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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「水声」~孤独とやるせなさを濾過する神性の滴

2021-04-29 22:55:57 | 読書
 眠りが浅いせいか繰り返し夢を見る。最近の〝トレンド〟はディテールを変えて甦る昔の出来事だが、昨夜見たのは前稿で紹介した「フィールズ・グッド・マン」の断片だった。古民家風の友人宅に泊まり、トイレで擬人化したカエル男ペペを目撃する。慌てて飛び出したものの漏れそうになる。アラームが鳴って事無きを得た。

 「ペパロンチーノ」(NHK・BSプレミアム)は素晴らしいドラマだった。「ミッドナイトスワン」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞した草彅剛が、主人公(小野寺潔)の心情を余すことなく表現していた。舞台の気仙沼についてはは6年前に訪れた時、<絶望とか希望、孤独とか絆……。血肉になっていない薄っぺらな言葉を吐いていたことが恥ずかしくなった>と記した。

 崖っ縁で出会った佐々木医師(國村隼)、心の支えであり続けた妻灯里(吉田羊)、同級生のより子(矢田亜希子)らに力を与えてもらい、小野寺は海辺にイタリアンレストランを再興する。〝宮城発〟のキャッチフレーズにぴったりのエンディングに、心揺さぶられる仕掛けが用意されていた。

 夢、そして異界との交流……。枕2題と連なる川上弘美著「水声」(2014年、文春文庫)を読了した。このところ家族をテーマに据える小説を紹介してきた。「枯木灘」(中上健次著)は血と芥にまみれた濁流で、「サラバ!」(西加奈子著)は時空を超える奔流だった。「水声」も同じく家族の物語で、タイトルから冷たく淡々と流れる川をイメージしていたが、孤独とやるせなさを濾過する神性の滴を湛えていた。

 ささやかな気持ちの積み重ねの上に成立する愛を巧みに描く川上だが、チューインガムを噛むうち苦くなり、しこりとして残っていく……、そんな読後感を覚えることもしばしばだ。「水声」の8年前に発表された「真鶴」は他者との距離感、現実と仮想の混濁、生死の淡い境界をテーマにしていたが、「水声」に引き継がれている部分を感じた。

 本作の語り手は都で、1歳違いの弟・陵、ママとパパ、武治さん、都の幼馴染みである奈穂子が主な登場人物だ。都と陵は幼い頃から互いを強く意識していた。帯にあるように<流れる水のような静謐な恋愛小説>である。姉弟の恋愛といえば「ホテル・ニューハンプシャー」のフラニーとジョンを思い出す。10代だった彼らは短期間に膨大な数のセックスを繰り返すことで欲望を鎮め、禁忌から逃れた。都と陵はママが亡くなる直前に体を重ねた。

 鴻巣友季子氏は<中世以前、「いもせ」は夫婦だけでなく、姉弟、兄妹が結ばれることを差していた>と書評に記していた。都と陵にとって、ママの存在が関係の軛になっていた。陵を愛していたが自分には毒を吐くママに、都は愛憎半ばする感情を抱いていた。<陵のようにママに愛されたかった>という思いが、都を陵に近づけたのだ。都と陵に「枯木灘」の主人公である秋幸と異母妹のさと子が重なった。秋幸を禁忌に向かわせたのは怪物というべき実父・龍造への憎しみがあった。

 ママとパパが兄妹であったことが明かされる。都と陵の実父は、幼い頃から家族同然で、パパとも仲のいい武治さんだった。強烈な個性の持ち主であるママの求心力にパパ、武治さん、都、陵が引き寄せられていた。都はママの死後、夢で会話し、打ち解けるようになる。

 都の語りは1969年を起点に時間を行きつ戻りつし、ママの両親まで登場する。あり得ない奇妙な家族の設定が自然に思えてくるのが川上の筆致の成せる業だ。 都、陵、そして奈穂子は69年に10歳前後だから、俺とほぼ同世代だ。彼らの見聞する往時の様々な出来事に親近感と懐かしく感じた。

 95年の地下鉄サリン事件を目の当たりにした陵は、東京・杉並の生家で都と暮らすようになる。それどころか、同じベッドで眠っている。流れる川のように横たわる姉弟は、理性、倫理、通念を超えた安らぎを与えてくれる存在なのだ。その生家に開かずの間がある。奇妙な音が聞こえるなど不穏な気配が漂っていた。夢に現れるママの隠れ処だったのか。

