酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「Shirley シャーリイ」~日常と幻想の狭間に

2024-07-13 16:38:12 | 映画、ドラマ
 欧州サッカー選手権決勝は熱さが魅力のスペイン、異次元のスター軍団イングランドの組み合わせになった。期間中、テュラムらと<国民連合による権力奪取阻止>を訴えたエムバペは、政治的な願いは叶ったものの、自身の鼻骨骨折もあって精彩を欠き、準決勝でスペインに屈した。半世紀にわたって応援しているオランダは、ボール支配力ではわたり合えたが、タレントの質でイングランドに及ばなかった。見応えある決勝になりそうだが、煌めきの差でスペインが上回る気がする。

 新宿シネマカリテで「Shirley シャーリイ」(2019年、ジョセフィン・デッカー監督)を見た。スティーヴン・キングに影響を与えた〝魔女〟シャーリイ・ジャクソンの伝記映画で、舞台は1950年前後のバーモント州ノースベニントンだ。魔女と呼ばれた理由は、作品が人の心に潜む<悪>を抉り出すからで、「ニューヨーカー」誌に掲載された短編「くじ」には抗議の投書が殺到したという。シャーリイの作品も購入する予定なので、機会を改めて感想を記したい。

 前稿で紹介した「侍女の物語」のドラマ版「ハンドメイズ・テイル」(Hulu制作)で主演を務めたエリザベス・モスがシャーリイを演じている。夫のスタンリー(マイケル・スクールバーグ)はベニントン大学教授で文学を教えている。シャーリイとスタンリーの夫婦は共依存、もしくは〝共犯関係〟とも取れるが、女好きで俗物のスタンリーはシャーリイを執筆に集中させるマネジャー的存在だ。

 映画化に際して設定も変わっている。夫婦には子供が4人いたが、本作には登場しない。その代わりといってはなんだが、スタンリーの助手を務めるフレッド(ローガン・ラーマン)と「くじ」に感銘を覚えたローズ(オデッサ・ヤング)の若夫婦がシャーリイ宅に居候することになった。引きこもっているシャーリイが執筆出来るよう、家事全般を行ってほしいというスタンリー直々の頼みである。

 シャーリイが魔女と呼ばれるゆえんは、作品だけでなく周りと軋轢を生じさせてしまう性格にもある。群れるのを嫌い毒を吐く。ローズの妊娠をたちどころに見破り、「女性の体に敏感なの」と話すシャーリイに違和感を覚えたが、実際に何度も妊娠を経験したことを重ねれば納得か。嫌い合っているように思えたシャーリイとローズだが、距離は次第に縮まっていく。

 シャーリイはスランプに陥っていた。ベニントン大に通っていた女子大生ポーラの失踪事件を題材にした「絞首人」の構想を練っているうち悪夢にうなされ、現実と幻想の境界を彷徨うようになる。ローズはそんなシャーリイを気遣い、病院のカルテや学籍簿を入手するなど協力するようになる。シャーリイとローズは母娘の、そしてレズビアンのような感情が芽生え、生まれてくる子供を含めた絆に紡がれる。毒キノコ(実はそうではなかったが)を2人で食べる場面が印象的だ。

 シャーリイが伝えた真実で、フレッドとローズの間に亀裂が生じた。品行方正でエリート然としたフレッドの仮面が暴かれたのだ。未婚の俺は、結婚の意味を考えてしまう。激しいパンチの応酬で疲弊していたはずの夫婦は、小説が完成するや一変する。スタンリーが絶賛すると、承認欲求を満たされたシャーリイは浮き浮きした表情になり、2人でダンスに興じる。若夫婦は厄介払い? いや、そもそも存在したのだろうか。

 ラスト近くでシャーリイとローズは、ポーラの幻影を追うように森の奥に進み、崖っ縁に立つ。フェミニズムを掲げてはいないが、日常と幻想の狭間で、女性であることの哀しさがスクリーンからはじけてくる作品だった。
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「罪深き少年たち」~狂犬が噛み砕く偽装の壁

2024-07-05 21:00:28 | 映画、ドラマ
 棋聖戦第3局は藤井聡太七冠が山崎隆之八段を3連勝で下し、永世棋聖の資格を獲得した。攻守とも隙がなく、完勝といえる内容だった。43歳で2度目のタイトル挑戦と〝遅れてきた青年〟といえる山崎だが、竜王戦では1組で優勝し、トーナメントで優位な状況にある。〝AI超え〟藤井に〝人間力〟山崎が再び挑む日を心待ちしている。

 この10日余り、激動の予感を窺わせるニュースが世界から届いている。米大統領選の討論会ではバイデン大統領が高齢による不安を露呈した。しがらみに縛られたバイデンは出退極まった状態だと思う。〝もしトラ〟は現実になりそうだが、アメリカのMZ世代はジェンダーや差別に敏感で親パレスチナの傾向が強い。民主党支持の若年層はバーニー・サンダースの影響で、資本主義より社会主義に価値を見いだすようになっている。地殻変動は4年後に起きるだろう。

 欧米との協調を掲げる改革派、反米を訴える保守強硬派との決選投票になったイランの大統領選、フランス国民議会選挙、そして労働党圧勝のイギリス総選挙については、稿を改めて簡単に記したい。本来なら格差と貧困、教育と環境が争点になるべき都知事選が、茶番のままで終わりそうなのは残念だ。

 「罪深き少年たち」(2022年、チョン・ジヨン監督)を見た。ベースになっているのは1999年、全羅北道の参礼ウリスーパーで起きた強盗殺人事件だ。貴金属類と現金が盗まれ、家族4人のうち、祖母が心臓発作で命を失った。韓国ではファクト(事実)とフィクション(脚色)が混淆した<ファクション映画>が多く製作されているが、本作もその一つである。

 事件発生から10日ほどで3人の少年が逮捕された。1年後、当該警察署(完州署)に徹底的な捜査で〝狂犬〟の異名を持つファン・ジョンチョル刑事(ソル・ギョング)が赴任してくる。当ブログでは主演、助演に限らずギョング出演作を7作紹介してきたが、とりわけ印象に残るのは「殺人者の記憶法」と「茲山魚譜-チャサンオボ-」だ。徹底的な役作りで知られる韓国トップクラスの俳優である。

 1999年と2016年がカットバックしながら物語は進行する。冒頭はジョンチョルの歓迎会だ。島流しに遭っていたが定年間際、17年ぶりに完州署に帰還したという設定で、ジョンチョルを慕っていたジョンギュ刑事(ホ・ソンテ)らが顔を揃えていた。ジョンチョルが左遷された理由は、ウリスーパー事件の真犯人を突き止めたからだった。

 実話がベースと前述したが、ジョンチョル刑事は創作で、冤罪を着せられた少年たちの年齢も少し低めに設定されているようだ。事件とその後の経緯については韓国内で広く知られており、観客を惹きつけるためにはシナリオの捻りが求められる。<真実>を追求するジョンチョルに対置したのは<隠蔽と秘密主義>を象徴するエリート官僚のチェ・ウソン(ユ・ジュンサン)だ。対峙する両者が醸し出すヒリヒリする緊張感に時間が経つのを忘れた。

 独裁時代の体質を維持する警察や検察は、民主化以降も高圧的な態度を改めず、韓国の人々は権力に対して忌避感を抱いている。ジョンチョルが調書を精査したところ、ある少年は知的障害で時を書けなかった。暴力的な取り調べで3人はでっち上げられ、冤罪は明らかだったが、チェや担当検事は徹底に隠蔽し、無実の少年は下獄する。

 亡くなった祖母の娘ユン(チン・ギョン)、17年後に名乗りを上げようとするジェシク(ソ・イングク)、再審を請求した弁護士とジョンチョルにも協力者がいたが、時機を逃して結審を迎える。ラストの法廷で警察と検察の悪が暴き出されるシーンにカタルシスを覚えた。タイトルは「罪深き少年たち」だが、冤罪の犠牲になった少年たちも、真犯人の少年たちも決して罪深くはない。「罪深き大人たち」が正しいタイトルだ。

 食事のシーンが多く、うまそうな食べ物が次々に出てくる。20歳若かったら観賞後、徒歩で大久保まで足を運び焼き肉を食べたに違いない。変なところで自身の老いを感じさせてくれる作品だった。
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「あんのこと」~絶望から絶望の果てに

2024-06-25 21:44:14 | 映画、ドラマ
 都知事選が告示された。争点は小池都政の評価というが、俺は興味がない。東京が抱える問題点は、格差と貧困、教育現場の荒廃、福祉の後退など挙げればきりがないが、都知事選は上っ面を撫でているだけだ。本質に迫っていないことを実感させられる映画を新宿武蔵野館で見た。「あんのこと」(2024年、入江悠監督)である。<コロナ禍の下での若い女性の飛び降り自殺>を報じる新聞記事に、監督らがインスパイアされ、製作に至った。

 覚醒剤(シャブ)中毒の香川杏(河合優実)が夜の繁華街を歩いている。ラブホテルで同伴した売人が過剰摂取で倒れ、杏は多々羅刑事(佐藤二朗)の尋問を受ける。反抗的な杏だったが、ヨガのポーズを取ったり、奇矯な声を上げたりする多々羅に親しみを覚える。杏は「ウリ(売春)はやめろ」と釘を刺す多々羅が主宰する薬物依存者更正施設「サルベージ赤羽」に足を運び、雑誌記者の桐野(稲垣吾郎)と知り合う。桐野は多々羅を取材するため、同施設に足繁く通っていた。

 多々羅、桐野と交遊するうち、杏の来し方が明らかになっていく。公団住宅に母、祖母と暮らしているが、母から虐待を受け、小学校も卒業していない。12歳の時、母の仲介で売春するようになり、以降は薬物に溺れる地獄のような日々を送るようになる。多々羅は杏に付き添い、生活保護を申請するが、らちがあかない。桐野の尽力で杏は高齢者介護施設の仕事を得た。優しかった祖母を助けたいという思いからだった。

 薬物から逃れた日々の記憶を綴っていき、それが蓄積すれば中毒を克服する道標になる……。多々羅の忠告を守った杏は少しずつ立ち直っていく。漢字が書けなかった杏は夜間中学に入り、外国人らとともに学んでいく。職場でも信頼を勝ち取り、サルベージでの集まりでも自分について話せるようになった。NGOが経営するシェルターに入居し、穏やかで充実した日々が訪れた。

 ハッピーエンドかなと思いきや、暗転する。コロナが全てを変えてしまったのだ。夜間中学は閉鎖され、介護施設でも非正規職員は自宅待機になる。サルベージは閑散とし、多々羅との連絡はつかない。桐野が多々羅に近づいた理由も明らかになる。

 日常で杏のような女性に会う機会は少ないが、コロナ禍以降、新宿界隈で路上売春する女性たちについて報じられている。若い層も多いという。それぞれ事情はあるが、彼女たちの中に<杏>がいても不思議はない。真っ当だとか、愛とかは戯言に過ぎず、公的な窓口も信用出来ないと考えている女性は多い。人々は自ら目を背けているだけだ。

 桐野が多々羅と面会するシーンで、見る者は<正義>の意味を突き付けられる。主宰者であることを利用し、複数の女性に性的関係を強要したというのが多々羅の罪状だ。突然サルベージに来なくなった女性が、多々羅にプレゼントを渡そうとしている音声があるシーンで流れていた。一方的に断罪されるべきかどうかは〝薮の中〟だ。

 生きる意味を失いつつあった杏だが、シェルターの隣人で部屋を出ざるを得なくなった紗良(早見あかり)に幼い隼人を託される。杏は隼人に母らしいこまやかな愛情を注ぎ、再び希望の灯が射したかに思えた刹那、実母という母が現れ、希望は消えた。ラストで杏が歩く繁華街は、オープニングと同じだった。絶望から絶望の果てに、杏は辿り着いたのか。

 エンディングは隼人を取り戻した紗良が児相を出ていくシーンだ。俺は紗良に杏を重ね、胸が熱く、そして痛くなった。東京の真実を抉る映画に出合えてよかった。
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「バティモン5 望まれざる者」~移民国家フランスに希望はあるか

2024-06-17 21:38:04 | 映画、ドラマ
 EU議会選で極右が議席を伸ばした。フランスではマクロン大統領率いる与党連合が議席数で極右の国民連合の半数以下と惨敗した。議会を解散し、〝揺り戻し〟に懸けるマクロンだが、577の選挙区で候補を一本化する左派政党(緑の党、社会党、共産党、不屈のフランス)にも及ばない可能性もある。窮地のマクロンに救いの手を差し伸べたのが国民連合のルペン前党首で、選挙の結果にかかわらず共闘を呼び掛けた。五里霧中とはこのことか。

 グリーンズジャパンの会員である俺は、今回の選挙結果に愕然とした。環境と多様性を訴える欧州のグリーンズは各国で議席を減らし、移民への厳しい対応を訴える極右の伸張に繋がった。根底にあるのは未来への不安だ。フランスでは67~68歳まで働き続けなければならず、年金額も年々減少すると予測されている。理想は崩れつつあるのだ。

 新宿武蔵野館で先日、「バティモン5 望まれざる者」(2023年、ラジ・リ監督)を見た。長編映画デビュー作「レ・ミゼラブル」(19年)は世界の映画祭で多くの栄誉に輝いた。「バティモン5」の舞台はバンリュー(パリ郊外)の架空のモンヴィリエ市だ。移民が多数を占め、犯罪多発地帯という設定になっている。

 冒頭はドラスチックで、低所得者層が暮らしていたアパートが爆破される。スイッチを押した市長は心臓発作で亡くなり、与党の投票で小児科医のピエール(アレクシス・マネンティ)が傀儡として市長に選ばれる。僅差で敗れたのは移民ながらも15年間、市政を支えてきたロジェ(スティーヴ・ティアンチュー)だった。ピエールはモンスターになり、移民に寄り添っていたはずのロジェは滑稽な姿を晒すことになる。

 10階建てアパートで老女が亡くなった。エスカレーターが故障したままで、暗い階段を数人がかりで棺を下ろしていく。行政への怨嗟の言葉に、住民たちが置かれている状況が窺える。気丈に場を仕切るのが孫娘のアビー(アンタ・ディアウ)で、移民たちのケアスタッフとして働いている。アビーは前向きに政治に関わっているが、アビーの友人であるブラズ(アリストート・ルインドゥラ)は蓄積した怒りの矛先を見つけられずにいた。アビーとブラズをキング牧師とマルコムXになぞらえる台詞が印象的だった。

 アビー、ブラズ、ピエール、ロジェが回転軸になってストーリーは進行する。市庁舎にデモ隊が集結するといった派手な展開を予測していたが、ドキュメンタリーで学んだリ監督は、緻密かつリアルに政治の力学に迫っていく。キャリアが乏しいが良心的と思われていたピエールだが、〝逆ギレ〟的に高圧的な政策を実行していく。その典型は3人以上のティーンエイジャーの夜間外出禁止で、抗議デモを主催したアビーは、立ちはだかるピエールに市長選出馬を伝える。

 本作にも描かれているが、フランスは<選択的移民政策>を取っている。ピエールはシリアからの移民を受け入れたが、キリスト教徒であることが条件だった。「バティモン5」で火事が起きた後、ピエールは遂に強硬手段に訴える。予告なしで住居に押し入り、強制退去を命じた。ブラズの怒りは沸点に達し、クリスマスの夜にピエール宅を襲撃する。そこに居合わせたのがロジェだった。

 多様性が失われ、民主主義の理念さえ危うくなるが、地道に毅然とした態度で前に進むアビーの姿に希望を覚えた。サッカー欧州選手権のオーストリア戦を控えたエムバペは、「国民連合の権力奪取を阻止するよう闘う」と主張したテュラムに賛同し、「自身の価値観が合わない国を代表したくない」と明言した。2人とも移民の血を受け継いでいるが、富裕層でもある。違和感を覚える若者もいるかもしれない。
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「ありふれた教室」~女性教師が落ちた<正しさ>という名の陥穽

2024-06-09 22:10:44 | 映画、ドラマ
 棋聖戦第1局は藤井聡太棋聖(八冠)が山崎隆之八段を下し、永世位獲得に好スタートを切った。AIに捕らわれない独創性で藤井を混乱させてほしいと期待したが、山崎の定跡から外れた構想に最善の手で対応するなど、藤井は盤石だった。後輩への面倒見の良さで知られる山崎だが、本人の弁によれば10代、20代の頃、勝負にこだわる冷たい人間だったという。過去の〝鬼〟を呼び戻すことが必要なのかもしれない。

 新宿武蔵野館でドイツ映画「ありふれた教室」(2022年、イルケル・チャタク監督)を見た。冒頭からラストまで緊張が途切れない学園サスペンスだった。地域で標準レベルのギムナジウムが舞台で、日本でいえば中学1年にあたる12~13歳のクラスの担任は新任の女性教師カーラ(レオニー・ベネシュ)だ。数学と体育の代講を担当するカーラは生徒と真剣に向き合っているが、学校で頻発している盗難事件で平穏な日々に波紋が生じる。クラスの生徒が疑われ、学級委員が〝チクリ〟を求められる。「我が校の方針は不寛容主義」と繰り返す校長(アンネ・カトリーン・グミッヒ)と、ディベートに基づく民主主義を重視するカーラとは立ち位置が異なった。

 ところが、同僚が募金箱から小銭をくすねるシーンを目撃したカーラ自身が、〝不寛容〟と〝行き過ぎた監視〟の体現者として批判を浴びることになる。カーラはパソコンのカメラ機能を設定して席を離れる。自身のバッグから金を盗んだ者の着衣が映像に残っていた。白地に星の模様が入ったブラウスを着ていたのは女性事務員のクーン(エーファ・レイバウ)だった。クーンを問い詰めたカーラだが、断固否定され、校長に報告する。

 フランスほどではないが、ドイツの学校も多国籍の生徒たちによって成立している。多くを占めるのはドイツ系だが、カーラのクラスにもイスラム系、アフリカ系の子供がいる。冒頭で窃盗を疑われたのは両親がトルコ人の少年だった。カーラはポーランド系という設定で、本作のチャタク監督はトルコ系である。〝学校は社会の鏡〟といわれるが、本作に漲る緊張感の背景には複層化する社会での息苦しさがあるのだろう。

 数学教師であるカーラが生きるよすがにしているのは<正しさ>だった。授業でギリシャの哲学者タレスの日食予言について、自然現象は神の思し召しではなく科学で解明出来ることを実証したと絶賛した。印象的だったのは<0.999=1>という仮説を示し、回答を促すシーンだ。「引き算すれば差が出るから異なる」と答えた女子生徒に対し、分数を使ってイコールであると答えたのが、クラス一の秀才でクーンの息子であるオスカー(レオナルト・シュテットニッシュ)だった。カーラはオスカーの才能を認めてルービックキューブを貸したことがあった。

 カーラがクーンを告発したことが知れ渡るや、生徒は学校新聞を使ってカーラを攻撃する。オスカーは他の生徒への暴力行為やカーラのパソコンを川に投棄した件で停学処分を受けた。メディアの暴力やSNSでの炎上を彷彿させる事態に、カーラはもがき苦しみ、学校中の女性が白地に星のブラウスを着ている幻想に襲われる。クーンの犯行は冷静に考えて明らかだが、100%ではない。カーラは<0.999と1の間>の陥穽に落ちたのだ。

 ラストでオスカーは、カーラの前でルービックキューブを揃えてみせる。ルービックキューブが何のメタファーであったのか俺にはわからない。オスカーは警官に肩車されて学校を出ていった。チャタク監督がインスパイアされたという「バートルビー」(ハーマン・メルヴィル著)も機会があったら読んでみたい。
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「碁盤斬り」~草彅剛の完璧な演技に圧倒された

2024-05-31 21:58:48 | 映画、ドラマ
 名人戦を防衛した藤井聡太八冠は叡王戦第4局で伊藤匠七段を破り、2勝2敗のタイに戻した。王位戦の挑戦者に渡辺明九段が名乗りを上げ、棋聖戦では山崎隆之八段が待ち受けている。八冠防衛ロードは決して平たんではない。

 囲碁は旦那衆、将棋は庶民が好むといわれていた。ちなみに超庶民の俺は囲碁を全く解さない。資金力も日本棋院が将棋連盟を上回っていたがこの10年、将棋界は藤井という天才の出現で多くの企業がタイトル戦のスポンサーに名乗りを上げた。対照的に、部数減が止まらない新聞各社頼りの囲碁界は厳しい状況に追い込まれている。

 江戸時代を背景に囲碁を題材にした映画「碁盤斬り」(2024年、白石和彌監督)を見た。ベースは古典落語の「柳田格之進」で、本作で脚本を担当した加藤正人がノベライズ版「碁盤斬り」を発表している。主人公の柳田格之進(草彅剛)は汚名を着せられて彦根藩を追われ、娘のお絹(清原果那)と江戸の貧乏長屋で暮らしている。生計の糧である篆刻つながりで遊廓女将のお庚(小泉今日子)に用立ててもらった格之進は、碁会所で賭け碁を打つ。相手は骨董屋主人の萬屋源兵衛(國村隼)だった。矜持を保って碁を打つ格之進は、源兵衛に勝ちを譲った。

 後日、萬屋前で旗本が難癖をつけていた時、たまたま居合わせた格之進が店の窮地を救う。藩で進物方を務めていた格之進は骨董品に精通しており、旗本の言い掛かりを退けるのはたやすいことだった。お礼に訪ねてきた源兵衛と格之進は、互いを認め合う碁仲間になる。〝守銭奴〟と罵られていた源兵衛だが、格之進との出会いで生き方を変え、顧客優先の方針で店は大繁盛する。手代の弥吉(中川大志)とお絹のラブストーリーも微笑ましかった。

 順風満帆に進むと思った刹那、物語は暗転する。萬屋の離れで格之進と源兵衛が碁を打っているさなか、店に届けられた50両が紛失する。格之進が疑われたのは当然の成り行きだ。さらに、彦根藩藩主の梶木左門(奥野瑛太)が格之進を訪ね、疑いが晴れたことを伝える。掛け軸を盗んだ柴田兵庫(斎藤工)は出奔後、賭け碁で全国を回っているという。兵庫は格之進の妻に懸想して、死に追いやった敵であった。

 お絹に切腹を止められた格之進は、お庚に大晦日という日限で50両を借り、兵庫を討つために旅に出る。返せなければお絹は店に出るという条件だ。「文七元結」を彷彿させる人情話と復讐譚が絡み合うドラスチックな展開に息をのむ。後半に登場する賭け碁の元締(市村正親)の佇まいや殺陣の迫力は、数多の時代劇や任侠映画を生み出した太秦東映撮影所の伝統を感じた。

 俺が草彅の存在を知ったのは「『ぷっ』すま」で、ユースケ・サンタマリアとざっくばらんかつ自然体に番組を進める様子に、若手お笑い芸人かと勘違いしていた。草彅はその後、多くの映画、舞台、テレビドラマで活躍し、今や日本を代表する俳優との評価を勝ち取った。特に記憶に残っているのは映画「ミッドナイトスワン」とドラマ「ペパロンチーノ」(NHK)である。本作の白石監督、市村のみならず、つかこうへいや高倉健も天才ぶりを絶賛していた。シーンごとの表情の変化だけでも見る価値は十分あると思う。

 本作は様々な切り口で見ることが可能だが、<人は変わり得る>がメインテーマだと感じた。謹厳実直で自分にも他者にも厳しい格之進は武士時代、同僚たちを追放してきた。だが、源兵衛と碁を打つうち、自分を顧みるようになった。他者への仕打ちが正しかったのか、別の選択肢はなかったのかと……。格之進は藩を出た後に苦難の道を歩む者たちに手を差し伸べるため、江戸を出た。

 春風亭一之輔は自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組に草彅を招き、意気投合した。草彅一人のために「柳田格之進」を演じる約束をする。2人の天才の間にどのようなケミストリーが生じるのだろうか。
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「穴」~リアルな描写が織り成すフレンチ・ノワールの神髄

2024-05-19 23:12:54 | 映画、ドラマ
 将棋の名人戦第4局が別府市で行われ、先手の豊島将之九段が藤井聡太名人(八冠)を破って一矢を報いた。研究していた手順で初日にリードを奪ったが、2日目の夕方には五分の形勢になる。通常なら藤井の終盤力に屈するところだが、豊島は最善の応手で勝利を引き寄せた。豊島の醒めた闘志を感じさせた熱戦だった。

 中学生になって、映画館に足を運ぶようになった。といってもロードショーではなく、二番館での2本立てで、ホームグラウンドは祇園会館だった。「007」シリーズ、少し背伸びしてアメリカン・ニューシネマ、そしてフレンチ・ノワールにカテゴライズされるチャールズ・ブロンソンやアラン・ドロンの主演作を、タイムラグを経て観賞していた。

 ケイズシネマで開催された「フィルム・ノワール映画祭」では15本が上映されたが、〝フィルム〟ではなく〝フレンチ〟特集の感がある。最終日(17日)に「穴」(1960年、ジャック・ベッケル監督)を見た。20年ぶりの再会である。そもそもアメリカ発祥の<ノワール映画>の定義は難しく、ビリー・ワイルダーや黒澤明の作品まで含める批評家もいる。定義を談じても意味がなく、見方ひとつで変わると捉えた方がよさそうだ。

 本作は1947年、パリのサンテ刑務所で起きた脱獄事件がベースになっている。原作者のジョゼ・ジョヴァンニだけでなく冒頭に登場するジャン・ケロディも実行犯で、リーダー格のロランを演じていた。監房の一室にはロラン以外にジェオ(ミシェル・コンスタンタン)、マニュ(フィリップ・ルノワ)、ボスラン(レイモンド・ムーニエ)が収監されていた。4人は軽作業を隠れみのに脱獄の準備を進めていた。

 そこに新参者が加わる。いかにも育ちが良さそうなガスパール(マーク・ミシェル)で、狡猾な所長の覚えもいい。もみ合っているうちに妻を撃ってしまい、計画殺人未遂の容疑で逮捕された。義妹ニコールとの浮気が妻を硬化させ、訴えを取り下げる気配はない。ガスパルは当初、余計者扱いだったが、信頼を得て同志になる。

 実行犯が製作に参加しているから、床や壁に穴をあける作業の描写は実にリアルで、ロランとマニュが刑務所地下を徘徊する場面は緊迫感とユーモアに溢れていた。5人を追うカメラワークも秀逸で、モノクロ画面が各自の心情を浮き彫りにしている。不思議に感じたのは、脱獄後の展望が描かれていないことだ。戦後の混乱期ゆえ、出てしまえば何とかなるという楽観的な空気もあったのかもしれない。本作は脱獄を巡る葛藤劇、心理劇とみることも出来る。

 順風満帆な人生を踏み外し、将来への希望をなくしたガスパルに変化が訪れる。配管工(囚人)の窃盗に対し、同室の4人は刑務官の計らいで制裁を許される。生きてきた外の世界と異なるルールに戸惑ったガスパルは、所長に呼ばれて妻が訴えを取り下げ、遠からず釈放されることを告げられる。脱獄決行の夜、監房前に刑務官が集結する。「僕じゃない」と叫ぶガスパルに、ロランは「哀れなやつ」と吐き捨てる。裏切りの真実は闇の中だ。本作で驚いたのはフランスの監獄の自由度の高さと、囚人たちのファッションセンスだった。

 ベッケルは「現金に手を出すな」で知られるが、夭折の画家モジリアーニを描いた「モンパルナスの灯」の監督でもある。色調が異なる傑作を世に問うたベッケルの実力に感嘆するしかない。
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「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」~激動の時代に翻弄されて

2024-05-11 21:11:31 | 映画、ドラマ
 当ブログでは映画を数多く紹介してきた。邦画なら時代背景をある程度は把握しているので戸惑うことはないが、海外の作品だと〝?〟を重ねながら観賞することもしばしばだ。そんな時は復習が必要で、ネットであれこれ検索して学び、何となく理解した気になる。古希が近づいてきているが、齢を重ねるとは、俺にとって自分の無知を実感することと同義だ。

 新宿シネマカリテで先日、「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」(2023年、マルコ・ベロッキオ監督)を見た。本作はヨーロッパを震撼させた実話をベースに、イタリア、フランス、ドイツの3国が共同で製作した。1858年、イタリア・ボローニャのユダヤ人街で7歳の少年エドガルド(少年期=エネア・サラ、青年期=レオナルド・マルテ-ゼ)が異端審問所警察に連れ去られる。教皇ピウス9世(パオロ・ピエロボン)と枢機卿の命令だった。

 拉致には根拠があった。かつてモルターラ家で働いていたカトリック教徒の家政婦は病弱だったエドガルドの身を案じ、命を永らえさせるため洗礼を行った。そのことが教会に伝わった以上、教皇は無視するわけにはいかない。教会法において<非キリスト教徒にはキリスト教徒を育てる権限はない。誰に授けられたとしても洗礼を受けた者はクリスチャンとみなされる>と定められている。エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレジ)と母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)は伝手を頼って面会にこぎ着けるが、連れ戻すことは出来なかった。

 信仰の問題は一見、日本人とは無関係に思えるが、天皇教から解放されたのは70年前のこと。比叡山の僧侶たち、一向一揆、島原の乱を経て、仏教は幕藩体制に飼い慣らされた。日本人には本作のキーワードになっている<洗礼>を理解するのは難しいと思う。併せて当時のイタリアは統一に向けて激動期にあった。保守派のカトリック教会は、国民国家を目指す民衆やプロテスタントに押されて劣勢だった。ロスチャイルド家を筆頭にしたユダヤコネクションや進歩派のメディアはエドガルド解放を訴えたが、外圧がピウス9世を頑なにした。

 マリアンナが訪れた寄宿舎では面会が終わったと思えた刹那、エドガルドは母にしがみついてユダヤの祈りを捧げていることを打ち明けた。日々の修行で心境に変化の兆しが表れる。磔刑されたキリストの絵に感化されたエドガルドが手首と足首の釘を外すや、自由になったキリストが教会を出ていく幻を見る。葛藤がくすぶっていたことは、召されたピウス9世の遺体を移送する途中が明らかになる。抗議に押し寄せた民衆に呼応し、「こんな教皇なんて川に流してしまえ」と叫ぶのだ。

 迷いはその時点で消え、エドガルドは市民軍のリーダーだった兄と対峙し、臨終の席で母に洗礼を施そうとして親族の顰蹙を買う。その後は聖職者の道を全うした。ベロッキオ監督は社会の矛盾を追求したパゾリーニに認められていた。シリアスで重厚なトーンで進行するが、ユーモアも織り込まれている。ピウス教皇が見る夢に笑ってしまう。アメリカのユダヤ系劇団は、教皇が割礼されるというストーリーの芝居を上演して話題をさらった。教皇自身もその夢を見てうなされるのだ。

 世界で今、イスラエルへの批判が高まっているが、自由と民主主義、反戦を掲げるリベラリズムに基づくもので、本作と重ねるのは無理がある。信じることの意味を見る者に問いかける作品だった。
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「死刑台のメロディ」~スクリーンで融合するパトスと叙情

2024-05-02 21:21:13 | 映画、ドラマ
 新宿武蔵野館で「死刑台のメロディ 4Kリマスター版」(1971年、ジュリアーノ・モンタルド監督)を見た。イタリアとフランスの合作である。監督よりも作曲家に重きを置いた企画で、<エンリコ・モリコーネ>特選上映と銘打たれ、「ラ・カリファ」と併せて公開されている。

 「死刑台のメロディ」は史実に基づいている。1920年、マサチューセッツ州ブレイツリー市で製靴工場が襲われ、2人が殺され1万6000㌦が奪われる強盗殺人事件が起きた。冒頭のモノクロ画面で、イタリア人街が警察隊の襲撃を受ける。マカロニウエスタンの空気を感じたが、モンタルドが西部劇を撮影したことはない。

 ロシア革命直後、全米でも労働者の抗議が広まっていた。核をなしていたのはアナキストで、パーマー司法長官の左翼に対する徹底的な弾圧はマッカーシズムの先駆けといわれている。移民への差別もあり、捜査陣の網にかかったのが、イタリアからの移民であるバルトロメオ・ヴァンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)とニコラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)だった。拘束時、拳銃を不法に所持していたことが心証を悪くした。興味深かったのは英語版の〝ラディカル〟が字幕で〝アナキスト〟になっていた点で、その辺の事情はわからない。

 裁判の過程で証言の曖昧さが浮き彫りになる。最初に結論ありきで、パーマーの意を呈したカッツマン検事(シリル・キューザック)とサイヤー判事(ジェフリー・キーン)はムア弁護士(ミロ・オーシャ)が突き付ける矛盾に取り合わない。証言を撤回しようとした者は暴力にさらされる。直情径行のムアはカッツマンとサイヤーに対し、「あなたたちはKKKと変わらない差別主義者だ」とぶちまけるが、仕組まれた法廷で旗色が悪くなるだけだ。陪審員は短い協議時間でヴァンゼッティとサッコに死刑を求刑する。

 法廷の内と外では空気が真逆だった。ムアと彼を引き継いだトンプソン弁護士(ウィリアム・プリンス)の尽力もあり、ヴァンゼッティとサッコの当日のアリバイ、真犯人の存在が明らかになる展開に、イタリア特有のネオレアリズモの伝統が窺えた。真実が伝わると全米だけでなくロンドンでも<ヴァンゼッティとサッコを無罪に>を掲げた大規模なデモが行われた。

 冤罪事件であれば、2人は解放されたはずだが、両被告が公判で自らアナキストと公言し、資本主義独裁国家アメリカへのメッセージを訴えたことで構図が変わった。体制を問う裁判になった以上、権力側は死刑執行に向け一歩も譲らない。ヴァンゼッティとサッコにも変化の兆しが表れた。無実を主張するヴァンゼッティは無実を主張し、精神に異常を来したサッコは癒えた後、諦念と絶望から沈黙を続ける。サッコを演じたクッチョーラは複雑な心境を演じ切ったことで、カンヌ映画祭最優秀男優賞に輝いた。

 モリコーネが作曲した主題歌と挿入歌に歌詞を付けて歌ったのは、反骨のフォーク歌手ジョーン・バエズだ。両者のコラボこそ、パトスと叙情の煌びやかな融合だった。「忍者武芸帳」(67年、大島渚監督)での影丸の印象的な台詞が重なった。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>

 影丸、そしてヴァンゼッティとサッコの思いは現在、いかほどのリアリティーを持つのだろう。世の中の構造はさほど変わっていないのではないか。
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「キエフ裁判」~ナチズムは今も生きている

2024-04-22 22:36:59 | 映画、ドラマ
 棋聖戦挑決トーナメントを制した山崎隆之八段が藤井聡太棋聖(八冠)に挑む。渡辺明、永瀬拓矢、佐藤天彦の実力者の九段を連破した勢いで絶対王者に迫ってほしい。藤井が〝AI超え〟なら、山﨑は〝将棋界きっての独創派〟で、若手の面倒見も良く関西棋界を牽引してきた。かつてのプリンスも43歳。6月に〝遅れてきた青年〟が爆発することを期待している。

 ロシアのウクライナ侵攻から2年2カ月、戦況は膠着しており、一部でゼレンスキーの〝プーチン化〟を危惧する声も上がっている。戦争は人を狂気に追いやるが、阿佐谷で先日、ドイツ軍の東部戦線における蛮行を裁いたドキュメンタリーを見た。オランダ・ウクライナ共同製作の「キエフ裁判」(2022年、セルゲイ・ロズニツァ監督)である。ロズニツァ監督は他作品を撮影する過程で、1946年1月に始まった同裁判のフィルムが残されていることを知ったという。

 独ソ戦のさなか、ロシアやウクライナでドイツ軍はユダヤ人、複数民族の結婚で生まれた子供、障害者だけでなく、住民たちを虐殺する。モスクワで取り調べを受けたナチス関係者15人がキエフ(現キーウ)に移送されて法廷に立った。原告側のソ連軍関係者、虐殺を免れた一般市民が次々に証言する。死刑判決が下されたのは12人で、あとの3人は長期の強制労働が科せられた。

 個々の事象は詳らかにしないが、徹底的な破壊を志向するドイツ軍の行為に衝撃を受けた。ユダヤ人だけでなく、パルチザンの疑いありとされた村民たちは数千人単位で銃殺される。生き埋めにされた子供たちもいた。前稿に紹介した「イギリス人の患者」に登場するキップは英軍工兵で、〝何も残さない〟ために撤退するドイツ軍が設置した地雷を解除していた。これらの蛮行は戦争が必然的に体現せざるを得ない普遍性に基づいているのか、もしくはナチズムの独自性に根差しているのか、観賞しながら考えていた。

 日本軍が中国戦線で展開した三光作戦は八路軍支配地域の壊滅を目指したものだったし、ベトナム戦争で解放戦線が影響力を持つ地域に米軍が大量にまいた枯れ葉剤は、住民たちの肉体を現在も蝕んでいる。そこに<純血と排除>に価値を置くナチズムが加われば、狂気の度合いは更に濃くなる。被告の中には自己弁明に終始する者、仲間に罪を擦りつける者、命令に背けば自らも殺されていたと語る者もいた。

 被告人にハンナ・アーレントの〝凡庸な悪〟を重ねた映画評もあった。<ナチスによるユダヤ人迫害のような悪は根源的・悪魔的ではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的であるからこそ社会に蔓延し世界を荒廃させ得る>というのが凡庸な悪の捉え方だ。

 一定の説得力はあるが、どこか違和感を覚える。辺見庸は「1★9★3★7」完全版刊行記念の講演会で、<日本軍は中国戦線で円を作り、その内側で兵士(普通の人々)が殺戮、強姦、人体実験を行った。自分が円の内側にいたら、「自分も蛮行に加わっただろう」。それが本作の出発点>と語っていた。戦争は思想や信念を顧みず、兵士は傍観者であることを許されないのだ。公開死刑を見物するため、凄まじい数のキエフ市民が会場を埋め尽くす。ロズニツァ監督は市民の傍観者性をも俎上に載せていた。

 同裁判ではロシアとウクライナの正義は一致していたが、1932年から33年にかけて起きたホロモドールでは、ウクライナはロシアの正義の犠牲になった。スターリンがウクライナの農作物をモスクワに送った結果、1400万人もの餓死者が出たという統計もある。

 キエフ裁判から78年。移民・難民に反発する者は世界で<純血と排除>を叫んでいる。ナチズムが生きていることを「キエフ裁判」で実感した。
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