酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

音楽は自由と解放を希求する~「BLUE GIANT」&ボブ・マーリー

2024-02-27 21:35:37 | 映画、ドラマ
 老いて感性が鈍った俺は、ロックファンを引退して久しい。ライブに足を運ぶことはなくなったが、部屋でCDを流していることが多く、ロックに限らず音楽を読書の供として用いている。今回は魂を揺さぶられた音楽映画を2本紹介する。まずはWOWOWで放映された「BLUE GIANT」(2023年、立川譲監督)から。

 原作は石塚真一による漫画で上原ひろみ(ジャズピアニスト)が音楽を担当したアニメーションだ。トップミュージシャンがサウンドを担当し、演奏シーンをリアルに再現するため3DCGを多用している。主人公は〝世界一のジャズプレーヤー〟を目指す大(声=山田裕貴)で独学でテナーサックスを吹いている。凄腕のピアニストである雪祈(声=間宮祥太朗)、同郷の友人でドラム初心者の玉田(岡山天音)とともにJASSを結成した。18歳の若いトリオである。

 ジャズ界の現状はわからないが、<組んだ者を踏み台にしていくのがジャズ>という雪祈の言葉には説得力を感じた。不慮の事故で右手が利かなくなった雪祈、プロ志向がなかった玉田はJASSを最後に活動を終え、大は海外に旅立つ。青春映画の傑作で、雪祈の慟哭に感応し、ラストで涙腺が決壊していた。

 大は体を折るようにして音を吐き出す。自分自身を解放し、限りない自由を手に入れるためだ。かつてジョン・レノンは「インテリっぽい音楽は好きじゃない。クラシックやモダンジャズが嫌いな理由も同じ。ああいう音楽を取り巻く連中が嫌いなんだ」と語っていた。あれから半世紀……。ロックは今、解放と自由を表現する手段になり得ているのだろうか。

 解放と自由を志向する音楽映画を新宿シネマカリテで見た。「ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ」(1980年、ステファン・ポール監督/ジャマイカ・西ドイツ合作)である。1979年7月、マーリーの祖国における最後のパフォーマンスになった第2回レゲエ・サンスプラッシュでのライブが収録されている。同じステージに立ったバーニング・スピア、サード・ワールド、ピーター・トッシュのパフォーマンスもたっぷり収録され、当時のジャマイカの人々の様子も映し出されていた。

 マーリーのアルバムはライブを含め数枚購入したが、CD化されたものは持っていない。上記のアーティストやジミー・クリフも同様で、レゲエファンではない俺が作品中のパフォーマンスについて論じても説得力はないが、それでも俺にはマーリーのステージが突出しているように感じた。取ってつけたみたいと思われるかもしれないが、理由を記したい。

 まず、歌詞がゆったりしている。非英語圏の人が聴いても口ずさめるメロディーのリフレインは、カラオケで歌えるような感じで胸に響いてくる。鍛えられたフィジカルで曲を表現するマーリーに突き動かされ、ラストでは多くの聴衆がステージで踊っていた。何より効果的だったのはコーラスとダンスを担当する3人の女性たちだ。ラスタファリのシンボルカラーを纏った彼女たちの明るさがステージを支えているように感じた。

 マーリーはジャマイカの現実を熱く語る。多くの国民は格差と貧困に喘いでおり、レゲエとはスラムやゲットーから生まれた反抗の音楽なのだ。レゲエの根底にあるのはジャマイカの労働者や農民の間に発生したラスタファリ運動だ。エチオピア最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世をシンボルに掲げるアフリカ回帰運動で、菜食主義、ドレッドヘア、ガンジャ(麻薬)常用を生活の基礎においている。最下層からの叫びと宗教的な色彩が融合したのがレゲエだといえる。

 スカパーで放映されたチバユウスケの追悼番組(3時間)を見た。ミッシェル・ガン・エレファント、ROSSO、バースディで残したライブ映像を編集した内容だったが、チバもまた解放と自由を希求した希有なロッカーであったことを再認識できた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アーサー王宮廷のヤンキー」~マーク・トウェインがアーサー王時代に託した希望

2024-02-23 23:22:52 | 読書
 ロシアの反体制活動家、ナワルヌイ氏の獄中死について言及したトランプ前大統領は、プーチン批判を避けた。<自由と民主主義>をリトマス紙にしたら、トランプとプーチンは同じ色に識別されるだろう。一方のバイデンも高齢以外に問題を抱えている。ブラジルのルラ大統領はナチスのホロコーストになぞらえ、イスラエルによるガザ集団虐殺を批判した。米国内でも若い層を中心にパレスチナ支持が広まっており、イスラム系がトランプに投票するというねじれた構図が現実になりつつある。

 SF小説の先駆と評される「アーサー王宮廷のヤンキー」(マーク・トウェイン著、大久保博訳/角川文庫)を読了した。再読した開高健の最高傑作「輝ける闇」で、主人公(≒作者)が最前線で本作を耽読していたことがきっかけである。1964年に朝日新聞特派員としてベトナムに赴いた開高にとって、1889年に発表された風刺小説は生活のリズムになっていたのだろう。

 開高は「輝ける闇」に<たった一日に100億円から200億円に達する浪費をアメリカ人はこの国でやっているのだが、発端から結末、細部と本質が、すべて75年前に書かれた200円たらずのこの一冊の文庫本にある。ドン・キホーテとガリバーが手を携えていく物語の中にあった>(論旨)と綴っている。

 トウェインはフォークナーやヘミングウェイから絶大なるオマージュを寄せられた作家で、波瀾万丈の人生は本作にも反映している。イングランドのウォリック城を見物していた私(作者)はアーサー王時代に詳しい男から書物を渡された。ハンク・モーガンという米コネチカット州在住の兵器工場職長だったが、殴られて意識を失い、19世紀後半から6世紀前半にタイムスリップした。

 異様な風体で不審者扱いされたハンクは火あぶりに処される寸前、日蝕が起きることを思い出し、「自分が処刑される時間に世界を暗闇にする」と宣言し、その通りになるや、アーサー王の副官としての地位(ザ・ボス)を手に入れる。当時は魔術への畏怖は決定的で、暗然たる力を保持していたマーリンを駆逐していく。魔術の源は19世紀の科学と知識で、ザ・ボスは優秀な若者を育成し、電話など最先端の技術を6世紀に移植していく。貨幣制度の導入、新聞の製作などザ・ボスの実験はアーサー王時代を大きく変革していく。

 興味深いのはトウェインの米国社会への捉え方が、本作に反映していることだ。タイトルにある〝ヤンキー〟とは米北東部に暮らす人々の俗称で、コネチカット州生まれのザ・ボスもそのひとりだ。トウェインは南北戦争以降も続く奴隷制度や差別に怒りを覚え、公正と自由に価値を見いだし、教会や腐敗した上流階級を敵視していた。本作はトウェインの思いをアーサー王時代に仮託することで成立している。

 饒舌でエキサイティングな500㌻超の長編小説にはユーモアがちりばめられており、ダニエル・カーター・ビアドによる挿絵も効果的だ。最も記憶に残る章はアーサー王とザ・ボスが農民に姿を変え、国内を視察するエピソードだ。貧しい庶民の実情を王に知らせるのが目的だが、助さんも格さんも風車の弥七もいない水戸黄門のようなものだ。奴隷商人に売られる羽目に陥るが、ザ・ボスは重い病気の者にも手を差し伸べるアーサー王の気高さに感銘を受けた。

 危機を脱したザ・ボスは<共和国樹立>宣言を準備するが、教会の謀略でフランスを訪ねている隙に、<教会=貴族階級=騎士>からなる旧勢力が息を吹き返し、アーサー王も王妃の離反がもとになって起きた戦争で亡くなっていた。残された少数の精鋭を率い、先端の兵器を用いて勝利を収めたと思った刹那、マーリンの姦計によって13世紀の眠りに就く。トウェインが手記を読み終えた後、ザ・ボスことハンク・モーガンは召された。

 本作の影響力は、フランク・ルーズベルト大統領がザ・ボスが冠した<ニューディール政策>を用いたことからも窺える。アメリカ文学を代表する作家の作品に出合えて幸いだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「哀れなるものたち」~人造人間は自由を希求する

2024-02-19 22:24:02 | 映画、ドラマ
 週末は新宿駅南口で行われた<ウクライナ債務を帳消しに~民衆のための支援を>スタンディングに参加した。日本だけでなく世界で現在行われているのは貸し付けというべき財政支援だ。IMFや世銀は医療、福祉、教育といった公共サービス削減を条件にした融資を推進しようとしている。そのような動きに抗議したのが今回の行動だ。莫大な資源を背景にロシアの攻勢は強まっており、反プーチン派のナワリヌイ氏が刑務所内で亡くなった(恐らく暗殺)。日本人は自由、民主主義、平和の意味を考える時機に来ている。

 新宿ピカデリーで「哀れなるものたち」(2023年、ヨルゴス・ランティモス監督/英米愛合作)を見た。原作はアラスター・グレイの同名小説で、舞台はヴィクトリア朝時代のロンドンだ。ベネチア国際映画祭で金獅子賞、ゴールデングローブ賞でコメディー・ミュージカル部門作品賞に輝いた同作は、「オッペンハイマー」とともにオスカーの有力候補だ。

 「哀れなるものたち」は「フランケンシュタイン」を彷彿させる作品で、主人公のベラ(エマ・ストーン)は人造人間だ。本名はヴィクトリアだったが、支配欲の強い夫アルフィー(クリストファー・アボット)から逃れ切れず、胎児を宿したまま投身自殺する。その新鮮な遺体を目の当たりにした外科医ゴッド(ウィレム・デフォー)は〝マッドサイエンティスト〟としての欲望を刺激され、胎児の脳をヴィクトリアに移植し、ベラと名付けた。ゴッド自身も父に肉体を改造された人造人間だった。

 ゴッドは教え子マックス(ラミー・ユセフ)に、ベラの言動を邸内で記録するよう依頼する。見た目は30代だが頭脳と心は幼児のベラは、歩き方もおかしいし、イライラしたら皿を割るなど手に負えない。少しずつ単語を覚えるなど大人に近づくベラに、マックスは恋心を抱くようになる。ゴッドの勧めもあり婚約が決まったが、ベラは性への欲求を隠し切れなくなった。そこに現れたプレーボーイの法律家ダンカン(マーク・ラファロ)は、ベラを連れて旅立った。

 前半はモノクロで、ストーリーが進むにつれカラーが中心になる。成長によって知性と感性がベラの世界を豊饒にしていくことを映像で示しているのだろう。リスボン、パリ、そして船から見える光景の美しさとベラの姿態がマッチしていた。衣装も素晴らしいが、R18であるゆえん、セックスシーンがふんだんに織り交ぜられている。船上でのダンスシーンが印象的だった。

 本作に重なったのは「悪い子バビー」だった。ベラはゴッドに軟禁されていたが、母に35年間監禁されていたバビーは世界に触れるや、優しさや真理を吸収していく。ベラもまた、グローバルな格差と貧困の現実、哲学を学び、自由に価値を見いだすようになる。一方のダンカンは、前夫アルフィーのように支配欲と嫉妬に取り憑かれて破滅する。

 生計を立てるためパリの娼館で働くことになったベラは女店主のスワイニー(キャサリン・ハンター)と同僚のトワネット(スージー・ベンバ)からフェミニズムと社会主義を学ぶ。併せて男たちの愚かさに気付かされたベラはゴッド危篤の報を受け、ロンドンに戻った。冷徹に思えたゴッドにとって、ベラは父性愛の対象だった。

 ラストでゴッド邸の庭に、ベラ、マックス、トワネット、ゴッドの新しい被験者、アルフィーが集っている。明らかに様子がおかしいアルフィーは、医者を目指すベラによってヤギの脳を移植され、草を食んでいた。彼らは<哀れなるものたち>だろうか。自由を希求するベラをマックスとトワネットが支え、アルフィーは男性史上主義と支配欲から解放された。見ている側も<哀れなるものたち>……。エンドロールが終わった時、そんな感覚に陥ってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58回スーパーボウル~マホームズの冷たい緻密さに痺れる

2024-02-14 22:25:40 | スポーツ
 日本時間12日午前にラスベガスで開催された第58回スーパーボウルは、史上最も注目を集めた一戦になった。チーフス(AFC)が49ers(NFC)をオーバータイムの末、25対22で破り連覇を達成した試合を1億2340万人が視聴し、昨年から7%増の新記録となる。ちなみにラスベガスのオッズでは攻撃陣に厚みを誇る49ersが2㌽リードしていた。

 例年以上に注目を集めたスーパーボウルだが、発端になったのはテイラー・スウィフトとチーフスTEケルシーとの〝美女と野獣〟の交際だ。チーフスの試合を観戦していると、VIPルームで一喜一憂しているテイラーの姿が映し出される。ラブロマンスは日本、そして大統領選をも巻き込む大騒動になった。東京ドームで4日間、22万人を集めたテイラーはインスタのフォロワー数が2億8000万人を誇るインフルエンサーである。

 前回の大統領選でバイデンを支持した歌姫はトランプ陣営にとって邪魔な存在だ。<スーパーボウルでチーフスが勝ち、テイラー-がバイデン支持を公表する>なんて筋書きは避けたいから、様々な陰謀論を仕掛けてきた。その中のひとつは〝日本公演直後、間に合うはずがない〟だったが、プライベートジェットに乗って余裕でラスベガスに着いた。

 マカフリー(49ers)、パチェコ(チーフス)の両エースRBがファンブルで攻撃権を失うなど得点が入らない展開だったが、守備陣、キッカーを中心にしたスペシャルチームの健闘が光る内容だった。両キッカーは相次いでスーパーボウルのFG記録を更新する。第2Q残り4分23秒、トリックプレーでタッチダウンを決めた49ersが10対3とリードして前半を終える。マホームズへのプレッシャーも厳しく、チーフスファンの俺も難しいかなと感じていた。

 1キャッチで1㍎獲得に終わったケルシーはイライラを隠せず、アンディ・リードHCに体をぶつけるように詰め寄っていた。後半最初の攻撃でマホームズがインターセプトされた時点で終わったと思ったが、ケルシーとのホットラインが開通する。9回キャッチし93㍎を獲得するだけでなく、デコイ(おとり)として機能する。オーバータイムで決めたゴール前のキャッチが試合を決めた。

 一回のミスも許されない第4Q残り1分53秒、オーバータイム残り7分22秒でFG、タッチダウンに導いたマホ-ムズの冷たい緻密さに見入ってしまった。将棋にたとえるのもおかしな話だが、AI評価値で10㌽差をつけられた藤井聡太八冠がジワジワ追いついていく感じに似ている。マホームズはチームを連覇に導き、ロマンスをハッピーエンドに導いた。シンシティー(罪と欲望の街)ラスベガスで開催されたスーパーボウル中継では、金にまつわるエピソードが幾つも紹介されたが、夢と愛に溢れた試合だった。

 1999~2012年、リードはイーグルスHCを務めていた。チームは好成績を収めていたが大一番には勝てず、解説陣には〝コンサバティブ〟と評されていた。2013年にチーフスに移ってマホームズと出会うや、天才の煌めきと想像力を生かしたオフェンスでトリッキーな作戦を多用するようになる。自らを変えて三たび栄誉を手にしたリードは、来期以降もHC職にとどまる。

 スーパーボウルの終了と軌を一にするように、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)、ヨーロッパリーグ(EL)の決勝トーナメントが始まった。名将たちがひしめく争いだが、俺が応援してきたモウリーニョはASローマをクビになり、バイエルン監督就任の噂が流れている。CL、EL各2回優勝に導いたモウリーニョは悪童的振る舞いで物議を醸してきたが、戦術家、モチベーターとして選手から絶大な支持を得ている。東日本大地震被災者に60万ユーロ(約7000万円=当時)を送ったことも知られている。

 49ersのシャナハンは〝逆転されるHC〟の汚名を返上出来なかった。リードだってある時期、批判をさらされていたし、チャンピオンリングを手にする日が来るかもしれない。NPBが開幕する前に、<監督論>を書きたくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「横道世之介」~青春小説の白眉に感涙

2024-02-10 21:50:14 | 読書
 王将戦第4局は藤井聡太八冠が4連勝で防衛を果たし、新記録となるタイトル戦20連覇を達成した。振り飛車の第一人者として勝負を挑んだ菅井竜也八段だが、完敗の内容だった。第4局終了直後、大盤解説会の会場に両者が足を運んだが、菅井はさばさばした表情で「あしたからも頑張って生きるしかない。頑張ります」と語り、万雷の拍手を浴びていた。〝闘志の人〟菅井が再度、タイトル戦で藤井と相まみえる日を心待ちにしている。

 藤井、菅井だけではなく、多くの若手棋士は奨励会員を含め青春を将棋に懸けている。青春にはいろいろな形があるが、〝究極の青春小説〟と評される「横道世之介」(2009年、吉田修一著/文春文庫)を読了した。1968年、長崎出身で法政大に入学した作者の大学生活1年目(87年)が舞台だ。本作は映画化され、続編2作が発表されるなど人気シリーズになっている。吉田の小説を紹介するのは7度目になるが、東京で過ごした80年代と重なってノスタルジックな気分になった。87年といえば、〝横道〟にずれていた俺が勤め人になって4年目で、〝マトモ〟になったと家族を安心させていた時期である。

 生活実感、新宿の様子、風俗や流行、映画や音楽、携帯やパソコンが普及する前のコミュニケーション、実家との関係など、自分と重なる点も多々ある。異なっているのは時代の空気だ。俺も東京の私学の学生だったが、10年前は60~70年代の学生運動の名残が構内に見受けられた。世之介の世代はバブルまっただ中で、ノンポリが当たり前。何となく入ったのはサンバサークルだった。

 学生時代を振り返ると、俺はいつもツルんでいた。下戸なのに酒の席には参加し、サークルの先輩の部屋を訳もなく訪ね、珍しく自室に女性がいる時に後輩がやってきたこともあった。世之介も同様で、入り浸ったのはエアコンのある同級生の加藤の部屋だった。青春時代とは何だったと問われたら、俺は<孤独を恐れた時期>と答えるだろう。

 世之介の友人たちもバラエティーに富んでいる。入学式の日に仲良くなった倉持と唯は同じサンバサークルに入ったが、唯の妊娠で大学を中退する。高校時代の同級生でバブル期の浮かれた空気にどっぷり漬かっていた小沢の知り合いだったパーティーガールの千春に、世之介は片思いする。そして世之介は運命の人というべき与謝野祥子と出会い、恋人になる。祥子はどこかピントがずれたお嬢さまだった。

 青春の光と影とは通り文句だが、本作が傑作たるゆえんは、登場人物の20年後の描写が挿入されていることだ。その頃、世之介との付き合いはなかったが、ふと誰かが自分のことを見ているような気がしたり、街の光景の片隅に誰かがいたような記憶が甦ったりする。そして世之介は、亡くなっていた。

 本作のハイライトは、祥子が世之介の帰省に付き合い、長崎の横道家に滞在した時に遭遇した出来事だった。海辺を歩いていた時、2人は難民船が漂着するシーンを目の当たりにする。赤ちゃんを手渡そうとした女性を救えなかったことへの悔恨が、世之介と祥子の人生に大きな影響を与える。祥子は離婚後、国連スタッフとして難民救済に奔走することになる。

 2001年、新大久保駅で泥酔客が線路に転落し、助けに入ったカメラマンと韓国人留学生も亡くなった。吉田はこの事件にインスパイアされ、カメラマンになっていた世之介に加え、倉持の隣人で、唯が出産した際に協力する韓国人留学生のキムくんを登場させている。世之介が韓国民主化運動を見守るため帰国するキムくんと別れたのは新大久保駅だった。虚実を交錯させた構想力に感嘆するしかない。

 祥子が後に世之介について同僚に語る場面がある。立派どころか隙だらけで「いろんなことに『イエス』と言ってるような人だった」と……。物事を肯定的に捉えるということは、寛容さと同義だ。加藤にゲイであることを告白されても彼の部屋を訪れる。だから周囲も彼を受け入れるのだ。世之介は流されやすく影響を受けやすい。偶然知り合った室田の影響で、世之介はカメラマンの道を目指す。

 短期帰国していた祥子の元に、世之介の母親から<与謝野祥子以外、開封厳禁>と書かれた封書が届く。世之介が初めて撮った写真の数々が納められていた。齢を重ねるにつれ涙腺が脆くなった俺は、青春小説の白眉といっていい本作を読みながら心が湿っぽくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「葬送のカーネーション」~静謐な風景画に滲む死生観

2024-02-06 21:23:22 | 映画、ドラマ
 映画賞のノミネートや受賞作が発表される時期になった。識者や映画通と感覚がずれているから、〝推し〟がリストアップされるケースは少ないが、感銘を覚えた作品の名を見ると嬉しくなる。「PERFECT DAYS」(2023年、ヴィム・ヴェンダース監督)がアカデミー賞国際長編映画賞部門にノミネートされた。ヴェンダースはカンヌ、ベネチア、ベルリンなど多くの映画祭でグランプリを獲得しているが、アカデミーには縁がなかった。初オスカーに期待している。

 最近紹介したカウリスマキとヴェンタースは小津安二郎にオマージュを抱いていたが、第3弾というべきベキル・ビュルビュル監督の「葬送のカーネーション」(2023年)を新宿武蔵野館で見た。トルコ映画について記すのは「ユスフ」3部作(セミフ・カブランオール監督)以来、12年ぶりで、神秘的かつ祝祭的なムードに彩られた寓話だった。

 本作は祖父と孫娘のロードムービーだ。ムサ(デミル・パルスジャン)は亡き妻の棺を抱え、ハリメ(シャム・シェリエット・ゼイダン)とヒッチハイクしながら国境を越えようとする。祖国に葬ってほしいという妻の願いを叶えるためだ。ムサは恐らくシリアからの難民でトルコ語が話せない。通訳はハリメの役割だ。ムサとハリメも殆ど言葉を交わさない。イスラム社会の美意識を象徴するような静謐な風景は、イラン映画を想起させる煌めきに満ちていた。

 原題は「クローブをひとつかみ」で、英語タイトルは“Cloves&Carnations”だ。“Clove”は香辛料で殺菌効果がある。歯痛を抱えるムサが本作で重要な役割を果たす女性トラック運転手からクローブをもらうシーンがあったが、ムサは消臭剤として棺の中にクローブを入れていた。さらに、カーネーションとは同音異義語で、ハリメは墓に一輪挿していた。ハリメの母への追憶の思いは彼女が描く絵にも表れている。ハリメはカーネーションに、祖母だけでなく亡き母への思いを託したのか。

 小津ファンではないから、監督のオマージュがどう作品に息づいているのか理解出来ていない。だが、監督は小津だけでなく日本文化の〝もののあはれ〟や死生観をリスペクトしているようだ。小津は死を到達点ではなく日常とリンクする通過点として描いた。ムサと祖母が<死>、ハリメが<生>を象徴し、スクリーンに配置されている。

 印象的なシーンも数多い。避寒のため身を寄せた洞窟で、ムサは棺から妻の遺体袋を取り出し、ハリメを入れる。国境手前で拘束された警察署で、ハリメが落としたミルクのガラスコップが割れるシーンには、ハリメの祖国への忌避感が表れているのだろうか。<死は終わりではなく、来世への入り口>と後半に登場する女性ドライバーは思想家の言葉をムサとハリメに語る。

 ムサはラストで国境らしき金網を越える。来世への入り口と感じたが、作品冒頭の難民たちのパーティーに加わっていた。死と婚姻のアンビバレンツが、意識の底で繋がっている。神話、寓話に飛翔した傑作に心が揺さぶられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「野生の棕櫚」~フォークナーの最後の実験?

2024-02-02 22:34:57 | 読書
 あした(3日)は節分で、スーパーやコンビニの棚には数種類の恵方巻きが並ぶ。一般に認知される1960年代半ばから、母は恵方巻きを作っていた。具材は細長い肉のポールソーセージ、卵焼き、キュウリに定まり、遠足のお弁当などの定番になる。母の体力がなくなり、引き継いだが妹も召されて10年以上経つ。俺がソウルフードを食べる日は来るだろうか。

 ウィリアム・フォークナー著「野生の棕櫚」(1939年、加島祥造訳/中公文庫)を読了した。別稿で紹介した「PERFECT DAYS」(2023年、ヴィム・ヴェンダース監督)で平山が寝る前に読んでいたうちの一冊だったことで興味を持った。20~30代、代表作「響きと怒り」、「サンクチュアリ」、「八月の光」、「アブサロム、アブサロム」に悪戦苦闘した記憶がある。フォークナーは俺にはハードルが高い作家で、〝読み終えた〟という達成感を得ることが目標だったのだろう。

 濃密なアメリカ南部の空気感が漂う「野生の棕櫚」は<二重小説>の構成を取っている。奇数(1、3、5、7、9)の章が「野生の棕櫚」、偶数(2、4、6、8、10)の章が「オールド・マン」で、別々の物語が進行する。「野生の棕櫚」はハリー(ヘンリー・ウィルボーン)とシャーロット・リトンメイヤーの恋が描かれ、「オールド・マン」ではミシシッピ川の洪水被災地救援のため刑務所から派遣されたのっぽの囚人(白人)が妊婦を救う。

 背景である1930年代のアメリカは、大恐慌を克服するためフランクリン・ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策によって価値観が大きく変わる。限りない自由を求めた人々は破綻し、失業したホワイトカラーはニューディールによる救済策に頼ることになる。研修医だったハリーもまたその一人だったが、30年代は女性の意識が変わった時期でもあった。職だけでなく自信も失った男たちと比べ、女たちが相対的に強くなる。シャーロットも自分の思いに忠実であろうとする女性で、2児の母でありながらハリーとの逃避行を選ぶ。

 愛と自由を追求するシャーロットに感化され、ハリーは自身のブルジョワ的価値観を捨て、〝形のない〟ものを手に入れようとする。縛られることを忌避した2人は都市を離れて生活するが、絶対的な〝形〟が障害物として現れた。シャーロットの妊娠である。子供は自由への桎梏であり、同時に社会復帰のきっかけでもあった。シャーロットに求められて堕胎手術をしたハリーだが、失敗に終わる。

 フォークナー自身、<「野生の棕櫚」は恋のためにすべてを振り捨て、しかもそれを失うシャーロットとウィルボーンの物語。でも、作曲でいえば対位法のように、これを高めるものが必要だと感じて「オールド・マン」を書いていくと再び「野生の棕櫚」が浮かんだ>と<二重小説>の構成を解題している。作品中ではのっぽの囚人の妊婦への感情は記されていなかったが、<愛を手に入れたのに逃げ出そうとする囚人>と作者は綴っていた。<愛と誕生>を巡るコントラストが両作を紡いでいた。

 ヴァージニア・ウルフとともに<モダニズム文学>のツインピークスと位置付けられるフォークナーは、南米文学に絶大な影響を与えた。だが、「野生の棕櫚」を書き終えたフォークナーは1939年以降、<モダニズム文学>以前に回帰したと評されている。傑作を世に問い続けたフォークナーだが、フランスで認められただけで国内では無名で、ハリウッドでシナリオを書いていた時期もある。選集発刊で一躍注目を集め、1949年にノーベル賞を受賞した。〝20世紀最高の作家〟が埋もれていた可能性があったことに驚くしかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする