酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

戦場が胚胎する倦怠、覚醒、狂気~「アルマジロ」が接写したもの

2013-01-29 23:13:42 | 映画、ドラマ
 紅白で「NUKE IS OVER」と書かれた斉藤和義のギターストラップが話題になったが、モンゴル800も先日、「ミュージックステーション」で反原発、反オスプレイを歌詞とTシャツでアピールした。ロックはこうでなけりゃ、存在する理由はない。

 沖縄の各首長や選出国会議員は、オスプレイ配備撤回を安倍晋三首相に要請した。〝自称ナショナリスト〟の安倍氏は、自身の本籍地がワシントンなのか東京なのか試されている。米軍基地がある以上、日本人の手は他国で流された血でべったり汚れている。日本と戦争の距離を最も正確に把握しているのは沖縄の人たちだ。

 ケイズシネマ(新宿)で先日、「アルマジロ」(ヤヌス・メッツ監督、10年/デンマーク)を見た。戦争のリアルさを内側から接写した斬新なドキュメンタリーである。アフガニスタンのアルマジロ基地で、メッツ監督はデンマーク人部隊と半年間、起居をともにして、時に最前線で銃弾をくぐる。

 主要な登場人物はメス、ダニエル、ラスムス、キムだ。デンマークには兵役制度があるが、拒否することも出来る。その場合は海外での援助活動など、代替業務に就くという。デンマーク人は自由を好み、上下関係も緩やかだ。メスら4人もデンマークの風土で育っており、赴任地がアフガニスタンと聞いてショックを受けた者もいた。戦争に不可欠といえる<大義>を見いだすのが難しいからだ。

 デンマーク軍とイギリス軍で編成された国際支援部隊(ISAF)は、タリバンと対峙するだけでなく、当地の民衆を味方につけるという任務を帯びている。とはいえ完全なアウェー状態で、大人たちはタリバンと気脈を通じ、子供たちにはなめられている。タリバンと民衆に楔を打つどころが、ISAFの情報が洩れている疑いが濃厚だ。ベトナム戦争で米兵が味わった孤立感、焦燥、不可視の恐怖がデンマーク兵を蝕んでいく。

 スペイン市民戦争のルポルタージュ「カタロニア讃歌」(ジョージ・オーウェル)にも記されていたように、戦争といっても常に戦闘状態が続くわけではない。デンマーク兵は明らかに倦んでいて、基地では戦争ゲームに興じたり、ポルノを観賞したりで退屈を紛らわせている。携帯で郷里の家族と話す者もいて、そのあたりの規律のなさが、後半で無用な混乱を招く。

 国際的に通用するかは別に、タリバンにはアフガニスタンから他国軍を追放するという<大義>がある。加えて地の利があり、民衆を巧みに盾として用いている。作品で説明はなかったが、中国の最新武器がタリバンに流れているという。米、中、露、英、仏の国連常任理事国は揃って武器輸出国で、戦闘が起きれば儲かるという歪んだ仕組みが成立している。「ここで死ねるか」というデンマーク兵の空気は、地雷を踏んだ4人の同胞が死傷したことで一変した。

 突撃隊に志願した兵士は、国際試合に臨むサッカー選手のように気合が漲っていた。タリバンの数え方も「1匹、2匹」になり、覚醒した若者たちは狂気の縁にまでたどり着く。彼らを直ちに正気に戻したのは、あっけなく手にした戦果だった。

 「ディア・ハンター」では、戦場の狂気に麻痺したニック(クリストファー・ウォーケン)が、ロシアンルーレットを生業にしていた。デンマークの若者たちにも、ニックほどではないにせよ変化が訪れる。いったん帰国した上記の4人が再度アフガニスタンに赴いたことが、エンドロールで明かされる。戦場のスリルと興奮、そして達成感と連帯感は、一度味わってしまえば逃れられない麻薬なのかもしれない。

 1945年以降、戦地に赴くことがなかった日本人だが、企業や役所で無名の戦士になった。理不尽であっても排他的であっても、組織に身を委ねることは、ある種の精神安定剤だった。非正規が常態になれば、日本人の精神風土は変わるかもしれない。悪い方に向かうなら、硬質なナショナリズムとの直結である。
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微笑んで降臨した魔女~パティ・スミスの意志の力に浸されて

2013-01-26 21:55:39 | 音楽
 「スプリット 二極化するアメリカ社会」(NHKBS)は、民主、共和両党の支持層が価値観、感性、志向性で対峙し、修復不能に至った現状を伝えていた。だが、ミュージシャンやハリウッドは一致してオバマ再選にくみしていた。ブルース・スプリングスティーン、アーケイド・ファイア、NY派のザ・ナショナルやヴァンパイア・ウィークエンドまで、ロック界はオバマ一色に染まっていた。

 2大政党は大企業や富裕層のしもべで、格差社会アメリカに必要なのは<真の民主主義>と主張する第三極も存在する。その結集軸のひとつが「デモクラシーNOW!」で、エンディングテーマ「ピープル・ハブ・ザ・パワー」を歌うパティ・スミスが来日した。一昨日、オーチャードホールで、パティのライブを体感する。

