酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

サヴェージズ、フォールズ、そしてエディターズ~残暑の夜にはUK発サプリ

2013-08-30 12:40:57 | 音楽
妻「こんな大事な時に、日本を離れてていいの?」
夫「大丈夫。増税は決まってる。僕が前に出たら角が立つだろ。甘利さんと菅さんが、国民の声を聴いて決めたかのような芝居を打ってる」
妻「わたしが心配なのは汚染水の方。訴えられるんじゃない」
夫(威勢よく)「選挙は二つ続けて、原発推進の自民党が圧勝したろ。文句を言うのは、君の好きな緑の党とか、ほんの少数さ」
妻(ムッとして)「TPPって裁判に影響あるんでしょ。海水汚染を外国で訴えられたら、現地の判決が優先されるんじゃなかった?」
 顔を歪めた夫、SPに支えられてトイレへ。

 国民を素裸にして管理しようとする安倍首相は、夫人を伴い外遊中だ。ならばと先手を打って、夫妻の会話を妄想アンテナで盗聴してみた。

 「DAYS JAPAN」9月号に「放射能汚染マップ」(最新データ)が掲載されている。福島原発周辺では、チェルノブイリ汚染地図で最悪の<完全閉鎖地区>に匹敵する線量が計時された。廃墟から目を逸らし、原発再稼働と輸出に邁進する安倍政権には、良心や倫理の欠片さえない。

 「クロスビート」が来月発売号をもって休刊することを知った。毎年恒例のリーダーズポールの結果からも、同誌がコアで鋭いロックファンに支えられていたことが窺えた。Youtubeの普及でバンドの実力を映像で確認できるようになり、「クロスビート」の評価(5点満点)も意味を失った。売り上げ減も当然の帰結なのだろう。

 スカパーでフジロックでのパフォーマンスを見て、UKのガールズバンド、サヴェージズに度肝を抜かれた。彼女たちにファンレターを送ったコートニー・ラヴの気持ちも理解できる。初期衝動に溢れたデビュー作「サイレンス・ユアセルフ」はクオリティーも高く、パティ・スミスやスージー&ザ・バンシーズを彷彿させる曲もある。俺はグラストンベリーでのライブなどネットで映像を楽しんでいる。ユニセックスな雰囲気で、ボーカルの目力とパワフルなドラマーに、おじさんは胸キュン状態だ。

 今年のフジとサマソニにも多くのUKバンドがやってきたが、デビュー作が売れなかった点では、ミューズ(UK29位)とサヴェージズ(同19位)は双璧か。その点で大化けも期待できるが、エッジが利きすぎた彼女たちのライブに息切れの不安も感じる。

 フジのライブ映像で、フォールズの実力を再認識した。完璧といえる最初の2枚に、俺は不安を抱いていた。マンサンやザ・クーパー・テンプル・クローズと同様、袋小路から抜け出せず崩壊の道を辿るのではないか……。俺の危惧は杞憂だった。彼らのパフォーマンスは開放感と躍動感に溢れていた。

 3rd「ホーリー・ファイア」(13年)は、内向的で濃密な音に、カラフルさと逞しさが程よくペーストされていた。この手のアート系バンドには珍しいが、ボーカルのヤニスはスノーデン支持を明確に打ち出し、「モスクワ公演のゲストリストに彼を載せた」と語っている。

 以前よりポップかつエモーショナルになったエディターズの新作「ザ・ウェイト・オブ・ユア・ラヴ」は、熱帯夜の愛聴盤になった。ジョイ・ディヴィジョン、エコー&ザ・バニーメンの正統な後継者と評価されるバンドで、静謐でメランコリックな音にノスタルジーと和みを覚える。彼らに重なるのはザ・ナショナルの最新作で、いずれも淡々と染み入る純水といった印象だ。上記のサヴェージズやフォールズのライブに足を運ぶ勇気はないが、エディターズなら片隅でひっそり聴きたい気がする。

 俺にとってロックは〝老化防止のサプリメント〟だから、ストーンズやポール・マッカートニーの動向には全く関心がない。偉大さは認めても、彼らは〝老化確認のリトマス紙〟といえる。この秋には大量のサプリが店頭に並ぶ。9月にはマニック・ストリート・プリーチャーズ、パール・ジャム、キングス・オブ・レオン、10月にはアーケイド・ファイアの新作がスタンバイしている。

 スミス時代の曲がセットリストに多く加わったモリッシーのライブDVD(ハリウッド公演を収録)も楽しみだが、これはサプリというよりリトマス紙に近いかもしれぬ。そういえば、スミス大好きを公言し、あまりのミスマッチに国中をあきれさせた英キャメロン首相は、シリア攻撃を断念した。夢の中でモリッシーの言葉の毒を浴びて思いとどまったとしたら、まさに〝スミス効果〟だが……。
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「標的の村」高江~刃は既にあなたの喉元に?

2013-08-27 23:34:06 | 映画、ドラマ
 マイケル・ムーア監督は「シッコ」(07年)で米メディアの歪みを抉っていた。先進国レベルの医療を受けられず、多くの米国人は自己破産の危機に陥った。国境を越え、診察費が安くサービスが充実したカナダの病院に通う者が続出する。政財界に操られた3大ネットワークは、「カナダの医療制度は社会主義的で医師の技術は最低」と大キャンペーンを張り、一定の効果を挙げた。

 3・11以降、日本のテレビ局も似た状況にあることを露呈したが、昨暮れの自民党大勝後、この傾向は一層強まった。政権トップと各局幹部が頻繁に会食(談合)しているのだから、何をかいわんや。編集による意識誘導の最たる例は長崎平和祈念式典(9日)で、安倍政権に都合が悪い部分はカットされて放映された。

 沖縄戦を題材にしたドキュメンタリーで、集団自決の映像に「一家心中」という字幕が流れたという。オスプレイ配備に反対する沖縄での集会に「市民が抗議の声を上げました」とのナレーションが重なったが、カメラがアップで捉えていたのは新左翼党派の旗だった。そのテレビ局は<騒いでいるのは過激派>と視聴者の脳に刷り込みたかったのだ。政府とメディアが一体になった<管理と洗脳の時代>は既に始まっている。

 まっとうなテレビ局もある。琉球朝日放送が製作した「標的の村」(13年、三上智恵監督)を先日、ポレポレ東中野で見た。舞台は沖縄本島北部に位置する東村高江区で、ゲンさん(安次嶺さん)と伊佐さんを中心に地域の人たちが安全な暮らしと環境を守るため、米軍ヘリパッド建設反対の声を上げる。オスプレイ配備が確実となれば尚更だ。

 米占領下の60年代前半、訓練用に造られたベトナム村で、高江の人々は対ゲリラ戦の演習に駆り出される。高江の人々が演じさせられたのはベトコンとその家族だった。枯葉剤もまかれ、参加した海兵隊員の中には後遺症に苦しむ者もいるが、幸いなことに高江周辺では異常は報告されていない。

 高江の人々は07年、ヘリパッド建設を止めるために座り込みで対抗する。アメリカでは絶対的パワーを有する側(国や大企業)が個人を訴えることをスラップ裁判といい、多くの州で禁じられている。ところが民主党政権は翌08年、住民15人を通行妨害で訴えるという禁じ手に打って出た。その中に、座り込みに一度も参加していないゲンさんの長女海月ちゃん(当時7歳)も含まれていた。国が7歳の少女を被告にするなんて、狂気の沙汰というしかない。

 本作の前提になっているのは沖縄の苦難の歴史であり、日本伝統の棄民政策、<民>を支配する圧倒的な<官>の力だ。お上を信じた民は、常に辛酸を舐めてきた。「満州は日本の生命線」を謳った関東軍は、敗戦を察知するや開拓民たちを見捨て、脱兎の如く逃げ帰った。戦後68年、本土が忘れてしまった〝日本の形〟を沖縄県民は覚えている。だから、標的にされても闘いをやめない。その闘いを、メディアは黙殺する。

 俺は2012年9月29日、普天間基地を封鎖した沖縄県民の闘いを知らなかった。一部始終を撮影したのが琉球朝日放送で、貴重な映像は本作にも収録されていた。俺の怒りは日本政府だけでなく、<管理と洗脳>に取り込まれていた自分に向けられる。高江は「標的の村」で、沖縄は「標的の島」だ。だが、安倍政権の動きを眺めていると、すべての日本人は既にターゲットにされているように感じる。それは俺の錯覚だろうか。

 エンディングに心が和んだ。ゲンさんが経営するカフェ前で開かれた音楽祭のシーンである。ゲンさんや伊佐さんが楽器を奏で、海月ちゃんは友達とフラダンスを踊っている。本作は沖縄の美しい自然と文化を背景に描かれた絆の物語でもある。

 観賞後、カンパの意味も込めTシャツとパンフを購入する。俺は最近、<立ち位置を明確にすることで見える景色も違ってくる>と当ブログで記しているが、同じことを言っても森達也だと説得力が何十倍にもなる。森はパンフに<公正中立などありえない。なぜなら情報は視点なのだ>とコメントを寄せている。公正中立を装いながら権力者に阿るメディアが目立つ今、琉球朝日放送は南から射す希望の光といえるだろう。
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イチローと藤圭子~吉報と訃報に感じたこと

2013-08-24 21:35:20 | 戯れ言
 米外交公電をウィキリークスに漏洩したマニング被告に禁錮35年が言い渡された。ナショナリズムは倫理や正義を超越するというのが、判決の趣旨なのだろう。それが国であれ、会社であれ、大半の人は帰属意識を優先する。日本でも同様で、職場や学校で陰湿ないじめに目を瞑り、良心を矛に収めるのだ。

 俺は若い頃から<拠って立つ位置を明確にする>ことを肝に銘じてきた。その結果、物事がクリアに像を結ぶこともある。たとえば、エジプト……。国内メディアの報道だと、暫定政権(軍部が後ろ盾)とモルシ前大統領派(ムスリム同胞団が基盤)の闘いにも、「どっちもどっち」の日本的結論に陥ってしまいそうだが、仕事先で読んだ孫崎享氏のコラムが興味深い内容だった。

 孫崎氏は前政権派虐殺に抗議するフィフィのツイッターを紹介し、自身の立場を鮮明にしている。俺が前政権を支持するのは、公正を訴え貧困層の後押しで民主主義に則って誕生したからであり、物資を送るなどパレスチナと近い関係にあったからだ。やはりというか、〝世界最大のテロ国家〟アメリカは、メディア込みで早速、暫定政権に協力する姿勢を明らかにしている。<アメリカ=イスラエル>に親近感を抱く方の目には、俺と真逆の光景が映っているだろう。

 さて、本題。枕に相応しい「標的の村」(13年、三上智恵監督)を紹介する予定だったが、けさ見たばかりで未消化だ。次稿に回すことにして、相次いだ吉報と悲報について記すことにする。

 まずは、4000本安打を達成したイチローから。といっても、1990年代に入ってから野球そのものに関心を失っており、最近ではプロ野球どころかMLB、高校野球にチャンネルを合わせることさえない。技術論や思い出を語ることは出来ないが、俺にとってのイチロー像を以下に記してみたい。

 イチローの人間性について、批判的な報道も多い。サラリーマン社会、体育会的集団では、唯我独尊のイチローは扱いにくい個性なのだろう。質問を無視されて憤りを覚えている関係者も多いというが、俺がイチローに重ねるのは、日本の職人だ。頑固で無口だが、時折吐く言葉は煌めきに満ちている。イチローも名言の数々を残している。

