酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

さようなら08年~気分は「涙」の年の瀬に

2008-12-30 00:05:18 | 戯れ言
 厳しい年の瀬、都内のあちこちで電車が遅れている。駅で案内放送を聞くたび、万策尽きて飛び込んだ人の気持ちを想像してみる。<板子一枚下の地獄>に怯える“蟹工船”の船員も多いだろう。俺も全くの自己責任でゆっくり沈みつつある。

 飯島愛さんの死が波紋を広げている。「寂しい」と渋谷署を訪れたことなど、明かされる事実の数々に胸が痛んだ。男たちは彼女に孤独と絶望しか与えられなかったのか。曝け出しつつ拒まれた愛さんの冥福を祈りたい。

 今年の漢字に「変」が選ばれたが、個人的には「涙」がピッタリだ。妹が生命の危機に陥ったことが大きかったが、一人で泣いた夜が多かった。別に俺は優しくなったわけじゃない。涙を絞った分だけ心は乾き、酷薄になることもある。俺の中では、<涙もろい人≒冷たい人>なのだ。

 「おくりびと」や「イントゥ・ザ・ワイルド」にも頬を濡らしたが、今一番泣けるのはニュース番組だ。俺の涙の主成分は<怒り>である。自公政権の体たらく、トヨタやキヤノンの派遣労働者への仕打ち、厚労省や社保庁の悪質さ、傲岸な金融詐欺師たち、相次ぐ食品偽装と無差別殺傷事件……。年の暮れ、涙の種が一つ加わった。ジェノサイドを目論むイスラエルのガザ空爆である。

 総理大臣、厚労省、相撲協会は前年から坂を転がり続け、小室哲哉、星野仙一、オスカー・デラホーヤ、ウォール街、自動車ビッグ3の権威も失墜した。とりわけ深刻なのは総理大臣だが、福田康夫前首相、麻生太郎現首相を責めても致し方ない。北朝鮮並みに世襲議員が跋扈するのは、民主主義に重大な欠陥があるからだ。

 <裸の王様>が目立った08年だが、最も醜い肉体を曝したのは経団連だ。厚労省とタッグを組み、派遣労働拡大で収益を上げたトヨタとキヤノンは、相次いで経団連に会長を送り込み、減益となるや恩人たちを切り捨てた。

 奥田前会長(トヨタ相談役)の「マスコミの厚労省叩きは異常」発言は、「仲間(厚労省)をこれ以上攻撃するとトヨタは広告を出さない」という形を変えた言論抹殺だ。御手洗現会長(キヤノン会長)は「雇用の確保は前向きに」と厚顔無恥に語っていたが、キヤノンが大分でしたことを国民は知っている。

 別稿(08年1月28日)で「蜂起」(森巣博著)を取り上げ、<日本社会の崩壊が進行し、すべての境界(壁)が揺らいだ時、森巣氏の作品は“自由な飢えたる者”にとってバイブルになるだろう>と記した。事態がこのまま進めば来年の漢字は「乱」になり、「蜂起」は予言の書になるだろう。

 今稿が08年最後の更新になる。妄言に耐えてくださった読者に感謝の気持ちを伝えたい。来る年が幸多きことを願ってやまない。

 ありがとう。良いお年を!


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スポーツこの一年&有馬予想

2008-12-27 03:10:06 | スポーツ
 昨夜は会社時代のOG(先生)、現役OLとささやかな宴を開いた。派遣労働の身を慮って奢りを提案してくれたが、東京で一番安い焼き肉屋(多分)だったので、割勘で年長者のメンツを保てた。

 08年も余すところ5日、豊饒だったボクシングを中心にスポーツ界を振り返りたい。まずはプレーオフに向けて煮詰まってきたNFLから。

 マニング兄弟(ともにQB)がスーパーボウルに照準を定めている。兄ペイトン率いるコルツは8連勝と上昇機運に乗っている。弟イーライのジャイアンツは連敗後にパンサーズを下し、NFC第1シードを手にした。兄弟でスーパーボウル3連覇となれば偉業だが、運はそれほど偏るものなのだろうか。

 プレミアでビッグ4が鎬を削っている。チェルシーはモウリーニョ時代の躍動感が薄れているし、マンチェスターUはロナウドのレアル移籍騒動がマイナスに作用するだろう。アーセナルは層の薄さが気懸かりだ。魅力的な選手が揃うリバプールの19年ぶりリーグ制覇に期待している。リーガではバルセロナが独走態勢を築いてしまった。レアルの後退に、ドイツ人(シュスター前監督)とオランダ人(主力5人)の食い合わせの悪さを再認識する。

