酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「アイダよ、何処へ」~喪失を癒やす崇高な魂

2021-09-27 20:27:29 | 映画、ドラマ
 前稿末に記した通り、〝悲劇を受けてもなお、人生を放り出さない人間を描いた映画〟を紹介する。「アイダよ、何処へ」(2021年、ヤスミラ・ジュバニッチ監督)を新宿武蔵野館で見た。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争をテーマに作品を発表してきたジュバニッチ監督が、女性の視点でスレブレニツァ事件を描いた本作に、最後まで緊張感が途切れなかった。

 ボスニア紛争とはユーゴから独立した同地で3年以上続いた内戦を指す。人口比で44%のボシュニャク人(イスラム教徒)、33%超のセルビア人(セルビア正教徒)、17%のクロアチア人(カトリック教徒)の勢力争いで、軍事力で圧倒するセルビア人が優位を築くことになる。

 アイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は元教員の国連通訳で、ボシュニャク人である。ムスリム圧殺に邁進するムラディッチ将軍(ボリス・イサコヴィッチ)の号令の下、セルビア軍は国連基地に押し入り、ムスリム掃討に着手する。基地で働くアイダは、難民全体の配慮と家族(夫と息子2人)保護の狭間で苦悩する。

 日本公開10日余りで、いずれご覧になる方も多いと思う。興趣を削がぬようストーリーの紹介は最小限に、背景をポイントを置いて記したい。1990年前後。2つの潮流が世界を覆うようになる。一つは宗教や民族の差異で人間を峻別する思考で、トランプ前米大統領、そして本作のムラディッチ将軍が代表格だ。

 紛争が起きる前、ボスニアでは民族、宗教、慣習を超えて人々は共生していた。セルビア兵がアイダに「先生」と声を掛けるシーンがあった。難民代表として交渉の席に着いた女性は、セルビア軍幹部と同級生だった。ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人はほぼ同じ言語を用い、共に学び、共に遊ぶ関係だったのだ。本作ではセルビア軍が絶対悪として描かれているが、憎悪の連鎖の責任の一端はボシュニャク人にもあったはずだ。

 もう一つの潮流は、差異を認めながらも多様性を尊重し、調和を希求する動きだ。話は逸れるが、ドイツ連邦選挙で、俺が一員であるグリーンズジャパンの友党である緑の党が第3党(得票率14・8%)に進出する。緑の党の旗印は全世界で多様性と調和だ。翻って自民党総裁選で多様性と調和を掲げる声が聞こえてこないのは安念だ。

 セルビア軍とボシュニャク人、そして国連軍(主力がオランダ軍)の三すくみ状態で、強硬なセルビア軍の前に、国連はあまりに無力だ。矢面に立つのはオランダ軍だが、緩衝地帯に決められた地域に侵攻するセルビア軍への空爆を要請しても本部に無視される。俺は当ブログで国連不信を綴ってきた。軍需産業のしもべとして武器生産、輸出を国是とする5大国が常任理事国である組織に平和を語る資格がないことを、本作で再認識させられた。

 帰宅後、ボスニア紛争の歴史について復習した。観賞中、家族を救おうとするアイダの言動に違和感を覚えた。だが、セルビア軍にボシュニャク人が虐殺されるスレブレニツァ事件に至る経緯に衝撃を覚える。アイダが家族愛だけでなく、同胞への思いに支えられていたことがラストで明らかになる。

 数年後、郷里で教職に戻ったアイダは、教室で子供たちと接していた。恐らく学芸会なのだろう、民族が異なる子供たちが、保護者に見守られて歌っていた。大人たちの中には国連基地にいた者もいる。アイダは家族を失っても、人々の傷を癒やし、融和を志向していた。崇高な魂に感銘を覚えた。

 子供たちがサッカーに興じる校庭近くの講堂で、静謐な虐殺が行われる。残酷なシーンを排除して製作された本作は新たな形の戦争映画で、エンドマークの後も余韻が去らなかった。ボスニア映画産業の衰退と保守的な政界の圧力で、9カ国による共同製作によって本作は完成する。そのことによって普遍性を獲得したといえるだろう。
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「カード師」~中村文則は世界と対峙する

2021-09-23 19:07:03 | 読書
 ジョン・レノンの「イマジン」発表50周年を記念して、各国で歌詞を建物に投影するイベントが行われている。残念なことに、世界はジョンの理想と程遠く、武力衝突が絶えない。米中対立を筆頭に分断は深刻になっている。

 「見えざる手」などというとコンスピラシー論者のようだが、米バイデン大統領も前任者同様〝世界の火種〟になりつつある。米英豪が安全保障の枠組み「AUKUS」を立ち上げたことで、仏豪による潜水艦共同開発契約は破棄された。アフガニスタン撤退の余波で、EU軍増強が画策されている。軍需産業こそ「見えざる手」の正体か。

 脳梗塞発症時、ものが二重に見えたが、点滴を受けているうち症状は治まり、何とか本を読めるようになった。とはいえスロー&ステディーが生活のリズムになったので時間はかかった。中村文則の新作「カード師」(朝日新聞出版)をようやく読了する。サブタイトルは<運命に抗え>だ。

 中村の作品には〝定番〟が幾つかある。第1は主人公が喪失感と欠落感を抱えていること。本作の主人公(僕)も両親を知らず施設で育つ。トランプを用いた占いと手品を教えた山倉により、その後の人生は決まる。悪魔プエルも幼い頃から現在まで、人生の節目に夢の中に現れる。

 第2は支配的に振る舞う絶対者の存在で、本作では僕を占い師として雇う佐藤だ。株取引で富と権力を得てきた佐藤は、中村ワールドの第3の特徴というべき対話と手記の担い手でもある。第4は<神の存在、悪と罪の意味、信仰について>を読む者に問い掛けることで、佐藤は魔女狩り、錬金術、ナチスドイツの数々の暴挙を綴った手記を僕に託した。

 タロットカードで占う僕だが、自身の力を信じていない。予言など不可能なのだ。キーになるのは帯に記された<重要なのは悲劇そのものではなく、その悲劇を受けてもなお、人生を放り出さない人間の姿>だ。中村の作品には時にラストにカタルシスが用意されている。それを希望であるかは捉え方次第だ。

 政治や社会について発言する機会が増えた中村は、本作でこの半世紀の世界と対峙している。僕はユリ・ゲラーやこっくりさんにインスパイアされ、佐藤もUFOに強い関心を持っていた。佐藤と科学について語り合ったIは性的倒錯者で、オウム真理教に入信する。科学と超常現象の狭間で揺れた佐藤が〝遺書〟に記したのは阪神・淡路大震災と東日本大震災で友人と恋人を亡くしている。それ故、自身の死を知りたいという願望に取り憑かれていた。

 中村の小説はアメリカでミステリーにカテゴライズされており、本作も仕掛けがたっぷりと用意されている。二重三重のフレームが、僕や佐藤の後景に聳える複層的な構造だ。最も読み応えがあったのは、僕も誘い込まれた秘密クラブで行われる生死を懸けたポーカーゲームだ。

 組織的なイカサマが行われていても不思議ではない状況下、欲望に駆られ、全てを失う恐怖と闘いながら、僕は手練れの数人を相手に闘う。個々の人間の本質と深層心理が浮き彫りになるシーンの連続に、固唾をのみながらページを繰った。亀山郁夫氏(元東外大学長)は<ドストエフスキーが追求した課題を現代日本に甦らせた>と中村を評していたが、ドストエフスキーが溺れたことは周知の通りだ。

 神話や物理学にまで翼を広げ、タナトスとエロチシズムを織り交ぜながら新たな境地を開拓した。中村はスカパーの番組で、唯一の趣味は野球観戦で、贔屓チーム(巨人らしい)の試合を食い入るように眺めているという。混戦の今、息抜きにならず、執筆に差し障りがないか心配だ。

 上記した<悲劇を受けてもなお、人生を放り出さない人間の姿>を描いた描いた映画を次稿で紹介したい。
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「名もなき歌」~母の哀しみが映すペルー

2021-09-18 21:14:43 | 映画、ドラマ
 脳梗塞という言葉に敏感に反応してしまう。脳梗塞で入退院を繰り返してきた大久保一久さんが亡くなった。享年71である。「風」で知られるが、記憶に残るのは「猫」のラストシングル「僕のエピローグ」だ。作詞は吉田拓郎で、大久保さんは常富喜雄とともに作曲を担当している。喪失感と閉塞感に包まれていた俺の青春時代を、歌で癒やしてくれたアーティストの死を悼みたい。

 <俺のエピローグ>を意識した入院だったが、退院から2週間余、食生活の改善で、少し健康になった気もする。物が二重に見えた発症時から回復し、仕事も何とかこなしている。心配なのは気力減退だが、今更あくせくしても仕方がない。スロー&ステディーで晩年をゆったり生きていきたい。ブログ更新も今後はペースダウンしていくだろう。

 二度と映画は見られないかもしれない……。そんな不安を感じていたが、退院して初めて映画館に足を運び、ペルー映画「名もなき歌」(2019年、メリーナ・レオン監督)を見た。1988年のペルーが舞台で、カラーのワイドスクリーンではなく、当時のテレビ画面に倣ったモノクロの4:3サイズに、記憶と郷愁に彩られた内面世界へと誘われた。

 本作が長編デビュー作になるレオン監督は、子供の頃にジャーナリストの父に聞かされた一連の事件をテーマに選んだ。ペルーでは国際的な乳児売買グループが暗躍し、主人公の20歳のヘオルヒナ(パメラ・メンドーサ)も生まれたばかりの女児を誘拐され、23歳の夫レオ(ルシオ・ロハス)とともにリマで救済を訴える。

 9日に紹介したペルー出身のバルガス・リョサは、社会の構造をあらゆる角度から捉えて作品に投影する<全体小説>のテーゼの下に小説を発表してきた。レオン監督も「名もなき歌」にペルーの実相を取り込んでいる。アメリカに新自由主義の実験場にされたことで経済は破綻し、政界も法曹界も腐敗していた。都市と周辺部の決定的な格差は、白人による先住民差別に根差している。左派は怒りを吸収し、国中でテロが横行していた。

 若き夫婦は先住民で、宴や祭りで歌や踊りを披露するアーティストだが、レオは倉庫で働き、ヘオルヒナは露店でジャガイモを売っている。有権者手帳を所持していないから、警察も行政も門前払いだ。万策尽きて訪れた新聞社で助け舟を出してくれたのがガンボス記者だった。ガンボス自身、白人と先住民とのハーフだった。

 本作は世界の映画祭で栄誉に浴したが、高評価の理由の一つはパメラ・メンドーサの発見だった。妊婦役ゆえ10㌔以上増量したパメラは無垢、包容力、哀しみ、激情、諦念を見事に表現し、モノクロームの画面を神話、寓話の域に到達させる。女児、そしてテロを起こしたレオは? 絶望の淵にいるヘオルヒナが子守歌を歌うシーンで画面がカラーになった。エンドマークの後は、見る者に委ねられる。

 ガンボスとキューバからやって来た役者イサ(マイコル・エルナンデス)との男性同士の愛が織り込まれている。イサが立つ舞台「ガラスの動物園」に描かれるリアルと追想の境界が、本作のテーマにもなっていた。秀逸だったのはパウチ・ササキが担当した音楽で、登場人物、とりわけヘオルヒナの心象風景を表現し、シーンごとの基調を作っていた。

 本作の舞台になった1998年の2年後、リョサは大統領選に立候補してフジモリに敗れた。俯瞰の目でペルーを眺めたリョサの目に、ヘオルヒナやレオの姿は映っていなかったと思う。敗北は必然だったのか。
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「仁義なき戦い~菅原文太伝」~形に囚われない奔放な生き様

2021-09-13 22:02:12 | 読書
 自民党総裁選の候補たちは、気候危機、格差と貧困といった喫禁の課題に向けた方策を明示していない。岸田氏は安倍、麻生両氏に屈して森友、加計問題の真相究明を諦めた。脱原発を公言していた河野氏は入閣後、実力と定見のなさを露呈する。安倍氏が応援する高市氏は世界標準と乖離する「日本会議」御用達だ。

 俺が注目しているのは、国内ではなくドイツ総選挙だ。俺が所属する「グリーンズジャパン」の姉妹政党「緑の党」は当初の勢いを失ったが支持率3位(16・5%)で、社民党と連立を組む可能性が大きい。<グリーン&レッド連合政府>が改革に取り組めば、EU圈に波及するだろう。残念ながら日本の政治は政局一色で、身を斬って挑む者はいない。

 脳梗塞で視野がぼやけ、もう本を読めないかもしれない……、そんな不安に怯えながら病院のベッドで読んだのが「仁義なき戦い~菅原文太伝」(町田美智子著、新潮社)だ。主演、助演を含め文太の出演作は40本近く見ているが、レンタルビデオが大半だった。著者はインタビュー記事、周囲への取材を含め、文太の生涯を丹念に追っているが、捉えどころのなさに戸惑っていた。

 計算ずくかもしれないが、文太は角度によって見え方が異なる蜃気楼なのだ。文太の父は芸術家肌の新聞記者で、母は幼い頃に家を出る。継母は懸命に一家を支えるが、文太は実母の面影を追い続ける。興味深いのは〝虚言癖〟だ。健在だった父の死を語り、文子さんとの結婚の経緯もあやふやだ。「仁義なき戦い」が映画化に至るきっかけも、周囲の証言と食い違う。

 文太は上京後、早大を中退し、東映時代からは想像もつかないファッションモデルになる。松竹では「ハンサムタワーズ」の一員としてデビューするが、当然ながら目が出ない。最初の恩人である安藤昇の誘いで東映に移籍した。安藤組を率いた安藤は服役後、俳優に転じ、50本以上の映画に出演した。

 東映撮影所を闊歩する文太は、野良犬のような野性で監督たちを魅了する。ブレークしたのは「仁義なき戦い」(深作欣二監督)シリーズで、興行的な大成功もあり、文太の名は日本中に知れ渡った。他のトップスターと異なるのは〝軍団〟をつくらなかったこと。酒席でもいつの間にか姿を消し、部屋で読書していたという。

 蜃気楼と上記したが、文太の真の姿に迫るのは困難だ。ジャズに造詣が深いが演歌も大好きだし、文子さんとの馴れ初めは萩原朔太郎だった。ツルまないがヤクザ、とりわけ加茂田組組長との親交は深かった。晩年は農業に関わり脱原発、護憲、反戦への熱い思いを伝えた。記憶に残るのは沖縄知事選での翁長候補への応援演説で、「仁義なき戦い」の名台詞「弾はまだ一発残っとるがよ」を披露し、万雷の拍手を浴びた。

 文太は〝仁義なき〟を地で行ったともいえる。「トラック野郎」の鈴木則文監督、共演者の愛川欣也が望んだシリーズ11作目を拒否し、鈴木とは没交渉になる。「北陸代理戦争」に出演しなかったことで担当プロデューサーと絶縁したことで、その後ビッグチャンスを逃したと回想する関係者もいた。

 俺が文太に重ねたのは〝ストーンコールド〟スティーブ・オースチンだ。文太とオースチンが肝に銘じていたのは「他人を信じるな」。文太は松竹時代、不遇をかこっており、オースチンもホーガンらを引き抜いたWCWをクビになる。崩壊寸前のWWE(当時WWF)を救ったのが、一匹狼キャラで覚醒したオースチンで、その熱狂的人気がWCWを破産に追い込む原動力になった。実録路線を主導した文太も、大看板の高倉健、鶴田浩二をしのぐ支持を得た、

 文太にとって痛恨事は長男・加織の死だった。文太のバックアップもあり、俳優として地歩を固めていたが、踏切で事故死する。映画界と距離を置いた文太を支えたのは知性と教養に溢れた文子さんだった。家族との絆が深かった文太は、兄弟分、戦友というべき深作欣二の最期を、映画関係者で唯一看取っている。

 「仁義なき戦い」シリーズは当然として、文太出演作では「県警対組織暴力」、「ダイナマイトどんどん」、「太陽を盗んだ男」が記憶に残っている。深作最後のヤクザ映画になった上記の「北陸代理戦争」に出演していたら、鬼気迫る演技で世間を唸らせたことだろう。ちなみに共演予定だった渡瀬恒彦も交通事故でキャンセルしている。
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「シンコ・エスキーナス街の罠」~枯れることなきリョサのエネルギー

2021-09-09 19:54:03 | 読書
 菅首相退陣、アフガン情勢など、入院中に様々な出来事が起きたが、最も注目したのはアメリカからのニュースだった。ハリケーン「アイダ」の影響で大洪水が発生したニューヨークで、水浸しになった地下鉄は封鎖された。カリフォルニアの山火事では京都市と同面積の森林が焼失する。現地の人が「地球温暖化が原因」と話していたが、気候危機に根本的な対策を講じる時機を迎えている。

 色川大吉さんが亡くなった。民衆的視座に立脚し、大枠で俯瞰するのではなく、フィールドワークを導入し、個々の意識にまで掘り下げて歴史を考察した。秩父困民党や水俣関連の著書にも感銘を覚えたが、最も記憶に残るのは、優しい家庭人をも狂気に追い込む戦争の恐ろしさを伝える「ある昭和史」だ。パトスと情念をアカデミズムに組み込んだ研究者の冥福を祈りたい。

 入院当日(8月24日)に取り上げるつもりだったのが「シンコ・エスキーナス街の罠」だ。読了後、半月以上経っているので、曖昧な部分もある。普段以上にポイントを外した内容になっている点はご容赦願いたい。作者はここ100年では最高の作家のひとりで、ノーベル賞受賞者でもあるバルガス・リョサだ。

 リョサの小説は10作以上読んでおり、当ブログでも5作紹介した。驚かされるのは老境に達しても創作意欲が衰えないこと。「シンコ――」を発表した2016年、リョサは80歳だった。枯れるのが普通だが、本作のリョサは猥雑なパワーに満ちており、怨念とリベンジが行間に踊っている。

 リョサは1990年、大統領選でフジモリに敗れた。そのことを根に持っているようで、庶民派として政界に登場したフジモリが変節し、国家情報局顧問モンテンシス(本作ではドクトル)とともに恐怖政治を敷いてメディアを支配下に置いていたことが描かれている。

 起点になったのは、扇情的なスキャンダルが売りの「デスタベス」誌編集長ロランド・ガロによる鉱山王エンリケ・カルデナス(キケ)訪問だ。<全体小説>の方法掄を実践するリョサは、歪みや格差に目を背けず、複層的にペルー社会を抉っていく。本作ではキケ、その妻マリサ、ガロを尊敬する女性編集者ラ・レキシータ、朗誦家ファン・ベイネタの主観を構成して物語を紡いでいた。

 キケの盟友であるカサスベージャス弁護士が上流階級、ドクトルが権力者、ベイネタが貧困層、ラ・レキシータがジャーナリストをそれぞれ代表している。ちなみにシンコ・エスキーナス街は魑魅魍魎が蠢くアンダーワールドだ。エロチシズムもリョサの作品のひとつの要素だが、マリサとカサスベージャスの妻チャベラの交情はまさにポルノグラフィティーだ。上流階級の頽廃と対照的に、ベイネタとラ・レキシータは性的に慎ましい。

