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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「アンノウン・ソルジャー」~戦争のリアルな記憶と正しい教訓

2019-06-28 12:41:46 | 映画、ドラマ
 トランプ大統領が暴走している。金正恩委員長に親書を送って米朝接近を演出する一方、イランとの戦争を匂わせている。イスラエルの代理人としてパレスチナ和平案をでっち上げ、安倍首相の愛を試すかのように日米安保破棄に言及する。

 前稿で記した「脱成長ミーティング」で、森千香子一橋大大学院准教授は<排外主義と新自由主義とのリンク>を指摘している。トランプを操っているのは恐らくグローバル企業と軍需産業だが、森さんはトランプ最大の支持基盤である福音派がフランスで暗躍していることに言及していた。世界規模で排外主義者と福音派の連携は確実だ。

 サッカーW杯やオリンピックへの関心が失せた理由のひとつは、テレ朝系アナの「絶対に負けられない戦い」の絶叫だった。経済、スポーツ、選挙、出世争い、恋愛は戦争に擬せられるが、本当の意味で<絶対に負けられない戦い>を描いた映画を見た。「アンノウン・ソルジャー~英雄なき戦場」(17年、アク・ロウヒミエス監督)である。アキ・カウリスマキ監督作を除けば初めて見るフィンランド映画だった。

 戦争映画で個人的なベスト3を挙げれば、公開順に「第十七捕虜収容所」(1973年、ビリー・ワイルダー)、「野火」(59年、市川崑)、「ディア・ハンター」(78年・マイケル・チミノ監督)となる。戦争映画で括っても切り口は様々だが、「アンノウン・ソルジャー~英雄なき戦場」は戦争をリアルに再現したドキュメンタリータッチの作品で、フィンランド現代史が後景に聳えている。

 ソ連とドイツに蹂躙されてきたフィンランドは、1939年に始まったソ連との冬戦争に敗れ、カレリア地方を占領される。〝敵の敵は味方〟の論理でヒトラーと手を組み、国土回復を掲げてソ連に再度挑んだ。対独戦線で兵力を割けなかったソ連に対し、緒戦を優位に進めたフィンランドだが、国力の差はいかんともし難く、退却を余儀なくされる。アメリカに挑んだ日本と似た構図だった。

 原作「アンノウン・ソルジャー」(ヴァイニョ・リンナ)はフィンランドの戦争文学の金字塔で、作者自身も本作の舞台になった第8歩兵連隊に属していた。作品の中で携帯する銃器について詳しく紹介されており、膨大な爆薬を使って戦場を再現していた。北極圏で展開する白兵戦は、痛く、熱く、そして寒い。スクリーンから皮膚感覚がリアルに伝わる同作はフィンランド史上、最高の動員を記録した。

 主な登場人物は自由奔放なロッカ伍長(エーロ・アホ)、純粋なカリルオト小隊長(ヨハンネス・ホロバイネン)、どこか醒めているコスケラ小隊長(ジュン・ヴァタネン)で、3人の主観で物語が紡がれていく。あくまでズームの視点を崩さず、無名の兵士たちの情熱、勇気、友情、倦怠、絶望、恐怖、狂気のピースが填め込まれ、戦争という巨大なパズルが屹立した。

 サイドストーリーとしてロッカと家族、カリルオトと新婚の妻の愛が組み込まれている。旧日本軍ほどの規律はなく、戦線離脱も不可能ではなさそうだが、ロッカとカリルオトは連隊に戻る。戦いとは矜持を懸けた存在証明だったのだろう。愛国心を煽る旧日本軍の如き上官(中隊長)を無視し、コスケラは粛々と退却戦を先導して兵士の命を守る。

 枢軸国だったフィンランドは降伏後、連合国の一員としてドイツと戦い、敗戦を免れた。この判断に重なるのが、コスケラの冷静さだ。国家や軍より個の自由を重んじるロッカが帰郷するラストは、希望の象徴なのか、魂の帰還なのか、答えが出せない。現実と幻想と狭間を行き来した「嵐電」の〝後遺症〟いまだ癒えずといったところだ。

 日本、いや世界で最も戦争にこだわり続けた映像作家は岡本喜八だ。「ああ爆弾」、「日本のいちばん長い日」、「激動の昭和史 沖縄決戦」だけでなく、中国戦線を舞台にした「独立愚連隊」、「独立愚連隊西へ」、「地と砂」には従軍慰安婦が登場する。戦争をテーマにした作品でなくとも、岡本の作品には反戦、反権力の思いが横溢していた。

 フィンランドは現在、自由度、民主主義度、幸福度で軒並み世界のトップレベルと評価されている。戦争をリアルに記憶し、正しい教訓を得たからだろう。翻って日本は、戦争の過ちを血肉化せず、〝歴史の修正〟が幅を利かせている。その結果、自由と民主主義は後退し、時代閉塞に陥った。
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「脱成長ミーティング」に参加して排外主義と差別について考えた

2019-06-24 23:06:28 | 社会、政治
 前稿末に記したPOG指名馬3頭は枕を並べて惨敗する。捕らぬ狸の皮算用で終わった。ドラフト会議終了後、〝まじめモード〟に切り替え、第18回「脱成長ミーティング」(ピープルズ・プラン研究所)に参加する。テーマは<移民社会の現実と課題~欧米と日本>で、報告者は森千香子さん(一橋大大学院社会学研究科准教授)だった。

 森さんの研究対象は<フランスにおける移民の現実>で、図表を活用したレジュメを用意し、ネットやニュース映像でしか知り得なかった欧州の事情を詳述する。最初に言及したのは欧州議会選挙で、調和と寛容を主張する緑の党の躍進を評価する同時に、排外主義が新自由主義、軍需産業とリンクして勢力を拡大している状況を危惧していた。

 欧州各国で移民政策厳格化が進む中、日本の入管法改正をどう位置付けるべきか、そして、外国人労働者と移民の差異は何か……。外国人が日本国籍を獲得する道は険しいが、フランスでは移民が市民権(参政権、被選挙権)を得て、政治に参加することも可能だ。パリ郊外のアパートに居住するイスラム教徒が立候補し、自治体選挙で定の得票を獲得したことを報告されていた。

 移民バッシングばかり報じられているが、この動きが波及すれば、地殻変動が起きる可能性もある。だが、それほど簡単に事は進まない。フランスのイエローベスト運動は社会的公正を主張しているが、差別や排外主義に抗議する声とは重ならない。冷ややかに眺めているムスリムも多いという。

 森さんは<学びという名の労働>の制度化を問題にしていた。新自由主義下の選択的移民政策は安倍政権下でも同様で、日本の入管法改正も<資本の要請>によるものだ。東京福祉大で1600人の留学生が行方不明になったことが、問題の本質を示している。来日した若者は「自分は学生か、それとも労働者なのか」と自問自答しているに違いない。

 森さんが2年前、日本経済新聞に寄稿した<「働きに行きたい国」をめざせ>というタイトルの一文も参考になった。帰省した際、フィリピンの貧困救済に取り組む従兄は、現地における先進国の労働力獲得合戦を目の当たりにしたと話していた。欧米諸国は、語学力など高いハードルを設定し、好条件を提示する。自国の利益のみ追求し、<外国人=使い捨て=低賃金>の図式を崩さない日本は人材確保に苦労すると、森さんと従兄は口にしていた。

 森さんは移民を巡る<「図式」と「脚本」の確立>について説明した。欧米では<移民が自分たちの仕事を奪う>が排斥の理由になっている。日本に置き換えれば、関東大震災時、警察官僚が意識的に流したフェイクニュース――朝鮮人が井戸に毒を流している――が虐殺のきっかけになった。バルセロナではSNSの暴走を食い止めるため、「反うわさ戦略」が実行されている。

 森さんはクルド人について言及した。トルコ国籍のクルド人が多く暮らす川口で、子供たちへのいじめが深刻になっているという。「トルコ政府の苛烈な弾圧と比べたら、日本の方がまし」が彼らの共通した思いか。誇り高き放浪の民にとってこの国も安住の地ではないようだ。

 移民について論じる際、韓国と他国とは一線を画すべきだろう。帰省するたび、母から同じ話を聞かされる。祖父の仕事の関係で全国、いや、日本統治下の京城の学校に通った母は、行く先々で厳しいいじめを目撃した。背景にある朝鮮人、そして被差別への差別は今も変わらない。

 森さんは大学での講義で「従軍慰安婦」について説明する時、緊張するという。「主戦論」で真の姿を晒した右派が、上映差し止めと損害賠償を求めて提訴した。真実はいずれにあるのか、ご覧になって確認してほしい。
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スポーツ観戦の基本スタンスは愛?~五輪、ベイスターズ、そしてPOG

2019-06-20 23:16:04 | スポーツ
 18日夜、山形県沖で地震が起きた。新潟県では津波に備えて避難指示が出されたが、最寄りの避難場所が開かれず、別の区域への移動を余儀なくされた方が4600人以上に達したという。安倍首相は同日深夜、11年前の新潟県中越沖地震の時と同様、内実のないコメントを出していた。災害支援体制は劣化してしまったようだ。地震が天災ではなく日常になった国の最高責任者は、一刻も早く原発再稼働を撤回するべきだ。

 五輪チケット狂騒曲に、俺も間接的に加わった。知人が卓球と馬術を申し込んだからだが、ともに落選だった。世紀が変わって、〝国を挙げて〟という風潮に忌避感を覚えるようになり、夏季も冬季も五輪への関心が萎えている。そんな俺だが、初めて女性を美しいと感じたのは、小学2年時の東京大会に出場したフランスの水泳選手だった。

 女性アスリートを〝アイドル視〟したことはなかったが、8年前、女子サッカーW杯で優勝したなでしこジャパンの〝セルフプロデュース力〟に感心した。還暦を過ぎると外見には囚われない。「スポーツ×ヒューマン」(NHK・BS)で発見した大橋悠依(水泳個人メドレー)は、目的意識の高さと意志の強さが滲み出ている。初恋から老いらくの恋へ……ではないが、大橋以外にも〝愛の対象〟が見つかったら、屁理屈抜きに五輪を楽しめるかもしれない。

 おととい(18日)、交流戦のベイスターズ対ファイターズ戦を観戦した。3万人余が集ったスタジアムを見て、遠く香港へ思いを馳せる。この60倍以上の人々が、自由と民主主義を掲げ、香港を愛するがゆえに闘っている。彼我の空気の違いが身に染みた。

 別稿でラミレス監督に苦言を呈したことがあった。即ち、<データにこだわるあまり、チームは点に分解され、線になってこない。モメンタムとケミストリーを生む資質に欠けるのではないのでは>(要旨)……。当時はどん底だったチームは上昇気流に乗り、20日現在、借金4までこぎ着けた。

 18日はソトの打球を膝に受けた上沢が退いた後、左腕の公文が後を継いだ。筒香のワンポイントかと思ったら、ロペス以降の右打線でも続投する。3番手の浦野が良かっただけに、データを重視する栗山監督の継投ミスかと思ったが、チームごとに事情はそれぞれあるのだろう。投打とも層は一気に厚くなり、シーズン後半に向けて態勢は整ったが、策士策に溺れるラミレスだけに、不安が解消されたわけではない。

 横浜スタジアムに足を運ぶたびに感じるのは、チーム一丸になって〝横浜愛〟を育もうと努力していること。俺も何となくその気になっているし、横浜の街への愛の深まりを感じている。俯瞰の目でNFL、欧州サッカーなどを楽しんできたが、ズームアップの目線、即ち愛がスポーツ観戦に適しているのだろう。
 
 俺が何より愛をもって接しているのは競馬だ。当ブログでも記してきた通り、競馬サークルは日本の現状に先駆けて、20年以上も前から酷薄な格差社会になっている。生産者から共同馬主に至るまで社台系が支配し、オーダーに従う調教師に良血馬が委託される。騎乗馬を決めるのも調教師ではない。

 ポイントオーナーゲーム(POG)の面白味も薄れてきて、今季は参加を控えようとも考えたが、ロジャーバローズのダービー制覇で状況は一変し、泥縄を縫ってドラフト会議に参加した。指名馬たちも良血馬ばかりで、アドマイヤの近藤オーナーがサトノの里見オーナーに競り勝ったアドマイヤカストルに至っては6億円の値がついている。

 指名後に気付いたのだが、ネットではカストルについて「体が小さくて成長の兆しがない」など否定的な声が飛び交っている。一方でノームコア、クロノジェネシスと活躍馬の妹クロトノーナは姉同様、リーズナブルな値だった。孝行娘の取引価格は脆弱なボンボンの40分の1だが、俺の愛はイコールだ。

 今週末、指名馬が3頭出走する。そのうちの一頭、シルヴェリオの兄2頭は才能を示しながら、足元が弱く大成しなかった。三度目の正直を期待している。次稿では、POGドラフト会議からハシゴしたイベントについて記したい。
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「人類最年長」~現在を穿つ島田雅彦のオートフィクション

2019-06-16 23:36:31 | 読書
 容疑者引き渡し条例に抗議し、香港で100万人(主催者発表)が集まった。きょう16日は9日を上回る参加者が立法府周辺を埋め尽くす。中国の圧力に抗し、民主主義を守るために立ち上がった市民は人口の7分の1に当たる。4割前後はデモ初体験という。「十年」、「誰がための日々」と雨傘運動の挫折を映す香港映画を見たが、<抵抗の地下水脈>が涸れていないことを映像で知る。最前線では雨傘が揺れていた。

 香港に心情的支援を送ると同時に、自由が死に瀕している日本の現状が哀しくなった。瀕死状態なのは自由だけではない。フリーとして夕刊紙で校閲を担当しているが、〝板子一枚下は地獄〟を実感させられる記事が多い。3割の世帯が貯蓄ゼロの現状で、年金制度崩壊を公言したに等しい「老後資金2000万円」が典型だ。孫崎享氏は、年収面、企業の特許獲得数、競争力の点でアジア諸国の後塵を拝していることを指摘していた。民主主義でも経済力でも日本は地盤沈下を食い止められない。

 今回紹介するのは島田雅彦の最新作「人類最年長」(文藝春秋)だ。島田は58歳、そして俺は62歳。天才と凡人の差は決定的だが、現在の日本を憂えている点は共通している。1861年(万延2年)生まれで、成長のスピードが他者の3分の1ほどの宮川麟太郞を主人公に据えた。小説における史実とフィクションの混淆をメタフィクションと記してきたが、正しくはドイツ研究者によるオートフィクションで、島田は本作でこの手法を駆使している。

 ブログで紹介したオートフィクションに則った小説といえば、李承雨著「香港パク」、目取真俊著「魚群記」、奧泉光著の「雪の階」と「東京自叙伝」といった作品だが、熟練の使い手は辻原登だ。短編、中編と枚挙に暇ないが、大逆事件に連座した大石誠之助を主人公に据えた最高傑作「許されざる者」では綿密な歴史検証に基づき、オートフィクションとマジックリアリズムをフル稼働させ、壮大な伽藍、蜃気楼を築き上げている。

 麟太郞は老いが進まぬ自身と周囲(主に家族)との整合性を保つため、折に触れて名前を変えていく。川上幸男、拝島仁志、そして神楽幹生だ。不死の理由はDNAだけではない。日露戦争で記者として従軍した麟太郞は満州族の苦力に助けられ、ヘシェン長老に宿る不老不死の精霊を受け継いだ。

 麟太郞は波瀾万丈の人生で、初代快楽亭ブラック、樋口一葉ら多くの歴史的人物と交流する。若い頃は文士を目指していたが、無意識のうちに〝名を成さぬ傍観者〟の道を選ぶ。開館100年の新宿武蔵野館で映画観賞を楽しむ場面など、150年以上の東京の風俗がちりばめられており、庶民の目を通した日本近現代史の趣だ。自ずと身につけた経験と人脈から、生業は人を結ぶ仲介業になる。麟太郞(たちというべきか)の人生を左右するのは戦争と災害だ。

