酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「二酸化炭素温暖化説の崩壊」~広瀬隆講演会に参加して

2010-07-30 01:41:48 | 社会、政治
 先週末、広瀬隆氏の講演会に参加した。テーマは「二酸化炭素温暖化説の崩壊」で、同名の新刊(集英社新書)発表を記念したイベントである。

 二酸化炭素温暖化説が崩壊? そんなアホな。こう反応された方は広瀬氏の新刊を読み、ニューヨーク・タイムズなど欧米主要メディアのHPにアクセスしてほしい。何より重要なのは、厳然たる資料とデータなのだ。

 昨秋、〝クライメートゲート事件〟が発覚した。検索すればYoutubeで事件を伝えるニュース(邦訳付き)もヒットするからご覧になってほしい。二酸化炭素温暖化説を流布した「気象変動に関する政府間パネル(IPCC)」によるデータ捏造が発覚し、世界中のメディアが大きく取り上げた。

 IPCCはNASAとも繋がっている〝アメリカの国家機関〟で、パチャウリ議長は排出権取引で莫大な富を手にした原発産業の代理人である。国連にも絶大な影響力を持つIPCCは告発に対し、〝社会主義者や途上国の陰謀〟と逆切れしているが、旗色は悪い。関係者の〝自白〟、各国気象団体によるデータ改竄の具体的指摘、科学者(団体を含め)の著書やリポートは、疑いようのない〝真実〟を指している。

 哀れなのがIPCCの操り人形だった〝聖人〟アル・ゴアだ。人格攻撃のみならずセックススキャンダルまで飛び出して〝獣人〟扱いされ、二酸化炭素温暖化説とともに葬られようとしている。

 <これって、ホント? 北朝鮮じゃあるまいし、アメリカでの大騒動を日本のメディアが報じないはずはないじゃない>……。こう考えるのも無理はないが、日本ではいまだ報道管制が敷かれている。当講演会にも有形無形の圧力がかかり、広瀬氏は一部環境保護団体からも非難されている。IPCCを信じて低炭素社会実現に取り組んできた活動家たちは、前提が崩れたことを認めたくないのだろう。

 IPCCの〝マインドコントロール〟は少しずつ解かれつつある。北海道新聞、東京新聞に続き、これまでIPCC寄りだった朝日新聞が宗旨変えした。講演会翌日の朝刊(25日付)1面で「世界の気象異変」を伝えたが、原因を偏西風の蛇行とし、二酸化炭素については一行も触れていない。

 仕事先の夕刊紙に連載中の松尾貴史は、気象問題を扱った稿の最後を「ゴアはマグマ大使に叱ってもらえ」と結んでいた。さすが「朝まで生テレビ!」のパロディー(1人20役以上)で広瀬氏を見事にカリカチュア化した松尾だけのことはある。

 広瀬氏は二酸化炭素温暖化説の崩壊を前提に、次世代エネルギーを展望する。広瀬氏は原発がいかに自然を破壊し、地球温暖化に〝貢献〟しているかを示した後、エネルギー効率に関するデータを紹介する。

 PEM型家庭用燃料電池(エネファーム、エネルギー効率80%)、天然ガスコンバインドサイクル(同80%)、従来型火力(同45%)、原発(同30%)……。数字を見れば差は一目瞭然だが、日本政府は原発への補助金4500億円に対し、エネファームには81億円しか出していない。〝亡国の予算〟は原発推進を掲げる民主党が政権の座にある限り変わらない。

 広瀬氏は聖路加病院を例に取ってコジェネレーションの実用例を示すなど、次世代エネルギーの主力候補を紹介していた。日本近海に大量の天然ガスが分布しているという調査結果には、希望を抱かざるをえない。

 かつて〝反権力のアジテーター〟というイメージが強かった広瀬氏だが、今では非原発を目指す〝真実の追究者〟だ。東京ガス、東京電力、パナソニックで次世代エネルギー開発に携わる研究者と頻繁に意見交換もしている。真実を求める続けることで立場を超え、新たな同志を得たようだ。昨年の政権交代時、森永卓郎氏が私案(朝日新聞掲載)として広瀬氏を金融相に推したのもむべなるかなである。

 広瀬氏は会場がまばらな頃に入場し、開始時間を待つ。終了後は希望者とともに一席設け、胸襟を開いて歓談する。スクエアな姿勢は、谷川雁的な古き時代の工作者を彷彿とさせる。広瀬氏はアナログとデジタルの最良の部分を併せ持っている。次世代エネルギーについての著書が待ち遠しい。

 さあ、フジロック! 5時間後に起きて苗場に向かう。4会場で8バンドを見る予定だが、雨とぬかるんだ足場に気勢を削がれるかもしれない。あしたの今頃は新宿着の夜行バスで余韻に浸っているはずだ。



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「ぼくのエリ~200歳の少女」~<愛の意味>を問う残酷なメルヘン

2010-07-27 02:56:18 | 映画、ドラマ
 数学者の森毅氏が亡くなった。享年82歳である。著書に触れたことはないが、自然科学に通じた氏の論評は実に刺激的だった。以下に一例を記したい。

 <蟻を働き者、普通、怠け者に3等分する。働き蟻を集めた〝精鋭軍団〟の勤勉度は33%ずつになり、怠け蟻だけの〝窓際集団〟も結果は変わらない。人間だって似たようなものだ>……。

 人は目に見えるものだけに踊らされがちだが、森氏は俯瞰の目と万年単位のスパンで物事を捉え、透徹した分析を提示した。ユーモアに満ちた庶民派学者の冥福を祈りたい。

 銀座テアトルシネマで先日、スウェーデン映画「ぼくのエリ~200歳の少女」(08年)を見た。1980年代の当地を背景に描かれたヴァンパイア映画で、<愛の意味>を鋭く問う作品だった。

 <愛の意味>と書いたが、俺はこの年(53歳)になっても愛の迷路で途方に暮れている。確実にいえるのは、愛に定番やマニュアルが存在しないことだけだ。一時期もてはやされた〝三高〟にしても、計算高さに基づく進化ではない。本能をむき出しにした女性たちの先祖帰りであることは、サル山を観察すればすぐわかる。

 <あなたたちが価値を置く愛は、そんなに素敵ですか>……。ペドロ・アルモドバルは自らの体験に根差し、「アタメ」、「オール・アバウト・マイ・マザー」、「トーク・トゥ・ハー」らの諸作品で、型通りの愛が到達しづらい神話を見る者の心に刻印した。

 「ぼくのエリ――」もまた、尋常ではない設定の上に成立した愛を描いている。主人公のオスカーは陰湿ないじめに遭う12歳だ。両親は離婚しており、母と暮らすアパートの中庭で、隣に引っ越してきた裸足の少女エリと出会う。

 エリは学校に通わず、おかしな匂いがする。直感が鋭いのか、ルービックキューブをたちまち完成させた。オスカーが年齢を問うと、エリは「だいたい12歳」と答え、自分の誕生日を知らないという。壁越しのモールス信号で交流するなど、孤独な二つの魂は相寄っていく。

 連続殺人が人々の耳目を集めていた。血を抜かれた惨殺体が街で相次いで発見される、犯人は隣室の住人でエリの保護者らしき中年男ホーカンだ。真っ暗な部屋、ホーカンを罵る恐ろしい声の主は……。未遂に終わった事件で連行される直前、ホーカンは自らの顔に塩酸をかけて病院に搬送される。エリが病室を訪ねた後、ホーカンは身を投げた。

 本作をヴァンパイア版「小さな恋のメロディ」と評する向きもあるが、色合いは全く異なる。エリはオスカーの初恋の相手だが、200歳のエリにとってオスカーは新たな保護者(共犯者)候補だ。エキゾチックで謎めいたエリは、オスカーを官能のとば口に誘う。血塗られたファーストキスは、希望と同時に呪いのスタートだったのか。

 本作を見終えた後、「ラビット」や「ブルート」(ともにカナダ製作)といったクローネンバーグの初期の作品を思い出していた。「ぼくのエリ――」同じく、異形の者を描くことで愛の本質に迫った作品だが、デジャヴを覚えた理由は作品の質感にある。スウェーデンとカナダは気候が似ており、灰色を基調にした映像はともに閉塞感を滲ませていた。

 他の選択肢が消えたオスカーは新たな一歩を踏み出す。ラストの列車のシーン、モールス信号で箱を叩くオスカーに、ホーカンの凄惨な表情が重なった。30年後も12歳のままのエリは、第二のオスカーを見つけているだろう。

 残酷で暗示的なメルヘンは「ミレニアム~ドラゴン・タトゥーの女」同様、ハリウッドでリメークされる。スウェーデンは今、エンターテインメントの発信地になっているようだ。

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「ナンバー9ドリーム」~シュールでポップな〝ハルキワールド〟

2010-07-24 06:17:01 | 読書
 「名探偵モンク」が完結した。事実の断片を一瞬にして組み立て全体像を提示するモンクは、アナログ的な〝ジグソーパズルの達人〟だった。「トゥルーディの真実」(前後編)で、愛妻爆死事件の真相が解き明かされる。モンク自身も毒物によって死の淵を彷徨うなど、ドラマチックな内容だった。

 少年時代の孤独と喪失は、モンクの精神形成に大きな影を落とす。疎外と絶望に苛まれ、滑稽で不完全に見えるモンクを、トゥルーディはなぜ愛したのか……。全編を通じての謎もまた、最後に明らかになる。

 <モンクは欠落した人間と思っていたが、誤解だった。あいつは誰より物が見え、多くを感じていた。人間的過ぎて、それが仇になっていたんだ>……。最大の理解者であるストットルマイヤー警部のモンク評に頷いたファンも多いだろう。「名探偵モンク」はミステリーを超え、愛と再生を謳い上げたヒューマンドラマだった。

 W杯が終わり、ようやく読書が進み始めた。先日、「ナンバー9ドリーム」(デイヴィッド・ミッチェル/新潮社)を読了した。2000年前後の東京を舞台に、シュールでポップな世界が展開する。作者は広島で8年間、英語教師を務めたという。東京を切り取るシャープな表現の数々は、観察眼の賜物といえるだろう。