 時空を超越し、複数の主観が交錯するマジックリアリズムの担い手だったリョサだが、20章「つむじ風」では実験的、前衛的な手法をフル回転させている。若々しくエネルギッシュに文学と対峙するリョサに重なったのは、時に自分を壊しながら晩年に「狂風記」を著わした石川淳だ。日々生きているのが精いっぱいの俺とは比べるべくもない。

 入院時、物が二重に見えた。絶望的な気分に陥ったが、少しずつ治まってきた。主治医の先生によると、本も映画もOKということ。人生の楽しみが残って安堵している。
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10日間の入院で終活を考えた

2021-09-05 22:11:30 | 独り言
 前稿でお知らせしたように、10日間入院した。ブログを見てメールをいただいた皆さんに感謝している。病名は脳梗塞である。先週火曜(24日)、家を出ると左右のバランスが悪く視界がぼやけている。仕事先に着くと強烈な吐き気に襲われる。同僚たちの助言で早退し、行き着けの総合病院に向かい、脳神経内科を指定する。診断は想定通り脳梗塞で、いったん帰宅して入院の運びになった。

 脳梗塞といえば長嶋茂雄、西城秀樹、辺見庸の顔が浮かぶが、桜井和寿と星野源(くも膜下出血)は30代前半で発症している。個々人によって違いはあるが、俺は減量と血圧降下を主治医に指示された。糖尿の数値も芳しくなく、消化器内科の先生にも注意されていたが聞き流していた。事ここに至り、遂に節制に取り組むことを決意する。

 来月に65歳になる俺は、人生の分岐点を迎えている。年金生活者にとって最大の問題は健康で、少しでも医療費を抑えたい。飽きるほど退屈なベッドの上で終活プランを練るだけでなく、消しゴムで消去したいような来し方の愚行の数々が甦ってくる。とっくに東京砂漠で埋もれていたはずの俺が生き長らえてきたのは、周りの皆さんの温情があったからだ。

 大部屋生活は煩わしさもあるが、慣れると悪くはない。俺が恐らく一番若く、5人の平均年齢は70歳超か。このご時世、患者同士の交流はないが、看護師との会話で人となりが滲んでくる。面会禁止ゆえ、患者たちは一様に寂しいから、看護師は体へのケアのみならず傾聴力を問われる。延々と自慢話をする患者にも相槌を打つ看護師たちに、他者に<癒やしと和み>を与えることの意味を考えさせられた。

 主治医は女性で、脳梗塞の恐ろしさを指摘された。脳梗塞は突然死するケースは希で、アルツハイマー型認知症の要因にもなる。今回は初期の段階で社会復帰出来たが、2度目を発症すれば深刻な状態に陥る可能性大で、周囲に負担を強いることになる。しっかり節制していきたい。

 視野がぼやけると、仕事のみならず読書や映画観賞も覚束なくなるが、俺は生き方を変えるつもりだ。仕事で<効率とスピード>を重視してきたことは、斎藤幸平流にいえば<「モモ」に登場する時間泥棒(資本主義)に洗脳された証し>だ。これからはスロー&ステディーで、<共生とシェアする精神>を実践していきたい。

 もっと前に紹介するはずだったが、生と死の狭間を静謐に描いた「ライオンのおやつ」(NHK・BSプレミアム/全8回)に感銘を覚えた。余命宣告を受けた海野雫(土村芳)は家族に告げず、ホスピス「ライオンの家」を終の住処に選ぶ。代表のマドンナ(鈴木京香)、入居者、島で明日葉を栽培するタヒチらと交流しながら、穏やかな時を過ごす。今回の入院はともかく、死との向き合い方を考える機会になった。
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