 パティは20世紀を代表する女性表現者のひとりだ。他に挙げるなら、作家のヴァージニア・ウルフ、カーソン・マッカラーズ、写真家のダイアン・アーバスだが、ウルフとアーバスは自ら命を絶ち、マッカーラーズも不遇のまま死を迎える。パティの生き様は対照的で、詩人、ロッカーとして活躍するだけでなく、アートシーンを縦横無尽に疾走してきた。新作「バンガ」は自らが属するカルチャーへのオマージュといえるアルバムだった。

 回想記「ジャスト・キッズ」が全米図書賞を受賞したことで、パティの評価はさらに高まった。詩集「無垢の予兆」の邦訳も同時に発刊され、ツアーと合わせてサイン会も開催されたが、今回の来日でパティが発信したのは、日本への共感と励ましだった。記者会見で「被災地と広島に行きたい」と語った通り、ツアーのスタートは仙台で、広島も日程に組み込まれている。金曜夜の官邸前デモには現れなかったが、「ファッキン! ニュークリア」のパティの思いを代理人が参加者に伝えたという。被災地での体験を基に作った詩をステージで披露していた。

 聴衆の年齢層が高く、しかも座席指定とくればノリがイマイチになるのは致し方ないが、パティは終始笑みを絶やさず、愛嬌を振りまいていた。タイプは違うが、俺はパティを紅白で日本中を瞠目させた美輪明宏と重ねていた。聴衆を覚醒させて共感に導く、意志と創意に満ちたパフォーマーの力だ。

 オーチャードホールでは「バンガ」収録の「エイプリル・フール」からスタートし、デビュー作「ホーセス」(75年)からの「キンバリー」へと続く。最初のハイライトは3・11後の日本に思いを馳せた「フジサン」で、和太鼓奏者を迎えた白熱のアンサンブルが展開する。エイミー・ワインハウスに捧げた鎮魂歌「ディス・イズ・ザ・ガール」、そしてタイトル曲と新作「バンガ」が中盤までの軸になっていた。

 「ビコース・ザ・ナイト」のイントロが流れた瞬間、涙腺が決壊する。35年の年月が凝縮され、濾し取られた感情が涙の養分になった。「ピープル・ハブ・ザ・パワー」、アンコールの「ロックンロール・ニガー」~「グロリア」を声にならない声で叫ぶ俺の乾いた頬を、二筋の涙が伝う。10年前の赤坂ブリッツより時間は短かったが、ステージから放射される優しい焔に、俺の心は浸潤されていた。

 「パティって、何であんなに可愛いの」
 「信じられないね。名古屋にも行こうかな」
 出口に向かう俺の背後で、女性がこんな会話を交わしていた。

 パティはデビュー当時、ユニセックスのイメージだったが、ステージからはフェロモンが零れ落ちてくる。66歳のおばさんが髪留めを外しながら歌ったり、口に含んだ水を最前列に吐き出したりする様子を、4列目の中央でドギマギしながら見つめていた。パティは知の女王であり、性や年齢を超越した魔女なのだろう。俺も少しは自分を磨き、70歳を超えたパティに出会いたい。

 ライブ前、オーチャードホール近くのラーメン屋で腹ごしらえをしていたら、半袖Tシャツの白人男性が入ってきた。いでたちからして、パティ・スミス御一行であることは間違いない。ショーが始まり、俺は驚いた。パティの右に立つレニー・ケイは、ラーメン屋で見た白髪で眼光鋭い男に似ている。当人である可能性は30%といったところだが、確認する術はない。
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紀伊國屋寄席で落語に馴染む

2013-01-23 23:30:46 | カルチャー
 この10年、落語との距離が縮まってきた。スタートは「聴く」で古今亭志ん生らのCDを集めていたが、そのうち「見る」が中心になる。TBSチャンネル(スカパー!)が放映する「落語研究会」を、頻繁に録画するようになった。ここまで来れば「感じる」しかなく、今年は既に2度、寄席を訪ねた。

 「見る」の最大の楽しみは、三遊亭円生(6代目)らの貴重な映像に触れることだ。円生の艶やかな声色、表情、間に風格と色気が迸っている。間断なく動くギョロ目は、客たちを測るセンサーだ。世間で破天荒の志ん生、正統派の円生と並び称される両者は、意外なことにウマが合ったという。ともに終戦間近、慰問で赴いた満州で居残りになり、望郷の日々を過ごしたことも大きかったのだろう。そのあたりを舞台化した井上ひさしの戯曲「円生と志ん生」も読むつもりでいる。

 録画していた落語研究会で、柳家権太楼が「言訳座頭」の枕で芸能人年金の破綻を喋っていた。寄席芸人、オペラ歌手から森光子クラスの大物まで加入していたらしい。返済された元金(300万円強)を奥さんに持っていかれたと嘆く権太楼を見ていて、俺は突然、自分の年金額が気になった。

 肝心なのは20年9カ月分納入した厚生年金だが、期待したほどの額にならないようで、俺の辞書に初めて「節約」の文字が書き込まれた。同時に、この国はどうなってしまったのかと慨嘆する。悠々自適なんて昔話、棺桶に足を踏み入れるまで働かされそうだが、一方で非正規雇用の若者が増え、20代単身者を中心に貯蓄ゼロ世帯が26%に達している。