 訳者(高吉一郎)はあとがきで、<村上春樹の影響が濃い作品>と記している。本作は<ハルキ度>によって評価が分かれると思う。俺は「ノルウェイの森」(87年)でグッドバイした<他に読むべき作品はたくさんある>派ゆえ物足りなさを覚えたが、<村上春樹最高>派は本作を絶賛するに違いない。

 主人公の三宅詠爾はジョン・レノンに傾倒する屋久島出身の青年だ。ちなみにタイトルはレノンの曲名にちなんでいる。父の顔は知らず、母に捨てられ、双子の姉安寿は水難事故で死んだ。10代にして孤独と喪失を纏った詠爾だが、モンクと比べるとはるかに器用だ。父に会うため上京した詠爾が高層ビルで展開するゲリラ行為は実に刺激的だが、疾走感は続かない。ハリケーンに襲われた幻想の新宿、奇妙な映画館の夢が交錯し、ファジーの海に踏み込んでいく。

 闇社会での壮絶な抗争も描かれるが、現実とは限らない。本作には明らかにヴァーチャルリアリティーの発想が取り入れられている。羊作家と雌鳥おばさんが登場する奇妙な〝小説内小説〟、人間魚雷で玉砕した大伯父の日記と趣向は凝らされているが、俺の凡庸な脳はメーンストーリーとサブの道具立てを繋ぐ回路を見つけられなかった。

 俺は<起承転結>から逃れられない非デジタル的読み手だ。本作の主題は<絆>と早とちりした俺にとって、詠爾と父母との再会は拍子抜けだったし、天才ハッカーの知恵を借りた詠爾の試みは劇的<結>とはならなかった。カタストロフィー、大団円、寂寥、昇華、カタルシスといった俺好みの結末と異なり、本作は堂々巡りの孤独と喪失に行き着いた。

 <形式は内容に先行する>は20世紀初頭、表現主義者が提示したテーゼで、世界はまさにその通り変容した。本作が10年後に書かれていたら、内容はかなり変わっていたと思う。後半は詠爾と今城愛とのラブストーリーが軸になるが、会話の多くは普通の電話(公衆電話を含む)だった。携帯電話やメールで言葉を交わしていたら、二人の関係はどうなっていたのだろう。

 9年前に発表された本作でさえ、どこか古臭く感じてしまう。<普遍>と<不変>も10年足らずで変化してしまうのだろうか。


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〝グラストンベリー2010〟~MUSEの最新形に陶然

2010-07-21 01:16:18 | 音楽
 全英オープン最終日を見た。門外漢の俺の目に、石川遼は〝150㌔超の速球派〟と映った。細かい技術を身に付ければ、メジャー制覇も夢ではないと思う。

 石川同様、〝荒削りの18歳〟がNHK杯に登場した。里見香奈女流名人(倉敷藤花)である。将棋界では男女の差は極めて大きいが、持ち時間の短いNHK杯では〝事件〟が起きる。中井女流6段は計3勝を挙げ、佐藤9段(当時棋聖)を崖っ縁まで追い詰めた。

 終盤に定評ある里見は既に〝男性キラー〟の片鱗を見せているが、今回は勝手が違った。小林裕士6段は里見と同じ関西所属で、練習将棋など普段から接する機会も多いのだろう。余裕ある指し回しで圧倒した。

 感想戦に加わった解説(師匠でもある)の森9段が、「悪手(3六同歩)がなければチャンスもあったのに」と指摘すると、里見の表情が和らぐ。屈託ない笑みは、勝負師ではなく10代の少女そのものだった。

 前置きが長くなったが本題に。フジロックの予習を兼ね、MUSEのブートレッグDVDを買った。エッジ(U2)との共演が話題になったグラストンベリー'10のプロショット映像である。DVD化されたグラストンベリー'04と見比べると進化は明らかで、数万の聴衆とともに自然体で祝祭的空間をつくり上げていた。

 スタジアムロックの原点は、ロシアアヴァンギャルドを換骨奪胎したナチスのイベントにある。ナチス宣伝相ゲッペルスに顔が似ているマシューもまた、熱狂を生むシステムを本能的に理解していても不思議はない。更に言えば、マシューの母方は霊媒師の家系だ。俺もまた、魔法かトリックか集団催眠に引っ掛かっているのだろうか。

 俺がMUSEに入れ揚げたのは、アンチが多かったからだ。音楽通の友人、サラリーマン時代のロックファンの後輩たちは、概してMUSEに冷淡だった。好き嫌いならともかく、〝この程度のバンドのどこがいいの〟と嘲う者さえいた。となれば、俺も意地を張るしかない。

 バンドを見る目には自信があったが、多勢に無勢で気弱になる。勇気付けてくれたのは米オルタナ界のカリスマ、ペリー・ファレルだった。主催者としてロラパルーザ'07のヘッドライナーにMUSEを据える。MUSEはファレルの愛のこもったアジテーションでステージに送り出された。

 あれこれ難しく考える向きもいる。俺も時に理屈っぽく語ってしまうが、ロックとはつまるところ、10代もしくは、俺のように10代の荒野にとどまった者のための音楽なのだ。公式サイトからMyspaceにアップされたMUSEのシアトル公演では、10代の少年少女が歌いながら体を揺らしていた。これぞロックの理想形だと思う。

 1月の武道館に続き、日々刻々進化するMUSEを苗場で体感できる。MUTEMATH、ダーティー・プロジェクターズ、サンハウスも楽しみだが、このスケジュールではデイヴ・グロールの新プロジェクトは見られない。

 マシューは最近、ニルヴァーナのイントロをステージで掻き鳴らしている。デイヴの飛び入りなんてサプライズが用意されていないだろうか。マシューもデイヴもロッカーとして最高の資質〝サービス精神〟の持ち主だから、ありえない話ではない。




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「ハングオーバー」に甦る青春の風景

2010-07-18 05:01:38 | 映画、ドラマ
 昨年暮れ以来、7カ月半ぶりに仕事先の仲間と麻雀を打った。メンバー中2人が〝プロの勝負師〟(競馬記者)なら、プラスマイナス0は上々の結果といえるだろう。次の機会を心待ちしている。

 W杯中は読書からも映画からも遠ざかっていた。パソコン買い替えとそのための大掃除、フジロックとイベントは控えているが、少しずつ〝文化生活〟に復帰するつもりでいる。

 池袋で先日、「ハングオーバー」(09年、米)を見た。世界27カ国で1位を記録したヒット作で、日本でいう無礼講ムービーである。

 結婚式を間近に控えたダグは、イケメン教師のフィル、歯科医のスチュ、未来の義弟アランとともにラスベガスでバチェラー・パーティーを楽しむ。目覚めた時、スイートルームは悲惨な状況になっていた。肝心のダグは行方不明で、バスルームには虎が闊歩している。口うるさい恋人に辟易していたスチュは、子持ちのストリッパーと入籍していた。

 何はともあれ、ダグを捜し出して花嫁の元に届けなければならない。フィル、スチュ、アランの記憶を取り戻すための珍道中が始まる。警察でスタンガンの実験台にされたり、中国マフィアに追いかけられたり、マイク・タイソンが登場したりで、奇想天外で抱腹絶倒のジェットコーシター・ムービーだ。

 この手のストーリーには狂言回しが存在するが、本作の場合は社会的不適応者のアランだ。仕掛けを準備したばかりか、意外な才能を発揮して仲間を窮地から救う。

 エンドロールも見応え十分のコメディーだが、場内が明るくなった後、俺はノスタルジックな気分になっていた。ダグら4人は恐らく30歳前後で、今回の大騒動で青春と別れを告げる。思い起こせば俺が青春にピリオドを打ったのも、彼らと同じ年頃だった。
 
 <躁と鬱、洪水と旱魃がひっきりなしに交錯する時>……。これが俺流の青春の定義だ。孤独な者が意味もなく集まって、本作ほどではないにせよバカ騒ぎする。渇いていた心は次の刹那、捩じ切れて、叫んだり泣いたりしている。俺もまた、振り返って不思議に感じるほど他者を必要にしていた。

 やがて赤い躁は退き、青のカーテンに遮断された鬱が基調になる。洪水は二度と訪れず、渇いた心を〝枯れた〟なんて言い換えて自己満足している。

 だが、青春は年齢で区切れるものではない。プロアマ問わず芸術的実践(映画、芝居、音楽など)、スポーツ、社会活動を継続している人は、50歳を過ぎても青春を謳歌している。

 ネタに困るようになったらブログを休止して、第二の青春を楽しんでみようか。手っ取り早いのは恋だが、こればかりは相手があってのこと。中高年が集う短歌サークルにでも参加しようか。思い切って政治活動は?

 無理に青春を探すこともあるまい。青春に伴うほろ苦さは、痛いほど心身に染み付いているのだから……。


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プレイバックPART8~オレンジの衝撃に打ちのめされた年

2010-07-15 03:24:17 | 戯れ言
 オランダがW杯で優勝すればサッカーを断つと、随分前に決めている。今回も夢は潰え、別離は先送りされた。死ぬまでに<オレンジの呪縛>から解き放たれる日は来るだろうか。

 バルセロナで熟成されたシステムと呼吸は、そのままスペイン代表に息づいていた。世界一に相応しい勝者と対照的に、〝美しく負ける〟伝統に反して〝醜く負けた〟オランダはヨハン・クライフに酷評されている。

 クライフこそ<オレンジの呪縛>の最大の囚われ人なのだろう。彼我の実力を分析して〝卓球サッカー〟を指示したファンマルバイク監督は称賛に値する。今回のオランダは野性と闘争心に溢れたチームだった。

 俺がオレンジの衝撃に打ちのめされたのは、36年前のW杯西ドイツ大会である。今回は74年の思い出を記したい。

 俺は当時、大学受験を控えた男子高3年だった。俺の世代は〝最も出来が悪い○期生〟として、同校史に刻まれている。新旧過程切り替えの境目で、2年時に1年と同じ科目を履修したが、平均点で大きく差をつけられた。競馬に例えれば、春の時点で3歳馬に圧倒される古馬といったところか。
 
 そんな○期生の〝粋〟を結集したのが文系クラスの3年D組で、俺も栄えある一員だった。脱力感を漂わせる担任は「英語の平均点は全体で○点。D組は△点。頑張りや」と苦笑を浮かべて活を入れていた。ちなみに○-△が10点で済めば上出来だった。

 生物の授業中、「修学旅行で調査したんやけど、男子と女子、どっちがトイレに行く回数、多いと思う」と担任が質問した。俺がサッと手を挙げ、「男に決まっとる。男がトイレに行くんは他に用事があるんや」と言うと、近くの席の不良たち(喫煙者)がドッと沸いた。ちなみに俺は非喫煙を貫いている。

 3年時、恥とドジと笑える言動でクラスの人気者だった。好奇心も旺盛で、大志を抱く努力家、文学少年、民青、新左翼系と交友範囲も広かったが、不良たちとも関係は良好だった。彼らには俺もまた、落ちこぼれの仲間と映っていたのかもしれない。不良には特有の文化がある。喫煙、ロック、エロ本といった基本に、なぜかサッカーも含まれていた。

 「オランダ、凄いで」と勧められ、W杯を見た。当時は近畿放送(現KBS京都)が東京12チャンネル(現テレビ東京)から提供された映像を流していて、NHKはダイジェストだった記憶がある。俺はそれまでサッカーに全く興味がなかった。ロック初心者がいきなりグラストンベリーのMUSEのライブ映像を見るようなものだが、たちまち美しく革新的なオランダサッカーの虜になった。決勝で西ドイツに敗れた時は茫然自失状態になる。そのうち優勝できるだろうという思いは、叶わぬ恋の如く、絶望に近い希望のままである。

 フリット、ファンバステン、ライカールトを擁したACミランこそ俺のベストチームだし、オレンジ色が濃いバルセロナもずっと応援している。アンチのレアル・マドリードにファンニステルローイらオランダ勢が結集した時は、密かに宗旨変えしていた。各国リーグを見る時も、そのチームの〝オランダ度〟が絶対の物差しになっている。

 ついでに74年の表立った動きを。権力への執念が陥穽になったニクソンと田中角栄が相次いで辞任に追い込まれた。7月の参院選の獲得議席は自民62、社会28、公明14、共産13、民社5である。見出しは「自民大敗」というから、その後35年続く一党独裁の堅固さが窺える。

 何より気に懸けていたのはスポーツで、金曜8時が待ち遠しい猪木信者だった。巨人がV10を逃したのは痛恨事だったが、王ファンゆえ、長嶋の引退に感慨は覚えなかった。ガッツ石松の幻の右、アリがフォアマンを下したキンシャサの奇跡にも度肝を抜かれたが、近畿放送が放映したオリバレス―アルゲリョ戦で本格的にボクシングに目覚める。怪物オリバレスを逆転KOで下したアルゲリョは、今日に至るまで俺にとって最高のスポーツヒーローである。

 36年前、夢も志もなかった俺は、流されるように生きていた。40代まで同じペースで怠惰を蓄積したからこそ、50代になって少しは真面目になれた。時すでに遅しは否めないが……。人生とはそれ自体、不思議な生き物のようだ。定番やマニュアルと無縁であることを、振り返ってみて実感できた。



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世論と俗情の狭間に~参院選について考えたこと

2010-07-12 00:31:52 | 社会、政治
 前稿<花田裕之50歳ギグ>は、今年最多の訪問者数&閲覧数を記録した。コアなロックファンが検索して辿り着いてくれたのだろう。〝ルースターズ伝説〟は現在も進行中のようだ。

 イングランド戦とアルゼンチン戦で世界に衝撃を与えた若きドイツ、2トップを前面に古豪復活を印象付けたウルグアイ……。W杯3位決定戦は、敗北への恐怖から自由になった両国の打ち合いになる。サッカーの楽しさを満喫できた大会屈指の好ゲームだった。
 
 近くの小学校で参院選に一票を投じた。貧困と格差が進行し、医療と福祉が後退する今こそ、社民党にとって党勢拡大の好機のはずだが、いかんせん足腰が弱過ぎる。死に票確実の東京選挙区は、別の党の候補の名を書いた。

 <自民、改選第1党>に出口調査に目が点になる。10カ月の民主党政権の〝青さ〟に辟易した国民は、前政権の〝黒さ〟にノスタルジーを抱いているのだろう。大躍進のみんなの党は、地方を疲弊させた<小泉―竹中路線>の継承者だ。マゾヒズムは日本国民の習い性かもしれない。

 最悪のシナリオ<一党独裁>は回避された。社会が少しでも流動的になり、自由の機運が湧き上がることを、俺は切に願っている。2大政党制なんて糞喰らえで、保守、中道、リベラル、左派が拮抗する混乱した政局を期待している。

 ここ数年、世論は明らかに俗情に堕している。世論とは辞書によると、<ある公共の問題について社会の大多数の賛同を得ている意見>とある。様々な立場から意見が戦わされる過程で世論が醸成されるのが民主主義国の常だが、日常的な社会活動が存在しない日本では、世論はメディアによって恣意的に作られていく。井戸端会議で語られる俗情と結託する形だから質が悪い。

 鈍感だった麻生氏を除き、安倍、福田、鳩山の3首相は、ボンボンゆえの脆弱さはあったにせよ、俗情に名を借りた世論に追い詰められた。安倍元首相には敵意しか覚えなかった俺だが、正義を振りかざして詰め寄る若造記者の無礼さに苛立ったことがある。

 各党の政見を投票前、テレビなどで最低限チェックしたが、興味深かったのは消費税率アップ断固反対を主張した国民新党の亀井静香代表である。ゲバラ支持者にして死刑廃止論者と面妖な保守派である亀井氏は、アメリカの現在のトレンドを<国家資本主義>と定義していた。

 <公共事業=悪>と位置付けた新自由主義は終焉し、オバマ大統領は高度成長期の日本同様、官と連携した公共事業を推進しているという。話半分としても、世の中が一直線に流れないことを実感する。ちなみに亀井氏は、中央のゼネコンではなく地方企業を担い手にした<田中康夫型公共事業>を評価していた。選挙後、<小沢一郎=亀井静香=田中康夫>連合が、政界再編の一つの軸になるかもしれない。

 これから仮眠を取って、W杯決勝に備える。オランダが勝ったら、36年間の<オレンジの呪縛>とオサラバだ。ようやくサッカーと縁を切ることができる。




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花田裕之50歳記念ギグ~めんたいロッカーの熱い絆

2010-07-09 05:14:59 | 音楽
 参院選の最終情勢分析が出揃った。記者クラブ制度をめぐって民主党と対立するメディアは、自民党復調の流れにほくそ笑んでいる。この間の報道(世論誘導)を、半世紀にわたる贈収賄(官房機密費)の結果とみるのは、ひねくれ者の俺だけだろうか。

 W杯準決勝でスペインがドイツを圧倒し、オランダと決勝で相まみえる。36年間の夢が叶って、<オレンジの呪縛>から解放されることを俺は切に願っている。ちなみに、1日余分に休めるオランダ有利が俺の〝客観的予想〟だ。ロッベンか誰かの劇的決勝シュートに、俺の心臓はパッタリ止まるかもしれぬ。まあ、それでもいいかな。腹上死ほどじゃないが、最高に幸せな召され方だし……。

 一昨日(7日)、新宿ロフトで<花田裕之50歳記念ギグ>を見た。「花田って何者?」が皆さんの正直な感想に違いない。花田とはデビューから解散までルースターズを支えたギタリスト&ボーカリストである。

 コアなロックファンにとって、<1988年はボウイではなくルースターズが解散した年>が定説だ。この20年、邦楽ロックを底上げしたブルーハーツ、ブランキー・ジェット・シティ、ミッシェルガン・エレファントの面々は折に触れ、「彼ら抜きに僕たちは存在しなかった」とルースターズへの敬意を語っている。ルースターズは<日本のヴェルヴェット・アンダーグラウンド>といっていいほどの影響力を誇るバンドなのだ。

 大江慎也脱退後のルースターズに関心を示さない者、大江だけでなく花田と下山淳のコンビにも愛着を抱く者……。ルースターズへのスタンスは二つに大別できる。俺のように後者に属する側は、ルースターズについて語る時、おのずと涙目になる。生々流転したルースターズは、悲劇の数々に彩られた不遇のバンドだったからだ。

 3rdアルバム「インセイン」、45㌅シングル(4曲入り)「ニュールンベルグでささやいて」と「CMC」で世間を瞠目させた大江の才能は、自らの内側をも抉る。6th「φ」録音時、花田らは大江を病室から担ぎ出してスタジオに運んだという。大江の絶望を織り込んだ「φ」はヴェルヴェッツの3rdに匹敵するダウナーで美しい作品だ。今回のギグでは、同作でカバーしたヴェルヴェッツの「宿命の女」もセットリストに含まれていた。

 (A)=花田・下山・池畑潤二によるロックンロール・ジプシーズ、(B)=プライベーツ+池畑のセッション、(C)=ルースターズ中期、(D)=ルースターズ最終形と、イベントは四つのパートに分かれ、終演は11時近くになる。膝治療中の身には堪える4時間だったが、中身の濃さに痛みも忘れていた。

 (A)では「クレイジー・ロマンス」、(B)では大江在籍時の「ヘイ・ガール」など、ルースターズの曲も演奏され、(C)から本番モードになる。過小評価されがちな中期ルースターズの雄姿を待ち侘びていた多くのファンは、花田に合わせ「ネオン・ボーイ」を歌っていた。

 リスタートとなったライブ(渋谷公会堂だっけ?)で、花田の「大江です」のとぼけたMCに続き、「ストレンジャー・イン・タウン」のイントロが流れた。喪失感に覆われた詞は、30歳を前にした自身の状況と絡まり、胸を揺さぶられた記憶がある。当時の情感が四半世紀を経て鮮やかに甦り、脆くなった俺の涙腺を刺激した。 

