酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「人質の朗読会」&「埋もれる」~WOWOWドラマの底力

2014-03-30 21:26:04 | 映画、ドラマ
 母は先日、「ボケ防止のため、今年はプロ野球を見る」と電話で話していた。巨人、DeNA、西武を応援する予定という。殆ど興味のない俺だが、楽天の松井裕樹には注目している。仕事先の夕刊紙によると、松井は体育会的なスポーツ界では異質の、自立したタイプらしい。

 スポーツに高揚することはあるが、政治に目を向けると暗澹たる気分になる。公明党も自民党に倣い、「武器輸出禁止三原則」解禁を決めた。<平和を守る創価学会>というメッキは、とっくの昔に剥げ落ちている。民主党は自公に歩調を合わせ、「トルコとの原子力協定批准」に賛成する方向だ。都知事選で舛添候補を推すはずだった民主党は、一夜にして<脱原発>の仮面を被り、細川支持に回る。今では再稼働賛成の連合に引き回されているようだ。

 「笑っていいとも!」があす最終回を迎える。番組開始の1982年秋、俺は仕事の少ないフリーターで、「笑って――」は貧しい昼飯の貴重な供だった。初めてタモリを見たのは、川崎敬三が司会を担当していた「アフタヌーンショー」である。タモリは「4カ国麻雀」を披露したが、「故郷に帰った方がいい」と川崎に諭されていた。川崎は今、自身の不明を恥じているに違いない。歴史に「もしも」は禁物だが、「笑って――」に出合えなかったら、タモリは毒々しい華を咲かせるアングラの帝王になっていたかもしれない。

 さて、本題。WOWOWで放映されたドラマ「人質の朗読会」と「埋もれる」を録画で見た。「人質の朗読会」の原作について別稿(11年5月)で紹介しているので、簡単に記したい。小川洋子は欠落の哀しみと喪失の痛みを描き、ささやかな人生に温かい視線を注ぐ。カットとアレンジは致し方ないが、映像化で小川ワールドが浮き彫りになっていた。

 南米で日本人旅行者がゲリラの人質になる。緊張と恐怖を和らげるため、人質が朗読の形で来し方を語るというストーリーである。盗聴によって状況を探る政府軍兵士は、祖母の影響で日本語に親しみを覚えているという設定だったが、その部分は省略されていた。

 記憶に残る場面を選ぶという点で、「ワンダフルライフ」(99年、是枝裕和監督)と重なるが、切迫した状況ゆえ、カラフルではなくささやかな思い出が選ばれる。川面に落ちた雨滴のような距離感で、幾つもの水彩画が提示される。「B談話室」と時空を超えて広がっていく「コンソメスープ名人」のエピソードが印象的だった。

 辛いことであっても、自身の思いを率直に語ることは癒やしに繋がる。東日本大震災の被災者たちも避難所で、本作の登場人物のように、悼みと願いを込めた思いを共有したに違いない。

 「人質の朗読会」のまろやかさとは対照的に、ラストでグサッと抉られたのが「埋もれる」だった。WOWOWシナリオ大賞受賞作の映像化で、告発と沈黙、組織と個人、家族の絆、DVといったテーマが循環しながら進行するミステリーだ。

 主人公の北見(桐谷健太)は大手食品会社のエリート社員だったが、正義感に駆られ、食品偽装を告発する。結果として下請け企業が解散し、自身と仲間は失職する。会社の隠蔽体質は何も変わらず、北見は妻から三行半を突き付けられる。娘が幼稚園で「おまえの父親はちくり魔」といじめられたのも、妻が離婚を決意した理由だった。<長いものに巻かれる>に価値を置く親の影響は、幼児にまで及んでいた。

 北見が再就職した郷里の市役所にも、腐敗臭が漂っていた。市長(大友康平)が汚職の元締で、中学の同級生である加藤(水橋研二)も片棒を担いでいる。北見が取り組んだのがゴミ屋敷の処置で、市長が進める強制撤去とは別の手立てを講じ始める。

 本作で異彩を放っていたのがゴミ屋敷の主、熊沢役の緑魔子だ。熊沢を気遣う隣人の葉子(国仲涼子)は北見の同級生で、初恋の相手でもある。バツ1の北見、夫が失踪して数年経つ葉子が接近するのは当然の成り行きで、長男とも親しくなる。勉強を教えたり、釣りに連れていったりと、家族になる準備をする。

