酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ザ・ライズ&フォール・オブ・WCW」~兵どもが夢の跡

2010-01-29 04:10:18 | スポーツ
 貴乃花VS日本相撲協会、検察VS小沢一郎……。人は誰しも、火の粉が降りかからぬ場所で闘いを眺めることを好む。だが、自らが属する組織が腐臭を放っていることに気付いても、抗議の声を上げる者は少ない。俺もまた、闘技場に集う気弱な野次馬の一人である。

 さて、本題。俺が53年の人生で出合った最高のエンターテインメントは、98年から数年間のWWE(当時WWF)だ。ビンス・マクマホン会長が「史上最高のスター」と断言するオースチンがトップを張った時期である。

 年明け早々、オースチン時代の幕開けと切り離せないブレット・ハートとマイク・タイソンが、相次いでRAWに登場した。当時を懐かしむのはいいが、DVD「ザ・ライズ&フォール・オブ・WCW」を衝動買いしてしまう。

 1985年のNWA王座戦から00年のWCW王座戦まで、貴重な映像が収録されている。交通事故で世界王者への道を閉ざされたマグナムTAの雄姿、フレアーとスティムボートの名勝負、WCWを蹂躙したnWo、ゴールドバーグの戴冠など、充実した内容の3枚組(約8時間)だった。

 俺はWWEとWCWの抗争を、アニメ版「銀河英雄伝説」(田中芳樹原作)と「覇者の奢り」(ハルバースタム著)に重ねていた。これまで「桶狭間」を成し遂げたWWEの側から記してきたが、敗者に焦点を定めた「ザ・ライズ&フォール――」に強い説得力を覚える。

 壮大なスペースオペラであるアニメ版「銀河英雄伝説」は、見る者にある問いを投げかけてきた。 即ち<人々を幸せにするのは、卓越した指導者による独裁か、それとも衆愚に陥りやすい民主主義か>……。プロレスに関する限り、答えは前者だ。

 ビンスは選手の資質とファンの嗜好を見抜く<卓越した指導者>である。一方のWCWはビショッフの閃きとテッド・ターナーの財力で圧倒的優位に立ったが、やがてロッカールームが主戦場になる。レスラーのエゴを収拾できず、<衆愚>に堕して自壊したのだ。

 「覇者の奢り」は日米自動車メーカーの戦後を対比して描いた傑作ノンフィクションだ。持つ者は革新を嫌い、持たざる者はアイデアで勝負する。ブランドに安住して冒険をやめた<持つ者=フォード>はWCW、マスキー法クリアに果敢に挑んだ<持たざる者=日本の自動車メーカー>はWWEにそれぞれ置き換えられる。プロレス団体の興亡が全米の耳目を集めたのは、決着へ至る過程に、人々が普遍的真理を見いだしたからだろう。

 もう一度WWEに、いや、別の団体でもいいから、10年前の輝きを取り戻してほしい……。そんな俺の願いは遠からず叶うかもしれない。TNAにビッグネームが結集し、昨年までWWE随一の人気を誇ったジェフ・ハーディーも、年初のPPVでリングに乱入したという(短期契約?)。

 競争相手が登場して切磋琢磨すれば、必然的にサービスが向上するというのも世のならいだ。一軍デビュー半年のシェイマスがシナを破ってWWE王座を獲得するなど新陳代謝が著しいのも、ビンスの危機感の表れかもしれない。



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「ミレニアム~ドラゴン・タトゥーの女」~型破りなヒロインの衝撃

2010-01-26 01:09:25 | 映画、ドラマ
 スーパーボウルの組み合わせがコルツ対セインツに決まった。コルツは前半、ジェッツのタフなディフェンスに持ち味を消されたが、後半に入るや見事にアジャストする。セインツはOTの死闘で、老雄ファーヴ率いるバイキングスを破った。

 ハイパーオフェンスを誇る両チームだが、経験という点でコルツに一日の長があると思う。当日(2月8日)は仕事中に結果がわかってしまうが、ハ-フタイムショーのザ・フーと合わせ、たっぷり録画で楽しみたい。

 さて、本題。「ミレニアム~ドラゴン・タトゥーの女」(09年、スウェーデン)を有楽町で見た。奥行きとスケールを合わせ持つ至高のエンターテインメントで、2時間半を超える長尺にも緊張感が途切れない。ご覧になる方も多いはずなので、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。

 原作者のスティーグ・ラーソンは「ミレニアム」3部作の出版契約を結んだ直後、急死する。世界中のミステリーファンを魅了した処女作が遺作になるという伝説の作家になった。ラーソンは気骨あるジャ-ナリストでもあり、ダブル主人公のミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)は作者の分身といっていいだろう。

 実業家の裏の顔(武器商人)を暴いたミカエルの記事が名誉毀損の判決を受け、半年後の収監が決定する。失意のミカエルの身辺を洗うのは、ハイヒールに革ジャン、あちこちにピアスを着けた小柄なパンクギャル、リスベット(ノオミ・パラス)だ。彼女の雇い主はヴァンゲルグループ前会長ヘンリックである。

 姪のハリエットはどこかで生きているのか、殺されたとしたら誰が犯人なのか……。老ヘンリックは40年前のハリエット失踪事件の再捜査をミカエルに依頼した。

 本作の原題は「女を憎む男」だが、リスベットは<男を憎む女>で、リピートする回想シーンがトラウマを暗示している。エゴと欲にまみれた他の憎むべき男たちと比べ、ミカエルの調査結果には一点の曇りもない。志が高く、言動は誠実で、女性にもストイックな中年男に興味を抱いたのか、リスベットは進んでミカエルに協力する。

 理性と良心に基づき行動するミカエル、規範や倫理を超越した<正義>を野良猫の野性で実行するリスベット……。志向が異なる二人は、ヴァンゲル一族ゆかりのヘーデビー島で、スウェーデン現代史の闇を彷徨いながら真実に近づいていく。狂おしく渇きながらも本能的に愛を拒絶するリスベットとミカエルとの間には、セックスを通過儀礼にした<友情>と<仮構の父娘(兄妹)関係>が成立している。

 ちりばめられた仕掛けと謎解きの面白さ、ユーモアと温かさに安堵するエンディングに感嘆するしかない。第2部、第3部はテレビドラマ用に撮影した後、再編集して劇場公開されたという。本作並みの密度、衝撃、毒は期待できないが、映画館に足を運び、ノオミ・ラパスの強烈な個性を堪能するつもりだ。





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「狙われたキツネ」~東欧で生まれた文学の新しい形

2010-01-23 05:47:49 | 読書
 小沢一郎民主党幹事長は虎の尾(外国人参政権、普天間基地移設、天皇会見etc)を幾つも踏んでおり、逮捕される可能性は高いとみる。遥かに悪い奴ら――兆単位の既得権益にしがみつく政官財の連合体――は、騒動の陰で枕を高くしているはずだ。

 守旧派とツルむメディアは、リーク情報を垂れ流して<小沢=絶対悪>の世論形成に躍起だ。その一方で、田原総一朗、大谷昭宏、魚住昭、上杉隆といった錚々たる面々が検察の手法に疑義を呈している。いずれが真実に近いのか注視していきたい。

 前置きが長くなったが、本題に。「悪童日記3部作」(アゴタ・クリストフ)が世界を席巻したのは20年前のこと。読了したばかりの「狙われたキツネ」(ヘルタ・ミュラー著)に、「悪童日記」との共通点を感じた。

 いずれも短い章立てで構成され、過剰な表現を排して散文的に綴られており、メタファーの多用で奥行きが広がっている。クリストフはハンガリーからの亡命者、'09ノーベル文学賞に輝いたミュラーはルーマニアからの出国者と、ともに作者は東欧出身の女性である。

 「狙われたキツネ」の舞台は、チャウシェスク政権が崩壊した1989年のルーマニアだ。文学の新しい形を示すだけでなく、女性特有の柔らかな皮膚感覚、豊かな想像力、緻密な観察力が窺える。

 主人公のアディ-ナは小学校教師で、友人のクララは工場労働者だ。<反物語>を追求する本作で、二人を引き裂く秘密警察が、ドラマの要素を担っている。タイトル中の「キツネ」とはアディーナのコートだが、権力の介入によって姿を変える濃密なメタファーでもある。

 床屋、ブリキ職人、仕立て屋のおばさん、家政婦の娘、釣り人、工場の門番夫婦……。登場人物の言動に、圧制と管理への恐怖、自縄自縛の掟が滲んでいる。ロマや移民への差別が仄めかされる部分もあった。全編を通して史実が織り込まれているが、Wカップ予選におけるデンマーク戦勝利が革命のきっかけとして描かれている。国家に禁じられた歌が酔っ払った老人の口を突くや、抵抗の意志は街全体へ伝播していく。

 ルーマニアはドラキュラ伝説発祥の地であり、独裁者チャウシェスクもまた、民衆の生き血を吸うバンパイアだったのだろう。同国出身の彫刻家ブランクーシの代表作「空間の鳥」の原型は伝説の鳥マイアストラだが、革命後の空を舞うことはなかった。ミュラーは本作をシニカルに締めくくっている。

 <禁じられた歌は国歌となって国じゅうで歌われるようになったが、いまでは、その歌が広まろうとしても、かならず喉がつっかえ、誰もが押し黙ってしまう。なぜなら戦車はまだ街のいたるところに止まっているし、パン屋の前にはあいもかわらず長蛇の列がつづいているのだから。(中略)ただ古いコ-トが新しいコートに変わっただけなのだ>……。

 無数の人々の血で購われたドラスチックな革命も、熱気が冷めればたちまち褪せてしまう。<選挙という静かな革命>に委ねた日本人は、いま少し冷静に、負からスタートした新政権を見守るべきではないか。


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「アンナと過ごした4日間」~愛というナイフに抉られ

2010-01-20 00:31:36 | 映画、ドラマ
 ここ数日、訃報が相次いだ。合わせて冥福を祈りたい。かつての友人は浅川マキさんの熱烈なファンだった。彼は今頃、哀悼の酒に身を浸らせているだろう。江川事件で一方の主役を務めた小林繁さんが急死した。美意識とプライドが全身からこぼれるピッチングが懐かしい。エリック・ロメール監督は89歳の大往生だった。「獅子座」と「モード家の一夜」がとりわけ記憶に残っている。

 K's cinema(新宿)で「アンナと過ごした4日間」(08年、イエジー・スコリモフスキ)を見た。土曜午後なのに客が10人前後(全84席)。この不人気ぶりでは、DVDをご覧になる方も少ないだろう。今回はネタバレ御免で記すことにする。

 主人公のレオンは、ある女性に思いを寄せている。夜の帳が下りると、双眼鏡で数十㍍先のアパート(寮?)の一室を覗き始める。ターゲットのアンナは肉付きのいい中年の看護師だ。レオンは同じ病院の火葬場で働いている。介護していた祖母が亡くなったことで孤独の度を増したレオンは、思い切った行動に出る。アンナが就寝前に飲むお茶用の砂糖に睡眠薬を仕込んだのだ。

 アンナと過ごす4日間が始まった。アンナの足の指にマニキュアを塗ったり、後片付けしたり、誕生日に贈り物をしたりと訪問の痕跡は残すレオンだが、熟睡するアンナに触れることはない。

 切断された手、川を流れる牛の死体、交通事故、過去と現実を繋ぐ「オクラサ」の鋭い声、画面とそぐわない効果音……。過去と現在が交錯し、至るところに監督の仕掛けが用意されているが、一度見ただけでは理解できない部分も多かった。

 レオンは指輪紛失(盗難)の罪を被ってリストラされたと思えるが、既に冤罪の犠牲者だった。レオンとアンナを結ぶある事件の真実が明かされた時、<レオン=加害者、アンナ=被害者>の構図は倒立する。

 アンナを逆恨みしても不思議ないレオンだが、自らの行為を愛ゆえと法廷で言い切る。一条の光を期待したが、暗澹たるラストが待ち受けていた。すべてレオンの幻想だったのだろうか。

 別稿「銀幕に潜む悪魔たち」(05年5月24日)で以下のように記した。

 <ポーランド映画には、悪魔が頻繁に現れる。絶え間なく襲う災禍に、敬虔なポーランド人は、神から打ち捨てられたと感じたはずだ。その不安と絶望に、悪魔がそっと寄り添ったのではなかろうか>……

 レオンにとって、アンナは天使であると同時に悪魔だったのだろう。ちなみにスコリモフスキ監督は「水の中のナイフ」(62年、ロマン・ポランスキー)の脚本担当の一人で、倦怠期の夫婦の隙に忍び込む悪魔的な若者を造形している。

 <正しく愛する>をテーマを掲げた俺にとり、「アンナと過ごした4日間」は示唆深い作品だった。レオンは愛という鞘のないナイフを呑み込み、より深い絶望に落ちた。俺を惑わすアンナは、今どこにいるのだろう。





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懺悔と快楽の日々~NYからの爽やかな風に吹かれて

2010-01-17 01:43:10 | 音楽
 <民族音楽とデジタルとの融合を追求するフェルミン・ムグルザ、グルーヴ・アルマダ、ジュノ・リアクターらの試みが浸透し、ロックを資本主義から解放する日を心待ちにしている>(08年11月21日の稿)

 <新陳代謝を繰り返し、新世代が既成勢力を駆逐してきたロック界だが、最近は死臭が漂うようになった。21世紀に入って、シーンを揺さぶるムーヴメントは起きただろうか>(09年5月15日の稿)

 昨年暮れに現役ロックファンに復帰し、<ニューヨーク>をキーワードにアルバムを買い集めるや、シーンの地殻変動にたちまち気付いた。無知状態で書き散らかした記事を削除するわけにもいかないから、まずは懺悔し、ポストロックを志向するアルバムたちと快楽の日々を過ごしている。

 NY派は広い意味で<ヘッズ・チルドレン>だ。トーキング・ヘッズは70年代後半から10年間、民族音楽やデジタルの導入だけでなく、様々な方法論(映像を含め)を模索してロックの可能性を示した稀有のバンドだった。そのDNAを受け継いだ者たちが、ハイパー資本主義のしもべに堕したロックを本来の姿に取り戻そうとしている。

 彼らの共通点は、形式にこだわらず多様なジャンルを包括し、自由と共生をテーマに掲げていることだ。いたずらに音を加工することなく、街の息吹を取り込んでいる。懐かしく斬新な<反グローバリズムの優しい音楽>といえるだろう。とりわけ耳に残ったアルバムを以下に紹介する。

 ダーティー・プロジェクターズの「ビッテ・オルカ」は別稿(09年12月30日)に記した通り、俺にとって09年のベストアルバムだ。アズテック・カメラ、スクリッティ・ポリティ、レインコーツ、フェアーグラウンド・アトラクションといった80年代のUK勢を想起させるピュアでポップな音が、干からびた心と皮膚に瑞々しく染み込んでくる。3月のライブ(クラブ・クワトロ)が楽しみだ。

 「ビッテ・オルカ」とセットで愛聴しているのが、グリズリー・ベアの「ヴェッカーティメスト」(09年)だ。中東の雑踏をイメージさせる曲から可憐なバロック風ポップまで、様々な要素がちりばめられている。ダーティー・プロジェクターズ同様、歌心に溢れているが、グリズリー・ベアの方が内向的だ。

 国内盤が13日に発売されたNY派のアルバムを2枚購入した。印象だけを簡単に記すことにする。

 バンド名とは裏腹に、ヴァンパイア・ウィークエンドの「コントラ」はキャッチーでキュートなアルバムだ。<ポピュラーミュージックのスタンダードを変えていくかもしれない>(ライナーノーツから)との彼らへの絶賛は、的外れと思えない。1stを近いうちに購入し、合わせてブログで取り上げることにする。

 レジーナ・スペクターの「ファー」も10年のベストアルバム候補だ。NYということもあり、一聴した時は<おちゃめなスザンヌ・ヴェガ>との印象を抱いたが、ライナーノーツによれば<ブロンクスのビョーク>と呼ばれているという。ピアノをベースにした前衛的フォークといった趣で、クオリティーが高い曲が並んでいる。

 NY派を聴きながら本を読むのが、俺にとって至福の時だ。クリアになった言葉が鈍い脳に刻まれていくように感じるが、次の瞬間、眠りに落ちているのだから、それは錯覚に過ぎないのだろう。




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意志と野性とユーモア~MUSEのライブに芯から燃えて

2010-01-14 00:04:05 | 音楽
 冷たい雨に打たれながら、武道館に続く人波に連なった。MUSEの日本ツアー最終日である。スニーカーはぐっしょり水を含んで足元から凍えていた。

 整理番号が1ケタだったので、Aブロック後方右の特等席をキープする。俺のすぐ前で、学生っぽいカップルと打ち解けていたゴス姉さんは、「ロバート・スミス(キュアー)からマシューに浮気しちゃった」と話していた。彼女は俺と同じアラフィフに違いない。

 ロックが〝微分係数〟を競うジャンルである以上、煌きはいつしか褪せてセピア色のアルバムに納められる。平均年齢が31歳になったMUSEも、いずれ浮気される側に回るだろう。

 かく言う俺だが、かなりの浮気性だ。世間に先んじてMUSEを〝現役随一のライブバンド〟に認定したのは2度目の日本ツアー(01年秋)だが、〝刹那的切なさ〟が失せたらすぐにオサラバする……。そんな覚悟も、演奏が始まるや吹っ飛ばされた。

 冷え切った体は、あちこちでマッチをすられたように熱くなり、心はたちまちショートする。“HAARP”で<調和と美学>を究めたMUSEは志向を改め、骨太で荒々しい3ピースとしてステージに立っていた。異次元の天才マシューを支えるクリス(ベース)、ドム(ドラム)のリズム隊も、存在感をさらに増している。

 ラディカルさを窺わせた4th「ブラックホール&レヴァレイションズ」、ジョージ・オーウェルの「1984」をモチーフにした新作「レジスタンス」と、MUSEは2作続けてメッセージ性を前面に出した。<音と歌詞の一致>を図ったというべきか、計算ずくの不協和音、歪み、軋み、フィジカルな躍動が、ロック本来の硬質な弾力性を浮き立たせていた。

 音を加工することで<ロック以外>に消え、<ロック以下>に墜ちるバンドも少なくない。MUSEもその危険性を孕んでいたが、杞憂に終わった。マシューはストリートに溢れる叫びや怒りに繋がる音を奏でるために、あえてキーボードを封印したのではないか。マシューがピアノを弾かない“New Born”は初めてだったし、“United States Of Eurasia”ではショパンのパートをカットしていた。

 マシューがアジテーターのように拳を突き上げると、聴衆も呼応する。ストレートなプロテストソング“Knights Of Cydonia”を会場全体で歌っているのだから、言葉の壁はないはずだが、メッセージはどの程度伝わっているのだろう。MUSEが好きなら「1984」ぐらいは読んで、管理社会(日本もそう)について考えてほしいと思うのだが(ジジイの独り言)……。

 マシューは9年前、好きな女の子の気を引こうと必死にもがくナルシスティックで自己顕示欲が強い少年みたいだった。「そこまでやらなくてもいいよ」と声をかけたくなるほど痛かったが、あの時の姿勢を継続したことが、現在の評価に繋がっている。笑いを取るのはドムの役割で、アンコールでは着ぐるみ姿で登場した。ロックバンドの真骨頂というべきサービス精神を発揮するMUSEだが、残念なことに日本のファンが最も好きな曲に気付いていないようだ。

 終演後、出口に向かうまで、「やらなかったねj「大阪だけか」と“Bliss”についての会話が幾つか耳に入ってきた。マシューは10代の頃、スペインを放浪し、ロマの下でギターを修業したという〝伝説〟がある。その影響なのか、初期のMUSEには“Bliss”を筆頭に、日本人の情感を刺激するマイナーな曲調が多かった。次回(サマソニ?)ではセットリストに入るだろうか。

 武道館を出ると、雨は上がっていた。漆黒の空高く、鈍色の虹が懸かっていたはずだ。そのはるか彼方、芸術を司る女神(MUSE)たちが骨休めをしている。
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野性を保つための知性~「マラドーナ」に感じたこと

2010-01-11 01:15:46 | 映画、ドラマ
 野性を保つために不可欠なもの、それは知性だ……。「マラドーナ」(08年、エミール・クストリッツア)は、俺の直感を確信へと導いてくれた傑作ドキュメンタリーである。

 丸々と太ったマラドーナ、歌うマラドーナ、自国やナポリで熱烈な歓迎を受けるマラドーナ、クストリッツアの祖国セルビアでサッカーボールと戯れるマラドーナ、薬物に溺れ家族を顧みなかったことを悔いるマラドーナ、笑いを誘うマラドーナ教……。クストリッツアはマラドーナの素顔に迫るだけではなく、撮る側と撮られる側を超えた魂の共振に成功している。

 クストリッツアはセックス・ピストルズに触発されて表現の世界に足を踏み入れ、現在もギタリストとしてノー・スモーキング・オーケストラとツアーを行っている。本作にも監督自身の音楽へのこだわりが反映していた。ステージで「映画界のマラドーナ」と紹介されていたクストリッツアは、マラドーナを<サッカー界のピストルズ>と評していた。

