酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

クッツェー著「マイケル・K」~自由への限りない逃走

2024-06-30 21:38:29 | 読書
 ガザに住む50万人近くのパレスチナ人が「壊滅的レベル」の飢餓に直面していると、国連支援機関の報告書が警告している。イスラエルが国際人道法に違反して封鎖してきたガザは<天井のない監獄>と呼ばれ、ツツ大主教が<現在のアパルトヘイト>と断罪してきた。そのツツの祖国である南アフリカの小説「マイケル・K」(J.M.クッツェー著、くぼたのぞみ訳/岩波文庫)を読了した。

 <マイケル・Kは口唇裂だった>から、本作は始まる。Kがどの人種に属するか記されていないが、黒人であることは推察される。時代背景は20世紀半ばと考えていたが、実は1980年前後で、アパルトヘイトを維持しようとする政府側と反対派との武力衝突が激化していた時期だった。Kは病んだ母を車椅子に載せ、内戦で疲弊したケープタウンから、母が少女時代を過ごしたプリンスアルバートの農場を目指す。母が途中で死に、遺灰を手に目的地に向かう。

 解説によると、本作は検閲を逃れるため、細部にまで精緻に表現に留意していた。弾圧下の表現といえば、思い浮かぶのがイラン映画で、作品の数々は神秘性を纏い、神々しい寓話に飛翔している。内戦下、Kは政治信条を表明することなく、行く先々で暴力と管理の鞭を震われるが、行間には痛みを緩和する奇跡の癒やしがちりばめられている。

 本作のキーワードは<暴力>と<自由>だ。<暴力>は軍隊、監獄、キャンプで蔓延し、Kは無気力に服従を拒む。寡黙であることで知的障害を疑われたKは第2部で病院に収容され、医師たちの手厚い看護を受ける。病院でKはなぜか〝マイケルズ〟と呼ばれた。Kにとって多少なりの束縛をもたらす保護、善意、慈善でさえ<暴力>であり、身を固くして拒絶する。

 他の作品は読んでいないので、クッツェーが志向することを理解したとは言い難い。ノーベル文学賞授賞理由のひとつに<西欧文明が掲げる残酷な合理性と見せかけのモラリティーを容赦なく批判した>ことが挙げられていた。〝残酷な合理性〟とは、国家による管理=<暴力>で、対置されたのが<自由>だ。だが、Kは原理としての<自由・民主主義>を唱えることはしない。ステレオタイプの言葉に背を向けているのだ。

 降りかかる理不尽や不条理に耐えながら、否定し、振り払うこともなく、ひたすら受け入れ歩んでいく。そして、Kは自分が庭師であることを実感する。太陽の動きを察知し、動植物に親しむ。荒野にカボチャの種を撒き、栽培して食べる場面は至福に満ちていた。種は環境が整った時に実を結び、自他の多数の種へと繋がって、他者の飢えを癒やす。Kのことを石に例える描写があった。「土のように優しくなればいい」とモノローグする場面もある。第3部で出会うボヘミアン風の若者が何のメタファーなのかわからなかったが、読み終えた時に充足感と希望を覚えた。

 内戦が終わった後、Kは恐らく庭師、農夫として自然と交感し、カボチャやその他の種子をまき、水やりを心掛け、ささやかな生活の糧にする。山羊や鳥、そして昆虫とも共存して生きていくのだろう。ヘンリー・ソローや老荘思想とも異なる自由の果てを、自然体で進んでいくのだ。
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「あんのこと」~絶望から絶望の果てに

2024-06-25 21:44:14 | 映画、ドラマ
 都知事選が告示された。争点は小池都政の評価というが、俺は興味がない。東京が抱える問題点は、格差と貧困、教育現場の荒廃、福祉の後退など挙げればきりがないが、都知事選は上っ面を撫でているだけだ。本質に迫っていないことを実感させられる映画を新宿武蔵野館で見た。「あんのこと」(2024年、入江悠監督)である。<コロナ禍の下での若い女性の飛び降り自殺>を報じる新聞記事に、監督らがインスパイアされ、製作に至った。

 覚醒剤(シャブ)中毒の香川杏(河合優実)が夜の繁華街を歩いている。ラブホテルで同伴した売人が過剰摂取で倒れ、杏は多々羅刑事(佐藤二朗)の尋問を受ける。反抗的な杏だったが、ヨガのポーズを取ったり、奇矯な声を上げたりする多々羅に親しみを覚える。杏は「ウリ(売春)はやめろ」と釘を刺す多々羅が主宰する薬物依存者更正施設「サルベージ赤羽」に足を運び、雑誌記者の桐野(稲垣吾郎)と知り合う。桐野は多々羅を取材するため、同施設に足繁く通っていた。