 突破者としての奔放さは日本人離れしているが、フォア・ザ・チームに徹する姿で日本的な美徳を体現している。このアンビバレンツこそイチローの最大の魅力なのだろう。卓越した表現者であり、「古畑任三郎」(06年正月)では犯人役を演じ切っていた。引退後のイチローに期待しているのはハリウッド俳優で、十分可能だと思っている。

 自殺した藤圭子さんのデビュー曲「新宿の女」は衝撃的だった。俺は当時13歳だったが、18歳の人形のような美少女が♪私が男になれたなら 私は女を捨てないわ……と歌う。しかも、「この子なら、さもありなん」と思わせるリアリティーがあった。対照的なのは山口百恵で、性体験を匂わせる曲が多かったが、あくまでもフェイクと受け取られていた。

 「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞に、藤圭子さんの人生を重ねる人も多いだろう。♪十五、十六、十七と私の人生暗かった。過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく……。この歌詞をアレンジし、「二十五、二十六、二十七」とか自らの体験に重ねて口ずさんだ人も多いだろう。娘の宇多田ヒカルの大成功はあったものの、藤さんは<幸せになってはいけない>というイメージに沿った波瀾万丈の人生を送る。

 渋谷陽一氏(ロッキンオン社長)は「高校時代、藤圭子について熱く語るのはロックファンだった。彼女とロックアーティストの心の闇に相似性を感じた」(論旨)とブログに記している。「圭子の夢は夜ひらく」と同じ年(1970年)に発売された「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ)も強烈だった。

 ビートルズの「シー・ラブズ・ユー」に魅せられてロックの扉を叩いた……なんて書いているけど、半分は捏造だ。演歌を含め歌謡曲が大好きだった俺が〝純ロック派〟に転じたのは、内なる日本的情念を濾し取るためだったのだろう。最後に、時代を映した藤圭子さんの冥福を心から祈りたい。
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「カデナ」~沖縄に注ぐ池澤夏樹の鋭くて柔らかな視線

2013-08-21 23:13:42 | 読書
 俺を動物に譬えたら、左巻きの深海魚といったところか。海の底からブクブク飛ばした泡も、海面に届く前に消えている。偏向は承知の上だが、<拠って立つ場所がなければ何も見えない>という確信に支えられている。

 新聞だって当ブログ同様、偏向と無縁ではない。3・11後、フリーのジャーナリストは汚染水流出について東電を追及したが、大手紙記者は大声で遮り、時に恫喝にさえ及んだ。圧殺された<真実>は2年後、深刻な論調で伝えられている。<真実をリアルタイムで伝えないこと>は、メディアにとって最大の罪だ。朝日や読売に羞恥心と良心が残っているのなら、「新聞」から「旧聞」に名前を変更すべきだ。

 戦争について思いを馳せるこの時季、池澤夏樹の「カデナ」(09年、新潮文庫)を読了した。カデナとは嘉手納で、ベトナム戦争時、沖縄で反戦運動に加わった4人のうち3人の主観が、池澤の父(福永武彦)が得意とした<フーガ形式>で綴られている。4人とは、模型店を経営する朝栄、朝栄と旧知の間柄でベトナム人の安南、嘉手納基地で准将の秘書を務めるフリーダ、そして戦後に生まれたタカである。

 沖縄の苦難の歴史を語る朝栄と安南の年長者を、フリーダとタカが支えている。偶然に導かれた4人だが、最後に登場するタカが接着剤の役割を果たしている。「氷山の南」のジンはアイヌの民族楽器ムックリ、そして本作のタカはドラムと、ともに音楽で自己表現している。国籍、性別、年齢を超えて他者と感応するタカは、<独自性を維持しながら親和力によって高いレベルのアイデンティティーを獲得する>という池澤の理想を体現している。

 フリーダは米軍人の父、フィリピン人の母の間に生まれた。自分を捨てた父への憎しみもあり、母は反戦組織の中心になる。フリーダは空軍パイロットのパトリックと付き合っているから、母の求めに応じて北爆情報を流すことは国と恋人への二重の裏切りになる。

 フィリピンにおける日米の死闘は酸鼻を極めたが、フリーダの回想に描かれるのは日本軍の残虐さだ。インドネシアを舞台に描いた「花を運ぶ妹」でも、登場人物に「覚えている日本語はバカヤローだけ」と語らせているように、池澤の日本を見る目は厳しい。空爆に怯えるベトナムの少女と自分の過去が重なったことが、フリーダにルビコン川を渡らせた。

 タカは情報漏洩だけでなく、米兵の脱走に協力するグループにも参加している。ベトナム人だけではなく、米兵も恐怖に蝕まれていることが、脱走を試みる空軍兵マーク、そしてパトリックの言動に表れている。フリーダは<ナショナリズム>と<絶対的な善>の狭間で葛藤するが、彼女の行為によってベトナムで多くの命が救われ、結果としてパトリックの<罪>を軽減することになる。

 マークの行き先がスウェーデンという点も興味深い。別稿(12年6月8日)でスウェーデン製作のドキュメンタリー「ブラックパワー・ミックステープ」を紹介した。スタッフが黒人家庭を訪問して貧困と差別の実態をフィルムに収め、<福祉も医療も遅れたアメリカは、不自由で非人道的な後進国>(要旨)とナレーションを重ねた。<ベトナム戦争はナチスに匹敵する暴虐>との正論に逆ギレしたアメリカは72年から2年間、スウェーデンと国交を断絶している。マークがスウェーデンに憧れたのも当然ではないか。

 本作には沖縄の伝統、文化、風習、精神風土、そして日本とアメリカへの感情が描かれている。ハイライトといえるのは、タカの勧めでフリーダとパトリックが糸数壕(アブチラ)を訪れる場面だ。戦争の深い傷痕を目の当たりにした2人は、目を背けることなく、神聖な思いに心を打たれる。糸数壕はタカにとっても母の思い出に連なる場所だった。

 池澤は脱原発を早い段階から訴えてきた作家であり、沖縄にも強い愛着とこだわりを抱いているが、表立って政治的な発言はしない。<市民>という括りで訴える大江健三郎、炎上覚悟で自らの思いをツイッターで発信する星野智幸、パレスチナへの残虐をイスラエルで告発した村上春樹……。様々な表現方法はあるが、池澤は「作家は政治的な意見を作品の中で語り尽くすべき」と考えているに違いない。
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ミューズ、落語にシュルレアリスム~お盆の夕べの清涼剤

2013-08-18 20:35:35 | カルチャー
 安倍首相は戦没者追悼式で、6年前(1次政権時)に自身も言及したアジア諸国への加害責任、不戦の誓いを式辞から省略した。欧米諸国の日本への視線は、さらに厳しくなるだろう。オバマ政権が送り込んだキャロライン・ケネディ駐日大使は、リベラルとして知られる。〝日本の右傾化ストッパー〟としての任務を果たせるだろうか。

 イスラエル高官が「広島と長崎への原爆投下は日本の侵略が招いた結果で、独り善がりの追悼式典にうんざりしている。日本が追悼すべきは、侵略や虐殺の犠牲になった中国人や韓国人だ」(論旨)とフェイスブックに書き込んだ。麻生財務相のナチス発言への意趣返しとみる識者もいるが、戦時の加害と被害は、時代を経ても論争の的になる。

 ナチスを育んだ反省を踏まえ、ドイツはイスラエルに寛容だった。この空気を破ったのが、親衛隊入隊の過去を告白したギュンター・グラスで、被害の刃をパレスチナへの加害に反転させたイスラエルを許してはならないと訴えた。ユダヤ人であるノーマ・チョムスキーも、イスラエルによるジェノサイドに厳しい批判を繰り返している。

 あれこれ考えさせられたお盆の日々、清涼剤、癒やし、和みになったのはミューズ、落語、シュルレアリスムだ。

 サマソニには食指が動かなかったが、単独公演ならとミューズの単独公演(ZEPPダイバーシティ)をダメ元で申し込んだら、チケットをゲットできた。2階席には同世代の姿もチラホラあったが、ファン層はとにかく若い。

 最初の40分間は01年のZEPP東京公演を彷彿させる選曲で、蒼い衝動と憤懣を前面にパンキッシュな音を奏でた。いったん引っ込み、すぐにステージに登場するや「アップライジング」~「タイム・イズ・ランニング・アウト」~「プラグ・イン・ベイビー」とお馴染みの曲が続いたが、3曲でメンバーはステージから去る。

 欧州でスタジアムツアー、アメリカでアリーナツアーを敢行するほどになったが、初期のミューズは研ぎ澄まされた肉体性と、おバカといっていいサービス精神で勝負していた。1部で見せたのが前者なら、2度目のアンコールで見せたのが後者である。この日のライブは、いずれDVD化されるという。ご覧になる方は、エンターテインメントに徹した姿勢に驚くに違いない。

 レア曲満載のセットリストは世界中で垂涎の的になったが、1時間20分はあまりに短く、照明が灯っても立ち尽くすファンは多かった。ちなみにミューズは昨日、ソウルでのサマーフェスに出演した。日本で撮影したPV「パニックステーション」の冒頭に挿入されていた旭日旗のカットを、抗議を受けて削除したことが話題になったが、Youtubeにアップされた映像では、経緯を水に流し、ミューズを熱狂的に迎えた韓国ファンの様子を見ることができる。

 「鈴本夏まつり」は柳家さん喬と柳家権太楼が交互でトリを務めるお盆興行で、立ち見も出る盛況だった。当日のトリは権太楼で、「鰻の幇間」は客に取り入ったつもりの幇間が痛い目に遭うコミカルな筋立てで、キャラを演じ切る力業に魅せられた。軽妙なさん喬、間の取り方が抜群の柳家喬太郎は師弟関係という。

 上方から参上した霧の新治の言葉遣いに、京都生まれの俺はノスタルジックな気分になった。音色入りの「七段目」は芝居噺で、続いて上がった紙切りの正楽は、客席からのリクエストに応え、演目のオチを神業の手さばきで創作していた。寄席に足を運ぶたびに新たな個性を発見できるのは、初心者の特権といえる。

 ギラつく日差しの下、よろけながら方南通りを歩いていると、「遊ぶシュルレアリスム」のポスターが目に入った。避暑でアート鑑賞とは不純だが、「東郷青児美術館」(損保ジャパンビル42階)を訪れた。美に疎い俺は美術館とご無沙汰で、25年ほど前の「Bunkamuraミュージアム」以来になる。

 20世紀初頭からダダイズム、表現主義、構成主義、ロシアアヴァンギャルド、そしてシュレアリスムと幾つものムーヴメントが台頭し、時に政治も絡んで交錯していたが、俺には正直、区別がつかない。当展を鑑賞するまで、〝シャガールはシュルレアリスムの画家〟と勘違いしていたが、構成主義、ロシアアヴァンギャルドの潮流に属しているようだ。

 若いカップルが仲良く鑑賞し、美大生らしき男の子が解説役を務めていた。横の女の子が頷き、その背後で俺が感心するという、シュールというより奇妙な光景がしばし続いた。蓄積のない俺だが、現実と非現実の境界を、遊び心でモノクロームに表現するのがシュルレアリスムの出発点らしい。

 肖像写真家に分類していたマン・レイがシュルレアリストだったり、小泉八雲の「怪談」に触発された作品があったり、多くの日本人が関わっていたりと、同展でインプットされた知識は多少ある。とはいえ、アートや美術に親しむツールは<感性>だ。心身を活性化させるためにも、たまには美術館を訪ねてみることにしよう。
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今こそ「光る風」を~山上たつひこの畏るべきイマジネーション