 フォークランド紛争から4年、メキシコで開催されたワールドカップで、アルゼンチンとイングランドは国交断絶状態のまま準々決勝で相まみえる。サッカーを超えた戦いでマラド-ナが魅せた〝神の手ゴール〟と〝5人抜き〟は、バックに流れる「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」とともに数回リピートされる。

 ワールドカップ優勝後、アメリカからの表彰の打診を拒絶したマラドーナは、キューバに赴きカストロと歓談する。脚にカストロ、腕にゲバラのタトゥーを入れたマラドーナは、「ブッシュ(前大統領)は人間のクズ」と吠えるが、感情に動かされているわけではない。北米自由貿易協定(NAFTA)がメキシコに及ぼした深刻な影響を例に挙げてアメリカ批判を論理的に展開するだけでなく、サラエボ空爆の背景も理解していた。

 アメリカは南米で軍事独裁を支持し、80年以降は<新自由主義の実験場>として各国の経済を疲弊させてきた。反グローバリズムの志向が強く社会主義政権が次々に誕生する南米では、マラドーナは異端ではない。マル・デル・プラタで開催された反米州機構の大集会で、ゲバラの旗がたなびく中、マラドーナはベネズエラ・チャベス大統領に肩を抱かれてメッセージを伝える。

 マラドーナはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、マニック・ストリート・プリーチャーズ、そしてクストリッツアと同じ地平で世界を俯瞰している。監督自身の作品である「パパは、出張中!」、「黒猫・白猫」、「ライフ・イズ・ミラクル」から印象的なカットがインサートされ、マラドーナの言動を浮き立たせていた。

 クストリッツアは撮影中、マラドーナが〝内なる悪魔〟を克服しつつあると感じていた。今やマラドーナは代表チームの監督である。

 「ジュール・リメ・トロフィーをアルゼンチン国民、貧困と格差に苦しむ世界中の人々、マンデラ、カストロ、そしてゲバラに捧げる」……。

 苦戦が予想されるワールドカップ南ア大会で優勝したら、マラドーナは上記のようなコメントを世界に発信するかもしれない。

 あした(12日)は仕事の後、〝現役最高のライブバンド〟MUSEを武道館で見る。欧州では随一の動員力を誇り、不毛の地だったアメリカでも2万人規模の会場でツアーを行うまでになったミューズは今、分岐点に立っている。他のビッグネームのように体制の飼い犬にならず、マラドーナのように知性に裏打ちされた野性を維持することを切に願っている。



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「昭和が終わった日」~青春にピリオドを打った頃

2010-01-08 00:56:25 | 読書
 21年前の昨7日、昭和が幕を下ろした。読み終えたばかりの「ドキュメント~昭和が終わった日」(佐野眞一/文藝春秋)については簡単に触れるにとどめ、俺個人にとってのXデーについて記したい。

 俺が同書にピンとこなかったのは、昭和天皇との距離が著者より遠いからだろう。第一章は「偉大なる君主の死」と括られているが、俺の目に昭和天皇が「偉大」と映ったことは一度もない。いきなりの「?」である。

 前半では昭和天皇の発病から新元号発表に至る経緯が、後半では1989年をメルクマールに様々な出来事が俯瞰の目で綴られている。美空ひばり、松下幸之助、手塚治虫の死、バブルと尾上縫、リクルート事件、ベルリンの壁崩壊、宮崎勤、オウム……。すべて昭和天皇と関連づけられているが、俺にとっては19年前(70年)の死――身代わりとしての三島由紀夫の自決――の方が意味は大きい。

 翼賛メディアは戦争中と同じく、〝すべての日本人は病状を心配している〟〝国民は悲痛な思いで喪に服している〟というまやかしをまきちらした。恥ずかしながら俺も、スポーツ紙の校閲担当として端っこでぶら下がっていた。各紙(誌)の中枢を占めた全共闘世代は不敬のポーズを取りつつ、「陛下」が「陸下」に化けていようものなら泣き出しそうな表情でヒステリックな声を上げていた。

 Xデーは土曜日だった。午後2時、俺は熱に浮かされて目が覚める。悪寒がして声が出ない。入社5年、初めての欠勤を伝える電話を入れる。風邪薬を飲んで布団に潜り、再び覚めた夕方5時。汗ぐっしょりで熱は下がり、喉の痛みは消えていた。 風呂に漬かってすっきりし、テレビをつけて異変を知る。

 近くに住む大学時代のサークル仲間に電話を入れ、先輩宅に集合する流れになった。 風邪の症状はすっかり消え、軽快な足取りで訪れたレンタルビデオ店では、貸し出し率が100%である。「第2弾、近いうちに起きないでしょうかね」とパンクロッカーの店員がホクホク顔で言う。江古田は「非国民村」かと思ったが、日本全国、どこも似たような状況だったらしい。

 ♪臨時ニュース カー・ラジオも番組やめて ニュース速報流しつづける(中略) 耳そばだてるおれに感じる いつもながらの街の鼓動 刺激を餌に太る街なら おれを肴に飲めようたえ喰らえ踊れ……

 Xデーの滑稽さを予言したのはPANTA&HALの「臨時ニュース」だ。「1980X」(80年)に収録された同曲の歌詞に、PANTAの知性が窺える。俺たち〝江古田組〟もまた、昭和と昭和天皇を肴に語り明かしたのであった。

 死後21年、昭和天皇はメディアによって<平和主義者>に祭り上げられた。01年ピュリッツァー賞受賞作「昭和天皇」(ハーバート・ビックス/講談社)とは真逆の論調である。メディアは昭和天皇だけでなく、俗情と結託して戦争を煽った自分たちをも、<軍国主義の犠牲者>と位置付けることで免罪したかったのだろう。

 メディアはともかく、年齢に比例して昭和天皇への厳しさは増す。保守派の母でさえ、俺の顔をまじまじ見て「天皇が責任を取らなかったから、日本の男はキンヌキになった」と繰り返す。俺の体たらくはむろん自己責任で、昭和天皇のせいにするつもりなど毛頭ないのだが……。

 元号で時を区切る習慣はないが、89年以降、大学時代、プータロー時代の友人と疎遠になった。結婚、Uターン、行方知れずと理由は異なるが、俺が青春と呼べる時期は終わったのだ。みんなマトモになっていった。それでも俺は、糸が切れた凧のように、低空で風に揺られ続けている。


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紅白、吉井、箱根、「高瀬川」~21世紀の〝日本的〟とは

2010-01-05 00:23:44 | 戯れ言
 年末年始を過ごした実家では、〝眠り菌〟が蔓延していた。猫のポン太は寝るのが仕事で、母はお喋りがやんだと思ったらデカイ鼾をかいている。義弟は訪ねて来るたび「眠たい」と、ソファやコタツで体を折り曲げていた。病身の妹が一番元気に見えたから不思議な話である。

 親類などから日持ちしない料理が集まってくる。残飯整理係の俺は常に満腹で、酔生夢死状態で紅白や駅伝を眺めていた。紅白の感想は前稿最後に記したが、一緒に見ていた妹も<歌の力>の衰退を感じたらしい。普遍的な情感を形にして、広い層を納得させる〝日本的〟歌謡曲は消えつつあるようだ。

 先月27日、吉井和哉の武道館公演(08年)の模様をBSフジで見た。イエロー・モンキー時代と変わらず、切なさ、毒々しさ、孤独、絶望、狂おしさ、儚さ、頽廃を織り交ぜ、独特の美学に貫かれていた。吉井ほど〝日本的〟な歌の作り手は他にいるだろうか。美輪明宏が絶賛したのも頷ける。

 箱根駅伝は想像通り、〝感動の押し売り〟だった。すべてのエピソードが<集団への貢献>を物語る美談仕立てだったが、勝敗を決したのは<突出した個=柏原竜二>の存在だった。5区の距離短縮を求める声が、他校の監督から上がっているという。

 日本人は滅私奉公で働き、還元されるべき福祉・保険・医療が疎かになっても拳を振り上げない。駅伝は集団に埋没しがちな〝日本的〟の象徴かもしれないが、俺だって<理>より<情>で動くタイプだ。俺が優秀な長距離ランナーだったら、ケガを抱えていても箱根で走る方を選ぶはずだ。選手生命がジ・エンドになる可能性があったとしても……。