 憂き世の荒波を忘れるには笑いが一番というわけで、一昨日は「紀伊國屋寄席」に足を運んだ。ホールはほぼ満席の盛況で、前座、二つ目(古今亭志ん吉)に続き、林家三平、立川志らく、桂文治が登場する。3人はいずれも規格外の身内を面白おかしく枕に用いていた。三平は父でもある先代、志らくは師匠の談志、文治は先代で、それぞれが抱く敬意と愛情が痛いほど窺えた。

 初めて接する志らくは、談志が「噺家で一番」と認めた才能を感じさせた。くすぐりと身ぶりを交えながらテンポよく演じた「死神」は、ヨーロッパの伝説を基に円朝が作った噺で、サゲは噺家たちが独自に工夫しているという。志らく版も見事だった。多分野での活躍でニューウェーヴと先入観を抱いていたが、師匠の教えよろしく古典を継承しているようだ。

 文治の「禁酒番屋」は町人の知恵が肩肘張った武士から一本取る痛快なストーリーだ。文治のオーソドックスな語り口に「誰かに似てる」とぼんやり考えていたら、当人がトリに登場した。上記の権太楼である。演目「御神酒徳利」は「禁酒番屋」同様、もともとは上方噺で、最近はあまり演じられないという。徳利はきっかけに過ぎず、ストーリーはどんどん膨らんで回転していく。権太楼の脚色も含まれていることは想像がつく。権太楼を直に見るのは4回目だが、また足を運びたいと感じさせる力演だった。

 寄席に集うファンは同じ演目を何度も耳にしている。筋もサゲも知っているが、他の演者や以前の高座と比べたりしているのだろう。ここ数カ月、「甲府ぃ」を柳家小三治で2度、入船亭扇辰で1度聴いたが、噺家が変われば味付けは違うし、同じ小三治でもくすぐりの混ぜ方などアレンジが異なる。聴くたびに引き込まれるのは匠の技ゆえだろう。

 俺は噺家共通のポーズが気に入っている。円生だって「私らは適当に生きております。落語なんて屁の役にも立ちませんが、お運びいただいて感謝しております」というスタンスで、まずは枕で自分を下げる。底の浅い自己アピールとは無縁で、登場人物の多くは俺のような粗忽者やいい加減な輩だから、親近感は増すばかりだ。しかも、いまや死語になりつつ人情が底に流れている。

 俺にとって寄席は、和みと癒やしの温泉のようなものだ。年相応の趣味を見つけられてよかったとしみじみ思っている……。さあ、あしたはオーチャードホールでパティ・スミスだ。落語とロックは俺の中で、いい塩梅で棲み分けている。
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「レ・ミゼラブル」に迸る感情の爆発

2013-01-20 21:03:46 | 映画、ドラマ
 「橋下さんって、意外に優しいね」
 「見直しちゃった」
 電車の中、隣に座った女子高生がこんな会話を交わしていた。桜宮高校で起きた自殺事件で、体罰を好みそうな? 橋下市長の対応に好感を抱いたようだが、地金が出たようだ。同校体育科の入試中止に言及した際、「受験生は生きているだけで丸もうけ」と語ったと報道されている。同志の石原氏に似た体質が窺えた。

 アルジェリアでの人質事件で20人以上の犠牲者が出た。日本人を含め安否不明の方もいる。メディアは<テロリスト=悪>と断じ、アルジェリア政府の強硬論に疑義を呈する識者もいる。事の発端はマリで、フランス軍の介入に抗議したイスラム武装組織は人質を拘束する。

 別稿(1月11日)に記したばかりのマリで、所有権を取り上げられた農民の土地を多国籍企業が買い漁っている。暴力によって放逐された農民を待つのは死もしくは闘いだ。フランス軍が富める者の味方で、武装組織が農民に与しているのなら、<正義>の位置を再考する必要がある。

 銀座で昨日、「レ・ミゼラブル」(12年/英、トム・フーバー監督)を見た。ビクトル・ユゴーの原作を脚色したミュージカルをベースにした2時間半を超える長尺で、台詞で組み立てられる通常の映画と異なり、登場人物の気持ちが歌で表現されていた。

 例えば今の日本……。高らかに愛を謳い、正義を掲げることを忌避する空気が充満している。悲しみで涙に暮れ、怒りで拳を振り上げたりするのはみっともないと思っている人は多いはずだ。ノウハウ、マニュアルといった小手先に振り回されている今の日本人にとって、心の奥から迸る叫びは新鮮だったと思う。多少の修整はあったと想像するが、キャストの歌声は素晴らしかった。 
 

 ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャクソン)は一切れのパンを盗んだ咎で19年、服役する。釈放後も苦難の道を歩むバルジャンを改心させたのが司教の慈悲だった。憎しみと絶望から解放されたバルジャンは数年後、工場経営者として成功を収めていた。市長でもあるバルジャンの前に現れた警察署長は、かつて徒刑場で囚人を管理していたジャベール(ラッセル・クロウ)である。

 ストーリーの軸は、バルジャンとジャベールの20年近い葛藤だ。背景としてフランス革命後の混乱、深刻な格差と貧困、抑圧的な社会が描かれている。バルジャンが志向するのは制度や法律を超越した正義であり、ジャベ-ルが縛られるのは秩序維持という正義だ。対峙する二つの正義の闘いはラストで決着を見る。