 川上には「真鶴」、「大きな鳥にさらわれないよう」と鳥をタイトルに据えた作品がある。本作の冒頭とラストは鳥が現れるし、姉弟が抱き合ったのは〝鳥が騒がしく鳴いた夜〟だった。サリン事件だけでなく、ママが語る東京大空襲、そしてママと奈穂子が学生時代に旅したのは東日本大震災の被災地だった。川上が俯瞰の目で社会を見据えて見ていることが窺える。
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「フィールズ・グッド・マン」~イメージを増殖するミームの恐怖

2021-04-25 20:03:19 | 映画、ドラマ
まずは、前稿の続きを……。「憲法映画祭」2部終了後、帰路に就く。東中野駅頭で若者に声を掛けられた。ノーベル平和賞を昨年受賞した国連世界食糧計画(WFP)の情宣で、定期的寄付を募っていた。会の余韻で熱が充満していたためか、彼に正義を振りかざしてしまう。

 <難民や飢餓に苦しむ人たちを援助するWEPの理念は素晴らしいけど、元凶というべき国連常任理事国、とりわけアメリカの武器輸出を止めない限り、何も変わらない。兵器を造る企業や取引する商社に寄付を募ればいい>……。俺の言葉に真実はあるが、唐突だったと思う。彼に申し訳ないことをした。

 先日、新宿シネマカリテで「フィールズ・グッド・マン」(2020年、アーサー・ジョーンズ監督)を見た。漫画家マット・フューリーは06年、「ボーイズ・クラブ」の連載を始めた。マットの分身ともいえる主人公のカエルのぺぺは、<インターネット・ミーム>(ミーム)で別の貌を持つようになる。模倣→キャラ改変を重ね、SNS上で拡散した。

 きっかけはペペがパンツを下ろして用を足す際にこぼした「フィールズ・グッド・マン」(気持ちいいぜ)だった。筋トレに励む男たちが「気持ちいいぜ」と言いながらバーベルを挙げる動画が続々アップされる。ユルくて弟分的キャラのペペに、真逆の攻撃性が付与されたのだ。「ボーイズ・クラブ」のファンは社会に適応出来ない引きこもりが多く、〝リア充〟への根強い反感を共有していた。増幅された憎悪が投影され、ペペのイメージは歪んでいった。

 本作はSNSがもたらした奇跡の、そして悪夢の経緯を追ったドキュメンタリーといえる。若者がペペのメイクやコスプレ姿で暴力的なコメントを投稿するようになり、マットの友人たちは対策を講じるようアドバイスする。アーサー・ジョーンズ監督もそのひとりだったが、マットは聞き流していた。自身もアンダーグラウンドの表現者であり、ファンとの近しい距離を大事にしたかったからである。

 アナログの俺に仕組みはわからないが、日本でも億単位の収入を得ているユーチューバーが話題になっている。投稿で稼げるから、ペペのファンも耳目を集めるため過激さを増していく。ペペは仮想通貨の世界でも莫大な富を生むようになった。


 「アイラビスタ銃撃事件」がメルクマールになる。犯人の車に銃を持って同乗するペペの姿(もちろん非現実)が4chan にアップされるや、ペペのミームを使った銃撃予告が相次いで投稿された。ペペは凶暴でベータ(非モテ)の象徴と見做されるようになったのだ。

 この動きを見逃さなかったのがトランプ陣営だ。ネット戦略担当者やオルト・ライト指導者は積極的にペペに関わる。ペペの髪形をしたトランプが掲示板に投稿されたことで空気は変わった。<トランプは報われない君たちの味方>というポーズは〝自分は無力、無価値〟と絶望していた若者に受け入れられ、〝リア充〟の象徴というべきクリントンの演説会で突然、「ペペ」の掛け声が頻繁に上がるようになる。メディアは当初、事態を把握していなかった。

 「トランプは現実世界のペペ」と言い放つオルト・ライトが闊歩し、トランプ支持者の集会ではペペのTシャツを着たり、メイクをしたりする者が溢れていた。その結果、ペペは「ヘイトシンボル」に登録される。事ここに至り。マットはようやく〝ペペ奪還〟に向け動きだした。

 ウォール街占拠、様々な抗議活動、グレタ・トゥーンベリに端を発した気候正義など、SNSは世界が変わるきっかけをつくった。一方で、増幅した匿名性の悪意で追い詰められる人々が後を絶たない。被害は今、医療関係者にまで及んでいる。

 マルクス・ガブリエルはくSNSをツールにした消費資本主義が蔓延し、自らの意志はコントロールされている>と語り、SNSの活用を最小限にとどめている。ガブリエルと対談したカート・アンダーソンは<SNSによって現実と混濁した幻想が制御不能になった>と語っていた。〝SNSの暴走者〟の代表格がペペを利用したトランプ陣営であることを本作は抉っていた。

 ラストにカタルシスを覚えた。アメリカで歪められたペペが、香港では本来の姿になって復活する。ペペは自由と融和のシンボルになり、民主活動家はグッズを手にデモに参加していた。マットは希望を抱いたはずだ。

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「シャドー・ディール」&杉原浩司氏の講演~「憲法映画祭」で知る戦争の現在

2021-04-21 21:28:56 | 社会、政治
 先週末、3部構成の「憲法映画祭」(武蔵野公会堂)第2部に参加した。映画「シャドー・ディール~武器ビジネスの闇」(2016年、ヨハン・グリモンプレ監督)、杉原浩司氏(武器取引反対ネットワーク=NAJAT代表)による<軍産共同体が九条をこわす>と題された講演がセットになっていた。

 「シャドー――」の原題は「シャドー・ワールド」で、キャッチコピーは<戦争に資金が流れ、血は金に換えられた>だ。100年にわたる戦争や内戦の衝撃的な映像、ジャーナリスト、告発者、武器取引関係者らの証言を織り交ぜて構成されている。ラストには公開前年に亡くなったエドゥアルド・ガレアーノへのオマージュが捧げられていた。

 冒頭、第1次大戦時の貴重なフィルムが流れた。クリスマス休戦でドイツ兵が「きよしこの夜」を歌うと、敵味方がともに踊ったり、サッカーに興じたりした。束の間の出来事で、銃砲の合図で白兵戦は再開したが、当時はまだ、戦場においてもヒューマニズムの欠片が残っていた。

 平和が常態になる可能性を奪ったのは、欲望に駆られた軍需産業と金融機関の連携だ。一部の人間が巨万の富を築く一方、世界中の人々が傷つき、格差が拡大する。政権トップでさえ軍需産業の営業部長クラスで、その典型がオバマだ。〝史上最悪の武器商人〟として世界を闊歩する様子を本作は捉えていた。アメリカのイラク侵攻に与したブレアは引退後、軍需産業の役員に収まっている。

 本作で槍玉に挙がっていたのがサッチャーとレーガンだ。サウジアラビア王室とサッチャーとの黒い癒着が、数々の証言で詳らかになっている。サウジからの莫大な資金が、サッチャー政権と軍需産業を結ぶ円滑剤になっていた。サウジは現在、非人道的なイエメン空爆をUAEとともに支えるシャドー・ディールの担い手である。

 〝反テロ〟とは自らを〝正義〟の側に仕掛けで、メディアのコントロール下、人々の脳に刷り込まれている。ブッシュは単なる操り人形で、軍需産業と一心同体で30年にわたり主要閣僚を歴任したラムズフェルドとチェイニー(副大統領も)が米政権の元締であったことを、本作は示していた。
 
 上映終了後、5分ほどのインタバルで杉原氏が壇上に立った。背後のモニターには進行に合わせて写真やデータが映された。杉原氏はかねて「シャドー・ディール」をネット上で薦めていたが、映画好きの同氏とは、ドローンの脅威を描いた「ドローン・オブ・ザ・ウォー」や「アイ・イン・ザ・スカイ」の感想を語り合ったことがある。日本と朝鮮半島の近現代史を背景に据えた帚木蓬生著「三たびの海峡」を薦めてくれたのは杉原氏だった。

 杉原氏は最近の変化にポイントを置いて論を進めた。コロナ禍で経済活動は停滞しているが、世界の軍事費は昨年、約194兆円で前年比3・9%増だった。ちなみに日本は8位だ。トレンドも変化し、自国生産にシフトしつつある。経団連の肝いりで、武器を扱う商社も活動している。

 コロナワクチンは典型的な例だが、技術力で後塵を拝している日本は、武器輸出でも成果を上げていない。米国製武器を爆買いは止まらないが、ヒラリー・クリントンが「空軍が計画したものは全て不要」と指摘したF35もその中に含まれている。だが、政府は手をこまねいているわけではない。

 佐藤優、池上彰両氏が「中央口論」誌上で推奨した、敵基地攻撃能力を飛躍的にアップさせる「スタンドオフミサイル」の開発を川崎重工と三菱重工が進めている。日本は米軍を後方支援してきたが、米国は自衛隊に〝共犯者〟になることを求めているのだ。

 核を所有しパレスチナでジェノサイドを推し進めるイスラエルに、NAJATは厳しい目を向けていた。「NEW23」(TBS系)はイスラエル大手軍需産業担当者から、<我々の武器は戦場(ガザ地区)で実証済み>との発言を引き出していた。同番組でコメントした杉原氏は、軍事のみならずセキュリティー面での日イ連携を糾弾していた。

 NAJATは日イ連携を掲げるイベントのスポンサーであるソフトバンクに文書で抗議した。孫正義氏は「レピュテーションリスク」を勘案したのか、少し距離を取った。各企業、グループにとって軍事関連部門が占める割合は小さいが、川崎、三菱、そして武器取引に前のめりの商社に抗議し、〝武器商人〟と認知させることが、市民運動にとって大きな武器になる。

 杉原氏は今、ミャンマー問題に取り組み、国軍への資金源を断つことを政府・関連部署に求めている。ODAの源泉は税金だから、私たちの手が気付かないうちにミャンマー人の血で汚れているのだ。想像力こそが、世界を俯瞰する際の最大の武器なのだ。
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「サラバ!」~<邂逅と再会>、<崩壊と再生>を描く壮大な物語

2021-04-16 12:50:50 | 読書
 俺の感動体質は齢を重ねるごとに進化している。6年前、「CSI:科学捜査班」最終話(WOWOW)に深く感動した。「シーズン9」までチームを牽引したグリッソムとサラが再会する。15年にわたる愛の軌跡を綴った映像のバックにザ・フーの「ビハインド・ブルー・アイズ」が流れ、涙腺が一気に決壊した。

 スカパーで「ザ・フー~ライヴ・アット・キルバーン」を見た。映画「キッズ・アー・オールライト」用に撮影されたシークレットギグで、全編を見るのは初めてだった。5曲目に演奏された「ビハインド――」にまたも涙が抑え切れなくなる。そういえば先日、電車の中で号泣しそうになったが、〝マスクの日常〟で気付かれずに済んだ。読んでいたのは「サラバ!」(西加奈子著、2014年、小学館文庫)である。

 西の小説を紹介するのは「通天閣」(06年)以来、1年4カ月ぶりである。西はテヘランで2歳まで過ごし、小学校1年から5年までカイロで暮らした。その幼年期を下敷きにしたのが「サラバ!」だ。本作は圷(あくつ)家の40年にわたる波瀾万丈を描いた叙事詩といえるだろう。

 主人公の歩(あゆむ)もテヘラン生まれで、当地に赴任した父、母、姉の貴子とともにカイロで5年過ごした。当地の風土、人々の気質、習慣が精緻に描写されていた。上中下3巻(900㌻超)の長編で切り口は多いが、俺自身の来し方と照らして感想を記したい。

 本作には〝ボーイズ・ラブ〟的な雰囲気が漂っている。カイロ在住時は同い年のヤコブ、高校時代はサッカー部のチームメイトである須玖に、歩は恋以上の思いを抱いていた。記憶を振り返ると、俺も10代の頃、男の友人に嫉妬に近い感情を覚えたことがある。本作の歩は決して特別ではない。西の男性への理解度に感心した。

 「サラバ!」は日本語的には〝さようなら〟だが、歩とヤコブにとって「また会おう」という気持ちを込めた合言葉だ。本作のテーマは<邂逅と再会>と<崩壊と再生>で、キーワードは<白くて大きな化け物>と<すくいぬし>だ。ジョン・アーヴィング著「ホテル・ニューハンプシャー」、ニーナ・シモンの「フィーリング・グッド」を主旋律に物語は進行する。

 カイロ在住時、父と母は離婚し、歩は母、姉と大阪に帰る。圷家は崩壊するが、既に綻んでいた。元凶は姉で、〝わたしを見て〟という欲求が空回りし、母との亀裂は埋め難かった。歩は突飛な言動で周りを混乱させる姉を嫌い、空気を読むのが習いになる。痩せこけて〝ご神木〟と陰で呼ばれ、孤立する姉と対照的に、歩はいつも仲間に囲まれていた。ヤコブ、須玖に続き大学時代、映画サークルで出会った1年後輩の鴻上とは、男女を超えて語り合える親友になった。

 背が高くイケメンの歩は超モテ男だった。美人の恋人を取っ換え引っ換えし、カルチャー系ライターとして地歩を築いていく。内外のクリエーターに取材するようになった歩だが、致命的欠陥に気付いていなかった。<自分がどう見えているか>に拘泥していることで、女性への距離感もそこに基づいている。だから、〝ビッチ〟の鴻上とは関係を持たなかった。一方の姉は傷つきながら漂流し、<自分は何者か、信じるものは何か>を探し続ける。

 再会するたび、決定的だった姉弟の差が埋まり、逆転する。抜け落ちる髪はメタファーなのか、歩は仕事も恋人も失っていく。カルチャーをツールとして用いてにしていたことが隠せなくなって、図書館だけがサンクチュアリになる。かつて自らと社会を遮断していた姉は依然、喘いでいた。パフォーマーとして認められたものの挫折したが、それでも殻を破り、信じるものを手にした。

 どん底の歩は、須玖、鴻上と奇跡的な再会を果たす。他者への感応力に優れた須玖は阪神・淡路大震災の衝撃で高校に来なくなり、15年以上も没交渉だった。須玖の生業は想像もつかないものだったが、そこに鴻上が加わり、温かで緩やかな円は壊れそうになる。原因は歩の狭量さだった。

 ともに理解者として姉に寄り添う矢田おばさん、夏枝おばさんの魅力的なキャラクターが本作に彩りを添えている。包容力と磁力を併せ持つ矢田おばさんは、意志に反して新興宗教の教祖的存在になる。<すくいぬし>という言葉はやがて、社会を拒絶していた姉の芯と幹になる。夏枝おばさんが身につけたカルチャー全般への理解は、歩だけでなく須玖にも影響を与えた。

 エジプト革命の報に、歩は当地を訪れ、ヤコブと再会する。10歳の頃、2人は別れの日、ナイル河から蜃気楼のように立ち上る<白くて大きな化け物>を見た。あれは歩、そしてヤコブにとって、未来に繫がる時間だったのか……。歩は化け物の正体を表現することこそ、自分に課された義務だと確信する。歩にとって<すくいぬし>は小説家になることだった。

 圷家に慰安が訪れ、母、姉、歩は空白を埋めるかのように寄り添う。俺は書かれていない終章以降に思いを馳せる。父と母との再会だ。父は決して自分は幸せになってはいけないと誓い、意識的に自らを削いでいく。そんな父は、母にとって<すくいぬし>だったのは。本作は秘められた思いに紡がれた、宿命的で哀しい愛の物語でもある。

 「サラバ!」は全ての人にお薦め出来る作品だ。読者は必ず自分の来し方に重なる部分を見つけられるはずだ。自分史や家族の物語を書いてみたい……、そう感じる人もいるだろう。
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「騙し絵の牙」~獰猛な牙は時に自分の舌を咬む

2021-04-12 21:28:56 | 映画、ドラマ
 福島原発汚染水の海洋放出が決定した。トリチウムは現代の技術で除去出来ず、漁業関係者は反対の姿勢を崩さない。この間の経緯にデジャヴを覚える。3・11直後、上杉隆氏(自由報道協会代表=当時)は「日本は海洋テロ国家になる」と警鐘を鳴らしていた。実際、六ケ所再処理工場では試験的に汚染水が海に放流されている。安倍前首相の「アンダーコントロール」のフェイクで招いた東京五輪は開催中止を決定すべき時機にきている。

 「流行感冒」(NHK・BSプレミアム)を見た。舞台は約100年前の日本で、流行感冒(スペイン風邪)が世界中で蔓延し多くの人々が犠牲になった。本作の原作者である志賀直哉(本木雅弘)は以前、長女を亡くしたことで次女の健康に神経質になっている。制止を聞かず芝居を観賞した女中の石(古川琴音)に暇を出そうとするが、妻(安藤サクラ)に諫められた。

 コロナ禍と重なる部分もあり、志賀と編集者(仲野太賀)との会話に、統制が利きやすい日本人の体質が言及されていた。当時の農村の風習や東京を走る電車内の様子に往時が偲ばれる。自身も罹患し恐慌を来した志賀だが、石の献身的な看護もあり、一家とともに快癒した。さすが本木と言うべきか、志賀の心境の変化を巧みに表現していた。
 