 クリチコ兄弟によるヘビー級支配、ホプキンスらベテランの頑張りと話題満載のボクシング界だが、'08MVPはマニー・パッキャオだ。6月に4階級制覇を達成し、12月にはデラホーヤを圧倒してボクシングの常識を覆した。別稿(7月31日)でベストバウト決定と記したコットVSマルガリート戦が、「エキサイトマッチ総集編」(WOWOW)で年間最高試合に認定された。コアなファンと感性を共有できたことを素直に喜んでいる。

 案外知られていないが、現役最強の座をパッキャオから受け継ぎそうなボクサーが日本で暮らしている。2階級制覇を成し遂げたホルヘ・リナレス(23、帝拳=ベネズエラ)は、デラホーヤの後継者と目されている。イケ面で日本語も日常会話に支障がないリナレスは、帝拳以外のジムに所属していたら、ジェロ並みにメディアに露出したかもしれない。

 惰性で見ているWWEだが、HHHへの権力集中を危惧している。ビンス・マクマホン会長は観客の反応を測って選手のプッシュを決めてきたが、娘婿のHHHは現役レスラーゆえ、嫉妬から自由になれない。ジェフ・ハーディとHHHの試合前、ネット投票の勝者予想でジェフが75%の支持を獲得したが、ファンの願望に反する結果に終わった。

 元WWE王者ブロック・レスナーがUFCヘビー級王者に就いた。有力視された五輪出場から方向転換してプロに進んだレスナーのハイライトは、レッスルマニア19における五輪王者アングルとの王座戦だ。テクニックだけでなく空中技の応酬となった金網マッチは、プロレス史に輝くベストバウトだと思う。
 
 WWE時代、レスナー以上の逸材と映ったボビー・ラシュリーも先日、総合格闘技デビューを圧勝で飾った。UFC参戦となれば、レスナーの王座を脅かす存在になるだろう。石井慧が登場する来年秋は、日本でもUFCが注目の的になっているはずだ。

 12年ぶりのPOG参加で競馬への関心がさらに高まった。出足は好調だったが9月以降、勝ち上がった馬が続けてアクシデントに襲われた。クラシック血統と期待した馬たちは次々に馬脚を現し、秘密兵器たちは仕上がる気配さえない。暗雲を払ってくれたのは、朝日杯を制したセイウンワンダーだった。

 最後に有馬記念の予想を。耐久力が試される厳しい展開になるとみて、アサクサキングスを連軸に推す。中山御用達のマツリダゴッホ、ダイワとカワカミの女傑も無視できない。スクリーンヒーローはセイウンワンダー同様、父グラスワンダー、母父サンデーサイレンスのサイアーラインを持つ。恩返ししないと賭神に嫌われるから、3番手に据えた。

 ◎⑫アサクサキングス、○⑩マツリダゴッホ、▲⑧スクリーンヒーロー、△⑬ダイワスカーレット、注①カワカミプリンセス。馬券は⑫から馬連4点。3連単は⑫⑩と⑫⑧の2頭軸に⑬を絡め18点、①を2・3着付けの8点で計26点。

 終わり良ければというが、馬券的中ぐらいで笑えない年の瀬である。


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「夏の庭」~師走に和む相米ワールド

2008-12-24 01:15:34 | 映画、ドラマ
 この10年の邦画の数々――「ユリイカ」、「赤目四十八瀧心中未遂」、「誰も知らない」、「いつか読書する日」、「おくりびと」――を当ブログで絶賛してきたが、礎となった監督について触れてこなかった。正直に言うと気付いていなかったのだ。不明を恥じるしかない。

 日本映画専門CHで相米慎二特集が組まれた。未見だった「お引越し」(93年)、「夏の庭~The Friends」(94年)、「あ、春」(98年)、「風花」(01年、遺作)に触れ、テーマの奥深さと完成度の高さに目からウロコが落ちた。家族の絆、日本人独特の死生観とスピリチュアルな感覚、四季の移ろいが織り込まれた作品群は、俺にとって至高の濾紙だった。

 他の作品については機会を改めることにして、今回は「夏の庭~The Friends」を取り上げる。ストーリーは以下の通りだ。

 肥満児の山下、空想癖のある河辺、語り部の木山……。わんぱくトリオが山下の祖母の死をきっかけに、独居老人の喜八(三国連太郎)に興味を持つ。荒れ放題の敷地内に入り込み、探偵のように付け回すうち、少年たちは喜八と心を通わせていく。

 他者を慮る気持ち、絆の意味、自然の節理、生と死の狭間にあるもの……。少年たちは夏休み、教科書に載っていない教訓を学んでいく。ゴミが捨てられ、雑草が刈り取られた庭に、コスモスの種が植えられた。廃屋もリフォームされ、喜八も心の扉を開いていく。