 多々羅、桐野と交遊するうち、杏の来し方が明らかになっていく。公団住宅に母、祖母と暮らしているが、母から虐待を受け、小学校も卒業していない。12歳の時、母の仲介で売春するようになり、以降は薬物に溺れる地獄のような日々を送るようになる。多々羅は杏に付き添い、生活保護を申請するが、らちがあかない。桐野の尽力で杏は高齢者介護施設の仕事を得た。優しかった祖母を助けたいという思いからだった。

 薬物から逃れた日々の記憶を綴っていき、それが蓄積すれば中毒を克服する道標になる……。多々羅の忠告を守った杏は少しずつ立ち直っていく。漢字が書けなかった杏は夜間中学に入り、外国人らとともに学んでいく。職場でも信頼を勝ち取り、サルベージでの集まりでも自分について話せるようになった。NGOが経営するシェルターに入居し、穏やかで充実した日々が訪れた。

 ハッピーエンドかなと思いきや、暗転する。コロナが全てを変えてしまったのだ。夜間中学は閉鎖され、介護施設でも非正規職員は自宅待機になる。サルベージは閑散とし、多々羅との連絡はつかない。桐野が多々羅に近づいた理由も明らかになる。

 日常で杏のような女性に会う機会は少ないが、コロナ禍以降、新宿界隈で路上売春する女性たちについて報じられている。若い層も多いという。それぞれ事情はあるが、彼女たちの中に<杏>がいても不思議はない。真っ当だとか、愛とかは戯言に過ぎず、公的な窓口も信用出来ないと考えている女性は多い。人々は自ら目を背けているだけだ。

 桐野が多々羅と面会するシーンで、見る者は<正義>の意味を突き付けられる。主宰者であることを利用し、複数の女性に性的関係を強要したというのが多々羅の罪状だ。突然サルベージに来なくなった女性が、多々羅にプレゼントを渡そうとしている音声があるシーンで流れていた。一方的に断罪されるべきかどうかは〝薮の中〟だ。

 生きる意味を失いつつあった杏だが、シェルターの隣人で部屋を出ざるを得なくなった紗良(早見あかり)に幼い隼人を託される。杏は隼人に母らしいこまやかな愛情を注ぎ、再び希望の灯が射したかに思えた刹那、実母という母が現れ、希望は消えた。ラストで杏が歩く繁華街は、オープニングと同じだった。絶望から絶望の果てに、杏は辿り着いたのか。

 エンディングは隼人を取り戻した紗良が児相を出ていくシーンだ。俺は紗良に杏を重ね、胸が熱く、そして痛くなった。東京の真実を抉る映画に出合えてよかった。
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「バグダードのフランケンシュタイン」~〝モザイク国家〟を疾走する人造人間

2024-06-21 22:44:19 | 読書
 叡王戦第5局を伊藤匠七段が制し、藤井聡太八冠は七冠に後退した。二転三転の熱戦だったが、131手の6四桂から形勢は伊藤に傾いた。5五桂なら藤井優勢だったようだが、秒読みで正着を指し続けるのは藤井でさえ難しい。同い年のライバル関係で、将棋界はさらに盛り上がるだろう。持将棋を挟み藤井に10連敗していた伊藤だが、負け続ける中で掴んだものは大きかく、第5局では腹を据えた踏み込みで流れを引き寄せていた。

 この1年に限定しても、その国の小説を初めて読む機会は何度かあった。「ある一生」はオーストリア、「わたしの名は赤」はトルコ、「自転車泥棒」は台湾、「マイ・シスター、シリアルキラー」はナイジェリアと、各国文学事始めの感がある。今回紹介するのは初めて読むイラク産「バグダードのフランケンシュタイン」(2014年、アフマド・サアダーウィ著、柳谷あゆみ訳/集英社)で、ブッカー国際賞、アーサー・C・クラーク賞の最終候補に残った。

 舞台はイラク侵攻でサダム・フセインが逮捕され、米軍が駐留する2005年のバグダードだ。俺が抱いていたイラク像といえば、〝スターリンに憧れたサダム・フセインがつくり上げた独裁体制の下、不自由で一枚岩の国〟。色でいえば黒というイメージだ。だが、本作読了後、それが全くの的外れであることを知る。

