酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「二重人格」~青年ドストエフスキーの懊悩

2023-02-27 21:01:15 | 読書
 パンサラッサがサウジカップを制した。雌伏の時期を経てトップ調教師に上り詰めた矢作芳人師とスタッフ、乗り馬に恵まれないものの地道に騎乗を続ける吉田豊騎手が、JRAでダート経験1回(11着)の同馬を世界最高峰のダートレース制覇に導いた。日本の競馬から消えてしまった夢と奇跡を目の当たりい出来て胸が熱くなった。

 朝日杯準決勝の豊島将之九段戦で絶体絶命から這い上がった藤井聡太竜王(5冠)は勢いそのまま決勝で渡辺明名人を破った。中1日で臨んだ王将戦第5局では羽生善治九段との二転三転の激闘を制し、3勝2敗と防衛に王手をかけた。AIの評価値が藤井30%を示した時、屋敷伸之九段は「人間的には藤井さんの方が指しやすいように見える」と解説していた。対局番組の楽しみの一つは、 AIと人間の感性との微妙な距離だ。

 前々稿で記したように、3~4月にかけ白内障の手術をする。映画の字幕は読み取れるが、活字には難儀している。フョードル・ドストエフスキーの「二重人格」(小沼文彦訳/岩波文庫)は何度も放り出しそうになった。とにかく字が小さく、30分も読むと目がかすんでくるからだ。

 俺は当ブログで初読、再読を含め「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」の4長編を紹介してきた。その他、「貧しき人びと」、「地下室の手記」、「賭博者」を学生時代に読んでいて、「二重人格」はドストエフスキーの8作目になる。俺は<ドストエフスキーはR50の至高のエンターテインメント>と評してきた。だが、「分身」と訳されることが多い「二重人格」は<読みづらい>、<難解>といったマイナスイメージそのものの作品だった。

 本作は1846年に発表された。舞台は帝政ロシアの首都ペテルブルクで、主人公のゴリャートキン氏は九等文官の下級官吏だ。ちなみに当時、一等官から八等官までが上級、九等以下から十四等官までが下級に分類されていた.ゴリャートキン氏は上級官吏へあと一歩の位置にあった。

 1840年代といえば江戸時代で、都市という概念は日本にはなかったと思う。だが「二重人格」には極寒のペテルブルクの街並みと風俗が、時にゴリャートキン氏の心象風景と映すかのように描かれている。先駆的な<都市小説>といえるだろう。さらに、主人公が勤める官庁の人間関係がつぶさに描かれており、<サラリーマン小説>を連想させる部分もある。

 ドストエフスキーは「貧しい人々」で華々しいデビューを飾り、自信をもって「二重人格」を世に問うたが、暗くて回りくどく、反復が多いと酷評された。ドストエフスキーはゴーゴリをリスペクトしていたが、「狂人日記」の影響が濃過ぎることも、酷評の理由の一つかもしれない。

 「二重人格」は作者が25歳の時の作品だが、主人公のゴリャートキン氏は少し年上で世の中の垢にまみれた感がある。大都市に暮らす孤独な独身者の悲哀をまとっているが、下級官吏とはいえ、住み込みの従僕を雇う余裕はある。当時のロシア社会における習慣に沿った設定なのだろう。それが一般的なのかはともかく、ゴリャートキン氏自身の結婚や女性について、あるいはドイツ人についての捉え方も吐露されている。

 これは青年期の男性では当然のことだが、ゴリャートキン氏もまた、自分が何者で、何を信じて世を渡っていくべきか自問自答する。冒頭から世間とうまく距離を取れていないことは明らかで、主治医の病院で一騒動を起こし、職場では上司や同僚に突っかかるなど、他者と折り合いが悪い。

 自分は非社交的だが、権謀術数を用いたりせず、人を傷つけたりもしない。高潔さを保っているが、敵は容赦しない……。ゴリャートキン氏は被害妄想的にこう考え、職場の上司とその甥を敵と見做している。そこにゴリャートキン氏を追い込む男が現れた。容姿どころか地位まで同じ九等文官の新ゴリャートキン氏である。