 麟太郞自身は戦争を利用して甘い汁を吸うが、戦争に至る政治の空白と無策を現在と重ねていた。星野智幸は「未来の記憶は闇のなかで作られる」で日本の保守化と右傾化の起点を1999年に据えていたが、本作は100年以上の過ちの連鎖の完成形が安倍政権と捉えている。第2次大戦後は国民愚弄に加え、米国隷属が主音になった。

 本作は2020年、四つ目の名前の神楽が病院に運ばれ、看護師の佳乃に来し方を語るという設定になっている。佳乃が選ばれたのは、最も愛した女性、お宮の面影を宿していたからだ。関東大震災時、自警団が多くの朝鮮人を虐殺したが、麟太郞は少女を救った。後に再会したお宮を、麟太郞は名前が変わっても守り続ける。

 現政権に名を連ねる閣僚の多くは歴史修正主義を唱える日本会議のメンバーだ。彼ら狭隘な世界観と差別意識は関東大震災時のままである。本作に込められた島田の怒り、そして<安倍政権の暴政は明治以降の流れに沿った必然の帰結である>という作意にシンパシーを覚えた。
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「嵐電」~シュールなメルヘンに憑かれる日々

2019-06-12 20:39:01 | 映画、ドラマ
 遺書代わり、備忘録としてブログを綴ることが生活の基調になっている。何より怠け防止の効果が大きい。間近に迫ったPOGドラフトに向けて泥縄を縫っている今、〝しばらく休業〟を告知してもよかったが、独り善がりの駄文に付き合ってくださる方への感謝を込めて、通常通り更新する。

 今回紹介するのは映画「嵐電」(2019年、鈴木卓爾監督)だ。嵐電とは京福電鉄嵐山本線と北野線の総称である。もう45年も前になるが、高校2年の時、京都市内から亀岡に実家が引っ越したので、通学で嵐電を使ったことがあった。短期間だったが、車内から見た光景がセピア色の記憶に残っている。

 帰属意識に乏しい俺は愛校心と無縁で、同窓会の類いに参加したことは一度もない。社会的不適応者の俺を雇ってくれた会社には感謝しているが、澱が溜まって15年前に辞めた。皆さんがご存じの通り、俺は安倍政権支持者から〝反日〟かつ〝非国民〟に分類されているだろう。

 拗ね者の俺だが愛郷心だけはあり、高校スポーツでは競技を問わず京都代表を応援する。そんな俺がタイトルに惹かれ、テアトル新宿に足を運んだのは当然の成り行きだった。体はドラフトに向けた突貫工事で疲れているが、心は「嵐電」に憑かれてしまった。

 俺は妄想家だから、夢や幻想が現実と混濁する。睡眠不足は〝症状〟を悪化させ、本作の見え方が周りと違った。観賞した知人に感想を尋ねたら、「不覚にも寝てしまった」とバツが悪そうに答えていた。俺はといえば。「夢の中で夢を見るように『嵐電』を見た」……。俺は今、異界に入り口に佇んでいる。

 本作の謳い文句は<交錯する三つの愛>……。語り部を担うライターの平岡衛星(井浦新)が鎌倉からやってきた。その目に京都の街並みが映った瞬間、ノスタルジーの袋が破れ、全身に染み渡る。衛星が嵐電線路脇に部屋を借りたのは、妻斗麻子(安部聡子)と京都で過ごした時間を辿るためでもあった。鎌倉を走る江ノ電から提供された車両が嵐電で走っている。

 二つ目のカップルは、修学旅行生の南天(窪瀬環)と地元高校生の子午線(石田健太)だ。8㍉カメラで嵐電を撮影する子午線に恋した南天は、家出同然で京都に居残る。台詞で触れらなかったが、宿命的な幼い恋は名前に導かれている。南点とは天頂から見て、子午線と地平と交わる南の交点だ。南天は青森の高校生で、青森といえば寺山修司……。虚実のあわいを行き来する寺山的色彩を帯びていく。