 「台風クラブ」が白眉だが、相米監督は雨と水を巧みに用いる。本作でも台風の夜が転調のきっかけになった。家を抜け出し喜八宅を訪れた少年たちは、南方戦線における老人の過酷な体験を聞く。加害意識ゆえ喜八が温もりに背を向けたことを少年たちは知る。

 多くの大人は、純粋な愛が時に人を遠ざける不条理を体験している。少年たちは無垢であるがゆえ架け橋になることを決意し、生き別れになった喜八の妻(淡島千景)を探し出す。半世紀を超えた愛の瑞々しく厳かなピリオドに、荒んだ俺の心も和み、癒やされた。

 映像は相米美学に貫かれている。病院で迷子になった木山が死との距離を意識するホラー的なシーン、蝶や小鳥が霊の験として枯れ井戸から湧き上がる幻想的なシーンがとりわけ記憶に残った。セルジオ・アサドが奏でるギターも、空気のように背景に染み込んでいた。ワンシーンワンカットを多用する相米流演出は、表現力とシナリオの理解力が試されるはずだが、少年たちは自然体でスクリーンを走り回っていた。

 我々から下の世代はアメリカ人になること、即ち英会話を学び、資格を取得し、巧みに自己アピールすることが最大の価値と教えられてきたが、風向きは変わりつつある。独自の文化と感性に根差すことが<真のグローバリズム>に繋がることを、<和の究極形>である「夏の庭」や「おくりびと」が教えてくれた。


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羽生名人の「人間の証明」~竜王戦を振り返って

2008-12-21 02:32:49 | カルチャー
 羽生名人(38)の強さをサラブレッドに例えるなら、3歳時に3冠馬になり、古馬GⅠで10冠以上を獲得したウルトラ名馬である。その羽生が竜王戦で、3連勝後にまさかの4連敗を喫した。渡辺竜王(24)には朝日杯でも敗れたので実際は5連敗である。

 防衛して永世称号(5期連続)を得た渡辺は「夢ではないか、現実であって欲しいと思った」と終局直後の感想をブログに綴っていた。藤井9段らのBS2の解説陣も、緩手を続けて指した羽生が優勢を引っくり返されたと分析していた。

 「打倒羽生世代」を公言してきた渡辺は、秋になると輝きを増す。森内9段から竜王位を奪い、2年連続で佐藤棋王、今期は羽生と下馬評を跳ね返して羽生世代を退けてきた。1~9月も同じ調子をキープできれば、羽生を追う棋士になれるだろう。

 今期竜王戦を世代交代の始まりと見るファンもいるが、俺の意見は違う。タイトル戦に出ずっぱりの羽生には、心身に疲労が蓄積しているようだ。仲間内で<神>と崇められる羽生もまた、我々と同じ人間だったのか。

 将棋は頭脳、精神、肉体をフル稼働させるゲームで、一日の対局で体重を3㌔近く落とす棋士もいる。タイトル戦では尚更だ。強敵がトレーニングと休養をたっぷり取って照準を定めてくるのだから、迎え撃つ羽生はたまったものではない。羽生は新年早々、王将戦7番勝負を戦う。挑戦者はマングース的存在の深浦王位だ。

 名人と竜王の不仲も話題になった。現状での実績は月とスッポンで、両対局者にライバル意識があるとは思えない。個性が水と油ゆえ、打ち解けることは難しかったのだろう。

 羽生も20代前半、勝負師の野性をむき出しにしていた。中原、谷川といった大棋士との対局で規定に反して上座を占め、物議を醸したこともあった。不惑に近づいた羽生は、孤高の求道者というイメージが強い。ユーモアと余裕、直観と詩的な表現に文系の匂いを覚えるほどだ。

 群れをつくらぬ羽生とは対照的に、渡辺はリーダーの資質がある。名人戦の朝日移行問題(06年)で、「信義にもとる」と毎日側に立ったのが渡辺だった。タイトル保持者とはいえ20代前半の若者が米長会長、中原副会長を向こうに回して論陣を張る姿に、将棋ファンは感銘を受けた。 

 二人が同じ大学、企業の研究者だったら、資質の違いは際立っただろう。羽生は田中耕一さんタイプで、ノーベル賞を授与されるレベルの研究者であっても、地位や役職と無縁のはずだ。一方の渡辺は積極的に研究成果をアピールし、学長や社長に登り詰めても不思議はない。

 今年は名人戦、竜王戦とも盛り上がったが、ファンの主流は40代以上のおじさんだ。先細りは確実だが、明るいニュースもあった。16歳の現役高校生、里見香奈が倉敷藤花(女流タイトル)を獲得する。棋界では男女の力量差は大きいが、里見の終盤力には定評がある。NHK杯の女流出場枠を獲得すれば視聴率アップは間違いない。対局者には相当のプレッシャーが掛かるだろう。

 最後に、朝日杯の予想ではなく願望を。POG指名馬セイウンワンダーにとって、3カ月ぶりの出走は大きなハンディだ。勝つのは難しいが、クラシックに繋がるレースをしてほしい。馬券はホッコータキオンとの2頭軸で3連単を買う。不信心の俺が、一足早いクリスマスプレゼントを期待しちゃいけないが……。


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薫最後の事件~さりげない「相棒」解散

2008-12-18 03:19:46 | 映画、ドラマ
 昨朝(17日)、「相棒~レベル4後編」を録画予約した時、<薫最後の事件>のサブタイトルに気付く。未見だった前編(先週放映)最後に告知されたらしい。

 仕事が長引き、11時すぎに帰宅して前後編を通して見た後、眠気を堪えて当稿を更新した。明日は(とっくに今日か)エスタロンモカが必要になりそうだ。

 あまりにさりげない“卒業”に拍子抜けした。ともに体を張った仲なのに、杉下右京(水谷豊)と亀山薫(寺脇康文)の別れはぎこちなかった。「花の里」で伊丹らお約束のキャストを交えて送別会を開いてほしかった。

 やはりと思ったが、シーズン7開幕SP「環流~密室の昏迷」が薫の転機だった。友人の遺志を継ぐ形でNGOに参加するが、いずれ<正義と大義に生きる男>としてゲストで登場してほしい。

 「レベル4~前後編」は薫最後の事件に相応しい、スケールが大きい社会派ドラマだった。マッドサイエンティスト(袴田吉彦)と特命係の対決と思いきや、危機管理体制をめぐる自衛隊の陰謀へとストーリーは進んでいく。警察に首根っ子を押さえられた自衛隊という構図が描かれている点も興味深かった。

 知と理の右京、情と義の薫……。最強コンビが消えるのは寂しいが、誰が新相棒か興味津々だ。元日特番で右京と組むのは官房長補佐官の姉川(田畑智子)という。「レベル4~前後編」で特命係は、警視庁の枠を超え自由に捜査を展開していた。姉川が定着すれば、特命係は<人材の墓場>から<官房長肝いりの特務機関>に格上げになるが、今更それはないだろう。女性の相棒も俺には考えられない。

 別稿にも記したが、新しい相棒はスタート時の寺脇のように“色”が付いていない俳優が選ばれるだろう。右京にとって薫は素直な“弟”だったが、新相棒には反抗的な“息子”を期待したい。

 先月末に放映された♯6「希望の終盤」を見た将棋ファンは、事実誤認の数々に驚いたのではないか。5段のプロ棋士がタイトル戦で記録係を務めることは絶対ない。他の勝負が継続中の広間でインタビューが行われるなんてもってのほかだ。右京がいかに天才だとしても、棋譜を目で追っただけで2歩の反則に気付くなんてありえない。重箱の隅を突くとはこの事だが、箱そのもの(設定)にも納得できなかった。薫が去り、ストーリーの質も低下すれば、ファンも離れるのではないか。

 今日18日は将棋界にとって歴史的な一日だ。竜王戦最終局で羽生名人が勝てば、全7冠で永世位獲得になる。渡辺竜王が防衛すれば、史上最強と目される羽生相手にタイトル戦で前例のない3連敗後の4連勝の快挙になり、同時に永世竜王位も手中にする。

 俺の予想は羽生勝ちだ。羽生は3日前、別棋戦(朝日オープン)で渡辺に負け、4連敗を喫している。お払いを済ませているから、今度は勝つだろうというヘボギャンブラーの勘だ。次稿は将棋をメーンに記すことにする。


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「サルバドールの朝」~クラシコがスポーツを超える闘いだった頃

2008-12-15 00:01:57 | 映画、ドラマ
 クラシコ直前、レアルマドリードに激震が走る。「カンプノウ(バルセロナのホーム)では勝てない」と発言したシュスターが解任され、ラモス新監督の下、雨中の大一番に挑んだ。

 バルサの波状攻撃をレアルがしのぐ展開も後半38分、エトーのゴールで均衡を破ったバルサが、ロスタイムにメッシのループシュートでとどめを刺した。クラシコはかつてスペイン史の写し絵だったが、呪縛もようやく解け、イレブンもファンも<サッカーの祝祭>と位置付けているのではないか。