 フロイトなどの精神分析が流布する前だが、新ゴリャートキン氏はドッペルゲンガー(自己像幻視)だ。第三者とは関わらないと定義されているが、新ゴリャートキン氏は上司に媚びを売り、悪意を持って高潔を自任する旧ゴリャートキン氏を嘲笑い、更なる孤立に追いやる。旧ゴリャートキン氏はプライドを破壊され、精神病院に収容される。

 若き日のドストエフスキーの懊悩が滲んでいたが、対話を重視する<多声性>を身につけたドストエフスキーは、ユーモアと毒がある語り口で、神と悪魔、罪と罰、純粋さと欲望、秩序と反抗、愛と嫉妬、正義感と沈黙、救いと堕落といった深淵なテーマを対比し、カタルシスとカタストロフィーを表現する作家になった。
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「対峙」~加害と被害を超える赦しと癒やし

2023-02-22 17:31:54 | 映画、ドラマ
 先日、京都に日帰りし、ケアハウスから特養に移った――といっても同じ施設内であるが――母の手続きを代行した。3カ月ぶりに会った母は穏やかな様子だった。頑固で非社交的だが、職員たちに全幅の信頼を置いているようで、感謝の言葉を並べていた。世間的にいう〝仕事が出来る〟とは大抵、〝要領がいい〟と同義だが、介護、看護では人間の本質が試される。俺のような人間には到底無理な仕事なのだ。

 親不孝な俺は両親に迷惑をかけ続けていた。30代手前まで定職に就かず、よくいえばフリーターだが、実態はひきこもりの走りであったことはブログにも綴ってきた通りだ。母は俺が何かやらかすんじゃないか不安で、朝のニユースや新聞を見るのが怖かったという。知り合ったばかりの友人に「おまえ、爆弾でも造ってるんか」と言われたことがある。まあ、危ない、いや危なく見える男だったことは間違いない。

 幸い両親の心配は杞憂に終わったが、息子が学校で銃撃事件を起こした両親、息子が被害者になった両親が対話するという設定の映画をシネマート新宿で見た。ドラマや映画で活躍してきたファン・クランツの初監督作「対峙」(2021年)である。アメリカのハイスクールで銃乱射事件が頻発するが、フランツは18年にパークランドで起きた事件の際に見た家族のインタビューに衝撃を受け、本作の企画を思いついたという。
 
 ほぼ全てのシーンが4人の対話だけで進行する。乱射事件の加害者は16歳で、その父リチャード(リード・バーニー)、母リンダ(アン・ダウド)は事件後、離婚したという設定だ。10人の生徒が犠牲になったが、加害少年も自殺している。10人のうちのひとりである16歳の少年の父ジェイ(ジェイソン・アイザックス)、母ゲイル(マーサ・プリンプトン)の4人が6年を経て一堂に会した。

 この4人の対話が教会の一室で進行する。コーディネートしたセラピスト、場所を提供した教会関係者も冒頭とラストに登場するだけで、回想シーンも一切用いない。加害者と被害者の関係者が同じテーブルに着き犯罪を捉え直すことを<修復的司法>という。規模やコーディネーターが加わるか否は様々だが、本作では上記の4人のみで行われた。

 脚本も担当したクランツの丹念な取材によって、凄まじい緊張感がスクリーンを覆う。日本人的にいうと<銃が簡単に手に入る米国社会の病理>と杓子定規に斬り捨てたくなる。もちろん、社会の背景を俯瞰で眺めることも可能だが、個の視点で見つめないと上滑りになってしまう。ぎくしゃくしていた会話だが、ゲイルの「息子さんについて知っていることを教えてください」という問い掛けから熱を帯びてくる。

 幾つもの切り口から問題を提起するジェイ、時に感情を隠さないゲイル、頑なな印象を与えながら苦悩を吐露するリチャード、いつも涙ぐんだ表情で罪を犯した息子への愛情を隠さないリンダ……。4人の名優はリハーサルを重ねな。がら、個人的な出来事について明かしつつ語り合ったという。だからこそ、会話だけで成り立つスリリングで奥の深い物語が出来上がったのだ。

 リンダは最後に話し忘れたことがあると、ジェイとゲイルに告白する。ゲームに没頭する息子に「かまわないでくれ。部屋に入ったら殴る」と言われ、ドアから離れた。「あの時、息子と接していたら」と話すリンダとゲイルは抱き合った。同じ痛みを共有する者として……。