 ブルース色が濃いストーンズ風⇒骨太のビートバンド⇒脱力感漂うニューウエーヴ⇒オーソドックスなロックバンド……。どの時点でもライブはうまくなかったルースターズだが、解散直前に突然変異する。世界標準の轟音ギターバンドに上り詰めた瞬間を捉えたのが「FOUR PIECES LIVE」だ。「再現できないジグソウパズル」、「パッセンジャー」など「FOUR ――」収録曲が(C)と(D)のセットで次々と演奏されていく。

 俺は曲順に違和感を覚えていた。「何かが用意されている」という予感は見事に的中する。花田が「九州から大江慎也です」と紹介するや、俺の前は映画「十戒」状態になる。ファンが一気にステージに押し寄せ、空いたスペースを俺は悠々と進んだ。いかにもロッカーという風情の花田と下山に挟まれた大江は、中年太りの普通のおっさんだが、カリスマ特有のオーラを放っていた。「恋をしようよ」の強烈なフレーズ、♪ただ俺はおまえとやりたいだけ……を絶叫するなど、計3曲でボーカルを取る。

 ビートだけでなく自らまで刻んだ大江、大江に殉じてバンドを去った池畑、創設メンバーとして唯一残った花田、途中加入ながら花田と伍した下山……。この4人に限らず、10人のルースターたちには確執もあったはずだが、恩讐を超えて、同じフレームに立っていた。花田と下山が大江に向ける優しい眼差しが印象的だった。

 人は老いるにつれ、絆を失くしていく。家族の絆さえ、お金が絡んで断たれることさえある。俺が七夕の夜に感じたのは、妬ましいほどの〝男たちの絆〟だった。苦難を共有した者たちが、時を経て支え合う……。そんな奇跡に触れることができて幸いである。




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格闘技あれこれ~W杯ボケの日々に

2010-07-06 00:53:19 | スポーツ
 オグリキャップが死んだ。ひねくれ者ゆえ熱狂の渦の外にいたが、馬主や調教師の手前勝手さに真剣に怒るファンも多く、悲劇性をも帯びたヒーローだった。

 ラストランの有馬記念(90年)、21歳の武豊はオグリキャップを勝利に導き競馬を超えた寵児になる。<社台=サンデーサイレンス=武豊時代>の到来を告げる鐘が高らかにかき鳴らされた。血統が底上げされた90年以降、第2のオグリキャップ登場は不可能になった。

 南米大会になると思ったW杯だが、準々決勝を境に様相が異なってきた。アルゼンチンをボコボコにしたドイツが優勝候補筆頭に浮上したが、我がオランダも捨てたものではない。決勝でぶつかるなら、1日余分に休めるローテが味方するからだ。

 ネタ枯れの今回は、格闘技について書き散らかしたい。まずは大相撲から。

 立花隆氏が田中金脈を暴いた時、記者クラブの面々は「とっくに知ってたよ」とうそぶいた。大相撲についても、似たような言葉を吐く記者は多いだろう。

 大相撲は異形の集団で、アウトサイダーが集うヤクザと組織原理は変わらない。両者が昵懇になるのは必然で、ヤクザは常に大相撲の有力なタニマチだった。相撲界は確かに真っ黒だ。だが、闇社会に食いものにされてきた地方自治体、ヤクザに汚れ仕事を委託した大銀行や不動産会社、拡張団とヤクザとの繋がりを指摘されてきた新聞社など、自らを省みるべきは相撲界だけではない。

 興行として生き残りたいなら、文科省とNHKのくびきから逃れ、吉本にでもプロデュースを依頼すればいい。名古屋場所は〝汚染度〟によって黒、灰色、白の3種類のまわしを締めて対抗戦を行う。白鵬も白組ではなく、灰色組になりそうだ。そこに、朝青龍や露鵬らが乱入し大混乱……。アホな妄想だが、事ここに至っては、「国技をバカにするな」なんてお叱りの声もなさそうだ。

 WWEの“Fatal 4Way”には首をかしげてしまった。PPVは〝ピリオド〟の要素が強く、レスリングをしっかり見せる傾向が強いが、“Fatal 4Way”は〝カンマ〟という位置付けで、NXT軍団が登場したり、アンダーテイカー襲撃事件が絡んだりと焦点がぼやけていた。

 HHHが実権を握ってから、WWEはファンのニーズに鈍感になった。相変わらずシナをメーンに据えているが、ファンの声援はWWEの意図に反している。“Fatal 4Way”では女性や子供の「レッツゴー・シナ」のハイトーンを掻き消すように、野郎どもの「シナ最低」の野太い罵声が飛んでいた。〝不良っぽさを装いつつ、本当は教師と仲のいい優等生〟というキャラを演じ続けるシナも、きっと辛いに違いない。

 シナ偏重など上層部(とりわけHHH)への不満もあり、バティスタがWWEを退団した。総合格闘技に転向するというが、バティスタは既に41歳だし、レスリング、柔術、打撃系の素養がない。日本人レスラーのように無残な姿を晒す前に再考してほしい。

