酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

京都で2015年を振り返る

2015-12-31 17:38:57 | 独り言
 従兄弟宅(寺)で大晦日、今年を振り返る。個人的には申し分ない一年だった。そもそも俺程度の能力と性格で、東京砂漠で生き延びていること自体が奇跡で、周囲に感謝するしかない。読書や映画観賞もそこそこ捗ったが、最大の成果は人の輪が広がったこと。サークル的で縛りのない緑の党だが、地方選や各種イベント(音楽など)を通じて仲間が増えた。アラカンでも一歩踏み出せば景色が変わることを実感している。

 歴史認識の転換を棚上げした従軍慰安婦問題の解決は、先行きが怪しくなってきた。「子供や孫に謝らせない」という安倍首相の言葉に違和感を覚える。<国家は犯罪に無限責任を負う。中韓が戦時中の日本の蛮行を追及するのは最たる例で、外部化されず国民にも責任が問われる>(論旨)……。内田樹氏は「憲法の『空語』を充たすために」でこう指摘していた。朴家と岸家の親密さを考えれば、朴大統領と安倍首相は子供の頃から顔見知りだった可能性がある。<朴正熙-岸信介ライン>が21世紀に甦ったのか。

 今年も様々なニュースが世間を騒がせたが、格差と貧困の拡大、戦争法案反対の盛り上がりと〝祭りのあと〟がとりわけ印象に残っている。

 老人医療の一律3割負担、年金給付年齢70歳など、弱者を痛めつける企てが囁かれている。鈍感な俺でさえ、スーパーやコンビニで驚くことが多い。ティッシュペーパーからチョコレートまで、明らかに目減り(実質値上げ)しているからだ。リストラを断行して融資を要請する企業(例えば東芝)の株を買え……。そんな記事を当たり前のように受け止める側も、他者を慮る想像力を失くしているのだろう。

 この夏、戦争法案反対の動きが盛り上がった。その後はどうか。選挙権を新たに得る18~20歳にリサーチしたところ、自公圧勝の結果が出た。早大で先日、学者主催の戦争法案関連のイベントが開かれたが、孫崎享氏は「若い人は殆どいなかった」と仕事先の夕刊紙に寄稿していた。若者は反抗の現場から消えたのだろうか。

 これほど国民が反対しているのに、これほど若者が立ち上がっているのに、なぜ強行採決するのか……。こんな声を上げたメディアや識者は50%正しく、50%外れている。三宅洋平氏は緑の党総会(7月末)にオブザーバーとして参加し、「シールズ、シールズと騒ぐけど、若者の90%は関心がない。10%と90%をいかに繋ぐかが課題」と語っていた。

 1980年代前半、反核運動が広がった。動員力は凄まじく、代々木公園で開催された集会には20万人近くが参加したが、一気に終息する。事情通の友人は、次なる課題に繋がらなかったことを理由に挙げていた。<反核>は広き門だが、<反原発>や<原潜の寄港反対>は間口が狭い。しかも、公安のマークも厳しくなるから、99%が引き返した。

 戦争法案に当てはめれば、次なる課題は<武器輸出反対>になるが、参加者も少ないし、メディアも取り上げない。メディアは永田町の地図の書き換えを追うばかりだ。熊本など1人区で野党統一候補擁立が決定するなど〝ベターの選択〟が進んでいるが、意識と構造を変えるための〝ベストの選択〟を同時に志向しないと元の木阿弥になるだけだ。

 尻切れトンボになってしまった。この一年、牽強付会の物言いに付き合っていただいた読者の皆さん、ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
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「オールド・テロリスト」~ラストに迸るカタルシス

2015-12-29 10:55:20 | 読書
 前稿を<馬券が大的中したり、POG馬が重賞を制したりすれば、広河関連のNPOなどに必ず寄付してきた>と締めた。ホープフルSではPOG指名馬ハートレーが快勝してクラシック候補に名乗りを上げ、有馬では▲ゴールドアクター、○サウンズオブアースのワン・ツーで馬連が的中と、競馬は望外の結果だった。

 有言実行で昨日、些少な額ながら「DAYS被災児童支援募金」に寄付した。これから京都に帰省するが、従兄弟が立ち上げたNPO(フィリピンなどアジアの貧困救済プロジェクト)にも同額をカンパする。志を持って地道に活動している個人や団体に敬意を表したいが、現状で俺に出来ることは<悪銭→浄財>のマネーロンダリングしかない。

 前稿のキーワード、<戦場>と<ジャーナリズム>は今稿に通じるものがある。村上龍の最新作「オールド・テロリスト」(15年、文藝春秋)を読了した。春樹と龍の両村上には馴染みがなく、春樹について一度も当ブログで記したことがない。龍についても「歌うクジラ」(10年)、「半島を出よ」(05年)の順で2作を紹介しただけだが、30年以上前の〝奔放な天才〟の印象と対極の〝緻密な秀才〟ぶりに戸惑い、同時に距離を覚えた。

 上記2作には、歪んでいたり、狂気を秘めていたりと、桎梏と影を背負った登場人物が多かったが、共通するのは〝出来る〟ことである。彼らは勇気と決断で危機を乗り越え、時に破滅する。「オールド・テロリスト」も生まれた時から何かを失っているかのようなキャラが脇を固めているが、主人公のセキグチは俺がシンパシーを覚えるほど冴えない男だ。

 連載スタート時(11年)、村上は59歳、そしてセキグチは54歳という設定である。俺は今、59歳だから、同世代の男のだらしなさ、定見のなさがセキグチにコーティングされていることが痛いほどわかる。フリー記者だったセキグチは、雑誌廃刊を機に無職になる。集団では生きていけるが、個としての〝突破力〟がないタイプだ。村上は格差や貧困について取材しているが、その成果を反映させたのがセキグチだ。妻子にも逃げられ、精神的にも経済的にも墜ちていく過程が丁寧に描かれていた。