2013-08-15 22:34:18 | 読書
 日本は今、狂いつつあるのではないか。俺はそんな風に感じている。先日のこと、地下鉄車内で俺の前に立っていたサラリーマンが、日経を読んでいた。その1面に並ぶ「消費税増税」と「法人税減税」の見出しに愕然とする。〝日本一の大富豪〟柳井正氏はオピニオンリーダーとして「年収100万円時代」を先取りし、格差拡大を肯定した。働く者をボロ切れのように扱う渡辺美樹氏は、塀の内でなく永田町の中に収まる。

 ブラック企業2トップの創業者の現状を見る限り、この国に倫理や良心が無用であることは明らかだ。学校におけるいじめは集中砲火を浴びるが、立派な大人が運営している(はずの)大企業の追い出し部屋は問題にならない。それどころか、株価上昇のきっかけになる。若年層中心に非正規雇用は増加の一途で、実質的な収入は右肩下がりなのに、70%以上の国民が現在の生活に満足している(内閣府による世論調査)。狂気が沈黙と隷従に形を変えて地表に張りついている。

 橋下大阪市長の「従軍慰安婦」発言、麻生財務相の「ナチス」発言が許される国だ。石破自民党幹事長の「国防軍に従わなければ死刑」も当然と受け止められたが、一連の動きに国外ではシビアな声が上がっている。米独の主要メディアに続き、英フィナンシャル・タイムズ紙が「安倍政権は平和への脅威で、中国ばかりでなくアメリカも遠ざけつつある」との論評を掲載した。グローバルな視線で世界を眺め、外から映る国の形を確認する……。先進国が持つべき合わせ鏡はとうに割れてしまったのか。

 少子高齢化による人口激減が迫る日本において、国防軍創設は難しいと指摘する識者も多い。唯一の可能性を探れば移民解禁で、石破氏は肯定派という。その意味では筋が通っている。戦前回帰に警鐘が鳴らされる今、国防隊が登場するポリティカルフィクションを十数年ぶりに再読した。山上たつひこの「光る風」以上に、今年の終戦記念日に相応しい作品はないと断言できる。

 「巨人の星」と「あしたのジョー」の2枚看板で一時代を築いた「少年マガジン」は、時に読み手に衝撃を与えた。「光る風」と「アシュラ」が最たる例である。政治の季節の余熱が残っていた1970年、「光る風」の連載が始まった。時代設定は近未来の80年前後で、戦前回帰した日本社会が描かれている。

 主人公の六高寺弦は軍人一家の生まれだが、家風に馴染まず自由を志向する。兄の光高は国防隊幹部候補生で、対照的な兄弟の生き様が物語の軸になっている。日本は狂犬の如きアメリカの軍事行動に追随し、カンボジアに国防隊を派遣する。光高もその一人だった。

 伏線になっているのが、戦後間もなく藻池村で発生した奇病だ。1万人以上が発症し、700人の命が奪われた。障害を持って生まれた赤ん坊を含め、村民は出島に隔離される。真相に迫るべく島に潜入したのが、弦が通う高校の教師と同級生だった。軍人一家出身ゆえ周囲から警戒されるが、弦はその言動で信頼を勝ち取る。重い物語で清涼剤になっていたのが、弦と雪の恋だった。

 ビラ配りの高校生が衆人環視の下、射殺されるなど、言論弾圧は凄まじい。<権力にすべて歩調をあわせ、沈黙を守る。これが、この時代でおのれの生命、生活をまもるための哲学だった>というト書きは、今の日本と重なる点もある。反体制派は精神病院に収容され、強制労働に従事させられる。倒れたら銃殺の運命を、弦は機転を利かせて切り抜けた。

 10代から波瀾万丈の弦だが、国を愛した光高を待ち受けていたのは過酷な運命だった。「キャタピラー」(10年、若松孝二監督)を見た知人から「久蔵(大西信満)に光高が重なった」という感想を聞いたことがある。藻池村での奇病発生と光高の戦傷が30年を経て繋がった。原因は米軍が開発した細菌兵器で、山上はベトナムで散布された枯葉剤を念頭に置いていたに違いない。

 本作から離れるが、アメリカはその技術とデータを入手するため、石井部隊を免罪した、枯葉剤と石井部隊との関係に迫ったのが第1期「DAYS JAPAN」である。石井部隊所属の医師たちは戦後、学会で重要なポジションを占める。薬害エイズ事件を引き起こしたミドリ十字も、〝悪魔の人脈〟に連なっていた。

 本作で興味深いのは、日本のナショナリズムとアメリカとの衝突、コンピューターの制御力が描かれていることだ。ハワイから軍事行動を遠隔操作することで、米軍は日本から撤退可能になるという〝予見〟に、山上の天才ぶりが窺える。狂気が滲む物語は地震により、救いのないカタストロフィーに至った。

 当時23歳だった山上は、本作完成後、心身を壊したという噂が流れた。俺が次に山上作品に触れたのは「がきデカ」である。現実とのシビアな格闘を経て、ナンセンスの極致へ……。俺のような凡人に、その精神遍歴が理解できるはずもない。
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「ハナ~奇跡の46日間」~ひねくれ男もひれ伏すスマッシュの力

2013-08-12 22:40:52 | 映画、ドラマ
 この2年間、<電力不足⇒原発が必要>という詐術がメディアの協力で浸透したが、今夏は<クーラーを適切に利用して熱中症を防ごう>がスローガンになっている。炎暑が図らずも原発不要を実証してくれた。

 8日付毎日新聞電子版に、<大学生の6割がヘイトスピーチを知らない>という記事が掲載されていた。大学生がヘイトスピーチだけでなく、あらゆる政治問題に興味を持っていないとしたら憂慮すべき事態である。安倍首相は「日本人の寛容の精神に反し、自らを辱める行為」とヘイトスピーチを諌めていたが、一族の歴史を考えたら当然の発言だ。首相は〝親韓派〟清和会の嫡流で、祖父(岸信介元首相)も父(安倍晋太郎元官房長官)も韓国と密接な関係を築いていた。

 ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働いた朝鮮人男性の日記が発見された。同資料の存在を明かしたのは意外なことに、日本の植民地支配を肯定的に捉えている安秉直ソウル大名誉教授である。安教授は「慰安婦が日本軍の管理下にあったことが確認できた」と広義の強制を認めているようだ。<軍が関与した証拠がない>と繰り返してきた安倍首相、橋下大阪市長のコメントを待ちたい。

 日本の植民地支配と無関係ではない映画を先週末、炎天下のテント(虎ノ門ガーデンシアター)で見た。「ハナ~奇跡の46日間」(12年、ムン・ヒョンソン監督)である。刃のように胸を刺す韓国映画は多いが、本作は背景は深刻ながら、恋あり友情ありの青春物といっていい。1991年、千葉県のコンベンションセンター(現幕張メッセ)で開催された世界卓球選手権で、韓国と北朝鮮は統一チームを結成した。史実を基にフィクションを交えて製作されたのが「ハナ――」である。

 ヒョン・ジョンファ(韓国)とリ・プニ(北朝鮮)の南北それぞれのエースを、ハ・ジウォンとペ・ドゥナが演じている。ハ・ジウォンは日本でいえば松たか子風の正統派だが、出演作を見たのは今回が初めてだった。俺の中で麻丘めぐみとイメージが重なるペ・ドゥナは、「リンダ リンダ リンダ」と「空気人形」で日本でもお馴染みだ。シュールな「空気人形」では心を持つダッチワイフを演じ、清楚なヌードを披露している。

 撮影時、ハ・ジォンは33歳で、ペ・ドゥナは32歳……。実年齢より10歳下のトップアスリートを、リアリティーを損なわず表現するのは小手先では難しい。作品中でもライバルだが、演技でもしのぎを削ったことが窺える。試合のシーンは緊張感と躍動感に溢れていた。チャーミングな二人の存在感が本作の肝といっていいだろう。 

 多少の誇張はあるだろうが、開放的な南の選手、閉鎖的な北の選手と対照的に描かれている。些細なことで乱闘が始まったりするが、仄かな恋もあり、次第に打ち解けていく。外出が許可されると、南北の選手たちはディズニーランドで入り混じってはしゃいでいた。奇跡の、そして夢のような46日間だが、大会が終わりに近づくにつれ、分断国家の現実がのしかかってくる。

 移動バスの窓から外を眺める韓国選手の表情に、日本への憧れが滲んでいた。民団系と総連系が手を携えてサポートし、会場では日本人も「コリア」と声援を送る。ヒールとして立ちはだかるのが中国チームだ。最後のゲームでヒョン・ジョンファとリ・プニは無敵の中国ペアに挑む。結果はわかっていても、涙腺が緩むのを覚えた。

 ひねくれ初老男は当ブログで、スポーツとナショナリズムの悪しき結合について否定的に記してきた。だが、別稿(8月3日)に記したように、中国では岡田武史が、ナショナリズムを超越し、個として異質なものを認め合う高度な絆を志向している。スポーツの持つ可能性を本作にも感じた。
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ペルーの光と闇~リョサが「アンデスのリトゥーマ」に託したもの

2013-08-09 16:26:42 | 読書
 広島に続いてきょう9日、長崎で平和祈念式典が営まれた。一年で最も敬虔な気持ちになる日々だが、朝日新聞を読んでいると、自分の脳が暑さで溶けてしまったかのような錯覚に陥る。福島原発からの汚染水流出(1日300㌧)を報じていたが、上杉隆氏は2年前の4月、「日本は海洋テロ国家として世界から糾弾されるだろう」と警鐘を鳴らしていた。

 当の上杉氏は朝日系CSから追放され、抹殺された〝流出の事実〟は2年後の今、〝常識〟になった。3・11以降、同様のケースを挙げたらきりがない。いずれ若い世代の体内被曝が隠せなくなり、国中から怨嗟の声を上がるだろう。多くの有権者はその時、自民党に投票した自己責任を噛みしめることになる。「甲状腺がんの発症は福島原発事故と直接関係ない」という政府見解を、メディアは無批判で垂れ流すはずだ。

 読書が進まぬこの時季、「アンデスのリトゥーマ」(93年、バルガス・リョサ/岩波書店)をようやく読了した。この半世紀で最高の作家を選ぶアンケートが回ってきたら、俺はリョサに投票する。8歳上のガルシア・マルケスとともに<南米文学2トップ>だが、文学への情熱は世紀を越えても衰えず、キャリア後半は質量ともマルケスを凌駕している。

 「百年の孤独」(マルケス)の1年前(66年)に「緑の家」を発表したリョサだが、ノーベル賞受賞(2010年)はマルケスの28年後だった。遅きに失した理由の一つは、左派から中道右派への転向ではないか。民衆的、抵抗というイメージはノーベル賞受賞にプラスに働く。富裕層に推されて90年のペルー大統領選に出馬したことが、栄誉を遠ざける〝汚点〟になった。

 その選挙でリョサを破ったのは、インディオの支持を得た日系人アルベルト・フジモリだった。「アンデスのリトゥーマ」はある意味、選挙戦の総括ともいえる。主人公リトゥーマは治安警備隊伍長で、ヨーロッパの薫りがするピウラ市出身だが、アンデス山中のナッコスに送り込まれた。

 山棲みの連中(インディオ)を理解できない……。こう繰り返し述懐するリトゥーマは、進歩と成長を掲げて立候補したリョサ自身に重なる。ナッコスで3人の男が失踪し、リトゥーマは助手のトマシートと捜査に着手した。左翼ゲリラによる誘拐説は本線から後退し、酒場を経営する夫妻にインスパイアされたリトゥーマは、精霊や呪いが支配する迷路に誘われる。