 格闘技界で最強と目されているのがUFCヘビー級王者のブロック・レスナーだ。WWEでも短期間のうちに世界王座を3度獲得したレスナーだが、記憶に鮮明に残るのが五輪王者カート・アングルと闘ったレッスルマニア(03年)だ。レスナーはシューティングスターで着地を誤り、首からマットに突き刺さる。見る者はヒヤリとしたが、意識朦朧のまま勝利を収めた。レスナーの人間離れした打たれ強さを再認識したのが、生中継された「UFC116」(WOWOW)である。

 レスナーは昨年、腸壁に穴が開く奇病にかかり、体重が激減した。1年のブランクで復帰した正王者を、〝鉄の拳〟を持つ暫定王者シェイン・カーウィンが待ち構えていた。一気に攻勢に出たカーウィンは1R、マウントポジションから強烈なパンチを浴びせ続ける。地獄の1Rを耐え抜いたレスナーは、2R開始前、死に神のような不気味な笑みを浮かべてカーウィンに襲いかかった。柔術の修業も効いたのか、首固めでタップを奪った。

 「次は誰?」と解説陣が心配するほどレスナーは強いが、刺客は確実に現れるだろう。そういや、石井慧はどうしてる? 世界的普及度ならレスリングより柔道の方が上だし、レスナーが五輪候補なら石井は金メダリストだ。正しく鍛錬すればライバルになりうると考えるのは、日本人の買い被りだろうか。
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ネット時代とメディア~Googleって本当は怖い?

2010-07-03 04:04:14 | 社会、政治
 前半終了時、オランダの負けを覚悟した。センターバック負傷欠場の隙を突かれたとはいえ、点差以上に圧倒されていたからだ。ところが後半、ブラジルのミスでオランダが同点に追いついた。精神的脆さを露呈した王国を逆転し、オランダがベスト4に進出した。

 36年間の見果てぬ夢が現実に近づいた。準決勝、決勝は仕事を犠牲にしてリアルタイムで見ることにする。組織重視のドゥンガは「つまらない」との批判を結果で封じてきたが、リードされてから有効な策を打てなかった。辞任後は〝第二の故郷〟日本を率い、自国大会に乗り込んでほしい。

 <ネット時代とメディア>をテーマに据えた番組を続けて見た。「未来への提言/レナード・ダウニー~ネット時代に報道はどう生き残るか」(BShi、7月1日)と、「ニュースの深層」(朝日ニュースター)である。

 「未来への提言――」ではワシントン・ポストで編集主幹を務めたダウニー氏に、森達也氏がインタビューしている。ダウニー氏はウオーターゲート事件など調査報道を極めたジャーナリストで、ネットへの記事無料配信の流れを作った先駆者でもある。

 ダウニー氏は紙メディアの行く末に悲観的だが、速報性を重視するネットメディアとの共存は可能と考えている。調査報道の新たな担い手として、NPO、大学、ブログを挙げていた。

 聞き手の森氏は映画監督、作家として時にマスメディアと対峙してきた。<王道VSアウトサイダー>の組み合わせに期待したが、NHKゆえ微温的にならざるを得ない。同様のテーマを扱ってきた「デモクラシーNOW!」と比べると、明らかに〝抉り〟に欠けていた。

 あらゆるテクノロジーが用いる人間のレベルを超えられないのは、インターネットも同様だ。立花隆氏のような自立した知の巨人なら、情報の海で縦横無尽に抜き手を切ることができるだろう。だが、俺の如き小人は泥池で自己満足に浸るのが精いっぱいだ。

 10年ほど前、権力中枢に連なる知人とインターネットの可能性について論じたことがあった。彼いわく、<ネットは自由を促進するどころか、最終的に巨大な資金や権力を持つ者に支配され、「1984」的管理社会に導くツールになる>……。

 知人の予測は的中しつつある。現状に警告を発しているのが、「ニュースの深層」に出演した岸博幸氏(慶大大学院教授)だ。

 同番組のホストである上杉隆氏は、政治ジャーナリストとして抜きんでた存在だが、検察と記者クラブを繰り返し批判したことが真の権力者(もちろん民主党ではない)の勘気に触れ、地上波から事実上パージされている。一方の岸氏は竹中平蔵氏の右腕として、小泉政権で重要な役割を担ってきた。略歴だけなら岸氏は俺の〝敵〟だが、ユーモアと毒を交え、上杉氏と説得力ある議論を展開していた。 

 岸氏が危惧するのは、俺の知人が提示した<巨大な資金や権力を持つ者>が具体的な形をとって世界を闊歩していることだ。著書「ネット帝国主義と日本の敗北」(幻冬舎)は未読ゆえ理由は省略するが、岸氏は<皆殺しの発想>を仮面で隠しながら自由を説くGoogleには批判的で、中国の締め出し策を支持している。

 上杉氏に「岸さんはアメリカが嫌いなんですか」とツッコミを入れられ、「親分(竹中氏)が好きだからといって、私も好きとは限らない」と返していた。アメリカが支配するインターネットの普及は各国の文化と伝統の否定し、一元化に導く危険性を孕んでいること肝に銘じる必要があるだろう。

 かくの如く、俺はブログで駄文を書き散らかしている。平野啓一郎氏のブログを読んでいたら、「今やツイッターの時代」と記されていた。新しいものを追いかけてもきりがない。当分の間、静観することにする。


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