食わず嫌いは誰にでもある。俺ぐらいの年になると、進取の気性は衰えている。たまさか尋ねられても、知ったかぶりで逃げるのがオチだ。その点でいうと、8カ月の浪人生活は有意義だった。成瀬巳喜男、パゾリーニ、ルノワールら、手付かずだった作品に触れることができたからである。
ルネ・クレールも俺と縁薄い監督だった。いや、意識的に避けてきたと言っていい。20年以上も前、ルネ・クレール著「映画をわれらに」を購入した。自らの半生と映画論が綴られていたが、理屈っぽさに辟易し、30㌻足らずで放棄してしまった。クレールは映画界の「創業者」の一人であり、強い使命感に駆られていた。技法と精神を早急に確立し、他の分野(文学、美術、写真)に並ぶレベルに押し上げねばならぬという……。
先日、シネフィル・イマジカで放映された「自由を我等に」(31年)が見て、小難しい、堅苦しいという先入観はたちまち霧消した。ユーモアに溢れ、風刺の利いたコメディーだったのである。<滑稽でありながら人生の真理を穿つ>、<娯楽でありながら芸術でもある>……。映画の二律背反的なレーゾンデートル(存在理由)は、31年の段階で確立されていた。
物語は刑務所から始まる。ルイとエミールの仲良しコンビが脱走を試みるも、ルイだけが成功する。機転が利き世渡り上手のルイ、不器用で貧乏クジを引くエミール……。正反対の二人が再会した時、その立場は<囚人同士>から<資本家と労働者>に様変わりしていた。脱獄したルイが大富豪になるまで、エミールが工場に紛れ込むまで、それぞれ短いカットを積み重ね、テンポ良く描かれていた。今では当たり前の<定跡>は、先駆者の手によって編み出されたものである。最大の見どころは、ラスト近くの新工場落成式のシーンだ。隠されていた札束が強風で舞う。金に群がる人々、逃亡を図るルイとエミール、二人を追う警官たち……。CGなどなかった時代、ドタバタの群像劇を撮影するには、想像を絶する困難が伴ったに違いない。
本作は「モダン・タイムズ」(38年)に共通するテーマを内包している。チャップリンの方がインスパイアされた可能性もあると思う。機械に支配された労働者の描写は、人間の疎外を告発している。求職者に指紋押捺を要求する場面は、管理社会への警鐘と捉えるべきか。ルイが考案した<人間不在>の生産方式にも、クレールの鋭い考察が窺えた。これらの非人間性と対照的に描かれるのが、エミールのジャンヌへの純粋な思いである。音楽の使い方も出色だった。トーキー移行期の作品だが、サイレント時代のプラス面の名残が感じられた。登場人物の感情を、セリフではなく音楽で表現する場面も多く、ミュージカル仕立ての部分もある。
富を失くしたルイ、失恋したエミールは元の木阿弥、無一文に逆戻りし、楽しそうに放浪する。金より、愛より、仕事より、家族より、大切なものは自由……。何も持たぬわが身に重ね、エンディングには「ブラボー」と拍手してしまった。フランス人が最も尊重するのは自由だ。我々も多少は見習うべきだろう。日本人は<小泉教>のお題目に浮かされ、自由を放棄する危険性が高いからだ。そういや、仏紙「ル・モンド」は小泉首相に手厳しい。なるほどと思わせる論調である。