資金源は共和党候補と何ら変わらない。

 黒人大統領なんて、半世紀前のミシシッピの人々には想像もつかなかったはずだが、オバマはヘルプたちが望んだような大統領ではない。せめて2期目は、若き日の初心と理想を、欠片でいいから思い出してほしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする