酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「消滅世界」~村田沙耶香が突き進む人跡未踏の曠野

2021-01-28 23:19:45 | 読書
 前々稿の冒頭にも記したが、新型コロナは心身に深甚な影響を与えるウイルスだ。肺の細胞表面にあるACE2の突起に付着して血管に入り込み、全身を駆け巡る。疾患は脳にも及び、認知障害、記憶力減退、倦怠感の原因になる。その事実を知ってか知らずか、欧米では規制反対デモが吹き荒れている。オランダでは先日、夜間外出禁止令に抗議する市民が暴徒化し、200人以上が逮捕された。

 翻って、日本はどうか。補償を伴わない規制に塗炭の苦しみを味わっている飲食店関係者、歌舞伎町の住人、リストラされた会社員、〝板子一枚下は地獄〟に怯える非正規労働者が街に繰り出す気配はない。憤懣は徐々に広がり、2009年のように〝沈黙の叛乱〟が起きる予兆を感じている。

 <世界で注目される日本人女性作家>という記事をネットで読んだ。「献灯使」、「JR上野駅公園口」でそれぞれ「全米図書賞」を受賞した多和田葉子と柳美里、発表後25年を経て「密やかな結晶」が「ブッカー国際賞」にノミネートされた小川洋子……。キャリアを誇る3人に加え、村田沙耶香の名前が挙がっていた。ちなみに村田は小川の「琥珀のまたたき」を愛読書に挙げている。

 村田の「消滅世界」(15年、河出文庫)を読了した。作品を紹介するのは芥川賞受賞作「コンビニ人間」(16年)、「地球星人」(18年)に次いで3度目である。「コンビニ人間」を紹介した稿のサブタイトルは<底に潜むカフカ的テーマ>だった。「消滅世界」で提示された<アイデンティティーの追求>は「コンビニ人間」へ、<公認セクシュアリティーへの疑義>は「地球星人」に引き継がれている。

 「消滅世界」を読み進めるうち、刺激的な設定と台詞で脳が痺れているのを覚を覚えた。人工授精が妊娠の唯一の手段で、男は精通、女は初潮を迎えると体内に避妊装置を埋め込まれる。<性欲・恋愛・結婚・出産・家族>の流れは否定されている世界が舞台だ。

 主人公の雨音(あまね)は両親のセックスによって誕生した。夫婦のセックスを〝近親相姦〟と唾棄する世界で、「ヒト同士の愛あるセックス」を説く母に嫌悪感を抱く雨音だが、〝清潔〟なキャラとセックス(自慰)に耽るだけでなく、〝汚い〟ヒトとのセックスにもいそしむ。ヒトの男もキャラとのセックスに夢中で、雨音との交わりを拒むようになる。

 雨音は価値観の近い朔と再婚したが、結婚は欲望と切り離されている。独占欲と嫉妬とは無縁の夫婦は、パートナーが恋人(ヒト)とデートするのを奨励する。私たちの目に異常と映るが、現在とどれほど違うのだろう。自然な恋愛は成立しにくくなり、SNSが交際(結婚)へのメインツールになりつつある。セックスレスと少子化には解消の手立てがない。「消滅世界」に描かれる〝洗脳の連鎖〟は遠くない現実ともいえる。

 恋と欲望に疲れ果てた雨音と朔は、家族が否定された千葉の実験都市「楽園」に移住する。決まった日に人工授精が施され、新しい生命が一斉に生まれるというキャベツ畑さながらの光景だ。全ての大人が男女を問わず「おかあさん」、全ての子供が「子供ちゃん」と呼ばれ、「おかあさん」は公平に愛情を注ぐ。卵子は雨音のものだったが、朔は人工子宮で出産した最初の男性として有名になるが、子供は<私たちの家族>にならない。

 「コンビニ人間」で主人公は<コンビニで初めて世界の部品である>と認識し、仲間とファッションまで似てくる。「消滅世界」では、「子供ちゃん」も「おかあさん」も表情、所作、話し方まで均一化されていく。楽園に同化していく雨音だが、後半に進むにつれ、<正常と狂気>がテーマであるに気付く。雨音は千葉を訪ねた母親に「その世界で一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」と問いかける。