 ある集団が野垂れ死に寸前のセキグチに注目していた。セキグチの現状を観察、把握し網を張る。取材者として指名されたことで復職が叶い、ウェブマガジン編集部でITが得意なマツノと親交を深める。セキグチが選ばれた第一の理由は表現力だが、マスメディアを徹底的に管理する秘密保護法に縛られていないという計算もあった。一寸の虫たるセキグチは、五分の魂を期待されたのだ。

 NHK、池上商店街とテロが続き、実行犯の若者が自殺する。両事件の現場におびき出されたセキグチのリポートは好評を博した。陰の実行犯を探る過程で、カツラギという20代後半の美女と出会う。叔父による性的虐待、風俗で働いた経験をサラリと告白し、セキグチを混乱させる。精神的に不安定な社会的不適応者と映るカツラギだが、満州国に溯る人脈に連なっていた。黒幕的存在に莫大な金額を提示され、カツラギ、マツノとチームを組むことになる。

 満州といえば安倍首相の祖父、岸信介が暗躍した地として知られ、〝日本の軍国主義の最大に汚点〟と見做す人も多い。だが、「阿片王 満州の夜と霧」「甘粕正彦 乱心の曠野」(ともに佐野眞一著)を読む限り、岸は意外なほど影が薄い。阿片の利権を巡って動いた関東軍や東条英機と、岸は一線を画していた。本書に「国籍法」の記述が出てくるが、オールド・テロリストは、満州を独立国家に育てようとして挫折した少数派(岸グループ)の衣鉢を継ぐ者たちという設定か。マツノは捉えどころのない組織形態をアルカイダに重ねていた。

 北朝鮮軍の福岡進駐という非常事態にリアリティーを付与するため、緻密かつ饒舌だった「半島を出よ」と比べ、本作は構成に隙がある。だが、補って余りあるのは情念に根差した村上の力業だ。老人たちとセキグチの憤怒が重なり、共犯関係が結ばれていく。セキグチとカツラギの性を超えた交流も、物語の重要な軸だ。牡としての機能が衰えたセキグチは、カツラギと添い寝するしかない。同世代の男に共通する葛藤が興味深い。

 年長の男として父親的に接していたセキグチだが、映画館のテロを生き延びた後は立ち直れなくなる。前稿で記した広河隆一は地獄の戦場で精神を鍛えたが、世界を代表するジャーナリストだからで、セキグチはフラッシュバックする凄まじい光景に苛まれる。壊れていたはずのカツラギは、芯のある女性に変身した。直感と鋭い洞察力を発揮し、泣いてばかりのセキグチを慰め励ます母になる。本作には村上の恋愛観、そして女性観がちりばめられている。

 魅力的でミステリアスな面々が集うオールド・テロリストの中で、以前からセキグチを知っていたのは太田である。同じ将棋道場(大久保)に通い、名人の称号を得ていた太田は、「おまえは将棋だけじゃなくて何をやっても駄目だな」と、読者の心情に即してセキグチに活を入れる。セキグチの元妻である由美子(シアトル在住、証券会社社員)も、急転回に一役買った。

 ラストでは浜岡原発近くで新旧の武器――ドイツ製88㍉対戦車砲とドローン――が対峙する。ページを繰りながら「しっかりしろ」と叱咤したセキグチの決意で物語は締め括られる。経済的な疲弊、夥しい格差、メディアの堕落と言論封殺、何よりも米国への隷属……。セキグチの渾身のリポートは八方塞がりの日本(現実もそうだが)に風穴を開けるはずだ。

 ノートパソコンを持参して京都に帰る。年末年始の挨拶をアップする予定だが、うまくいくだろうか。
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「広河隆一~人間の戦場」~地獄を知るジャーナリストの温かさ

2015-12-26 23:16:11 | 映画、ドラマ
 「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスターに続き、「NEWS23」でアンカーを務める岸井成格氏の降板が決まった。毀誉褒貶が相半ばする古舘氏だが、<メディアは歯を食いしばって権力をチェックすべし>という信念が窺える同氏を一貫して評価してきた。政権側から有形無形の圧力があったことは想像に難くない。バランス感覚に優れた岸井氏の降板は、「メディアは憲法違反の安保法案廃案に向け声を上げ続けるべき」との発言が、安倍機関(産経、読売)や右派の攻撃を受けたことがきっかけだった。

 メディアとは、ジャーナリズムとは、人間とは……。見る側にそう問い掛けるドキュメンタリー「広河隆一~人間の戦場」(15年)を見た。長谷川三郎監督は前作「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳」(12年)に続き、希有なフォトジャーナリトの素顔に迫った。「ニッポンの嘘――」に出演していた広河は、自身が設立したデイズジャパン社から福島の遺作「証言と遺言」を発刊している。

 今夏、戦争法案反対の声が広がったが、繰り返し記したように「平和憲法があったから、日本は戦争と無縁だった」という物言いに強い違和感を覚えていた。<日本は朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争と常にアメリカの兵站基地として機能してきた〝殺人の従犯〟で、手は血で汚れている>……。この〝事実〟を写真で教えてくれたのが福島の「戦争がはじまる」(87年)だった。福島にとって、武器による衝突だけが戦争ではない。被爆者、公害、基地、三里塚、東日本大震災の被災地にカメラを向けてきた。本作で「戦場とは何ですか」と問われ、広河は「人間としての尊厳が侵される場所」と答えていた。

 広河の原点は社会主義コミューンと喧伝され、世界から若者が集ったイスラエルのキブツだ。1967年に当地を訪れた広河はある時、瓦礫に気付く。不審に思って周囲に尋ねても、誰もが口をつぐんだが、真実が明らかになる。理想郷と憧憬を抱き、農作業に励んでいた場所が、イスラエル軍によって追放されたパレスチナ人の居留地だったのだ。広河の立ち位置は定まり、パレスチナ人から同志として迎えられるようになる。

 世界的な評価を確立したのは、イスラエル軍、レバノン右派によるパレスチナ難民キャンプ襲撃(82年)だ。広河は死を覚悟して現地を訪れ、惨殺された子供たちを写真に納めた。ジャーナリストの第一の使命は<記録すること>と語る広河は、活動の領域を広げていく。パレスチナ、そしてチェルノブイリと福島……。広河はジャーナリストとして足を運んだ現場で学校や医療施設を創設する。

 <ジャーナリストとして記録する前に、一人の人間であるべき。溺れている人がいたら、カメラを脇に置いて助ける>……。広河は自身の言葉を実践している。残像として脳裏に焼き付いているのは、目の前で見た子供たちの遺体だ。残響として心に残っているのは、「ジャーナリストが来てくれたら、あんなこと(難民キャンプでの虐殺)は起きなかった」という現地の人の訴えである。

 記録者、救援者に加え、広河はチェルノブイリで第三の顔を見せる。それは、同伴者だ。広河は甲状腺がんに侵された子供の手術を見守る。術後、時を置かず亡くなったケースも多いが、その一方、健康を回復して子供をもうけた女性もいる。広河は「チェルノブイリ子ども基金」代表として、被曝した子供たちのために保養施設「希望の家」を創設した。

 広河は「甲状腺がんは早期発見で根治に近い状態になる」と、チェルノブイリ事故後のデータを示している。ウクライナやベラルーシの対応と真逆な福島の現状を憂えている。立ち入り禁止に指定されたチェルノブイリ原発周辺と同等の放射線量を計測している福島で、子供たちは日常を過ごしている。日本は絶望的な棄民国家なのだ。

 広河の佇まいは辺見庸に近い。広河が1歳上で、ともに早稲田で学ぶ。キャップ姿も同じだ。両者の共通点はジャーナリストとして地獄を見たことだ。広河は救援者、同伴者として輪を紡いだが、」辺見は個に立ち返り、五臓六腑から血が滲む言葉を吐き出す。志向は異なるが、俺が最も尊敬するジャーナリストだ。

 広河は自身が発起人として立ち上げた「球美の里」(福島の子供たちの保養施設、沖縄・久米島)で笑顔を見せる。娘の民さんは「父はずっと家をあけていたけど、世界の子供たちに手を差し伸べているのだから仕方ないと思っていた」と話し、父娘の絆を示す心温まるエピソードを紹介していた。

 本作をともに見たのは10人にも満たない。福島と原発にテーマを定めた「あいときぼうのまち」(13年)も同様だった。1930年前後の農村や工場における争議とアートは結びついていたし、60~70年代の政治と文化の蜜月は言うまでもない。街頭で抗議する人たちと映画の回路が塞がっていることが残念でならない。

 最後に競馬の予想を。有馬記念は◎⑫リアファル、○⑨サウンズオブアース、▲⑦ゴールドアクター、注②ヒットザターゲット。俺が最も注目するのは1レース前のホープフルステークスだ。キャリア不足を露呈する可能性大だが、POG指名馬⑥ハートレーを応援する。馬券は外していいから、来春に希望を繋げるためにも2着以内に入ってほしい。

 広河について熱く語った後に競馬かよ……。嗤われるかもしれないが、俺の中では同一線上だ。これまでも馬券が大的中したり、POG馬が重賞を制したりすれば、広河関連のNPOなどに必ず寄付してきた。ブログで予想したら殆ど外しているし、2レースとも的中は難しそうだ。

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「ひつじ村の兄弟」、そして友川カズキ~3人が示す老いの形

2015-12-23 19:54:21 | カルチャー
 先週末は映画とライブを楽しんだ。土曜(19日)は新宿武蔵野館で封切り当日、「ひつじ村の兄弟」(15年、グリームル・ハゥコナーソン監督/制作=アイスランド、デンマーク)を観賞し、日曜(20日)は「オルタナミーティングVol.8 友川カズキ~生きてるって言ってみろ」(阿佐ヶ谷ロフト)に足を運ぶ。

 まずは映画から。アイスランドは小国(人口30万)だが、平和度、男女平等度、医療の充実、人権意識の高さで世界トップの民主主義国家だ。俺にとって、ビョークとシガー・ロスの生まれた極寒の地でもある。本作の舞台は人々が牧羊を生業にする小さな村だ。

 冒頭の品評会のシーンで、激情家の兄キディーと常識人の弟グミーとの確執が明らかになる。ともにプライドが高いが、僅差で栄誉に輝いたのはキディーだった。早めに宴を切り上げたグミーは会場の外で兄の羊に触れ、ある疑いを抱く。キディーの雄羊がスクレイピー(伝達性海綿状脳症の一種)に感染していたことが判明し、村中の羊の殺処分が決定する。キディーは行政に抵抗し、グミーはしたたかな策を講じる。

 指呼の間に暮らす兄弟は40年以上、口を利いていない。両者を繋ぐのは〝伝書犬〟である。キディーを嫌った父がグミーを相続人に選んだことが発端だった。親族の軋轢は古今東西、ありふれた話だが、兄弟の絶対的な孤独を思うと胸が痛くなる。本作は普遍の物語を寓話の域に昇華させた。

 神話では仲違いした兄弟が数多く登場する。聖書には羊や羊飼いについての喩えが頻繁に現れる。過酷な試練――本作では羊の感染症――が魂を再び紡ぐ宿命に根差した展開に、キリスト教徒ではない俺も、心を激しく揺さぶられた。破滅と和解に至る雪中の道行きに、神々しいカタルシスを覚えた。

 ジングルベルが浮薄に聞こえる時季だが、イエスの本質に迫りたいなら「奇跡の丘」(64年、パゾリーニ監督)を見てほしい。同性愛者かつマルキストが描くイエスは鮮烈で清々しい。現在、世界に流通するキリスト教のまやかしに気付くこと請け合いだ。

 以下に、映画館で見た作品から15年のベストテンを挙げておく。

①「妻への家路」(14年、チャン・イーモウ)
②「おみおくりの作法」」(13年、ウベルト・パゾリーニ)
③「独裁者と小さな孫」」(14年、モフマン・マフマルバフ)
④「6才のボクが、大人になるまで。」(14年、リチャード・リンクレター)
⑤「トラッシュ」(14年、スティ-ヴン・ダルトリー)
⑥「マミー」(14年、グザヴィエ・ドラン)
⑦「ボーダレス 僕の船の国境線」(14年、アミルホセイン・アスガリ)
⑧「きっと、星のせいじゃない。」(14年、ジョシュ・ブーン)
⑨「イミテーション・ゲーム」(14年、モルトン・ティルドゥム)
⑩「ひつじ村の兄弟」(15年、グリームル・ハゥコナーソン)

 「オルタナミーティングVol.8~友川カズキ~生きてるって言ってみろ」(阿佐ヶ谷ロフト)では、前座のバンドと主催者との間で行き違いがあり、予定されたセッションは中止になる。友川は楽屋の様子を逐一報告し、「自分が火種なんで、何かあったら飛んでいかなくちゃ。命日になっても構わない」と面白おかしく語っていた。

 物販されていた最新作「復讐バーボン」(14年)でライブ後に復習したほどで、全くの〝友川初体験〟だった。しかも、「最近、作りました」と前置きして数曲歌ったから、復習は役に立たなかったようだ。詩、小説、映画、絵画に造詣が深い友川は、様々な表現者からインスパアされたエキスを曲に織り込んでいる。情景が浮かんでくる視覚的な曲と、酒や競輪への思いを込めた曲が坩堝でグタグタ煮えたぎっていた。

 「飯場で働きながら出版社に詩を送っていた」、「上京するたび、育ててもいない子供と美術館に行く」、「貧乏だから金以外、目がくらまない」etc……。MCも最高で、「飲んだくれのチンピラ」を自任する友川の偽悪的、自虐的な佇まいが気に入った。友川はあたかも<日本のブコウスキー>で、58歳でパンク精神が横溢した「懲役人の告発」を著わした椎名麟三が重なった。

 ナインティナインの岡村が大ファンで、DJを務める深夜放送にも呼ばれた。本も売れ、「普段は2月ぐらいが仕事納めなのに、今年は今日が最後。43本目のライブ」と話していたようにブレーク状態にある。客席には森達也氏ら著名人が集っていたらしい、業界人風の若い女性の姿が目立っていた。俺は〝友川ワールド〟に迷い込んだばかりだが、いずれCDを聴いて予習し、友川のライブに再度、足を運びたい。

 音楽でもベストテンをといきたいところだが、今年買ったCDは30枚ほどで、新作は少ない。材料が少ないので、心に染みたアルバムとして、ステレオフォニックスの「キープ・ザ・ヴィレッジ・アライヴ」、遠藤ミチロウの「FUKUSHIMA」の2枚を挙げておく。

 「ひつじ村の兄弟」で兄弟を演じた俳優はそれぞれ66歳と60歳、友川は65歳で、俺は59歳……。老いといかに向き合うべきかを考えさせられた週末だった。アメリカ化に邁進する安倍政権によって、日本の医療と年金はマイケル・ムーアが「シッコ」(07年)に描いた悲惨な状況に近づいてきた。俺も下流老人、病院難民になってしまうのだろうか。

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「命売ります」~異色作に滲む三島の憂愁

2015-12-19 23:01:20 | 読書
 今年のMVPを個人的に挙げれば、衆院憲法調査会に参考人として出席し、<安保法制は違憲>と陳述した小林、長谷部、笹田の3人の憲法学者だ。小林氏は改憲論の重鎮だから、インパクトは大きかった。「ブレーク・オブ・イヤー」ならシールズと五郎丸だが、ともに無名時から牙を磨いていた。シールズのメンバーは秘密保護法、集団的自衛権、原発再稼働の抗議集会に参加し、政治における斬新な表現を温めてきた。五郎丸は10代の頃から、ラグビーファンの注目の的だった。

 五郎丸以上にブレークしたのは、女子ワールドカップを制した後の澤穗希である。洗練された他のイレブンと対照的に、俺は澤に〝昭和のおばちゃん風〟の逞しさ、親しみやすさを覚えていた。引退の報に「お疲れさま」と言いたいところだが、来夏の参院選で自民党から立候補というきな臭い話も囁かれている。澤がダイナモとして貢献できるのはピッチ上だけで、永田町では使い捨ての駒になることを、彼女は理解しているのだろうか。
 
 澤は38歳での引退だが、生涯現役なのが落語家だ。先日(16日)、銀座ブロッサムで開催された柳家小三治の独演会に足を運ぶ。小三治は翌日、澤の倍に当たる76歳の誕生日を迎えた。幕が上がると、足を怪我した喜多八が座っている。「長短」を飄々と演じた後、師匠の小三治が「厩火事」と「一眼国」の2題を披露した。

 小三治は昨年暮れの独演会で、衆院選の自民党圧勝を受けファシズムに警鐘を鳴らしていた。今回は枕で、三遊亭円生、当人、弟子の喜多八を巡る〝陰気話〟で笑いを取る。続け老人医療の負担アップに異議を唱える。政治に翻弄されても声を上げない風潮を嘆いて枕を結んだ。老いた小三治は、倫理や良心が崩壊した日本を憂えている。

 憂国を一手に引き受けてきた三島由紀夫の「命売ります」(1868年、ちくま文庫)を読了した。傑作、問題作を挙げれば切りがない三島の小説の中で、本作は地味な部類に入る。俺も最近までその存在を知らなかった。「週刊プレイボーイ」に連載され、単行本化される。三島は死を予定調和的に作品に織り込んでいたが、本作発表の2年後、自衛隊市ケ谷駐屯地で自決する。タイトルからも死の匂いが漂っているが、前半は他の三島作品とは異なる。主人公の羽仁男は20代後半のリッチなコピーライターで、アンニュイに憑かれている。何となく自殺を試みたが失敗し、会社を辞めて新聞に「命売ります」の広告を出し、命の切り売り切りを始める。

 今風でいえば、羽仁男はクールなデラシネだ。イカした色事師で、吸血鬼の中年女性、自称梅毒病みで狂いの予感に苛まれるフーテンガールの玲子(といっても30歳だが)に愛される。刹那的に世を渡る羽仁男は三島の実像と対極のように思えるが、物語が進むにつれ、作者に近づいていく。あくまでも妄想だが、俺は本作に映画からの影響を感じた。前年(67年)に公開された「殺人狂時代」(岡本喜八)である。

 羽仁男の凄腕は「殺人狂時代」の桔梗(仲代達矢)に重なる。「殺人狂時代」には秘密結社「大日本人口調節審議会」が登場し、本作ではアジア・コンフィデンシャル・サーヴィス(ACS)という謎の組織が主人公と対峙する。殺されること、4件のうち3件の買い主がACS絡みで、生き延びた羽仁男は〝肝の据わった警察のスパイ〟と過大評価される。両作には更に二つの共通点もある。ともに当初は目を見なかったが、後に〝リバイバル〟してブレークしたこと、そして「キチガイ」という差別語が作中に溢れていることだ。

 自ら望んだ死には恬淡としていた羽仁男だが、玲子の心中願望、ACSの影に追い詰められ、唾棄したはずの生に執着するようになる。以下に三島の社会への洞察が窺える記述を紹介したい。

 <この小さい快楽の墓の深夜も、全く浮世から隔絶しているわけではなかった。(中略)一千万人が顔を合わせれば挨拶がわりに言っている大都会の厖大な欲求不満、そこにうごめく無数のプランクトンのような夜の若者たち。人生の無意義。情熱の消滅。喜びも楽しみも、チューインガムのように、噛んでいるうちに、忽ち味がなくなって、おしまいには路ばたにペッと吐き捨てられるほかはないたよりなさ>……
 
 虚無と憂愁が行間から立ち昇ってくる。当世風の若者を主人公に据えた本作だが、全学連嫌いが台詞にちりばめられていたのも三島らしかった。本作について、種村季弘や島田雅彦の的を射た批評を読んだ。三島は様々な貌を併せ持つ複雑なプリズムで、エンタメ小説の形を取った本作にこそ、本音が表れているという点で両者は一致している。島田は本作にインスパイアされて「自由死刑」を書いた。近いうちに読んでみたい。

 ある時期まで三島に呪縛されていた保守派だが、今は完璧に解き放たれている。米国に盲従する安倍首相、美学の欠片もない橋下前大阪市長が、今や保守派の代表格だ。確実視される両者の合体を、三島はあの世からどんな思いで眺めるだろう。
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「独裁者と小さな孫」~憎悪の連鎖を断ち切るために

2015-12-15 23:55:17 | 映画、ドラマ
 当ブログでも今年前半のリベラル=ラディカルシフトについて記してきた。スペインのポデモスが象徴だが、直接民主主義が議会制民主主義に直結する動きが現れてきた。スコットランド独立の動きを推進した国民党、最左派コービンの英労働党党首就任、米大統領選民主党候補指名争いにおける社会主義者サンダース候補の健闘、台湾のひまわり運動と香港の雨傘革命……。空気を共有するように、日本でも戦争法案への抗議が広がった。

 好ましい方向に世界は進みつつある……。そんな希望は潰えてしまった。シリア難民問題が顕在化したあたりで潮目が変わる。先進国による殺戮に目を瞑り、<イスラム教徒=テロリスト>と見做す風潮が広がっている。共和党指名争いをリードするトランプ候補は「イスラム教徒入国禁止」発言後、支持率が急上昇する。極右躍進もフランスだけでなく全欧に広がっており、ドイツでは難民受け入れに積極的なメルケル首相への風当たりが強まっている。

 世界を覆う二元論的思考を助長しているのは、二進法で成立するインターネットだ。人々を世界に解き放つツールのはずだったインターネットは、無数の<思考のタコツボ>を創り上げる。低レベルで善悪が切り分けられ、排外主義に彩られたナショナリズムが勃興している。

 そんな世界で今、最も見られるべき映画「独裁者と小さな孫」(2014年、モフマン・マフマルバフ監督)を封切り初日、新宿武蔵野館で観賞した。制作国にはジョージア(旧グルジア)、仏、英、独が名を連ねており、台詞は全編、ジョージア語だ。

 俺にとって〝映画の聖地〟はハリウッドでもなく、フランスでもない。ここ30年、イラン出身の監督たちは映画を寓話、神話の領域に高めた。その中心的存在といえるのがマフマルバフで、シネフィルイマジカ(現イマジカBS)でオンエアされた「サイクリスト」(1989年)、「ギャベ」、「パンと植木鉢」(ともに96年)、「カンダハール」(01年)に深い感銘を覚えた。扉を開いてくれたのがマフマルバフで、当ブログでその後、多くのイラン映画について記してきた。

 マフバルバフについて、どんな風に書いていたのだろう……。これまでの稿を検索してみて驚いた。ヒットしないのである。理由を思いついた。当時の俺、そして今もそうだが、マフマルバフの作品を論じるレベルに達していなかったから、やり過ごしたのだ。「独裁者と小さな孫」は俺にとって、初めてのマフマルバフ評になる。

 冒頭が印象的だ。大統領(ミシャ・ゴミアシュウィリ)と孫が、高台にある宮殿から首都の夜景を見下ろしている。祖父は孫に、独裁者の力を見せつける。「明かりを全て消せ」と電話で命じると闇になり、「灯せ」と伝えれば煌々たる街が甦る。孫もこのゲームに加わるが、やがて闇が停滞し、砲弾による光の渦があちこちで生じる。

 親族は翌朝、海外に飛び立つが、自身の力を過信した大統領、お祖父ちゃん大好きの孫は国に残る。2人を待ち受けていたのは、「アラブの春」を伝えるニュース映像そのままのデモだ。うねりは分単位で抗議運動から叛乱へ、そして軍も加担したクーデターに拡大する。賞金首になった祖父と孫は正体を偽るため、旅芸人に身をやつした。

 映画は主人公の主観で進行する。汚れなき孫の澄んだ瞳にほだされ、独裁や権力を嫌う俺だが、いつの間にか大統領に肩入れしていた。かつての女性との関わり、少年(今は中年)との交遊も描かれ、冷酷非道の独裁者が〝人間〟だった頃の面影が窺われる。マフマルバフの他の作品ほどシュールではなく、独裁者は旅の過程で、自分が治めていた国のリアルな貌を知る。

 決定的なエピソードは、自身の命令で投獄された活動家たちとの邂逅だった。独裁者は拷問によって歩けなくなった男を背負い、恋人の元に送り届ける。待ち受けていた哀しい現実に、独裁者は心の中で慟哭した。反体制派の中には、息子夫婦、即ち孫の両親の命を奪った者もいる。独裁者が怒りを収めたのは、保身のためではなかった。

 権力崩壊後、起きることは決まっている。かつて体制側にいた連中が看板をすげ替え闊歩するのだ。本作にも傍若無人に振る舞う自称〝叛乱軍〟が登場し、独裁者は彼らの蛮行に自身の来し方を重ねる。無垢な孫との道行きは、赦しと救済の旅でもあった。

 イラン映画のラストは常にミステリアスで、結末は見る側の判断に委ねられる。本作では反体制派だった男が現れ、勇気を持って<憎悪の連鎖を断ち切ること>を訴える。海辺で旅芸人の老人と戯れる孫、そして独裁者の運命は? 俺にとって理想的なエンディングは恐らく、他の方とは異なっているだろう。

 多様性を重視し、アイデンティティーを尊重する……。俺が会員である緑の党の理念は、本作のテーマと重なる部分もあるが、二元論が幅を利かす国内外で、今や「風にそよぐ葦」の如き状態だ。13年末の参院選で緑の党公認候補(比例区)だった三宅洋平は、演説で「チャランケ」(アイヌ語でとことん話し合うこと)を頻繁に用いた。憎悪の連鎖を断ち切るために必要なのは「チャランケ精神」だと確信している。
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「屍者の帝国」~複層のプリズムに迸る再生への希望

2015-12-12 22:17:42 | 映画、ドラマ
 野坂昭如さんが亡くなった。享年85歳である。感銘を受けた近未来SF「オペレーション・ノア」(81年発表)を年明けにも再読し、その感想を記したい。野坂さんは戦中派ゆえ反戦にこだわり、田中角栄に象徴される金権政治を民主主義の敵と定めて闘った。セルフプロデュースに長けた野坂さんだが、メディアによってドン・キホーテ的に戯画化されたきらいがあった。ともあれ、反骨の表現者の死を心から悼みたい。その魂は山本太郎参院議員やシールズに引き継がれ、死して輝きを増している。

 野坂さんの思いと逆に、世界で〝戦争の常態化〟が進んでいる。パリの悲劇はフランスの地方議会における極右台頭を招き、米大統領選共和党指名争いをリードするトランプ候補の暴走をエスカレートさせた。「イスラム教徒の入国を禁止しろ」との発言に、同党右派の代表格、ライアン下院議長も苦言を呈し、当人の入国拒否を求める署名が英国で40万以上も集まっている。国内ではその後も支持率が上がっているというから驚きだ。

 <トランプ対策>を最初に打ち出したのがWWEだった。トランプはマクマホン一家と交遊があり、これまで何度もストーリーラインに組み込まれていた。<WWE≒トランプ>と見做されることは、グローバル企業(世界150国以上にオンエア)にとって致命傷になりかねない。そこでWWEは、排外主義と愛国を唱えていたコルダーを〝改心〟させ、マネジャーとしてメキシコ人のアルベルト・デル・リオと組ませた。2人は寛容の精神に基づく融和を訴えている。全てを兼ね備えたデル・リオは、俺にとって史上最高のレスラーだ。

 先日、ヒューマントラストシネマ有楽町でアニメ映画「屍者の帝国」(15年、牧原亮太郎監督)を見た。原作は伊藤計劃の遺稿(冒頭の30枚)に円城塔が書き加えて完成させた小説(2012年発表)である。デビュー作「虐殺器官」(07年)発表から1年半後、伊藤は帰らぬ人になった。2作目「ハーモニー」はフィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞したが、小松左京は嫉妬から自身の名を冠した賞を与えなかったとされる。

 「虐殺器官」の舞台は凄まじい殺戮が日常になった近未来で、<言葉による洗脳と誘導>というテーマは「屍者の帝国」に通底している。主人公の感情と人類の運命が交錯する「ハーモニー」の壮大なプロットは、「屍者の帝国」に受け継がれた。マイナンバーと健康保険とのリンクが確実視されているが、「ハーモニー」の前提は<人々の健康状態がグローバルに管理されるシステム>で、主人公の親友は<慈母によるファシズム>と表現していた。

 映画「屍者の帝国」は生と死を巡る哲学的な台詞に、伊藤の再生への希望、慟哭と絶望、周りの人たちへの愛が込められていた。円城との共作という形が内容に反映し、<コンビと友情>がキーワードになっている。「スチームパンクSF」にカテゴライズされる歴史改変ファンタジーで、遊びの精神も横溢している。大村益次郎など実在を含め有名なキャラが続々登場し、物語を織り成していく。

 始まりは1870年代のロンドンで、主人公は医学生のジョン・ワトソン……。シャーロキアンならずとも引き込まれる導入部だ。ホームズの兄らしき諜報機関幹部も登場する。当時の世界は屍者が労働者、兵士として社会の基盤を支えており、英、露、米が死者蘇生術を巡って角を突き合わせている。下敷きになっているのは19世紀前半に発刊された「フランケンシュタイン」(メアリー・シェリー著)で、ヴァンパイアハンターのヘルシンクが〝屍者キラー〟として登場する。

 ワトソンはフライデーを記録係として世界各国を訪れる。蘇生術を確立したヴィクター・フランケンシュタインの手記を発見するのが目的だ。フライデーはワトソンにとって掛け替えのない存在で、我が身を犠牲にしても守りたい存在として描かれている。魂や意識についてフライデーに問い掛けるワトソンの言葉は、死が迫った伊藤の独白とも受け取れる。謎めいたフライデーは、「ロビンソン・クルーソー」のパロディーと評される「フライデーもしくは太平洋の冥界」に重なる部分もある。

