ハートネットTV「遺族の葛藤~娘を殺した男の葛藤~」(NHK)を見た。7年前、3歳の娘を殺された清水夫妻を追ったドキュメンタリーである。逮捕された男は当時20歳。弁護士の元に、無期懲役囚から手紙が届く。犯罪被害者の家族として講演を続けている清水さんに変化の兆しが現れた。
中学校の講堂に集まった生徒たちに、「周りに独りぼっちの子がいれば勇気を持って話し掛けてください。孤独な人に手を差し伸べる大人になってほしい」と語りかける。疎外されていた加害者をも射程に入れることで、犯罪減少に繋げたい……。これが清水さんの願いだ。
オウム真理教元幹部13人の死刑執行後、松本サリン事件で犯人扱いされ、妻をサリン中毒で亡くした河野義行さんは、インタビューで「刑執行で本当の真実はなくなった。人は間違う。それでも(死刑)制度を維持するのは命の軽視」と語った。河野さんの思いは清水さんに通じている。
映画、著書、講演でオウム真理教をテーマに据え、死刑反対を訴えてきた森達也の「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」(2013年)を読了した。07年にダイヤモンド社のPR誌で掲載が始まり、その後、同社ウェブサイトに転載された記事を加筆修正して発刊に至る。
<正義という共同幻想がもたらす本当の危機>のサブタイトルが、森の日本社会への危機感を端的に示している。森は集団化こそ日本最大の病巣と、「放送禁止歌」(00年)発表時から指摘していた。当時から<忖度>と<同調圧力>を生む社会の仕組みに警鐘を鳴らしている。本書は多岐にわたる問題を俎上に載せているが、今稿は死刑に焦点を絞りたい。
供託金制度とともに死刑制度を、<民主主義度の指標>と記してきた。廃止がEU加盟の条件で、アメリカでも30州近くが執行していない。日本が<民主国家の世界標準>から逸脱している事実は、意識的に隠蔽されている。連続ドラマW「60 誤判対策室」では、スリリングなストーリーの背景に、死刑存置と迅速な刑執行を望む国家の意思が描かれていた。
オウム事件をきっかけに、日本人は厳罰(≒死刑)を望むよう操作されている。森は数字を挙げて、殺人が年々減少し、治安悪化が〝創作〟であることを示す。裁判員制度導入は、被害者家族の心情に寄り添うという〝正義〟を植え付けられた国民から厳罰を引き出したいという国家的な戦略なのだろう。
森は死刑反対を訴えるたび、「被害者の人権はどうなるのか」と罵声を浴びてきた。シンポジウムで<集団化と二項対立(単純化)がメディアによって加速し、肥大する。死刑存置派は偽りの凶悪犯罪増加報道で増殖の一途を辿る>と発言すると、存置派ながら絞首刑の残酷さに異論を唱える土本武司筑波大教授も同意した。意外な土本の反応に、会場は微妙な空気に包まれたという。
厳罰を求める世論は<被害者家族の気持ちを考えろ>一色だ。だが、森は問い返す。<当事者ではないのに、なぜ正義を振りかざせるのか>と……。被害者家族の苦しみに寄り添うことは正しいが、<自分の想像など遺族の悲しみに絶対及ばない>ことを自覚しなければ言葉は空虚になる。
オウムや死刑廃止だけでなく、反原発、尖閣問題などで森は事あるごとに波紋を呼んできた。ネット上、時には路上で「非国民」、「死ね」などと罵倒されるが、森は〝異物〟として覚悟を決めている。自嘲とユーモアで言葉をくるみながら、芯が揺らぐことはない。
本書で最も感銘を覚えたのは、福岡事件の西死刑囚についての稿だ。共犯として逮捕された石井元無期囚は<西君がかわいそうだ。私は確かに人を撃った。処刑されるのなら私のほうだ>と森に何度も訴えた。西が獄中で詠んだ俳句<叫びたし 寒満月の割れるほど>に、西の絶望が織り込まれている。
一昨日(29日)、隅田川花火大会に足を運んだ。光と音のページェントを堪能しながら、あと何年、鑑賞できるだろうと感傷的になる。死刑囚が「人生最後の思い出に花火を見たい」と嘆願しても叶うはずがない。そもそも死刑囚などいないが、欧州なら終身刑の囚人の願いは実現するだろう。深い溜息で空想を打ち切った。