 三つ目のカップルは、カフェで働く嘉子(大西礼芳)と俳優の譜雨(金井浩人)だ。嘉子は太秦撮影所にランチを配達した際、スタッフに誘われ映画に出演する。その作品が「カメラを止めるな!」風のホラーというのも洒落が効いていた。嘉子は東京人の譜雨に京都弁を指導しながら、嵐電沿線でデートをする。劇中劇の台詞のような二人の会話はラストの撮影シーンに連なり、現実とフィクションの壁が曖昧になる。

 ヒロインを演じる大西を発見したつもりでいたが勘違いで、別稿で紹介した「菊とギロチン」にも出演していた。嘉子はタイムスリップしたかのような女性で、古風かつ不器用だ。前の恋人と別れたことが傷になり、自分の殻にこもっているが、秘められた情念が譜雨との出会いで皮膚を食い破っていく。

 寺山色に加え、本作に彩りを添えるのが宮沢賢治だ。終電後の〝妖怪電車〟に「銀河鉄道の夜」を連想した。どこにも行けるはずの電車に乗ったら、大切な人との距離が遠くなることを知っていた衛星は、身を挺して、南天と子午線が乗り込むのを止める。嘉子と譜雨は乗ってしまった。譜雨が約束を破って東京に去っていったことを知り、嘉子は悄然とする。

 怪奇譚の趣が次第に濃くなっていく。嘉子が帷子ノ辻駅地下で幽体離脱し、息絶えた自身に帷子を掛けられるのを見るハイライトシーンで、あがた森魚の「カタビラ辻に異星人を待つ」が流れる。帷子辻は故事に基づき、地名と駅名の由来になった。皇后「橘嘉智子」と嘉子は、1000年以上の時を超えて「嘉」で繋がっていた。

 ラストで映写される8㍉フィルムも謎めいていた。嘉子の父が生前撮った嵐電の映像に、衛星と斗麻子、譜雨と嘉子の姿もある。ブラックホールのような空間に閉じ込められたと思いきや、衛星たちが現実に戻ったと思わせる場面もある。再度観賞する機会があれば、ちりばめられたピースを組み立て、俺なりの「嵐電」を走らせてみたい。


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「イングランド・イズ・マイン」に描かれた神話的邂逅

2019-06-08 20:07:15 | 映画、ドラマ
 自由と多様性、調和と共生、分散型かつ循環可能なシステム……。志向性に共感し5年前、グリーンズジャパン(緑の党)に入会した。日本では確たる成果を挙げていないが、お隣の韓国では飛躍的に党勢を拡大している。先月末の欧州議会選挙ではドイツで第2党になり、フランス、フィンランド、アイルランドでも大躍進した。オランダ緑の党のアイクハウトが欧州委員会の次期委員長に就任するという。

 排外主義を唱える極右勢力の進出を食い止めた緑の党は、EUの救世主と評価されているが、権力に接近することで陥穽に落ちる危険性もある。映画「最後の一滴まで」で欧州委員会は、グローバル企業と癒着した民営化の司令塔と否定的に描かれていた。緑の党は欧州で初心を保てるのだろうか。

 ブライアン・メイ(クイーン)は4年前の総選挙で緑の党の候補を応援した。若年層が環境問題に強い関心を抱く英国でも、友党はEU議会選挙で10%以上の得票率を得た。一方で世間を騒がせているのが、今回紹介する映画「イングランド・イズ・マイン~モリッシー、はじまりの物語」(2017年、マーク・ギル監督)の主人公である。

 モリッシーは辛辣な発言でメディアの寵児だった。ザ・スミスの2ndアルバム「ミート・イズ・マーダー」で反肉食と反戦を訴え、3rdアルバム「クイーン・イズ・デッド」はタイトルが物議を醸す。解散後もピカデリーサーカスにたむろする男娼の哀しみをモチーフに曲を作るなど、LGBTに理解を示してきた。左翼線ぎりぎりのラディカルというイメージがひっくり返ったのは先日のこと。極右政党支持を表明し、大手CDショップから締め出されたのだ。そんな折に見たのが本作である。