 バルジャンと強い絆で結ばれたフォンテーヌ(アン・ハサウェイ)とコゼット(アマンダ・サイフリッド)の母娘に目が行きがちだが、俺にとって本作のヒロインはエポニーヌ(サマンサ・バークス)だ。原作では娼婦という設定で、革命を目指すマリウス(エディ・レッドメイン)に叶わぬ恋心を抱いている。エポニーヌが吐露する切ない思いと自己犠牲に心を強く揺さぶられた。

 6月革命の支持者でもあるバルジャンは、マリウスの選択に感銘を受けてバリケードに赴く。安逸と救いの中でバルジャンが召されるエンディングを想定していただけに、ラストシーンには驚かされた。パリの街に革命を訴える旗が翻り、「民衆の歌」が響いている。高みには大義に殉じた革命派の学生たちとガブローシュ少年、そしてバルジャンとフォンティーヌが笑みを浮かべて立っていた。

 製作サイドがスペインやイタリアの闘い、ロンドン蜂起、反ウォール街占拠にインスパイアされた可能性もある。前稿で紹介した「忍者武芸帳」の影丸の言葉のように、世界で今も、多くの人々が平等で幸せな社会を夢見て、敗れても敗れても闘い続けている。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来ると信じて……。
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麻痺と覚醒と~大島渚という劇物の死を悼む

2013-01-17 22:34:09 | 映画、ドラマ
 目が覚めてテレビをつけたら、阪神淡路大震災の追悼イベントが映し出されていた。出身地の近畿で起きたにもかかわらず、当時の俺は亡くなった方や被災地に思いを馳せることなく、享楽的な生活を送っていた。冷血動物は齢を重ねて少し優しくなったが、せいぜい温血動物といった程度。人間になってから死にたいというのが、俺の切なる願いである。

 大島渚監督が亡くなった。巨匠の死を心から惜しみたい。20歳の頃に見た作品群の衝撃は決して色褪せない。文芸坐のオールナイトで4週連続、計20本を見終えた時、俺の志向と感性は以前と別物になっていた。スクリーンから次々飛び出てくる強烈なパンチに打たれ、俺は麻痺しつつ覚醒した。

 大島は縦軸と横軸――歴史認識と社会の構造――を組み立ててから物語を構築する。骨組みが頑丈だから、作品も重量感に溢れている。以下に印象に残る作品について簡潔に記したい。

 <松竹ヌーベルバーグ>の魁になった「青春残酷物語」(60年)は若者の破滅と退廃を描いているが、対比されているのは矜持を失くした戦中派だ。意外と言うと失礼だが、大島は女優を使うのがうまい。「青春――」で桑野みゆきをスターダムに乗せた大島は、貧困と絶望を描いた次作「太陽の墓場」(60年)で、触れたら火傷しそうな炎加世子の魅力を引き出した。「夏の妹」(72年)では<アメリカ―日本―沖縄>の構図の上に、14歳だった栗田ひろみの可憐な花を咲かせている。

 最大の問題作は、4日で上映を打ち切られた「日本の夜と霧」(60年)だ。高橋和己の「憂鬱なる党派」、吉本隆明の「擬制の終焉」とともに<共産党=前衛>の神話を打ち砕いた作品で、津川雅彦の棒読みの台詞回しが臨場感を高めている。60年代を牽引した大島、高橋、吉本の直感は鋭く、共産党はその後、彼らの想像通りの道を辿る。<闘いの現場から姿を消す運動の桎梏>として、いまも〝破れた前衛の仮面〟を被っている。

 日本と朝鮮半島の関係をメーンに据えた作品の頂点に位置するのが「絞死刑」(68年)だ。差別と死刑という重いテーマを、ユーモアを織り交ぜながら抉る力技に圧倒された。出演した佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏、小松方正の同志も鬼籍に入っている。あの世で映画について語り合う5人の姿が目に浮かぶようだ。

 録画作品はないかと捜していたら「少年」(69年)が出てきたので、追悼の意味を込めて久しぶりに見た。当たり屋を生業にする父(渡辺文雄)、母(小山明子)、少年(阿部哲夫)、チビ(木下剛史)の4人家族が全国を転々とするロードムービーで、クレジットなしのナレーターを戸浦六宏、小松方正が務めている。

 父は戦争で傷を負ったという設定で、少年に威圧的に接するが自分は車に当たらない。体を張るのは母と少年の役だ。血の繋がらない母子だが、気持ちは少しずつ通じていく。繰り返し日の丸が画面に現れたり、小山が時に茶髪に染めてパンパンガール風のファッションに身を包んだり……。大島の秘められた作意にようやく気付いた。

 大島には実験的、前衛的な作品も多いが、「少年」はドキュメンタリータッチのオーソドックスな作品だ。とはいえ、少年の一人芝居やブルートーンの幻想的な映像を挿入するなど、時代の空気を反映させている。69年といえば俺は中学1年生で、少年の目を通した街の光景にノスタルジックな気分になった。

