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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「虚実亭日乗」~真実と虚構がリンクするフェイクドキュメンタリー

2013-04-29 22:05:08 | 読書
 天皇賞は前期POG指名馬フェノーメノが快勝し、初のGⅠをゲットする。レース直後、アドマイヤラクティ騎乗の岩田が蛯名を祝福していたのも印象的だった。岩田はフェノーメノの主戦だったが、2度の凡走もあり、蛯名に乗り替わる。ダービーではディープブリランテに騎乗した岩田が、フェノーメノを鼻差抑えた。経緯を抱えた名ジョッキーたちの胸に去来していたのは,いかなる思いか。

 昨夜見た「TPP特集」(NHK)に説得力を感じなかったが、おぼろげにわかってきたのは、TPPが決して<もの>だけの問題ではないこと。アメリカ的<制度>が普通になり、ボーダレスに<人>が行き来するようになるだろう。TPP参加に反対だが、移民受け入れには賛成と、俺の中でねじれが生じている。

 先日、「虚実亭日乗」(森達也著/紀伊國屋書店)を読了した。主人公の緑川南京≒著者の森で、帯に〝フェイクドキュメンタリー〟と記されている通り、作者の日常と心情が投影された作品だ。TVディレクターとしてキャリアをスタートした森は、オウム関連のドキュメンタリー映画の監督を経て、現在は作家として活動している。

 俺と同じ1956年生まれで、共通体験も多い。学校から帰った後、宵寝し、深夜放送に備えるという生活パターンも10代の俺そのものだ。メディアで幅を利かす全共闘世代は世渡り上手が多いが、俺と森は一つ下の<迷える世代>に属している。思いは曖昧に揺れ、割り切れないのが特徴だ。

 偽悪的でユーモアたっぷりの語り口で、森は自身のピンボケぶり、他者とのズレ、才覚のなさを語っている。方向音痴、人の話を聞かない点も俺とそっくりで、やたら親近感を覚える。同年齢のサラリーマンと変わらぬ収入というのは本当だろうか。

 内容は多岐に渡るので、ポイントを絞って記したい。本作のメーンテーマは<日本人とは何か>ではないか。内からだけではなく、外からも日本を見据えている。ピースボートのツアーでヨルダンを訪れ、アラブ風ディスカッションに参加した後、南京は次のような感想を洩らしていた。

 日本人は場に従う。共同体内部における同調圧力に逆らえない。(中略)日本における「空気を読む」は、「読む」だけでなく「染まる」ことが強要される……

 同行していた池上彰と南京に、スタッフがクイズを出す。「タイタニックが沈む寸前、男たちが海面に飛び降り、救命ボートまで泳ぐことを乗組員は願う。国別の説得マニュアルがあるが、日本人には何と言うか」……。池上と南京は同時に答えた。「みなさん、飛び込んでますよ」と。本作には池上だけでなく、森と交遊がある文化人が数多く登場する。

 ニューヨークで取材した「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマンも、<所属する共同体の規範やルールに従おうとする傾向がとても強い。美徳かもしれないけど、時と場合によってはとても危険なこと」と日本人について語っていた。森は少数の側から異論を突き付けるという方法で、常に一石を投じてきた。代表作「死刑」は別稿で紹介したが、本作でも死刑について多くのページを割いている。

 死刑存置派の前提は、<治安の悪化と凶悪犯罪の増加>だが、警察発表を信じる限り殺人事件は減少している。<死刑が凶悪犯罪の歯止めになる>という考え方も、統計を見る限り根拠はない。南京は死刑廃止を正しいと確信するが、被害者家族の心情も慮り、廃止の立場で収入を得ていることに後ろめたさを覚えている。日本が死刑廃止という先進国のスタンダードを取り入れる条件は、上記の〝タイタニック・ジョーク〟ではないが、アメリカが国を挙げて廃止に舵を切ることと想定している。

 興味深かったのはノルウェーでの取材だ。当地の開放的な刑務所は日本と全く雰囲気が異なるが、南京が驚いたのは過渡期住宅の存在だ。刑期を終えたばかりの人が市民と同じアパートで生活している。日本なら反対の声が上がり、メディアも押し寄せるだろう。ノルウェー社会の成熟に南京は感心するが、取材から2年後、銃乱射事件で77人が犠牲になった。寛容と自由が根付いていても、狂気と暴力の芽を摘むことは不可能なのだ。

 森と俺の共通点の一つはプロレス好きだ。森は自ら企画した「愛しの悪役シリーズ~昭和裏街道ブルース」(NHK、全4回)で、<プロレスは虚実の皮膜にあり>と論じていた。番組制作の裏話も本作で明かされている。多くの点で俺の視点と感性は森に近い。以前に読んだ小説「東京スタンビート」(08年)についても、機会があれば紹介したい。

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「レディ・ジョ―カー」~日本の闇を抉る犯罪ドラマ

2013-04-26 23:16:45 | 映画、ドラマ
 ミューズが来日時、渋谷で撮影したMV「パニック・ステーション」は、外から見える日本の貌が窺える作品だ。ミューズの動員力は欧州で断トツ、北米でも五指に入るが、日本で無名であることがゲリラロケを可能にした。実はこのMV、俺が見たのは修整版だった。韓国人から猛抗議を受け、旭日旗のシーンがカットされていたからだ。

 旭日旗を軍国主義の象徴と見做す韓国人は許せなかったのだろう。加害と被害のいずれの側に立つかで、感じ方は大きく変わるのだ。ミューズはラディカルな姿勢を前面に押し出すバンドだが、今回の件は無知ゆえの失策といえる。

 WOWOWでオンエアされた「レディ・ジョーカー」(原作=高村薫/全7話)を録画で一気に見た。グリコ・森永事件にインスパイアされた本作の背景に潜んでいるのは、差別、政財界の腐敗、警察の硬直だ。俺は発刊直後(97年)に読んだが、ITや携帯の普及を織り込んで加筆修正された文庫版(10年)が本作のベースになったに違いない。

 高村作品では、やさぐれ男たちの血潮がたぎっている。義と情で結ばれた男たちが体を張る任侠映画のトーンに重なるが、典型といえるのが「神の火」で、アウトロー2人が原発を襲撃し世界を崩壊に導く。法を超越した善と悪、罪と罰を追求する高村は、国家や法を否定し、反体制の視点で犯罪者を魅力的に描いている。

 本作の主人公は合田刑事(上川隆也)と営利誘拐される日之出ビール社長の城山(柴田恭兵)だ。優れた〝受容体〟といえる上川は、対峙する強烈な個性との間に、絶妙な空気を醸し出す。一方の柴田は、苦悩をすべて引き受け、呟くように重い言葉を吐き出す。合田と城山はともに組織の軛から逃れ、個の人間に立ち返っていく。

 やさぐれ男たちが出会ったのは川崎競馬場だ。「レディ・ジョーカー」と命名されたグループの実質的リーダーは不良刑事の半田(豊原功輔)で、薬局店主の物井(泉谷しげる)が枯れた味でまとめ役になっている。自殺した物井の孫が城山の姪佳子(本仮屋ユイカ)と交際していたことで、半世紀前の差別による解雇と社長誘拐が一本の糸になる。

 在日朝鮮人の高(高橋努)は、怨嗟と憤怒で動く他のメンバーと目線が異なる。酒田代議士と総会屋が形成する裏人脈に連なり、社長誘拐と脅迫を株価操作の一環と捉えていた。兜町を徘徊し政治を動かす巨大組織に注目した新聞記者の八代(山本耕史)は、合田の義兄である加納検事(石黒賢)とタッグを組み、摘発の準備をする。そこに加わったのが城山だった。

 合田は刑事としての立場を超え、城山と信頼関係を築く。半田の心情にも近づくが、堕ちたわけではではない。警察の建前の正義に絶望したのだ。身内である半田はお目こぼしのままで、次期総選挙に打って出る警視総監と昵懇である酒田に、司直の手は及ばない。

 正義に身を賭した城山は、警察が加担する形で謀殺される。合田と八代も生命を脅かされ、狂人扱いされた半田は犯した罪で裁かれない。主要な4人だけでなく、登場人物の多くが殺され、組織に縛られ自殺するしかない状況に追い込まれる。城山の死により、腐敗摘発の道は断たれた。その時、八代が発する「この国はどうなっているんだ」の叫びが、肝ゼリフといえるだろう。差別に目を背けず、日本の根深い闇を抉った重厚なドラマだった。

 城山の遺志をくみ、青森を訪ねた合田は、「レディ」の存在を知る。物井と意味ありげな視線を交わすが、法の下の正義を振りかざすことはない。余韻が去らないラストに感銘を覚えた。

 上記以外にも、渡辺いっけい、津田寛治、益岡徹、石橋凌、板尾創路といった錚々たる面々が脇を固めていた。煮えたぎる坩堝のような男たちのドラマで清涼剤役を担っていたのが本仮屋ユイカである。「ゴンゾウ 伝説の刑事」で発見してから5年、その可憐さに改めて釘付けになった。

 本作に繰り返し表れる川崎競馬に触発されたわけではないが、天皇賞の予想を。前期のPOG指名馬である以上、⑥フェノーメノを応援する。⑧ゴールドシップの強さは言うまでもない。手を広げても仕方ないので,この両頭の相手は⑦アドマイヤラクティに絞って馬連と3連単を買うつもりだ。
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格闘技に親しむ春~ボクシング、UFC、レッスルマニア

2013-04-23 23:45:32 | スポーツ
 プロ棋士とコンピューターの団体戦「電王戦」最終局で三浦弘行8段が敗れ、人間側が1勝3敗1分けと負け越した。研究の深さと逸話の数々で知られる三浦は、前期A級順位戦で羽生3冠に次ぐ成績(7勝2敗)を挙げた実力者だ。三浦の勝利を信じていた俺は、結果に愕然としている。

 駒だけでなく気合と体力をぶつけ合う将棋は、〝知の格闘技〟といっていい。棋士が「指運」と口にするように、ぎりぎりの状況では運が勝敗を分かち、劇的なドラマに痺れることもある。だが、1秒間に2億手以上を読み、感情や煩悩と無縁のコンピューターはミスをしない。

 この10日余り、〝世紀の一戦〟と銘打たれた格闘技を満喫した。まずはボクシングのSバンタム級王座統一戦から。4階級制覇を達成したWBO王者ノニト・ドネア(フィリピン)と五輪2連覇のWBC王者ギレルモ・リゴンドウ(キューバ)の対決に、ジョー小泉氏(WOWOW解説者)は、バンタム級王者カルロス・サラテとSバンタム級王者ウィルフレド・ゴメスのKOキング対決(1978年)を重ねていた。

 サラテを5回に倒したゴメスだが、1階級上げて挑んだフェザー級王者サルバトール・サンチェスには8回KO負けと惨敗する。南米がボクシングの中心だった時代、階級の差(約2㌔)は絶対で、パッキャオのように実質10階級制覇を成し遂げるボクサーが現れるなんて、想像だにしなかった。

 過去を振り返ったのは、ドネア―リゴンドウ戦が消化不良だったからである。攻勢に出ていたドネアはダウンも奪ったが、ジャッジは効果的なパンチを評価してリゴンドウが3―0で判定勝ちする。この試合のように両者のスタイルが噛み合わず、ブーイングの嵐を浴びるケースもある。それもまた、ボクシングという種目の宿命なのだ。

 お次はUFCで、ベンソン・ヘンダーソン対ギルバード・メレンデスのライト級王座戦を見た。緊迫感ある試合を判定で制したのは王者ヘンダーソンだった。この両者に限らず柔術、ムエタイ、テコンドーなどを幅広く学んだ後、デビューする選手も多い。セミファイナルでミアに完勝したコーミエは、レスリングの強豪(五輪代表2回)から総合格闘技に転向した34歳だ。経歴に反し、グラウンドやサブミッションではなく打撃をウリにしているから面白い。

 超満員といえば、メットライフスタジアムに8万余を集め、100カ国以上でオンエアされたレッスルマニア29だ。お祭りと大目に見るしかないが、WWEと日々接している俺は違和感を拭えない。

 年に150試合前後を闘い、血と汗を糧に実力と表現力を身につけるのがプロレス本来の姿だ。WWEは米国内だけでなく、海外で興行するケースも増えているが、レッスルマニアは組織を下支えするレスラーに報いていない。メーン3戦で脚光を浴びたのは〝パートタイムレスラー〟だった。

 アンダーテイカーは1年ぶりの登場で、極悪ヒールを演じるCMパンクを破る。レッスルマニア21連勝となったが、年に1試合のため大掛かりにストーリーを用意するというのも、プロレス的ではない。CMパンクに声援を送る少数の〝正統派ファン〟の気持ちがよくわかる。

 かつてオースチンは、ギャラにつられて総合格闘技に参戦し、無残な結果に終わった日本人レスラーに激怒していた。HHHとブロック・レスナーの試合はその逆バージョンともいえる。WWEとUFCでヘビー級王を獲得したレスナーは、〝史上最強の格闘家〟かもしれない。UFCで長期政権を築くと思われたが、持病(大腸憩室炎)もあり、2度の防衛に終わった。

 UFC離脱後、レスナーはWWEにUターンした。といっても、この1年で試合をしたのは数えるほどで、〝絶対的な強さを誇るが試合に負ける男〟のキャラを与えられた。レッスルマニアでは、これまた希にしかリングに立たないHHHに花を持たせることになった。

 昨年に続くロックとシナの対決など、茶番としか言いようがない。ロックとブルース・ウィルスが共演した「GIジョ-バック2リベンジ」の宣伝として今年1月、俳優ロックがWWE王座を獲得する。思惑通り映画はヒットし、ロックは晴れ舞台で〝名誉ある敗者〟として再引退するという見え透いたストーリーだ。アンチが多いシナが相手だからよかったが、ひとつ間違えばロックが大ブーイングを浴びても不思議ではないシチュエーションである。

 ジェリコは新人に負けるし、本来なら主役になるべきオートンもイエローカード2枚(ドーピングで陽性2回)でいまだ損な役回りを演じている。救いといえば、〝史上最高のレスラー〟と肩入れしているデルリオが世界王座を防衛したことだ。ルチャのDNAを父ドスカラスと伯父マスカラスから受け継ぎ、レスリング(五輪代表)、総合格闘技で活躍したデルリオは、明らかに猪木に敬意を抱いている。少し前までタオルを巻いて入場していたし、レッスルマニアでも延髄斬りを繰り出していた。

 人は安全が確保されたコロッセオで闘いを見るのが大好きだ。俺もそのひとりで、しかも野次馬とくる。闘いの最たるものといえば選挙で、首長選では脱原発派が相次いで勝利を収めた。この勢いが7月の参院選まで続くことを願っている。
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「幼少の帝国」~日本を見据える阿部和重の俯瞰の目

2013-04-20 22:15:40 | 読書
 道徳教科化を推進する自民党の指示を受け、文部科学省は先日、検討案を示した。俺が安倍内閣におもねった教科書を作成したら、軸は以下のようになる。

 <A=国を愛せ> 51番目の州である日本にとり、国とは宗主国アメリカのことだ。TPP交渉参加でも明らかだが、安倍首相に日本を売り渡すことへの罪の意識はない。
 <B=金こそすべて> アベノミクスとは第二のバブルで、消費税増税も決定的だ。貧困と格差の拡大が確実になった以上、〝実力があればビッグマネーを掴める〟というまやかしを浸透させる必要がある。
 <C=立派な羊になれ> 放射能に体を蝕まれてもリストラされても、不平を洩らしてはいけない。少しでも暴れたら、監視カメラでチェックする。
 <D=老いても子を養え> 年金支給年齢はいずれ70歳になる。正規雇用ではない子供を養うためには、死ぬまで働かねばならない。

 こんな教科書を読めば、自民党好みの少年少女が量産されるが、大人になっても矛盾に気付いてはいけない。日本人は真の意味で成熟を求められてはいないのだから……。読了したばかりの「幼少の帝国~成熟を拒否する日本人」(阿部和重/新潮社)は、日本人を俯瞰の目で見据えた刺激的な内容だった。

 阿部は俺が最も注目する作家のひとりで、構造を理解し、日本的な情念を把握している。代表作「シンセミア」(03年)については、<神話の領域に到達した神町の物語>と別稿(12年10月28日)で評した。

 牽強付会に持論を展開しているのかと思いきや、語り口は意外なほど丁寧だ。「アンチエイジング」、「美容整形」、「CMD(キャラクターマーチャンダイジング)」、「エネルギー問題」については各界のトップランナーを取材し、一問一答を掲載している。評論とノンフィクションの要素を併せ持つ作品といえるだろう。

 キーになっているのは一枚の写真だ。敗戦直後の1945年9月末に撮られた昭和天皇とマッカーサー元帥とのツーショットである。ラフな軍服姿で腰に手を当てリラックスするマッカーサー、正装し緊張した表情の昭和天皇……。操作された〝御真影〟でしか触れる機会がなかった天皇の素の姿が晒されただけでなく、国民に衝撃を与えたのは両者の身長差だった。あの写真がボディーブローになり、二つの指向性が日本人の脳にインプットされたと阿部は仮説を立てる。

 第一は<成熟拒否>で、政治的には〝アメリカを父に、自らは子供のまま〟が国是になる。日本人の<成熟拒否>は文化的側面で海外から注目を浴び、国籍を問わず、社会との関係を最小限にとどめ趣味の世界にこもる人々は、「おたく」と呼ばれている。前々稿で記したクエンティン・タランティーノ監督も、ピュリツァー賞受賞作「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」の主人公も、〝アメリカ版おたく〟なのだ。

 もう一つは、自らの小ささの肯定からスタートした<小型志向>だ。日本の高度成長を促したのは<小ささ=善>という発想で、阿部は省エネにも通底する日本人の小型信仰を、幾つもの例を挙げて示した。自動車から始まり、日本の技術者はあらゆる分野で実用性を保ったままでの小型化に貢献している。iPhoneに最も多く採用されているのも日本の技術だという。

 内容が多岐に渡るので、胸に響いた部分をピックアップして記したい。第6章「終わりなき青春を生きる」は俺自身とも重なり、あれこれ考えさせられた。阿部は<成熟拒否>に関わる成人の趣味を〝子供向け〟に限定しているきらいがあるが、文学、ロック、映画にどっぷり漬かっている俺も、<成熟拒否>の一類型といえる。ピート・タウンゼント(ザ・フー)が「ババ・オライリー」で叫ぶ「ティーンエイジ・ウエイストランド」(10代の荒野)を、50代後半になっても彷徨っているのだから……。

 本書を離れて、この国における成熟を考えてみる。それは即ち、<自分を型にはめること>ではないか。民主党の面々は〝書生的な青さ〟に溢れていたが、政権を取ったら自民党的な型に自分をはめ、志を捨ててしまった。結婚したら、就職したら、管理職になったら、○歳になったら、このように行動すべしという不可視のマニュアルが存在し、逸脱する者には「大人になれよ」という目が注がれる。

 <3・11>も本書に多大な影響を及ぼしている。エネルギーマネジメントのパイオニアである池田元英氏(エリアス社長)へのインタビューで、「原発は安いは嘘」、「原発は二酸化炭素削減と論理をすり替えて推進されてきた」といった発言を引き出している。東海銀行⇒パナソニック⇒国会議員秘書⇒セントラル短資⇒現職と〝王道〟を歩んだ池田氏だが、原発についての認識は〝ラディカルな反原発派〟の広瀬隆氏と共通している。

 別章で<政治の自律性が覚束ないこの国が、これから青壮年期を迎えられるかどうかは、被災地復旧と原発事故処理を今後どう決着させるかにかかっているのではないか>と問題提起した阿部は、終章「幼少の帝国は青壮年期を迎えられるか?」で具体的な解決策を示している。

 <成熟拒否>を支えてきた老練な職人芸が失われていく以上、「純血性」という幻想を捨て、もともとの「異種交配(ハイブリッド)」に立ち返るしか、国家生存の選択肢はない(論旨)……。

 当ブログで移民の必要性を説いてきたが、阿部も同様の見解で本書を結んでいた。幼年期からいきなり老年期に達し、座視して死を待つという諦念に覆われている日本を救う手立ては、他にあるだろうか。TPPには危惧と違和感を覚える俺だが、人的な交流推進(移民)も中身に含まれているような気がしてならない。
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「あ、春」&「飢餓海峡」~名優父子が歩む交わらない道

2013-04-17 23:46:39 | 映画、ドラマ
 先週土曜日、「あ、春」(98年、相米慎二)を録画で見た。時季に合ったタイトルで、ブログのテーマにピッタリと思っていたら、2日後、同作で主人公を演じた佐藤浩市の父、三国連太郎が亡くなった。名優の死を悼み、録りだめておいた三国主演の「飢餓海峡」(65年、内田吐夢)を久しぶりに観賞した。今回は2本の映画をとば口に、名優父子について記したい。

 まずは、味わい深いホームドラマの「あ、春」から。鉱(佐藤)は逆玉で家庭にも恵まれ、肩で風を切る証券マンだが、順風満帆の人生に暗雲が垂れ込めてくる。妻(斉藤由貴)が心のバランスを崩し、バブル崩壊で会社は倒産の危機に瀕している。追い打ちをかけたのが疫病神の登場だ。5歳の頃に死んだと聞かされていた父笹一(山崎努)が突然現れ、居候を始める。

 奔放な父、実直な息子という構図は、そのまま三国と佐藤のイメージに重なる。鉱が飼っている鶏が産んだ卵が、死と生、絆を象徴するメタファーになっていた。笹一の遺灰を海にまくラストでは、鉱の実母(富司純子)、義母(藤村志保)、笹一の愛人(三林京子)が楽しそうに語らっている。隣の舟では、笹一の逞しさに触発された鉱が、妻に再出発を誓っている。温かい余韻が去らない佳作だった。

 佐藤は<受容体>としてのスケールを感じさせる俳優で、山崎の強烈な個性を柔らかく受け止め、足し算以上の空気を醸し出していた。父の三国は対照的に、際立つ存在感で見る者を惹きつける<刺激体>だ。三国が「飢餓海峡」で演じたのは犬飼と名乗り、後に慈善活動に熱心な実業家として知られるようになる樽見だ。

 犬飼が強盗と放火に関わっていないことは、冒頭で明かされている。事件から10年後、函館署の弓坂元刑事(伴淳三郎)と東舞鶴署の味村刑事(高倉健)がタッグを組んで真相を探り始める。犬飼と樽見は同一人物なのか、仲間2人を手に掛けたのか、そして、名を成した樽見が人を殺してまで守ろうとしたものは何か……。とはいえ、メーンは謎解きではない。新旧の刑事は樽見の心の闇に迷い込んでいく。

 水上勉は1954年9月に台風の影響で起きた洞爺丸沈没事故と岩内大火を題材に、本作を書き上げた。実際の災禍から設定を7年前倒ししたことで、本作は彩りが豊かになる。闇市、パンパンガール、米よこせデモ、「リンゴの唄」、満州引き揚げ者が体験した地獄など、終戦直後の混乱と風俗が本作に取り込まれているからだ。

 飢餓海峡。それは日本のどこにでも見られる海峡である。その底流に、我々は貧しい善意に満ちた人間の、ドロドロした愛と憎しみの執念を見ることが出来る……。

 荒れ狂う海をバックに流れるオープニングのナレーションが、物語の本質を捉えている。逃亡中の犬飼は娼妓の八重(左幸子)と心を通わせた。極貧を知る男女の一夜の契りが、犬飼と樽見を繋ぐ糸になる。宿命に弄ばれる女を描き続けた水上にとって、八重の純粋さと死に様は理想の形なのだろう。三国、伴淳、健さん、そして内田監督が形成する男臭い世界に、幸薄き女の一途な思いが鮮やかに織り込まれていた。

 三国は本作で怯え、不安、罪の意識、唐突に皮を食い破る野性と狂気、計算高さ、狡猾さ、諦念を巧みに表現している。悪魔的でありながら人間的でもある男を演じるため、想像を絶する準備をしたことは間違いない。インサートされるシュールな映像が、犬飼(=樽見)の心象風景に迫っていた。

 記憶に残る三国出演作を挙げればきりがないが、あえて1作選べば「夏の庭~The Friends」(94年)だ。偶然にも監督は「あ、春」の相米慎二で、南方戦線で過酷な体験をした元兵士(三国)と少年たちとの交流が描かれている。半世紀を超えた愛の厳かなピリオドが印象的だった。

 三国は情念のロッククライマーとして頂上を目指し、佐藤は自然体で六合目あたりを歩いている。ベクトルが真逆の父子の最後の共演作は、原田芳雄の遺作でもある「大鹿村騒動記」(11年)だった。恩讐を超えた父子が認め合っていたと知り、俺までなぜか嬉しくなる。
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「ジャンゴ 繋がれざる者」~和風も薫るエンターテインメントの快作

2013-04-14 22:51:15 | 映画、ドラマ
 甲斐バンドのライブ(WOWOW)を追っかけ再生で見ながら本稿を書いている。洋楽ロックを理屈っぽく論じる俺だが、学生時代は欠かさず「ザ・ベストテン」を見ていたし、ニューミュージックも聴いていた。甲斐の声に青春の傷が疼き、かさぶたに血が滲んでいる。

 火曜の夜、チャンネルサーフィンをしていたら「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」に行き着いた。ストーン監督と歴史学者が<アメリカを変えたかもしれないターニングポイント>を検証するシリーズで、俺が見た第2回はヘンリー・ウォレス元副大統領に照準を定めていた。労働者、女性、黒人の権利に理解があったウォレスは44年、思想が真逆のトルーマンに副大統領候補の地位を奪われる。ルーズベルトの死で大統領を継いだトルーマンの下、原爆が広島と長崎に投下され、赤狩りが進行する。

 このドキュメンタリーに、キャプラ監督の傑作「スミス都へ行く」のワンシーンが挿入されていた。ウォレスが引き続き副大統領職にあったなら、アメリカは異なる道を歩んだかもしれない。ケネディ兄弟に先んじて黒人差別撤廃を掲げ、暗殺された可能性もある。ウォレスは戦後、民主党を離れざるを得なくなり、キャプラもハリウッドから追放される。当時も今も、アメリカには民主化を阻む〝見えざる巨大な手〟が確実に存在する。

 新宿で先日、クエンティン・タランティーノの最新作「ジャンゴ 繋がれざる者」(12年)を見た。いずれDVDやテレビでご覧になる方も多いと思うので、ストーリーの紹介は最低限にとどめ、背景やタランティーノ論を軸に記したい。

 南北戦争直前、賞金稼ぎコンビが南部にやってくる。ドイツ系白人で元歯科医のシュルツ(クリストフ・ヴァルツ)と解放奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)は人々の偏見に曝されながら、戦果を挙げていく。牧場主キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)からジャンゴの妻ブルームヒルダを奪還するのがコンビの目的だ。

 上記3人の存在感に加え、サミュエル・L・ジャクソンが異彩を放っていた。タランティーノ作品にはお馴染みの役者で、本作ではキャンディ家の執事スティーヴンを演じている。白人への憎悪を糧に生きるジャンゴ、白人に仕えることが習い性になったスティーヴンの対比が、物語の軸になっていた。

 タランティーノを一言でいえば〝オタク〟で、その前半生はピュリツァー賞受賞作「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」(ジュノ・ディアス著)の主人公そのものだ。日本映画に絶大な敬意を払っており、作品には深作欣二や千葉真一へのオマージュがちりばめられている。「キル・ビル」の下敷きになっていたのは「修羅雪姫」だ。

 「この作品は○○の影響が強い」なんて評されると、大抵の表現者は、的を射ていても憤慨するが、タランティーノは違う。コスプレもオタクの行動のひとつのパターンだから、<正しく模倣すること>に価値を見いだしている。〝21世紀版マカロニウエスタン〟というべき「ジャンゴ」も、多くの作品から〝正しくパクって〟いた。

 上記の深作、ジョン・ウー、ブライアン・デ・パルマから多くを学んだと公言するタランティーノだが、ロバート・アルトマンという〝最高の先生〟を意識的に隠しているのではないか。別稿(10年11月27日)で、タランティーノを<時間と空間を再構成する匠>と評した。伝統や常識を逸脱しているタランティーノはその実、アルトマンの<映画の文法>を継承する正統派でもある。

 時系が真っすぐ流れる「ジャンゴ」は、タランティーノにしては珍しい作品だ。エンドロール後、連想したのは深作の「資金源強奪」である。粘着性、エンターテインメント志向、無鉄砲なパンク性に共通点を見いだしたからだろう。

 ジャンゴとシュルツの言動は、任侠映画や香港ノワールに現れる<義と情で結ばれた男の美学>に溢れていた。怒りと暴力、際どいユーモア、軽妙なセリフ、ズレた音楽といったタランティーノの魅力がぎっしり詰まった快作である。

 最後に、皐月賞の感想を……。POG指名馬コディーノは3着と残念な結果に終わった。ロゴタイプは自信の無印だったから、馬券が的中するはずもない。調教が甘いというのが、関係者の一致した見解である。陣営は5月末までビシビシ追って、ダービーでの好走に繋げてほしい。
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「ジャーニー/ドント・ストップ・ビリーヴィン」~Youtubeから生まれた奇跡

2013-04-11 23:26:54 | 映画、ドラマ
 レーガン元米大統領とタッグを組み、格差拡大と福祉切り捨ての流れをつくったサッチャー元英首相が亡くなった。彼女への憎悪と反感が<パンク⇒ニューウェーヴ>を育んだのから、サッチャーを〝UKロックのゴッドマザー〟と呼んでも差し支えない。モリッシーはかつて、<(サッチャーは)人間性など分子ひとつ分も持ち合わせていない歩く恐怖だった>とコメントし、死後も痛烈な〝弔辞〟を発表している(ロッキンオンHPに掲載)。

 そのモリッシーの感動的なパフォーマンスをYoutubeで視聴できる。会場はハリウッドのハイスクールで、スミス時代の「心に茨を持つ少年」を歌うモリッシーに、キッズたちがステージに殺到していた。30年前のイギリスと変わらぬ光景である。

 モリッシーと並び、今もアメリカで高い支持を得ているキュアーがフジロックのヘッドライナーに決まった。日曜ということで、今回は断念せざるをえない。「イン・オランジュ」でライブバンドとしての実力を示したキュアーだが、ロバート・スミスは「最初は下手なバンドだった。Youtubeが普及していたら早い段階で淘汰されたかもしれない」と80年代前半を振り返っていた。

 新宿で先日、「ジャーニー/ドント・ストップ・ビリーヴィン」(12年)を見た。Youtubeから生まれた21世紀のお伽話である。ジャーニーのように「ベストヒットUSA」に登場するバンドを〝飼い犬ロッカー〟と決めつけていたが、ニール・ショーンがクラッシュのTシャツを着ているシーンを見て、偏見に囚われやすい自らの石頭を恥じた。

 約10年のブランクを経て90年代半ばに活動を再開したジャーニーだが、スティーヴ・ペリーがバンドを去り、後を継いだオウジェリーも喉の不調で脱退するなど道のりは険しかった。新たな声を探し始めたが、ペリーのレベルに達し、しかも色がついていないシンガーなんて存在するはずがない。だが、諦めないメンバーはYoutubeで原石を見つけた。小柄で童顔、40歳のフィリピン人、アーネル・ピネダである。

 アーネル発掘の経緯に重なるのはパール・ジャムだ。前身バンドのマザー・ラブ・ホーンにデビュー直後、悲劇が訪れる。フロントマンで〝第二のデヴィッド・ボウイ〟とまで評されたアンドリュー・ウッドが、薬物過剰摂取で急死したのだ。メンバーは絶望の淵でエディ・ヴェダーと出会い、パール・ジャムは船出する。

 パール・ジャムをメロディアスにして毒を抜いたのが、ジャーニーといえるだろう。地の底から響くようなエディの声がアメリカの良心と知性の象徴なら、普遍的な心情を表現するジャーニーには伸びのある澄んだ声が求められる。

 アーネルの加入は波紋を広げた。ファンサイトの掲示板は、「サルやカラオケボーイに、偉大なペリーの代役が務まるはずがない」といった辛辣な書き込みで溢れる。チリでのデビューライブで、アーネルは不安を払拭した。「シュガーマン」のロドリゲス同様、そこが自分の本来の場所であるかのように、2万人以上が埋め尽くすアリーナで飛び跳ねた。

 アーネルは少年時代、ホームレスを経験している。15歳からシンガーとして生計を立て、香港を拠点に活動したが、芽は出ない。生活は荒み、恋愛も悲しい結末ばかり。酒や薬物に溺れ、声が出なくなったこともある。不惑を前に、友人がジャーニーの曲を歌うアーネルの映像をYoutubeにアップしたことが、奇跡の始まりだった。

 俺の息子、凄いだろう……。他のメンバーのアーネルにやる〝父親目線〟が微笑ましい。実年齢以上に、アジア人は若く見える。少年の面影を残すアーネルなら尚更だ。その野性と純粋さはバンドの可能性を広げ、フィリピン系移民を吸収してファン層は拡大した。全米ツアーはソールドアウトの連続で、スティービー・ワンダーやポリスの再結成ツアーを超える動員数を記録したという。ジャーニーは今、キャリアのピークを迎えているのだ。

 貧困と格差の拡大で、アメリカ国内のファンは経済的に追い詰められている。やっとの思いでチケットを入手した大観衆を前に、スラム生まれのアーネルが希望を歌う。だからこそ、ジャーニーの曲は説得力を増したのだ。フィリピンは奇跡を生む土壌なのかもしれない。20㌔近い体重の壁をクリアしたパッキャオに続き、アーネルもまた常識を覆す物語の主役となった。

 先週の桜花賞は珍しくブログに記した通りの結果だった。味を占めて皐月賞の予想を……。POG指名馬の⑫コディーノに希望を託す。とはいえ、手ぬるい調教は気掛かりで、陣営はダービーに照準を定めているのかもしれない。相手本線は⑯フェイムゲームで、馬連⑫⑯に2頭軸の3連単を買うつもりだ。
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「想像ラジオ」~生と死の境界を彷徨う魂魄たち

2013-04-08 23:36:35 | 読書
 プロ棋士とコンピューターが5番勝負で雌雄を決する電王戦は、船江5段が敗れ、人間側が1勝2敗と窮地に追い込まれる。あすから始まる名人戦が霞んでしまいそうな状況だ。文系の俺は棋士の個性と美学を楽しみ、将棋の大局観、間合い、指運といった論理に縛られない部分に着目している。将棋はゲームであると同時に、日本独自の文化なのだ。例えば落語……。小三治より噺のうまいコンピューターが登場したらどうしよう。

 旧聞に属するが、「相棒シーズン11」18話「BIRTHDAY」には驚かされた。論理的思考で鳴る杉下警部(水谷豊)が、幽霊の少女に導かれて捜査に乗り出すという設定だったからである。平野啓一郎の最新作「空白を満たしなさい」もそのひとつだが、<3・11>以降、生を死に、死を生に取り込んだ表現がジャンルを超えて増えている。人気ドラマにも影響は及んでいるということか。

 いとうせいこうの「想像ラジオ」(河出書房新社)も、その流れに属する小説だ。Uターンで地元に戻った主人公の体は大地震による津波で山に運ばれ、DJアークとして樹上からラジオ放送を始める。アークが居る森は原発事故による放射能汚染地域で、死者以外は誰も足を踏み入れない。

 いとうせいこうといえば、思い浮かぶのがシティボーイズとの共演だ。アークは作家、俳優、ラッパーとマルチで活躍する作者の分身といえるかもしれない。本作で主人公に準じる役割を果たすのが作家のSだ。生と死の境界を彷徨うアークが想像ラジオのDJなら、Sは亡き恋人と交流している。大空襲で焼き尽くされた東京、原爆投下で地獄絵図の様相を呈した広島、血で血を洗う内戦が展開した旧ユーゴ……。それぞれの場所で亡くなった者と東日本大震災の犠牲者を、Sは想像力で繋げていく。

 <死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕たちはなんなんだ。この国はどうなっちゃだんだ>……

 恋人に語りかけるSの言葉は、いとう自身の怒りに満ちている。震災からの復興は遅々として進まず、原発事故の反省どころか、再稼働と輸出が安倍政権の基本方針になっている。狂奔するアベノミクスで死者は忘れ去られ、弱者予備群まで格差拡大を推進する政府を支持している。まさに異常事態だ。

 2時間もあれば読める作品だが、幾つか仕掛けも施されている。Sの恋人だけでなく、彼女の老いた親族も想像ラジオのリスナーだ。死者、あるいは生死のあわいに存在する者だけがアークの番組をキャッチできるわけではない。想像力が豊かな人、孤独に苛まれている人も、アークの声に癒やしと励ましを覚えるのだ。

 人は他者の人生にどこまで関われるのか、他者の苦しみをどれだけ感じることができるのか、死は愛の終わりなのか……。本作には答えの出ない問いが、囁くように読者に発せられている。<みんな>と一括りにし、<がんばろう、日本>と標語に埋没しても仕方がない。俺が時々、普遍的に物事を語ってしまうが、それもまた無意味だ。

 拙かったりまとまりがなかったりしても、個々が思いを真っすぐに伝えることが始まりだと、本作は教えてくれる。リスナーは幸せだった日々や現在の気持ちを切々と訴える。アークもまた、家族の思い出、父や兄への感謝、妻と息子への愛を素直に語る。

 一つの死は無数の言葉に成り立っている。語り尽くしたアークは、想像力を駆使して妻と息子の声を聴く。自分に対する二人の思いを知り、ハクセキレイに導かれるように旅立った。ラストにボブ・マーリーの「リデンプション・ソング」が流れ、アークとSの気持ちが重なる。本作は死者への鎮魂の思いが込められた秀作だった。
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小三治独演会~匠の技に癒やされた春の宵

2013-04-05 11:36:40 | カルチャー
 落語好きといえば、思い出すのが杉下警部(水谷豊)と米沢鑑識課員(六角精児)だ。二人がCDを貸し借りするシーンが減ってきたのは少し残念である。「相棒シーズン1」第3話(02年10月)で小宮孝泰が犯人の落語家を演じた頃、志ん生のCDで落語を齧り始めた。「落語研究会」(TBSチャンネル)で〝聴く〟から〝見る〟に比重が移り、1年ほど前からライブで楽しむようになった。

 昨日4日は柳家小三治独演会(サンパール荒川大ホール)に足を運んだ。小三治は先月、高座を2度キャンセルしていることもあり、1000人を超える聴衆はいつも以上の拍手と歓声で主役を迎える。痩せこけた73歳の名人は、1時間半の熱演でホールを大いに沸かせていた。

 笑われるのは慣れているが、笑うのは苦手だ。同行した友人は年季の入った落語ファンだから、俺は隣をチラ見しつつ、ワンテンポ遅れて笑いの渦に加わっていた。友人は「二人旅」と「茶の湯」を初めて聴いたという。稀にしか高座にかからない噺を当代一の名人が演じる場に居合わたのは、幸いとしか言いようがない。

 初級者ゆえ難度はわからないが、「二人旅」で聴く側の緊張を保つのは至難の業だと思う。迷った二人の旅人と老婆の会話の小さなズレが、繕いようのない綻びに転じていく。ナンセンスでアナーキーなムードを醸し出す小三治に圧倒された。一方の「茶の湯」は虚栄を嗤う噺で、「裸の王様」の童話に通じるブラックユーモアに溢れていた。声色と表情で多くの人物を使い分ける芸に感嘆させられる。

 小三治は〝枕の小三治〟と称されるほど、枕に定評がある。昨日も絶妙の間で本領を発揮していたが、自身の体調については花粉症を強調するのみで、休演に至った経緯には言及しなかった。ちなみに俺は、ブログで<枕の手法>を拝借し、本題前にグダグダ記しているが、全く〝掴み〟になっていない。凡人の悲しさである。

 以前の稿と重複する部分もあるが、俺が落語に惹かれる理由を以下に記したい。

 落語に現れるのは粗忽者、嘘つき、煩悩の塊、うっかり者、欲張り、間抜け、見栄っ張り、怠け者、野次馬といった連中で、バカボンのパパ風のリラックスした装いだ。欠点だらけの人間が人情によって生かされている姿に、俺など自分を重ねて親近感を抱かざるを得ない。落語家のスタンスも最高だ。伝説の名人、志ん生や円生でさえ、「私どものような者のために貴重な時間を割いて下さって、誠にありがとうございます」と頭を下げる。

 今の世の中、自分を曝け出して<水平思考>で周りと接することは転落の原因になる。だから、他者と自らを相対的に比べ、高飛車と卑屈を使い分ける<垂直思考>があらゆる組織で蔓延している。生き残るためには、自分を膨らませる〝ハリネズミ〟にならざるをえないのだ。テキトーに生きている俺でさえ苛々することはあるが、そんな時、寄席に足を運ぶと、しこりはスッキリ消えている。

 オチとサゲはあらかじめ決まっている。俺もかつて<落語なんて犯人がわかっているミステリー>という偏見に囚われていたが、シャーロキアンが繰り返し原作を読み、映画やドラマ(特にグラナダテレビ版)を見る気持ちが、ようやくわかるようになった。癒やしと和みに加え、予定調和とマンネリも落語の魅力で、演者による解釈の違い――例えば円生、小三治、志らくの「死に神」――を嗅ぎ取るのもまた、落語の楽しみ方のひとつである。

 完全試合まであと1死まで迫ったダルビッシュは、モチベーションの高さを武器に階段を上っている。スポーツの世界は形が見えやすいが、「噺家なんて呑気な稼業でして」と枕で述べる小三治もこの半世紀、血の滲むような修練を重ねてきたのだろう。俺が目にしているのは最終形だが、進行形を体感するためにも寄席に足を運びたい。古今亭文菊もそのひとりで、自身の17人抜きを超える28人抜きの真打ち昇進を認めたのは、落語協会会長でもある小三治だ。

 最後に、枠順が決まった桜花賞の予想を。いや、願望というべきか。馬場とか展開など不確定要素は多いが、POG指名馬の⑭レッドオーヴァルを応援するしかない。相手候補筆頭は⑦アユサンで、馬連⑦⑭と2頭軸の3連単を考えている。
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「愛、アムール」~静謐でヒリヒリとした愛の形

2013-04-02 22:15:12 | 映画、ドラマ
 長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の国民栄誉賞同時受賞が決まった。当人たちの功績は認めるが、授与する側の基準がわからない。松本清張と手塚治虫が受賞者リストにないのは、ともに共産党を支持していたからだろう。俺が注目しているのは、国策に異を唱える吉永小百合だ。原爆詩の朗読をライフワークと位置付ける吉永は福島原発事故以降、脱原発を熱心に訴えている。

 銀座で先日、「愛、アムール」(12年、ミヒャエル・ハネケ監督)を見た。映画賞の基準も国民栄誉賞並みにわかりづらいが、本作はカンヌ映画祭パルムドール、米アカデミー賞最優秀外国語映画賞など数々の栄誉に浴している。〝納得した〟が観賞後の感想だった。

 ブログを始めてから、シネフィルイマジカでハネケ監督作を数本見たが、理解できず、何も書けなかった。前作「白いリボン」(09年)については、「密告」(アンリ・ジョルジュ・クルーゾー)に重ねて曖昧な感想を記した。ハネケ作品は敷居が高い〝映画学徒〟向けだが、「愛、アムール」には自然に入り込めた。第一の理由は、俺自身の老いである。

 ここ数年、妹をはじめ多くの別れを体験した。別稿にも記したが、伯母と叔父の死に触れ、絆、老人医療や介護の在り方、生の尊厳といった問題に思いを巡らせた。母はケアハウスに入居し、死へのソフトランディングを準備している。かく言う俺もアラカンで、活力に溢れていた父の最期を考えると、棺桶までの距離は遠くなさそうだ。「愛、アムール」は<限りある目盛り>を前提に生きざるをえない中高年向けの作品といえる。

 80歳を超える元音楽教師の老夫妻が主人公だ。夫ジョルジュを「男と女」など多くの傑作に出演したジャン・ルイ・トランティニャン、妻を「二十四時間の情事」など日本に縁が深いエマニュエル・リヴァがそれぞれ演じている。冒頭の演奏会のシーン以外、外部と遮断された老夫妻の住むアパートが舞台になっていた。

 ある朝、唐突にアンヌが惚けた。数分後、元に戻ったが、アンヌは自身に起きたことに気付いていない。精神の綻びを繕うために受けた手術は失敗し、アンヌは日々、壊れ、閉じこもっていく。気高さと美しさを併せ持つアンヌは入院を拒み、ジョルジュは愛の証しを立てるが如く介護する。

 隣人、アンヌの自慢の弟子、娘エヴァ、通いの看護師らも外縁に追いやられ、ヒリヒリと純化した愛が夫妻を包んでいく。雨滴が重なって幾つもの波紋となり、水面の下で夫妻の軌跡が影のような像を結ぶ。ジョルジュの悪夢など、ハネケらしい趣向を凝らしたシーンもちりばめられていた。壁の絵から抜け出た鳩は、外の世界へと繋ぐ使者もしくは、透明に切り立った愛の緩和剤なのか。タイトル通り、最大のテーマは<愛>である。

 本作で重要な役割を果たしているのは音楽だ。アンヌの愛弟子を演じているのはピアニストのアレクサンドル・タローで、サントラも担当している。ちなみにハネケの代表作「ピアニスト」はまだ見ていない。

 俺の父は秋に突然壊れ、翌春に召された。69歳にしては稀な老衰の症状で、肉体と精神は同時に衰弱する。父は病院をてこずらせ、放り出される形で実家に戻った。濃い性格同士の両親は一歩も引かぬケンカ友達だったが、母のかいがいしい介護に妹も感動したという。

 静謐な「愛、アムール」と違い、両親の介護の光景は騒々しく、時に怒声も飛び交ったはずだ。当時、勘当状態だった俺だが、父と末期の酒を酌み交わせたのは救いだった。死と老いという普遍的な光景を織り成すのは<愛>という糸だ。崇高さにも、様々な模様があるのだろう。いずれにせよ、孤独死確実の俺には無縁の話だが……。
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