 食っちゃ寝の合間に平野啓一郎の短編集「高瀬川」(03年)を読んだ。時系列に沿って読むべきだろうが、「決壊」(08年)、「ドーン」(09年)に次ぐ3作目となる。

 三島由紀夫の再来といわれる平野は、日本人の死生観やもののあはれをベースに据える〝日本的〟作家であると同時に、インターネットがもたらす変化を取り込むなど、小説の新たな方法論を模索している。

 表題作「高瀬川」はある意味、ポルノグラフィーで、27歳の男女がラブホテルで繰り広げる心と体の交わりが濃密に描かれている。<死>に纏わるピロートークが、鮮やかで視覚的なラストへと繋がっていく。

 狂気と正気、夢と現、空想と現実、死と生の境界を彷徨う「清水」、小説の分解と再生に挑んだかのような「追憶」、中年女と少年の関わりを2段組みの書式で提示した「氷塊」も刺戟的だった。「決壊」と「ドーン」は本作における実験の精華といえるだろう。次はさらに逆行し、4冊からなる「葬送」(02年)を読むことにする。

 あれこれ書き終えるや、重大かつ根本的な疑問が頭をもたげてきた。〝日本的〟って一体何だろう。「爆笑問題のニッポンの教養」に出演した上智大・鬼頭宏教授(歴史人口学)によると、奈良時代の人口の70~80%は朝鮮半島からの渡来人だ。騎馬民族征服王朝説(江上波夫)とも符合するデータといえる。

 あまり遡っても意味はないが、日本文化は異質なものを吸収する雑食性と懐の深さで生き延びてきたのだろう。30年ぶりの紅白に<歌の力>を感じなかった俺は、〝日本的〟の変化に気付かなかっただけかもしれない。


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年頭の誓いは<正しく愛する>

2010-01-02 15:08:30 | 戯れ言
 亀岡から、明けましておめでとうございます。今年も戯言にお付き合いください。

 07年は<恋でもしようか>で、08年は<猫になる>だった。そして昨年は<もっとラディカルに、もっとワイルドに>……。年頭の誓いを思い出すと赤面せざるをえない。

 世の中が傾き、自らの足元も揺らいでいた昨年の元日は、ミューズの「ナイツ・オブ・サイドニア」を口ずさみつつ戦闘モードに突入していたが、10日ほどで拳を下ろすことになる。フルタイムの仕事を提示されたからだ。

 初志貫徹といかなかったが、「反貧困ネットワーク」の賛助会員になった。些少な額を時折寄付しているが、善根を施しているわけではない。俺などいつ行き詰っても不思議はない。その時には心置きなく世話になりたいという<計算>が働いているからだ。

 昨年分は形を変えて継続し、今年は新たな誓いを設定した。これまた口にするのも恥ずかしいのだが、<正しく愛する>……。

 当ブログにも記した通り、50歳を過ぎてようやく、自分が<正しく愛する資質>に欠けていることに気付いた。今さら手遅れとはいえ、<愛>が人にとって最大のテーマである以上、初級クラスぐらい卒業してから召されたいもの。むろん<愛>といっても、男女間の恋に限定しているわけではない。

 <自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです>……。

 ヒントになったのが、昨年再読した「ペスト」(カミュ)の中のランベールの言葉だった。若いうちは情熱で事足りるが、俺ぐらいの年になると対象は何であれ、普遍的な価値観――倫理、正義感、優しさ、自己犠牲、友愛――に裏打ちされた<愛>が求められる。

 年相応に枯れ、底にゆっくり沈みながら、距離を取る……。<正しく愛する>とはこんなイメージだが、煩悩多き身には険しい道のりである。

 実現可能な目標も設定した。ドストエフスキーと漱石に続き、<自分を培ってくれた小説との再会>だ。ジョージ・オーウェル、高橋和巳、福永武彦、開高健らの作品を再読するつもりだが、古い文庫本は字が小さいのが難点だ。

 知的好奇心を保つための条件は、何と言っても健康だ。昨年は糖分過剰摂取で体調を崩したが、同じ轍を踏まぬよう留意していくつもりだ。

 最後に、30年ぶりに見た紅白歌合戦の感想を。<歌の力>を繰り返し強調していたが、心に響いたのは特別出演の2組だけだった。スーザン・ボイルの圧倒的な声に、不遇だった人生を解き放つ呪力と魔力を感じた。矢沢永吉は決して好みの歌手ではなかったが、全身から零れ落ちるオーラに圧倒された。



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