中学校の講堂に集まった生徒たちに、「周りに独りぼっちの子がいれば勇気を持って話し掛けてください。孤独な人に手を差し伸べる大人になってほしい」と語りかける。疎外されていた加害者をも射程に入れることで、犯罪減少に繋げたい……。これが清水さんの願いだ。
オウム真理教元幹部13人の死刑執行後、松本サリン事件で犯人扱いされ、妻をサリン中毒で亡くした河野義行さんは、インタビューで「刑執行で本当の真実はなくなった。人は間違う。それでも(死刑)制度を維持するのは命の軽視」と語った。河野さんの思いは清水さんに通じている。
映画、著書、講演でオウム真理教をテーマに据え、死刑反対を訴えてきた森達也の「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」(2013年)を読了した。07年にダイヤモンド社のPR誌で掲載が始まり、その後、同社ウェブサイトに転載された記事を加筆修正して発刊に至る。
<正義という共同幻想がもたらす本当の危機>のサブタイトルが、森の日本社会への危機感を端的に示している。森は集団化こそ日本最大の病巣と、「放送禁止歌」(00年)発表時から指摘していた。当時から<忖度>と<同調圧力>を生む社会の仕組みに警鐘を鳴らしている。本書は多岐にわたる問題を俎上に載せているが、今稿は死刑に焦点を絞りたい。
供託金制度とともに死刑制度を、<民主主義度の指標>と記してきた。廃止がEU加盟の条件で、アメリカでも30州近くが執行していない。日本が<民主国家の世界標準>から逸脱している事実は、意識的に隠蔽されている。連続ドラマW「60 誤判対策室」では、スリリングなストーリーの背景に、死刑存置と迅速な刑執行を望む国家の意思が描かれていた。
オウム事件をきっかけに、日本人は厳罰(≒死刑)を望むよう操作されている。森は数字を挙げて、殺人が年々減少し、治安悪化が〝創作〟であることを示す。裁判員制度導入は、被害者家族の心情に寄り添うという〝正義〟を植え付けられた国民から厳罰を引き出したいという国家的な戦略なのだろう。
森は死刑反対を訴えるたび、「被害者の人権はどうなるのか」と罵声を浴びてきた。シンポジウムで<集団化と二項対立(単純化)がメディアによって加速し、肥大する。死刑存置派は偽りの凶悪犯罪増加報道で増殖の一途を辿る>と発言すると、存置派ながら絞首刑の残酷さに異論を唱える土本武司筑波大教授も同意した。意外な土本の反応に、会場は微妙な空気に包まれたという。
厳罰を求める世論は<被害者家族の気持ちを考えろ>一色だ。だが、森は問い返す。<当事者ではないのに、なぜ正義を振りかざせるのか>と……。被害者家族の苦しみに寄り添うことは正しいが、<自分の想像など遺族の悲しみに絶対及ばない>ことを自覚しなければ言葉は空虚になる。
オウムや死刑廃止だけでなく、反原発、尖閣問題などで森は事あるごとに波紋を呼んできた。ネット上、時には路上で「非国民」、「死ね」などと罵倒されるが、森は〝異物〟として覚悟を決めている。自嘲とユーモアで言葉をくるみながら、芯が揺らぐことはない。
本書で最も感銘を覚えたのは、福岡事件の西死刑囚についての稿だ。共犯として逮捕された石井元無期囚は<西君がかわいそうだ。私は確かに人を撃った。処刑されるのなら私のほうだ>と森に何度も訴えた。西が獄中で詠んだ俳句<叫びたし 寒満月の割れるほど>に、西の絶望が織り込まれている。
一昨日(29日)、隅田川花火大会に足を運んだ。光と音のページェントを堪能しながら、あと何年、鑑賞できるだろうと感傷的になる。死刑囚が「人生最後の思い出に花火を見たい」と嘆願しても叶うはずがない。そもそも死刑囚などいないが、欧州なら終身刑の囚人の願いは実現するだろう。深い溜息で空想を打ち切った。