 祖父が孫娘を殺したり、孫が祖父母を殺したりと悲しい事件が続いているが、「少年」の家族は罪を重ねながら絆を紡いでいく。ラストに救いを感じる作品だった。

 最後に、大島作品で最も記憶に残った台詞を挙げる。<静止画によるモンタージュ>といえば聞こえがいいが、スクリーンに映し出された紙芝居というべき「忍者武芸帳」(67年)で、主人公の影丸は以下のように語る。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>……。

 大島は自らの思いをこの言葉に込めたに違いない。3・11を経た今、大島の作品は見ていなくても、遺志を継ぐ者はかなりの数に上るはずだ。彼らに希望を託したい。
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ミューズ at さいたまスーパーアリーナ~世界を舞う雑食性の怪鳥

2013-01-14 22:45:51 | 音楽
 サマーソニックのヘッドライナーが発表された。メタリカ&ミューズと欧米で現在、動員力で一、二を競うバンドである。そのミューズの日本公演を一昨日(12日)、さいたまスーパーアリーナで見た。

 ミューズには雛の頃から注目していた。初期の発掘映像がYoutubeに次々アップされているが、当時の彼らからは、抒情と衝動を体現する蒼と赤の焔が昇っていた。洗練と抑制が加味されたのは初の公式映像「ハラバルー」(02年)の頃である。あれから10年、ミューズは世界を舞う怪鳥になった。

 俺は〝親バカ感覚〟でミューズを周囲に薦めてきたが、耳が肥えていると自任するファンに冷笑されるケースが多かった。ちなみにミューズは音楽評論家には褒められないバンドで、保守的かつ権威主義的な「ローリングストーン」には目の敵にされている。

 一方でミューズを評価するアーティストは多い。クイーンのメンバーは「最高のパフォーマンス」と絶賛し、ジミー・ペイジとも親交がある。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは、自らの活動20周年記念イベント(11年)にミューズを招いた。米オルタナ界の顔役、ペリー・ファレルは07年、主宰するロラパルーザでミューズをメーンステージのヘッドライナーに据え、全米ブレークのきっかけをつくる。ファレルはさらに11年の〝同日同時刻ヘッドライナー対決〟でミューズをメーンステージに上げ、セカンドステージのコールドプレイとの〝格の逆転〟を演出する。

 あれこれ書いてもきりがないので、12日のライブについて記したい。NME誌認定の<史上最高>はともかく、Q誌認定の<現役最高>に恥じないライブアクトにまたも圧倒された。

 Youtubeにアップされている欧州ツアーほどではないが、これまでの日本公演では見られない大掛かりなセットで臨んでいた。スクリーンを兼ねたピラミッドが吊り下がり、レーザー光線が客席に飛んでくる。エンターテインメント度を増し、変化、進化、深化のいずれの表現にも相応しいライブだった。最初にミューズを見た時の印象は、<好きな女の子に気に入られようと、滑稽な振る舞いを繰り返す少年>だった。サービス精神なんて計算ずくではなく、ファンへの愛を貫いていることが、成功の最大の理由ではないか。愛は時に報われるのだ。

 マシューの「ピラミッドは権力構造の象徴。それが倒立する意味はわかるよね」の言葉に、ステージに逆さまの星条旗を掲げるレイジの影響が窺われる。ウォール街を牛耳る輩を揶揄した「アニマルズ」から<権利のために闘え>とアジる「ナイツ・オブ・サイドニア」への流れ、逃げ惑う若者たちが映し出される「セカンド・ロウ・アイソレイテッド・システム」から「アップライジング(叛乱)」へと繋がるアンコールに、バンドの意思が表れていた。

 話は逸れるが、ライブの翌日の朝日朝刊1面に「夜をさまようマクド難民~非正規の職まで失う」の見出しで、深刻な雇用状況が記されていた。悪運だけで仕事を得ている俺にはグサリと痛い内容である。ミューズの'10欧州スタジアムツアーは、ロンドン蜂起の前触れというべき光景からスタートした。フードを被った怒れる若者が武器を手に立ち上がるという設定である。果たして今の日本に、マクド難民、漫画喫茶難民の心に届く歌は存在するのだろうか。

 俺がミューズに惹かれたきっかけは抒情性だった。母方が霊媒師というマシューの系譜はロマ(ジプシー)に連なるのではないかと勝手に想像している。前日(11日)には演奏されなかった初期ミューズのリリシズムを代表する「ブリス」、「サンバーン」、「ニュー・ボーン」の3曲に胸が熱くなった。新作「セカンド・ロウ」に抒情復活の匂いを感じたのは俺だけだろうか。

 大抵の男は惚れた弱みで、愛する女性を客観的に見られない。バンドもまた同様で、肉親の情まで加われば尚更だ。ウィキペディアの基本情報で、ミューズは<オルタナ、プログレ、シンフォニック、メタル>と紹介されている。聴いたことがない人は「何のこっちゃ」と思うだろう。いや、俺にとってもミューズは<矛盾がグツグツ坩堝で煮えたぎるようなバンド>としか言いようがない。アラカンの俺がもう少し付き合ってみようかと覚悟を決めたのは、その正体不明さゆえである。サマソニはラインアップ次第というところだ。

 パティ・スミスのライブが10日後に迫り、月末にはローカル・ネイティヴスの2ndアルバムが発売される。3月のグリズリー・ベア、5月のシガー・ロスはチケットを購入したが、迷っているのはイアン・アンダーソン(ジェスロ・タル)の単独公演だ。ロマの薫りが漂う匠の技に触れてみたい気もする。

