酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」に込められた〝異物〟森達也の覚悟

2018-07-31 19:10:18 | 読書
 ハートネットTV「遺族の葛藤~娘を殺した男の葛藤~」(NHK)を見た。7年前、3歳の娘を殺された清水夫妻を追ったドキュメンタリーである。逮捕された男は当時20歳。弁護士の元に、無期懲役囚から手紙が届く。犯罪被害者の家族として講演を続けている清水さんに変化の兆しが現れた。

 中学校の講堂に集まった生徒たちに、「周りに独りぼっちの子がいれば勇気を持って話し掛けてください。孤独な人に手を差し伸べる大人になってほしい」と語りかける。疎外されていた加害者をも射程に入れることで、犯罪減少に繋げたい……。これが清水さんの願いだ。

 オウム真理教元幹部13人の死刑執行後、松本サリン事件で犯人扱いされ、妻をサリン中毒で亡くした河野義行さんは、インタビューで「刑執行で本当の真実はなくなった。人は間違う。それでも(死刑)制度を維持するのは命の軽視」と語った。河野さんの思いは清水さんに通じている。

 映画、著書、講演でオウム真理教をテーマに据え、死刑反対を訴えてきた森達也の「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」(2013年)を読了した。07年にダイヤモンド社のPR誌で掲載が始まり、その後、同社ウェブサイトに転載された記事を加筆修正して発刊に至る。

 <正義という共同幻想がもたらす本当の危機>のサブタイトルが、森の日本社会への危機感を端的に示している。森は集団化こそ日本最大の病巣と、「放送禁止歌」(00年)発表時から指摘していた。当時から<忖度>と<同調圧力>を生む社会の仕組みに警鐘を鳴らしている。本書は多岐にわたる問題を俎上に載せているが、今稿は死刑に焦点を絞りたい。

 供託金制度とともに死刑制度を、<民主主義度の指標>と記してきた。廃止がEU加盟の条件で、アメリカでも30州近くが執行していない。日本が<民主国家の世界標準>から逸脱している事実は、意識的に隠蔽されている。連続ドラマW「60 誤判対策室」では、スリリングなストーリーの背景に、死刑存置と迅速な刑執行を望む国家の意思が描かれていた。

 オウム事件をきっかけに、日本人は厳罰(≒死刑)を望むよう操作されている。森は数字を挙げて、殺人が年々減少し、治安悪化が〝創作〟であることを示す。裁判員制度導入は、被害者家族の心情に寄り添うという〝正義〟を植え付けられた国民から厳罰を引き出したいという国家的な戦略なのだろう。

 森は死刑反対を訴えるたび、「被害者の人権はどうなるのか」と罵声を浴びてきた。シンポジウムで<集団化と二項対立(単純化)がメディアによって加速し、肥大する。死刑存置派は偽りの凶悪犯罪増加報道で増殖の一途を辿る>と発言すると、存置派ながら絞首刑の残酷さに異論を唱える土本武司筑波大教授も同意した。意外な土本の反応に、会場は微妙な空気に包まれたという。

 厳罰を求める世論は<被害者家族の気持ちを考えろ>一色だ。だが、森は問い返す。<当事者ではないのに、なぜ正義を振りかざせるのか>と……。被害者家族の苦しみに寄り添うことは正しいが、<自分の想像など遺族の悲しみに絶対及ばない>ことを自覚しなければ言葉は空虚になる。 

 オウムや死刑廃止だけでなく、反原発、尖閣問題などで森は事あるごとに波紋を呼んできた。ネット上、時には路上で「非国民」、「死ね」などと罵倒されるが、森は〝異物〟として覚悟を決めている。自嘲とユーモアで言葉をくるみながら、芯が揺らぐことはない。

 本書で最も感銘を覚えたのは、福岡事件の西死刑囚についての稿だ。共犯として逮捕された石井元無期囚は<西君がかわいそうだ。私は確かに人を撃った。処刑されるのなら私のほうだ>と森に何度も訴えた。西が獄中で詠んだ俳句<叫びたし 寒満月の割れるほど>に、西の絶望が織り込まれている。

 一昨日(29日)、隅田川花火大会に足を運んだ。光と音のページェントを堪能しながら、あと何年、鑑賞できるだろうと感傷的になる。死刑囚が「人生最後の思い出に花火を見たい」と嘆願しても叶うはずがない。そもそも死刑囚などいないが、欧州なら終身刑の囚人の願いは実現するだろう。深い溜息で空想を打ち切った。
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「熊野からイン・トゥ・ザ・新宮」~大逆事件の今日的意味を問う

2018-07-27 11:42:16 | 映画、ドラマ
 今稿から3回、死刑をキーワードに記したい。刑が執行されたオウム真理教信者、重罪を望むこの国の空気は次稿のテーマだ。

 前稿で記したパレスチナは、左派&リベラルの拠りどころになっている。映画上映前、辺野古移設問題を熱く語る人たちがいた。リポートした古居みずえさんは、パレスチナと飯舘村を活動の軸にしている。在日韓国人2世の男性は質疑応答で、「自分の状況と重なるパレスチナにシンパシーを抱いている」と話していた。