 <母と娘>が物語の芯であることが浮き彫りになる。セックスの方法を忘れた雨音は、自分の中で消えているものに思い当たる。それは母親が説いていた<正常な価値観>だ。折に触れて登場する母親は、雨音にとって対峙する存在であり、自らが正気を保つための救いだったともいえる。「地球星人」のカタストロフィーとは異なるが、「消滅世界」の衝撃のラストにも瞠目させられた。

 世間の価値観に支配されている者にとって「消滅世界」はディストピア小説だが、ユートピア小説と感じる女性もいるはずだ。村田はインタビューで<同時代にも複数の価値観は存在するのに、自分の狭い世界の正義をひたすら信じて、それで誰かを平然と裁くことに対して恐怖を感じる>と語っていた。彼女は闘っている。笑みを浮かべながら……。
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「ジャスト6.5 闘いの証」にイラン映画の新時代を見た

2021-01-24 22:31:38 | 映画、ドラマ
 前稿の枕で「新型コロナ全論文解読 AI×最強頭脳が迫る真実 」について簡潔に記した。コロナ関連で最も影響力を誇る12人の研究者の多くは収束時期について「早ければ年内」、「今年末から来年夏」と答えていた。ワクチンに期待していたが、変異種による強毒化が懸念材料だ。「収束しない」との見解を示した研究者もいる。近日中に東京五輪中止が発表されるのではないか。

 「デモクラシー・ナウ!」のHPでラシダ・タリーブ米下院議員(民主党)は「パレルチナ人の祖母はイスラエル政府にワクチン接種を拒否された」と告発している。ワクチン接種が政治的な意味を持つことも憂慮されている。人種、経済力、政治信条に関係なく接種を進めることが、各国の民主度を測るリトマス紙になるだろう。

 アメリカとイスラエルのテロ枢軸国家から敵視されているイランだが、1980年代以降、最も質の高い作品を世界に送り続け、主要な映画祭を席巻してきた〝映画の聖地〟でもある。徹底した検閲制度に抵抗して投獄された監督も少なくないし、モフマン・マフバルバフ、バフマン・ゴバディらは活動の場を海外に求めた。

 イラン映画が奇跡の煌めきを示し得た理由を、マフバルバフは「ハリウッドの影響を受けなかったから」と分析していたが、芸術性より娯楽性に秀でたイラン映画を新宿ケイズシネマで見た。同国の影を後景に据えた「ジャスト6.5 闘いの証」(2019年、サイード・ルスタイ監督)である。

 社会派を自任するルスタイ監督(撮影当時30歳)が描く格差拡大、貧困層における麻薬の蔓延は衝撃的だった。ホームレスの多くは売人から麻薬を買い、中毒者の数は650万人まで急増した。密売組織の黒幕を追う麻薬撲滅チームを率いるのが、次期署長候補であるサマド(ベイマン・モアディ)とハミド(ホウマン・キアミ)だ。鋭角的なサマド、清濁併せのむハミドと個性は少し違う。

 彼らの標的である元締のナセル(ナヴィッド・モハマドザディー)は経歴を改変し、別人に成りすましている。日本のヤクザとの繋がりも仄めかされていた。テヘランが舞台だがイスラム教のにおいは希薄で、バリナーズ・イザヤドールが演じるナセルの元恋人も戒律には縛られていない。普遍性を持たせて販路を世界に拡大するための戦略なのだろう。

 ホームレス一家が暮らす横積みされたパイル(建築工事用杭)、劣悪な監獄とは対照的に、林立する高層ビル、数珠繋ぎのハイウエー、ナセルが暮らす豪華なコンドミニアムと、街の光景は欧米と変わらない。浮き彫りになるイランの光と影のコントラストの狭間を物語は疾走する。ナセルのしたたかさに警察は窮地に陥った。

 麻薬によって壊れた父子関係も描かれていたが、底に流れているテーマは家族だった。サミドとハマド、そしてナセルにとって家族は重要なポイントを占めている。ハマドの原動力は密売組織に息子を誘拐され殺されたことで、サミドは妻子との関係を修復するためある選択をする。

 絶対悪で悪魔的なナセルだが、ラストに近づくにつれ別の貌が見えてくる。ナセルは人間の二面性を表象する存在なのだ。自身がコントロールする取引で無数の家庭と人々を壊すナセルだが、家族への情愛はこまやかだ。それをエゴと言い切れない微妙な表情に説得力を覚えた。イランにおける死刑執行、エンドマーク直前の謎めいたシーンに余韻は去らなかった。

 ナセル役のモハマドザディーは、「ルスタイ監督とは黒澤と三船、スコセッシとデニーロのような絆をつくりたい」とインタビューで語っていた。両者が手を携え、イラン映画の新時代を切り開いていくことを願っている。
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「砂漠が街に入りこんだ日」に滲む越境者の孤独

2021-01-20 21:40:26 | 読書
 「新型コロナ全論文解読 AI×最強頭脳が迫る真実 」(NHK・BS1)を見た。AIがコロナ関連の20万本の論文を分析し、ピックアップした影響力の強い12人の研究者が、ポイントごとに見解を示すという内容である。印象に残った点を以下に記したい。

 欧米と比べ、アジアではなぜ感染が広がらず、重症化が抑えられているのか……。AIが理由に挙げているのが<ネアンデルタール人の遺伝子>である。この結論に世界トップクラスの研究者も「椅子から転げ落ちそうになるほどの衝撃を受けた」と語っていた。人類史には未解明の謎に満ちている。
 
 交差免疫、加湿、特定の紫外線、オゾンと感染抑制のキーワードが示されていたが、新型コロナの恐ろしさを思い知らされた。コロナウイルスは肺の細胞表面にあるACE2の突起に付着して血管に入り込み、全身を駆け巡る。疾患は脳にも及び、記憶力を減退させ、感情の動きを鈍化させる<脳の霧>状態をもたらすのだ。コロナは年齢、性別を問わず、認知障害、倦怠感の原因になるという。

 八つの掌編から成る短編集「砂漠が街に入りこんだ日」(リトルモア)を読了した。2014年、26歳で韓国から渡仏したグカ・ハンのデビュー作で、<フランス各誌が驚愕! 「大事件」とまで評された>の帯が衝撃を物語っている。渡仏してフランス語を初歩から学んだ作者がわずか6年で〝奇跡〟を成し遂げた。

 越境者の小説といえば、別稿(20年7月9日)で「よそ者たちの愛」(テレツィア・モーラ著)を紹介した。壁崩壊後、ハンガリーからドイツに移住した作者自身の人生に裏打ちされた作品である。最も著名な越境作家は多和田葉子で、グカ・ハンもあとがきでオマージュを表していた。

 映画しか見ていないが、「82年生まれ、キム・ジヨン」の作者はグカ・ハンの5歳上だから同世代といっていい。自立しようとする女性にとって、韓国は生きづらい社会? いや、日本も変わらないだろう。それでは、フランスは? ♯1「ルオエス」が本作の複層性を象徴している。「まもなくルオエスです」……。私はこのアナウンスでバスを降りる。ルオエス「LUOES」は「SEOUL」(ソウル)の逆さ読みであることが、本作の普遍性を示している。

 「ルオエス」と対をなしているのが♯7「一度」で、目的地に着いた時、私は自分の荷物の軽さに衝撃を覚え、砂漠のほかに何も見えない幽霊都市に降り立ったように感じた。そこがソウルであれパリであれ、街角に滲む孤独、疎外、諦念に主人公は同化していく。最終章の♯8「放火犯」もメトロのシーンで「ルオエス」と繋がっており、読了した時、出口のない円環に閉じ込められたかのような切迫感を覚えた。

 淡々とした筆致に導かれ、現実と幻想、過去と現在が交錯するシュールな闇に迷い込んでいく。「ルオエス」では砂、♯2「雪」では手のひらで消える雪のかけら、♯3「真珠」では糸が切れた真珠が物語のメタファーになっており、それぞれ喪失感、死、孤独を表象している。リアルと空想、過去と現在が交錯する各章は、俯瞰すれば暗く深い海の如くだ。

 ♯5「真夏日」の底に流れているのは、恐らくセクシュアリティーの問題だ。♯6「家出」の背景には家庭における疎外が広がっている。中村文則の小説には家族、とりわけ父との疎隔感がたびたび表れ、顛倒させることで、主人公を孤児と設定したり、父の延長線にある〝絶対者〟が頻繁に登場したりする。作品と作者の来し方を重ねることは避けるべきかもしれないが、グカ・ハンはフランス語で書くことで、韓国、そして何より家族からの解放を志向したのではないだろうか。

 最も記憶に残るのは♯「聴覚」だ。幼い頃から母の立てるテレビやラジオの騒音に苦しんできた私は、家でも学校でもCDプレーヤーを手放せなくなる。登校拒否児なった私を、母は一切構わない。聴覚を失った私は、<ずっと根源的な音楽。それは私の内側から生じる音楽で、私の身体から分泌しているもの>に向き合うようになる。私はやがて越境者になり、真っ白な世界で一動物として過ごすことに安穏を覚える。母との和解に思いを馳せるラストに救いを感じた。

 自国語ではない言葉で、カフカに通じる世界を創り上げたグカ・ハンの才能に圧倒された。韓国人作家が自国語で書けばどうなるか……。そんな考えが頭をよぎり、積読本から李承雨の「生の裏面」を取り出した。来月中には感想を記すつもりだ。
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「バクラウ 地図から消された村」~芯のあるカオスの衝撃

2021-01-16 23:12:32 | 映画、ドラマ
 世界で今、最も必要な感情は怒りだ。沈黙していれば、権力に思いのままコントロールされてしまう。キューバをテロ支援国家に再指定したトランプ大統領に憤りを覚えた。支援者を煽って議事堂に突入させた光景は、アメリカこそ世界最強のテロ国家であることを証明した。アメリカは環境テロを継続し、世界の崩壊を主導している。

 菅首相が仄めかした国民皆保険見直しは、弱者へのテロといっていい。内外でコロナ蔓延を抑えられなかった理由のひとつが、数年来の医療機関への予算削減だ。俺が通う接骨院も行政の締め付けに苦しんでいる。メンテナンスの一環として膝、肩、腰を保険適用で施療することは難しくなってきた。十数年前、〝高齢者の社交場〟だった接骨院は様子が一変した。

 シアター・イメージフォーラムで先日、ブラジル映画「バクラウ 地図から消された村」(2019年、クレベール・メンドンサ・フィリオ監督)を見た。舞台は同国の辺境の村である。カンヌで「パラサイト 半地下の家族」とパルムドールを争い審査員賞を受賞するなど、世界の映画祭で数多くの栄誉に浴した。

 <見事なまでに狂ってる――これは血と暴力に彩られた現代の寓話>……。HPトップに躍るキャッチコピーが本作の本質をある程度、言い当てている。観賞する前、伝説のカルト映画「ウィッカーマン」(1973年)と重ねていた。同作のサントラはブリティッシュトラッドだったが、「バクラウ」のオープニングは地球を俯瞰するカメラが地上に降り立ち、物語が始まるという仕掛けになっている。〝ブラジリアントラッド〟が流れ、作品内で吟遊詩人がギターを弾き語りする。

 テレサ(バルバラ・コーレン)は長老カルメリータの葬儀のために村に戻る。カルメリータはシャーマンで村人の信望を集めていた。葬儀の場でカルメリータを罵ったのが老医師ドミンガス(ソニヤ・ブラガ)だ。それぞれが因習と理性を体現している2人の女性は、〝同志〟というべき絆で結ばれていた。

 村人たちが怪しげな丸薬を次々に口に含むなど、祝祭的、呪術的、異教的なムードに包まれていたが、フォルクローレから電子音楽、ロック、ジョン・カーペンター映画の楽曲とサントラに整合性がなくなるのと同時に、ストーリーも雑食性カオスに転じる。トニー市長が選挙運動で来村したあたりから空気が変わった。

 トニーがコモンであるべき水を独占したことで、村民は上流域で水を汲んでいる。村民たちに怨嗟の声を投げ掛けられるのは当然だ。運搬用トラックが銃撃され、穴から水が流れ出す。公共資源を奪う資本家と収奪される民衆……。新自由主義、グローバリズムの構図が浮き彫りになり、次第に社会性を帯びてくる。

 トラック銃撃に端を発し、奇妙な出来事が連続して起こる。サブタイトル〝地図から消された村〟の通り、テレサの帰村後、インターネットの地図上でバクラウは消え、携帯は通じなくなる。バイクに乗った男女が現れ、村外れの農場で血まみれの死体が発見される。空にはドローンが舞っていた。

 後半になって、マイケル(ウド・キア)をリーダーとするシリアルキラー集団の存在が明らかになる。現職警官や公務員、上記のライダー2人組も構成員だった。黒幕は最後に明らかになるが、彼らの目的はバクラウ抹殺で、子供まで殺された。アカシオ(トマス・アキーナ)は緊急事態にルンガ(シルベロ・ベレイロ)を呼び戻す。

 資料館に貼ってあるポスターに、バクラウが歴史的に反体制活動の拠点であったことが窺える。ルンガは伝統を受け継ぐ現在の闘士だ。「地獄でなぜ悪い」(園子温)を彷彿させる血塗れスプラッタ、「七人の侍」(黒澤明)を想起させる痛快な西部劇になる。ドミンガスの活躍、カルメリータの亡霊が締めくくる結末に爽快さを味わった。

 アマゾン流域での自然破壊、「シティ・オブ・ゴッド」に滲む凄惨な暴力、「トラッシュ」と「ヴィック・ムニーズ/ごみアートの奇跡」の背景にある格差と貧困、そして独裁的な政権……。雑食性カオスと評したが、明確な芯があり、噛み応えのある作品だった。
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「AWAKE」~苛烈な闘いの先に柔らかな結末

2021-01-12 22:28:06 | 映画、ドラマ
 トランプが残した傷痕はあまりに深いが、俺は〝正常化〟への痛みであってほしいと願っている。トランプを支持した共和党ウルトラ右派、共和党穏健派と民主党主流派、民主党を見限ったサンダース支持のプログレッシヴ……。思想信条で結集する3つのグループが政権の座を競うというのが理想的ではないか。そもそも現在の2大政党制なんて虚妄なのだ。

 政治の世界では希な〝正しい闘い〟が当たり前に行われているのがスポーツと将棋だ。ここ数年、パワフルで奔放なプレースタイルに魅せられてきた天理大ラグビーが、遂に頂点に立った。昨年の準決勝は今回のスコアを逆にした以上の完敗だったが、技術を超えた情熱とエネルギーがチームに溢れていた。

 盤上の闘いをテーマに据えた「AWAKE」(2020年、山田篤宏監督)を先週末、新宿武蔵野館で見た。前稿で紹介した小説「死神の棋譜」は元奨励会員の北沢と天谷を軸に物語は進行したが、「AWAKE」の冒頭には身を賭した奨励会員の苛烈な対局が描かれている。

 前稿でも記したが、将棋にとって敗北は〝死〟と同義だ。本作の主人公、清田英一(吉沢亮)は浅川陸(若葉竜也)との才能の差に打ちひしがれ、奨励会を退会する。明暗はくっきり分かれたが、奨励会幹事の山崎(川島潤哉)は2人の才能を認めていた。

 夢を絶たれながら再チャレンジでプロになった瀬川晶司六段の自伝を映画化した「泣き虫しょったんの奇跡」では松田龍平演じる瀬川が退会直後、渋谷のスクランブル交差点で底なし沼に足を取られ、沈んでいくような錯覚に囚われ蹲るシーンが印象的だった。青春を犠牲にして将棋に懸けてきた若者は、プロ入りの目標が潰えるとマイナスからのスタートになる。「泣き虫――」では、奨励会員が喪服を纏って入水自殺したエピソードが紹介されていた。

 挫折した英一にとって、新しい夢を見つけられたことは救いだった。大学生になった英一は、陸との最後の対局で指した初手「6八金」と〝再会〟する。父(中村まこと)が興じていた将棋ソフトに現れた奇手だった。ソフトの奔放さに興味を抱いた英一は「人工知能研究会」の扉を叩く。変わり者の磯野(落合モトキ)、将棋以外のことは無知で他者との距離感が掴めない英一は、将棋ソフト制作に心血を注ぐ。

 「AWAKE(覚醒)」と英一が名付けたソフトは当初、大学の将棋部員に勝てなかった。<ブラックボックス化したディープラーニング>で過去の棋譜を読み込むなどして改良を重ね、コンピューター将棋大会で優勝する。プロ棋士との対局「電王戦」に挑むことになるが、相手はプロ入り直後に新人王を獲得し、タイトル挑戦も果たした隆だった。

 最もAIを理解している棋士は、右脳と左脳をフル稼働させ、「人工知能の核心」の著書がある羽生善治九段だ。繰り返し言及しているのが、AIが持たない<美意識>である。かつて羽生世代は〝実利を重視する新人類〟とベテラン棋士に揶揄されたが、羽生は「優れた手でも、美意識に欠けると感じたら指せない」と記している。

 電王戦直前、AWAKEの決定的なバグが判明する。後手「2八角」に対応出来ないことだった。英一は主催者に修正を申請するが却下され、対局が始まる。ネタバレになるが、陸は上記の羽生の言葉に反していた。英一、そして山崎は、将棋界の期待を一身に背負った陸の重圧を理解していた。

 トップ棋士がAIに負ければ、棋界の地位は低下する……。ファンは当初、そんな風に考えていた。「AWAKE」でも電王戦直前、「AIによって私たちは失業するかもしれない」とベテラン棋士が危機感を表明していたが、佐藤天彦名人(当時)が17年、最強ソフトのPONANZAに敗れた後、将棋界はAIと蜜月状態になる。

 アベマTVや囲碁将棋チャンネルのタイトル戦中継でも画面上部にAIの形勢判断が表示され、解説者も「これほど差があるとは思えませんが」などと言及する。最大の功労者は藤井聡太2冠で、〝AI超え〟の妙手が昨年、世間を騒がせた。

 映画初めになった「AWAKE」は、将棋ファンにとって最高のお年玉だった。少年たちの緊張と絶望が柔らかな結末に至る青春映画である。コロナ第3波で楽観出来ないが、今年も映画館を頻繁に訪ねたいと思う。
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「死神の棋譜」~将棋への愛に紡がれた極上のミステリー

2021-01-08 12:45:29 | 読書
 先月オンエアされたドラマ「うつ病九段」(NHK・BSプレミアム)は先崎学九段が自身の体験を綴ったノンフィクションをベースにしている。安田顕が演じた先崎は、文筆家、イベント企画、ギャンブラー、愛飲家で、ユーモアに溢れた語り口が魅力で信望も篤い。

 2016年秋、三浦弘行九段はスマホ不正使用の疑いで竜王戦の挑戦権を剥奪された。先陣を切った渡辺明名人(当時竜王)、タイトル保持者、連盟幹部が協議した上での決定だったが、三浦の潔白が証明されたことで将棋連盟に激震が走る。広報担当理事だった先崎は、棋士間の仲介、メディアとの折衝に疲れ果て て心を蝕まれた。家族や仲間の協力もあって復帰した経緯が描かれている。

 年末年始、将棋をテーマにした極上のミステリーを堪能した。「死神の棋譜」(新潮社)には奧泉光の将棋についての造詣の深さが染み渡っている。奧泉は熱心な将棋ファンで、「ビビビ・ビ・バップ」ではプロ棋士の芯城銀太郎と大山康晴(十五世名人)アンドロイドの対局が起点になっていた。

 「東京自叙伝」を筆頭に、奧泉はオルタナティブファクト(起こり得た史実)、メタフィクション(史実と創作との交錯)の手法を作品に織り交ぜている。「死神の棋譜」は東日本大震災直後の2011年5月、羽生善治名人と森内俊之九段の名人戦7番勝負とシンクロしていた。

 主人公、いや語り手というべき北沢克弘と、20歳ほど年長の天谷敬太郎を軸にストーリーは進行する。両者はともにプロ棋士を目指しながら三段リーグ最終局で敗れ、年齢制限で奨励会退会を余儀なくされた。現在は将棋ライターとして活動している。

 北沢と天谷は絶望に加え、もどかしさを共有していた。2人の夢を絶つ〝死神〟だった後輩が、自身の退会と軌を一にして行方不明になっていた。天谷は20年前に十河三段、北沢は夏尾三段の消息を追う。きっかけは将棋会館近くの鳩森神社将棋堂に刺さっていた矢文に記された「魔の図式」だった。それは〝不詰の詰将棋〟で、「解いた者は棋道会に来たれ」と併記されていた。

 棋道会とは戦前、栄華を誇った団体で、十河と夏尾は「魔の図式」に魅せられ、本部があった北海道の炭坑町に引き寄せられる。2人は目の前の勝利より真理を追究するタイプだった。北沢は神殿の面影を残す廃坑で、夏尾との最後の勝負の続きを指す。サイドストーリーは15年前にブログで紹介した「阿片王」と重なっている。日本帝国軍がヘロインを廃坑に隠匿したという設定が、パズル完成へのピースになっていた。

 ミステリーは最後に謎が解けるが、本作は不詰?……。そんな思いが脳裏をかすめる。十河と夏尾は魔の図式に迫る方法を見いだし、81枡の将棋盤から無限の空間に飛翔していた。北沢もまた、将棋ならぬ龍神棋に興じるが、現実なのか幻想なのか判然としない。北沢の周りでは名棋士たちが戦っている。無辺の宇宙で至福に浸っているかのように……。

 将棋指しにとって<敗れること=死>で、本作はタナトスに彩られている。北沢も死神の鎌で首を刈られる恐怖を夢想の中で感じていた。先崎が復帰した頃、デビュー間もない藤井聡太2冠が、棋界の救世主になっていた。藤井は勝利者イ。ンタビューを「そうですね」で切り出し、圧勝であっても「難しかった」と振り返る。ている。まさに〝優しく謙虚な死神〟なのだ。

 奧泉ワールドには「ビビビ・ビ・バップ」の主人公フォギーなど強烈な個性を持つ女性が登場する。「雪の階」の笹宮惟佐子は論理と直観に秀でた女子大生だが、食虫植物のように男を翻弄する淫靡さを併せ持っている。その延長線上といえるのが「死神の棋譜」に登場する玖村麻里奈女流二段だ。

北沢は5九と5一の場所に王ではない駒を置く龍神棋を指すことで、異なる景色に気付く。終盤に複数のメールがやりとりされ、死神の実像が浮き上がるスリリングな展開に驚愕し、驚嘆した。

 上記の先崎は夭折した故村山聖九段の最大の理解者だった。村山の生き様、死に様を描いた映画「聖の青春」で、以下のような印象的な台詞がある。

村山(松山ケンイチ)「羽生さんが見ている海は他の人と違う」
羽生(東出昌大)「深く沈み過ぎて、戻れないと思うこともあります。でも、村山さんとなら一緒に行ける。行きましょう」

 本作にも海に溺れるような、正気と狂気の境界で喘ぐような棋士たちの感覚が描かれていた。将棋ファンであることの幸せを感じている。
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「コロナ新時代への提言2」~寝正月に学んだウイズコロナの指針

2021-01-04 21:08:15 | カルチャー
 明けましておめでとうございます。例年は従兄宅から母が暮らすケアハウスに通っていたが、施設がロックダウンで帰省はかなわず、年末年始は東京でゴロゴロ過ごした。

 寝正月の楽しみといえばスポーツだ。愛国心、愛校心とは無縁だが、郷土愛は人並だ。高校サッカーの京都橘は2回戦で敗れたが、ラグビーは京都成章がベスト4に進む。ここ数年、応援しているのは隣県の天理大ラグビー部だ。パワフルかつテンポの速いラグビーは健在で、大学選手権準決勝で明大を圧倒する。決勝も勝機は十分だ。

 録画しておいたドラマでは、「ノースライト」(全2回、横山秀夫原作)、「岸辺露伴は動かない」(全3回、ともにNHK)が秀逸だった。エンタメではないが、大晦日に再放送されたBSIスペシャル「コロナ新時代への提言2」に感銘を覚えた。

 福岡伸一(生物学者)、藤原辰史(歴史学者)、伊藤亜紗(美学者)がウイズコロナ時代の指針を提示するという内容で、福岡は<理想的に語られがちな「共生」は矛盾だらけ>、藤原は<「潔癖主義」は感染し、我々の行動を狭めていく>。伊藤は<一見いい行動は「利他的」ではない>とそれぞれ冒頭で問題提起する。
 
 進行役を兼ねていた福岡はピュシス(自然)とロゴス(言葉・論理)を対立概念に据え、漫画版「風の谷のナウシカ」(宮崎駿著)を取り上げる。映画はハッピーエンドだったが、原作はペシミスティックな文明論になっているという。福岡の論考は最後に紹介する。

 藤原は太平洋戦争とコロナ禍の日本を重ねていた。大本営は敗退を転進と置き換え国民に幻想を与えたが、安倍前首相は「コロナウイルスとの闘いにおける勝利の証しとして五輪を開催する」と宣言した。戦争とリンクしているのが排除の論理で、端的に表れたのがナチスドイツだ。その根底にあるのは潔癖主義と指摘する。

 〝自然との共生〟を謳ったナチスドイツだが、〝他民族との共生〟を志向しなかった。藤原は福岡とのリモート対談で、<人間は上水道と下水道の中間に存在する>と語り、福岡も行き過ぎた消毒文化に懸念を示していた。藤原は自粛警察にナチス時代に暗躍した民間監視人を想起した。「パンデミックを生きる指針」に記した方方の<一つの国が文明国家であるかどうかの基準はただ一つしかない。それは弱者に接する態度にある>を同番組でも紹介していた。

 吃音者の伊藤は、<言葉(ロゴス)を発しようとすると、体(ピシュス)が止める>と自らの経験を語っていた。日常的に障害者と接している伊藤は、「毎日がはとバスに乗っている気分」と語る全盲の知人の言葉にショックを受けたという。丁寧に保護、コントロールされていることに違和感を覚えているのだ。その点を踏まえ、伊藤は「利他とは待つこと、スペースをつくること」と考えている。

 差別されている者に自然体で触れ、吐血する兵士と唇を重ね毒を吸い出すナウシカに言及し、<排除なき共生>に利他性の本質を見いだした。〝これだけの労働をしたら、相応の成果が挙がる〟という<人間の画一化>に当てはまらない障害者は、自身の体が人間であり、自然でもあることを認識せざるを得ない。「身体の多様性を踏まえると、世界の別の顔が見えてくる」と伊藤は言葉を結んだ。

 福岡は<ウイルスは共生と利他性を体現している>と語る。生命体はDNAを垂直に伝えていくが、ウイルスはある種AからBに乗り移る時、Aの遺伝子の一部を水平に引き渡す。宿主の免疫システムを刺激し調整するウイルスは、人間にとって友達なのだ。これからも確実に新ウイルスが発生する以上、ウイルスを制圧するのは不可能だと福岡は言う。

 <パワーを求めないことが真のパワー>と福岡は締めた。効率化、生産性、アルゴリズムを追求し、ロゴスにコントロールされた世界がAIをツールに進行中だ。福岡は「風の谷のナウシカ」のラストのようにピシュスの逆襲の可能性を示唆していた。

 この番組を見て、自身の底の浅さに気付かされた。枯れることに加え、深めることを今年の目標にしたい。「風の谷のナウシカ」(全7巻)を読了し、当ブログで紹介出来ればいいのだが……。
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