 この緊迫感に溢れたドラマをブログで紹介するなんて、俺の力を超えている。ぜひご覧になって、赦しと癒やしに至るプロセスを体感してほしい。教会の一室で展開することから、キリスト教の持つ影響力も窺える。<対峙>の先が<寛容>であることを願ってやまない。

 冒頭に記したように、母は俺の〝やらかし〟を危惧していた。何とか〝やらかさ〟なかったが、褒められた青春時代ではない。改めて俺をとどまらせてくれた母、そして亡き父、妹の愛に感謝したい。
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余寒の候の雑感~白内障、史上最高のスーパーボウル、グリーンズジャパン総会

2023-02-17 05:19:27 | 独り言
 この2、3年、視力に異変を感じていた。正面に夕日が落ちると眩しくて何も見えなくなるし、夜道では足元が覚束ない。メガネドラッグでチェックしたが、視力は落ちていなかった。仕事をやめて運動不足になり、数値が悪くなった糖尿病由来と心配になったが、眼科の検査を受け、白内障であることが判明した。 

 膝、腰、肩に歯、そして糖尿病と満身創痍だが、さらに白内障で手術(左右で2回予定)と肉体の衰えはとどまるところを知らない。死ぬまで読書を趣味にしたいというささやかな願望を現実にするためにも、手術は不可欠だ。術後、新しい世界は開けるだろうか。

 チーフスVSイーグルスのナンバーワン・シードの組み合わせになった第57回スーパーボウルは、史上最高の熱戦になった。放映権料の高騰で、プレミアリーグなどテレビで視聴することは難しくなっている。放映権料が米国で年間100億㌦(1兆3000万円超)のNFLのポストシーズンを、日テレジータスは全て生中継で放送した。何か〝からくり〟があるのだろうか。

 主音声の解説は現地(ステートファーム・スタジアム)から森清之氏(東大HC)が担当し、インターバルには村田斉潔氏(龍谷大HC)と有馬隼人氏(アサヒビールHC)による詳細な分析が提供される。イーグルスは攻撃も守備も岩盤のような堅実さ、チーフスは熟練した柔軟性を特徴にしている。史上初の黒人QB対決で、イーグルスのハーツは24歳で突進力に秀で、チーフスのマホームズは27歳にして〝レジェンド〟の域に達している、

 モビリティーを誇る両QBだが、マホームズの右足首の故障が不安視され、イーグルスやや有利の下馬評だった。アメリカのドラマを見ていると、ハイスクールでもQBは白人で、全校女子の憧れの的という設定が多い。時代は変わり、QBのみならず黒人選手が主力を占めているが、NFLではコーチの人事で黒人は冷遇されていると指摘する声が強い。

 両QBの躍動に、サッカーW杯の決勝を思い出した。ハーツいはエムバペ、マホームズにはメッシを重ねていた。チーフスのアンディ・リードHCがイーグルスを率いていた頃、上記の村田氏は〝戦術がコンサバティブ(保守的)〟と評していた。だが、ファンタジスタのマホームズをQBに据えて以降、遊び心満載のトリックプレーを用いることが増えた。チーフス勝利も満足だし、エキサイティングなシーソーゲームに見入ってしまった。

 先日、ズームで開催された第12回緑の党(グリーンズジャパン)総会に参加した。統一地方選、グローバルグリーンズ世界大会(6月、韓国)を控え、昨年7月に結成10周年を迎えたグリーンズジャパンの飛躍の年へ……こう力を込めたいところだが、簡単ではない。日本に限れば、若い世代が政治に対して忌避感を抱いている。左右を問わず、政治団体やグループの高齢化が進んでいるのだ。

 日本はいつからか<世界標準>に頓着しなくなった。自公政権はジェンダー、LGBT、夫婦別姓など戦前回帰が甚だしい。統一教会、日本会議、神政連との結び目だった安倍晋三元首相の影響力は今も絶大で、日本は鎖国状態になりつつある。さらに軍事費増強、原発シフト、空前の値上げと絶望的な状況だが、グリーンズジャパンは接着剤の役割しか果たせていない。

 俺は<脱成長>、<ミニシュパリズム>、<コモン>を軸に据え、環境危機、格差拡大をストップするべきだと考えているが、限られた時間で議論は深まらなかった。総会と離れてグリーンズジャパンの未来を見据えると、希望がないわけではない。杉並で起きていることがモデルケースになる。

 2年前の7月、グリーンズジャパン主催の連続オンラインセミナーで講師を務めた岸本聡子氏は、アムステルダムのNGOに所属して市民運動に関わってきた。とりわけ市民と市政を結ぶプラットホームを構築した<ミュニシパリズム>発祥の地バルセロナの具体的な施策をセミナーで紹介していた。その岸本氏が昨年、杉並区長選で当選する。彼女の選挙に協力したボランティアの中で、グリーンズジャパン公認で区議選に挑戦を決めた女性もいる。

 コロナ禍以降、引きこもり気味だった俺だが、暖かくなったら長い冬眠から覚めるつもりでいる。仕事でも探してみようかな。
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「嫉妬/事件」~共振する熟年女性の精神と肉体

2023-02-12 21:28:30 | 読書
 中田宏樹八段が亡くなった。享年58。毎年高勝率を誇り、〝デビル中田〟と親しまれていた。剛直、クールさ、はにかみを併せ持った実力派の死を悼みたい。王将戦第4局は羽生善治九段が藤井聡太王将を破り、2勝2敗のタイになる。藤井の封じ手が結果的に敗着になったという。達観したような柔らかさに加え、最近の羽生には以前の燦めきが戻ってきた。タイトル通算100期が現実味を増してきた。

 暇に飽かしてYoutubeを見ることが増えた。猫たちと人との触れ合い、将棋の解説、競馬予想と調教、海外アーティストのライブなどをチェックしているが、最近気になっている〝ジャンル〟は、普通の女性が自身の日常をアップしている映像だ。共通点は<孤独>をウリにしていること。俺が頻繁に眺めているのは<孤独な55歳女>と題されたチャンネルで、顔はもちろん、来し方も明かしている。

 他の女性たち同様、〝年齢は本当?〟というツッコミが入っているが、当人は免許証を見せていた。夫を事故で亡くした後、専門学校で学び、美容系のインストラクターをしている。チャーミングなのも職業柄で、二つのジムに通い、食事にも気を使っている。何てことのない日常だが、ゆったりした語り口に惹かれ、チャンネル登録している人も多い。

 和む赤裸々さと対照的に、女性の鋭い赤裸々さに言葉を失う小説を読んだ。昨年度のノーベル賞受賞者、フランス人作家のアニー・エルノー著「嫉妬/事件」(ハヤカワepi文庫)である。「事件」の映画化作品「あのこと」を見逃したので、原作を読むことにした。エルノーの小説は<オートフィクション>――作者と語り手が同一人物であることを前提にフィクションを構築する――にカテゴライズされている。

 「黒の舟歌」風にいえば、男と女の間にある暗くて深い河の岸に佇む俺にとって、「嫉妬/事件」はハードルの高い作品だった。まずは「嫉妬」の感想から。主人公の私は結婚18年を経て、付き合った年下のWと6年で別れた。作者の年齢と発表時期を考えると、私は恐らく50代半ばといったところか。桐野夏生も高齢女性の性を描いているが、エルノーの生々しさと比べるとおとなしいものだ。

 冒頭でWのペニスを掴んでいる記憶が甦る。Wのペニスは今、47歳の新しい恋人に占拠されている。占拠すなわち〝オキュペーション〟が原作のタイトルなのだ。精神も嫉妬に占拠された私は、常軌を逸した狂おしい行動に出る。Wが語るヒントを元に女性像を創り上げ、街を彷徨い、大学関係者に片っ端に電話する。精神と肉体が交錯し、生々しさと冷徹さを併せ持った表現に圧倒された。

 「事件」の主人公であるわたしは熟年の大学教員で、冒頭でエイズ検査を受けるシーンが出てくる。そして1960年代、彼女が大学生時代に経験した<事件=中絶>の一部始終が日記風に記される。アメリカでは中絶問題が世論を二分しているが、当時のフランスではカトリック教会の絶対的な支配の下、中絶はおろか避妊でさえ禁じられていた。だが、男性のエリート層は望まぬ妊娠に苦しむ女性に寄り添うことはなかった。わたしも男性優位社会で苦しむことになる。