 「バグダードのフランケンシュタイン」のタイトル通り、当地に現れた人造人間を巡る物語だ。メアリー・シェリー著の「フランケンシュタイン」と共通しているのは無尽蔵の体力と優れた知性、容貌の醜さ、そして孤独だ。バグダードのフランケンシュタインは原典のようにひとりの科学者によって造られたのではなく、自爆テロの巻き添えで亡くなった若い警備員のハスィーブのバラバラの遺体を繋ぎ合わせて出来上がった。腐敗した部位は、連日の爆弾テロの被害者の肉片で補強される。

 フランケンシュタインだけでなく、バグダードの街もまた多様な要素からなるモザイクタウンであることを本作で知った。脚本家や映画作家としてのキャリアを生かした斬新で実験的な手法による本作は、老婆ウンム・ダーニヤール、不動産会社を経営するファランジュ、古物屋ハーディー、ジャーナリストのマフムード、彼が懸想する自称映画監督のナワール・ワズィール、マフムードの上司サイーディー、スルール准将、ラストで本作の作者に擬せられる作家らのモノローグで綴られる。

 彼らの来し方、信仰も様々で、キリスト教徒のウンム・ダーニヤールはイラン・イラク戦争に応召して帰還しない息子の生存を信じている。多くはイスラム教徒だが、シーア派、スンニ派、アルカイダ支持のスンニ派、バアス党の残党らがせめぎ合い、爆破事件が収まらない。ユダヤ教の伝統を継ぐ建物もあり、バグダードの街並みが鮮やかに切り取られていた。

 あえて主人公を選ぶなら、ハーディーとマフムードだ。「名無しさん」と呼ばれるようになるフランケンシュタインの創造主はハーディーで、偶然知り合ったマフムードとは取材だけでなく、個人的な会話も交わすようになる。名無しさんの魂はハスィーブだが、部位を補強するうち、多くの人たちの報われず癒やされない思いが積み重ねられ、<壊れたもの、失われたものの記憶>が醸成されてバグダードを疾走する。

 現在のイラクも2005年と変わらず、幾つもの勢力がぶつかり合っており、大規模な反政府デモも開催されている。本作をきっかけに多くの小説が世界で読まれ、日本語にも翻訳されることを願っている。
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「バティモン5 望まれざる者」~移民国家フランスに希望はあるか

2024-06-17 21:38:04 | 映画、ドラマ
 EU議会選で極右が議席を伸ばした。フランスではマクロン大統領率いる与党連合が議席数で極右の国民連合の半数以下と惨敗した。議会を解散し、〝揺り戻し〟に懸けるマクロンだが、577の選挙区で候補を一本化する左派政党(緑の党、社会党、共産党、不屈のフランス)にも及ばない可能性もある。窮地のマクロンに救いの手を差し伸べたのが国民連合のルペン前党首で、選挙の結果にかかわらず共闘を呼び掛けた。五里霧中とはこのことか。

 グリーンズジャパンの会員である俺は、今回の選挙結果に愕然とした。環境と多様性を訴える欧州のグリーンズは各国で議席を減らし、移民への厳しい対応を訴える極右の伸張に繋がった。根底にあるのは未来への不安だ。フランスでは67~68歳まで働き続けなければならず、年金額も年々減少すると予測されている。理想は崩れつつあるのだ。

 新宿武蔵野館で先日、「バティモン5 望まれざる者」(2023年、ラジ・リ監督)を見た。長編映画デビュー作「レ・ミゼラブル」(19年)は世界の映画祭で多くの栄誉に輝いた。「バティモン5」の舞台はバンリュー(パリ郊外)の架空のモンヴィリエ市だ。移民が多数を占め、犯罪多発地帯という設定になっている。

 冒頭はドラスチックで、低所得者層が暮らしていたアパートが爆破される。スイッチを押した市長は心臓発作で亡くなり、与党の投票で小児科医のピエール(アレクシス・マネンティ)が傀儡として市長に選ばれる。僅差で敗れたのは移民ながらも15年間、市政を支えてきたロジェ(スティーヴ・ティアンチュー)だった。ピエールはモンスターになり、移民に寄り添っていたはずのロジェは滑稽な姿を晒すことになる。

 10階建てアパートで老女が亡くなった。エスカレーターが故障したままで、暗い階段を数人がかりで棺を下ろしていく。行政への怨嗟の言葉に、住民たちが置かれている状況が窺える。気丈に場を仕切るのが孫娘のアビー(アンタ・ディアウ)で、移民たちのケアスタッフとして働いている。アビーは前向きに政治に関わっているが、アビーの友人であるブラズ(アリストート・ルインドゥラ)は蓄積した怒りの矛先を見つけられずにいた。アビーとブラズをキング牧師とマルコムXになぞらえる台詞が印象的だった。

