酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

パンデミックはわが魂に及ぶ?

2020-02-29 22:34:00 | 社会、政治
 第2回「パワーシフ杉並連続講座」(高円寺グレイン)に足を運んだ。「チェイシング・コーラル 消えゆく珊瑚礁」(2017年、ジェフ・オーロースキー監督)上映、再生可能エネルギーの浸透に取り組む「みんな電力」の長島さん、「FOE」(国際環境NGO)日本支部の吉田さんによるプレゼンテーション、質疑応答と続く。

 長島さん(24歳)は若い世代のライフスタイル(ミニマリズム志向)に言及していた。パワーシフトとは電力会社を選択するアクションだが、電力に限らず、グレタさんが提起した<気候危機を克服するための生き方のチェンジ>に繋がっている。

 「チェイシング・コーラル」は会の趣旨に相応しい作品で、海水温上昇に起因する珊瑚礁の死滅を追っている。動物と植物の機能を併せ持ち、二酸化炭素を吸収し、津波の防波堤の役割を果たす珊瑚礁は生態系の基本といっていい。珊瑚礁の白化現象が気候変動のスタートラインであることを教えられた。

 別稿(2月3日)に記したが、俺が初めてパンデミックという表現に触れたのは11年前のこと。辺見庸はETV特集「しのびよる破局のなかで」で、<金融危機、気候変動、新型インフルエンザ(09年)の蔓延を単層ではないパンデミック>と捉えていた。辺見の慧眼に驚嘆するしかないが、「デモクラシーNOW!」で興味深い記事を見つけた。

 ソニヤ・シャー(科学ジャーナリスト)は、<気候変動が原因で感染症流行が起こりやすくなっている。自然が壊れることで生息地が破壊された野生動物の移動パターンが変化し、ヒトと動物の距離が今までにないほど接近した。これにより、新しい病原体が発生する可能性が高まった>(要旨)と警鐘を鳴らしている。

 自粛の嵐が吹き荒れている。日本だけなら〝行き過ぎている〟と批判的に記したはずだが、海外でも似たような状況だ。昨日のこと、地下鉄車内でマスクなしにゴホッと咳をしたら、冷たい視線の集中砲火を浴びた。俺に否はあるが、パニックは時に人を獣にする。欧州ではマスク姿の東洋系観光客が暴力を振るわれたという。集団化と同調圧力が過剰な日本では、別の形で悪が具現化するかもしれない。

 安倍政権が発表した学校一斉休校を引き金に、スポーツ、文化の自粛の流れが決定的になった。送別会キャンセル続出の飲食店も大変だろう。私ごとだが楽しみにしていた落語会が中止になる。テレワーク奨励、業務縮小、イベント中止で〝板子一枚下の地獄〟に落ちる中小規模の企業や店舗の従業員、非正規や派遣の労働者も少なくない。セーフティーネットが張られていない社会で何が起こっても、〝貴族院〟に棲息する特権階級は気にも留めないだろう。

 アメリカの疾病対策センター(CDC)は<新型コロナウイルスは確実にパンデミックを招来する>と警告した。同国ではここ数年、インフルエンザが猛威を振るっている。仕事先の夕刊紙コラムが<この冬、最低でも2600万人が罹患し、25万人が入院、1万4000人が亡くなった>と報じていた。従来のインフルにコロナが重なれば恐るべき事態に陥るだろう。

 この国でコロナ以上に深刻なのは、汚穢と腐臭まみれの政権だ。森友、加計、桜、レイプ記者免罪、検察人事介入と<国家私物化ウイルス>の蔓延に、政官財、司法、メディアが手を貸している。前稿で紹介した北とぴあの護憲集会で松元ヒロが<辺野古埋め立ての事業者は安倍首相に近い企業>という事実を明かしていた。国家私物化、ここに至れりだ。

 あす朝はサウスカロライナ州での民主党予備選、なぜか開催される東京マラソンと注目イベントが続く。〝ユーチューバー〟折田アマの編入試験突破をはじめ将棋界もニュース満載だが、最大のイベント「奨励会三段リーグ最終日」と併せて記したい。
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「プロジェクト・グーテンベルク」~亜州影帝の復活に心が潤む

2020-02-26 21:56:29 | 映画、ドラマ

 北とぴあで開催された護憲イベント(商社九条の会主催)に足を運んだ。「武器ビジネスが憲法を壊す」(杉原浩司氏)、「松元ヒロ爆笑ライブ」の2部構成である。知人である杉原氏は武器取引反対ネットワーク(NAJAT)代表で、結成当時(2015年12月)の〝輸出〟から〝取引〟に名称が変わっている。この間の経緯を含め武器取引の実態を報告した。

