酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

初春の雑感~フェルメール&レンブラント、ベルギー、反原発集会etc

2016-03-29 22:32:19 | 独り言
 先日、「フェルメールとレンブラント~17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち」展(森アーツセンターギャラリー)に足を運んだ。2大画家の展示はフェルメール1点、レンブラント2点だけで誇大広告の感は否めないが、切磋琢磨した画家たちの作品に触れることができて幸いだった。

 1976年W杯で代表チームのプレーに痺れて以来、オランダに親近感を抱いている。中心選手のヨハン・クライフが24日、肺がんで亡くなった。サッカーの概念を変えた男の死を心から悼みたい。クライフが示したオルタナティブな志向はオランダ社会に浸透し、ワークシェアリングと育児休暇制度の推進、再生可能エネルギーの導入(地熱など)、同性婚の法的平等、麻薬解禁、売春公認など、斬新な政策で耳目を集めている。

 静物画のフルーツに見入って腹をグゥーと鳴らしてしまった俺だが、展示作品を通じ、光の巧みな描き方に気付いた。曇天が多く日照時間が短いオランダで暮らす画家たちは、光への憧憬を表現したのだろう。プロテスタントが多数を占め、因襲の呪縛を解かれた当時の開放的な空気がキャンバスから弾けていた。

 隣国ベルギーで起きた爆破事件で亡くなられた方に哀悼の意を捧げたい。350人近い負傷者の一日も早い回復を願っている。まずは国連常任理事国(米、英、露、仏、中)が、自国製武器の最終到達先をリサーチするべきだ。武器輸出に歯止めをかけない限り、根本的な解決に至らない。

 犯行グループが原発を狙っていたことが、世界を震撼させる。日本人は原発の脆さを身に染みて知っている。原発廃炉の道筋を模索することが、世界共通の課題ではないか。そんな風に考えながら26日、代々木公園で開催された「原発のない未来へ! 全国大集会」に足を運んだ。3会場に分かれ、3万5000人が集まった。

 俺はケヤキ並木(第3ステージ)で、オルタナミーティングのスタッフとして参加した。「チェルノブイリ事故から30年 3・11から5年~講談とチンドンが世界を変える!?」(4月26日)の告知が目的だが、同イベントに出演する神田香織さん関連の書籍、ジンタらムータのCD、そしてジンタらムータのみわぞうさんがデザインした反原発Tシャツをブースで発売した。オープニングアクトのジンタらムータ、進行役を務めた神田さんもブースに足を運んでくれる。

 オルタネミーティングの大場亮プロデューサーには迷惑を掛けっ放しだった。方向音痴ゆえ道に迷って約束の時間に遅れ、パネル設置などの作業では滞ることしきり。温厚な大場さんも「ホント、不器用だな」とあきれていた。記念撮影(写メ)にも失敗していたようで、俺が撮った分は大場さんのフェイスブックに載っていない。愛嬌の良さを発揮し、訪問者や他のブース関係者らと親しく交流出来たことが救いだが、失点を取り戻すには至らなかった。

 Tシャツにつられ、ロシアからの美形ギャル3人組、ドイツ人と日本人の中年夫婦も立ち寄ってくれた。普段はドイツ在住だが、集会を知って参加したという。ドイツ人の夫が「私の住んでいる市では30%の支持を誇る緑の党が市長です」と流暢な日本語で話しかけてきた。「僕たちも緑の党(グリーンズジャパン)です」と答えると意気投合し、貴重なアドバイスを頂いた。彼いわく「グリーンピースとの連携も必要」。考えたこともなかった。  

 テント撤去など片付けが大変だったのでデモに加わらなかったが、傍目で見ていて年齢層は高かった。俺と大場さんの共通認識は<音楽、映画、文学を政治と結びつけよう>、そして<政治の言葉を豊穣に>だ。1930年代、そして60年代はアートが政治とリンクしていた。世界は今もそうだが、日本は埒外だ。敏感な若者を政治に引き寄せるために、少しはもがいてみたい。

 帰途、代々木駅で大江戸線に乗り換えようとしたら、集会帰りの友人と偶然会った。駅近くの喫茶店でしばし歓談、いや、憤懣をぶちまけられた。民進党を応援するのが当然というムードに我慢ならないという。彼は30年以上、真摯に反原発に取り組んでいたが、民進党結成で反原発は大幅に後退し、参院選の対立項にならない可能性が強い。俺も同感である。

 当ブログで<永田町の地図を塗り替えても仕方がない>と繰り返し記してきたが、危惧した通りに進んでいる。スペイン、スコットランド、アメリカ、台湾。香港で起きた構造的変化を日本で起こすため、老骨に鞭打ちたい。
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「きんぴか」~血が滾る超弩級エンターテインメント

2016-03-25 12:32:22 | 映画、ドラマ
 まず将棋関連から。郷田真隆王将が羽生善治名人を4勝2敗、渡辺明棋王が佐藤天彦八段を3勝1敗で退け、それぞれタイトルを防衛した。敗れた2人は来月5日から名人戦で相まみえる。NHK杯トーナメント決勝は村山慈明七段が千田翔太五段を破り初優勝した。郷田はA級からB1級、村山はB1からB2とともに陥落の憂き目を見たが、期末に実力を見せつけた。

 棋界ナンバーワンの名伯楽といえば森信雄七段だ。上記の千田五段だけでなく弟子には糸谷哲郎八段など個性派ぞろいだが、山崎隆之叡王が最強コンピューターのPONANZAと電王位を懸けて戦う。さらに一番弟子、故村山聖九段の29年の生涯を追った映画「聖の青春」(大崎善生原作)が今秋公開される。今年は森一門が話題を独占しそうだ。

 WOWOWでオンエアされた「きんぴか」(全5回)は血が滾るような快作ドラマだった。原作(浅田次郎)は未読だが、1992~98年に計3作が発表されたという。20年のタイムラグを経て、2016年の空気をビビッドに反映した内容になっていた。

 敵対する組のトップをピストルで射殺した阪口健太(中井貴一)、安保法案撤回(原作では湾岸戦争への派兵反対)を訴え自衛隊上層部の会議に乗り込んだ大河原勲一曹(ピエール瀧)、収賄罪で逮捕された政治家秘書の広橋(ユースケ・サンタマリア)……。卓越した能力を持ちながら、不器用でついていない3人の男が主人公だ。前稿で「拳銃伝説」を紹介したが、「きんぴか」の主人公である健太は〝ピスケン〟と呼ばれている。ロシアンルーレットのシーン(第4話)もエキサイティングだった。

 13年ぶりに娑婆に出てきた健太だが、出迎えはひとりもいない。死をもって諫めようとした大河原は自殺に失敗した。将来の総理と目された元財務官僚の広橋も山内幹事長に切り捨てられる。健太=肚、大河原=腕、広橋=頭……。<保証書付きの馬鹿、鑑定書付きの悪党>と揶揄しながら3人を引き合わせたのが老刑事の向井(綿引勝彦)だ。3人は銀座の一角にあるアジトで牙を磨く。

 設定は凝っているが、普遍の真理が物語のベースになっている。六代目山口組と神戸山口組の抗争が世間を騒がせている折も折、健太は自身を破門した組長に<義理と人情はどこに消えたか答えてみろ>と詰め寄る。大河原は<自衛隊員を平和の名の下に殺そうとする安保法案は人倫にもとる>と首相宛ての直訴状を突き付けた。甘利元経済再生相の一件を彷彿させるのが秘書として罪を被った広橋だ。

 3人は正義感と友情で結ばれていく。健太の敵は金で動く狡猾なヤクザ社会、大河原の敵は美辞麗句を並べながら利に聡い自衛隊幹部、そして広橋の敵は〝巨悪〟の山内だ。「蛇の道は蛇」というが、敵同士が繋がっていることも3人の絆を深めた。〝黒いネズミ〟こと腐敗した警察官僚も絡んで疾走するストーリーに、息つく間がなかった。競馬ファンは大井競馬場で撮影したシーン(第1話)でワクワクしたに相違ない。スリリングなピカレスクにユーモアがちりばめられ、超弩級のエンターテインメントに仕上がっていた。

 健太の弟分である克也(現若頭)、大河原の部下だった倉田、広橋の知人で硬骨の草壁記者が回転軸になり、物語は遠心力を増していく。本作は健太と大河原から覚悟と意地を学んだ広橋の成長物語ともいえよう。肚を括った広橋はラストで勇気を振り絞り、大きな一歩を踏み出した。男臭いドラマだが、健太と心を通わせる看護師マリアを演じた飯島直子が異彩を放っていた。生と死の境界で闘うマリアの激情に、「北陸代理戦争」の高橋洋子が重なった。

 本作で再認識したのが中井貴一の存在感だ。冷徹、憤怒、情熱、優しさを巧みな表情の変化で表現するオールラウンドプレーヤーである。本作もいずれDVD化されるだろう。不条理、理不尽、不正への怒りで拳を握り締めている方には必見だ。ラストで無上のカタルシスを覚えることを保証する。
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「拳銃伝説」~歴史の闇を疾走する驚愕のノンフィクション

2016-03-21 20:16:19 | 読書
 「さよならドビュッシー」(中山七里原作/日本テレビ)を見た。表現を巡る深いテーマに裏打ちされた傑作ミステリーだと思う。東出昌大、黒島結菜の好演に加え、北大路欣也、木の実ナナ、菊池桃子らベテランが、ドラマに厚みを加えていた。ピアニストを主人公に据えた小説なら「シューマンの指」(奥泉光著)を挙げたいが、映像化は難しいだろう。

 19日は高円寺駅で街宣した後、「戦争法を廃止へ~安倍政権の暴走許さない総がかり日比谷大集会」(日比谷野音)に参加した(主催者発表5600人)。雨の中、会場外に人が溢れ、街頭の反応も良かった。

 枝野幸男民主党幹事長が演壇に立ったことに憤りを覚えた。官房長官時代に繰り返した「(放射能は)直ちに影響はない」を決して忘れない。今も怪しい動きを見せている。参院新潟選挙区では反原発派の森裕子氏(生活の党)が野党統一候補に決まっていたが、連合(原発推進派)の意を受けた民主党が横やりを入れ、菊田真紀子衆院議員の擁立をもくろむ。批判を浴びての断念会見で、枝野幹事長は不快感を隠さなかった。
 
 デモの途中、東京電力の前を通る。テーマが何であれ抗議の声を上げるのがお約束だが、今回はスルーされ、主催者がリードするシュプレヒコールにも<反原発>は含まれていなかった。原発推進派が多数を占める民主党(遠からず民進党)への配慮だろう。俺の近くでひとり、東電に抗議していた参加者の叫びが心に響く。

 「拳銃伝説」(大橋義輝著、共栄書房)を一気読みした。<昭和史を撃ち抜いた一丁のモーゼルを追って>のサブタイトル通り、歴史の闇を疾走する驚愕のノンフィクションである。著書を読むのは初めてだが、ジャーナリストの良心というより、熱いブン屋魂を大橋に感じた。首相狙撃に使われた銃の軌跡を辿る過程で、石井部隊、川島芳子、武者小路実篤が登場する。

 現在と1930年代の日本の相似性を指摘する論考を頻繁に目にする。大橋の危機感、憤りも行間から滲んでいた。キーワードは<ファシズム>で、本作はライオン宰相こと濱口雄幸首相銃撃事件で幕を開ける。犯人の佐郷屋留雄は愛国社社員の若者だった。ちなみに当時の右翼は、現在の〝ネット右翼〟とは真逆で、匿名性に紛れず、格差と貧困を憂え、経済優先に反感を抱いていた。中国への憧憬が強く、体を張って権力に対峙していた左翼にシンパシーを覚えていた。

 襲撃に用いられたモーゼル式八連発拳銃は、いかなる経路で佐郷屋の元に渡ったのか。そこに登場するのが、〝男装の麗人〟、〝東洋のマタ・ハリ〟、〝満州のジャンヌ・ダルク〟と謳われた川島芳子だ。清朝皇族の家系に連なり、父粛親王の顧問だった川島家の養女になって、日本で少女時代を過ごす。芳子の生涯や伝説について記せばきりがないので割愛するが、件の銃を一時所有していた。

 実弟の金憲開は陸軍士官学校卒業後、旅先の別府で銃殺もしくは事故(誤射)で亡くなる。警察が保管していた銃は、「弟を偲ぶよすがにしたい」と申し入れた芳子に預けられ、親交のあった岩田愛之助(愛国社創設者)、そして複数の手を経て佐郷屋に渡る。数奇の運命に彩られた銃だった。

 メーンストーリーの背後に、歴史の闇が横たわっていた。濱口首相は放射線菌に侵されており、銃撃の傷は癒えたが、持病が悪化して亡くなる。佐郷屋は殺人未遂で訴追され、恩赦もあって10年後に仮出所した。首相の検視を担当したのが病理学の世界的権威、清野謙次京大教授だった。奇行で知られた清野は、七三一細菌部隊を率いた石井四郎が教え子だったこともあり、最高顧問として生体解剖への協力を惜しまなかった。

 首相銃撃事件は七三一部隊、そして戦後最大の凶悪事件である帝銀事件へと繋がっていく。石井自身が「犯人は部下ではないか」と米国で証言していた。著者は史料、証言、モンタージュ写真を元にXを犯人と特定し、出身地の金沢に向かう。子供たちを検体に選んでいたXは、悪名高い部隊内で蛇蝎の如く嫌われていた。著者が挙げたXの実名はウィキペディアに載っていたが、帝銀事件の犯人と示唆する記述はなかった。

 七三一部隊、そしてX……。戦争が育んだ悪魔の末裔はアメリカにより免罪され、薬害エイズ事件を起こしたミドリ十字など製薬会社、大学や医療機関に潜り込んだ。前々稿の枕で<悪魔、そして悪魔に操られる者が存在する>と記したが、<福島の子供たちの甲状腺がんは大丈夫>と語る研究者の系譜を溯れば、山下俊一氏を筆頭に七三一部隊に行き着く。悪魔は歪んだ笑みを浮かべて、今の日本を闊歩しているのだ。

 著者は佐郷屋が幼い頃に過ごした「新しい村」を訪ねる。創設者の武者小路実篤は佐郷屋少年をモデルにした小説を書いている。大橋が武者小路に生理的反発を抱いていることが窺われ、ひねくれ者の俺も共感を覚える。友愛を説いた武者小路だがその実、火宅の人で、戦争協力者として公職追放処分を受けていた。戦後に右翼の大立者になった佐郷屋と武者小路の距離は、いかほどだったのか。

 ページを繰るうち、熱が心身に伝導していくノンフィクションだった。次稿に記すドラマ「きんぴか」(WOWOW)はさらにヒートアップする内容で、銃が大きな役割を担っている。
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「牡蠣工場」~狭い間口の奥に広がる小宇宙

2016-03-17 22:41:42 | 映画、ドラマ
 一昨日(14日)、「第124回江戸川落語会」(総合文化センター)に足を運んだ。新小岩駅前でタクシーに乗って行き先を告げると、「イベントがあるんですか」と運転手さんに尋ねられる。「落語会です」と言うと、「私、落語ファンで、寝ながら志ん生や圓生のCDを聴いてるんです。現役の噺家、あのレベルじゃないでしょう?」と聞かれる。「どうなんでしょうね」と言葉を濁すしかなかった。

 古今亭文菊「棒鱈」→柳家喬太郎「抜け雀」→三遊亭白鳥「千葉の棒鱈」→喬太郎「ハワイの雪」の豪華なラインアップで、チケットは早々にソールドアウトだった。37歳の文菊は真摯に古典と格闘し、ともに52歳の喬太郎と白鳥は巧みな間と客席との掛け合いで笑いの渦を広げていた。温もりと煌めきに触れ、冷たい風雨にも余韻は去らなかった。

 ミニ・スーパーチューズデーでクリントン前国務長官に差を広げられたサンダース上院議員だが、支持者は意気軒高だ。5年前の反組合法への抗議→ウォール街占拠で覚醒した若者たちは異口同音に、<今回はあくまで通過点。州議会選挙、中間選挙でサンダースに考えが近い候補を応援し、世の中を変えたい>と語っている。日本でも数年後、<汚れた永田町の地図>を塗り替えるうねりが起きるだろうか。

 経歴詐称を暴かれたショーンマクアードル川上氏だが、「報道ステーション」におけるコメントに違和感を覚えなかった俺もまた、騙されていたのだろうか。永田町にだって怪しい輩が揃っている。放射能汚染について無知をさらけ出した丸川珠代環境相、保育所問題で酷い野次を飛ばした平沢勝栄議員はともに東大卒で、それぞれテレビ朝日、警察官僚を経て国会議員になる。言論封殺に前向きな高市早苗総務相は神戸大卒業後、近大教授だった。彼らは詐称こそしていないが、経歴は腐臭を放っている。

 シアター・イメージフォーラム(渋谷)で先日、想田和弘監督の観察映画第6弾「牡蠣工場」(15年)を見た。デビュー作「選挙」(07年)しか見ていないが、宇都宮健児氏とのトークセッション、「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」(13年、ジャンフランコ・ロージ監督)の初回上映記念イベントで、柔和な素顔に接した。「映画も撮ってるんですかとよく言われます」と自嘲的に話していた通り、想田監督は政治的発言や著作でも知られている。

 観察映画とは何か。台本、テロップ、ナレーション、音楽がない。先入観を排し、予定調和とも無縁だ。偶然が重なって、牛窓町(岡山)の牡蠣工場でカメラを回すことになる。撮影は7日間だが、編集には9カ月を要したという。スタッフは監督と奥さんの柏木規与子さん(製作担当)の2人で、スポンサーはいない。

 撮る側と撮られる側の距離が次第に縮まり、本音が引き出されていく。賄い担当の女性と話しているうち、監督自身が奥さんとの馴れ初めを披露するシーンが微笑ましかった。観察映画が成立する最大の条件は、周りを自然体にさせる監督の柔らかなムードかもしれない。本作には〝主演〟が存在する。冒頭で寝そべっていた白猫で、彼(彼女)の目で映画に入り込めた。その後も頻繁に登場し、見る者を和ませる計算外の効果があった。

 牡蠣工場の玄関が繰り返し現れる。少年時代を過ごした京都のウナギの寝床を思い出していた。間口は狭いのに奥行きがある建物と本作は、構図が似ている。過疎の進行、後継者に悩む漁師、硬直化した行政……。カメラが捉える光景に、グローバリズムの現実、日本の未来図が反射していた。

 フリッツ・ラングやチャプリンは、効率とスピードに翻弄される労働者を諷刺していたが、牡蠣工場は意外なほどシステマチックだった。牡蠣棚での採集、剥き作業、出荷準備、殻の廃棄、清掃とテンポ良く進行する。鈍臭い俺など、数日でクビになるに違いない。熟練の技に見入ってしまったが、全工程を把握しているのは、工場を継ぐ渡辺さん(記憶違いならすみません)だ。渡辺さんは三陸海岸で牡蠣工場を経営していたが、放射能の問題もあり、震災後は家族で牛窓に移住した。監督の意図しないところで、瀬戸内海と東北が繋がったのだ。

 2人の中国人が工場にやって来た。軍事力増強、爆買いなど話題に事欠かない中国だが、多くの労働者がブローカーの仲介で出稼ぎに来日するという仕組みが厳然と存在する。2人はともに若く、おばちゃんたちから「イケメンやな」なんて声が上がるほど爽やかなルックスだ。教育係は渡辺さんで、2人は少しでも役に立とうと必死になっている。

 日中友好、あるいは反中と浮ついた言葉が蔓延しているが、2人の若者が日本のルールや習慣に馴染むのか、それとも反発するのか興味を覚えた。想田監督には彼らに焦点を当てた「牡蠣工場Ⅱ」を期待したいが、そのような問題意識は、観察映画の基本から逸脱しているのだろう。

 予告編で見ようと決めた映画が3本ある。「あまくない砂糖の話」、「光りの墓」、「シリア・モナムール」だ。この春はイメージ・フォーラムに何度も通うことになりそうだ。
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「砂浜に坐り込んだ船」~死と生を紡ぐ池澤夏樹の鎮魂歌

2016-03-13 22:44:46 | 読書
 11日前後、絆、希望の文字とダンスしていたメディアは、4年後の東京五輪を待ち望んでいる。そこに矛盾を覚えるのは俺だけだろうか。一昨年と昨年、被災地に数日滞在し、癒えぬ傷痕に触れただけで、<東京五輪は国家犯罪>と確信した。東北から目を逸らし、莫大な費用と労力が投じることが良心や倫理にもとるのは、五輪から漂う腐臭が証明している。

 この世に悪魔、そして悪魔に操られる者が存在する。11日の「報道ステーション」は原発事故と甲状腺がんの因果関係に迫ったが、番組で「福島で多発する子供たちの甲状腺がんは、放射能と関係あるとは断定できない>と濁った目で発言した医師や研究者は、「放射能は大丈夫」を繰り返した〝日本のメンゲレ〟こと山下俊一氏の系譜を継ぐ悪魔たちで、グローバルな原発マフィアの利権を代弁している。

 3・11直後、上杉隆氏は「ニュースの深層」(朝日ニュースター)に反原発派を次々招いて喝采を浴びたが、圧力は凄まじく、いち早く報告したメルトダウンと汚染水流出は封殺され、タイムラグを経て<真実>と認定された。大株主の朝日新聞は代理店の意向に沿い、朝日ニュースターをテレ朝チャンネルに改編し、「愛川欣也パックインジャーナル」、米リベラル&左派の拠点「デモクラシーNOW!」をラインアップから外した。あろうことか朝日新聞は山下俊一氏に「がん大賞」を授与し、悪魔にお墨付きを与えた。

 広瀬隆氏は「私たちが潰すべきは電力会社、関連企業、銀行ではなく原発そのもの」と訴え、廃炉に向けた経費を国民が負担するのは仕方ない」との現実的な道筋を示した。脱原発を体制選択から解放するという柔軟な提案は、残念ながら賛同を得られなかった。<敵と味方>の二元論に縛られ、ステレオタイプの言葉を吐き続けても何も変わらない。

 ギザギザ、カサカサした心を潤してくれる小説を読了した。8遍からなる短編集、池澤夏樹の新作「砂浜に坐り込んだ船」(新潮社)である。東日本大震災、そして原発事故への思いが反映されている。池澤は東海村JCO臨界事故(1999年)以降、脱原発を明確にし、「すばらしい新世界」(2000年)では自然エネルギーを志向する企業研究員を主人公に据えていた。

 全編を貫くテーマは老い、孤独、死、そして鎮魂で、死者たちが交流する。表題作「砂浜に坐り込んだ船」の舞台は石狩港で、座礁した船を見にいった主人公は帰宅後、亡くなった友と語り合う。共有した時間、焼死した友の母について会話は弾み、座礁と難破の違いに思いを馳せる。<彼の場合は座礁だった。(中略)肉体としては彼はあそこで死んだけれど、彼の心は間違いなく離礁して母のいる岸辺に向かった>と独白する。

 「苦麻の村」は3・11後、仮設住宅に独りで暮らす老人と自治体職員の交流が描かれていた。<戻りたいが 惨事の里には戻れない 故里は太古の原野のごとし>という被災者が投稿した歌が、本作の下敷きになっていた。「上と下に腕を伸ばして垂直に連なった猿たち」では、デラシネの叔父と背伸びしている10代の姪が冥界で再会する。BGMはオペラ「椿姫」で、知的な会話に文化が薫る一編だった。 

 「大聖堂」は大震災時の大津波が背景になっている。生き残った3人の少年が、亡くなった祖母の伝を頼り、孤島の別荘でピザを焼くという字面のストーリーに謎が織り込まれている。半球の窯にくべられた火は、現実とパラレルワールドとの通路になっていたのか。ボルヘス風の「夢の中の夢の中の、」で主人公の意識は現実と中世を行き来する。「イスファーハーンの魔神」もまた、正倉院に残されていた水差しの複製、召される老人の魂を巡る時空の旅がテーマになっていた。

 掉尾を飾る「マウント・ボラダイルへの飛翔」では、主人公と亡き作家の邂逅が描かれ、池澤自身の放浪の青春が窺えた。8編中、最も感銘を覚えたのは「監獄のバラード」である。俺は池澤の父、福永武彦の世界にのめり込んだ時期がある。煩悩と妄想の塊だった(今も)俺にとって、福永の小説はある種のストッパーだったかもしれない。愛の深淵に迫った父と確執があったとされる池澤は、世界を俯瞰で眺める作家になった。

 「監獄のバラード」では主人公が、自ら別れを切り出した女性の父の墓前に跪き、真情を吐露するという設定で、福永ワールドにそのまま重なる。主人公は<私が彼女を殺した>と告白し、悔恨と贖罪を言葉にちりばめる。深読みすれば、主人公は父で、〝殺した女性〟は池澤の母と置き換えることも可能だろう。70歳になった池澤は父を赦し、和解したのではないか。

 10代で福永武彦に魅せられ、還暦間近で池澤夏樹に親しむ。俺の文学史は偉大な父子に彩られている。小説を読むことは社会生活を送る上でプラスにならない。でも、何事にも代え難い至福を味わわせてくれるのだ。
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「バードマン」~疾走感たっぷりに描かれた飛翔、そして失墜

2016-03-10 23:50:44 | 映画、ドラマ
 昨9日、大津地裁が高浜原発3、4号機の運転差し止めの決定を下した。福井地裁が下した再稼働差し止め(昨年4月)の判決文と併せて読むと、少し希望が湧いてくる。良心、倫理に基づいて生存権を説く、極めて真っ当な内容だと感じた。

 友人の杉原浩司さんが代表を務める武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)発足集会に先月、参加した。杉原さん、池内了氏(宇宙物理学者)、古賀茂明氏(元経産官僚)のトークセッションで期せずして3人が強調したのは、良心と倫理である。防衛省トップは<パレスチナ空爆で成果を挙げたイスラエルと協力する>なんて恥ずべき言葉を、罪の意識もなく語る。あと数分で日付は変わるが、この5年は一体何だったのか。暗澹たる気分になる。

 野球賭博に関与した巨人高木京介が昨日、読売本社で謝罪会見を行った。朴訥とした語り口に、ひねくれ者の俺でさえ同情してしまう。同じ会見といっても、政官財の腐敗の構造にどっぷり漬かり、膨大な裏金が動いたのにシラを切った甘利前経済再生相と比べたら、罪は何桁も軽い。福井、大津地裁のように、検察は正義を貫く勇気があるのだろうか。

 高木、既に無期失格処分を受けた3選手、さらに覚せい剤取締法違反で逮捕された清原和博……。レベルの差はあるが、彼らは紛うことなきエリートで、東京砂漠を這うように生きてきた俺とは別世界の人間だ。頂点を極めた男の悲哀を描いた映画をWOWOWで録画して見た。昨年度のアカデミー賞作品賞など数々の栄誉に輝いた「バードマン(あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(14年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)である。

 イニャリトゥ監督といえば、新作「レヴェナント:蘇りし者」がアカデミー賞監督賞を受賞している。興行成績やエンターテインメント性はともかく、イニャリトゥ、ジャック・オーディアール、ジャンフランコ・ロージの3人が今、最も映画祭に強い監督といえそうだ。ちなみにイニャリトゥで最も印象に残っているのは「アモーレス・ペロス」(00年)である。

 公開当時、俺は「バードマン」を見なかった。映画通の知人からラストの解釈を聞かされたからである。ストーリーは一切知らないまま、時折ストップしながら本作を見た。冗舌で時空が交錯するスケール感に溢れたイニャリトゥ・ワールドに、アクション性が加味されていると予想していたが、少し違った。

 主人公リーガン・トムソンを演じたのはマイケル・キートンだ。リーガンは20年以上前の映画「バードマン」シリーズで名声を得たという設定で、その辺りは「バットマン」に主演したキートンに重なる。イニャリトゥはキートンを念頭に置いてシナリオを書いたのだろう。

 高層ビルのエレベーターに乗っていると、上昇中なのか下降中なのかわからなくなる。台詞にも出てくるが、リーガンはまさにイカロスで、飛翔と失墜を併せて体感した。彼の中に棲むもう一人が語りかけ、その目にバードマンの姿が映る。少し変調なリーガンの最大の理解者は、これまたかなり変調な娘かつ付け人のサム(エマ・ストーン)である。

 落ち目の映画スターと見做されているリーガンは、無謀と思える試みに打って出る。脚本、演出、主演でブロードウェーにチャレンジするのだ。リーガンと恋人ローラ(アンドレア・ライズボロー)、実績のある舞台俳優のマイク(エドワード・ノートン)と恋人レズリー(ナオミ・ワッツ)の4人で演じられる。

 リーガンの目的は再起ではなく、ピリオドだったのか。レイモンド・カーヴァーにインスパイアされた芝居のテーマは、愛の不毛、悔恨と絶望で、他のイニャリトゥの作品同様、<死の匂い>が濃厚に漂っていた。リーガンが発揮する超能力はリアルか妄想か、現実と虚構が混淆し愛憎が絡まる劇中劇、そしてラストシーンと、本作はダブル・ミーニングの手法を用い、判断を観客に委ねている。物語は各自の心の中で広がりもすれば、萎みもする。

 内幕物といえる本作だが、ワンカットで撮り切るカメラワーク、リーガンの心象風景とマッチするドラムソロで疾走感に溢れていた。リーガンがパンツ一丁でニューヨークを闊歩するシーン、そして空想の中で宙を舞うシーンが本作のハイライトといえるだろう。予告編でミスリードしたのは狡いといえなくもないが……。最後にサブタイトルの<無知がもたらす予期せぬ奇跡>の意味が明かされる。

 ニュース番組をはしごしながら本稿を書いた。画面には一昨年、昨年に訪れた被災地の今が映し出されていた。今秋も機会があれば東北に足を運びたい。
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「雪の練習生」~異次元に聳える多和田ワールド

2016-03-06 20:45:56 | 読書
 程良く可愛い新人ジョッキーの藤田菜七子は、〝競馬界のAKB〟になれるだろうか。競馬学校教官や記者には、技量を評価する声がある。世間に先んじて新自由主義が浸透し、情が入り込む隙のない競馬界で、彼女がいかに階段を上っていくのか興味はある。

 程良く可愛い卓球女子は世界2位をキープしたが、なでしこジャパンは五輪出場を逃した。「糸が切れたビーズみたい」が試合を見た人の感想だが、一言で表現すれば金属疲労か。ボールゲームに必要なのは、モメンタム、ケミストリー、求心力だ。なでしこにおけるダイナモは、澤穗希だったということか。

 従軍慰安婦問題での日韓合意、衆参ダブル選、そして辺野古埋め立ての一時中止……。安倍首相が計算ずくで投じる変化球に、メディアは踊らされている。首相の振る舞いに重なるのが、星野智幸著「ロンリー・ハーツ・キラー」(2004年)に登場する岸(≒安倍)だ。岸は治安強化を主張して権力の座に就き、民主主義否定の政策を次々に実行する。硬軟両用のファシズムの進行を、星野は10年以上も前に予言していた。

 リブロ池袋が昨夏に閉店し、芳林堂が先日、倒産した。上京後、江古田に20年以上も住んでいた俺にとって両店は憩いの場だったから、人生の一部が切り取られたような寂しさを覚える。背景は出版不況だが、若者の読書離れ、いや、生活が苦しくて本にお金を回せなくなったことが大きい。又吉直樹が文学の伝道師として期待される理由もよくわかる。

 多和田葉子著「雪の練習生」(2011年、新潮文庫)を読了した。「祖母の退化論」、「死の接吻」、「北極を想う日」の3章からなる本作は、実話がベースだ。ドイツ滞在時、メディアを騒がせた動物園の人気者、白熊クヌートの死(10年)にインスパイアされ、多和田はホッキョクグマ3代を主人公に据えた小説を著した。

 昨年2月に当ブログで紹介した「犬婿入り」が、「雪の練習生」を読み解く予習になっていた。「犬婿入り」の表題作は異種婚の伝承に着想を得ていたが、「雪の練習生」では熊と人間の交流がエロチックに描かれている。収録作「ペルソナ」のテーマはアイデンティティーで、本作で熊たちは自分探しの旅をしている。

 多和田はロシア語を学び、ドイツ留学後は小説を2カ国語で発表した。ドイツと日本の境界に佇み、被るべき仮面が見つからない……。そんな自身の経験が多和田の出発点なのだろう。さらに本作では、3代のホッキョクグマの物語が現代史に組み込まれている。旧ソ連、旧東ドイツ、カナダ、そして東西統一後のドイツが後景に控えているのだ。

 第1章「祖母の退化論」の導入部で戸惑ってしまう。熊の「わたし」はサーカス引退後、会議に参加して発言している。サーカス時代、恋心を寄せたオットセイは今や狡猾な文芸誌編集長だ。これは「動物農場」(ジョージ・オーウェル著、1945年)の現代版かと勘違いした。交わされる会話は閉塞的な旧東欧社会を反映しており、人々は声を潜めている。

 諷刺に溢れた第1章だが、肝要なのは、熊であるわたしが作家になるという設定だ。わたしが表現に至る経緯は、多和田が作家になる過程と重なっているはずだ。言葉とは、伝えるとは、物事の意味とは……。蜃気楼のように揺らめく多和田の作品群に近づくヒントが、本作にちりばめられている。

 第2章「死の接吻」はわたしの娘「トスカ」、動物使いの女性ウルズラの絆が軸で、ブッチーニのオペラ「トスカ」が下敷きになっている。トスカとウルズラは東ベルリンでサーカスの舞台に立つ。女同士、しかも人間と動物の接吻を〝資本主義的頽廃〟と見做す声もあった。接吻によって意識が行き来し、トスカとウルズラは種を超えて互いの人生を共有し、伝記の形で綴っていく。

 第3章「北極を想う日」は統一後のベルリン動物園が舞台だ。母トスカに拒絶された息子「クヌート」は、人間の手によって育てられる。読み落としただけかもしれないが、トスカがなぜ母性を喪失したのか明示されていない。トスカがウルズラと息子の関係を学んだことも理由のひとつと、俺は勝手に想像している。

 クヌートにとって、家族を犠牲にして養育してくれたマティアスこそ母であり、初恋の対象だった。赤ん坊のクヌートが周囲を認識し、言葉と実体との結びつきを把握していく過程は人間と同じだ。クヌートは他の動物と交流するうち、わたしという一人称を学び、自身のアイデンティティーを探し始める。まさに〝北極を想う〟のだ。マティアスが去った後、クヌートの元を訪ねるのが、ゲイをカミングアウトし、今は異界で暮らす俳優ミヒャエルという設定も興味深い。