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グローバリズムに翻弄されるアフリカ~「WHY POVERTY?」パート2

2013-01-11 12:59:24 | 社会、政治
 <リストラ案を策定中のA社の株は今が狙い目>……。そんな原稿を仕事先でチェックしていて悪寒が走ることがある。多くの人の失業が何者かの利益になるという酷薄な仕組みをグローバルな視点で抉ったのが、「WHY POVERTY? 世界の貧困~なぜ格差はなくならない」(NHKBS、全8回)シリーズだった。

 パート1(12年12月15日の稿)から1カ月、今回はグローバリズムに翻弄されるアフリカをテーマに据えた2本について記したい。

 「アフリカ争奪戦~富を操る多国籍企業」の冒頭、〝勝ち組の町〟リュシリコン市(スイス)が紹介される。富の源泉は、アフリカを食い物にする多国籍企業グレンコアのCEOが納める莫大な税金だ。7%の減税を提案した市長に異論を唱えたカディシュ夫妻は「減税は5%にし、残り2%分をグレンコアに搾取されたアフリカの人々に還元しよう」と主張したが、一蹴される。カディシュ氏の憤りを過激に換言すると、<世界の現実から目を逸らしたリュシリコン市民は、簒奪者のおこぼれにあずかるハイエナ>となる。

 グレンコアはザンビアの銅山を支配している。援助額は10倍の利益になって企業に還流するが、ザンビア国民の大半は1日2㌦以下で生活している。この8年で銅の価格は4倍になったにもかかわらず、グレンコアは狡猾な手法で所得税を殆ど払っていない。銅山が垂れ流す廃水は環境や人体に甚大な影響を与えているが、法の目をくぐって追及を逃れている。

 いつからこれほどのワルだったのか……。グレンコアの前身を探る取材チームは、米国人マーク・リッチに行き着く。リッチは石油の不正取引で1億㌦をロンダリングしただけでなく、当時の敵国イランに武器を売る死の商人でもあった。大悪党のDNAをグレンコアは忠実に受け継いでいる。

 ザンビアの苦難に拍車を駆けた銅山民営化の過程で、企業の手練手管や独裁者の悪行を指摘するのはたやすい。だが、最大の問題は、国際通貨基金や世界銀行といった裃を着た紳士たちが、先進国の利益を図るために蠢いていることだ。

 「収穫は誰のもの?」の舞台は最貧国マリだ。国民の75%が農民である同国で、ミネ・ネデルコヴィッチは「ソスマー」を立ち上げる。サトウキビ農園をアフリカ各国で立ち上げたバイオエネルギー会社の経営者で、しかも米国人とくれば何やら胡散臭いが、番組が進むにつれ、ネデルコヴィッチに肩入れしてしまった。

 マリの農民は狭い土地で作る雑穀で糊口をしのいでいる。アフリカで農民の土地所有を認めている国は10%前後という。いったん農民に所有権を与えたマリ政府だが、たちまち取り上げ、土地のリースを始めた。欧米のみならず中国、韓国、サウジアラビアなどの企業が土地を買い漁り、農民は暴力で放逐された。

 農業主権と土地所有を主張するグループにすれば、上記のあくどい企業と同じと映るソスマーだが、志向するのは収奪ではない。雇用した農民にサトウキビの生産と製糖を担わせるというネデルコヴィッチの計画は、グローバリズムの枠組み内とはいえ、ベターな選択と思えたが、クーデターによって頓挫する。

 
 個人経営と企業経営、水を含めた食料自給への道筋、環境や文化との関わりなど、農業について考えるヒントがちりばめられたドキュメンタリーだった。ワシントンにTPP参加を突き付けられる日本にとって、他人事といえない内容も含まれている。

 <反グローバリズムに立脚した根本的な改革が必要>が、シリーズを通しての感想だった。見る前から同じことを言っているのだから、俺にはもう進歩はないが、希望は捨てていない。世界が決定的に歪んだのは1980年以降、即ちレーガンが米大統領に就任してから。たかだか30年の暗黒時代なら、彼方に光が射さぬこともない。良心、倫理、正義はまだ、葬られてはいないのだから……。

 ノーマ・チョムスキー、ナオミ・クラインらとともに反グローバリズムの最前線で闘ってきたのがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンだ。一昨年夏、そのレイジが主催するイベントに招かれたミューズのライブにあす足を運ぶ。ヒエラルヒー逆転の夢を託した倒立したピラミッドは、さいたまアリーナを舞うのだろうか。 
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星野智幸が提示する重層的でシュールなアイデンティティー

2013-01-08 23:18:12 | 読書
 佐藤允さんが亡くなっていたことが明らかになった。佐藤さんといえば俺の中では岡本喜八作品で、記憶に鮮明に残っているのは「独立愚連隊」と「独立愚連隊西へ」だ。野性味溢れた名優の死を心から悼みたい。

 昨日は鈴本演芸場で初笑いと相成った。お目当ては柳家小三治と柳家権太楼だったが、脇を固める匠の芸も素晴らしい。2度目になる紙切りの林家正楽のクリエイティブな手さばきに、またも瞠目させられる。無形文化財に相応しいアートだと思う。