 わたしは母にも妊娠を告げることが出来ず、堕胎に手を貸してくれる人を探す。ようやく見つけた女性を〝天使製造者〟と呼び、ようやく目的を果たした。学生寮のトイレで胎児を産み落とした時、<生と死を生んだ。私は自分の母親を殺した>と振り返る。生々しい描写に目を背けた読者も多いと思う。

 フランス人は日本文化にオマージュを抱いているといわれる。両作にもにほ日本映画の感想が記されていた。「嫉妬」に紹介されたのは「夜の女たち」かもしれない。「事件」ではスクリーンから痛みが零れてくる「切腹」だ。エルノーの作品は日本であまり紹介されていないが、機会があれば購入することにする。
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「シャドウプレイ」~中国、台湾、香港を疾走する影絵芝居

2023-02-07 20:53:22 | 映画、ドラマ
 大学に入学した頃、政治の季節は終わっていたが、入ったサークルがノンセクトラディカル(日本共産党やセクトを嫌う左派)の系譜を引いており、俺も先輩の影響に染まった。民青(共産党の下部組織)が明るく説く民主主義に感じた欺瞞が、45年を経て甦る。党首公選制を主張した党員は除名処分となった。日本共産党と中国共産党の間にどれほどの距離があるのだろう。

 この10年、20本近くの中国映画を紹介してきた。「最愛の子」、「妻への家路」、「苦い銭」には感銘を覚えたし、「象は静かに座っている」は4時間弱の長尺ながら、緊張が途切れることは一度もなかった。香港との合作になった「ソウルメイト 七月と安生」と「少年の君」(ともにデレク・ツァン監督)は香港映画の最後の光芒といえるだろう。

 とはいえ、入り込めない作品の方が多く、覚えた〝違和感〟は各稿で記してきた。俺のふやけた脳にフィットするか不安を抱えたまま、「シャドウプレイ(完全版)」(2019年、ロウ・イエ監督)を新宿ケイズシネマで見た。本作に惹かれた理由はタイトルにある。♪影絵芝居で君自身の死を演じる……で始まり、♪夜の闇の中で君を待っている……で閉じられるジョイ・ディヴィジョンの名曲「シャドウプレイ」を連想したからだ。

 舞台は広州で、ストーリーの起点は天安門事件が起きた1989年だ。中国側の検閲でカットされた部分を復活させたため、完全版と銘打たれている。だが、政治的背景はない。90年以降、本格化した改革開放路線の流れに乗った2人の男を軸に描かれていた。大学の同期だったタン(チャン・ソンウェン)は行政サイドの開発主任になり、ジャン(チン・ハオ)は不動産会社の社長になる。

 癒着によって出世した両者には更なる繋がりがあった。タンの妻リン・ホイ(ソン・シア)は学生時代、プレーガールとして鳴らしており、ジャンの恋人だった。タンと結婚後もリンは公私ともジャンのパートナーだった。ジャンとともに起業したアユン(ミシェル・チェン)、タン夫妻の長女ヌオ(マー・スーチュン)もパズルの重要なピースだ。

 本作は広州を基点に台湾と香港へと翼を広げ、1989年から再開発地区で立ち退き賠償を巡る抗議運動が起きた2013年、アユンが失踪した2006年を中心にカットバックする。闇のシーンが多いが、住民たちの暴動シーンはエキサイティングだった。なだめ役だったタンはその夜、屋上から転落死した。捜査を担当したのは若手刑事のヤン(ジン・ボーラン)だった。

 06年の冒頭のシーンでカップルが死体を発見するが、DNA鑑定は行われなかった。単独で捜査を進めていたヤンの父親は交通事故に遭って認知障害に陥る。ヤンは父の協力者だった探偵アレックスを頼って香港に渡る。ジャンは不遇の時期、台湾でアユンと出会う。<中国-香港-台湾>は改革開放路線以降、不可分であったことが窺える。

 闇で蠢く登場人物たちの実像が、ヤンの捜査が進むにつれ鮮明になっていく。不毛の愛も描かれた影絵芝居の余韻は去らない。ロウ・イエ監督といえば「ブラインド・マッサージ」など旧作の評判も高い。これまで縁がなかったが、放映を心待ちにしている。
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乾きと潤い、疎外と自由、定着と流動~「砂の女」が映すアンビバレンツ