 本作は屈曲したプリズムが重ね合わされ、様々な色彩が織り込まれたタペストリーで、読む者を寓話、神話の領域に誘う。小説を読む時、俺は作者との間合いを計っているが、多和田との距離は遙かに遠く、異次元を仰ぎ見る感覚だ。ノーベル文学賞の候補と目される多和田ワールドを囓っていきたい。
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圓生、A級順位戦、河津桜~日本文化をしっとり楽しむ

2016-03-02 23:42:34 | カルチャー
 米大統領選はヒラリー・クリントンとトランプの対決になりそうだ。スパイク・リー、ロバート・ライシュ(ビル・クリントン政権時の労働長官)らがサンダース支持を表明したが、ヒラリーの壁は頑強だ。別稿(2月25日)で記した危惧が現実になった。

 「デモクラシーNOW!」で市民活動家が、サンダースの戦略に疑義を呈している。いわく<南部に来て革命や運動の話をし、北部リベラル向けの選挙運動をしても、拒絶反応を招く>(要旨)……。サウスカロライナ州の黒人地区で、サンダースはクリントンの6分の1の票しか獲得出来なかった。

 新自由主義、拝金主義の総本山で、サンダースは平等という刃を突き付け、ヒラリーの政策を左旋回させた。日本でも生活保護世帯が過去最多を更新するなど、格差と貧困が最大の問題になっている。俺が〝日本のサンダース〟と期待しているのが、反グローバリズム、反資本主義に立脚する山本太郎参院議員だ。昨年4月、統一地方選の応援演説で、若者の貧困、非正規雇用の増大、戦争法、徴兵制、原発再稼働、TPPをリンクさせ、論理的かつ情熱的に訴えていた。

 ようやく本題……。齢を重ねるにつれ、俺は情緒的になっている。先週末から今週にかけ、落語、将棋、桜と日本文化に浸った。

 TBSチャンネルでは週末、国立劇場で収録された高座を「落語研究会」の枠で放映しており、名人の至芸に触れることが出来る。この1年余り、1979年に亡くなった三遊亭圓生(享年79歳)を特集している。先日は召される数カ月前に上演された「お藤松五郎」に聞き惚れ、いや、見惚れた。当時との笑いのツボの違いも興味深かった。

 落語は寄席に行って見るものというのが落語通の声だ。表情、顔の向き、身ぶり手ぶり、扇子や手ぬぐいの使い方と、6歳で義太夫語りとして舞台に上がった圓生の芸は筋金入りだ。松五郎が勘違いの末、刃傷沙汰に及ぶ寸前でサゲる。近々オンエアされる「後家殺し」も悲劇的結末を迎える。圓生は男の嫉妬をテーマにした噺が好みだったのか。

 A級順位戦最終全5局が行われる日は「将棋界の一番長い日」と呼ばれ、ファンの目が集中するイベントだ。かつてNHK・BSプレミアムが中継していたが、囲碁・将棋チャンネルからニコニコ動画と放映体制の〝劣化〟に不満を覚える。日本文化といえば、かなり怪しい大相撲を昼から中継するNHKだが、囲碁や将棋のタイトル戦はラインアップから消えつつある。

 NHKといえば安倍機関の中枢だが、安倍首相が何より推進しているのはアメリカ化で、格差と貧困を進行させ、TPPで日本の伝統や文化が崩壊しても気にしない。小学校からの英語教育、人文系学部の縮小も俎上に載せられている。NHKが囲碁、将棋に冷淡なのも、首相の意向に沿っているからだろうか。

 A級順位戦を勝ち抜いた佐藤天彦8段が、羽生名人への挑戦権を獲得した。行方尚史8段との直接対決は棋譜中継を見る限り、息詰まる大熱戦だった。佐藤は王座戦で羽生を追い詰め、現在は棋王戦で渡辺(竜王)に挑戦中だ。旬の若手で今期のMVP候補だが、タイトルを取らないと誰かに取って代わられる。俊英ひしめく厳しい世界だ。

 28、29日は伊豆稲取に1泊し、河津を訪れた。海に面した宿は眺望も食事も素晴らしかったが、横に並ぶ3軒のホテルが廃業していた。伊豆を訪れる人が減っているのか、他に理由があるのかわからないが、寂れ感は拭えなかった。

 ライトアップされた夜桜を鑑賞した時点では感興を覚えなかったが、翌日昼に桜並木を歩いて河津桜の魅力に圧倒される。ピークを少し過ぎ、葉桜も多かったが、菜の花の黄が目にさやかで、互いを引き立てていた。川、山と野趣に富む光景と桜がマッチし、多くの観光客を引きつけるのだろう。平均年齢を下げていた中国からの若者の集団は、桜に何を感じたのだろう。

 俺は20代の頃、<日本的に価値を置くこと=右派>だったが、最近は<アメリカに隷従すること=右派>である。右派が信奉していた皇室は、今やリベラルのよりどころになっている。この40年に生じた捻れを実感する日々だ。
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