 ヨハン・クライフは70年代前半、「ファシストのフランコが牛耳るチームに行くつもりはない」とレアルの誘いを拒絶した。当時のスペイン社会を背景に制作された「サルバドールの朝」(06年)では、クライフのバルサ移籍(73年9月)を基点に、時が行きつ戻りつしながらストーリーが紡がれていく。

 本作は実在した革命家、サルバドール・プッチ・アンティックの生涯を描いている。究極の自由(アナキズム)を追求したプッチは、資金確保のため同志と強盗を繰り返すが、次第に追い詰められていく。銃撃戦で自らも重傷を負い、警官を死なせてしまった。プッチを利する証拠は提出を拒まれ、死刑判決を受ける。

 ウエルガ監督は「我々にもっと力があったらブッチを救えた」と当時を回想していた。家族と弁護士は恩赦を求め奔走するが、フランコの後継者がバスク急進派に暗殺されたことで状況は悪化する。ブッチは体制側にとって格好の生贄だった。

 「グッバイ、レーニン!」(03年)、「ベルリン、僕らの革命」(04年)に続き社会派ドラマで主演を務めたダニエル・ブニュールは、同い年(30歳)のガエル・ガルシア・ベルナルとともに世界で最も注目される若手俳優だ。本作では強固な意志と優しさを併せ持つプッチの魅力を余すところなく伝えている。

 刑務官ヘススとの交流など、後半ではヒューマニズムが前面に押し出される。ひとりの人間の死を重厚に捉えた演出が心に響いた。特筆すべきは、プッチへの執行(74年3月)をもって、スペインが死刑制度を廃止したことだ。鮮烈に25年を生きたプッチは、その死をもって社会に大きな影響を与えた。

 主題歌の「天国の扉」(ボブ・ディラン)だけでなく、レナード・コーエン、アイアン・バタフライらのヒット曲がサントラに用いられている。最も印象的だったのは銀行強盗のシーンにフィットしていた「蒸気機関車のあえぎ」(ジェスロ・タル)だ。

 サンチャゴベルナベウ(レアルのホーム)でバルサが5―0で圧勝した試合など、サッカーについての台詞もちりばめられている。クラシコは当時、サッカーを超えた闘いだった。レアルは体制側にとって力の象徴で、クライフは民主派の精神的支えだったのだ。
 
 内戦から独裁終結まで40年余、スペイン史は無数の悲劇に彩られている。自由を求める叫びと夥しい血が、リーガエスパニョーラの豊饒な薫りを醸し出しているのだろう。


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リメークはオリジナルを超えられない?~「ウィッカーマン」に感じたこと

2008-12-12 00:05:58 | 映画、ドラマ
 木から落ちたくないサルどもが永田山で蠢いている。「カイカク、カイカク」の鳴き声を合図に、“格差肯定軍団”が一堂に会した。サル顔(当たり前か)のイッタ君、鼻が利くユリママは、なぜかいつも目立つ場所で尻尾を振っている。
 
 ボスのタロウよ! このままじゃ沽券にかかわる。「ポチさんよ、元はといえば全部アンタのせいだ。引っ込んでろ。こんな山、俺っちがハッパで吹っ飛ばしてやる!」なんて啖呵を切ったら、さすが川筋ザル、拍手喝采なんてことにはならないか……。

 将棋をテーマにする予定だったが、竜王戦の決着が最終局に持ち越された。想定外でネタがない。普段以上に粗くなるが、今回はリメーク映画について記すことにする。

 シネフィル・イマジカで「シャロウ・グレイブ」(95年)を見た。「トレインスポッティング」で一世を風靡したダニー・ボイル監督のデビュー作で、ブラックユーモアと遊び心に満ちたサスペンスである。作品の後半、「ウィッカーマン」(73年)のワンシーンがインサートされていた。

 牧歌的ムードとエロチシズムに彩られた伝説のカルト映画「ウィッカーマン」は06年、ニコラス・ケイジ主演でリメークされた。先月WOWOWで見て、愕然とする。オリジナルの舞台は<キリスト教以前の土着信仰が根付いたスコットランドの島>だったが、リメークでは<女権主義者が支配するアメリカの島>に変わっている。滑稽で平板なリメークというのが正直な感想だった。

 記憶を辿ってみても、オリジナルとリメークを併せて見たのは「ウィッカーマン」ぐらいしか思い浮かばない。気付かずに楽しんでいるということはありうるが……。以下にオリジナルだけ見た作品を挙げてみる。

 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」、「オール・ザ・キングスメン」、「恐怖の報酬」、「サイコ」、「悪魔のような女」、「ダイヤルMを廻せ」、「惑星ソラリス」、「グロリア」、「猿の惑星」、「ゲッタウェイ」、「丹下左膳余話 百萬両の壺」、「用心棒」、「椿三十郎」etc……。

 リメークだけ見た作品はずっと少なく、「スカーフェイス」、「戦艦バウンティ」、「遊星からの物体Ⅹ」、「ザ・フライ」、「チャーリーとチョコレート工場」、「ケープ・フィアー」、「ディパーテッド」ぐらいか。

 この10年、映画界はリメークがトレンドだ。ストーリーや設定を置き換えるのはたやすくとも、時代の空気までコピーするのは難しいと思う。

 「椿三十郎」(07年)も45年間の変化を超越できなかったようだ。“ボロは着てても心は錦”を体現する三十郎の野性は、男性の朝シャンが当たり前になった現在では敬遠されるだろう。空気を読むことに価値を見いだす若者が、三十郎のような唯我独尊の<鞘のない刀>に共感できないのは当然かもしれない。

 ショーン・ペン主演でリメークされた「オール・ザ・キングスメン」(06年)は、失望するのが怖くて見ていない。第2次大戦直後、アメリカ民主主義の虚妄をナチズムに重ねて描いたオリジナル(49年)の批評性が維持されているかどうか、機会があったら確かめてみたい。

 最後に。加藤一二三9段(68、元名人)の野良猫への餌やりが、近隣住民の訴訟という事態に至った。「餌をやらないと死んでしまうと思った」とのコメントは、童心のままで周囲と折り合えないクリスチャンの加藤9段らしい。盤上没我で巧まざるユーモアに満ちた加藤9段は、俺にとってアイドルでもある。速やかな和解を望みたい。


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冷たい爆弾、雨あられ~パッキャオ、そして開高健

2008-12-09 00:05:14 | 戯れ言
 「パッキャオはヘンリー・アームストロングに並んだ」(ジョー小泉氏)、「パンドラの箱が開いてしまった」(香川照之)……。

 パッキャオ(フィリピン)がデラホーヤ(米国)を追い詰めるにつれ、WOWOW放送陣のボルテージも上がっていく。パッキャオは“パウンド・フォー・パウンド”(階級を超越した現役最強)を証明しただけでなく、ボクシング100年の歴史を覆した。

 70年代後半、サラテ(バンタム級王者)はゴメス(Sバンタム級王者)に、そのゴメスはサンチェス(フェザー級王者)に挑み、ともに初黒星をKOで喫した。実力ではなく体重(2㌔弱)の壁が、怪物たちの夢を打ち砕いたのだ。

 80年代以降、多階級制覇が安売りされる。その象徴たるデラホーヤに、俺は疑惑の目を向けていた。チャベスら下り坂の名ボクサーを踏み台にしたが、イーブン条件のビッグマッチでは苦杯を舐めてきたからだ。

 フライ級(50・8㌔)で初の世界王座を獲得したパッキャオ、ミドル級(72・6㌔)王者だったデラホーヤ……。ゴングが鳴った時、あまりの体格差に悪い予感が走る。アメリカ人のアジア人蔑視を前提にした惨劇が、“真剣勝負”の名を借りて展開されるのではないかという……。

 現実は真逆だった。パッキャオは野性の勘と攻防のスピードで、アイドルボクサーを翻弄する。この試合で俺は、パッキャオ最大の武器にようやく気付いた。それは怜悧さと呼ぶべきもので、冷たい爆弾を浴び続けたデラホーヤは、8回終了で試合放棄を余儀なくされた。

 冷たい爆弾といえば、今日9日に命日を迎える開高健だ(1989年没)。ミクシィのプロフィール欄<好きな本・マンガ>の項に、石川淳とともに挙げた作家である。別稿で三島由紀夫をモーツァルトに、開高をベートーベンになぞらえたが、我ながら的を射た比喩だと思う。

 上京した頃、開高は作家というより釣り人、食通、「週刊プレイボーイ」の人生相談の回答者、CMに出てくる小太りのおじさんだった。最初に読んだ「日本三文オペラ」(59年)で、地響きとともに吐き出される言葉の爆弾に圧倒される。体は火照ったが、心にはドライアイス状のしこりが残った。

 日本では60年代後半から70年代にかけ、ベ平連や新左翼の活動が耳目を集めていた。熱い議論が至るところで交わされたが、身体を通さない言葉に辟易したのか、開高はベトナムに赴いた。開高の原点は大阪空襲だと思う。自伝的作品「青い月曜日」(65年)には、楽しく語らった友が数分後、焼け焦げた骸に化した光景が生々しく描かれている。 

 鋭敏な開高は、他人の心の内や俗情の在り処を透明なナイフで抉ってしまう。不可視を見抜くことへの恐怖が、酒へ、釣りへ、そしてベトナムへと誘ったのだろう。開高は麻痺することで正気を保てたのではないか。

 今回は抽象論になったが、いずれ一つの作品について記すつもりだ。お薦めは上記の2作品に加え、「輝ける闇」(68年)、「渚から来るもの」(80年)、「耳の物語」(86年)だ。ちなみに開高は同世代(1学年下)で同郷(大阪)の高橋和巳とともに女子禁制の作家だ。フェミニズムの欠片もなく、女性の描き方も上手とはいえない。

 開高が健在だったら、デラホーヤをGIに、パッキャオをベトコンに重ねつつ、グラスを手にドリームマッチを観戦したはずだ。パッキャオの圧勝に、含蓄ある醒めた感想を漏らしたに違いない。


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サラダ菜との日々~凝っている食べ物あれこれ

2008-12-06 03:04:54 | 戯れ言
 ヒラリー・クリントンが国務長官に就任する。夫の前大統領はグローバリズムの推進者であり、政界の闇将軍だ。夫婦で政権を牛耳る魂胆かもしれない。オバマ次期大統領がクリントンの軛を逃れ、格差に喘ぐ民衆の側に立った時、暗殺は現実味を帯びてくる。

 ビッグ3救済をめぐる公聴会が米議会で開かれている。今日の事態を予測していたのは故デヴィッド・ハルバースタムだ。フォードと日産を取材して著した「覇者の奢り」(86年)は、日米戦後史を背景に自動車業界の構造に迫った重厚なノンフィクションである。復刊を望みたい。

 日本の政界もキナ臭くなってきた。麻生政権は発足3カ月を待たず、レイムダックの様相を呈している。吉田茂は「バカヤロー解散」で憲政史に名をとどめたが、孫が自爆的に解散権を行使したら、口さがない夕刊紙には「バカヤローが解散」なんて見出しが躍るだろう。

 将棋をテーマにする予定が、「報道ステーション」でも大きく扱われたように、竜王戦の決着は6局以降に持ち越された。不眠症で痺れた頭にはネタも浮かんでこないので、凝っている食べ物をダラダラ記すことにする。

 少し前までサニーレタスとグリーンカールを頻繁に買っていたが、冷蔵庫で寝ているうち、鮮度は確実に落ちていく。量的に独り者にぴったりのサラダ菜を発見し、2日に分けて毎日食べるようになった。

 サラダ菜の特徴は自己主張のなさだ。カレーライスに敷いても、魚缶や中華総菜を載せても、焼き肉を巻いてもおいしい。和洋中韓の料理に馴染む“個性なき個性”と、末永く付き合うことになりそうだ。

 第2の友はカルピスソーダだ。この1年で300缶近く飲んだだろうか。程よくマッチした甘さと酸っぱさに、気持ちも体もスッキリ落ち着く。東京では自販機で簡単に買えるが、京都では浸透していないことを帰省時に知った。

 週に一度はパスタを食べるが、百円ショップでおいしいソースを発見した。「たっぷりチキンクリーム」である。サラダ菜を敷いた皿にスパゲティを載せ、チキンクリームを掛ける……。これが俺にとって最高のランチだ。

 セブン-イレブンの「讃岐うどん」と「焼き餃子」もよく食べる。ともにリーズナブルな(105円)冷凍食品だ。レトルトの「カレー丼」も好物だが、近くの百円ショップで品切れになっているのが残念でならない。

 高脂質、高タンパクの食い物を好み、奢る貢ぐを最大の趣味にしていた勤め人時代の俺を知る人は、あまりの変わりように驚くかもしれない。退職後、世の中に先行して生活が苦しくなったが、粗食に親しんだことで以前より健康になる。貧乏の効用を声を大に伝えたい。

 調査、分析したわけではないが、当ブログ最大の支持層は30~40代の女性と勝手に想像している。舌が肥え、買い物上手の彼女たちの目に、俺の貧困な食生活はどのように映るのだろうか。


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ドストエフスキーはR50?~「カラマーゾフの兄弟」を読了して

2008-12-03 01:17:00 | 読書
 五十路を越えてから、初読、再読を問わず漱石とドストエフスキーの全作品読破を目標にしている。今回は帰省の際に読んだ「カラマーゾフの兄弟」(光文社文庫版)について記したい。

 第5巻に収録された訳者(亀山郁夫氏)による「解題」は、全体像を把握する上で大いに参考になった。受け売りはなるだけ避け、自分なりの言葉で感想を記したい。

 本作は<父殺し>を巡るミステリーでもある。傲岸、吝嗇、冷酷、好色を体現し、息子に殺害される家長のファーストネームは、作者と同じフュードルだ。父ミハイルが農奴に殺されたことを知った時、18歳の作者は初めて癲癇の発作を起こす。父の死を抑圧からの解放と感じたことが原罪意識となり、年を経るにつれて膨らんでいく。「カラマーゾフの兄弟」はドストエフスキーにとって<告解>であり、自伝としての要素も含む作品といえる。

 <父殺し>の容疑者は3人いる。魅力的な激情家の長男ミーチャ、冷徹な無神論者の次男イワンは父フュードル、2人の女性(グルーシェニカとカテリーナ)と二つの恋愛三角形を形成している。カラマーゾフ家で料理番を務めるスメルジャコフはフュードルの隠し子とされ、癲癇の持病を抱えている。

 強烈なキャラの兄弟を差し置き、主人公に据えられたのが三男アリューシャだ。受容体として作品に現れる修道僧のアリューシャは、物語を紡ぐ糸であり、登場人物の心の内を写す鏡の役割を果たしている。アリューシャは<DNA上の父=フュードル>だけでなく、<精神上の父=ゾシマ長老>を同じ日に亡くした。

 ラストで暗示されているが、ドストエフスキーは<第二の小説>の構想を練っていた。アリューシャが<社会の父=皇帝>の暗殺に関わるというストーリーで、同志となる少年たちは本作にも登場している。「カラマーゾフの兄弟」は遥か高みに聳える次作の序章に過ぎなかったのだ。

 ムイシュキン(「白痴」)を水で薄めたようなアリューシャだが、スタヴローギン(「悪霊」)の個性を付与され再登場の予定だった。壮大な構想は、作家の死とともに葬られる。その2カ月後、アレクサンドル2世が暗殺された。

 ドストエフスキーは難解というのが世間の常識で、ロシアの歴史と当時の状況を知ることが作品理解の前提とされるが、知識がなくても十分に楽しめる。人生経験に富んだ者にとって至上のエンターテインメントなのだ。

 大学教授たちは「カラマーゾフの兄弟」を学生に薦めるが、若者が読んでも消化不良を起こすのがオチだ。邪まな愛、絶望、憎しみ、嫉妬、金銭欲、家族との葛藤、老いと死への恐怖、自らの歪みの自覚、消し去りたい愚行の数々、失せぬ煩悩……。人生の河で汚濁と泳ぐ中高年なら、登場人物の言動や心理を理解できるはずだ。「カラマーゾフの兄弟」はR50に指定すべきかもしれない。

 ドストエフスキーの作品では、背徳と純潔を併せ持つミステリアスなヒロインが推進力になっている。「罪と罰」なら高潔な娼婦ソーニャ、「白痴」ならナターシャ、「カラマーゾフの兄弟」ならフュードルとミーチャの諍いのもとになるグルーシェニカだ。作者は醒めた目で恋愛と欲望の深淵を描いている。

 スメルジャコフの母リザヴェーダや「悪霊」のマリアのように、聖と穢れのアンビバレンツで畏敬され、同時に排除される神懸かりの女性が頻繁に登場する。イワンとアリューシャの母ソフィア、「罪と罰」でラスコリーニコフが心ならずも殺してしまったリザヴェーダも、同じ範疇に属している。彼女たちの原型は、福音書に描かれたマグダラのマリアではないか。独自の見解のつもりだが、万余のドストエフスキー研究者の誰かが既に言及しているかもしれない。

 革命運動に加わって死刑判決を受けたドストエフスキーは、日本で左翼御用達の作家だったが、本国ロシアでは正教に帰依した保守主義者と見なされていた。内ゲバを描いた「悪霊」は、左翼青年の憤激の的になったという。ドストエフスキーは本当に転向したのだろうか。

 ドストエフスキーの作品の特徴は、多くの登場人物が自らの思想や意見を披瀝する<多声性>だ。転向声明後も警察に監視されていたドストエフスキーは、本音を隠す必要があった。作品における<多声性>も、自堕落な生活も、右派との交友もカムフラージュの手段ではなかったか……。亀山氏は「解題」で興味深い仮説を提示している。

 「カラマーゾフの兄弟」のハイライトは第2部の「大審問官」だ。神の存在をテーマにしたイワンとアリューシャの対話は、信仰を持たない俺の心にも強く響いた。世界最高の小説を読了した満足感に浸っているが、深層を理解できたとはとても思えない。ドストエフスキーが残したヒントと仕掛けの数々を発見するため、死ぬまでにもう一度読み返すつもりだ。



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