 アビー、ブラズ、ピエール、ロジェが回転軸になってストーリーは進行する。市庁舎にデモ隊が集結するといった派手な展開を予測していたが、ドキュメンタリーで学んだリ監督は、緻密かつリアルに政治の力学に迫っていく。キャリアが乏しいが良心的と思われていたピエールだが、〝逆ギレ〟的に高圧的な政策を実行していく。その典型は3人以上のティーンエイジャーの夜間外出禁止で、抗議デモを主催したアビーは、立ちはだかるピエールに市長選出馬を伝える。

 本作にも描かれているが、フランスは<選択的移民政策>を取っている。ピエールはシリアからの移民を受け入れたが、キリスト教徒であることが条件だった。「バティモン5」で火事が起きた後、ピエールは遂に強硬手段に訴える。予告なしで住居に押し入り、強制退去を命じた。ブラズの怒りは沸点に達し、クリスマスの夜にピエール宅を襲撃する。そこに居合わせたのがロジェだった。

 多様性が失われ、民主主義の理念さえ危うくなるが、地道に毅然とした態度で前に進むアビーの姿に希望を覚えた。サッカー欧州選手権のオーストリア戦を控えたエムバペは、「国民連合の権力奪取を阻止するよう闘う」と主張したテュラムに賛同し、「自身の価値観が合わない国を代表したくない」と明言した。2人とも移民の血を受け継いでいるが、富裕層でもある。違和感を覚える若者もいるかもしれない。
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「高架線」~滝口悠生が描く青春グラフィティーat東長崎

2024-06-13 21:52:31 | 読書
 「にっぽん縦断 こころ旅」(NHK・BS)について何度か記した。火野正平が視聴者の思い出の風景を自転車で巡って手紙を読むという紀行番組で、放送回数は1000を超えたが、火野の腰痛で現在は休止中だ。俺の心に残る街はどこだろうと記憶の底をつついた。答えは1977年から2000年まで過ごした<江古田>である。どの場所ということはないが、中野に引っ越した時、〝永い青春時代〟が終わったことを実感した。

 西武池袋線で隣の駅といえば東長崎だ。池袋から徒歩で帰ったことも多く、馴染み深い街である。駅から徒歩5分のアパート「かたばみ荘」を舞台にした小説「高架線」(2017年、講談社文庫)を読了した。滝口悠生は初めて読む作家で、2016年には芥川賞を受賞している。料理に関する記述が秀逸なのは、主夫志向だったゆえんといえるだろう。

 4室から成るかたばみ荘は年季が入っており、バストイレ付きながら家賃は格安の3万円だ。住人は引っ越す時、次の入居者を探しておくというシステムで、不動産屋は通さないから礼金も敷金もない。2000年前後から十数年の2号室の住人、その知人たちの計7人のモノローグが「*」で繋がっていく。冒頭は大学3年生の新井田千一だ。新井田が語る高校時代の文通に、別稿で紹介した井上ひさし著「十二人の手紙」の「ペンフレンド」が重なった。

 大学卒業後、新井田は職場に近い場所に引っ越した。伝手を頼って見つけた入居者はバンドマンの片川三郎だった。語り手も片川になるかと思いきや、片川は失踪し、友人である七見歩、七見の妻・奈緒子が継いでいく。前半の主人公は片川で、虚実の境を彷徨うキャラクターは、他の滝口作品にも描かれているはずだ。

 淡々と流れるかと思ったら、語り手が27歳の峠茶太郎にリレーされるあたりで、大家さんまで巻き込むドラマチックな展開になる。秋田出身の茶太郎は波瀾万丈とまではいわないけど、割と派手な生き方をしている。片川の知人の紹介でかたばみ荘に引っ越した。2011年の東日本大震災を契機に、環境運動に関わるようになった恋人との別れも描かれている。

 後半のキーワードはヤクザだ。茶太郎が秋田を出たのはヤクザの情婦とねんごろになって身の危険を感じたからだし、かたばみ荘の隣人はヤクザのコスプレをしているような松林千波だ。転んだおばあさんを目撃し、慌てて助けようとして階段から落っこちて胸骨を骨折するほどお人好しの松林と交遊するようになった茶太郎は、語り口まで似てくる。松林が憑依したように、映画「蒲田行進曲」について熱弁する。聞き手はかたばみ荘近くの喫茶店オーナーである木下目見で、ラスト近くで語り手を引き継ぐ。福岡出身の目見は学生時代のバイトから喫茶店を任された東長崎の主的存在で、駅前の西友で買い物する場面が頻繁に出てくる。

