酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「さよなら渓谷」&「太陽は動かない」~茫洋とした吉田修一の世界

2017-01-29 19:33:00 | カルチャー
 武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)代表の杉原浩司さんと話す機会があったので、「アイ・イン・ザ・スカイ」(1月8日の稿)の感想を聞いた。<映画としての出来はいいけど、現実はあれほど甘くないですよ>が答えだった。米英の軍や諜報機関はヒューマニズムと無縁で、ターゲットを攻撃する際、一般人を巻き込むことなど一顧だにしないというのが、杉原さんの見解だった。

 <自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類の遺産の文学作品を読まないと、人間は一人前にならない>……。仕事先の夕刊紙で紹介されていた黒澤明の〝名言〟だが、説得力はあまり感じない。半世紀近く小説を読み続けた俺だが、一人前には程遠い。文学とは人生の深奥を彷徨う旅で、読み込むほどに闇は密度を増していく。

 <敗戦とともに始まった文学の黄金期は1980年代に終わった>という〝迷信〟から解き放たれたのは、平野啓一郎の「決壊」がきっかけだった。俺はこの数年、日本文学の豊饒な海に抜き手を切っている。上記の平野、池澤夏樹、星野智幸、中村文則、島田雅彦、奥泉光、阿部和重etc……。出会えた魚(作家)たちについて記してきたが、吉田修一もそのひとりだ。

 昨年末までに読了した小説は「路(ルウ)」(12年)と「森は知っている」(15年)の2作のみ、映画「悪人」(10年)はピンとこなかった。今年に入ってWOWOWで録画した「さよなら渓谷」(13年、大森立嗣監督)を観賞し、「太陽は動かない」(12年、幻冬舎文庫)を読む。感想を併せて記したい。

 「さよなら渓谷」は愛の深淵を描く傑作だった。山あいの景勝地にひっそり暮らす尾崎俊介(大森信満)とかなこ(真木よう子)は、男児殺害事件の喧噪に巻き込まれる。逮捕されたのは隣に住む母親で、彼女との関係が疑われた俊介にも捜査の手は伸びる。

 俊介とかなこの回想の旅行きシーンが秀逸で、畢竟の名作「情婦マノン」(1948年、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)に通じるものを感じる。かなこの絶望、狂気、稚気が蒼い焔になって寂寥たる光景に貼り付いていた。不器用に赦しを乞う俊介は大森のハマリ役で、「赤目四十八瀧心中未遂」の与一を彷彿させる。

 夫婦の過去と現在を追うのが、俊介に自分を重ねる雑誌記者の渡辺(大森南朋)と部下の小林(鈴木杏)だ。両者の好演も本作を支えている。「私たちは幸せになろうと思って一緒にいるんじゃない。私が決めることなのよね」……。こう言い残してかなこは消える。贖罪の意識を愛に昇華した俊介の旅は、エンドロールの後も続くのだ。

 「太陽は動かない」は壮大な群像劇だ。本作のスピンオフ(前日譚)、「森は知っている」で少年だった鷹野一彦が縦横無尽に駆け回る。吉田修一に馴染んでいない俺は、「さよなら渓谷」と「太陽は動かない」の整合性が見いだせない。「怒り」(16年)で映画化7本目になる吉田は、純文学の枠を超えた作家なのだろう。

 福島原発事故が色濃く反映した「太陽は動かない」のメーンテーマは、太陽光発電を巡る日中米の暗闘だ。鷹野は明晰な頭脳、直感、強固な意志、強靭な肉体で窮地を脱し、甘さが残る田岡も鷹野の下で鍛えられていく。「路」では新幹線を軸に日本と台湾を洞察していたが、中国が舞台になる本作では、必然的にスケール感がアップしている。

 香港の銀行頭取、中国の国営エネルギー会社幹部、ウイグル独立を目指す女闘士、日本のエネルギー分野を牛耳るドン、マイクロ波研究の第一人者(京大教授)、画期的な太陽光パネルを開発した若者、大手電機メーカー役員、若手衆院議員、中国の少壮政治家……。多岐にわたる個性を造形し、歯車として軋ませながら物語を編む吉田の構想力に感嘆するしかない。愛とはいわないが、〝愛未満〟もちりばめられていた。

 少年時代から鷹野のライバルだったデイビッド・キム、謎の美女AYAKO、CIA、中国の闇社会黒幕らも暗躍する。冷酷な組織原理に貫かれているかに見えるAN通信だが、鷹野、上司の風間、田岡の3人は疑似家族の匂いがある。カタルシス、癒やし、予定調和的な匂いを感じるのは、作者の嗜好の反映だろう。

 日本では難しそうだが、「ミッション:インポッシブル」のスタッフなら、設定を多少変えての映画化は可能だと思う。鷹野役には心身ともに強靭さが求められる。徴兵制度で鍛えられた韓流スターなら大丈夫だ。
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「ポバティー・インク」&「0円キッチン」~週末はドキュメンタリーに親しむ

2017-01-25 23:14:38 | 映画、ドラマ
 松方弘樹さんが亡くなった。スケールの大きい名優の死を心から悼みたい。時代劇のスター、釣り師、スキャンダルの主役と様々な貌を持つ松方さんだが、スクリーンでの暴れっぷりが記憶に焼き付いている。「県警対組織暴力」、「沖縄やくざ戦争」も必見だが、白眉というべきは「北陸代理戦争」だ。狂気と清冽な愛が迸るピカレスクで、深作欣二監督にとってはヤクザ映画の集大成になった。

 睡眠障害気味の日々が続いている。早めに眠くなり、床に就くと目が冴えてくる。おまけに頻尿で寝たという実感がないまま、朦朧と朝に迎える。これも年のせいだ。<高齢者の定義を75歳に引き上げるべき>との日本老年学会の提言に基づき、年金支給を70歳とする案が検討されている。競馬に例えれば、ゴール板(65歳?)を過ぎた後も止まれないということか。

 先週末は老骨に鞭打ち、映画をハシゴした。ともにユナイテッドピープル配給のドキュメンタリーである。1本目は「ポバティー・インク~あなたの寄付の不都合な真実」(14年、マイケル・マシスン・ミラー監督)で、ソシアルシネマクラブすぎなみの第13回上映会(高円寺グレイン)にラインアップされていた。

 本作はサブタイトル通り、善意による寄付が、当該国を貧困のまま留め置いていることを明らかにしている。大地震の被害を受けたハイチには、大量の米国産米が寄付として送られてきたが、常態化したことで当地の米作は崩壊する。アフリカでも同様で、援助物資の大量流入が、各国の農業を成り立たなくしている。

 善意で始めたNGOが、結果として国連、IMF、世銀、グローバル企業とともに巨大な<貧困産業>を形成する。国の構造を変え、進歩を促すべきなのに、善意の押し付けによって途上国の成長はストップし、貧困のスパイラルが起きる。本作で槍玉に挙がっていたのは、ボノ(U2)、いや、彼に代表される金満の慈善家たちというべきか。

 貧困からの抜本的な脱却を主張するアフリカの活動家たちから「貧困産業に手を貸すのはやめてくれ」と訴えられていた。親族がアフリカ産原料を配合して作った化粧品メーカーを経営しているボノが、反グローバリズム、反資本主義の側に立って、アフリカの真の発展に寄与するのは難しい。とはいえ、彼の善意を否定する気にもなれない。

 米国の貧困を扱ったドキュメンタリーで、会社をリストラされたシングルマザーが以下のように証言していた。<子供を連れて訪れた施設を運営していたのが、私をクビにした会社だったんです>と。リストラによって経費を削減した会社が、貧困層支援によって税金を軽減する。この構図は、「ポバティー・インク」で描いたことと変わらない。

 夕方、アップリング渋谷で「0円キッチン」(15年、ダーヴィド・クロス監督)を見た。オーストリア生まれのジャーナリストで食材救出人のダーヴィドが欧州5カ国を回るロードムービーである。ちなみに、本作は俺にとってクラウドファンディング初体験だった。

 世界で生産される食料の3分の1(13億㌧)が廃棄されているという現実にショックを受け、ダーヴィドは製作に取りかかった。13億㌧とは想像を絶する数字だが、「ポバティー・インク」を見る限り、その量はもっと増える可能性もある。経費を考えて作られず、流通に乗らない〝食料未満〟を有効に活用したら、食糧危機への道筋も見えてくるのではないか。

 映像に親近感と既視感を覚えた。日本人、いや俺自身の日常と重なる部分もあるからだ。とっくに賞味期限が切れた食品が冷蔵庫の奥にあったり、逆に期限切れにこだわって簡単に捨てたり……。ダーヴィドはスーパーで売れ残った食材で料理を作り、道行く人に振る舞っていた。

 「ポバティー・インク」がヘビーな内容だったせいか、コミカルでエンタメの要素もある「0円キッチン」で緊張が緩んでくる。ふかふかのアップリングの椅子は〝導眠剤〟で、記憶が途切れた部分もあった。旧ユーゴ紛争で飢えを体験した人の「食べられないものはない」という言葉が記憶に残っている。

 日本でも見栄えが悪いと商品にならないケースがある。ダーヴィドはドイツで規格外の野菜を調理してパーティーを開き、フランスでは放流される小さな魚を使った料理を船員たちに振る舞っていた。オランダが進める昆虫食が世界規模で実現すれば、飢餓克服の一助になる。適正な飼育で健全に生長した家畜が、人間にも好影響を及ぼすという<ウェルフェアフード>を実践する養豚家も紹介されていた。

 意識を変えることで食は文化たり得ることを、本作で再認識する。グローバリズムを克服すべきミニマリズム、ローカリゼーションと同じ地平を、ダーヴィドも見据えているのではないか。

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「漱石事件簿」&「坊っちゃんのそれから」~漱石スピンオフを堪能する

2017-01-22 22:27:32 | 読書
 混乱のさなか、トランプが大統領に就任した。WWEに毎週登場していた頃(2007年1~4月)のように、〝演じている感〟が拭えない。大統領を操ってきた米支配層にとってトランプは次善の策で、絶対に阻止したかったのはサンダース大統領だった。

 トランプ反対派は4年後に目を向けてほしい。〝富豪ヒラリー〟は、ミニマリズム、脱成長、ローカリゼーション、地産地消、分散型資本主義を志向し、格差と貧困の是正を求める人々を吸収出来なかった。サンダース革命を継承する候補が遠からず勝利することを願っている。

 漱石スピンオフを堪能した。コミック「漱石事件簿」(原作・古山寛、作画・ほんまりう/新潮社)と、「坊っちゃんのそれから」(芳川泰久、河出書房新社)である。両作と時代背景が重なる「許されざる者」(辻原登)を昨年末(12月27日)に紹介したが、3作すべてに登場するのは幸徳秋水である。

 幸徳と大逆事件への距離感はそれぞれ異なるが、100年前は現在の日本を見据える上で大きなヒントになる。共謀罪は大逆事件の先にある治安維持法の21世紀版といえる。当時は天皇神格化が加速していたが、天皇の退位問題は平和憲法下の皇室の在り方を考えるテーマだと思う。

 発刊当時、大学時代のサークルの先輩に借りて「漱石事件簿」を読んだ。すでに絶版になっており、仕事先で週1回、顔を合わせる同業者(校閲者)に頼み、アマゾン経由で入手した。四半世紀を経て再読し、感銘を覚えた。漱石と同時代を生きた歴史的人物が組み込まれた4編から成るメタフィクションで、南方熊楠の活躍が目覚ましい。

 英国留学時の2編にはコナン・ドイルが登場する。物事を怜悧に抉るシャーロック・ホームズと対照的に、生みの親は超常現象に憑かれ、歴史の改竄に手を染めていた。第3萹「団子坂殺人事件」には江戸川乱歩が登場する。若い男女を殺めた疑いを持たれた黒田清隆は、「静かな大地」(池澤夏樹)で苛烈なアイヌ弾圧を告発されていた。黒田は国を私物化した元勲のひとりで、明治維新の意義を考えさせられてしまった。
  
 <漱石のピークは「それから」で、以降は読む意味はない>と記してきた。「それから」では社会主義者を追い回す警察を嗤っていた漱石だが、乃木希典の殉死にインスパイアされて「こころ」を書いた。この〝落差〟を後退と見做していたが、第4萹「明治百物語」を再読し、別の側面に思い至る。

 1911年、小日向養言寺で百の物語を語る会が開かれ、語り終えた時、魔物が現れるという完全なフィクションだが、漱石だけでなく居合わせた者は、その正体――第2次大戦まで国を突き動かす時代の空気――に気付いていたという設定である。漱石は沈黙する道を選んだが、社会主義に傾倒していた芥川龍之介は一番弟子で、幸徳にる心酔していた石川啄木に便宜を図っている。引き裂かれた漱石の懊悩が描かれていた。

 「坊っちゃんのそれから」は、松山中学を辞めた坊っちゃん(多田)と山嵐(堀田)が東京駅に着いた場面から始まる。冒頭に登場する掏摸(徳太郎)と刑事(苗場)は重要なバイプレーヤーで、最後まで重要な役割を担っている。二人の人生はもつれ合いながら交錯するが、結び目になるのは吉原と社会主義だ。

 多田は不動産会社社員、印刷工、街鉄の運転手と転職を重ねる。一方の堀田は、牧場で働いた後、富岡製糸場の寮監になり、消えた女工を追って上京し、掏摸を生業にしながら政治活動に邁進する。興味深いのは、<独身男性が1年に何回、吉原に足を運ぶのか>といったデータがストーリーに織り込まれている点だ。ともに正義感が強く、一本気な多田と情に脆い堀田は知らないうちに三角関係になっていた。

 日露戦争に熱狂する民衆が、成果ゼロの講和条約に怒りをぶちまけ、東京は騒乱状態に陥る。政府への不満と生活の困窮から社会主義が浸透する中、多田は公安刑事、堀田は幸徳の同志になって対峙する。「漱石事件簿」では不当な弾圧として描かれていた大逆事件だが、「坊っちゃんのそれから」には権力側の視点も描かれていた。

 敵味方になった多田と堀田だが、松山で培った友情に変化はない。堀田は多田の窮余の一策に命を救われる。明治を俯瞰で捉えつつ、不変で普遍の愛と友情を謳う「坊っちゃんのそれから」は「漱石事件簿」、そして「吾輩は猫である殺人事件」(奥泉光)らと並ぶ漱石スピンオフの傑作といえるだろう。
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「幸せなひとりぼっち」~愛と老いの意味を問う物語

2017-01-18 22:52:33 | 映画、ドラマ
 65歳になったら、ブログのタイトルの〝浪人〟を〝老人〟に変えるつもりだったが、先を越された。日本老年学会は政府と阿吽の呼吸で、<高齢者の定義を65歳から75歳に引き上げるべき>との提言をまとめた。75歳になるまで老人にしてもらえないらしい。<国民は年金抜きで死ぬまでこき使う>が本音で、フリッツ・ラングのデストピア「メトロポリス」(1927年)そのままの奴隷制が日本の未来か。

 なんて書くと、「おまえはアホか」との声が聞こえてきそうだ。アベノミクスの崩壊、格差と貧困の拡大、生存権を脅かす原発の再稼働、風前の灯になった憲法と民主主義……。俺如きがいくら安倍内閣批判を繰り返したところで仕方ない。支持率は67%にも達している(JNNの世論調査)。寒風にそよぐ少数派は、俺だけじゃないだろう。
 
 前稿「The NET 網に囚われた男」に続き、新宿シネマカリテで「幸せなひとりぼっち」(16年、スウェーデン)を見た。ベストセラ-小説の映画化で、ハンネス・ホルム監督が脚本も担当している。孤独な中高年が小さなきっかけでカラフルな世界の扉を開けるというパターンは、「おみおくりの作法」、「孤独のススメ」(ともに13年)と共通している。ヨーロッパ映画のトレンドかもしれない。

 「幸せなひとりぼっち」の主人公オーヴェ(ロルフ・ラスゴード)は気難しく頑固で、口癖は「馬鹿者」だ。オーヴェはある朝、43年勤めた鉄道局をクビになり、懇願することもなく職場を去る。俺より老けて見える(と勝手に思っている)ものの、歩くスピードは速いし、生活の知恵に溢れていて、近所であれこれ修理を頼まれている。

 日本で俺みたいな還暦前後の男がリストラされたり、減給を言い渡されたりしたら、下流老人一直線だ。でも、舞台はスウェーデン。失業したって家も愛車サーヴも失わないし、病気になっても安泰だ。オーヴェの威厳の源泉は、高福祉にあるのだろう。

 攻撃的に映るオーヴェだが、妻の墓前で「すぐそっちに行くよ」と語り掛けるように、内面は弱っていた。自殺を試みるも、家の近くが騒がしくて頓挫した。イラン人一家が隣に引っ越してきたのだ。パルヴァネ(奥さん)が差し入れてくれたペルシャ料理がおいしかったこともあり、オーヴェは一家と親しく付き合うようになる。

 現在の孤独、そして少年時代から、妻ソーニャとの出会いと不幸な事故……。時間の糸が紡がれて、オーヴェの心情が浮き彫りになっていく。オーヴェはブルーカラー、ソーニャは教師志望とタイプは異なるが、恋に落ちるのは早かった。可憐なイーダ・エングヴォルは、高邁な意志を持つソーニャを演じ切っていた。ストーリーが進むにつれ、オーヴェこそがソーニャの最高の生徒であることが明らかになる。

 オーヴェは車椅子生活を余儀なくされたソーニャが夢を叶え、維持するため、心血を注いだのだろう。ソーニャの死は、自身の夢の終わりでもあった。喪失感は大きかったオーヴェだが、<ソーニャならどうするだろう>といつも考えていたはずだ。

 前半のオーヴェを見て、「移民が嫌いだろう」と決めつけていたが、真逆の寛容な人間だった。パルヴァネの波瀾万丈の人生に心を寄せているし、捨て猫もゲイの青年も迎え入れる。もう一つの長所は反骨精神で、役人や高級車を乗り回す者が「馬鹿者」の筆頭格なのだ。<仏作って魂入れず>の福祉国家の負の側面も描かれており、かつての親友に、恩讐を超えて手を差し伸べる。命の尊厳こそが最高の価値だとオーヴェに教えたのも、ソーニャだったはずだ。

 この1カ月、カナダ生まれのシンガーたちの作品を繰り返し聴いていた。レナード・コーエン(享年82)の遺作「ユー・ウォント・イット・ダーカー」は静謐なレクイエムで、モノローグが心に染み込んでくる。ニール・ヤング(71)のメッセージ性を前面に押し出した「ピース・トレール」からは、〝俺はまだ死なんぞ〟という気概が伝わってくる。

 オーヴェと同世代の俺は本作を見て、今後いかに生き、死ぬべきか考えてしまう。今は腰がふらついているが、10年後はニール・ヤングのように熱く、20年後はレナード・コーエンのように枯れることができたら最高だ。

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「The NET 網に囚われた男」~朝鮮半島の痛み、叫び、慟哭

2017-01-15 22:00:05 | 映画、ドラマ
 プレーオフに突入したNFLを、ようやくリアルタイムで見られるようになった。応援しているシーホークスはファルコンズに完敗したが、GAORA撤退でこの間、ご無沙汰だった〝NO・1解説者〟村田斉潔氏のジータス初登場はグッドニュースである。氏率いる龍谷大は3強(関学、立命、関大)に次ぐ関西4位と地歩を固めつつある。

 NHK杯将棋トーナメント3回戦で、佐藤天彦名人が渡辺明竜王との頂上決戦を制した。相穴熊で手数は141手だったが、佐藤が中盤以降、終始リードしていたように思う。〝両雄並び立たず〟というが、解説の村山慈明NHK杯によれば、両対局者は仲が良く、渡辺宅で頻繁に研究しているという。対局後は村山を含め、3人で飲みにいったに相違ない。

 台湾立法院で「脱原発法」が可決された。2025年までに全ての原発が停止され、再生エネルギーの比率を20%に高めるという(現在は4%)。福島原発事故後、反原発を訴える国民の思いが実を結んだ台湾、再稼働と輸出に邁進する日本……。両国の違いはどこにあるのか。

 台湾の反原発デモは日本より遥かに大規模で、アイドルや俳優が道行く人に笑みを振りまいていた。別稿(昨年12月24日)に記した通り、髙野孟氏は3・11後、反原発を主張したら、広告代理店の指示を受けたテレビ局にレッドカードを突き付けられた。他のテーマ(戦争法など)でも構図は変わらない。台湾と日本には、自由において決定的な差があるようだ。

 釜山の従軍慰安婦像設置で再度、日韓の亀裂が深まった。歴史認識を棚上げにした〝妥協〟の無意味さが露呈したといえるだろう。日本が戦前、アジア各国に残した傷痕を、金で換算するのは難しい。新宿シネマカリテで見た「The NET 網に囚われた男」(16年、キム・ギドク監督)も、日本と朝鮮半島を巡る歴史と無縁ではない。

 ギドク作品を紹介するのは「嘆きのピエタ」(12年)以来、2度目になる。「The NET 網に囚われた男」も人間の深淵に迫り、魂を揺さぶられる傑作だった。ギドクの映像は暴力的で、時にグロテスクでさえあるが、本作は〝血〟の色合いが薄まった分、奥行きが広がり、分断された朝鮮半島が後景に聳えていた。
 
 北朝鮮の寒村で妻子と慎ましく暮らすナム・チョル(リュ・スンボムが主人公だ。漁業を営むチョルは、些細な事故で韓国に流れ着いてしまう。韓国側がチョルを疑うのは無理もなかった。拷問も辞さずに自白を迫る取調官、北への再潜入もしくは亡命を提案する室長や上司など、チョルへの対応に差があった。国民皆兵の北朝鮮ゆえチョルが強靭な心身を有することも、スパイ疑惑を強める結果になった。

 諜報機関で若きオ・ジヌ(イ・ウォングン)だけが、個としてチョルに接する。漂着がアクシデントであることを理解し、体制より家族を大切にする心情を察知したジヌは、チョルの防波堤になる。ここでクローズアップされるのが朝鮮戦争だ。戦争で肉親を亡くした取調官は北への憎悪を隠さず、ジヌはチョルの話し方に北朝鮮出身の祖父を重ねていた。

 本作のハイライトは、<資本主義の甘い蜜>を体験させようと、諜報機関がチョルをソウル一の繁華街(明洞)に置き去りにするシーンだ。<私は何も見ない。心に何も残らないから、(帰っても)話すことはない>と誓ったチョルだが、雑踏の中、瞑った目を開けざるを得なくなる。押し殺してきた感情の根っ子に、導火線が点された。

 家族のために体を売らざるを得ない娼婦と出会い、チョルは繁栄の影に気付く。「金がなければ、ここは地獄。自由はない」という女の言葉が<資本主義の矛盾>を物語っていた。妻子を利用した北からの帰国呼び掛けが世界に発信され、政治問題化したことで、チョルの運命は決まった。支給された衣服を海に捨て素裸で帰ったチョルは、歓迎セレモニーの後、保全部に送られる。

 <漁師である私は、網にかかった魚が絶対逃げられないことを知っている>……。こう独白したチョルは、南北の、しかも有刺鉄線で編まれた二重の網に絡め取られて身動き出来ない。自身を解き放つ手段は一つしかないのだ。感情の発露を含め、チョルは〝資本主義ウイルス〟に伝染したのだろうか。妻(イ・ウヌ)の涙が、チョルの微妙な変化を表していた。

 痛み、叫び、慟哭が詰まった本作は、別稿(1月8日)で今年のベストワン候補に挙げた「アイ・イン・ザ・スカイ」に引けを取らない。ギャンブル運は最悪だが、映画の女神は俺に微笑んでいるようだ。

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平尾誠二とデヴィッド・ボウイ~召されし者の光芒

2017-01-11 21:44:50 | カルチャー
 冷たい風雨に凍えながら今年の初笑い、「新春若手花形落語会」(8日、練馬文化センター大ホール)に足を運ぶ。桃月庵白酒「首ったけ」→春風亭一之輔「千早ふる」→柳家喬太郞「稲葉さんの大冒険」の順で高座は進んだ。白酒は包容力、一之輔は才気、喬太郞は柔軟性というのは大雑把な色分けだが、いずれも毒と牙を隠し持っている。いずれ劣らぬ名演に時が経つのを忘れた。

 昨年末に録画しておいた「〝ミスターラグビー〟平尾誠二の軌跡~世界に挑み続けた男」(BS1)、「デヴィッド・ボウイの愛した京都」(8日、WOWOW)を続けて見た。番組をベースに、追悼の思いを記したい。

 母校愛、会社愛とは無縁で帰属意識が希薄な俺だが、郷土愛だけは人並みだ。1980年度の高校選手権では、伏見工の快進撃に胸を躍らせた。主将を務めた平尾にとって、山口良治(伏見工)、岡仁詩(同志社大)に出会えたことが大きかった。山口からは情とリーダーシップ、岡からは個の尊重とゲームメークを学んだ。

 平尾は同大時代から〝メディアの寵児〟だった。当時、自身の哲学や美学を語るスポーツ選手が日本にいなかったことが大きい。19歳4カ月で代表入りした平尾は、松尾雄治を瞠目させる。松尾は「報道ステーション」で以下のように語っていた。

 <自分もラグビーの〝常識〟や〝決め事〟に縛られていたが、代表の合同練習で平尾と初めて会った時、「個々が自由にプレーし、周りが合わせていくようなスタイルじゃないと、世界に通用しない」と話し掛けてきた。この男、ただ者じゃないと衝撃を受けた>(要旨)……。平尾に重なるのはヨハン・クライフである。

 平尾のアンビバレンツを最も理解していたのはカメラマンの岡村啓嗣だった。「平尾の目は知的な要素、激しさ、悲しみを湛える狼の目。彼の目以上に奥深さを感じた人に会ったことがない。だが、一番の魅力は笑顔>と岡村は語っていた。平尾にフランスの名選手の言葉「ラグビーは少年をいち早く大人にして、大人に永遠の少年の魂を抱かせる」を重ねていたが、ラグビー協会会長を10年務めた森元首相の目に宿るものは果たして……。

 代表監督としてW杯に赴く際、平尾は「自立した自由な個が、チームとしてまとまる形を示して、日本の社会を変えるきっかけになれば」と語っていた。残念ながら結果は伴わなかったが、志向したことは間違っていない。平尾はあの世で、<自由からの逃走>が著しい現実を憂えているに違いない。

 1970年代から80年代にかけて、京都で流布していた都市伝説があった。デヴィッド・ボウイを嵯峨野で見かけたという噂が真実であったことを「デヴィッド・ボウイの愛した京都」で知る。山本寛斎(デザイナー)、鋤田正義(カメラマン)、高橋靖子(スタイリスト)らが証言したように、ボウイは魂の奥深くで日本、とりわけ京都と繋がっていた。

 16歳のボウイはチベットの高僧チメ・リンポチェ師を訪ね、出家したいと切り出した。アーティストの道を勧めた師は、ボウイは一貫して仏教徒であり、国からの勲章を拒絶するなど、労働者階級としての矜持を保っていたと語る。ボウイは常に脱皮を繰り返した永遠の蛹だった。アメリカに渡った時、師は「物資文明の象徴といえる場所でなぜ」と疑問を抱いたというが、変化するための必然の道筋だったのだろう。

 「京都に恋をした」ボウイには定宿があり、市井の人たちと積極的に交流した。<穏やかで優しく、笑顔が美しい人>というのが、彼らの記憶に残るボウイ像だ。武田好史氏(日本家)は、<ボウイは次の一歩が死へのダイブになりかねない、前人未踏の地点を歩み続けた。死への通路が無数に用意されている京都の魔力に惹かれ、同時に生を実感していたのではないか>と語っていた。

 ボウイが足繁く通ったのは、東洋文化のオーソリティーで、美術品の蒐集家でもあったデヴィッド・キッドの邸宅「桃源洞」だった。亜空間、小宇宙といっていい桃源洞に、表現者、高僧、内外のアート関係者が集った。ボウイもその一人で、受けた刺激を創作に生かした。大徳寺の泉田住持は、ボウイが桃源洞で学んだ中で最も意味があったのは、禅の根底を成す<自由への希求>ではないかと語っていた。

 平尾とボウイを繋ぐのは京都であり、自由への限りない憧憬だ。一閃の光芒は永遠に煌めき続けていく。
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早くも今年のベストワン?~「アイ・イン・ザ・スカイ」の衝撃

2017-01-08 10:18:09 | 映画、ドラマ
 上場廃止が囁かれる東芝だが、原発&武器の輸出で安倍政権を支える〝国営企業〟ゆえ、救済されるとみる識者もいる。倒産を免れ、大規模なリストラ、賃金カット、下請け切り捨てを断行すれば、多くの労働者が苦境に追い込まれる。そして、株式評論家は「買い時」と囃し立てるだろう。おぞましい仕組みに俺たちは組み込まれている。

 おぞましいといえば国連安全保障理事会で、日本は<南スーダン武器禁輸決議>を棄権した。常任理事国が先頭に立って武器を世界に蔓延させている国連など一切信用していないが、今回の決議案が可決されれば限定的な効果はあったと思う。<駆け付け警護を円滑に進めるため、スーダン政府を刺激したくない>との棄権の理由は人道に反している。

 日本政府はニュージーランドへの哨戒機と輸送機の輸出に舵を切った。南スーダン問題、日本とイスラエルとの武器を巡る連携などに対し、先頭に立って抗議活動を展開している武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)代表の杉原浩司さんに、「ドローン・オブ・ウォー」(米、14年)を薦められていたが、未見のままだ。同じくドローンを扱った「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」(英、15年)を先日、日比谷で見た。今年の映画初めである。

 本作の背景にあるのが<戦争の新しい形>だ。一昨年夏、戦争法への抗議集会で語られていた戦争像に違和感を覚えた。日本人の多くが参加するのは<20世紀タイプ>の白兵戦ではなく、離れた場所からボタン一つで殺傷する<21世紀タイプ>の戦争ではないかと考えていたからである。人を狂気に誘う点は、〝ゲーム感覚の戦争〟でも変わらないだろうが……。

 <21世紀タイプ>では情報収集と分析が重要になる。基地で指示を受け、ボタンを押し、映像で〝成果〟を確認した後、家に戻って団欒を楽しむ……。「アイ・イン・ザ・スカイ――」でおぞましいルーチンワークを妨げたのは無邪気な少女だった。

 米英同盟が本作の前提だ。英国人夫婦と米国籍の男性をテロリストと指定する両国は、その動向を協力して追っている。ケニアの首都ナイロビに結集した3人を拘束すべく、テレビ回線で繋がった計5カ所――ロンドンの統合司令部と国家緊急事態対策委員会、アメリカのホワイトハウスとネバダ州の空軍基地、真珠湾の画像解析班――で協議している。

 高度6000㍍から地上を監視する米軍の最新鋭機、現地諜報員が操る虫型の2機のドローンが、ナイロビの3人をリアルタイムで捉える。協議のイニシアチブを握る英軍のキャサリン・パウエル大佐(ヘレン・メリル)は最強硬派だ。刻々と状況が変化する中、〝捕獲〟から〝排除〟に変更された。ターゲットに米国人が含まれていることもあり、シビリアンコントロールの観点から、法の逸脱に疑義を唱える声が上がる。

 白熱する議論に羨ましさを覚えた。世界観、正義、良心、倫理が軒並み死語になり、暴力への忌避感が薄らいだ日本では、上意下達が幅を利かせ、司法とメディアは権力に屈している。本作では英外相、米国務長官まで巻き込んだ末、結論に至り、実行指令がドローンを操作するネバダ基地にスティーヴ・ワッツ大尉(アーロン・ホール)に届く。

 緊迫感と密度が増すのはここからだ。「3・2」……。だが、ワッツは発射ボタンを押さない。攻撃ポイント近くでパンを売る少女の姿を見つけたからだ。この少女は冒頭にも登場し、フラフープに興じていた。

 命令に背く形になったワッツは、学生時代のローン肩代わりを条件に入隊したという設定だ。山本太郎参院議員の<戦争法と若者の貧困は無関係ではない>という主張が重なった。命の尊さに立脚したワッツの反抗が波紋を広げる。少女だけでなく、着弾が引き起こす民間人の殺傷を軽視していた上層部の〝氷〟が溶けていく。キャサリンさえ、国益と人道の狭間で惑うのだ。

 鋭く深いテーマとエンターテインメントが両立していた。完璧なシナリオと工夫された映像で1時間42分、緊張が途絶えることはない。観賞しながら、正義とは何かと、脳をフル回転させて自問自答していた。気が早いが、「アイ・イン・ザ・スカイ」は年間ベストワン候補である。

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「愛の夢とか」~孤独と喪失の糸で紡がれた物語

2017-01-04 22:53:15 | 読書
 強烈な初夢だった。薄暗い倉庫内に佇む俺の前に、ベッドが搬入されてくる。寝ているのは何と、冷凍保存された自分自身ではないか。暗証番号をインプットすると解凍される仕組みらしいが、思い出せない。焦っているうちに目が覚めた。

 寝正月を地でいく年明けだった。チャンネルを替えながらテレビを眺めていたが、元日夜に放映されたNHKスペシャル「トランプのアメリカ~世界はどうなる」は興味深い内容だった。白人中間層を重視すると主張して当選しながら、〝ウォール街の錬金術師〟を次々に閣僚に据えるなど、「トランプの動向は予測不能」と専門家は口を揃える。

 トランプ勝利の欧州への波及に、〝知の巨人〟ジャック・アタリが警鐘を鳴らしていた。アタリは著書「21世紀の歴史」でAIGとシティー・グループを絶賛し、労働者に優しいフランスの伝統を一刀両断するなど、グローバリズムの旗振り役だ。ポピュリズムと排外主義を批判するのは当然だが、グローバリズムを克服する<ローカリゼーション>、<分散型資本主義>、<脱成長とミニマリズム>を一顧だにしていない。

 麻雀に興じたり、猫のミーコと遊んだり、瞬く間に時は過ぎ、帰りの新幹線でようやく「愛の夢とか」(川上未映子著、講談社文庫)を読了した。川上の作品を紹介するのは「ヘヴン」、「すべて真夜中の恋人たちへ」に次いで3作目だ。「ヘヴン」が追求した絶対的な純粋さ、「すべて――」に描かれた希望と背中合わせの淡い絶望……。両作の色調が「愛の夢とか」にちりばめられていた。

 7作の短編が収録されているが、読み進むにつれて濃度は増し、♯7「十三月怪談」は愛の意味を突き付ける。1作を除き3・11後に発表されたこともあり、孤独、別離、喪失感が主音になっている。とりわけ感銘を覚えた3作について記したい。

 まずは♯4「日曜日はどこへ」から。惹かれたのは設定だ。「ヘヴン」の主人公である僕とコジマは7年後(1999年)の再会を約束していた。「日曜日はどこへ」は、作家の死を伝えるニュースから始まる。主人公の女性はかつての恋人との約束を思い出した。ともにファンだった二人は、その作家が死んだら思い出の場所で会うことを誓う。14年前の約束を彼は覚えているだろうか。

 「ヘヴン」で斜視の手術をした僕は、<はじめて世界が像を結び、世界には向こう側があった>と慨嘆する。コジマを失った僕は、世界を獲得したのだ。「日曜日はどこへ」は<誰も知らない世界なんて、どうやったって辿りつけるわけがなく、そんな場所はこの世界のどこにもありはしないのだ>というモノローグで結ばれる。10代と30代では見える景色が変わってくるのだ。

 ♯6「お花畑自身」はアイデンティティーを巡る寓話といえる。主人公の女性は豪邸を丹精込めて整えていた。子供がいない彼女は趣味もないから、自分の感性を全て家に注ぐ。とりわけ花畑が彼女の自慢だった。夫が経営する会社が破産し、家を売らなければならなくなる。買い手として姿を現した女性は、彼女にとって悪魔だった。

 淡々と綴られる彼女の家への思いは、川端康成の登場人物の如く狂気の色を帯びてくる。純度が高まるほど、愛は狂気に近づいていく。<それからあなた、あなたにも言いそびれておりましたが、わたしは悪魔ではありません>……。買い手と鉢合わせした彼女の言葉で閉じられた先、何が起きたかは読者の想像に委ねられている。

 ♯7「十三月怪談」は死と生を繋いでいる。時子は難病で死に、夫の潤一がひとり残されたマンションに、時子の魂も居残っている。もちろん、言葉を交わすことも触れ合うことも出来ない。死後も潤一を深く愛する時子、そして悲嘆にくれる潤一……。だが、少しずつ潤一の生活に変化の兆しが表れる。

 生死を超えた愛が、ズシリ心に響いた。だが、地震で時空にバイアスが掛かったせいなのか、それともパラレルワールドに迷い込んだのか、時子の見た光景と、後半で語られる潤一の生涯に食い違いを覚える。近いうちに知人に貸して、読み解いてもらうつもりだ。

 川上は女性としての繊細さと生理を最も感じる作家で、がさつで女心を読めない俺にはハードルが高いというのが実感である。とはいえ、読み初めには相応しい作品だった。
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<人と人を繋ぐ>、そして<減量>~年頭の目標は達成不可能?

2017-01-01 13:18:02 | 独り言
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。新年早々、屁理屈はこねたくないので、簡潔に記したい。

 年末年始はいつも通り、従兄弟宅(南丹市)に泊まり、母が暮らすケアハウスに通っている。年末はテレビで格闘技を満喫した。ボクシングでは才能を見せつけた井上を筆頭に、それぞれ最強のインファイターを退けて、小国が王座奪取、田口が防衛を果たす。後楽園ホールに足繁く通っていた80年前後から大きな進歩を遂げた。相手との距離の取り方やパンチのかわし方は世界標準で、他の試合を含め感嘆させられた。

 最も衝撃的だったのは「RIZIN」(29、31日)の那須川天心だ。無敗のキックボクサーでムエタイ王者も倒した18歳が、経験のない絞め技で勝利を収める。容姿、筋肉、実力を兼ね備えた中井りんにも瞠目させられた。UFCにも参戦したこともある中井は、WWEで活躍中のASUKAとともに、セルフプロデュースに長けた女性格闘家なのだろう。

 還暦を迎えて最初の年越しだが、実感がない。60年を走り抜いた方はともかく、手抜き、寸止めで生きてきた俺は〝残尿感〟を覚えている。ささやかな蓄積をこれから形に出来ればと考えている。

 一年の計は元旦にあるという。昨年の目標は<人と人を繋ぐ>だったが、達成度は100点満点で10点。あちこちに分散する<点>には出会えたが、一期一会で終わり、<線>にはならなかった。人を繋ぐとは営業と同じで、アイデア、気遣い、忍耐力が試される。自身の力不足を痛感する日々だ。

 日本が抱える最大の問題点は、森達也氏が主張するように集団化だと思う。〝中立を是とし、はみ出さない〟が社会の主音になっているが、その中立を形成しているのが政官財と手を携えている広告代理店だから、中立は年々、右に寄っている。

 市民の声を瞬時に吸い上げる欧州のダイナミズムが羨ましい。左派(ポデモス)、リベラル(スコットランド国民党)が短期間で議会を揺るがせているが、日本ではいまだ「永田町の地図」にしがみついている人が多い。15年の熱い夏を主導した小林節氏は、参院選で新党を立ち上げるや、「余計なことをした」と野党支持者や市民から見捨てられた。俺が変えたいのは表層ではなく、<日本の不自由な岩層>だが、たやすいことではない。

 昨年は、もっとたやすい目標を知人に立てていた。それは減量だが、新年早々、食べ過ぎて胃がもたれている。今年も継続するが、こっちの方も達成は難しそうだ。
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