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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」~<理念と大義>は地獄への一本道

2020-08-30 22:06:42 | 映画、ドラマ
 ミュニシパリズムを掲げる<グリーン・レッド連合>がフランスの地方選で躍進し、多くの首長が誕生した。コービン英労働党前党首、米サンダース上院議員が提唱する<グリーンニューディール>は若い世代に浸透しており、いずれ構造が覆るかもしれない。<理念と大義>が息づく欧米とは対照的に、日本の状況は絶望的だ。

 安倍首相はこの8年、対米隷属と私物化に専念して政権を運営してきた。コロナ禍への無策は目を覆うばかりだった。後任が経済、外交、民主主義の毀損など莫大な負債を返済するのは至難の業に思える。安倍首相が唯一、<理念と大義>に据えた改憲も、国民の間で支持は全く広がらなかった。

 高らかに謳われる<理念と大義>は地獄への一本道で、カタストロフィーをもたらすことを示した映画「赤い闇 スターリンの冷たい地」(2019年、アグニシェカ・ホランド監督)を新宿武蔵野館で見た。封切り後2週間ほどなので、背景と感想を中心に記したい。

 冒頭は「動物農場」(1945年)執筆中のジョージ・オーウェル(ジョセフ・マウル)のモノローグだ。管理社会の恐怖を予言した「一九八四年」は20世紀で最も影響力のある小説だが、オーウェルはホロドモールを告発したガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)に触発されたという設定になっている。

 1932年から33年にかけ、スターリンは計画経済の成果を世界にアピールするため、ウクライナの農作物をモスクワに送る。結果として1400万人もの餓死者が出たという統計もある。毛沢東が主導し、数千万人が餓死した「大躍進政策」と並ぶ20世紀最大の虐殺のひとつだ。ソ連が公表する〝粉飾〟に疑義を抱き、ホロモドールに気付いたのはガレスの知人、ポール・クレブ記者である。

 ロイド・ジョージ(元首相)の外交顧問の職を解かれたガレスはソ連に飛ぶが、クレブは公安警察に暗殺されていた。ベルリンやパリと変わらぬ頽廃に覆われたモスクワで、記者たちは共産党に飼い慣らされていた。クレブの恋人エイダ(ヴァネッサ・カービー)、彼女の上司でピュリツアー賞を受賞したNYタイムズのデュランディ(モスクワ支局長)も、共産党の<理念と大義>を上位に置く。

 大恐慌で矛盾が噴出した資本主義に取って代わるものとして、知識人の多くは共産主義を支持した。恋人を殺されたエイダでさえ、ホロモドールは〝人類の輝ける未来のための犠牲〟だったと考えていたのだ。ロシア革命の本質を見抜いた者が日本にいた。別稿(今年4月12日)に紹介した伊藤野枝について、革命成立4年後に来日したバートランド・ラッセルは「多くの文化人と交流したが、好ましいと思った日本人はたった一人。伊藤野枝という女性で、高名なアナキスト(大杉栄)と同棲していた」と語っている。<中心>と<上下>に縛られたロシア革命の本質をいちはやく見抜いた慧眼に感嘆するしかない。

 表現主義、ダダイズム、ロシアアヴァンギャルド、シュルレアリズムといった革新的ムーヴメントが共産主義とリンクしていたから、ロシア革命は神々しく映った。だが、文化的風潮と革命を紡いでいたトロツキーが政争に敗れて亡命するや、スターリン独裁の下、自由と創造性は失われた。

 ガレスは単身、ウクライナに赴き、想像を絶する地獄を目にする。農作物は全てモスクワに送られ、は餓えた人々は家族の肉を食べる極限の状況に追い詰められる。哀しみと絶望に彩られた子供たちの呪わしい歌が、帰国しても耳から離れない。ソ連の脅しに屈せず真実を伝えるガレスを攻撃したのは、NYタイムズなど 〝良心的〟なメディアだった。

 本作は33年と45年がカットバックして描かれる。ガレスの講演を聞いた後も、ソ連に一定の理解を示していたオーウェルだが、トロツキーの系譜を引くポウム義勇兵としてスペイン市民戦戦争で参加し、真実に気付く。スターリンの援助で勢力を増し、他のグループを圧殺する共産党軍を目の当たりにして「カタロニア讃歌」を発表した。

 エンドマークでガレスの死が伝えられる。享年29だった。35年、取材に訪れた満州で銃弾を浴びた。ソ連の秘密警察に通じた者による犯行とされている。東京滞在時はゾルゲとも交流があったガレスは、日本現代史の闇に封印されている。
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「トリツカレ男」~いしいしんじが描く清冽な〝三脚関係〟

2020-08-26 21:40:30 | 読書
 コロナ禍がもたらす閉塞感、炎暑下の倦怠感のせいにするわけではないが、俺ぐらいの年(63歳)になると日々、失敗や齟齬の連続で、煎餅布団でダラダラ〝永眠へのリハーサル〟状態だ。

 ブログを〝遺書代わり〟などと記してきたが、今や〝生命維持装置〟で、中3日更新のリズムを失えば、人間廃業にまっしぐらだ。気力と好奇心が萎えているからネタ切れになり、〝お疲れ雑感〟でお茶を濁すつもりでいたが、予定が変わる。前稿で紹介した「パブリック 図書館の奇跡」のHPの著名人コメントの中にいしいしんじを見つけたからだ。

 <本の壁に守られて一夜を過ごす。どんな凍てつく吹雪にさらされようとも、大切な物語が一編さえあれば、胸の灯火はほのかに輝きつづける>……。「そうだ、いしいしんじだ」と閃き、積読本から「トリツカレ男」(2001年、新潮文庫)をピックアップする。160㌻の掌編だが、心を灯す〝大切な物語〟だった。後半は「パブリック――」同様、異常な寒波が回転軸になる。

 いしいの作品を読むのは「悪声」、「ぶらんこ乗り」に次いで3作目だ。「悪声」に横溢する土着的パワーに圧倒され、石川淳と辻原登を援用してあれこれ評したが、いしいの原点というべき「ぶらんこ乗り」を読んで、肝心の作家の名が念頭になかったことに気付いた。夢の中で夢を見る浮遊感は、宮沢賢治の世界と重なっている。

 「走れメロス」のテーマは友情だったが、「トリツカレ男」は疾走するロマンチックな愛を軸に据えたメルヘンだ。ジュゼッペは常に何かに夢中になっている青年で、周囲は「トリツカレ男」と呼んでいる。オペラ、三段跳び、探偵、昆虫採集など対象を替えるが、風船売りの少女ペチカとの宿命的な出会いで、人生の景色が一変する。

 ジュゼッペは情熱的なイタリア人に多い名前、ペチカは寒い国の暖炉……。無国籍風のメルヘンについて詮索しても意味はないが、舞台は恐らくドイツ北部で、ペチカはアイスホッケーが盛んな東欧出身からの移民だろう。ジュゼッペの相棒はハツカネズミだ。宮沢賢治の童話にも多くの動物が登場するが、本作のハツカネズミはジュゼッペに自制を求める〝大人〟だ。

 ペドロ・アルモドバル監督の「アタメ」や「トーク・トゥ・ハー」にもトリツカレ男は登場するが、ジュゼッペのペチカに寄せる思いは常軌を逸したストーカーといってもいい。ハツカネズミによって、ペチカに40歳の婚約者がいた事実が伝えられる。アイスホッケー部のコーチだった体育教師のタタンは生徒たちの命を守るため、3年前に亡くなっていた。ジュゼッペは探偵の経験からタタンに変装するだけなく、アイスホッケーにトリツカレた。

 悲しい三角関係のはずが、トリツカレ=憑依が生死の境界を超え、物語は神話、寓話の高みに飛翔する。ジュゼッペはペチカだけでなく高潔なタタンに、彼岸からペチカを見守るタタンは純粋なジュゼッペに、そしてペチカもタタンだけでなくジュゼッペにトリツカレた。互いを思いやる愛と優しさが、地に足を生やした理想的な〝三脚関係〟を現出させた。ジュゼッペが最後にトリツカレたサンドイッチ作りがペチカとの絆を紡ぐハッピーエンドだが、行間に漂泊の哀しみが滲んでいた。

 メルヘンの基本は自然への畏れと共生への祈りだ。本作では四季折々の鮮やかな描写がジュゼッペたちの心情を反映していた。<62歳にもなって、屁理屈抜きで感情移入出来る小説に巡り合えた幸せを噛みしめている>と「ぶらんこ乗り」の感想を締めたが、65歳間近になって愛を高らかに謳う「トリツカレ男」に心を揺さぶられた。どうやら童心に帰ったようだ。

 俺はジュゼッペのようにトリツカレを避けてきた。周囲に嗤われてもトリツカレていれば、人生は変わったかもしれない。才能と情熱に恵まれない俺のこと、とっくに東京砂漠でくたばっていただろうが……。
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抵抗運動の魁としての「パブリック 図書館の奇跡」

2020-08-22 17:15:49 | 映画、ドラマ
 ワイドショーは藤井聡太2冠一色だ。王位戦第4局の封じ手など、鮮烈な手をプロ棋士に解説させるケースが増えている。俺が〝藤井ストッパー〟に期待しているのは、正統派ではなく感覚派で、中でも注目は独創的な本田奎五段だ。プロ入り3年目だが、既にタイトル戦(棋王戦)を経験している。

 バイデン-ハリスのコンビがトランプに挑むことが正式に決まった。バイデンの弱みは〝底上げ〟された候補であること。NYタイムズの1面記事<サンダースではトランプに勝てない>が一気に空気を変え、予備選序盤で〝死に体〟だったバイデンが生き返った。変化を望まない民主党幹部と主要メディアの利害は一致していたのだろう。

 ポスト資本主義を見据えたサンダースの影響を受けた民主党プログレッシヴは全米で勢力を伸ばしている。サンダースが予備選で掲げた政策――格差と貧困の解消、国民皆保険、福祉と医療の充実、公共事業の拡充――は喫緊の課題だ。そのことを再認識させてくれる映画を新宿武蔵野館で見た。

 「パブリック 図書館の奇跡」(2019年、エミリオ・エステベス監督)の舞台は極寒のシンシナティ。主人公の図書館司書スチュアート・グッドマンを監督のエステベスが演じている。市のシェルターは定員オーバーで、ホームレスたちは図書館で寒さをしのいでいた。リーダー格のジャクソン(マイケル・ケネス・ウィリアムズ)は閉館時、「俺たちはここに残る」と宣言する。

 スチュアートは失職の危機にあった。同僚のラミレス(ジェイコブ・バルガス)とともに、体臭の強いホームレスを館外に誘導したことを、市長選出馬を目指すデイヴィス検察官(クリスチャン・スレーター)に咎められたのだ。情報を得る権利と公共施設の利便性を天秤にかけた苦渋の選択が、裁判沙汰の引き金になる。

 上記のスレーターに加え、市警交渉担当のラムステッド刑事を演じたアレック・ボールドウィンと名優が脇を固めていた。デイヴィスとテレビキャスターのレベッカ(ガブリエル・ユニオン)はスチュアートを扇動者と決めつけ、周囲からコケにされる。真実に向き合わずスタンドプレーに走る政治家やメディアの本質を抉っていた。

 スチュアートを巡る2人の女性、アパート管理人のアンジェラ(テイラー・シリング)と同僚のマイラ(ジェナ・マローン)がチャーミングだった。前者は奔放、後者は小説好きの堅物と対照的である。本作のキーになっているのはマイラの愛読書「怒りの葡萄」(ジョン・スタインベック)だ。1930年代後半に発表された同書は、多くの人が貧困に喘ぐ80年後のアメリカと重なっている。ライブ中継に出演したスチュアートは「怒りの葡萄」の一節を朗読するが、無教養のレベッカは一笑に付す。

 落伍者扱いのホームレスたちだが、退役軍人だったり、失業から路上生活者になったりと、決して自己責任による転落ではない。ちなみにアメリカでは夫妻で1000万円超の収入があっても、片方が重い病気になれば破産に追い込まれることを「シッコ」(07年、マイケル・ムーア監督)が描いていた。スチュアートも路上生活者だったが、図書館で触れた本によって立ち直った経緯が後半に明かされる。

 <内在する暴力>がヒエラルキーを倒立させた「虹の鳥」(前稿)と比べて微温的と感じたが、HPを見て目からウロコである。エステベスが実話に基づき製作を準備したのは11年前だから、オキュパイ、反トランプ、気候マーチ、BLMといった様々な抵抗運動の魁ともいえる。「次は君たちの番だよ」と見る側にバトンを渡すラストシーンだった。

 ホームレスたちに心を寄せる市民の姿、アメリカ人のチャリティーも描かれていた。若年層には社会主義が浸透し、民主党を変えようとしているが、日本人は本作からバトンを受け取ることが出来るだろうか。1年後の東京には失業者が溢れている。立民と国民が合流するが、新党が貧困層の声を吸収するなんて希望は欠片も感じていない。
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血を滴らせて飛翔する「虹の鳥」~目取真俊が仮想したヒエラルキーの倒立

2020-08-18 23:28:43 | 読書
 渡哲也さんが亡くなった。名優の死を心から悼みたい。代表作「仁義の墓場」(1975年)はヤクザ映画の極北で、戦後の混乱期、破滅へひた走るアウトローを演じ切った。俺にとって邦画史上ベストテンの一作で、恵子(多岐川裕美)の遺骨を貪る愛の貌は鮮烈だった。

 渡瀬恒彦と共演した「十津川警部シリーズ50 消えたタンカー」を見ながら「くちなしの花」を口ずさみ、亡き弟、そして兄と慕った石原裕次郎と泉下で再会するシーンを想像した。前稿絡みで思い出したのが凄惨な「沖縄やくざ戦争」(76年)で、狂気を迸らせる組長(千葉真一)を射殺したのが渡瀨演じるヤクザだった。

 沖縄在住の目取真俊が06年に発表した「虹の鳥」(影書房、17年の新装版)を読了した。「沖縄やくざ戦争」同様、血と暴力が行間に滲む本作は、現実とリンクしながら進行する。目取真を知ったのは辺見庸との対談集「沖縄と国家」(角川新書)で、辺見は目取真を〝究極レベルの表現者〟と評価している。別稿で「魚群記」を紹介したが、「虹の鳥」も日米両国に蹂躙された沖縄の苦難の歴史、豊饒で濃密な空気を背景に描かれている。

 舞台は1995年の沖縄で、米兵少女暴行事件への抗議運動が広がりを見せていた。主人公のカツヤ、今風なら半グレを仕切る比嘉、その意を受けてカツヤがアパートに預かっているマユが主要な登場人物だ。カツヤは中学1年の時、暴力に屈して比嘉の配下になる。カツヤの父が軍用地の地主で、金を巻き上げるには格好のターゲットだった。

 比嘉は感情は一切見せない冷酷な独裁者で、暴力団とも繋がっている。薬漬けにした少女たちを売春させ、カツヤたちに相手の男を強請らせる。マユは〝あらかじめ壊れていた〟小柄な17歳で、生気がまるでない。この3人は暴力により、脱出不可能と思えるヒエラルキーに閉じ込められている。

 ベースになっているイメージはカツヤが中学生の頃、社会科教師が授業中に漏らした言葉だ。<ヤンパルの森の中で訓練していた米特殊部隊員は幻の鳥を見た。彼らは羽の色からレインボーバード、即ち虹の鳥と名付けた>……。禁忌を纏った伝説を誰も口にしないが、沖縄戦に通底している。前稿で記した「護郷隊」もヤンパルの森に籠もり、敗戦後も他の部隊とゲリラ戦を展開した。

 美しい自然と豊かな生態系に恵まれたヤンパルの森は、沖縄の人々にとって心の拠りどころであり、戦争の傷痕が刻まれた場所でもある。そこに棲息するという虹の鳥の刺青がマユの背にあった。マユは中学時代、成績優秀で生徒会の役員も務めていたが、リンチと性的暴行で人生は暗転する。今や廃人同様だ。

 ある構図が脳裏に浮かんだ。比嘉、カツヤ、マユはそれぞれ、アメリカ、日本、沖縄県民のメタファーではないかと。比嘉とアメリカは絶対的支配者で、カツヤと日本は屈従するだけという共通点がある。マユは沖縄県民そのまま日米両国に蹂躙されている。この現実を克服する手立てを目取真は仮想したのか。

 <今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ>……。「希望」(1999年)での犯行声明にはこう記されていた。アメリカに擬した比嘉も、次のように吐き捨てる。<米兵の子供をさらって、裸にして、58号線のヤシの木に針金で吊るしてやればいい>……。

 カツヤが初めて比嘉に共感を覚えたのも束の間、グループのアジトでおぞましいリンチが行われる。マユ、そしてカツヤにも魔の手が及んだ。その時、萎れていたマユの肉体から虹の鳥が飛翔した。<内在する暴力>が解き放たれ、3者のヒエラルキーは血とともに倒立した。

 カツヤはマユを連れてヤンパルの森へ向かう。その途中、かまいたちのように牙を剥くマユは比嘉の言葉を実践する。俺は2015年の夏を思い出した。国会前で毎週のよう開かれた戦争法反対集会に参加するたび憤りさえ覚えたことは、当ブログで繰り返し記した通りである。

 その理由は「魚群記」、そして本作の読後感とリンクしている。第一に、戦争法や憲法9条を語る際、不可分というべき日米安保と沖縄が捨象されていたこと。第二は、もっともらしい奇麗事に<内在する暴力>が省かれていたことだ。識者や国会議員たちの空虚なアピールの対極に位置するのが目取真だ。作品群を神話の域に到達させた目取真は本作以降、ペンを措き、日米両国という暴力装置と対峙している。
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「沖縄戦全記録」&「沖縄スパイ戦史」が穿つ日本の現在

2020-08-14 12:02:54 | 社会、政治
 8月6日に広島、9日に長崎に原爆が降下され、被爆者は75年を経ても苦しんでいる。あすは敗戦の日で、適当に生き長らえている俺でさえ厳粛な思いを抱いている。今稿、次稿は現在も最前線である沖縄をテーマに記したい。

 下敷きにしたのは日本映画専門chでオンエアされた「NHKスペシャル 沖縄戦全記録」(2015年)と「沖縄スパイ戦史」(18年、三上智恵・大矢英代共同監督)だ。時系列に沿って製作された前者を<A>、新たな切り口で沖縄戦の実相を浮き彫りにした後者を<B>として、75年後の現在に通底するものを整理したい。

 資本と物量の投下が戦争の前提だ。<A>によれば米兵50万、日本兵10万。兵器の質量の差は決定的だ。日本は<防衛召集>の名目で住民たちを軍に組み入れ、女性にさえ自爆攻撃を命じた。<B>は陸軍中野学校出身の若き諜報将校が主導したゲリラ部隊「護郷隊」結成の経緯を描いていた。隊員たちは10代半ばの少年たちである。

 戦争遂行の下地になるのが洗脳だ。チャプリンは1932年、ベーブ・ルースは34年に来日し、ともに熱狂的に迎えられた。「駅馬車」(ジョン・フォード監督)が大ヒットしたのは40年6月のこと。日本ほど短期的に洗脳が成果を挙げた例は他にあるだろうか。沖縄の女性たち、護郷隊の少年たちも、国体(天皇制)を守るための一億玉砕を刷り込まれていた。

 <A>には語り部的存在がいた。後にピュリツァー賞を受賞した司令官直属のジェームス・バーンズ曹長である。戦場に横たわる夥しい数の住民の遺体を目の当たりにして、「我々の敵は住民ではなく日本軍」と「陣中日記」に綴っている。自制を失った米兵が無差別攻撃に駆り立てられたのはベトナム戦争と同様だった。バーンズは<私は戦争の全てを見た>と日記を締め、沖縄戦について何も語らなかったという。

 <B>が明らかにしたのは<裏の沖縄戦>だ。エリート諜報員2人が大本営の密命を帯びて44年9月、沖縄に降り立った。ゲリラ戦、スパイ戦を行う護郷隊は第一、第二に分かれ計1000人。その任務は偵察、白兵戦だけではない。普通の少年を装って収容所に紛れ込み、施設爆破を実行した。米軍の侵攻を妨害するため多く橋を破壊するが、結果として荷物を捨てざるを得なくなった避難住民が餓死することになった。米軍も護郷隊の実態を掴み、少年たちは追い詰められていく。

 分隊長はスパイ容疑の少年を幼馴染みに銃殺させる。傷病兵も殺された。戦後、PTSDに苦しんだ隊員を救ったのは教会だった。戦争は人命を奪い、人々の分断を進め、心を蝕む。中野学校出身者が関わったのは護郷隊だけではない。〝住民を適切に管理し、戦争を有利に進める〟ため、42人が沖縄に派遣された。そのひとりは教員として赴任した波照間島で人々の運命を狂わせる。

 来島から3カ月後の45年2月、悪魔の素顔を晒す。家畜のと、マラリアの有病地である西表島への移住を強制するのだ。された家畜は薫製にされ軍の食糧になった。波照間だけではなく、石垣島ら八重山諸島で強制移住が推進され、戦争マラリアによる犠牲者は3600人超になる。約20万といわれる沖縄戦の死者に含まれているのだろうか。

 日本の伝統といえる棄民とともに深刻だったのは、軍による住民虐殺だ。有力者が名を連ねる密告組織「国士隊」が秘密裏につくられ、無実でありながらスパイ容疑で告発された者は敗残兵らによって殺される。虐殺の根拠は、現在の特定保護法の前身とされる軍機保護法で、「情報を漏らす者は死に値する」と記されている。本土決戦に突き進んでいたら、日本中が沖縄と同じ状況になった。いや、沖縄は実験台だったといえる。

 「軍隊が住民を守らない」のは旧日本軍だけではない。陸上自衛隊の最高規範である「野外令」には<住民の疎開、避難、収容等、連絡上の橋梁や陸路等の破壊>は自衛隊法に基づくと記されている。上記した沖縄戦と重なる内容で、病院の運営、薬品や必需品の確保も自衛隊優先だ。石垣島への自衛隊配備反対派は井筒高雄氏(元レンジャー部隊)を呼んで講演会を開いた。

 井筒氏は<自衛隊は権力者、基地を守るために存在する。有事の際、皆さんは安全な場所に避難できるわけはない。自衛隊法103条に基づき、「業務従事命令」によって協力を求められる。〝敵か味方〟に選別され、秘密戦が始まる>と語っていた。市長選では配備推進派が勝った。

「散れ」と囁くソメイヨシノ、「生きろ」と叫ぶカンヒザクラ……。ラストの桜を巡るエピソードに感銘を覚えた。全編を貫くのは死者への思いで、<B>には体験者の証言や研究者の分析がちりばめられている。選挙やイベントでグリーンズジャパンと縁が深い井筒氏のみ個人名を挙げたが、慟哭に彩られた血が滲む証言に心を揺さぶられた。今こそ両作を多くの人が観賞し、この国の現在進行形を見据えるべきだと思う。
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「バルーン 奇蹟の脱出飛行」~飛翔の燃料は自由への希望

2020-08-10 21:26:49 | 映画、ドラマ
 コロナ禍でお盆の様相は一変した。人と人の距離が遠くなっただけではない。生と死の境界に壁が聳え、墓参して死者に語り掛けるという習慣が途切れたことに、心を痛めている方は多いはずだ。

 変容した生と死の在り方についての論考を紹介してきた。國分功一郎(哲学者)は「コロナ新時代への提言」(BS1)の冒頭、「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのか」と問い、「疫学的に人口を捉え、人間を一つの駒として捉える見方に違和感を覚える」と続けた。辺見庸も「コロナは人間を無名化、数値化する」と語っている。

 人生の第4コーナーで喘いでいる俺には、<生>から<死>へ旅立つ日が迫っているが、精神的に<死>から<生>へ追い詰められているのが香港の人々だ。弾圧が相次ぎ、10日には蘋果日報など反中国のメディアグループ創始者、黎智英氏が国家保全法違反で逮捕された。

 サイバー独裁で国民を徹底管理し、香港、ウイグル、チベットの人々を弾圧する中国公安警察に重なるのが壁崩壊以前、その名を世界に轟かせた東独のシュタージだ。壁を越えようとして130人以上が国境警備隊に射殺され、失敗して強制労働に従事した者は夥しい数に上るはずだ。脱出を巡る実話に基づく映画をTOHOシネマズシャンテ(日比谷)で見た。「バルーン 奇蹟の脱出飛行」(2018年、ミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ監督)である。

 舞台は1979年の東ドイツ・テューリンゲン州。電気技師のペーター・シュトレルツィク(フリードリヒ・ミュッケ)はギュンター・ヴェッツェル(デヴィッド・クロス)と、西ドイツ脱出に向け巨大な熱気球を作製する。実行直前、ギュンターは不備を見つけ、シュトルツィク家の4人のみが飛び立った。あと数百㍍で引き返すことになったが、ギュンター家も次回、同行する決意を固めた。

 計8人で、準備期間はギュンターが兵役に就くまでの6週間……。シュトレルツィク、ヴェッツェル夫妻に加え、ペーターの長男ヨナスも夜を日に継いで準備に没頭する。最初の失敗で残した痕跡を、国家の威信を懸けてシュタージが拾い集めていく。捜査を率いるのはザイテル大佐(トーマス・フレッチマン)だ。

 「気球の8人」(82年)で既に映画化されており、ディズニーから権利を譲渡されたことで再度の映画化が可能になった。両家の人たちも製作に協力してよりリアルな内容になったが、ハッピーエンドが保証されている以上、サスペンスとしての意味あいは薄くなる。

 カメラが捉える鋭い目付きの男たちはシュタージの一員っぽく見えぬこともない。一方で、異変に気付いた人が心情的な味方だったりする。ペーター家の向かいに住むバウマンはシュタージ職員だが、抜けたところがある好人物で、その娘はヨナスと恋仲だった。社会の空気とささやかなエピソードが、ストーリーに彩りを添えていた。

 最近、ブログで紹介した「よそ者たちの愛」(テレツィア・モーラ著)、「百年の散歩」(多和田葉子著)はともにドイツが舞台だ。ロックダウンに際し、<私は東独出身だから、移動の自由を制限する意味は身に染みている>とのメルケル首相に言葉に本作が重なる。俺はグリーンズジャパンの会員だが、<多様性とアイデンティティーの尊重、気候正義>を前面に掲げ、グローバルグリーンズで最も高い支持を得ているのがドイツである。デヴィッド・ボウイの「ベルリン3部作」は愛聴盤と、あれやこれやで、ドイツには親近感を抱いている。

 本作を見て「昔はよかった」と息をつく方も多いだろう。現在なら日本の公安警察でさえ、脱出を試みたシュトレルツィク家を一両日中に逮捕出来るだろう。シュタージでさえアナログだったことが新鮮に映るが、現在のデジタルな国民監視を逃れることは不可能なのだ。

 真綿で首を絞められるように自由が<死>を迎えている日本で、<生>への叫びの声は上がるだろうか。先進国で例を見ない莫大な供託金により、国会は弱者の声が届かぬ貴族院になっている。日本が民主主義のスタートラインにさえ着いていないことを、国民の多くは気付いていない。

 
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「猿の見る夢」~桐野夏生が抉るアラカン男の真実

2020-08-06 21:53:26 | 読書
 別稿(7月17日)のタイトルは<レバノンで、コロナ禍の地獄に射す光を見た>だった。そのレバノンの首都ベイルートで二重爆発事故が起きる。時事通信の見出しは<まるでこの世の終わり>で、「現場は核爆発後の終末世界の様相だった」との記事に言葉を失った。微かでも光が射す日が来ることを願っている。

 コロナ禍を巡って、哲学を滲ませる者、強権を振りかざす者とリーダー像は様々だ。自らの疑惑にもコロナ対策にも腰が引けて逃げ回る安倍首相の異様な姿に、40年前、大学の教室で署名を集めていた時の記憶が蘇った。

 〝今回のテーマは軟らかい(環境問題)なので大丈夫〟と高を括っていたが、一筆も集まらない。「趣旨には賛同するけど、どこかで洩れて署名が企業に渡ったら就職出来ない>……、言い換えれば〝空気を読んで自分を殺し、大樹の陰に身を潜める〟という級友の言葉に、この国に未来はないと確信した。

 桐野夏生の「猿の見る夢」(2016年、講談社文庫)を読了した。ページを繰る手が止まらないほどのエンターテインメントだから、あれこれ説明する必要ない。脱線しながら感想を記すことにする。主人公の薄井は59歳という設定で、10月に64歳になる俺と同い年である。

 薄井は銀行から女性アパレルメーカー「OLIVE」に出向する。創業者の織場会長の懐に入り込み、取締役に取り立てられた。織場は薄井に、折り合いの悪い義理の息子、福原社長のセクハラ問題を処理するよう命じる。織場は高齢で持病を抱えているから、薄井は〝会長派〟の旗幟を鮮明にすることを避けている。

 薄井は私生活でも宙ぶらりんで、愛人の美優樹とこの10年、逢瀬を重ねている。さらに、会長秘書の朝川にも心がそよいでいる。桐野は薄井の背後に同世代の男たち――安倍首相やその周辺を含む――を重ねている。共通するのは拠って立つ基盤がなく、空気に振り回される脆弱さ、覚悟のなさだ。

 桐野は薄井に冷淡だ。アパレルメーカーの取締役なら、「世界の流れ」とか言って美優樹の前で格好をつけてもいい。環境問題を軸に今後の方針を考慮しないような会社に未来はないが、そんな発想の欠片も薄井にはない。人間としての規範とも無縁で、周りを窺いながら流されている。

 薄井と俺は一見、真逆だ。金と地位だけでなく家庭に愛人まで持つ薄井と比べ、俺は林子平風にいえば四無斎だ。でも、煩悩、我執、妄想の塊という共通点がある。薄井が持ち合わせぬ思想信条が俺にはあると言いたいところだが、大したもんじゃない。

 星野智幸は「クエルボ」(「「焰」収録)で、主人公の男が元同僚に頼まれた秘密保護法反対の署名を拒否する場面を描いていた。「会社の不条理を看過して沈黙してきたおまえが正義を振りかざすのはおかしい」というのが主人公の本音だが、俺自身を振り返っても、勤め人時代はおとなしかった。デモや集会に参加したのも年に最大2、3回だったから、思想信条を捨てていたのだ。

前半のテーマはセクハラだ。薄井も、そして俺も、女性の服装や髪形を褒めるが、それもセクハラだ。<いつもあなたのことをチェックしてますよ>が無言の圧力になるからである。俺など殆どの女性の眼中にないのだから、唐突に褒めると不気味に思われるだけだ。

 空気を読むのは得意と思っているのは本人だけで、会社、美優樹との関係、家族内のぎくしゃく、亡くなった母の遺産を巡る妹夫婦との確執と、薄井に破綻の兆しが生じてくる。朝川の動きは不穏だし、巨大な黒い影が忍び寄ってくる。

 ブログで紹介した桐野の「柔らかな頬」、「グロテスク」、「ナニカアル」、「バラカ」、そしてブログを開設以前に読んだ「OUT」、「魂萌え!」にはモンスターの存在が見え隠れする。攻撃的であったり、悪魔的であったりするとは限らない。女性の心で目覚めた〝何か〟によって<節度という軌道>から外れ、世界と向き合うパターンだ。本作にもモンスターと思しき存在が登場する。占い師の長峰だ。

 長峰は高齢の女性で、夢で見た光景を伝える。全幅の信頼を寄せた妻史代は薄井家に招き入れた。次男まで籠絡する様子に薄井は苛立つが、奇妙なほど長峰のお告げは当たっており、美優樹まで手の内に入れてしまった。謝礼を拒絶した薄井を待ち受けていたのは想定外の事態だった。

 薄井は確かに猿だが、俺もその一種だ。ちなみに俺の干支は申である。対極に位置する薄井に妙な親近感を覚えてしまった。
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「ZK頭脳警察50~未来への波動」~知性と世界観で世界と対峙する

2020-08-02 22:02:13 | 映画、ドラマ
 ここ数年、〝板子一枚下は地獄〟と繰り返し記してきたが、新型コロナウイルスの蔓延で地獄の門は確実に広がった。倒産、リストラ、解雇の連鎖で日本は1年後、失業者が街に溢れているだろう。馴致されてきた日本人も羊の仮面をかなぐり捨てるのではないか。

 パトスが世界を炙っていた頃、頭脳警察はセンセーショナルに登場した。彼らの半世紀の軌跡を追った「ZK頭脳警察50~未来への波動」(2020年、末永賢監督)を新宿ケイズシネマで見た。1950年2月2日生まれのTOSHI(ドラム&パーカッション)、3日後に生まれたPANTA(ギター&ボーカル)は17歳の時に出会う。両者が紡ぐ空気が「ZK」の底に流れていた。

 8年前、仕事先の整理記者Yさんに誘われ「PANTA隊」の一員として反原発集会に参加した。俺にとって、ピート・タウンゼント(フー)、ロバート・スミス(キュアー)と並ぶロック界の3大イコンのひとりであるPANTAは〝カリスマ然〟とは無縁の気配りの人で、一期一会とばかりぶつけた問いに丁寧に答えてくれた。

 昨年5月、頭脳警察が音楽を担当した「野戦攻城~Nachleben揺れる大地」(花園神社水族館劇場)終演後、PANTAに挨拶すると、「フェイスブック、やってる? 繋がろうよ」と言われ、友達申請する。本来なら〝PANTAさん〟だが、バランスを取るため敬称は付けないことにする。

 TOSHIの素顔を「ZK」で知った。友川カズキ、故遠藤ミチロウらと共演し、福島泰樹の短歌絶叫ライブでも打楽器を担当している。リスペクトする3人との交遊してきたTOSHIにも親近感を抱いている。頭脳警察とは2つの強力な磁場によって形成されているのだ。アルバムの発禁と回収、ラディカルなパフォーマンスで頭脳警察は〝左翼の寵児〟になったが、パブリックイメージが重荷になったTOSHIは、「逃げた」と語っていた。1975年のことである。

 第1期頭脳警察の6枚のアルバムには「銃をとれ」、「赤軍兵士の詩」、「ふざけるんじゃねえよ」といったメッセージが前面に出ている曲も多いが、全般的にフォーク色が濃い。イケメンの若手3人を加えたことで、楽曲は肉付けされて分厚くなった。頭脳警察のファンである知人の女性はライブの楽しみが増えたと喜んでいたが、コロナ自粛が残念でならないという。

 PANTAは短期間、グループサウンズの一員だった。ウエスタンカーニバルではジム・モリソンに倣ったのか、詰め掛けた少女の前で性器を露出している。本作冒頭でワイルドワンズ、オックスのメンバーと対談していたが、スタンスの広さが荻野目洋子らへの楽曲提供、制服向上委員会のプロデュースにも表れている。

 頭脳警察は<パンクの魁>だが、ギターとパーカッションの編成はT・レックスそのものだ。PANTA&HALの「マラッカ」にマーク・ボランを追悼した「極楽鳥」が収録されているように、PANTAはグラムロック関連イベントの常連だ。5thアルバムのタイトル「仮面劇のヒーロー」は、PANTAが幾つものカラフルな素顔を隠していることを示している。

 ベルリンの壁崩壊の翌年(1990年)、頭脳警察は再結成する。「頭脳警察7」収録の「万物流転」には、15年を経ても何も状況が変わっていないことへの怒りを込められている。再々結成後も秀作を発表しているが、自主制作のライブ盤「狂った一頁」には感嘆させられた。同名の前衛映画(1926年、衣笠貞之助監督)の架空サントラで、日本的な情念に根差した詩を、変調を繰り返すサウンドに塗り込めている。言霊と音霊を併せて捉えたようなアルバムだった。

 別稿(19年9月25日)に詳述した最新作「乱破」収録曲が「ZK」の肝になっていた。PANTAは同作のお披露目ライブで「抹殺寸前だった頭脳警察が、なぜか生き残っている」とMCしていたが、知性と世界観が彼らを生き永らえさせた。しかも、今まさにフレッシュで、時代に即している。

 木村三浩氏(一水会代表)のコーディネートでPANTAはクリミア半島をツアーする。菊池琢己との「響」名義で発表した「オリーブの樹の下で」(07年)収録曲「七月のムスターファ」を通訳の紹介後に熱唱し、客席は沸いた。侵攻した米軍相手に1時間、銃撃戦を展開したサダム・フセインの14歳の孫ムスターファについて歌った曲である。ちなみにアルバムの他の曲は重信房子の詩がベースになっている。

 ♪世界はがらくたの中に横たわり かつてはとても愛していたのに 今僕等にとって死神はもはや それほど恐ろしくないさ さようなら世界夫人よ さあまた 若くつやつやと身を飾れ 僕等は君の泣き声と笑い声には もう飽きた

 「ZK」の掉尾を飾るのは「さようなら世界夫人よ」だ。PANTAはヘルマン・ヘッセの詩に自身の世界観を織り込んだ。世界夫人とは、そして死神とは……。現状を踏まえ、思いを巡らせている。半世紀前に発表された同曲の輝きが失せることはない。
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