 一方で、死刑はどうか。現政権に批判的な人の多くも死刑肯定派だ。反対を広言している俺だが、仕事先(夕刊紙)で「こいつ、死刑だ」と叫んでしまった。〝こいつ〟とは、「LGBT支援の度が過ぎる」とする論考を寄稿した杉田水脈衆院議員である。山口記者(安倍首相の友人)によるレイプ事件では、「女性にも落ち度があった」と発言していた。

 「許せない」と思いつつ、子供もいる女性に〝死刑〟と口走った自身の底の浅さを猛省している。だが、杉田議員のみならず、多様性否定が自民党の党是になっているようだ。寛容さを失った権力が殺人マシンに転じることは歴史が証明している。その一つである大逆事件を後景に据えた「熊野から イン・トゥ・ザ・新宮」(17年、田中千世子監督)をイメージフォーラムで見た。

 俺は本作に、見逃していた事実を突き付けられた。辻原登作「許されざる者」の主人公、ドクトル(槇隆光)のモデルが、大逆事件で死刑になった大石誠之助であることを予告編で知る。ちなみに小説は、ロマンチックな結末だった。貧しい者を無料で診療した大石は、自由と平等を希求したことで政府に疎んじられる。信望があったから尚更だ。

 大逆事件を考える際、夏目漱石が参考になる。「それから」(1910年)では幸徳らに付きまとう警察を嘲笑していたが、4年後、乃木将軍の殉死に触発されて「こころ」を書く。文豪は国家に〝馴致〟され、俗情に流された。両作の落差は明白だ。

 「熊野から――」の肝になっているのは、大石を悼んだ佐藤春夫の詩「愚者の死」だ。前半を以下に記す。
 
 千九百十一年一月二十三日 大石誠之助は殺されたり。げに嚴肅なる多數者の規約を 裏切る者は殺さるべきかな。死を賭して遊戯を思ひ、民俗の歷史を知らず、日本人ならざる者 愚なる者は殺されたり……。
 
 19歳の佐藤は、反語的な表現で国家の殺人に抗議している。「熊野――」では佐野史郎が回想シーンで佐藤を演じていた。

 編集者(海部剛史)とライター(雨蘭咲木子)は取材で新宮を訪ね、大石とともに連座した僧侶の高木顕明、大石の甥で後に文化学院を創立した西村伊作の足跡を追う。当ブログで<虚実のあわいで空中楼閣を築き上げる魔物>と評してきた辻原も、熊野と新宮の土壌を語っていた。

 前々稿で取り上げた縄文文化と熊野は連なっている。反骨精神に満ち、開明的な同地の風土は、利を重んじる弥生以降とベクトルが真逆だ。辻原の作品は<マジックリアリズムへの日本からの返答>で、同郷の南方熊楠、中上健次、楳図かずおの作品には異界との交感が描かれている。新宮には明治以降、欧米の思想がいち早く流入するなど、土着と最先端が同居する街だった。  

 「熊野――」で興味深かったのは、音楽の味付けだ。銀婚式を迎えた妻が踊るサンバは、熊野に横溢する自由のメタファーといえる。ロマ風アコーディオン弾きのアランは、「愚者の死」に曲を付けて歌っていた。音楽が熊野の祝祭的、スピリチュアルなムードと表している。

 田中監督が上映に先立ち、作品の背景を説明する。古居さんは73歳、そして田中さんは60代後半……。気概を持って社会と対峙する二人の女性に、老いの理想形を見た。大逆事件はフレームアップで、延長線上に治安維持法、共謀罪が連なっており、現在と無縁ではない……。これが、田中監督の思いではないか。

 大逆事件に連座しなかった北一輝は、反皇室的言辞、社会主義への共感で10代の頃から当局にマークされていた。2・26事件の首謀者として知られるが、クーデターの先に天皇制廃止を見据えていた。その北に私淑したのが岸信介である。安倍首相は、〝両岸〟とか〝妖怪〟と評された祖父をどこまで理解しているのだろう。
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イスラエルとパレスチナ~弾圧の構図を変える第一歩は

2018-07-23 22:59:26 | 社会、政治
 「国際報道2018」(NHKBS1)は20日、イスラエル軍の銃撃で亡くなったパレスチナの〝慈愛の天使〟ラザーン・ナッジャールさんについて報じた。トランプ大統領の大使館エルサレム移転に抗議し、3月末に始まった「帰還への行進」以降、救護活動に関わっていたラザーンさんが狙い撃ちされたことは映像や写真でも明らかだが、〝安倍機関〟NHKの論調はいつも通り〝どっちもどっち〟だった。

 本日付東京新聞朝刊に「イスラエル軍事エキスポ」についての記事が掲載され、知人でもある武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)杉原浩司代表も抗議の意思を示していた。志葉玲氏は「パレスチナ・イスラエル取材報告会」(7月8日の稿)で、日本とイスラエルの関わりに警鐘を鳴らしていた。日本政府は<パレスチナ人を管理し、虐殺したイスラエルの成果>を五輪に向けたセキュリティー対策、武器製造に生かそうとしている。

 今回のテーマもパレスチナで、第31回ソシアルシネマクラブすぎなみ上映会「もうひとりの息子」(12年、ロレーヌ・レヴィ監督)と、引き続き開催された古居みずえさんの「パレスチナ報告会」を併せて紹介する。開催場所は高円寺グレインだ。まずは映画の感想から。