 安倍政権下、武器輸出は全て頓挫したが、防衛装備庁を起点としたイスラエルとの協調路線は維持されている。ガザ無差別空爆を〝成果〟と開き直るイスラエル企業は自衛隊だけでなく、ドローン関連で警察庁との商談を進めている。欧米で盛り上がるBDS(イスラエルボイコット運動)と無縁の日本が、同国の武器・セキュリティー輸出戦略のターゲットになっている。結び目はソフトバンクだ。

 杉原氏の講演と松元のショーはリンクしていた。<武器爆買いなど何でもトランプの言いなりなのに、なぜ憲法だけ〝押し付け〟と言い張るのか>……。これが松元の主張で、日本国憲法制定に大きく関わったベアテ・シロタ・ゴードンへの敬意、ラストの「憲法くん」と、〝自称テレビ禁止物体〟の憲法への熱い思いが溢れていた。笑いが途切れない90分の後、手触りのある余韻が去らなかった。

 新宿武蔵野館で先週末、「プロジェクト・グーテンベルク―贋札王-」(2018年、フェリックス・チョン監督)を見た。チョウ・ユンファがW主演というのが観賞の決め手になる(もうひとりはアーロン・クオック)。1980~90年代、俺の暗い30代は、1歳上のチョウ・ユンファとともにあった。スクリーンとレンタルビデオを合わせ30作近く見ている。

「挽歌シリーズ」など香港ノワールの数々、「風の輝く朝に」、「誰かがあなたを愛している」など青春映画の傑作……。とりわけ記憶に灼き付いているのは「フル・コンタクト」(92年)と「ハードボイルド」(同)で、導入部で惹きつけ中盤以降に再爆発する凄絶なアクション映画だった。

 100㌦札贋造を巡り、物語はワールドワードに展開する。画家と呼ばれる首領(ユンファ)に見いだされた贋作画家レイ(クオック)の人生が交錯する。両手で撃ちまくるユンファに往時がオーバーラップした。ハードルの高いあれこれを考え脳がねじれ気味だった俺は「これだ!」と快哉を叫びそうになった刹那、ストーリーの方がねじれてくる。

 タイトルは文化遺産を一般庶民に公開する世界初の電子図書館(1971年設立)の名にあやかっている。電子図書館が紹介するのは本物だが、本作のコンセプトは<リアルとフェイクの境界>だ。画家が「心を込めれば、偽物は本物に勝る」とレイに語り掛けるシーンが印象的だった。

 レイ、高名な画家ユン・マン(チャン・ジンチュー)、贋札団のシウチン(ジョイス・フォン)が織り成す三角関係、他人になり切る整形がサイドストーリーになっていたが、画家がレイに繰り返し愛の意味を説くシーンに、主観のズレが浮き彫りになる。

 観賞された方は「ユージュアル・サスペクツ」(95年)を重ねるに相違ない。回想シーンの効果的な用い方、ラストの船爆破シーン(「ユージュアル――」では冒頭)など共通点も多かった。俺にとって本作の意味は、〝亜州影帝〟チョウ・ユンファの復活を確認出来たこと。含羞を滲ませたチョウ・ユンファの輝きが褪せていないことを知り、心が潤んだ。

 最後に、贋札について……。母方の祖父は敗戦時、中国で拘束された経理将校トップだった。立場上、七三一部隊や阿片取引など軍事機密や金の流れを知悉していたはずだが沈黙を守る。死の少し前、ポツリと母に「もう少し戦争が続いていたら、贋札を流通させていた」と語ったという。この新事実を〝検証〟するのは無理かもしれない。
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「オルジャスの白い馬」~広大なカザフスタンに立ち昇る蜃気楼

2020-02-22 23:02:47 | 映画、ドラマ

 NYタイムズやBBCなど海外メディアは、日本政府のコロナウイルスへの対応を批判している。ロンドン市長選の有力候補2人は、ロンドンが東京の代替地になる用意があると訴えた。<原発による汚染はコントロール下にある>という安倍首相の大嘘が開催の決め手になった東京五輪がコロナ蔓延で中止になる……。こんなドラスティックな展開もあり得ない話ではない。