 「蒲田行進曲」の話が延々と続くうち、最後の語り手である日暮純一が、喫茶店の客として登場する。「蒲田行進曲」が大家夫妻の青春と重なることが明らかになり、滝口の構想力に驚かされた。〝青春グラフィティーat東長崎〟の趣がある本作には滝口の柔らかく優しい眼差しが込められている。かたばみ荘が取り壊されるシーンに、数十年にわたる何十人の青春時代の終焉を感じた。滝口の他の作品も読んでみたいと思った。
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「ありふれた教室」~女性教師が落ちた<正しさ>という名の陥穽

2024-06-09 22:10:44 | 映画、ドラマ
 棋聖戦第1局は藤井聡太棋聖(八冠)が山崎隆之八段を下し、永世位獲得に好スタートを切った。AIに捕らわれない独創性で藤井を混乱させてほしいと期待したが、山崎の定跡から外れた構想に最善の手で対応するなど、藤井は盤石だった。後輩への面倒見の良さで知られる山崎だが、本人の弁によれば10代、20代の頃、勝負にこだわる冷たい人間だったという。過去の〝鬼〟を呼び戻すことが必要なのかもしれない。

 新宿武蔵野館でドイツ映画「ありふれた教室」(2022年、イルケル・チャタク監督)を見た。冒頭からラストまで緊張が途切れない学園サスペンスだった。地域で標準レベルのギムナジウムが舞台で、日本でいえば中学1年にあたる12~13歳のクラスの担任は新任の女性教師カーラ(レオニー・ベネシュ)だ。数学と体育の代講を担当するカーラは生徒と真剣に向き合っているが、学校で頻発している盗難事件で平穏な日々に波紋が生じる。クラスの生徒が疑われ、学級委員が〝チクリ〟を求められる。「我が校の方針は不寛容主義」と繰り返す校長(アンネ・カトリーン・グミッヒ)と、ディベートに基づく民主主義を重視するカーラとは立ち位置が異なった。

 ところが、同僚が募金箱から小銭をくすねるシーンを目撃したカーラ自身が、〝不寛容〟と〝行き過ぎた監視〟の体現者として批判を浴びることになる。カーラはパソコンのカメラ機能を設定して席を離れる。自身のバッグから金を盗んだ者の着衣が映像に残っていた。白地に星の模様が入ったブラウスを着ていたのは女性事務員のクーン(エーファ・レイバウ)だった。クーンを問い詰めたカーラだが、断固否定され、校長に報告する。

 フランスほどではないが、ドイツの学校も多国籍の生徒たちによって成立している。多くを占めるのはドイツ系だが、カーラのクラスにもイスラム系、アフリカ系の子供がいる。冒頭で窃盗を疑われたのは両親がトルコ人の少年だった。カーラはポーランド系という設定で、本作のチャタク監督はトルコ系である。〝学校は社会の鏡〟といわれるが、本作に漲る緊張感の背景には複層化する社会での息苦しさがあるのだろう。

 数学教師であるカーラが生きるよすがにしているのは<正しさ>だった。授業でギリシャの哲学者タレスの日食予言について、自然現象は神の思し召しではなく科学で解明出来ることを実証したと絶賛した。印象的だったのは<0.999=1>という仮説を示し、回答を促すシーンだ。「引き算すれば差が出るから異なる」と答えた女子生徒に対し、分数を使ってイコールであると答えたのが、クラス一の秀才でクーンの息子であるオスカー(レオナルト・シュテットニッシュ)だった。カーラはオスカーの才能を認めてルービックキューブを貸したことがあった。

 カーラがクーンを告発したことが知れ渡るや、生徒は学校新聞を使ってカーラを攻撃する。オスカーは他の生徒への暴力行為やカーラのパソコンを川に投棄した件で停学処分を受けた。メディアの暴力やSNSでの炎上を彷彿させる事態に、カーラはもがき苦しみ、学校中の女性が白地に星のブラウスを着ている幻想に襲われる。クーンの犯行は冷静に考えて明らかだが、100%ではない。カーラは<0.999と1の間>の陥穽に落ちたのだ。