 湾岸戦争のさなか(1991年)、イスラエル北部のハイファで、ユダヤ人とパレスチナ人の赤ん坊が取り違えられた。「そして父になる」(13年、是枝裕和監督)と似たシチュエーションだが、壁で遮られ、人々が憎悪をぶつけ合うテルアビブと西岸地区が舞台だから、深刻度が違う。

 ヨセフはフランス系ユダヤ人の家庭に育つ。父はイスラエル国防省幹部、母は医療関係者のエリート一家だが、ヨセフはミュージシャンを夢見るボヘミアンだ。西岸地区で育ったヤシンの一家も裕福な部類だろう。父はエンジニアで、ヤシンはパリに留学し、フランスの大学に進学が決まった医師志望の秀才だ。

 18年後に真実が明らかになったきっかけは、ヨセフの兵役検査だ。血液型から両親の子供ではないことが判明する。「どうして気付かなかったのか」と訝る方もいるだろう。思い出したのは「希望のかなた」(17年、アキ・カウリスマキ監督)だ。シリアからフィンランドに渡った主人公の青年は、「このユダヤ人め」と罵られて排外主義者に刺される。ユダヤ人とアラブ系は区別がつかないのだろう。

 状況を切り開いたのは二人の母で、当人たちも自然に仲良くなり、頑固な父たちも続く。ヨセフがヤシン一家とともに歌い、打ち解けるシーンが印象的だった。志葉氏は<パレスチナとの共存>を訴えるイスラエルの若者たちやラビの活動をリポートしていた。本作に希望を覚えて質問すると、古居さんの表情が曇る。

 イスラエル国会で19日、「ユダヤ人国家法」が成立した。アラビア語を公用語から外し、ユダヤ人による入植を「国益」と位置付ける内容で、欧州では「民主主義の死」と報道されている。法案通過は決定的だが、この間、平和を志向するグループは弾圧され、動員力も落ちているという。

 「もうひとりの息子」でユダヤ教の厳格さを知った。ユダヤ教徒の定義とは<ユダヤ人の母親から生まれること>……。ラビはヨセフを教会前で待ち受け、礼拝を拒否する。「おまえよりヤシンの方が神に近い」とまで語っていた。アイデンティティーを突き付けられたヨセフとヤシンだが、育てくれた家族とともに生き、〝初心〟を貫いていくだろう。

 <拠って立つ>を体現する古居さんはこの30年、毎年のようにパレスチナを訪れ、多くの人たちと交流してきた。スライドはイスラエル軍の暴虐だけでなく、生活そのものを伝えている。幾つもの家族に寄り添い、パレスチナに根を生やした古居さんの生き様に感銘を覚えた。古居さんは3・11後、被災地に通い、映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」を監督する。パレスチナと東北の絆の例を紹介していた。

 パレスチナの現状に無力感は深まるばかりだが、一歩でも前に進むためには、それぞれの場所、即ち日本を変えるしかない。<米国-イスラエル>の悪の枢軸入りに邁進する安倍首相を政権から引きずり降ろすことが、喫緊の課題だ。
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「縄文にハマる人々」~文化的遺伝子を巡るミステリー

2018-07-20 12:23:17 | 映画、ドラマ
 訃報が相次いでいるが、橋本忍さん(脚本家)の死に感慨を覚えた。シナリオチームの一員として携わった黒澤作品は、複数の視点を取り込むことで時代と国境を超えた普遍性を獲得する。名匠たちと組んだ「真昼の暗黒」、「黒い画集」、「切腹」、「日本のいちばん長い日」、「砂の器」でも数々の栄誉に浴した。

 佳作、衝撃作を挙げればきりがない。監督も担当した「私は貝になりたい」(1959年、TBS)はテレビ史に燦然と輝く反戦ドラマである。享年100。俯瞰の目で社会を切り取ってきた反骨の表現者の冥福を心から祈りたい。

 日本の現状に警鐘を鳴らす識者の多くは1995年、あるいは99年を起点に据えている。「縄文にハマる人々」(18年、山岡信貴監督)をイメージフォーラムで見て、俺の座標軸は一気に広がった。<2500年前に誤った第一歩を踏み出した>なんて、悠久の時の流れに思いを馳せている。

 折しも「縄文展」が東京国立博物館で開催され、「土偶ミステリー」(NHK)など関連番組がオンエアされている。縄文の魅力に取り憑かれた人たちが昨今のブームを作り上げたが、アンテナが錆びていた俺は兆候に気付かなかった。その分、新鮮な気持ちで観賞出来た本作は、刺激的で示唆に富んでいる。

 日本史の復習になるが、縄文時代は1万5000年前に始まり、2500年前に幕を閉じた。寒冷化に加え、稲作とともに朝鮮半島から渡来した弥生人に主導権を奪われたことが終焉の理由とされる。縄文人は狩猟と植物採集を生活の基盤に据え、森に定住していた。

 本作では、主に北海道、東北、甲信越から出土した土器と土偶が紹介されていた。「爆笑問題のニッポンの教養」を紹介した稿(2010年3月)で静岡市立大鬼頭宏学長(当時上智大教授)は、「奈良時代の人口の70~80%は朝鮮半島からの渡来者」と語っていた。縄文時代には周縁だった奈良や京都が、弥生以降、政治と文化の中心になる。