 ジャック・ロウデンが淡々とモリッシーを演じている点に好感を覚えた。ひきこもり、社会的不適応者、ゲイである息子を励ます母、そしてアーティストのリンダ……。二人の女性を繭にして、モリッシーは蛹から羽化出来たのだろう。世に出た後、主たる攻撃対象がエリザベス女王とサッチャーという辺り、女性全般へのモリッシーの屈折した思いが窺える。

 1970年代後半のマンチェスターが舞台だ。マンチェムーヴメントの嚆矢とされるセックス・ピストルズのライブ(76年)もエピソードとして描かれている。客数は50に満たなかったが、イアン・カーティスら後のジョイ・ディヴィジョンのメンバー、そしてモリッシーもその中にいた。「俺も足を運んだ」との証言を信じるなら、その場には100人を超える者がいたことになる。伝説とはこのように創られていくのだろう。

 パティ・スミス、デヴィッド・ボウイ、ルー・リード、ニューヨーク・ドールズに憧れるモリッシーはNME投稿欄の常連で、〝天才詩人〟を気取っていた。デビューの夢が現実になろうとした矢先、シャッターが閉ざされ、症状が重くなったモリッシーは自殺さえ考える。ある日、家のドアを叩いたのは、友人を仲介に知り合ったギタリストのジョニー・マーだった。

 1st「ザ・スミス」国内盤(84年春発売)の帯<20年ぶりの衝撃>には驚いた。ビートルズ以来を意味したからだ。俺はその頃、第1期ひきこもりを経て定職に就いた。青春時代の終焉と重なったこともあり、麻薬のように耽溺した。同作収録曲「スティル・イル」の歌詞から映画のタイトルが取られている。

 <20年ぶりの衝撃>はあながち的外れではなく、短い活動期間で数多くの伝説を残した。「百合の花が好き」とのモリッシーの言葉に反応したファンが投げ入れた百合の花で、グラストンベリーフェスのステージは真っ白に敷き詰められた。解散発表後、後追い自殺したティ-ンエイジャーの数はギネス級という。

 <ある時代の異端や前衛は後の正統になる>というアート界の格言通り、スミス解散後もモリッシーは燦めき続けた。モリッシーは今や、NBAレイカースの本拠地ステイプルセンターを2日間ソールドアウトにするほどの人気を博している。ソングライターとしてコンビを組んだマーもザ・ザ、エレクロトニック、クリプスらで活動し、秀逸なソロアルバムを発表している。

 モリッシーのライブでは今も少年少女がステージに上がり、恭しく体に触れ、感極まった表情を浮かべている。苦悩する10代にとってモリッシーは神性を帯びた存在で、近づくことが救いと赦しになるのだ。経緯を知らない人は宗教儀式と勘違いするかもしれない。

 モリッシーは作詞、マーは作曲と役割分担して独自の世界を創り上げた。決別して30年以上経った今、二人がスミス時代の楽曲をステージで披露することが増えている。どのような思いが去来しているのかわからない。アルバムを改めて聴いて、楽曲のクオリティーの高さに感嘆した。「イングランド――」に描かれたモリッシーとマーの邂逅は悲恋の始まりで、神話的色彩を帯びている。

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初夏のロック雑感~獄友イノセンスバンド、そしてイエモン

2019-06-04 23:20:54 | 音楽
 1日深夜、英ダービーを見た。起伏に富んだ深い芝で世界のトップジョッキーが腕を競う。アンソニーヴァンダイクの優勝タイムは日本ダービーより10秒以上遅く、①③着馬は日本で〝走らない〟が定着したサドラーズウェルズ→ガリレオのサイアーライン。日英のターフの景色は別世界だ。

 スピードに特化した府中で2日、安田記念が行われた。2年前にPOGで下位指名したアーモンドアイとダノンプレミアムの対決に心が躍ったが、競馬の恐ろしさを思い知らされる結果に終わる。アーモンドは不利を克服して③着と能力の一端を見せたが、ダノンプレミアムはまさかの殿負け……。さすがプロというべきか、伊藤正徳元調教師はグリーンチャンネルで、パドック→返し馬におけるダノンの硬さと右トモの運びの悪さを指摘していた。
 
 今回は初夏のロック雑感を記したい。まずは「冤罪3部作」一挙上映会(ソシアルシネマクラブすぎなみ主催)連動企画として開催された「獄友イノセンスバンド ライブin阿佐ヶ谷」(阿佐ヶ谷ロフト)から。小室等&こむろゆいの父娘、谷川賢作、河野俊二の4人にその都度、メンバーを加えるフレキシブルな構成だ。2日夜は李政美、谷川と別ユニットで活動している佐野岳彦、見田諭がステージに立った。

 リーダーは谷川で、「獄友」主題歌の作詞を谷川俊太郎に依頼し、アルバム制作を進めた。第2部冒頭でパット・メセニーの曲を河野とセッションするなど、幅広い音楽性、そして毒舌が光っていた。佐野と見田は若々しくシャープなパフォーマンスを披露し、李は在日コリアンとしての矜持と情念を滲ませていた。

 娘との漫才のようなやりとりで和ませる小室は75歳。自身が作曲した「だれかが風の中で」(「木枯し紋次郎」主題歌)で10代の頃にタイムスリップし、ノスタルジックな気分に浸る。小室は初心を忘れぬ〝風にそよぐ葦〟で、時代閉塞に抗い続ける「炭鉱のカナリア」を自任している。その精神は荒ぶるパンクロッカーだ。

 俺は専ら、ロックを〝読書の供〟に用いている。最近ならイールズ、エディターズ、グリズリー・ベアらのCDを棚から取り出し、心地良い刺激を受けながらページを繰っている。アンテナは錆び付き、進取の気性も衰えているから、購入するのは馴染みのバンドばかりだ。まずはザ・ナショナル(US)の8th「アイ・アム・イージー・トゥ・ファインド」から。

 彼らのライブを見た時、マット・バーニンガー(フロントマン)の声質にイアン・カーティス、仕草にモリッシーを連想した。インディーズ(4AD)ながら壮大なロックアンセムで英米のチャートを賑わせたが、キャリアを積むにつれ4ADらしく実験的になってきた。本作には多くの女性アーティストが参加し、静謐で美しく、アンビエントで開放感に満ちたサウンドを創り上げた。

 フェスのヘッドライナー格に上り詰めたフォールズ(UK)は、ニューウェーヴのメランコリックなムードに裏打ちされた豊饒なポップを奏でてきた。5th「エヴリシング・ノット・セイヴド・ウィル・ビー・ロストPART1」は初心に帰った感がする。エキセントリックでアート色が濃かった1st「アンチドーツ」を彷彿させる本作は、PART2と対になっているという。年内に発売された折には併せて感想を記したい。

 サンプルは少ないが、両作は年間ベストアルバム候補と思いきや、〝伏兵〟が現れた。ザ・イエローモンキーが19年ぶりの新作「9999」の発表会を武道館で開催し、曲順通り演奏するシーンがBSスカパー!でオンエアされた。バンドの登場が想定外なのか、お約束なのかはともかく、曲のクオリティーの高さと、年齢に相応しい枯れた佇まいに感銘を覚える。掉尾を飾ったのは「刑事ゼロ」の主題歌だった。

 別稿(5月11日)で浅井健一をここ30年の邦楽NO・1ロッカーに挙げた。平成ベストロックアルバムを挙げるなら「セキララ」(シャーベット名義、実質的には浅井のソロアルバム)、「オリーブの樹の下で」(PANTA、響名義)、そしてザ・イエローモンキーの「SICKS」だ。「9999」は「SICKS」に匹敵する傑作だと思う。

 仕事先の夕刊紙で五木寛之は<昭和は豊饒な歌の時代だった>と綴っていた。平成は歌が壊れた時代とも言えるが、上記3作のソングライター、浅井、PANTA、吉井和哉は日本語と格闘し、ロックと融合させた。浅井はイメージをカラフルに紡ぎ、PANTAはラディカルな知性と先見性を表現する。そして吉井は、もののあはれ、無常観を織り込み、切ない刹那を織り込んだ。

 「最近の歌はなっていない」と言い出すのは、年寄りになった証拠だろう。でも俺の耳には、社会の逼塞と軌を一に、歌が退屈で凡庸になっているように聴こえている。


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