 「カラマーゾフの兄弟」から飛び出したアレクセイとドミートリイ、ホームズが雄一愛した女性アイリーン・アドラーの前身らしきハタリーなど、興味深いキャラクターが次々に現れるが、ワトソンの護衛役であるバーナビー大尉に共感を覚えた。「何が起こったか聞かないことにする。どうせ理解できないのだから」とラストでワトソンに言う。全くの同感である。とはいえ、予知能力はあるらしく、ワトソンとハタリーのキスを邪魔した。シャーロキアンがドキリとするシーンである。
 
 睡眠不足で観賞したので、迷宮で白日夢を見るが如き状態だったが、刺激的な映像が俺を現実(仮想もしくは幻想)にとどめてくれた。ワトソンとフライデーの意識の交錯など、本作には複層のプリズムが幾つも用意されている。いずれ原作を読んでみたい。生き長らえていたら、伊藤は世界をひれ伏させる作家になったはずだ。夭折が残念でならない。
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鬼太郎、川端、六義園、M―1~せわしない師走、和に思いを馳せる

2015-12-08 22:17:57 | カルチャー
 ありきたりだが、師走はせわしない。誰しもピリピリ、苛々している。土曜日の昼、スーパーでレジに並んでいた時のこと。2組前の母娘がカードの精算を巡って係の女性とやりとりしていた。この間、3分……。前にいた高齢の男性が突然、係の女性を「グズグズするな」と一喝し、ネチネチ詰り始めた。年金生活者の老人は何か憤懣を抱えているのだろう。

 その3日前、温厚な? 俺がキレそうになった。出勤に新宿行きのバスを利用することがある。停留所の先客は、スマホでニュースをチェックするエリートサラリーマン風だったが、乗車するやアタフタし始める。210円がなかなか揃わず、焦って硬貨を落としていた。結果として発車が遅れ、終点に着くや、俺を含め多くの乗客がダッシュする。自ずと反感を抱いてしまうタイプだけに、心で「何やっとんねん」と怒鳴った俺は、まだまだ人間が出来ていない。

 仕事始めに合わせて東京に戻る新幹線の切符を買うため、3日の業後、新宿駅に向かった。申込用紙を窓口に差し出すと、「全て売り切れました」と係員は言う。遡ってチェックし、予定の3時間前のひかりに空席を見つけてくれて、「最後の一枚です。よかったですね」と微笑んだ。最後の一枚! どんな確率だろう? ラッキーかもしれないが、こんなことに運を使っていいのかと、ふと考えた。

 旧聞に属するが先月末、水木しげるさんが亡くなった。日本人の死生観、原風景を追求し続けた漫画家の死を、心から悼みたい。水木さんの作品に感じるのは、生と死の曖昧な境界、妖怪たちの人間臭さだ。水木さんは戦時中、地獄の南方戦線に配属された。連隊で唯一生き残ると、上官は「申し訳ないからおまえも死ね」と言い放ったという。戦争の不条理、酷薄さが身に染みている水木さんは、死ぬまで反戦を訴え続けた。

 訃報を伝えた「報道ステーション」の古館キャスターのコメントは的を射ていた。いわく「子供の頃はねずみ男が嫌いだったけど、大人になった今、親近感を覚える」……。そう、大人は大抵、ねずみ男みたいに利に聡く世を渡っている。「ねずみ男Tシャツ」を着古している俺もそのひとりだ。鬼太郎みたいに正義を貫くのも、目玉おやじのように叡智を身につけるのも難しい。封印を解かれた妖怪たちは、金に目が眩んで環境を破壊する人間たちの犠牲者なのだ。<人間は自然とともに生きるべし>が水木さんの遺言なのだろう。

 この10日ほど、他の小説と並行して川端康成を読んでいる。「片腕~文豪怪談傑作選」(筑摩文庫)に感じるのは生と死のボーダレスで、水木ワールドに重なっている。生きる者は死せる者の眼差しを常に感じているのだ。興味深かったのは、川端が自身の処女作「ちよ」に纏わる後日談を「処女作の祟り」として著わしていることだ。むろん創作だが、1980年代に一般化したメタフィクションの技法を半世紀以上も前に用いている。川端は〝日本の叙情を描いたノーベル賞作家〟だが、最近ようやく、狂気と倒錯に彩られたニヒルな素顔に気付いた。

 表題作「片腕」には感嘆するしかない。晩年(1963年)の作品で、主人公の男が若い女性(処女)から片腕を借りて自室で愛でるという異様な設定だ。肝というべき箇所を以下に紹介する。

 <脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない>……。エロチシズムの極致で、精緻な筆致に息が詰まりそうになった。

 先日オンエアされた「このミステリーがすごい」(3部構成、TBS)を録画で見た。案内人を務めた又吉直樹と樹木希林の掛け合いも軽妙で、いずれ劣らぬ充実した内容だったが、とりわけ3作目の「冬、来たる」に感銘を覚えた。原作の降田天は知らない作家だが、川端の世界に通じる美意識が滲んでいた。

 一昨日(6日)は六義園で紅葉を鑑賞した。例年と比べて色づきが遅れ、ライトアップ最終日も多くの人が訪ねていた。数珠繋ぎで歩く人たちは記念撮影に余念がなく、情緒に浸るより、〝紅葉を楽しむ私たち〟を記録に残すことに意味があるかのようだ。へそ曲がりの俺は河岸を変えたくなった。

 同行した知人宅で鍋をつつきながら「M-1グランプリ」を見る。俺は寄席でホームラン、ホンキートンク、ロケット団、ナイツらの漫才を楽しんできたが、M-1は初めてである。寄席=アナログ、M1=デジタルと勝手に分類していたが、そう簡単なものでもないらしい。優勝したトレンディエンジェルは敗者復活にエントリーされた20組から視聴者投票で選ばれたが、3位は上記のナイツで、これまで何度も上位に食い込んでいるという。

 優勝経験者が務めた審査員も、斬新さより地力を重視していたように思える。時代を経ても、漫才の基本は変わらないのだろう。又吉の「火花」に描かれたように、笑いは狂気に近く、たちまち消費されて擦り切れる。瞬発力を求められるテレビをホームにするより、寄席に重心を置いて熟練する方が長続きするのは間違いないだろう。

 かく言う俺は、笑わせるより笑われる方が得意だ。大学時代の友人に「おまえには巧まざるユーモアがある」と言われたことがある。自然に振る舞っているだけで笑いの対象になるということだ。
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「香港パク」に感じた韓国文学の深淵

2015-12-04 13:05:54 | 読書
 渡辺明棋王が糸谷哲郎竜王を4勝1敗で破り、3期ぶりにビッグタイトルを手にした。渡辺は唯一、永世位を保持する〝竜王戦男〟で、今シリーズでは糸谷に付け入る隙を与えなかった印象だ。才能と個性を併せ持つ糸谷の捲土重来に期待したい。

 NFLはプレーオフピクチャーが見えてきた。ブレイディが牽引する昨季王者ペイトリオッツの快進撃(10連勝)を止めたのは、ペイトン・マニングが率いなかったブロンコス(8勝2敗)だった。負傷欠場のマニングに代わって先発QBを任されたのは、粗削りのオスウィーラーだった。サイドラインでマニングの精緻さを学んだ効果か、ゲームが進むにつれてパスの精度が増し、30対24(OT)で雪中の激戦を制する。新時代の到来を予感させる好試合だった。

 ペイトリオッツに陰りが見えたのは、27対26で辛勝した2週前のジャイアンツ戦だった。ペイトンはコルツ時代を含めペイトリオッツに何度も辛酸を舐めさせられてきたが、弟のイーライが倍返ししている。スーパーボウルでは圧倒的不利の下馬評を覆して2度、ペイトリオッツを破った。様々な因縁が絡まったNFLはスーパーボウルに向け、熱さとエンタメ度を増していく。

 前稿の訂正と補足を。まずは訂正から。<ミチロウの目がサングラス越し、潤んでいたように感じた>と記したが、YouTubeで映像を確認していたら、サングラスではなく隈取りだった。補足はアースパレード関連である。COP21は想定通りの進行で、各国首脳は<気候変動よりテロ対策>に傾いている。一方で、<グローバリズムによる途上国の農業破壊、常任理事国からの武器流入による紛争激化>こそ気候変動の大きな要因と抗議したデモ隊の多くが逮捕された。

 日本の円を抜いて世界4位の通貨になった中国元だが、大気汚染、自然破壊は凄まじく、抗議運動の広がりに共産党幹部が危機感を抱いている。COP21では自称〝途上国〟になるから、中国は面妖だ。日本だけでなく他の先進国も今や、自称〝民主主義国〟に堕しているが……。

 ようやく本題。李承雨の「香港パク」(講談社)を読んだ。李は世界的に評価されている韓国の作家で、本書は1994年に発刊された8作から成る短編集だ。<脱文学化する世界へ、東アジア発純文学の逆襲>という帯が中身を言い当てている。

 当ブログでは韓国映画を繰り返し称賛してきた。「殺人の追憶」と「母なる証明」(ともにポン・ジュノ)、「哀しき獣」(ナ・ホンジン)、「嘆きのピエタ」(キム・ギドク)、「息もできない」(ヤン・イクチュン)らの傑作群に共通するのは、人間の業と性に迫って神話の領域に達している点だ。上記の作品に感銘を受けた方は、ぜひ本書を読んでほしい。湿度と温度、空気感が根っ子で繋がっているからだ。

 先日亡くなった金泳三元大統領が就任したのは93年だから、本書も自由化の流れに乗って発表されたのだろう。「日記」では、主人公がデモで逮捕された弟を刑務所に訪ねた一日を描いていた。「首相は死なない」は軍事独裁時代の閉塞と弾圧がベースになっている。「太陽はどのように昇るのだろうか」では寓話の形を取って、権力の不合理かつ不条理な本質に迫っている。

 「日記」ではキリスト教信者の兄(作者も?)と獄中の弟との対立が描かれていた。ポーランド映画に頻繁に登場する悪魔は、韓国映画でも闊歩している。<これほど信じ耐えているのに、神はどうして振り向いてくれないのか>……。深い絶望によって、信仰は呪いに変わる。その象徴が悪魔、もしくは得体の知れない存在なのだろう。

 表題作のパクも正体不明で謎めいている。軍人上がりの社長に面罵されても耐える卑屈なパクには、<香港から船が入港すれば全ては変わる>という希望があった。最初は憐れんでいた同僚たちも、次第にパクにシンパシーを覚え始める。職場の雰囲気は、〝希望という絶望〟に憑かれた独裁下の民衆の心情と繋がっている。

 「迷宮についての推測」で用いたメタフィクションの手法を深化させたのが、掉尾を飾る「洞窟」だ。売れない作家の主人公は、酔った勢いでアフリカの小説家が書いた「アーティスト」の翻訳を担当することになるが、醒めてみれば気が進まず、政界に進出する高校時代の友人から依頼された伝記執筆に専念することになった。「アーティスト」の記述が自身の来し方と現状に重なり、心の奥に潜む悪魔に向き合うことになる。「洞窟」だけでなく、<支配-被支配>の構図で喘ぐ人間が描かれていた。

 <映画では日本は韓国に遠く及ばない>がここ数年の結論だが、小説はどうだろう。本書を読む限り、かなりのレベルにあることは疑う余地がない。韓国では日本を上回るスピードで格差と貧困が進行しているという。社会への不満や怨嗟は文化を育むから、韓国の映画や小説はさらに研ぎ澄まされていくはずだ。

 最後にチャンピオンズカップの予想を。ノンコノユメ、ホッコータルマエ、コパノリッキーの3強が人気を分け合うだろうが、将来性と爆発力に期待して①ノンコノユメを中心に買う。相手は⑥ナムラビクター、⑨ローマンレジェンドあたりか。今週はPOG指名馬が7頭も出走するから、GⅠはおまけみたいなものである。
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