 星野智幸が今年の読書始めだった。年明けから「目覚めよと人魚は歌う」(00年、新潮文庫)と「毒身」(02年、講談社文庫)を続けて読んだ。当ブログで何度も星野ワールドを紹介してきたが、この2作でも浸潤するアイデンティティーを描いている。基調になっているのは南米への憧れで、「目覚めよ――」では、ペルーから移住した青年ヒヨが重要な役割を演じている。「毒身」では劇中劇というべき架空のメキシコ映画「母の総て」が滑車になってドラマを回転させていた。

 星野はスポーツ紙でコラムを担当するほどのサッカーファンで、自身もファンタジスタの作家だ。アウトサイダーの憤怒と喘ぎを手繰り寄せ、そっとマッチを擦る。星野はきっと、焔の彼方に聳える自由を夢想しているのだ。

 「目覚めよと人魚は歌う」では、血縁や法律を超越した家族が描かれている。ガイアナを訪れたことがある丸越、糖子と息子の密生が暮らす奇妙な家に、逃亡中のヒヨとその恋人あなが身を潜める。丸越と糖子は共生者だ。「義務も強制も我慢もいらない緩やかなつながりの家族もどきもいいもんですよ」の丸越の言葉に同意して、糖子が引っ越してきたのだ。

 丸越が志向する<疑似家族>に、ヒヨとあなも馴染んでいく。外界と温度や湿度が異なる空間ではサルサが大音量で流れ、みんな思い思いに踊って刺激し合う。各自の来し方と現在の心情が会話とモノローグで明かされるのと同時進行で、外の世界が忍び寄ってくる。

 「毒身」は「毒身帰属」「毒身温泉」「ブラジルの毒身」の3編からなる。ここではメーンというべき「毒身温泉」を中心に記したい。「目覚めよ――」における丸越の役割をより積極的に果たすのがシキシマだ。「毒身帰属」にも登場するシキシマは、<独身者は自分のアイデンティティを自分で支えているから、ときどき自家中毒を起こす。その意味で独身は毒身なのだ>と記し、「毒身帰属の会」の会員を募る。

 「毒身温泉」でシキシマはある計画を友人のワタナベに告げる。シキシマが住むアパートに独身者を集め、共同生活するというプランだ。ワタナベは家族のしがらみを振り切って同意し、テンコ、ヨシノ、ウエカワが集まってくる。堅く秩序だった日本社会で生きづらさを覚えている面々だ。庭のハンモッグがブラックホールで、その上で寝そべっているうち、真面目だったワタナベに変化が訪れる。価値観が顛倒し、欠勤が続くようになる。自生するマンゴーの甘い実は、<日本的>の解毒剤なのだろう。

 重層的でシュールなアイデンティティーを追求する星野は、セクシュアリティーの深淵にも迫っている。「目覚めよ――」ではバイセクシュアルや性が介在しない愛の形が提示され、「毒身温泉」では女性たちの柔らかな三角関係が描かれる。人々がアプリオリに信じている価値や習慣に、星野は疑義を呈している。

 俺は別稿で<純文学について書くとアクセスが急降下する>と記した。その最たるものが星野智幸で、ミクシィのコミュニティのメンバーはたったの202人である。かつて石川淳は<私は数千人の読者のために身を削っている>(趣旨)と記したが、星野の気持ちも同じかもしれない。石川は80歳で最高傑作「狂風記」を著わしたが、星野はまだ47歳。秘めているマグマがいずれ噴き出すような予感がする。
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映画始めは「スカイフォール」&「リリィ・シュシュのすべて」

2013-01-05 22:32:54 | 映画、ドラマ
 母のケアハウス入居のため、今回の帰省は実家で過ごす最後の正月になった。母が見入る箱根駅伝を脇から眺めていたが、今更ながら気になったことがある。学生より心身とも鍛錬を積んでいる実業団選手の方が、駅伝で走る距離は短いのだ。悲壮感が漂う箱根でブレーキ、リタイアが続出するのは当然かもしれない。

 高校サッカーの京都橘の快進撃も楽しみだが、この時季に注目するスポーツといえばNFLだ。AFCではブロンコスに移籍したQBペイトン・マニングがチームを第1シードに導く。NFCでは別稿(12年9月9日)でケミストリーを生みそうなチームに挙げたシーホークスが、プレーオフに進出した。両チームのスーパーボウルでの激突を期待している。

 さて、本題。今年の映画始めは、スクリーンで見た「007スカイフォール」(12年、サム・メンデス)と録画していた「リリィ・シュシュのすべて」(01年、岩井俊二)だった。以下に併せて感想を記したい。

 「007スカイフォール」はエンターテインメントの要素が詰まった作品で、壮大なホームドラマともいえる。M(M16の女性ボス)、ボンド(ダニエル・クレイグ)、敵役シルヴァ(ハビエル・バルデム)は、母と息子たちの古典的な相克を形成していた。「パスカヴィル家の犬」を彷彿とさせる英国らしい荒涼たる風景の中で、最終決戦が展開する。

 アナログ(人間力)とデジタル(情報収集力)がいい具合に混ざり合ったアクション映画だが、若い頃に見た007シリーズのお約束というべきお色気とユーモアは薄まっていた。「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル」とテイストはさほど変わらない。

 ここで薀蓄をひとつ。映画007シリーズの第1作「ドクター・ノオ」が英国で公開されたのは1962年10月5日。その日に1stシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」を出したのがビートルズである。英国文化にとって記念すべき日といえるだろう。

 岩井監督作には縁がなく、初めて見たドキュメンタリー「friends after 3.11」(11年)で社会派としての側面を知る。「リリィ・シュシュのすべて」は〝お洒落な映像作家〟という先入観と異なるダウナーな作品だった。舞台は北関東の中学校で、雄一(市原隼人)と星野(忍成修吾)を軸に物語は進行する。本作がデビュー作だった蒼井優は、援助交際する少女を演じていた。リリィ・シュシュが実在するシンガーであることを観賞後に知った。

 10代の頃はおとなしかったせいか、「リリィ――」には40年前の俺と重なる部分がなかった。いじめ、援助交際、レイプ、自殺など深刻な事象を扱っているが、教育がテーマではない。人間の孤独と絶望、ディスコミュニケートを追求した作品といえるだろう。俺が本作に重ねたのは「都会と犬ども」(1963年、バルガス・リョサ)と「決壊」(08年、平野啓一郎)だ。

 ともに人間の多面性を描いた小説で、「都会と犬ども」では、一人称と三人称を重層的に織り交ぜつつ、内面の矛盾が暴き出される。繊細なモノローグの意外な語り手の正体はラストまで明かされない。ネット上の言葉と語る側の分裂を示した「決壊」は、「空白を満たしなさい」に至る平野の<分人主義>の端緒となった。発表時期を考えれば、平野は「リリィ――」にインスパイアされた可能性が強い。

 リリィ・シュシュを愛する仲間が集うファンサイト「リリフィリア」の管理人であるフィリア、そして常連投稿者の青猫の現実世界での邂逅は、残酷で哀しい結末に繋がる。未消化の部分はあるが、刺さった棘が抜けない岩井ワールドだった。核廃棄物処理施設をテーマに掲げた「番犬は家を守る」が日の目を見る日を心待ちにしている。
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巳年の誓いは「喪失に慣れる」

2013-01-03 21:41:55 | 戯れ言
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。昨暮れは亀岡のネットカフェの閉店で、携帯からはしょった内容になったが、年初の稿は自宅から普段通りに記したい。

 まずは年頭の誓いから。今年の目標は「喪失に慣れる」……。昨年は妹の死を体験した。これからも親族や知人の死に直面するだろう。死だけでなく、心が離れたり疎遠になったりで、絆を失うこともあるだろう。いや、失うのは人だけではない。厳しいご時世、仕事を失い、路頭に迷う可能性だってある。ちなみに、妹の死の余波で、母は近々ケアハウスに入る。俺には故郷喪失の危機なのだ。

 前々稿で平野啓一郎の新作「空白を満たしなさい」を紹介した。その中で池端(自殺対策のNPO代表)が主人公の徹生に、<喪の作業>という心理学の用語を、<分人>のテーゼと重ねて説明する場面がある。

 <大切な人が亡くなったあと、その悲しみを乗り越えるためのプロセスです。死を事実として受け容れ、故人を思い出すことを〝喜び〟と感じられるようになるまでの。(中略)喪の作業は、故人との分人の機能を、ゆっくりと低下させてゆくことです>……。

 俺はこれから、多くの人やものに対して、<喪の作業>を継続していくだろう。

 保守的と思える京都新聞だが、元日版では脱原発と再生エネルギーについて4㌻の特集を組んでいた。財界トップの思惑とは別に、多くの企業が脱原発とエコを志向している。自民党は新設にも言及しているが、脱原発に向けて、今年はどのような動きが見られるだろうか。

 暮れの22、24日に開催された「終焉に向かう原子力」主催の集会をYoutubeでチェックした。画面から熱気は伝わってくるが、国民の思いは選挙の結果に繋がらなかった。敗因を挙げれば、明確なビジョンを示すオルガナイザーが存在しなかったことである。

 3・11から1年10カ月、文化人は脱原発集会で「市民の皆さん」と壇上から呼びかけた。別稿でも記したが、俺はこのシーンに違和感を覚えていた。「すべての市民が活動家にならないと、民主主義は崩壊し、人々は権力に蹂躙される」と主張するマイケル・ムーアの言葉から遠いように感じたからだ。

 古い船(既成政党)には期待できない。官邸前で「野田政権打倒」と叫んでいた志位委員長率いる共産党は、野田政権が倒れた後のことを見通していなかった。脱原発を語りつつ古い船から下りない菅直人氏や河野太郎氏は信頼するに値しない。脱原発に復活を懸けた古い水夫(小沢一郎氏)は、〝裸の王様〟から文字通り裸になった。

 悲観的な論調になってしまったが、プラス思考の俺は希望を捨てていない。宇都宮健児氏が都知事選で獲得した100万票を全国に敷衍すれば1000万票になる。新しい水夫が龍馬になって、全国の運動体を有機的に結び付けたら、空気は変わるはずだ。

 今年もごった煮の内容を、思うがままに記していくつもりだ。たまには覗いて嗤ってください。
コメント (2)
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