 「縄文にハマる人々」は15章からなり、〝ハマった〟人たちの思いが伝えられる。その中には先駆者の西垣内弁護士、縄文の息吹を現代に甦らせた岡本太郎ら故人も含まれていた。縄文の魅力を一言でいうなら、答えが見つからない祝祭的迷宮か。土偶の多くは妊婦を象っているが、男性に見えるものもある。「土偶ミステリー」で小林達雄氏(考古学者)は<土偶とはジェンダーを超越した精霊のような存在>と話していた。
 
 縄文人は宇宙人と交流していたなんて説もある。土器に施された技術は現在の陶工と引けを取らず、土偶の切り取られたお尻は最先端の車のデザインを彷彿させるという証言もあった。実用なのか装飾なのかさえ謎で、 <自分の感性で接し、答えを見つけてほしい>と話す研究者もいる。<それぞれが縄文という小宇宙を形作る>ことこそ縄文の魅力で、限りない自由を感じる。

 ネイティブアメリカンの活動家が縄文に共感を抱き、アボロジニやパプアニューギニアの文化との共通点が語られる。根底に流れるのは自然への畏怖と憧憬、そして共生だ。縄文人→アイヌの仮説もあるが、〝→〟ではなく同時期に同じものを志向していたとする見方が示されていた。

 弥生以降、日本は効率社会になった。集団化、寡占化が進行し、三角形のヒエラルキーが確立していく。今の日本の<貴族-奴隷>の階層分化は当然の帰結なのかもしれない。縄文を知るということは即ち、自らのDNAに組み込まれた文化的遺伝子との出合いなのだ。戦争がなかった縄文時代は、現憲法の精神の魁といっていい。

 縄文の土器や土偶の最大の謎は、卓越した技術に裏打ちされているのに、写実が避けられていることだ。犬や猪のリアルな土偶は残されているが、人間についてはデフォルメされている。自由と禁忌の危ういアンビバレンツというべきか、<写実すれば魂を奪う>という発想が敷衍していたようだ。土偶には〝寿命〟があったらしく、時が経てば解体され廃棄される。アート生命体と認識されていたのかもしれない。

 縄文学に入門したばかりなのに、「俺は縄文人」とほざいているから単純だ。少しずつ知識をため、遺構を訪ねたりして、思いつきを確信に変えていきたい。泉鏡花、川端康成、石川淳、辻原登、池澤夏樹、島田雅彦ら、〝縄文的〟を作品にちりばめている作家も多い。文化的遺伝子を引き継いでいるのだろう。
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福永武彦との35年ぶりの再会~「加田伶太郞作品集」を堪能する

2018-07-17 23:25:34 | 読書
 集中豪雨の後は炎暑……。被災地の夥しい傷痕が明らかになってきた。俺に出来ることは、募金ぐらいしかない。クーラーが効いた部屋で<今回の災害を機に、社会の仕組みを変えよう>なんて主張しても、耳を貸す人などいない。

 元日本代表監督でFC今治オーナーの岡田武史氏が、選手やスタッフを引き連れボランティアに加わっている。同氏は東日本大震災時も、物資を積んで何度も被災地を訪れた。杭州緑城監督時、当地で反日デモが吹き荒れていたが、中国人、韓国人選手と信頼関係を築く。サポーターたちも「日本人は嫌いだが、岡田さんだけは別」と敬意を表していた。

 岡田氏は一時帰国した際、講演で<民主主義が崩壊しようとしています。大きな声を出す人、過激なことを言う人が、人気を集めています。日本はポピュリズム、衆愚政治に堕ちてきているのかもしれない>と警鐘を鳴らしていた。氏の言動を支えているのは<多様性>の尊重である。

 フランス優勝で幕を閉じたワールドカップ決勝以上に心を奪われたのが、NHK杯将棋トーナメントだ。藤井聡大七段を大逆転で破ったのが、介護士から41歳でプロ棋士になった今泉健司四段である。将棋をスポーツのように観戦している俺にとって、二転三転の激闘は間違いなく今年のベストバウトだ。今泉については、機会を改めて記したい。
 
 ようやく、本題……。「加田伶太郞作品集」(小学館P+Dブックス)を読了した。加田伶太郞とは池澤夏樹の父、福永武彦が1956年から62年にかけて探偵小説を書いた際のペンネームだ。同書には船田学名義のSF「地球を遠く離れて」も収録されている。

 夏目漱石の「こころ」で文学の扉を開けた俺は、10代後半から20代前半にかけて福永武彦にどっぷり漬かった。とりわけ「草の花」には感銘を受けたが、20代半ばに福永から離れ、今や息子である池澤の作品を読み漁っている。人間の感性は年を経ると変わることを再確認したのは、上記の「こころ」だった。50代になって漱石を再読したが、「こころ」に心は全く動かなかった。

 福永と35年ぶりに接したのは未読の「加田伶太郞作品集」である。陰翳の濃い福永ワールドとは一線を画する本作に、ページを繰る手は止まらなかった。10作のうち8作は文化大古典文学科の伊丹英典助教授がホームズ、久木助手がワトソンである。とはいえ、本家と大いに違うのは、伊丹は現場に拘泥しない書斎派で、安楽椅子探偵を気取っている。