 新宿で先週末、「騙し絵の牙」(2021年、吉田大八監督)を観賞した。原作者の塩田武士は元神戸新聞記者ゆえ、新聞社を背景に据えた作品が多いが、「騙し絵の牙」は出版社を徹底取材した上で書き上げた。執筆中から大泉洋を主役に想定していたという。

 大泉演じる速水は業界大手の薫風社で情報誌「トリニティ」の編集長を務めている。タイトルの〝騙し〟そのまま、速水はアイデアと策略で周りを出し抜いていく。笑顔の陰に〝牙〟を隠し、相手の勘所をしっかり押さえていた。鋭さだけでなく優しさも併せ持っている。

 本作は〝社会派〟塩田らしく骨太で、出版界と文学の厳しい状況、業界の新たな取り組みを背後に織り込み、細部に至るまでトリックが施された良質のエンターテインメントだった。大まかな感想を述べれば、<獰猛な牙は時に自分の舌を咬む>……。

 冒頭で薫風社社長(山本学)が犬の散歩中に急死する。シェパードの牙が作品全体のメタファーになっていた。カリスマの不在で派閥争いが勃発する。後継の東松(佐藤浩市)はその名から〝機関車トーマス〟と呼ばれるほど強引に赤字削減に努めてきた。タッグを組むのは投資ファンドの郡司(斎藤工)だ。

 企業、官庁で普遍的に現れる構図、<伝統VS改革>が対立項で、薫風社、とりわけ「小説薫風」編集部には日本文学を支えてきたという自負がある。宮藤常務(佐野史郎)、江波編集長(木村佳乃)は人気作家の二階堂(國村隼)とも強い信頼関係に結ばれている。

 速水に加え本作のキーパーソンは高野恵(松岡茉優)、消息を絶った謎めいた作家だ。高野は街の本屋の娘で、父(塚本晋也)の苦労を間近で見ている。作家発掘に慧眼と情熱を発揮する高野だが、「小説薫風」編集部から追い出され、「トリニティ」に拾われる。大泉への敬意と不信を抱く高野は、書店の未来像を見据えていた。本作をご覧になった方は、凸版印刷とアマゾンがスポンサーになってことに納得するだろう。

 興味深かったのは、ある小説を巡る江波ら上層部と高野との対立だ。伝統に胡座をかいたベテラン編集者の嗅覚が衰えていることが、後半に明らかになる。作家志望だった知人はかつて「あいつら(文芸誌)、才能を見抜く力がない」と怒っていたが、負け犬の遠吠えともいえない。高橋和己、中村文則でさえ早い段階で選考から漏れていた。本作で文芸誌の現状がわかった気がした。

 リリー・フランキー、小林聡美ら錚々たる面々が脇を固め、どんでん返しの連続でラストへと至る。塩田原作はドラマ「盤上のアルファ~約束の将棋」、「歪んだ波紋」(ともにBSプレミアム)、映画「罪の声」に次いで「騙し絵の牙」が4作目だ。いずれも充実した内容で、今後も映像化を期待している。
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「あのこは貴族」~階級の呪縛から解き放たれて自由な空へ

2021-04-08 22:10:39 | 映画、ドラマ
 名人戦第1局は、凄まじい激闘だった。相矢倉だったのに2日目、渡辺明名人の王は穴熊に納まっていた。挑戦者の斎藤慎太郎八段の猛追撃をしのいだかに思えたが、最終盤に逆転し、179手で渡辺が投了する。謙虚で爽やかな斎藤だが、真骨頂は驚異的な粘りといえる。2局以降が楽しみになってきた。

 NHK杯は55歳の日浦市郞八段と27歳の池永天志五段の世代対決で開幕した。今期から画面上部にAIの形勢判断が表示される。日浦有利の数値に半信半疑だったが、数字通りに決着した。解説は上記の斎藤の師匠である畠山鎮八段だ。棋士の経験値と感覚にAIの特性を対比する畠山のコメントは聞き応えがあった。

 桜花賞の枠順が確定した。④ソダシ、⑤アカイトリノムスメ、⑱サトノレイナスが上位人気だろう。ともに体が小さく中2週のローテは気になるが、フラワーC①②着の⑰ホウオウイクセルと⑩アールドヴィーヴルに注目している。重厚な血統だが関西遠征が気になる。オークスで狙いたい。今回は松山騎乗停止でデムーロに乗り替わるアールドに期待する。

※訂正。アールドはクイーンC②だった。こりゃ当たらん。

 新宿で先日、「あのこは貴族」(2021年、岨手由貴子監督)を見た。前稿で紹介した「枯木灘」(中上健次著)は行間に身を潜めて対峙したが、「あのこは貴族」はロングアイの感覚で観賞した。原作(山内マリコ著)は未読ゆえ、冒頭で違和感を覚えた。

 タイトルに〝あのこ〟がある以上、主観は〝あのこ〟でないはずだが、登場したのはまさに〝あのこ〟病院長の三女、榛原華子(門脇麦)だ。恋人と別れたばかりの華子は高級ホテルで開かれた家族の新年会に足を運ぶ。次姉の麻友子を「相棒」の出雲麗音役、篠原ゆき子が演じていた。

 華子は俺、いや、殆どの人と無縁の世界で生きてきた。系列の小中高からお嬢様御用達の女子大に進学し、卒業後は自分に見合った結婚相手を必死に探している。合コンや見合いで幾つかの〝外れ〟に当たった後、義兄の紹介で知り合った弁護士の青木幸一郎(高良健吾)と婚約する。青木家は日本有数のエスタブリッシュメントで、幸一郎が国会議員になることは既成事実になっていた。

 少し経ってもうひとりの主人公が登場する。富山出身で慶大に進学したものの家庭の事情で退学し、キャバクラ嬢を経てOLになった時岡美紀(水原希子)だ。職種はIT、代理店、デザイン関連といったところか。年齢は華子より少し上で、30代前半だ。

 華子と美紀はテレビドラマでもよくある設定だ。東京と地方、固定化した階層社会が後景に聳え、煌びやかな東京とシャッター街が広がる地方との対比も描かれていた。同郷で慶大に進学した平田里英(山下リオ)と美紀は「地方って東京に収奪されてるよね」なんて会話を交わしていた。だが、俯瞰で眺めれば、東京は今やアジア諸国の人々の目から消費の対象と映っている。インバウンドの前提は物価の安さなのだ。

 棲み分けが決まっているはずの華子と美紀は幸一郎で繋がっていた。美紀は慶大時代、ノートを貸したが返ってこず、客としてキャバクラを訪れた幸一郎と再会する。美紀の目を通して見た幸一郎は、女性に人格を認めない森喜朗前首相とさほど変わらない。〝寝る相手〟の美紀の人格その他に興味はなく、故郷がどこなのかも知らない。

 華子の同窓で、美紀とも接点のあるバイオリニストの逸子(石橋静河)が両者を対面させる。環境も性格も違うが話は淡々と進み、互いに好印象を抱く。タイトルの「あのこは貴族」はこの場面の美紀の心の声だったのだろう。派手な披露宴の後、億ションで新婚生活を始めた華子と幸一郎だが、互いの心を繫ぐ鈎がないことに気付いた。

 誰しも青春期、<自分は何者?>、<どう生きていけばいい?>と懊悩する。だが、華子と幸一郎にとって人生とは、あらかじめ答えが決まっていたジグソーパズルにピースをはめ込む作業だった。華子は美紀の自由な魂に感応し、離婚する。貴族階級の呪縛から解き放たれたのだ。

 美紀は里英と起業を決意し、華子はマネジャーとして逸子を支える。ラストの富山のイベントで4人の女性が見せる清々しい笑顔が印象的だった。その場に偶然現れた幸一郎は、果たして軛を逃れたのだろうか。男女格差やジェンダー問題で世界の後塵を拝している日本だが、男性もまた精神の不自由に喘いでいる。
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「枯木灘」~中上健次が吐き出す血塗れの言葉の礫

2021-04-04 21:45:12 | 読書
 キックボクサーの沢村忠さんが亡くなった。本場タイでトップ選手と死闘を繰り広げた藤原敏男を上に評価するファンも多いが、沢村さんには何より華があった。中学生だった俺は、人間風車のビル・ロビンソン、真空飛び膝蹴りの沢村さんに魅せられ、ブラウン管に釘付けになった。偉大な格闘家の死を悼みたい。

 スポーツ全般、ロックへのアンテナは錆び付いてしまったが、映画と読書は今も生活のリズムになっている。日本文学は大抵、網羅したつもりだったが、時折エアポケットに迷い込み、自分の無知を思い知らされる。中上健次もそのひとりで、2作目になる「枯木灘」(1977年、河出文庫)を読了した。

 本編に加え、後日談の「覇王の七日」、「著者ノートにかえて 風景の貌」を併せ400㌻超になる。凄まじい熱を帯び、血塗れの言葉の礫に圧倒された。舞台は7月から8月にかけての和歌山県新宮周辺だ。26歳の竹原秋幸は異父兄が経営する組(土建業)を現場監督として支えている。
 
  前々稿で紹介した映画「異邦人」同様、「枯木灘」の回転軸はうだるような暑さで、秋幸の強靱な肉体と汗が物語の濃度を増している。背景にあるのは<路地>と表現される被差別だ。星野智幸は<中上は体を張って文学を存在させようとしていたわずかな作家のひとり。力関係で弱い側に置かれた者に対してはてしなく共感する受容力に感銘を覚えた>(趣旨)と評している。中上は被差別民、その周辺に暮らす朝鮮人の声を聞き、作品に反映させた。

 「枯木灘」で存在感が際立つのは秋幸の実父だ。〝あの男〟と呼ばれる浜村龍造は石川淳の「荒魂」の佐太を彷彿させる。「きもちといふ不潔なもの」と表現した石川は個々の内面や葛藤を超越した虚構を設定したが、龍造も戦国時代、織田信長に挑んで敗走した浜村孫一(雑賀孫市?)を祖先として奉り石碑を建てる。龍造を憎んでいる秋幸でさえ、時に孫一と自分を重ねてしまう。

 「風景の貌」を読む限り、「枯木灘」は係累をモデルにした私小説に思える。自然主義的作家との評価もあるが、柄谷行人に勧められてフォークナーを読み、作風を変化させる。紀州の独特な風土を背景に浜村孫一を造形したことで、時空を超越したマジックリアリズムを現出させた。

 「岬」と本作「枯木灘」、そして未読の「地の果て 至上の時」は血と性が行間に滲むサーガ3部作だ。サーガとは<一族の物語を壮大に描く叙事小説>で、一貫したテーマは父殺しだ。本作に即せば秋幸と龍造との葛藤で殺人事件に至る。迸るのは鮮血ではなく一族の濁った血だ。

 盆踊りに歌われる「きょうだい心中」に連なるように、「枯木灘」には兄妹の禁忌の性が描かれている。秋幸の異父兄である郁男は妹の美恵に強い思いを懐き、叶わぬまま自殺する。秋幸とは異母妹で、自身の娘であるさと子との関係を知っても、龍造は動揺しない。「きもちといふ不潔なもの」に拘泥せず<女は孕む道具>と言い切る龍造を筆頭に、本作はフェミニズムと対極にある。愛は気持ちを超え、狂いに向かうのだ。

 「枯木灘」は紀州の風土に醸成されている。秋幸は<男(龍造)の一滴の精液と女(母フサ)の子宮の一個の卵子でつくられたのではなく、いま背にした山々の霊気と向かいあった海の眠ったような海の腹につくられてここに在る気がした>とモノローグしている。生死の狭間を行き来する錯覚に陥った時、秋幸は黄泉の国に旅立つ補陀落渡海に赴いているように感じた。別稿(3月5日)で紹介した辻原登の「籠の鸚鵡」のラストに重なった。中上と辻原は同郷である。

 郁男が秋幸に抱いた殺意と、秋幸と異父弟の秀雄(龍造の子)との軋轢が12年をカットバックして描かれる。龍造は秋幸に思いを馳せるなど、父としての包容力は揺るがない。殺人事件の後、主観は秋幸から幼馴染みの徹に移り、徹の伯母に当たるユキが以前にまして路地を徘徊する。自身の悲運を糧にしたユキは、路地の語り部の役割を担っていた。

 龍造はかつて路地を放火して回った男として人々の記憶に残っている。開発のためのお先棒を担ぎ、風景を変えたのだ。異形の悪党は資本主義の実践者でもある。「枯木灘」は様々な角度で読み説くことが出来る作品だ。中上にとって初めての長編は、路地から神話の域に達し、世界を俯瞰する奇跡を起こした。ラストシーンが深い爪痕として記憶に刻まれた。
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