 ラストでオスカーは、カーラの前でルービックキューブを揃えてみせる。ルービックキューブが何のメタファーであったのか俺にはわからない。オスカーは警官に肩車されて学校を出ていった。チャタク監督がインスパイアされたという「バートルビー」(ハーマン・メルヴィル著)も機会があったら読んでみたい。
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奥泉光著「虫樹音楽集」~荒野で宇宙と感応するテナーサックス

2024-06-05 22:05:23 | 読書
 この10日あまり、YouTubeで「怪奇大作戦」(全26話、欠番1)を一気見した。本作は俺が小学6年生だった1968年9月から半年にわたって放映されたが、見た記憶はない。舞台はSRI(科学捜査研究所)で、メンバーの的矢所長(原保美)、牧(岸田森)、三沢(勝呂誉)、野村(松山省二)、さおり(小橋玲子)と町田警部(小林昭二)が協力し、怪奇現象の謎を解き明かしていく。

 円谷英二監修の下、科学技術の進歩の功罪、熾烈な企業間の競争、癒えぬ戦争の傷、環境破壊、伝統文化の衰退、蒸発、コンピューター導入といった当時の世相を錚々たる脚本家が物語に織り込んでいる。キュートなさおりがお茶くみ役というのは仕方ないとはいえ、<美しいという観念の裏側には残酷な何かが潜んでいる>といったルッキズムに関わる台詞もあった。一番記憶に残ったのは牧の恋が描かれた♯25「京都買います」である。

 怪奇現象を扱った小説といえば、まず頭に浮かぶのがカフカ著「変身」だ。同作にインスパイアされた「虫樹音楽集」(奥泉光著、集英社文庫)を読了した。奥泉は15作以上読んでいる馴染みの作家だが、本作を読み終えた時、書評の〝核〟が見つからず、数日経つと全体が剥落していく困った状態になった。いつも以上にピント外れの中身になることをご容赦願いたい。

 本作は前衛的かつ実験的な小説で、時空がカットバックし、メタフィクション、マジックリアリズムの手法を用いている。伝説的なテナーサックス&バスクラリネット奏者、イモナベこと渡辺柾一の<変身>、いや<変態>を巡る9編から成る連作短編集だ。通底音になっているのはカフカの「変身」で、主な語り手である私(作家)はイモナベの消息を追っている。♯1「川辺のザムザ」は短編小説で、ザムザとは「変身」の主人公だ。科学雑誌や音楽評論がテキストとして挿入され、イモナベの血縁である青年の独白で<変態>する者の奇妙な生態が描かれている。

 奥泉は音楽に造詣が深い。「ビビビ・ビ・バップ」ではモダンジャズの巨人たちのアンドロイドがジャムセッションを展開していた。「シューマンの指」の<「音楽」はもう在るのだ。氷床の底の蒼い氷の結晶のように。暗黒の宇宙に散り輝く光の渦のように>という記述が印象に残っている。「虫樹音楽集」のイモナベはフリージャズのプレーヤーで知られる存在だったが、全裸で演奏するなど奇矯な振る舞いが目立ち、シーンから消えていく。

 かつてジャズファンの知人からアルバート・アイラ-のアルバムを借りたことがあった。フリージャズとは究極の自由を表現する音楽だと説明されたが、俺は理解出来なかった。人間が虫に<変態>するというのは後退に思えるが、イモナベは解放を志向する過程で虫に<変態>した。♯4「虫王伝」でミュージシャンのザムザは<虫樹>を求めて東アフリカに向かう。宇宙の進化を司る究極の言葉<宇宙語>に最も近いのが音楽で、ザムザは<宇宙語>を聞き取るために<虫樹>の下に立って虫に<変態>しようとする。<変態>とは<進化>なのだ。

 「東京自叙伝」では地霊に導かれた6人の「私」が、分身となって物語を紡いでいた。時にスピリチュアルな傾向を感じることもある奥泉ワールドの一端に触れたような気がしたが、本作の「私」同様、混乱を収拾出来ないままページを閉じた。無人の荒野で<変態>しつつあるイモナベが宇宙と感応する、そんなイメージが目の裏に焼き付いている。

 棋聖戦があす開幕する。AI超えの藤井聡太棋聖(八冠)とAIに捕らわれない独創的な山崎隆之八段と、好対照の棋士が相まみえる。タイトル奪取は厳しそうだが、関西の将棋ファンの希望に応えて、淡路島で行われる第4局の実現を願っている。将棋ファンの奥泉も注目しているはずだ。
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