2023-02-03 22:29:47 | 読書
 鮎川誠さんが闘病の末、74歳で亡くなった。シーナ&ザ・ロケッツのライブは学園祭の一度きりだったが、再結成されたサンハウスを2010年、ルースターズの追っかけだった知人の女性と一緒にフジロックで見た。鮎川さんも柴山俊之とともにステージに立っていた。サンハウスはめんたいロックの源流バンドで、柴山は作詞者として後期ルースターズに楽曲を提供している。

 6日に鮎川さんと共演予定だったPANTAは、「ロックンロールを背負って生きてきた」と哀悼の言葉を送っている。もう一つの訃報を知った。テレヴィジョンを率いたトム・ヴァーレインで、享年73と鮎川さんと同世代だ。併せて冥福を祈りたい。テレヴィジョンとルースターズの共演を渋谷で見たことを思い出した。時代を創った2人のギタリストがあの世で、亡きシーナさんを交えてセッションしている様子が目に浮かぶ。

 「砂の女」(安部公房著)を再読した。学生時代以来になる。大学から徒歩20分ほどのターミナル駅前のパチンコ店では、ハードカバーの小説も景品の棚に並んでいた。「砂の女」もそこでゲットしたが、誰かに貸したのか見当たらない。急に読みたくなったので文庫本を購入した。

 安部の作品は小説・戯曲を含めて20作近く読んだ。<アイデンティティーを軸に、疎外からの解放と絶対的な自由を希求する作家>という生硬なイメージが出来上がっていたが、久しぶりに本作を読んで感じたのは熱さと湿っぽさだ。パサパサの乾いた閉ざされた空間で、砂は水気を含んでいく。

 教師の男(仁木順平)は休暇を利用して、新種のハンミョウを採集するため砂丘に向かう。老人に勧められ、一夜の宿を取った。そこでは夫と娘を砂に奪われた30前後の女が暮らしていた。翌日、外に出ようとすると、縄梯子が外されていた。囚われの身になった男は、家(穴)を守るため、夜通し砂掻きをする羽目になる。迷い惑いつつ男が稠密に描写することで、砂の伽藍は寓話へと飛翔した。

 本作を読んで感じたのはアンビバレンツが同時に存在することだ。<乾きと潤い>、<疎外と自由>、<定着と流動>はそれぞれが、砂自体が内包するベクトルである。男は砂壁の内側に閉じ込められたと感じ、壁の外側への脱出を試みる。ストライキをしたり、仮病を使ったりと子供じみたやり方で……。著者自身が<鳥のように飛び立ちたいと願う自由と、巣ごもって誰にも邪魔されまいと願う自由>と、二つの自由を対比している。

 男は〝メビウスの輪〟と呼ばれている組合活動家との会話、男を<精神の淋病患者>と嗤う〝あいつ〟(別居中の妻)とのやりとりを思い出す。そして、〝砂の壁の外〟で自分が真の意味で自由だったのか問いかけるのだ。男は自由のまやかしに思い当たる。男の順応は女との距離の接近と並行していた。

 砂の中で裸で眠る女は、男が砂丘を訪れた目的であるハンミョウに似ている。ハンミョウは誘うように獲物をおびき寄せ、疲れたところを襲う。男はまさに女の手管にかかった獲物だった。それどころか、男は脱出を企てながら、女が望んでいたラジオを外から送ることを誓うのだ。

 失敗に終わったスリリングな逃走劇は、安部自身の満州における経験に基づいていると指摘する声もある。本作発表は共産党綱領を批判し除名された時期と重なっている。不自由な共産党の体質に気付いたからだろう。女の妊娠が男の生活を変える。子宮外妊娠で女は入院し、男は解き放たれた。喜々として都会に帰るはずだった男に、村にとどまる理由があった。

 偶然から男は、砂から水を生む溜水装置を発明していた。村にとって大きな変化をもたらすことが予想される。そして、女への愛情も芽生えていた。出るか残るか、男が後者を選んだことは、ラストの審判で明らかになる。男は法的に失踪者と認定されたのだ。

 読了後、様々な思いが去来する。66歳の今でさえ、消化不良なのだから、二十歳そこそこで本作を理解出来たとは思えない。開高健の「輝ける闇」を再読した時にも感じたが、安部も性を冗舌に描いている。巨匠たちの人間の本質に迫る筆力を改めて実感させられた。
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