 福永の他の作品は、読むほどに体内が湿り気を帯び、濾し取られたような感覚に浸らせてくれたが、本作は珠玉のエンターテインメントだ。純文学の作家による推理小説といえば、坂口安吾の「不連続殺人事件」、奥泉光の「桑潟幸一准教授シリーズ」が思い浮かぶ。臆病で恐妻家、研究者としてイマイチの伊丹を主人公に据えた連作は、クワコーシリーズほどではないが、ユーモアと自嘲を主音にしている。

 昨今の刑事ドラマでは、真相解明に至る突破口は大抵、監視カメラの映像やDNA鑑定だ。説得力はあるが面白味に欠け、辟易している。本作はその点、科学的証拠はせいぜい指紋ぐらいだ。犯罪のあらましを知らされても五里霧中で、警察も迷路を彷徨っている。伊丹が意外な犯人を明かすのは、登場人物の心の裡を読み解く観察力の賜物だ。

 福永は推理小説の愛読者で、ヴァン・ダインをはじめ、俺が10代の頃に親しんだミステリーについて伊丹に語らせている。血なまぐさいシーンは皆無で、福永がテーマにした少年の孤独、絶望、狂おしい思い、嫉妬、葛藤が、犯罪の底に流れている。〝余技〟は〝本業〟との整合性を保っている。

 ペタンティックに過ぎず、平易かつ丁寧な表現で紡がれた作品の中で一作挙げるなら「失踪事件」か。心理分析に加え、社会で起きていたことを重ね合わせている。ツールになるのは地図だ。イマジネーションとデータを融合させた伊丹の推理は見事だった。

 俺が福永を封印しているのは、〝青春の記憶〟が甦ることを恐れているからだが、老い先短い今、自分自身を整理するため代表作「死の島」を再読するつもりだ。かさぶたになっていた傷口がポッカリ開き、血が滲むかもしれないが……。
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「ドローンズ・ワールド・ツアー」~滅びゆくロックの光芒をミューズに見た

2018-07-14 19:28:29 | 音楽
 ビートルズで音楽に目覚めて半世紀、ロックは死に瀕しているというのが偽らざる実感だ。ロッキング・オン誌(電子版)がここ数日、大きく報じたのは、「スコーピオン」収録作のストリーミング再生回数が10億回を超えたドレイク、「ビアボングズ&ベントレーズ」収録18曲が全米チャートでベスト100入りしたポスト・マローンである。

 ともにヒップホップにカテゴライズされているアーティストによる前人未到の快挙だ。ポスト・マローンの「ロックスター」のPVは、日本刀による斬り合いで鮮血が迸る衝撃的な内容で、ロッキング・オンは「終わりゆくロックへの鎮魂歌」と評していた。重なったのは1960年代、「終わった」とジャズをこき下ろしたジョン・レノンだ。鋭い言葉は今、ブーメランになってロックの喉元に刺さっている。

 反逆精神を失ってロックは衰退したが、コアなファンが懸命に支えている。トランプ初訪英に合わせ、グリーン・デイの「アメリカン・イディオット」(2004年)を1位にするプロテストキャンペーンが展開中だ。結果は次稿に記したい。  

 グリーン・デイ、パール・ジャム、マニック・ストリート・プリーチャーズらと孤塁を守っているのがミューズだ。「ドローンズ・ワールド・ツアー」はウェンブリースタジアムに9万人弱を集めたライブを収録しており、全世界で7月12日、一日限定で公開された。新宿ピカデリーでは2日間上映され、俺は11日に観賞した。

 昨秋、横浜アリーナでミューズを見た。日本には大掛かりな機材を搬入出来ないが、ウェンブリーではドローンと気球が空を舞い、ステージが360度回転する。光と映像のコラボも完璧な超絶パフォーマンスだった。無限に拡大しながら、音はタイトかつソリッドに研ぎ澄まされている。ミューズが提示する極大と微小のアンビバレンツに、滅びゆくロックの光芒を見た。

 00、01年の日本公演は満員ではなかったが、好きな子のために全てを曝け出す少年のような真摯なパフォーマンスに、〝いずれ世界一になる〟と直感した。まあ、同様の感想を抱いたバンドは幾つもあったから、たまたま〝大穴馬券〟が的中しただけだろう。

 日本ではミュージシャンや俳優が政治的メッセージを発信すると、SNSで袋叩きに遭う。映画「太陽の蓋」で菅直人元首相を演じた三田村邦彦も有形無形の圧力を感じたという。ミューズのライブが醸し出す空気と、集団化、同調圧力によって〝物言えば唇寒し秋の風〟状態の日本とは対照的だ。

 10年のウェンブリーでは、オープニングの「アップライジング(叛乱)」に合わせ、フードを被って棍棒を手にした数十人の若者が、〝権力との対峙〟というべき寸劇を演じていた。このシーンは数カ月後、ロンドン蜂起で現実になる。「アップライジング」の♪彼ら(権力)は我々を制御できない 我々は勝利する……という全共闘並みのアジテーションを、本作でも9万人が唱和していた。

 ミューズはキュアーチルドレンを自任していたが、07年にフジロックで来日した際、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンへのオマージュを語っていた。レイジはチョムスキーやマイケル・ムーアとも交流があり、ロック史上、最も知的かつラディカルなバンドである。レイジにインスパイアされたミューズは「レジスタンスツアー」で倒立した巨大な三角形を会場に掲げた。その意味を問われ、「ヒエラルキーを打ち破りたいから」と答えている。

 公式DVDだけで本作が5枚目、上記の横浜アリーナを含め、バンド側がネットにアップしたライブ映像は数え切れない。現在最高、いや、史上NO・1のライブバンドの評価にも納得出来る。ミューズが雛から怪鳥になる過程には幾つもの物語があった。バンドには軋轢がつきものだが、10代前半で結成し、3人で成長して現在に至るというのも、ロック界には希な〝神話〟だ。

 パンク以降にデビューしたバンドの中で、俺の中のツインピークスはキュアーとレイジだが、両者がミューズの中で交錯する。リリシズムとメロディー、そして骨太のビートと世界観をミューズは併せ持つ。ロックは終わったと言いつつ、進化と深化を続ける彼らの行く末を見守りたい。
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「万引き家族」~物語と現実を繋ぐ三つの目線

2018-07-11 23:39:21 | 映画、ドラマ
 昨日(10日)はDeNA対中日戦を横浜スタジアムで観戦した。ラミレス監督が6回、ウィーランドを続投させた時に覚えた悪い予感が的中する。CS進出は堅いと予想したDeNAだが、負傷者続出で借金4(4位)と苦しんでいる。取っ換え引っ換えで層を厚くした成果が勝負どころで発揮されると信じたい。

 西日本豪雨の被害の甚大さが明らかになってきた。改めて亡くなった方たちの冥福と、被災地の一日も早い復旧を祈りたい。問題になっているのが政府・与党の対応だ。被災地が深刻な状況に置かれていた時間、安倍首相を筆頭にお歴々が集った飲み会の様子(赤坂自民亭)がSNSにアップされ、物議を醸している。

 前々稿で小林節慶大名誉教授の論考を紹介した。小林氏は<議会は多様な国民各層の公平な縮図であるべきだが、貴族化した世襲議員たちの集団が最大多数の最大幸福を追求出来るはずがない>と説いていた。<貴族-庶民>、いや<貴族-奴隷>に分化した日本社会を穿つのが、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「万引き家族」(18年、是枝裕和監督)である。

 俺はここ数年、是枝に失望していた。「海街diary」(15年)を紹介した稿で、<次の次、さらにその次でいいから、骨太の是枝ワールドを期待する。憲法、戦争、差別、官僚機構についてのノンフィクションに共感を覚えてきた俺の、ささやかな願いである>(論旨)と記した。〝ささやかな願い〟を叶えてくれた「万引き家族」の素晴らしさを逆説的に証明するのが、ネット右翼による攻撃だ。

 <格差と貧困、DV、年金不正受給、未就学児童といった日本の〝暗部〟を描いた反日映画>というのがネット右翼の主張だが、自民党サポーターズが胚胎したとされる彼らはよほど恵まれているのか、<暗部=真実>と気付かぬふりをしている。公権力と一線を画す是枝の姿勢も気に入らないようだ。

 公立中学や高校に勤める教師の証言によると、都内における格差は深刻で、貧しさや家庭崩壊の実態に愕然とすることが多いという。貧困率や生活保護受給率は数字に表れているが、「万引き家族」と変わらない狭い部屋に暮らす一家が少なくないはずだ。

 公開1カ月の「万引き家族」だが、先週末もソールドアウトの盛況だった。いずれスクリーンやDVDでご覧になる方の興趣を削がぬよう、社会性にポイントを置いて記したい。様々な台詞やシーンがフラッシュバックし、じわじわ効いてくるというのが、観賞した人たちの共通した感想だ。

 本作では柴田治(リリー・フランキー)、信代(安藤サクラ)、初代(樹木希林)、亜紀(松岡茉優)、祥太(城桧史)、ゆり(佐々木みゆ)の6人からなる疑似家族が登場する。成り立ちや経緯は後半に明らかになるが、シーンごとに6人のスペースが変化している点に、是枝の意図を感じる。

 初代の言葉を借りれば「血が繋がっていないからこそ、わかり合える」……。信代はラスト近くで「捨てられた者を拾い集めてきた家族」と捜査官に語る。世帯主である初代でさえ捨てられた人間なのだ。是枝はパルムドール受賞後、「同調圧力の強い国で、多様性を訴えていくのは難しい」とインタビューに答えていた。この是枝と、誰より鋭く日本社会を考察している星野智幸を結ぶキーワードは<多様性>である。

 星野は初期の短編「目覚めよと人魚は歌う」と「毒身温泉」で、血縁や法律を超越した疑似家族を、アイデンティティーの浸潤として描いた。義務も強制も忍耐も不要が疑似家族の理想だが、「万引き家族」には先立つものがないから、治は家業としての万引きを祥太とゆりに教える。
 
 治で思い出したのは「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(6月7日の稿)で田中哲司が演じた岩下だ。ともに土木作業員で、仕事中にケガをした治に労災は下りない。信代は時給が高いという理由でリストラされる。DVに喘いでいたゆりに重なるのは、前稿の枕に記した「ウォーターゲーム」で真治に救われる少女すみれだ。温かい疑似家族に、冷徹な外の世界のルールが忍び寄ってくる。

 是枝の真骨頂は、子供の表現力を引き出すことだ。本作でも城桧史と佐々木みゆのナチュラルな演技が肝になっている。「誰も知らない」のラストでは、街を歩く4人の子供の背中がストップモーションになる。彼らが歩く道が、モラルが壊れ、閉塞した社会に繋がっていることを暗示していた。

 疑似家族が暮らしていた部屋を覗き込む亜紀、追ってくる治を振り返る祥太、連れ戻された家のベランダで外を窺うゆり……。本作では三つの目線が見る側に問い掛ける。彼らの心の裡をどう捉えるかは、それぞれの世界観に委ねられている。

 一家揃っての海水浴、音だけで楽しむ隅田川花火など印象的なシーンが多い。柄本明、池松壮亮、高良健吾ら脇役陣のキャスティングも充実している。〝骨太な映像作家〟是枝の復活を本作で確認出来た。あとは、園子温である。
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拠って立つ意味を問う「ウォーターゲーム」&パレスチナ

2018-07-08 20:48:52 | 社会、政治
 空前の集中豪雨が全国を襲った。亡くなられた方の冥福を祈るとともに、被災地の一日も早い復旧を祈りたい。嘉田由紀子前滋賀県知事は「水害には人災の要素もある」と指摘し、「ハザードマップ」を基にした不動産取引に消極的な自治体を批判していた。近隣府県と比べて今回、滋賀県での被害が小さかったように思えるのは、行政の成果だろうか。

 麻原彰晃オウム真理教元代表ら7人の死刑が6日、執行された。現政権に批判的なリベラルや左派の大半も死刑肯定だから、肩身の狭い思いをしてきた。ワンクッション置き、死刑についてまとめて記したい。

 オランダの代わりに応援しているベルギーがベスト4に進出した。フランスとの準決勝が楽しみである。オランダはベルギーが重視するカウンターを戦術に組み込んでこなかったようながする。〝美しく勝ち、負ける〟クライフの〝遺産〟ゆえなのか。

 吉田修一の最新作「ウォーターゲーム」(18年、幻冬舎)をメインに据えるつもりだったが、枕に変更した。スピードとスケールを併せ持つエンターテインメントゆえ俺の御託など不要だし、本作を含め「太陽は動かない」(12年)、「森は知っている」(15年)の鷹野三部作の映画化が決定しているから、興趣を削ぎたくない。

 <敵か味方か、嘘か真実か、善か悪か。金の匂いに敏感な男女が、裏切りあい、騙しあいながら、〝今〟を駆け抜ける>……。帯にあるキャッチ通り、「水道民営化」を巡る息詰まる諜報戦が展開するが、次第に空気が変化していく。ラストではグローバル企業や政府に「ノー」を突き付け、収奪される側に寄り添うことを高らかに謳っていた。

 拠って立つとは何か……。「ウォーターゲーム」の読後感に共通するイベントに参加した。志葉玲氏による「パレスチナ・イスラエル取材報告会」(高円寺グレイン)である。志葉氏はパレスチナ、フクシマ、沖縄、戦争法等をテーマに活動するジャーナリストだ。2014年のガザ空爆の際にも現地入りしている。

 志葉氏はパレスチナとイスラエルを巡る歴史を詳らかにする。メディアに洗脳され、両者の暴力の応酬を「どっちもどっち」と感じている人たちは、朝鮮半島に侵略した日本軍と、三・一運動など民族解放運動を同列に扱う歴史修正主義者と変わらない。アメリカの絶大な力を背景に、イスラエルは安保理決議242(1967年)を無効化してヨルダン西岸に暴力的な入植者を送り込み、ガザでは国際法違反に当たる「集団懲罰」を繰り返してきた。

 トランプ大統領は「国連加盟国はエルサレムに大使館等を設置してはならない」と定めた安保理決議478(80年)を破った。トランプの娘イバンカが米国大使館移転セレモニーで笑みを振りまいた当日、イスラエル軍はパレスチナ人の抗議デモに発砲し、たった一日で58人が死亡、3000人近くが負傷した。

 写真や映像は言葉で表せない説得力を持つ。志葉氏は真横を銃弾が飛び交う状況でシャッターを押し続け、医療関係者に照準を定めるイスラエル軍兵士の姿を捉えていた。イスラエル軍は「足を狙っているから非人道的ではない」と釈明しているが、「バタフライ・バレット」は国際法で使用を禁止されている銃弾で、催涙弾は一種の化学兵器だ。100㍍先のフェンスに向けて投石するパレスチナ人を〝暴力的〟と論じるメディアは、意識的に判断停止に陥っている。

 志葉氏が最後に語ったのは日本の対応だ。武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)が前面に立って抗議しているが、日本政府はイスラエルと武器技術、東京五輪に向けたセキュリティー関連で連携を深めている。パレスチナ人弾圧で得た成果を共有しようとしているのだ。鮮明になってきた<アメリカ=イスラエル>の悪の枢軸に日本も今、加わろうとしている。

 書き切れなかった点は、月末に改めて記すつもりだ。第31回ソシアルシネマクラブすぎなみでは、出生時に取り違えられたパレスチナ人とイスラエル人の赤ん坊のその後を描いたドキュメンタリー「もうひとりの息子」が上映される。セットになっているのは3・11後、福島県飯館村を拠点に映画を撮った古居みずえさんの「パレスチナ報告会」だ。

 古居さんは<拠って立つ>を体現し、パレスチナとフクシマの絆を象徴するジャーナリストだ。志葉氏は今回のような趣旨の集まりの参加者が激減していることを憂えていた。当ブログを更新することで、旗幟鮮明を嗤う流れを食い止める一助になりたい。


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想田和弘、良彰&節の両小林教授、供託金違憲訴訟~<多様性>をキーワードに選挙を考えた

2018-07-04 13:35:54 | 社会、政治
 W杯で日本の準々決勝進出はならなかった。俺が感じたのは<多様性>の差で、ベルギーチームは複数のDNAを融合させていた。サッカーから永田町に視線を移すと反吐が出そうになる。今回は<多様性>をキーワードに選挙について記したい。

 まずは日本映画専門chで見た「選挙」(2007年)と「選挙2」(13年、ともに想田和弘監督)の感想から。想田が〝観察〟したのは、どこか憎めないドンキホーテ的キャラの山内和彦である。山内は05年、公募で選ばれ自民党から川崎市議選補選に立候補する。郵政選挙直後だから、「改革」を唱えるだけで当選する。

 1年半の任期を終えた山内は政治から離れたが、反原発を訴えて11年、無所属で立った。原発を認めてきた自身への怒りが立候補への理由である。ガイガーカウンターを携帯して選挙区(宮前区)を回っていたが、街頭で演説したのは最終日だけでは惨敗も当然だった。

 想田は組織選挙の滑稽さと選挙制度の不毛さを炙り出す。根底にあるのは<多様性>の排除だ。グリーンズジャパンの一員としてこの4年、各選挙をサポートしてきたが、候補者と有権者の間に壁が聳えている。公職選挙法と条例で、候補者の政策が伝わらないようがんじがらめに規定されている。

 小林良彰慶大教授は「津田大介 日本にプラス」で、「死に票が多くなる小選挙区制廃止こそ改革への第一歩」と力説していた。昨年の総選挙で自民党は48%の得票率で75%の議席を得た。小選挙区制は明らかに民意を反映していないが、小林教授の試案は、国民の政治参加を促す意味でも刺激的だった。

 <多様性>を体現するEU各国の中で、小林教授はイタリアを例に挙げた。連立相手を選挙前に公表し、有権者はいずれかのセットに投票する。<決められる政治>を是とする日本の風潮とは対極だ。小林教授は<一つの党が得票以上に議席を得ることにより、国会議員が議論しなくなる>と現状に即して警鐘を鳴らしていた。

 戦争法反対運動の功労者といえる小林節慶大名誉教授は、仕事先の夕刊紙に連載している。俺自身、国会前で飛び交う貧困な言葉に辟易していたが、小林氏は自身の主張に殉じて参院選に立候補する。自称リベラルやメディアは、<状況を把握していない利敵行為>と断じ、「国民怒りの声」は惨敗した。小林氏が先月寄稿した一文の論旨を以下に記す。

 国会議員の職務は矛盾し対立する国民の利害を調整することであり、選挙システムは公平であるべきだ。だから、世襲議員は法の下の平等に反することは明白と小林教授は明言する。一方で、莫大な費用が必要な選挙制度の下、落選した場合の経済的損失を勘案すると、志があっても立候補することは難しい。

 小林氏も<多様性>の尊重を説いていた。議会は多様な国民各層の公平な縮図であるべきだが、貴族化した世襲議員たちの集団(自民党)が最大多数の最大幸福を追求出来るはずがない。〝選良〟が歪な形でのさばる現状は憲法違反なのだ。切り口は異なるが、小林氏も供託金問題の本質を突いている。

 東京地裁で傍聴した供託金違憲訴訟裁判(宇都宮健児原告弁護団長)は、<ミニ政党と泡沫候補が選挙を混乱させかねない>という理由で高額の供託金を肯定する被告(国)側の主張をいかに突き崩すかがテーマだ。弁護団は一貫して、先進国(OECD加盟国)の実情――22国で供託金ゼロ、残りも韓国を除き10万円以下――を提示してきたが、政府には世界標準に倣うという志向がない。

 宇都宮氏は先日、スウェーデンで選挙の仕組みをチェックした。投票率は80%で、10代の政治への関心も高い。中学や高校に政党関係者が赴き、生徒と意見を闘わせて〝政治的成熟〟を促す。18歳で被選挙権もあり、既に10代議員が誕生している。政治に限らず、空気を読むことを強制する同調圧力が蔓延する日本とは対照的で、宇都宮氏は<供託金違憲訴訟は民主主義に向けた現代の自由民権運動>と強調していた。

 弁護士会館で開かれた報告会では「公正・平等な選挙改革に取り組むプロジェクト」(とりプロ)からのアピールがあった。国会内で開かれたとりプロ主催の集会には、自民党の議員や秘書も参加した。与党議員が参加する議連発足に向けロビーイングを進めている。

 選挙制度まで掘り下げて安倍政権を批判するメディアは少ない。永田町の蠢きに目を奪われ、背景にある本質を見失っているからだ。日本に自由、民主主義、多様性が根付き、閉塞感を払拭する第一歩は選挙制度の改革だと確信している。
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