 南米文学といえば<マジックリアリズム>、リョサといえばあらゆる角度から構造を照射する<全体小説>だ。「緑の家」では時空を超えた複数の主観が一つのセンテンスに入り混じっていたが、本作では駐屯所での会話に実験的な手法が用いられている。事件について熱く語るリトゥーマ、失恋に打ちひしがれて上の空のトマシート……。現在と過去が交錯し、事件の深層と恋物語がもつれ合って、<光と闇>に彩られた結末に至る。

 高地出身のトマシートが思いを寄せるメルセーデスは、リトゥーマと同じくピウラの生まれだ。<都市と高地はいつか調和し、ペルーは再生に向かう>という希望を、リョサはハッピーエンドの恋に託したのではないか。憧憬を抱いてペルーを訪れ、悲惨な最期を迎える旅行者や研究者は、貧困層や左派にとって〝外国人〟だったリョサ自身のメタファーかもしれない。

 本作は〝敗軍の将が語るペルー〟という趣がある。勝って大統領に就任していたら政治の泥に塗れ、暗殺、逮捕、亡命といった事態が待ち受けていた可能性が強い。本作をはじめ、多くの傑作が世に出ることもなかっただろう。負けてよかったと今更ながらしみじみ思う。
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「ベルリンファイル」~愛と慟哭に根差したスパイアクション

2013-08-06 23:45:09 | 映画、ドラマ
 68年前の8月6日、広島に原爆が投下された。被爆者や福島原発事故で被曝した作業員の苦しみ、そして若い世代を蝕んでいる放射能の恐ろしさを、〝原発のセールスマン〟安倍首相は理解しているのだろうか。松井広島市長も言及していたが、核開発に直結するインドへの原発輸出は、すぐさま撤回するべきだ。

 「麻生ナチス発言」は収束の方向だ。ヤフーのアンケートでも「問題ない」が大きく上回り、週刊誌も沈黙している。おかしいのは俺の方だろうか……。不安になってネットサーフィンしていたら、田原総一朗氏が麻生発言に苦言を呈していた。田原氏は安倍応援団のひとりといわれるが、戦中派として麻生発言は許せないのだろう。宮台真司氏の冷静なコメントにも共感できた。

 麻生発言が許容される国は、国連加盟国でどれぐらいの数だろう。欧州全域、北米、オセアニア、左派が強い南米、経済発展が著しいアジア地域で即アウト。反イスラエルのアラブ諸国でも〝利敵行為〟とみなされ、辞任に追い込まれる可能性がある。日本を覆う<沈黙という狂気>を育んだのは俺を含めた中高年世代だ。憂える前に来し方を反省し、何かを為さねばと思うが、目が覚めたら忘れている。

 新宿で先週末、韓国映画「ベルリンファイル」(13年、リュ・スンワン監督)を見た。俺は映画に点数をつけない主義だが、「007スカイフォール」の2割増といったところか。いずれご覧になる方は多いはずなので。ストーリー紹介は最低限に、簡潔に記したい。背景は現在進行形の北朝鮮の体制移行で、混乱が諜報機関にも及んでいるという設定だ。同じ分断国家であったことも理由のひとつなのか、舞台はドイツだ。

 様々な切り口で描かれるベルリンの街で、息つく間もないスパイアクションが展開する。冒頭のモンタージュでギュンター・グラスの大きな写真を見つけた。グラスが10代の頃、ナチスの武装親衛隊に入隊したことを自伝で告白して大騒動を巻き起こしたのは06年だが、映画にインサートされたカットは撮影時(12年)の出来事だ。ユダヤ人虐殺の負い目でイスラエルに武器を輸出し、パレスチナ人への暴虐に頬かむりする政府を批判した詩で、グラスはまたも議論の中心になった。

 本題に戻る。主人公はゴーストと呼ばれる北朝鮮の諜報員ピョ・ジョンソン(ハ・ジョンウ)で、大使館通訳の妻リョン・ジョンヒ(チョン・ジョンヒ)、弟分で冷酷な監察員、在ベルリン北朝鮮大使が、謀略と裏切りが渦巻くストーリーの軸になる。北朝鮮サイドの混乱に乗じて一泡吹かせようと奮闘する韓国国家情報院所属のチョン・ジンス(ハン・ソッキュ)、CIA局員、ロシアの武器商人、モサド、イスラム系武装グループらが理念と利益で蠢いている。シリアスな「エロイカより愛をこめて」といった感じだ。

 韓流といってもドラマや音楽には無縁だが、映画を見る機会は多い。今年は「殺人の告白」、「嘆きのピエタ」に次ぎ3作目で、色合いは異なるが、スクリーンには常にパワーと情念が漲っている。一分の隙もないエンターテインメントといえる本作の根底に流れているのは愛と慟哭だ。

 日本の任侠映画、香港ノワールを彷彿とさせるラストに胸が躍り、ピョとチョンの国家を超えたさりげない友情が心に染む。「韓国、畏るべし」の思いを強くした。今週末は「ハナ~奇跡の46日間~」を見る予定だが、夏バテで体が動かないかもしれない。
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「キンシャサの奇跡」と岡田武史~スポーツは時に政治を超える

2013-08-03 22:17:39 | スポーツ
 前回の枕で麻生副総理のナチス発言を取り上げたが、肝心な史実に触れていなかった。<ナチスはワイマール憲法を骨抜きにした>という麻生氏の認識はそれ自体が誤りで、謀略と恫喝の結果、1933年に成立した全権委任法によって、ワイマール憲法は葬られたのである。弱小ブロガーでさえ書き漏らしを反省しているのに、外相、首相を歴任した麻生氏は事実誤認を恥じる様子もない。

 麻生一族は日本人だけでなく強制連行された朝鮮人、連合国捕虜が流した血の上に富を蓄積した。その点で麻生氏を責めるつもりはないが、歴史を自省的に学んでいないことは失言(=本音)の数々からも明らかだ。自民党はもちろん、親密な関係にある創価学会からも辞任を求める動きはない。麻生氏の去就はオバマ大統領とユダヤ系ロビイストとの呼吸次第と指摘する識者もいる。

 俺は8月が大の苦手だ。尿管結石で七転八倒したのも、肉離れで呻いたのも8月だった。56歳の心身は衰えが甚だしく、日々が〝永眠のリハーサル〟状態だ。読書は進まず、ネタ切れ状態になったが、何とか代わりを見つけた。先月に録画したスポーツ関連の2番組について、感想を記すことにした。後付けになるが、テーマは<政治とスポーツ>である。

 フジ系のスカパーで「キンシャサの奇跡」が放映された。1974年10月、ザイール(現コンゴ共和国)の首都キンシャサで、ジョージ・フォアマン(王者、当時25)とモハメド・アリ(挑戦者、同32)がグローブを交えた。興味は<王者が何回で倒すか>の一点で、アリ勝利を確信していたのは当人とアンジェロ・ダンディ(トレーナー)の2人だけだった。

 徴兵拒否で王座を剥奪されたアリは、3年7カ月のブランクを経てカムバックしたが、〝蝶のように舞う〟と評されたフットワークは影を潜めていた。直近の5試合はアリがすべて判定(計60R)で4勝1敗。一方のフォアマンは5連続KO勝ち(計9R)で、アリとは1勝1敗のフレージャーとノートンをともに2Rで倒している。試合によってスタミナを養成する機会がなかったことが、フォアマンのアキレス腱だった。そこを突くべく、アリ陣営は戦略と戦術を用意していた。

 アリはベトナム戦争反対を貫き、米政府と対峙した。反米政権のザイールで、国民が〝反逆者アリ〟を支持するのは当然だった。さらに、アリの巧みな誘導で、フォアマンは〝アメリカの従順な飼い犬〟のイメージを付与される。灼熱の大地での数万観衆の熱狂は、明らかにマット上の空気を歪ませていた。

 フォアマンをガス欠に追い込むことが具体的な戦術だった。ロープにもたれ、スウエーで上半身へのパンチをかわし、ボディーブローを吸収する。暑さと打ち疲れがフォアマンのスタミナを奪い、〝象をも倒すパンチ〟の威力は失われていく。頃合いを見計らったアリのピンポイントな連打を浴びて、フォアマンは脆くも崩れ落ちた。今だから<戦略と戦術の勝利>と分析できるが、当時は誰の目にも奇跡としか映らなかった。

 高校3年だった俺は、数時間のタイムラグで奇跡を体験した。遠目で画面を眺めていた母が、「アリ、勝ったん?」と驚きの声を上げたことを覚えている。名勝負を久しぶりに見て、俺は湿っぽくなった。父と妹は召され、母はケアハウスに入居している。家族とは俺にとり、ノスタルジックな記憶の連なりなのだ。

 「岡田武史 中国で闘う理由」(WOWOW)は秀逸なドキュメンタリーだった。W杯南ア大会後、代表監督を退任した岡田は、人生の転機を迎えた。一つ目は東日本大震災で、岡田は物資を積んで被災地を訪れ、ボランティア活動に参加する。何度も開いたサッカー教室で、ボールと自分の絆を再認識した。二つ目は解説者として観戦したクラシコだ。バルセロナのサッカーに刺激を受け、自らの理想を実現するため、再度グラウンドに立つことを決意する。

 まっさらな状態のチームを育て、自由奔放なサッカーへ……。こんな思いで杭州緑城(中国スーパーリーグ)の監督に就任した岡田だが、早々に挫折する。オーナーは岡田の頭越しに中心選手を売りに出す。中国マネーでドログバやアネルカらと契約する有力チームに勝つ(負けない)ためには、守備を固めてカウンターに徹するしかない。岡田は理想と真逆の戦法を採らざるを得ない状況に陥った。

 さらにチームは、内憂外患を抱えていた。管理慣れしている中国人は、自由に考え、状況によって瞬時に判断することが得意ではない。岡田は就任直後、意識改革に着手し、門限撤廃などで自主性を育もうとするが、簡単な道程ではない。自由をはき違え、混乱のもとになった選手をチームから追放した。

 外患とは尖閣問題に端を発する日中の軋轢だ。杭州でも大規模なデモが起きたが、中国人通訳に「戦争が起きそうかい。そうなったら俺は残って人質になるよ」と岡田は鷹揚に構えている。チーム内の中国人、韓国人と、岡田は個としての信頼関係を築いてきた。指導力だけでなく、率先してグラウンドを整備する岡田の姿に選手たちは感銘を受けた。岡田への敬意は、いかにも反日デモに参加していそうなチームのサポ-ターへも伝播する。「日本人を軽蔑していたが、あの人だけは違う」(論旨)と、彼らのひとりが語っていた。

 昨年暮れに帰国した岡田は、大学で開催された講演会で日本の現状に警鐘を鳴らし、以下のように述べていた。

 <民主主義が崩壊しようとしています。大きな声を出す人、過激なことを言う人が、人気が出てきます。日本はポピュリズム、衆愚政治に落ちてきているのかもしれない。でも、僕はただのサッカーの監督です。出来ることは中国人、日本人、韓国人が力を合わせて闘っているところを見せることだけです>(要旨)

 日本でいう「絆」には、日本人なら力を合わせるのは当然という強制力を感じるが、岡田はサッカーを通して、異質なものが互いを認め合う高度な<絆の形>を志向している。理想のサッカー実現は当分お預けだが、岡田は今季も闘っている。

 常に政治に利用されてきたスポーツだが、時に政治を超越する光芒を放つことを、「キンシャサの奇跡」と岡田武史の生き様が教えてくれた。
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