酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

涙の一年を亀岡で振り返る

2011-12-30 17:26:54 | 戯れ言
 まず、最初に。今年も俺のファジーでアバウト、唯我独尊の戯言に付き合っていただき、ありがとうございます。川柳やエッセーに挑戦し、芸風に幅を持たせたいと考えてはいるが、当分は現状のままになりそうだ。

 今年もあと2日、底冷えのする亀岡のネットカフェで当ブログを更新している。昨日は先月末に亡くなった叔父(前住職)の逮夜に出向いた。10月の帰省時、伯母の葬儀を抜け出して〝ついで参り〟した寺である。言い伝えの効力を悪い形で証明したようで、いささか居心地が悪かった。この10年、介護に明け暮れていた叔母は、寂しさと同時に解放感も覚えているのか、いつも通り明るく振る舞っていた。

 文化人として名を馳せた叔父、そして気丈な伯母……。親族が相次いで召され、俺自身もまた人生の第4コーナーに差し掛かっている。死は既に自分の問題で、老後の過ごし方を母、妹、義弟と話す機会が増えた。

 今年は涙に暮れた一年だった。怒り、絶望、無力感……。負の感情が混ざり合い、塩辛い水分になって頬を濡らした。俺が悲しかったのは、3・11が変化をもたらさなかったことである。この国が世界に誇り得るのは無常観、罪の意識、他者に同化する優しさだが、3・11以降、政官財は日本人の美徳にそぐわない動きで、既得権益の確保を優先する。
 
 3・11とは、永遠の重い鎖なのか。日本人は放射能を帯びた漆黒の影に怯えつつ、<正常性バイアス>に囚われ、仮初の安全にしがみついている。世界に目を転じると、<抵抗>が空気を表すキーワードになった。中東諸国では民衆が独裁政権を倒し、アメリカでも民主主義を旗印に、反組合法運動や<99%>による叛乱が広がった。反グローバリズム、反資本主義が国境を超えて浸透しつつある。

 そんな年、最も心に響いたのは、3・11直後の辺見庸氏と小出裕章氏の言葉だ。辺見氏は「瓦礫の中から言葉を」(NHK)で「現在試されているのはあくまで個」と繰り返していた。小出氏は「終焉に向かう原子力集会」(4月29日)で故田尻宗昭氏(反公害活動家)の言葉を引用し、「社会を変えていくのは数ではない。一人です(少し間を置き)二人です、三人です」と講演を結んだ。

 3・11が日本人に投げかけた問いの一つは、<個の確立>だ。家族、仕事、コミュニティー、しがらみ、建前と大切なものは多いが、自分は何を重視するのか、普段の生活の中で優先順位をつけ、不測の事態に対応できるように準備しておくのが理想だろう。俺のように老い先短く身軽であれば、失うものなどないのだから難しくはない。でも、家族を抱える人はどうだろう。当ブログで他者を顧みず、無責任な発言を繰り返したことを反省している。

 政治は骨抜き状態で、民主党が掲げた理想は潰え、アンシャンレジーム(旧体制)が我が物顔で闊歩している。濃い闇の彼方に、光は射すだろうか。
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「国家の恥 一億総洗脳化の真実」~上杉隆の遺言を読む

2011-12-28 01:22:39 | 読書
 まずは有馬記念の反省から。<愛と信頼>でギャンブルに興じてはいけない。人気を背負ったPOG指名馬は散々な結果で、リーディング争いとブエナ引退レースのプレッシャーからか、岩田は明らかに精彩を欠いていた。自らの博才のなさが身に染みる痛くて寒いクリスマスになってしまった。

 さて、本題。今回は2011年のMVPのひとりである上杉隆氏を取り上げる。「国家の恥 一億総洗脳化の真実」(ビジネス社)を読了した。テーマは北朝鮮? いや、日本の現実を見据えたものだ。民主主義の国で快適に暮らす日本人、独裁体制下で塗炭の苦しみを舐める北朝鮮の人々……。その経済格差は絶大だが、自由度、洗脳度にどれほどの違いがあるのだろう。

 上杉氏は国民を欺いてきたメディアを斬っている。年内で活動休止する上杉氏にとり、本書は〝遺言〟といえるだろう。ネット上(ダイヤモンド・オンライン)にアップされた記事をまとめたもので、「原発メディア震災」、「一億総洗脳化社会の行方」、「マインドコントロール支配の恐怖」、「暴論もたまにはいいことを言う」の章立てから、上杉氏の思いが伝わってくるはずだ。現在も公開中だし、本稿は同書の背景にポイントを置いて記すことにする。

 上杉氏を発見したきっかけは、一枚のアルバムだった。「オリーブの樹の下で」(PANTA、07年)で、重信房子さん(元日本赤軍リーダー)が作詞を担当していた。録音に参加した娘のメイさんがジャーナリストと知り、ネットで検索する。「ニュースの深層」でメイさんの隣に座っていたのが上杉氏だった。

 最初は正体不明だったが、そのうち上杉氏の人となりがわかってくる。切り口の鋭さ、打たれ強さ,間口の広さ、ユーモア……。そして、彼の敵が記者クラブであることを知る。辺見庸氏は記者クラブの政治記者を「糞にたかるハエ」と断じ、森達也氏と森巣博氏は「ご臨終メディア」(05年)で記者クラブを痛烈に批判していた。そして上杉氏は、自由報道協会を立ち上げ、正面化から戦いを挑む。記念すべき第1回会見(1月下旬)に、情報公開に積極的な小沢一郎氏を招いた。

 この人選により、記者クラブ=反小沢、自由報道協会=親小沢の図式が出来上がってしまう。不毛な議論に終始するかと思いきや、3・11で別の構図にスライドした。「原発については中立」と語っていた上杉氏だが、〝悪の巣窟〟記者クラブがひれ伏す<原子力村=国家権力>の強大な壁にぶち当たったのだ。

 原発事故に関して大本営発表を垂れ流した日本のメディアは、内外から不信の目を向けられる。一方で上杉氏は、今日に至るまで「ニュースの深層」で原発事故、放射能をテーマに取り上げ、原子力村に切っ先を向け続けている。その執拗さ、闘志、反骨ぶりには感嘆するしかない。活動続行を心から願っている。

 メディアが権力のスピーカーになった理由を、俺自身の経験を踏まえて考えてみる。学生時代(1980年前後)、活動家がクラスに来て署名を集めることがしばしばあった。ラディカルな内容からヒューマニズムに根差すものまで様々だったが、署名する者は、俺を含め少数だった。「署名すれば警察から企業に通報され、就職できなくなる」と拒否した者の何人かは、3大紙や大手出版社に就職する。彼らに言論人としての初心はなく、目指したのは<一流の奴隷>だった。

 スパルタカスはともかく、良心やお上に逆らう気概は奴隷にない。上杉氏のマスメディアへの怒りは理解できるが、ないものねだりではなかろうか。ちなみに<三流の奴隷>である俺は、失うものがないから少しは自由だ。だから、毒にも薬にもならぬ戯言を吐き散らかしている。



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<愛と信頼>の競馬~有馬デーは岩田に託す

2011-12-25 10:07:03 | 競馬
 今年ほどジングルベルが虚しく響く年はない。3・11から9カ月半、人々は何を祝い、何に浮かれているのだろう……。なんて、どこからも声が掛からぬ拗ね者が斜に構えている。そんな俺からクリスマスプレゼントを。この時季に相応しい2本の映画を紹介したい。

 1本目はアメリカでクリスマスシーズンの定番になっている「素晴らしき哉、この人生!」(1946年)だ。史上ベストワンに推す声も強いが、左翼と見做されたキャプラは本作以降、レッドパージの一環でハリウッドから締め出される。キリスト教国を自任するアメリカがヒューマニズムや理想と無縁であることを、巨匠の失意の後半生が物語っている。

 2本目は、同性愛者で共産主義者の鬼才パゾリーニによる「奇跡の丘」(64年)だ。聖書から忠実に引用されたキリストの言葉の数々が、透明の鋭い杭になって心に突き刺さる。イエスを革命家として捉えた清々しい群像劇で、拝金主義で信仰が歪められた今こそ、<キリスト教の原点>として観賞されるべき作品だ。

 ちなみに公開当時、「素晴らしき哉、この人生!」は酷評され興行的にも大失敗、一方の「奇跡の丘」はパゾリーニが欲しくもなかったはずのカトリック映画事務局賞を受賞するなど、明暗を分けている。

 五十路も半ばを過ぎたことだし、少しは枯れたいと思っているが、相変わらずゴキブリみたいに触角をピクピクさせながら這いずり回っている。俺にとって上記の2本は、自らを浄めるための濾紙でもある。

 さて、本題。POGに参加して4年、競馬への接し方に、<愛と信頼>というギャンブルにそぐわない要素が加わった。指名馬のレースをグリーンチャンネルで見て、勝てば素直に喜び、負けても納得いく理由を見つけ出す。まるで親バカの<愛>だ。4頭の指名馬が出走するクリスマス、俺にとってのメーンレースは有馬記念ではなく中山7RホープフルSだ。フェノーメノが勝てば一躍、東のクラシック候補に浮上する。

 最も<信頼>している騎手は、指名馬を幾度となく勝利に導いてくれた岩田だ。11年は西のクラシック候補ディープブリランテ、上記フェノーメノなど6勝のうち4勝が岩田とのコンビだった。その岩田にとって、今日は人生で一番長い日になる。初のリーディングが懸かっているからだ。

 勝利数で並ぶのは福永だ。「武豊TV!~新年会スペシャル」(08年)に酩酊状態で出演した岩田は、「中央入り当時、ある若手騎手からいじめや嫌がらせを受けた」と告白する。「ピー」と音が被されていたが、ネット上で〝犯人〟扱いされたのは福永である。それが事実とすれば、中央のエリートと園田の叩き上げの意地がぶつかり合う一日になる。

 これまでお世話になったお礼と、ディープブリランテでのダービー制覇を願って、有馬記念は岩田が騎乗するブエナビスタから馬券を買う。最内でじっくり足をためる岩田の得意技に期待したい。結論は◎①ブエナビスタ、○⑨オルフェーヴル、▲⑫アーネストリー、注⑬レッドデイヴィス、△③ヒルノダムール。ブエナ1頭軸の3連単が中心だが、馬体重やオッズを見て買い足しもあり得る。今年を象徴する数字、③⑪の馬連とワイドも付け加えたい。

 今日は朝からPAT漬けで10レース近く購入しそうだ。渡辺竜王のブログによれば、一日平均25レース買うという。画像記憶力、論理的思考力、直感に秀でた竜王ならたやすいはずだが、回収率は94%と知り安心した。超の付く天才といえども、ギャンブルの神には敵わないということか。


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十回忌に「ルード・ボーイ」~ジョー・ストラマーの清冽さと真摯さ

2011-12-22 22:30:06 | 音楽
 森田芳光さん、上田馬之助さんが相次いで亡くなった。個性と存在感で多くの人を魅了した二人の冥福を心から祈りたい。

 森田作品は80年代に数本見た程度だが、脚本を担当した「ウホッホ探検隊」を含めスクリーンから才気が零れ落ちていた。「それから」や「(ハル)」など見逃した映画も多いが、オンエアされた機会に楽しむつもりだ。

 プロレスの魅力は村松友視風にいえば<虚実ないまぜ>だが、俺は上田さんを<虚実とも悪>と決めつけていた。偏見が砕けたのは学生時代、上田さんと家族ぐるみで付き合いがあったサークルの先輩に、その穏やかな素顔を聞かされたからだ。当時は意外だったが、俺ぐらいの年になると、善と悪が見せかけと反比例することを理解している。

 さて、本題。きょう22日は、クラッシュのリーダーとしてロックに革命を起こしたジョー・ストラマーの十回忌に当たる。先日、「ルード・ボーイ」(80年)をDVDで再見し、清冽で真摯な姿勢に胸を打たれた。 

 「ルード・ボーイ」はドキュメンタリーとフィクションで構成されている。クラッシュのライブ映像、「ロンドン・コーリング」のセッション、人種差別反対集会でのパフォーマンスに、バンドのルーディーであるレイの行動が重なる。酒浸りのレイは自分を律することが出来ない自堕落な青年だ。メンバーやマネジャーは自然体で演じているが、肝といえるのはレイとジョーの会話である。

 クラッシュは<初期衝動>を体現するパンクバンドと評されているが、実像は異なるのではないか。ジョーは外交官の息子で、全寮制のパブリックスクールに通っていた。下降する過程でロックと出合い、<衝動>ではなく<知性と理性>に基づいてメッセージを発信した。ラディカルな姿勢に異議を唱えるレイに、ジョーは左翼である理由を説明していた。

 バンドは数々の警察沙汰を抱えていた。中には明らかな弾圧もあり、本作でメンバーは、留置場で受けた暴行を生々しく証言している。冒頭で暗示されていた通り、パンク隆盛は労働者階級にとって〝悪夢のサッチャー時代〟の幕開けと軌を一にしていた。

 日本でも大々的に紹介されていたクラッシュだが、アンプが壊れても新品を購入する金はなく、ライブ会場の規模も小さい。ツアーで泊まるホテルも並以下で、移動も車で相乗りだ。環境が劣悪だからこそ、時にロックは輝きを増す。屁理屈は抜きにして、渋谷陽一氏が繰り返し語っていたように、クラッシュほどフォトジェニックな(見栄えのいい)バンドはない。本作でも、メンバーの立ち位置とステージで織り成す角度、所作と表情の格好良さに感嘆するしかなかった。

 本作はジャマイカ系移民の困難な状況をサイドストーリーで描いていた。レゲエの形式だけでなく精神まで取り込んだクラッシュは、ジャマイカ人が認めた唯一の白人バンドだ。ニカラグア革命をテーマに据えた「サンディニスタ」では、あらゆる民族音楽を取り入れた<境界線の音>で評価を高め、その実験性と志向は多くのフォロワーを生む。

 公開当時と現在のロンドンに、相通じる空気がある。この30年、新自由主義とグローバリズムが世界を席巻したが、遂に今年、破綻を迎え、貧困と格差が再び最大のテーマになる。世界で叛乱の連鎖が起きているが、旗幟鮮明に立ち向かうことの意義を、ジョーは身をもって示してくれた。

 フジロックでジョーは関係者、ボランティアとともにゴミを拾っていたという。ジョーは生き様でも尊敬に値する稀有なロッカーだったのだ。


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「王国」と「キリング・ムーン」が織りなす影絵の世界

2011-12-19 21:47:45 | 読書
 パソコン故障でデジタルの軛から逃れたせいか、読書に励んだ年だった。最近、本屋で衝動買する機会が増えている。「読んでくれ」と本が俺に呼びかけているような感覚は学生時代、久しぶりのことだ。今年読んだ作品でとりわけ感銘を受けたのは、「すばらしい新世界」(00年、池澤夏樹)、「水の透視画法」(11年、辺見庸)、そして再読した「神の火」(95年、高村薫)である。

 反原発の側に立つ池澤は、自然と人間との理想的な絆を提示した。辺見は<既に崩壊した精神>の隠喩として3・11を捉えている。「神の火」は2人の中年男が原発を爆破する終焉の物語だ。いずれも3・11以前、起き得る事態を見極めていた慧眼による作品だが、俺が'11ベストブックに挙げるのは「だから、鶴彬」(楜沢健著)だ。この国の大衆運動の黄金期(1920年代から30年代前半)、川柳を武器に闘ったパンク魂に心がそよぐ。不可解な獄死を、731部隊による<最初の丸太=実験台>とする研究者もいる。

 最も親しんだ作家といえば中村文則だ。今年は「悪と仮面のルール」(10年)、「土の中の子供」(05年)、「最後の命」(07年)の順で読み、いずれも当ブログで絶賛した。今回は最新作「王国」(河出書房新社)について記したい。

 まずは注文から。「ムーア人の最後のため息」に悪戦苦闘した俺の脳に、「王国」はある種の消化剤だった。軽すぎる、いや、テーマは重厚なのに短過ぎるのだ。<ドストエフスキー的課題>を継承している作家に、複層的な枠組みで饒舌に語ってほしいと願うのは、時代遅れの感性なのだろうか。

 中村の小説は登場人物の設定が肝になっている。「王国」の主人公ユリカも、他の作品同様、秩序や良識を嫌悪している。裏社会に属し、風俗嬢として要人に接近して眠らせる。偽装のセックス写真を撮り、ボスの矢田に送信するのが仕事だ。殺人事件に遭遇したユリカは、巨悪の木崎と出会い、両組織の狭間で裏切りと嘘を繰り返す。

 善とは、悪とは、神とは……。重い問いが闇の迷路で礫のように飛び交う。ユリカの心の鋼が折れないのは、予めすべてを失くしているからだ。親友ユリとその息子の翔太は既に召され、身を賭して守る者は存在しない。剥き出しになったユリカの生存への希求が、物語の遠心力になっている。

 3・11を経た今、不謹慎な表現だが、ユリカは紙袋に入った小型の核爆弾を、それとは知らず抱えて街を疾走しているかの如くだ。破滅的な凶事が連鎖的に生じるが、ユリカの入手した情報も導火線のひとつになっている。

 <太陽が沈んだ後も、その光を盗み、私たちのような存在を照らす――、月>……。<残酷な月も、これを見れば少しは笑うのに>……。<月は薄い雲に覆われているのに、その奥で、溢れるほどの光を出している。ちょうど、エリが死んだ夜のように>……。<男の背後に、満ちた月がある。それは赤く、なぜかどうしようほど赤く、輝いている>……。

 本作にはユリカの主観で月の描写が繰り返される。映画化されたら、主題歌はエコー&ザ・バニーメンの「キリング・ムーン」以外に考えられない。死への誘い、届かない幻想に囚われ、逆らえない宿命に翻弄される……。言葉と音が重なり、狂おしい影絵になって俺の心に映し出された。

 大きなニュースが飛び込んできた。北朝鮮・金正日総書記の死である。独裁崩壊を願うばかりだが、世襲は既定路線のようだ。3・11以降、日本政府とメディアは、不自由で閉鎖的な顔をあらわにした。この国でもまた、形を変えた独裁が進行しているのではないか。
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「マネーボール」が描く男の矜持と意地

2011-12-16 03:57:06 | 映画、ドラマ
 今年の世界のキーワードは<叛乱>と<反資本主義>だが、スポーツ界に変化の波は押し寄せていない。財政危機に瀕しているスペインとイタリアだが、トップチームは有望選手獲得に莫大な金額を用意している。MLBも同様だ。地盤(経済)に亀裂が生じたら、建物(スポーツ)も倒壊する。<99%>に属するファンはいずれ高額選手を見放すかもしれない。金を巡る正気と狂気の境界線を定める時機が来たのではないか。

 前置きと重なる「マネーボール」(11年、ベネット・ミラー監督)を見た。実話の映画化で、ブラッド・ピットはオークランド・アスレチックスの敏腕GM、ビリー・ビーンを演じている。野球のみならずプロスポーツの在り方を問いかける秀作だった。

 ビリーは18歳で岐路に立つ。奨学金で名門スタンフォード大に進学するか、メッツに入団するか……。後者を選んだビリーだが、結果を出せなかった。01年オフ~02年シーズンにビリーの選手時代の回想がカットバックし、人生における選択の意味を浮き彫りにする。

 アスレチックスは01年シーズン終了後、ジアンビ、デーモン、イズリングハウゼンの主力3人を失った。資金力に劣るアスレチックスは日本でいえば広島カープで、有力選手を留め置くのは難しい。商談でインデアンスを訪問したビリーは、選手ではなくスタッフを引き抜いた。エール大で経済を学んだピーターである。

 ピーターの目に映る選手像は球界の常識を覆すものだった。「デーモン放出は正解」と語るピーターに、「君なら俺をどんな条件でスカウトした?」とビリーは尋ねる。「9巡目で契約金なし」と当時のメッツと真逆の評価を示したピーターは、GM補佐としてチーム改造に協力する。

 監督、コーチにスカウトはビリーとピーターに拒否反応を示すが、本作では<マネーボール>の別の顔が描かれている。低迷するチームに奇跡を起こしたのは<数式>ではない。ビリーは和を乱す選手を放出して気合を投入し、ベテラン、若手問わず巧みに動機付けする。20連勝を生んだのはビリーの<人間力>なのだ。

 NFLのヘッドコーチやコーディネーターには、ウォール街の<金融工学者>タイプのワーカホリックが多い。MLBに置き換えればビリーやピーターだが、勝敗の帰趨を決するのは空気である。モメンタムを引き寄せ、ケミストリーを起こすのが名将の条件で、最初に顔が浮かぶのはジョゼ・モウリーニョ(レアル・マドリード監督)だ。

 幾分オカルト的だが、当時のオークランドは勝利の女神に嫌われていた。ビリーはワールドシリーズに手が届かなかったし、悪童軍団レイダースも、疑惑の判定や非運続きでスーパーボウル出場を逃していた。01年秋、ジアンビに翻意を促したレイダースの闘将グルーデンは翌年早々、不可解な経緯でチームを離れる。02~03シーズン、前ヘッドコーチの遺産でスーパーボウル進出を果たしたレイダースだが、当のグルーデン率いるバッカニアーズに21対48と完敗した。

 ビリーはレッドソックスが提示した破格の条件を蹴り、アスレチックスにとどまる。2度目の選択ミスといえるかもしれないが、離れて暮らす娘がディスクに吹き込んだ曲の歌詞のように、他人のフリをして人生という迷路を歩んでも意味はない。ビリーは金に換えられない矜持と意地を守ったのだ。

 最後に、日本で今年封切られた'11映画ベスト5を。1位「未来を生きる君たちへ」、2位「アジョシ」、3位「ブラック・スワン」、4位「大鹿村騒動記」で、5位には園子温監督の「冷たい熱帯魚」と「恋の罪」を合わせて推す。厳密にいうと共に昨年暮れ公開だが、「キック・アス」と「海炭市叙景」も挙げておきたい。

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師走のスポーツ雑感~なでしこ、王さん、クラシコ、WWE

2011-12-13 21:08:30 | スポーツ
 別稿(2月25日)で<現時点で早くも個人的な'11ベストアルバムが決定した。アーティストとしての成熟を感じさせるPJハーヴェイの「レット・イングランド・シェイク」だ>と記した。NME誌が先日、同作を年間ベストアルバムに選出したのを知り、「五十路半ばでも、感性は衰えちゃいない」と自慢したくなった。

 2カ月前、自業自得でパソコンを壊した結果、生活がアナログになり、読書に割く時間が増えた。その分、スポーツへの関心が萎んだが、MVPを挙げるなら、なでしこジャパンだ。下馬評を覆して準々決勝でドイツを破った時点でヒートアップし、決勝は気合を入れて応援した。こまやかで和を貴び、粘り強いという大和撫子の美徳を体現していたことが、人気の最大の理由だろう。大会前はシビアな環境でプレーしていたことも、総下流社会で共感を得たはずだ。セルフプロデュースに長けた彼女たちは総じて魅力的だった。

 なでしこにとって、国民栄誉賞の先輩である王さんのドキュメンタリー「王貞治 走り続ける人生」が放映された。RKB制作ゆえ、王さんが福岡を新天地に選んでからに焦点を当てていた。10代の頃、沢村忠の真空飛び膝蹴りやビル・ロビンソンの人間風車に魅せられたが、最大のカタルシスは王さんのホームランだった。王さんが打席に入ると、息苦しいほどの緊張がラジオからでさえ伝わってくる。王さんは時を止める魔法使いだったのだ。

 世間のイメージは<長嶋さん=太陽、王さん=月>だが、俺の感じ方は違う。王さんは国籍から家族、少年時代のエピソードまで語り尽くされているが、長嶋さんの生い立ちは対照的に、読売が隠したかと勘繰りたくなるほど明かされていない。長嶋さんは<読売の囚われ人>として野球人生を終えるが、王さんは巨人を離れることで自由の翼を得た。中内功、孫正義という怪物と交友することで、スケールを増したのではないか。

 <王さんと会って好きにならない人はいない。いろんなことを経験し、いろんな色を吸収すると濁っていくはずなのに、ここまでもと思うぐらい白に近い>(論旨)

 番組で改めて実感したのは、イチローの直観力と表現力だ。王さんの開放的な性格、人をランク付けしない目線を絶賛し、上記のように語っていた。ダイエー監督就任後、辛酸を舐めたことで心が濾過され、情熱と恬淡を併せ持つ境地に達したのだろう。王さんに理想の老い方を教えてもらった。

 クラシコは予想外の結末だった。有利とみられたレアル・マドリードが、バルセロナのGKバルデスのミスで先制点を挙げる。前半はペースを掴んでいたが、次第に防御網を食い破られて3失点。珍しく沈黙を守って試合に臨んだモウリーニョの傷心はいかばかりか。〝世界一の名将〟が年下のグアルディオラに煮え湯をのまされ続ければ、冠まで奪われる可能性がある。

 監督(ヘッドコーチ)のタイプは様々だ。NFLでは戦術から選手、スタッフまでチームを自分色に染めるタイプが多いが、モウリーニョは故仰木彬氏に近く、素材を生かしてまとめていく。チェルシーではスピードある攻守の切り替えでプレミア全体の質を変え、インテルではセリアAに合った抑制の取れたチームをつくった。

 モウリーニョがレアル監督に就任した際、<神話崩壊>を予感した。メッシを軸にしたバルサの流れるサッカーに対抗するためには、クリスチャーノ・ロナウドではなく、ピッチを駆け回るルーニーが必要だと思う。リーガとCLでともに優勝を逃したら、ルーニー移籍でチェルシーのダイナミズム再現を目指すかもしれない。

 WWEで今年、一気にポジションを上げたのはCMパンクだが、個人的なMVPはアルベルト・デル・リオだ。ドスカラスの息子でアマレス(五輪代表)、格闘技路線で名を馳せてからプロレス入りした。グラウンド技、間接技と引き出しが多く、初めてプロレスを見た頃(1960年代半ば)の外国人レスラーの佇まいを備えている。体格に恵まれ、エンターテインメントを弁えた完全無欠のヒールだ。

 プロレス史上最大の事件というべき「シナ問題」は混迷の度合いを増している。〝完璧なベビーフェース〟としてプッシュしたシナが、激しいブーイングを浴びるようになる。ストーリーラインに手を尽くしても逆効果だ。<不良っぽいが、先生たちと仲良しで成績もいい>というシナのキャラは、コアなファン(15~25歳の男)に絶対受けない。シナの敵役と位置付けられたオートンやCMパンクが、今や大声援を浴びている。

 このままではシナも不幸だし、ヒールターンすべきと考えるが、映画やCMの絡みもあって難しいのだろう。WWEがファンを簡単に操れる時代は終わった。「シナ問題」をどう解決するのかを楽しみに、来年もWWEを見続けることになりそうだ。


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「ムーア人の最後のため息」~寓意と仕掛けに満ちたラシュディの世界

2011-12-10 20:43:31 | 読書
 自称〝日本一の薄着男〟も、ユニクロのヒートテックのありがたさを実感する日々だ。仕事先では愛煙家が寒空の下、駐車場脇に設けられた喫煙スペースで震えながら煙草を吸っている。煙草とは無縁の俺だが、<禁煙ファシズム>の徹底ぶりには不気味さを覚える。と同時に、ある疑問が湧いてきた。健康志向の日本人は、どうして放射能に鈍感なのだろう。

 最前線で放射能と闘った吉田福島原発前所長が、自らの食道がんを公表した。チェルノブイリ後の25年を検証すれば、吉田氏ほど短期間に発症しなくても、若い世代が放射能に蝕まれていく可能性は極めて高い。今のうちに抗議の声を上げておかないと、「原発と病状には因果関係なし」と、政府は棄民の伝統に則り患者を見捨てるはずだ。

 さて、本題。「ムーア人の最後のため息」(95年、サルマン・ラシュディ/河出書房新社)を読了した。2段組み450㌻の難解かつ饒舌な長編で、贅を尽くした巨大なデコレーションケーキを食べ終えた気分だ。パティシエ(作者)は「このフルーツは○○産です」とか、「クリームは特殊な製法で作りました」とか教えてくれるが、貧乏舌の俺にはさっぱりだ。端折るポイントを見つけないとゴールに辿り着けない。

 1990年前後、個人的に文学の発見が相次いだ。「悪童日記3部作」(アゴタ・クリストフ)、「蟻」(ベルナール・ウェルベール)、そして「真夜中の子供たち」(ラシュディ)である。3人の作家は各の方法論で、21世紀に至る文学の可能性を提示した。当ブログではウェルベールの3作――「蟻の革命」、「タナトノート」、「われらの父の父」――について記している。

 「真夜中の――」は体制批判と見做され、ラシュディはインド出国を余儀なくされた。本作はその続編と位置付けられている。骨太のドラマトゥルギーをベースにマジックリアリズムを進化させたラシュディは、「悪魔の詩」騒動がなければノーベル賞を受賞していただろう。彼の渡英が、インド系英文学隆盛の導火線になる。

 ラシュディのバックボーンは明晰な歴史認識と抵抗精神だ。「真夜中の――」の史実にフィクションを絡める手法は、とりわけ英語圏で大きな影響を与える。代表例を挙げるなら「フォレスト・ガンプ」(86年)だ。ちなみに94年に映画化された同作の脚本を書いたエリック・ロスは「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(08年)も担当している。ロスがラシュディにインスパイアされたことは明らかで、ブラッド・ピット演じるバトンは老人として生まれ、赤ん坊として死ぬ。「ムーア人――」の主人公モラエス・ゾゴイビー(通称ムーア)は、2倍のスピードで成長するという設定だ。倍速の時の流れが、ドラスティックなストーリーを加速させている。

 インド近現代史と宗教対立を把握していないから、寓意と仕掛けに満ちた物語に入り込むのは困難だった。ムーアの一族はバスコ・ダ・ガマに遡るポルトガル系インド人である。ヒンズー教、イスラム教、シーク教が角突き合わせるインドで、香料を扱って財を成したムーアの一族はキリスト教徒である。母オローラは15歳で、使用人であるユダヤ教徒のエイブラハムと恋に落ちる。父にとってユダヤ人コミュニティーとの決別を意味する婿入りだった。

 母を含め一族は積極的に政治に関わる。反英からマルクス主義まで様々な勢力が蠢く中、ある者は信念を貫いて獄に繋がれる。シンボリックな存在としてガンジー父娘やネールとやり合った母だが、絵で天才ぶりを発揮していた。「ムーア人の最後のため息」とは、母が息子をモデルに描いた遺作のタイトルである。

 主人公の名の由来になった<ムーア人>だが、特定の民族や教徒を指す言葉ではないらしい。〝境界線の外の人〟というイメージは、若さと老いを短期間で経験し、常に居心地の悪さに苛まれている主人公に重なっている。生まれつき一塊の拳状である右手から強烈なパンチが放たれるという設定に、欠落こそが武器になりうるという逆説が込められていた。

 「スラムドッグ$ミリオネア」のサントラをBGMに本作を読んでいた。ページを繰る指を加速させてくれたエキゾチックでポップな音は、次第にストーリーと合わなくなる。愛の遍歴を経て30代半ばで老いを纏ったムーアは死を意識し、事業を世界規模に拡大した父は鈍色の光を放つ悪魔になった。巨大なデコレーションケーキの底に仕込まれていたのは、宿命的な家族の相克、絶望的な愛と狂気が育んだ猛毒といえるだろう。日本人女性が登場するラストは悲痛なトーンを帯びていた。

 消化不良は否めないが、俺は今、「55歳になってもラシュディを読めた」という自己満足に浸っている。そうは言っても、読書とは試練ではなく娯楽のはずだ。当分は自分の背丈に合った本を楽しむことにする。
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薬効は癒やしと怒り?~今年のロックを振り返る

2011-12-07 20:42:32 | 音楽
 3・11から9カ月……。仕事先(夕刊紙)であす発売のゲラを眺めているうち、怒りが込み上げてきた。古賀茂明氏(元経産官僚)の<公務員改革の本丸は原発>を裏付ける記事が掲載されていたからである。

 俺は罪深い人間ゆえ、他者を責める資格などないが、政官財に巣食う吸血鬼の悪行には言葉を失う。放射能被害が広範な地域で若い世代を蝕むことは確実なのに、原子力村の住人は推進に舵を切った。深刻な事故が起きたというのに、贖い、悔悟、祈りといった人間的感情と無縁で、既得権益(天下りなど)を守り、血税を濫費して虚偽の情報を現在も垂れ流している。暴力団より先に、紳士の仮面を被った悪魔団を排除するべきだ。

 <追記>当稿を更新後、「報道ステーション」を何となく見ていたら、上記の古賀氏が原発を巡る霞が関の闇について語っていた。偶然としか言いようがない。

 悪魔団の圧力に屈せず言論の自由を守ってきた「朝日ニュースター」が消滅する。来年4月以降、「テレ朝チャンネル」と新チャンネルでCS2局体制に移行するという。ならば、ノウハウを知る全スタッフを解雇する必要はない。同局は原発事故直後に広瀬隆、広河隆一両氏を「ニュースの深層」に招き、現在も様々な番組で放射能汚染を取り上げている。翼賛会(記者クラブ)を牛耳る〝体制派〟朝日新聞にとって同局は、企業(東電など)から広告を取るため早急に切り捨てるべき存在なのだろう。

 苛々する気分を鎮めてくれたのが、先月発売されたダーティー・プロジェクターズ(以下DP)とビョークのコラボ「マウント・ウィッテンベルク・オルカ」だ。7曲(21分強)はすべてDPのリーダー、デイヴ・ロングドレスが作詞・作曲を担当している。タイトルから想像できるように、DPの前作「ビッテ・オルカ」(09年)の延長線上の音だ。<境界線の音>を志向するDPとビョークは互いにリスペクトする関係らしい。

 DPの魅力はライブで爆発する。昨年の単独公演とフジロックでは、7人(正式メンバーは5人)の構成だった。美男4人、美女3人による牧歌的、祝祭的なアンサンブルが聴衆の心を捉えた。本作では〝シャーマン〟の魅力を備えるビョークが、声というよりハープシコードのような響きでハーモニーに深みを添える。

 <放射能に侵され廃墟になった世界で、生き残った者が深山に集まる。奏でられる音は神秘的で、純粋さと静寂さが霧のように立ち昇ってくる>……。本作を形容すればこんな感じで、癒やしと清々しさに溢れていた。

 「現役ロックファン復帰」と力んだ時期もあったが、あれこれ聴いているうち、趣向が限られてきた。今年も大物から新鋭まで買い集めたが、自信を持って推せるアルバムは「レット・イングランド・シェイク」(PJハーヴェイ)、「バイオフィリア」(ビョーク)、「トムボーイ」(パンタ・ベア)の3枚だ。上記の「マウント――」はEP並みの収録時間なので番外ということで……。DPの新作は来年リリース予定で、来日すればライブに足を運びたい。

 先月のザ・ナショナルのライブで、ノスタルジーが溶け始めた。ナショナルと親交が深かったREMは解散し、マニック・ストリート・プリーチャーズは活動を停止する。ソニック・ユースはサーストンとキムの離婚により先行きが不透明で、〝ラストライブ〟と噂されるブラジルのフェスでの映像がブートレッグで発売された。

 上記のバンドを聴いているうち、パール・ジャムを再発見した。DVD「ツアーリング・バンド2000」を繰り返し見て、エディ・ヴェダーの説得力に圧倒される。ニルヴァーナとともにグランジの雄としてシーンに登場したパール・ジャムだが、ザ・フーやニール・ヤングの精神を継承した骨太バンドである。映画館で見逃した「PJ20」のDVD(国内盤)の発売(来月下旬)が待ち遠しい。

 1971年暮れ、NHKのニュース回顧に三里塚など政治闘争の映像が流れ、フーの「無法の世界」が被さった。センスの良さに感心したが、2011年の世界の空気を表す曲はミューズの「アップライジング」(叛乱)ではないか。昨年9月、ウェンブリースタジアムに16万人(2日間)を動員したミューズは、オープニングの「アップライジング」に合わせ、フードを纏った若者をステージに上げる。今年の暴動がデジャヴと思えるシーンだった。

 ロラパルーザでは〝21世紀最大のバンド〟と称されるコールドプレイをセカンドステージに追いやり、メーンステージに立つ。動員数と熱狂度でコールドプレイとの同時刻対決を制した。だが、バンドにとって今夏のハイライトは、〝怒りと抵抗の代名詞〟レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとの共演だった。レイジから直々オファーを受け、彼らの活動20周年イベントに参加する。

 雛の頃から肉親の情で見守ってきたミューズは、「レジスタンス」(09年)で空気を先取りし、今年ついに時代精神を象徴するバンドに成長した。感慨深いが、あまり褒めると親バカと思われるので、この辺でやめておこう。



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暴排条例の実効は~沈みゆく日本に思うこと

2011-12-04 18:21:10 | 社会、政治
 度を超した<アンチ橋下キャンペーン>を張っていた週刊誌だが、当選後は鳴りを潜めた。叩いても部数に結びつかないという判断かもしれないが、メディアは果たして、橋下氏が民主主義の原則を逸脱せぬようチェックするという気概を持ち合わせているだろうか。

 「暴力団排除条例と社会の安全」をテーマに掲げた「朝まで生テレビ!」の録画を、1週間の時差で見た。私人としての交際まで公権力が介入し、市民にゲタを預ける形の条例に批判的なパネリストが多かった。九州では暴排条例に協力的な企業が襲われる事件が相次いでいるが、警察が一般人を守り切れるのか確信が持てない。青木理氏は<この人を出演させていいでしょうか>と警察にお伺いを立てるメディアの脆弱さを指摘していたが、NHKは後日、暴排条例に拘泥することなく紅白出場者を選んだ。ならば、紳助は引退する必要はなかったのではないか。

 容姿と個性のせいで平沢勝栄議員(元警察官僚)がヒールに見えたのは申し訳ないが、同議員ら条例推進派が示したデータにも説得力はある。暴力団員は多くの犯罪(とりわけ殺人)に絡み、銃と覚醒剤の流通、各種詐欺や売春の陰に蠢いている。ファジー好きの俺でさえ、<暴力団=黒の組織>と断定せざるを得ないが、彼らの背後で息を殺している<白い紳士たち>を見逃していい道理はない。

 3・11以降、反原発を訴える集会に参加し、ネットや書物にも触れた。現場からの報告に共通していたのは、原発周辺地域で暴力団が幅を利かせていることだ。反対派潰しの役目を担う暴力団によって、田園地帯で売春や薬物が蔓延する。暴力団の脅しを反対派の活動家が訴えても、「(原発は)国策だから」と警察は門前払いだ。明らかに民主主義への侵害だが、暴力団に用心棒に依頼した東電や自治体を規制する動きはない。

 バブル期の地上げでも、暴力団は前面に立った。利用したつもりのゼネコンや銀行は、結果として喉元に食いつかれる。07年秋に放映された「NHKスペシャル」は、<小泉―竹中>の規制緩和を機にヤクザマネーが市場を席巻する様子を伝えていた。暴力団直轄のディーリングルームには、上場企業関係者からインサイダー情報が次々に伝えられ、投資のプロが押し引きする。番組では暴力団の総収入を年間1兆円と推計していた。

 政界ではメディアの協力?で前原誠司氏が救われた。本丸だったフロント企業との関係が沙汰やみになり、外国人(焼き肉屋経営者)からの献金がメーンになる。前原氏は外相をさっさと辞任したが、現在は政調会長に就いている。政治家と暴力団の関係は、報道されただけでもかなりの数に上る。なぜ今回は、法律ではなく条例なのか想像してみた。暴排条例に付随する<過去は不問>という免罪符は、法律になれば剥がされるかもしれない。条例にとどめることで政財界の混乱を防ぎ、同時に天下り先を確保する……。警察にはそんな思惑があったのではないか。

 宮崎学、木村三浩、石原伸司(元組長)の各氏は「朝生」で、条例反対の立場で実効性に疑問を提示していた。彼らの経験則では、暴力団排除によって逆効果が生じる可能性が高いという。格差と貧困、差別によって落ちこぼれた者は、これまでなら暴力団に吸収され、〝偽装の家族〟として暮らしてきた。家がなくなれば統制が利かない小グループが野に放たれ、剥き出しの暴力がはびこることになると警鐘を鳴らしていた。

 地震からの復興、放射能汚染の後処理、増税、欧州金融危機の波及、正体不明のTPP、年金&医療制度の崩壊……。日本の現状はまさに<板子一枚下は地獄>だ。荒びと閉塞が進行する中、行き場を失った者は、生きるよすがを何に求めればいいのだろう。


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