 ここ数日、熱発して咳が止まらない。まさかの不安が脳裏をよぎったが、食事、風邪薬、たっぷり睡眠の繰り返しで症状は少し治まった。断続的に見た夢に父が登場する。真夜中、細い一本道を父が運転する車に乗っていた。俺は10代半ば、父は40代半ばで、着いたのは教会だった。

 入ったのは集団告解部屋なのか、ブラザーやシスターが和やかな雰囲気で人々に対応している。父の行方を尋ねると奥を指さされ、「君はここで」と言われた時に目が覚めた。当時の父の状況に思い当たる節がある。DNAを受け継いだ俺も〝罪に至らぬ愚行〟を繰り返してきた。カトリック信者ではないが、教会の門を叩いて告解し、すっきり召されるべきかもしれない。

 米民主党大統領候補の討論会に参加したマイケル・ブルームバーグ元ニューヨーク市長が集中砲火を浴びた。日本円で400億円を優に超える巨額を投じて支持率をアップさせたブルームバーグだが、市長時代の人種差別的施策、女性蔑視を攻撃され、トランプ大統領に「小さなマイケルは大丈夫?」と同情されていた。スーパーチューズデーはいかなる結末を迎えるだろうか。

 新宿シネマカリテで「オルジャスの白い馬」(2019年)を見た。日本とカザフスタン合作で、脚本も担当した竹葉リサとエルラン・ヌルムハンベトフ共同監督は異なった完成形を志向していた。世界観、習慣、映画製作の手法とリズムも異なるスタッフが文化に差を超えたことで、本作は高いレベルに到達する。

 カイラートを演じた森山未來はカザフスタン人で、刑務所帰りという設定だ。カザフ語習得に苦労したことは想像に難くない。演技派として知られるが、俺が森山を見たのは連続ドラマW「煙霞」のみだ。ダブル主演はカンヌで主演女優賞に輝いたアイグリ役のサマル・イェスリャーモアで、揺れる心を巧みに表現していた。語り部の少年オルジャス(マディ・メナイダロフ)の目を通して物語は進行する。普遍的な性への目覚めなども描かれてきた。

 本作が輝いた理由のひとつはキャスティングだ。オルジャス役にマディを選んだことで、物語のフレームは広がった。カイラートとオルジャスは〝馬の駅〟で互いの画才を褒め合う。表情といい、しぐさといい、DNAを共有していることは明らかだ。

 育ての父は馬飼いで、仲間とともに馬とともに市に向かう。商談成立と思いきや、強盗団相手に非業の死を遂げた。直後に登場したカイラートは育ての父と旧知で、乗馬の技術から見て生業は似ているのだろう。アイグリは地域で疫病神扱いされるが、カイラートの帰還で装いは一変する。生活に疲れ果てた中年おばさん風が、燦めきを宿すようになる。

 馬飼い父は市に向かう前、祈りを捧げる。「アーメン」とも「アッラー」ともつかぬ結びの句を聞き漏らしていた。1990年代、独立前後のカザフスタンが舞台だが、育ての父がキリスト教徒だとしたら、その死後、母がイスラム教コミュニティーから追放されるのは当然だ。

 雄大な自然を背景に描かれたヒューマンドラマ……。この謳い文句は的を射ていない。「予告された殺人の記録」(ガルシア・マルケス著)を彷彿させる展開はマジックリアリズムに彩られた宿命的西部劇に映るし、イラン映画に魅せられた監督たちによる寓話ともいえる。森山は本作を日本の神話に重ねていた。

 アルジャスは母だけでなく、2人の父と子猫、そして白い馬と形ある絆を紡いでいた。現実と幻想の境界を合わせ鏡に映すミステリアスなラストシーンの意味は、見る側の想像力に委ねられる。作品の後景にカザフスタンの美しい自然が広がっている。資源大国カザフスタンは今、中国との関係を強め<一帯一路>の核と位置付けられているようだ。
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自虐的ユーモアが炸裂する奧泉光著「黄色い水着の謎」

2020-02-18 22:25:29 | 読書
 板子一枚下は地獄……。この言葉をブログに最初に記したのは13年前だった。俺は当時から<格差と貧困>が日本で最大の問題だと考えていたが、NHKスペシャル「車中の人々 駐車場の片隅で」(15日放送)にその感を強くした。取材班はNPOと協力し、道の駅駐車場に止めた車上で生活する人々の思いに迫っていく。貧困、孤独、老いのリンクは俺とも無縁ではない。

 前稿で友川カズキの日常を追った「どこに出しても恥かしい人」を紹介した。俺のためにあるような言葉だが、〝人〟を〝政治家〟に置き換えたらまず脳裏に浮かぶのが安倍首相だ。<99%>を斬り捨てた〝貴族院〟で嘘をまき散らし、モリカケ、桜、検察人事と政治の私物化で民主主義をぶっ壊す。首相の辞書に、<恥>という文字はないようだ。

 奧泉光著「黄色い水着の謎」(2012年、文春文庫)を読了した。〝桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2〟のサブタイトル通り、11年に発表され小説の続編だ。桑潟幸一こと通称クワコーを最初に主人公に据えた「モーダルな事象」(05年)を合わせれば3作目となる。

 敗戦前夜に焦点を当て、光と闇が交錯する重層的な物語が展開する「モーダルな事象」は、〝遅れてきた戦争文学者〟奧泉の<表芸=純文学>に分類出来るが、〝スタイリッシュシリーズ〟は<裏芸=ユーモア小説>だ。行間から滲み出る自虐的ユーモアに、電車内で何度も噴き出しそうになった。切り口を変えれば、<表芸>、<裏芸>問わず、奧泉の作品はミステリーの要素が濃い。中村文則はアメリカでミステリー作家にカテゴライズされている。奧泉も純文学とミステリーの境界に聳え立つ蜃気楼なのだ。

 〝スタイリッシュシリーズ〟に惹かれるのは、<俺≒クワコー>だから。女性にモテそうもない風貌、セコく小心翼々、見栄っぱり、何かにつけて間の悪さetc……。俺が会話に滲ませる自嘲と自虐を、クワコーはモノローグで表出している。どこに出しても恥かしい点では、俺、安倍首相に引けを取らない。

 「モーダルな事象」でクワコーは東大阪市にある麗華女子短大(通称レータン)の助教授だったが、〝スタイリッシュシリーズ〟では千葉県のたらちね国際大(通称たらちね)準教授だ。<女性は名声や地位を伴わない知性や教養を評価しない>が経験で得た教訓だ。クワコーは大学教員(日本文学)だから、モテてもいいが、顧問を務める文芸部のギャルたちは敬意を一切払わない。

 内面を見透かされ、「クワコー的にはありか」なんて会話が飛び交う。困った時には「ここは、クワコーの出番」と持ち上げられて拒絶出来ない。軽んじられる第一の理由は、クワコーの教養が部員たちに理解されないこと。さらにクワコーは安月給で、池で捕獲したザリガニを、自生するシソと大学からくすねた調味料で味付けし、至福の時を過ごしている。

 本作には「期末テストの怪」とタイトル怍が収録されている。〝家貧しくて孝子顕る〟のことわざ通り、クワコーがピンチに陥ったら、木村部長をリーダーに〝作戦会議〟が開かれる。いつも脱線してクワコーをハラハラさせるが、奧泉は教授を務める近大でギャルたちの会話や生態を学んだのだろう。

 文芸部員はキャラが立っていて、中には村上春樹好きもいた。〝最も偏差値の低い大学の学生でも読める〟という設定に、奧泉の村上への評価が窺える。異彩を放っているのはホームレス女子大生の神野仁美(通称ジンジン)だ。いつも後半に登場し、最低限の情報を明晰な頭脳と観察力で捌き、真相を明かしていく様は、〝安楽椅子探偵〟を彷彿させる。クワコーを小ばかにしているジンジンが笑顔を見せるラストシーンが印象的だった。

 奥泉については「東京自叙伝」(14年)、「ビビビ・ビ・バップ」(16年)、「雪の階」(18年)をブログで紹介してきた。いずれも歴史を洞察し、壮大な構想に支えられた大作だが、<表芸>にも<裏芸>に見られる自虐的な語り口が浸潤している。
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「どこに出しても恥かしい人」~友川カズキの磁力に引き寄せられて

2020-02-15 10:15:52 | 映画、ドラマ
 昨年末、ザ・フーの新作「フー」をタワーレコードに買いにいったら、国内盤が売り切れだった。あるライターの「〝死に水を取る〟つもりで買ったら、素晴らしかった」の評が的を射ていたことを先日購入して実感する。ピート・タウンゼントは74歳、ロジャー・ダルトリーは75歳……。ロックは瞬間最大風速、微分係数が常なのに、結成55年を経ても褪せない底力に驚かされた。

 初期衝動と成熟したソングライティングが隅々に行き渡ったアルバムで、ラストの「サンド」(デモ)など「キッズ・アー・オールライト」のサントラに入っていても違和感はない。幾つもの死を乗り越えたピートとロジャーにとって、バンド名を冠した本作は〝レクイエム〟なのだろう。

 ピートとロジャーより5歳年下の友川カズキを追ったドキュメンタリー「どこへ出しても恥かしい人」(2019年、佐々木育野監督)をケイズシネマで見た。撮影されたのは2010年夏だから、公開まで10年のタイムラグがある。俺を言い当てたようなタイトルが気に入った。

 友川初ライブは15年12月、オルタナミーティングの枠組みだった。阿佐ヶ谷ロフトで12月に開催されるイベントは、俺にとって今や師走の風物詩である。友川は原発再稼働に異議を唱え、安倍政権をぶった斬っているが、本作では政治に言及していない。競輪にのめり込む日常を追っている。

 大穴狙いで大抵負けるが、100万円以上をゲットする姿を捉えている。友川が暮らすアパートは、前々稿で記した鈴木邦男の「みやま荘」と佇まいが似ている。電気や水道を止められることもあるらしい。下流の還暦おじさん(撮影当時60歳)風だが、もちろん友川は鋭い牙を秘めている。

 大島渚や中上健次は友川の個展に足を運び、絶賛している。羽仁五郎や大岡昇平も友川に魅せられていた。阿佐ヶ谷ロフトの客席にも森達也や童話作家、画家、詩人の姿があった。大島は「戦場のメリークリスマス」の主演に友川を据えるつもりだったが、秋田訛りで断念したのは有名なエピソードだ。友川はざっくばらんに大島と酌み交わしていたという。

 友川の磁力は人を選ぶが、俺のような凡人さえ引き寄せられた。友川を基点とした広大な磁場の端っこに俺も棲息している。本作の冒頭、車中で友川とセッションしていたひとりは石塚俊明(頭脳警察のトシ)だ。友川は若い頃、頭脳警察の追っかけだった。

 スターリンのパフォーマンスに圧倒された友川は、亡きミチロウとは相互に楽曲を提供する友人だった。友川はミチロウ作の「思惑の奴隷」を「光るクレヨン」に、ミチロウは友川作の「ワルツ」を「FUKUSHIMA」に収録している。トシは両者と、PANTAはミチロウと頻繁に共演しており、<友川-頭脳警察-ミチロウ>は俺の中で同心円の表現者だ。

 友川はたこ八郎と親友だった。たこといえば40年前、ビートたけしを筆頭に錚々たる芸人が顔を揃えた正月番組の記憶が鮮明に刻まれている。たこは旧ソ連のアンドロポフ書記長を揶揄したギャグをかましたが、出演者はきょとんとして無反応だった。思い出を語る友川に、「たこは凄い」と絶賛していた知人の顔が甦った。

 本作には友川のアナザーサイド、即ち家族が描かれている。息子たちが登場し、友川と競輪に興じる場面も印象的だった。息子たちと一緒に暮らしていないが、友川は父として、いや友として息子たちと触れ合っている。その距離感が不思議でもあり羨ましかった。

 酒と競輪に酔う友川に重なるのが、銃弾が飛び交うベトナムの戦場に何度も赴いた開高健だ。学生の頃、開高の小説を読むたび、部屋を出て夜の街を歩いた。言葉の爆弾に火照った心と体を冷ますためである。鋭敏な開高、そして友川は、他者の心を透明なナイフで抉ってしまう。不可視を見抜くことの恐怖が、友川を酒と競輪に誘い、麻痺することで正気を保っているのではないか。

 5年前、初ライブに備えてベストアルバムで予習し、その後は2010年以降の作品「青いアイスピック」、「復讐バーボン」、「光るクレヨン」を聴き込んだ。いずれ劣らぬ傑作で、友川は還暦を過ぎても表現への熱量を保っている。まさに、老いの理想形だ。年末のライブが今から楽しみだ。
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グリーンズジャパンは緑の波に乗れるのか

2020-02-11 23:30:11 | 社会、政治
 まずは訃報から。野村克也さんが亡くなった。享年84である。監督の仕事はチーム内にケミストリーを起こし、モメンタムを生むことだと考えている。だから頭脳を前面に出す野村さんに違和感を覚えていたが、セルフプロデュース力、既成概念に囚われない発想、サービス精神には感嘆させられた。同郷の野球人の死を心から悼みたい。

 別稿(1月15日)で紹介した「パラサイト 半地下の家族」がパルムドールに続きオスカーを獲得した。英語圏以外では初めてで、保守的とされるアカデミーでは画期的な出来事である。社会性とエンターテインメントを併せ持つ韓国映画の精華といえる作品だが、最も衝撃を受けたポン監督作は人間の深淵に迫った「母なる証明」だ。ぜひご覧になってほしい。

 民主党予備選に地殻変動の兆しが窺える。暫定トップのブティジェッジ前サウスベンド市長はゲイであることを公表し、壇上でパートナーとハグしていた。カミングアウトして初めて公職に就いたのは、ドキュメンタリーやショーン・ペン主演の「ミルク」でその存在を知ったハーヴェイ・ミルクである。

 ミルクは77年、サンフランシスコ市議に当選したが翌年、市庁舎で暗殺される。あれから40年、民主党プログレッシブの躍進がアメリカ人の意識を変え、女性、黒人、貧困層、移民、ムスリム、ネイティブアメリカンが議会に進出している。ブティジェッジもそのひとりだ。

 欧州では緑の党が希望の象徴と見做されている。認知度が低い日本で、第9回グリーンズジャパン(GJ)定期総会が開催された。気候危機、格差と貧困への対応を軸に、グリーンニューディール、脱成長、消費増税等について活発な議論が戦わされる。泥縄を縫って臨んだが、グループディスカッションでの発言に説得力があったとは言い難かった。

 そもそもグリーンニューディールをどう捉えるかが難しい。ポスト資本主義に向けた出発点なのか、あるいは資本主義改良の手段なのか……。俺は前者の立場だ。グリーンニューディールの提唱者で、民主党プログレッシブの代表格でもあるオカシオコルテス下院議員は、選挙戦で<革命>を訴えるバーニー・サンダースを支持している。ちなみに欧州で広がっている〝ニュー〟のないグリーンディールは、後者の意味合いが強い。

 話は逸れるが、一般教書演説の後、トランプ大統領の草稿を破り捨てたペロシ下院議長が耳目を集めた。「華氏119」(マイケル・ムーア監督)で、「18~29歳の若者の51%が社会主義を信じている」と問いかけた青年にあきれ顔を浮かべていたのが、民主党院内総務時代のペロシである。左派のサンダースとウォーレンの健闘、性的マイノリティーのブティジェッジの台頭に困惑した民主党指導部は、ブルームバーグに懸けるだろう。

 閑話休題……。脱成長はGJの基本テーゼで、昨年秋に交流した韓国緑の党の若者も強調していた。〝反〟がマイナスイメージを喚起しかねないと懸念する会員もいる。成長は見込めず、〝見かけの数字〟が上がっても99%に富が行き渡らない以上、脱成長は現状に即していないという声もあった。

 俺は幅を広げて脱成長を理解すべきと考えている。脱成長は当ブログで頻繁に記してきた地産地消、持続可能な社会、ミニマリズム、ローカリゼーション、パワーシフトを内包しているからだ。気候危機マーチのメインスローガン<気候を変えずに自分を変える>も脱成長にマッチしている。社会の構造のみならず、生き方の変革に繋がっているから、世界の支配層はグレダさんを叩くのだ。

 消費税率5%引き下げを掲げるれいわ新選組との協調を求める声もあるが、俺は条件付きで高負担を許容する。条件とは北欧など先進国のように、税金の使い道が公開されることだ。消費税関連の議論は、都知事選や国政選挙の枠組みに大きく関わっている。

 この1年のGJの特筆すべき成果は、<ストップ気候危機! 自治体議員による気候非常事態共同宣言>を呼び掛け、300人以上の議員の賛同を得たことだ。総会に集った会員の皆さんは日常活動で〝世間の空気〟を知っている。同じテーブルの京都の会員から聞けた市長選を巡る経緯が興味深かった。

 6年前に入会した際、「最近の日本の作家は多様性とアイデンティティーの浸潤を志向している。グリーンズジャパンのHPに共通点を覚え、『ここだ』と思った」と動機を話したら、事務方はきょとんとした表情を浮かべていた。〝初心〟は今も変わらない。政治参加をためらう方に、このブログが〝免疫〟になってくれればと考えている。俺みたいな適当な人間でも許容されるのだ。
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「愛国者に気をつけろ!」~鈴木邦男とは無限自由のトリックスター

2020-02-07 13:36:22 | 映画、ドラマ
 第14回「白鳥・三三 両極端の会」(2日、紀伊國屋ホール)に足を運んだ。柳家三三が「天空の城ラピュタ」をモチーフにした「バルサン」を披露し、仲入りを経て三遊亭白鳥の「雨のベルサイユ~猫ちゃん編」へと続く。同じ日本文化でも癒やしをもたらす落語と真逆に、魂を削り合うのが将棋だ。藤井聡太七段のB級2組昇級などニュースは盛りだくさんだが、その都度ブログに記したい。

 日本人とは、日本文化とは、そして愛国とは……。これらの問いの答えを見つけるためのヒントになる映画をポレポレ東中野で見た。鈴木邦男(一水会元最高顧問)にカメラを据えた「愛国者に気をつけろ!」(2019年、中村真夕監督)である。上映後のトークイベントには監督、鈴木と旧知の仲である松元ヒロ、そして体調不良を押して本人が登場する。松元の好アシストもあって、満員の会場は和やかな空気に包まれた。

 俺は鈴木に亡くなった故西部邁を重ねている。両者の立脚点は<一つの理論に則り、縛られることを絶対的に忌避すること>。本作に即していえば<正義・国家・主義に囚われるな>となる。鈴木は<右から左に転向した>と批判されているが、西部は〝左から右への越境者〟だ。全学連で中央執行委員を務めた西部は、60年安保の象徴と謳われながらその後、全国を流浪した唐牛健太郎委員長を最期まで支え続けた。鈴木と西部はともに〝情の人〟なのだ。

 当夜の松元のみならず、リベラルな学者、左派、映画監督らがトークゲストとして名を連ねている。異彩を放つのはオウム関連者で、作品にも登場する。松本麗華(麻原彰晃の三女)は鈴木によって生の意味を見いだし、上祐史浩は鈴木の仲介で村井秀夫刺殺犯と会った。トークイベントで松元の言葉に、鈴木は「あ、そうか」を繰り返す。中村監督によると、それは鈴木の口癖で、他者の言葉を吸収し、反芻する際のツールなのだ。

 三島由紀夫とともに市ケ谷駐屯地で自決した森田必勝は鈴木の後輩だった。経団連を襲撃し、朝日新聞社で自決した野村秋介とも交流が深く、鈴木は当時、東アジア反日武装戦線「狼」へのシンパシーを隠さなかった。この点に、戦前の血盟団を思い出した。1930年前後、右翼の多くが共産党活動家を国の歪みを正す同志と見做していたことは、「天皇と東大」(立花隆著)にも記されている。

 三島が二・二六事件で決起した兵士たちを賊軍と切って捨て、戦争責任を曖昧にした昭和天皇に疑義を抱いていたことは小説「剣」に描かれている。二・二六事件のバックボーンである北一輝は、10代の頃から反天皇制を主張し、大逆事件に連座しても不思議はなかった。両者は〝右翼の鬼っ子〟ともいえるが、鈴木は一貫して天皇と天皇制に尊崇の年を抱いている。

 赤報隊の朝日新聞襲撃には批判的だが、鈴木の人脈に関係者が含まれていることが歯切れの悪い言葉から窺える。公安がガサ入れを繰り返したり、放火されたりしたが、「みやま荘」の大家さんも懐が深いのだろう。〝老いた可愛いハムスター〟と評する雨宮処凜を筆頭に気遣ってくれる女性に囲まれているから、孤独死はあり得ない。羨ましい限りだ。

 <自分の言動によって、ノーマルな人生設計のチャンスを失った人々がいる。闘いの血債を支払った者のその後の人生水準を超える生活を絶対しない>……。この唐牛の思いは、そのまま鈴木に重なる。贖罪の意識、森田と野村に続けなかった悔恨が、鈴木が清貧と独身を貫く理由ではないか。

 鈴木にとって<愛国>とは、負の部分があったにしても愛し続けることだ。従軍慰安婦をテーマに据えた「主戦場」のHPに、「今までの恨みもあって彼らの叫びもすさまじい」とコメントを寄せている。彼らとはかつて親交があった日本会議とその周辺を指す。<愛国>とは、日本人以外の<愛国>を尊重することに繋がる。ヘイトスピーチやレイシズムを憎む鈴木は「のりこえねっと」の共同代表のひとりだ。

 主題歌は「ふざけるんじゃねえよ」(頭脳警察)だ。パレスチナに渡った足立正生夫との交流は本作にも織り込まれている。同曲の作者であるPANTAはパレスチナで日本赤軍を結成した重信房子の詩をベースにした「オリーブの樹の下で」を制作した。鈴木を基点にすれば、無限の線が走り、広大な地図が完成するはずだ。

 鈴木邦男とは何者か……。観賞後の俺の答えは<トリックスター>で、ウィキぺディアには以下のように記されている。<神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者。(中略)善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴>……。鈴木は境界を超える自由なトリックスターなのだ。
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「ポゼッション」~神と悪魔の狭間でアンナは惑う

2020-02-03 21:24:38 | 映画、ドラマ
 NFLは大河ドラマで、スーパーボウルはちりばめられたストーリーの集大成といえる。大量得点、大量失点の魅力あるチーフスが、スーパーボウルを制した。第4Q中盤以降、3TDを奪い逆転勝利というドラマチックな展開である。俺はチーフスというより、〝悲劇の名将〟アンディ・リードHCの戴冠を願っていたから、満足いく結末だった。

 リードHCはショートパスを多用するウエストコースト・オフェンスの信奉者だが、NFLを熱心に見ていた頃、「保守的なリードは大試合に勝てない」と厳しい評価を耳にしたことがある。堅実と効率を重視してきたリード、規格外の天才QBマホームズ……。このアンビバレンツがケミストリーを生んだ。

 俺が初めて<パンデミック>という言葉を知ったのは11年前のこと。ETV特集「しのびよる破局のなかで」で、辺見庸は<金融危機、気候変動、新型インフルエンザ(2009年)の蔓延を単層ではないパンデミック>と捉えていた。〝預言〟は現在の世界にそのまま当てはまる。共同通信記者時代、共産党の機密文書スクープで中国当局から国外退去処分を受けた辺見は、新型肺炎の蔓延をどう捉えているのだろう。

 新宿シネマカリテで先日、「ポゼッション~40周年リマスター版」(1981年、アンジェイ・ズラウスキー監督)を観賞した。カンヌ映画祭でパルムドールにノミネートされるなど話題を集めた本作は、7年のタイムラグを経て88年に日本で公開された。32年ぶりに衝撃の映像と再会した。

 マルク(サム・ニール)は任務(恐らく諜報活動)を離れ、西ベルリンに帰ってきた。妻アンナ(イザベル・アジャーニ)は妙によそよそしい。壊れた夫婦の絆を描くサイコサスペンス、パラレルワールドで進行する不条理劇、そしてスパイアクション……。複層の構造で成立する本作を支えたのはアジャーニだ。憑依、狂気、無垢、アンニュイ、迸る感情を表現し、凍てつく緊張が途切れることはない。男では理解が及ばない〝女の生理〟に思いを馳せた。

 恋敵のハインリッヒ(ハインツ・ベネント)もアンナの全てを知っているわけではない。〝第三の男〟を疑ったマルクが調査を依頼した探偵は、想像を絶するシーンを目撃する。アンナがおぞましい異物と交わっていたのだ。俺は再度、本作を読み解くキーワードを探し始める。答えは<神と悪魔>だ。

 冒頭、ベルリンの壁の前に聳え立つ十字架が大写しになる。時系列は定かではないが、アンナが教会でキリスト像を見上げ、体をまさぐるシーンは、神との性的な繋がりを窺わせる。アンナは地下道で嘔吐する場面では流産が暗示されている。胎児の父はキリスト、それとも異物? マルクは息子ボブの担任教師ヘレン(アジャーニの2役)に惹かれるが、両者を個に潜む善と悪の表象と見做すことも可能だ。

 ポーランドを事実上追放されたズラウフスキーは母国の伝統を継承している。ブログに繰り返し記してきたが、<ポーランド映画には悪魔が登場する>……。「尼僧ヨアンナ」(1961年、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督)は悪魔に憑かれた修道院が舞台で、「地下水道」(56年、アンジェイ・ワイダ監督)には、ポーランドの民主派を見捨てたソ連が悪魔だ。ズラウスキーには「悪魔」(72年)という作品がある。

 廃虚のような西ベルリンで展開するアンナの独り芝居は、実は現実ではなく、心象風景の投影のようにも思える。アンナと交わる異物は、彼女がつくり出した孤独、絶望、欲望のメタファーと捉えることも可能だが、考えれば考えるほど、本作から遠ざかっていく。

 40年前、世界は冷戦のまっただ中だった。「ポゼッション」が映し出す閉塞感は現在、晴れたのだろうか。何かに所有され、支配されているような感覚から逃れられない。何かとはAIに代表される技術かもしれない。
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