 熊沢家はなぜゴミ屋敷になったのか? ゴミ屋敷の処分ともリンクする市役所の不正は浄化に向かうのか? 告発者は現れるのか? 北見と葉子の関係は進展するのか? もうひとつの「?」ともまりながら、衝撃のラストに導かれる。

 WOWOWは映画、スポーツ、音楽と優れたコンテンツを揃えているが、ドラマの充実にも目を瞠る。今回の2本も上映作品に匹敵するほどの質を誇っていた。
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「怒れ! 憤れ!―ステファン・エセルの遺言―」~日本でも民主主義を始めよう

2014-03-27 23:43:05 | 映画、ドラマ
 袴田巌死刑囚が東京拘置所から釈放された。再審開始、死刑と拘置の執行停止を決定した静岡地裁は、<証拠捏造の疑い>に言及した。国の民主主義度を測る物差しは刑務所だが、先進国で唯一、前近代的な牢獄を維持しているのが日本だ。基本的人権、死刑制度の是非、償いの場所の在り方と、司法制度全般について議論すべき時機が来たと思う。

 台湾の学生が国会を占拠した。若者が政治運動の前面に立つ韓国と同様、熱い風が吹いている台湾だが、国内では非暴力を貫く学生たちを暴徒と決めつける報道が目立つという。日本のメディアはこの間の動きを無視している。

 ケイズシネマ(新宿)で先日、「怒れ! 憤れ!―ステファン・エセルの遺言―」(トニー・ガトリフ監督/12年、フランス)を見た。ユダヤ系のエセルは第2次大戦時、レジスタンス活動に加わった。強制収容所で処刑寸前に逃亡し、戦後は保守的なドゴールと袂を分かつ。国連大使など要職を経て、人権問題、パレスチナ問題などに取り組んだエセルは昨年2月、95歳で亡くなっている。

 反グローバリズム、反資本主義を鮮明に掲げたパンフレット「怒れ! 憤れ!」は全世界で翻訳され、クリスマスに若者が恋人に贈るほどの大ベストセラーになる。政官財の不正を穿ち、貧困と格差の実態、移民の権利を訴えた同書にインスパイアされ、人々が立ち上がった。ギリシャの議会前デモ、スペイン15M運動、バスティーユ広場(パリ)での連帯集会の模様が実写で織り込まれている。

 ロマの血を引くガトリフの作品について、ブログを始めた頃(05年)に何度か紹介した。ロマはナチスにより50万人前後が虐殺された。差別と弾圧は現在にも及ぶが、芸術、とりわけ音楽の分野で絶大なる影響を与えた。「ハンガリア狂詩曲」や「ツィゴネルワイゼン」などロマン派の名曲はロマに触発されて作られたという。

 フラメンコは<南欧―中近東―北アフリカ>に広がるロマのネットワークが醸成した音楽だ。ジェフ・ベックが最大の敬意を払うギタリストはジャンゴ・ラインハルト(ロマのマヌーシュ奏者)で、ミューズのマシュー・ベラミーは10代の頃、スペインを放浪してギター修業を積んだ。母方が祈祷師一族というマシューは、ロマの血を引いている可能性もある。

 インド系のロバート・プラントとオリエンタルな佇まいのジミー・ペイジが組んだレッド・ツェッペリン、イアン・アンダーソンの吟遊詩人のイメージを前面に押し出したジェスロ・タル、ワールドミュージックに括られるジャンルもロマの匂いが濃厚だ。

 ドキュメンタリータッチの本作は、アフリカからギリシャに漂着した少女ベティの主観で描かれる。彼女の心象風景を浮き彫りにしたのが、情念と憤怒が融合したロマテイストの音楽だ。ベティが欧州各地で目の当たりにしたのは、移民の悲惨な状況と深刻な格差だ。アウトサイダー意識に苛まれたベティだが、誘われてデモの隊列に加わってから表情が明るくなる。

 本作のテーマは世界の共時性だ。叛乱は国境を超えてネットで伝わり、希望の灯になる。チュニジアの青果商が抗議の焼身自殺した。大量のオレンジは鼠の群れのように街を走り、船に落ちる。ベティが蹴った缶は無人の道をカラカラ転がった。オレンジと缶は、<抵抗の意志>のメタファーだった。

 音楽に加え、実験的な映像も刺激的だった。フラメンコダンサーがパフォーマンスする劇場で、カラフルな無数のビラが舞い降りてくる。闘いを支えるのは、自由で創意に満ちた精神だ。デモに参加した若者たちは思い思いに怒りと憤り、そして連帯感を表していた。ラストでとんでもない窮地に陥るベティだが、闘いを経たことにより楽観的に状況を捉える。ドンドン壁を叩く音が無機的な街に、希望の鐘のように響いていた。

 「怒れ! 憤れ!」には描かれなかったが、ロンドン蜂起も上記の闘いとリンクし、アメリカへと波及した。2011年春、アメリカ各地で起きた反組合法のデモには10万人単位が結集し、ティーンエイジャーが主体を担う。ノーマ・チョムスキー、ナオミ・クライン、マイケル・ムーアらが掲げた<アメリカに民主主義を!>は、同年秋の「ウォール街を占拠せよ」に繋がった。

 本作を俺と見たのは、教授風の男性、女子大生、外国人女性と知人の4人だった。このことが日本の現実を物語っている。社会について真剣に考え、矛盾があれば抗議する。これが欧米、そして韓国や台湾の若者の行動様式だが、日本では異なる。本作を見て俺は心底、羨ましいと思った。

 右傾化はアメリカによってブレーキが掛かり、安倍首相は内外で<河野談話の継承>を公言したが、森達也が指摘する集団化はとどまるところを知らない。自由の気風を潰したのは現在の50代以上で、俺も責任を痛感している。
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茶会、将棋、WWE、クラシコ、「音速の彼方へ」~春の雑感あれこれ

2014-03-24 23:50:42 | カルチャー
 週末は知人に誘われ、「はな子夜茶会」(井の頭自然文化園)に足を運んだ。同園で飼育されている象のはな子の長寿(67歳)を祝うという趣旨で、はな子の絵を含む笛田亜希さんの作品展を本人の解説付きで鑑賞した後、茶会へという段取りである。

 風流と無縁の俺は、茶室を前に後ずさりする。今も週1回、整骨院で膝の治療を受ける身だが、知人に恥を掻かせたくない一心で正座する。耐えること10分、俺の表情に気付いた席主が「足を崩していいですよ」と声を掛けてくれた。

 正座を崩さないといえば棋士だ。NHK杯将棋トーナメント決勝は郷田真隆、丸山忠久両九段の組み合わせになる。大乱戦を制したのは郷田だが、感想戦や表彰式で見せた丸山の屈託ない笑顔が印象的だった。今回のNHK杯では大石直嗣六段と西川和宏四段がベスト4に残る。関西の若手の大健闘に、棋士の実力が紙一重であることを再認識した。

 〝知力・精神力・体力を総動員した格闘技〟として将棋を観戦しているが、必ずKOで勝敗が決する残酷なゲームでもある。相手がコンピューターだと勝手が違うのか、「将棋電王戦」で佐藤紳哉六段が敗れ、早くも人間がカド番に追い込まれた。第3局の豊島将之七段はA級棋士に引けを取らない若手のホープだ。彼が負けたら諦めもつく。

 スポーツへの関心は薄らいだが、WWEは熱心に視聴している。先日のRAWシカゴ公演は異様な雰囲気で進行した。当地出身のCMパンクはここ3年、WWEを牽引するレスラーだったが、1月末に急きょ退団する。会場に渦巻いていたのはCMパンクの不在を憤るチャントであり、ファンは最後まで圧倒的人気を誇るダニエル・ブライアンの名を連呼していた。

 「CMパンクになぜ納得いく役割を用意しなかったのか」「ブライアンはどうして王座戦に出場しないのか」……。この思いに駆られたファンは、団体がレッスルマニアの中心に据えようとしているオートン、バティスタ、シナに容赦のないブーイングを浴びせていた。

 かつてWWEは、ホーガンやフレアーらビッグネームを根こそぎ集めたWCWの前に断崖絶壁に追いつめられた。逆襲の立役者は、ビンス・マクマホンWWE会長が「あの男だけは別格」と繰り返し称賛するスティーブ・オースチンである。ファンの声をくみ取ったビンスは、アウトサイダーだったオースチンを前面に立て、WCWを崩壊させる。現在、ロッカールームを仕切っているHHH(ビンスの娘婿)は、自身がレスラーゆえエゴから逃れられないのかもしれない。

 政治では民衆の声が権力者に届かないケースは多いが、プロレスは客が絶対のエンターテインメントだ。ブライアンが引き起こした「イエス旋風」はスポーツ界だけでなくアメリカ社会全般に波及しつつある。WWE上層部はレッスルマニアに向け、大幅な軌道修正を準備しているはず……と信じたい。

 海外サッカーへの興味も失せているが、クラシコは別だ。試合開始前、サンチャゴ・ベルナベウでは、スアレス元首相の死を悼み、黙祷が捧げられた。フランコ死後、スペインの民主化に尽力した政治家という。クラシコは長年、<独裁VS自由>の代理戦争でもあった。過熱しそうという予感は的中し、小競り合いが何度も起きる荒れた試合になった。バルセロナがレアル・マドリードを4対3で下し、〝神の子〟メッシはハットトリックを達成した。うち2本はPKで、審判の判定も微妙だった。

 俺は初めてメッシを見た時、その佇まいに「誰かに似ている」と感じた。誰かがセナであることに先日、思い至る。「アイルトン・セナ~音速の彼方へ」(10年)を「ラッシュ」の予習として録画していたのだが、見る順番が逆になってしまった。

 F1について詳しくないが、セナとプロストがバトルを繰り広げていた頃、周りにつられてチャンネルを合わせていた。「音速の彼方へ」はセナの生涯を追ったドキュメンタリーで、鮮烈なF1デビューから死に至るまでを追っている。「ラッシュ」のハントとラウダは親友同士だったが、セナとプロストが葛藤を抱えていたことを知った。

 メッシは最近、〝おっさん顔〟になってきたが、元祖〝神の子〟セナは30歳を過ぎても少年特有の無垢と憂いを表情に湛えていた。本作では、同国人のFIA会長を動かすプロストの狡猾さと対照的に、政治に翻弄されたセナのレーサー人生が描かれている。だが、ラストには二つの救いが用意されていた。セナの死によって安全への意識が高まり、その後、レース中の死亡事故が起きていないこと。そして、姉が設立したアイルトン・セナ財団の管財人をプロストが務めていることだ。

 本作の白眉は、サンマリノGP決勝でのセナの映像だ。ガルシア・マルケスの小説風にいえば、「予告された悲劇の記録」と呼ぶべき一日である。セナは不安に苛まれており、事態は宿命的に粛々と進行していく。死の直前のオンボードカメラの映像も残されており、その数秒後、〝神の子〟は神の元に召された。世界中で多くの人々が悲嘆に暮れてから20年、俺の心にもようやく、セナの煌めきが鮮やかに刻み込まれた。
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「アトミック・ボックス」~池澤夏樹が示す<原発≒原爆>

2014-03-21 16:05:46 | 読書
 安倍首相の靖国参拝、河野談話と村山談話の見直しは、アジアの安定を外交戦略の基本に置くオバマ政権にとって由々しき事態と映るのだろう。その意を受けたのか、自民党内の空気も変わりつつある。〝親米の総元締〟中曽根元首相も、「集団自衛権容認は慎重に」と釘を刺した。

 国際原子力機関(IAEA)が最も厳しい目を向けているのは、イランでも北朝鮮でもなく、プルトニウムの核兵器転用が可能な日本である。年間10㌧近いプトニウム製造を視野に入れた安倍政権のエネルギー基本計画は、アメリカにとっても脅威なのだ。

 東日本大震災の被災地で人道支援を行った米海兵隊員が、東京電力に対し集団訴訟を起こした。東電が放射能汚染の正確な情報を伝えなかったことを理由に挙げている。作業に加わった多くの隊員は帰国後、白血病、失明、出生異常といった深刻な病状に苦しんでいるという。<正確な情報を伝えなかった>のは東電ではなく、国と認定される可能性もある。

 池澤夏樹の新作「アトミック・ボックス」(毎日新聞社)を読了した。国産原爆プロジェクトに関わった宮本耕三と娘美汐を巡る物語で、エンターテインメント性が高いポリティカルサスペンスだった。

 「すばらしい新世界」で池澤は、原発の危険性と自然エネルギーへの転換を説いていた。自然と人間の調和、アイデンティティーの浸潤を志向する池澤は、俯瞰の視点で日本を見据えている。歴史認識も安倍首相と真逆で、「花を運ぶ妹」ではインドネシア、「カデナ」ではフィリピンと、アジア諸国における戦時中の日本軍の蛮行を告発している。

 辺見庸は<すべての表現は3・11以降、以前と別の形にならざるを得ない>と語ったが、その趣旨に沿って言葉を紡いだのが辺見自身と池澤だった。辺見は評論「瓦礫の中から言葉を」、詩集「眼の海」、小説「青い花」を発表し、池澤も評論「春を恨んだりしない」(11年)、小説「双頭の船」で3・11に向き合った。

 <撒き散らされた放射能の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがて誰かの身体に癌を引き起こす。(中略)この社会は死の因子を散布された。放射性物質はどこかでじっと待っている>……。

 「春を――」のこの記述は、「アトミック・ボックス」にテーマとして引き継がれている。

 末期がんの耕三は、死期を早めることを娘に頼む。美汐は父の最期の願いの意味を、託されたCDで知る。広島に投下された原爆による自身の胎内被曝を知る前に、耕三は国産原爆製造プロジェクト「あさぼらけ」に科学者として参加していた。CDに収録されていたのは、その間の経緯と成果だった。福島原発事故による放射能汚染を目の当たりに、耕三は罪の意識に苛まれる。身をもって<原発≒原爆>を理解していたからだ。

 耕三の死後、そして耕三が「あさぼらけ」に関わった80年代……。30年の時を行き来しながらストーリーは進行する。耕三は「あさぼらけ」解散後、瀬戸内海の島で漁師を生業に後半生を送る。結婚し、美汐が生まれた。世捨て人として暮らす間も公安警察の監視対象で、担当は郵便局員に化けた行田である。

 CDを保持して姿を消した美汐は、父殺害の容疑で指名手配されるが、大追跡を巧みに潜り抜ける。逃避行を支えたのは元恋人、幼馴染、そして村上水軍の反骨精神を受け継いだネットワークだ。ちなみに、上関原発建設反対運動を展開する祝島も、瀬戸内海に浮かぶ島である。宮本常一の方法論を受け継いだ美汐は、社会学者として孤島の老人たちに聞き取り調査していた。フィールドワークで得た絆が、美汐の逃亡を手助けする。

 「大和タイムス」は社名と異なりリベラルな新聞だ。記者の竹西は宮本一家と旧知の間柄で、家族、親戚、学生時代の友人まで動員し、美汐の東京行きに協力する。権力に逆らっても真実を伝えたいという信念を貫くメディアとして描かれている。

 原発をテーマにした小説といえば、高村薫の「神の火」だ。元原研技術者の島田、幼馴染の日野が原発を破壊し、世界を終末に導くドラスティックな結末だが、チェルノブイリで被曝した若きロシアの諜報員など、影を持つ登場人物が大阪を舞台に蠢いていた。日野の義弟である柳瀬は、北朝鮮からウラン濃縮技術を持ち帰った研究者という設定になっている。

 濃縮ウランを用いたヒロシマ型、プルトニウムを用いたナガサキ型……。原爆には二つの製造法があるが、「あさぼらけ」は後者を目指した。通称「ダガバジ」の失踪とアメリカからの圧力により「あさぼらけ」は解散するが、ダガバジの行き先は北朝鮮だった。設計図が北朝鮮に渡ったことを、美汐は「あさぼらけ」の統括者、二上から知らされる。

 真実が公表されたら、日本はどうなるか。「あさぼらけ」を企画し推進した大物政治家の大手は死の直前、美汐を病院に呼び寄せる。すべてを語り、面会直後に息を引き取る。明るみに出すべきか、封印するべきか……。美汐は<原発≒原爆>を理解した上で前者を選ぶ。

 原発と北朝鮮による拉致はどこかで繋がっているのではないか……。こんな疑問を当ブログで何度か記してきた。原発が次々に建設された日本海側では、激しい反対運動が起きていた。公安にとって要注意地域で、拉致がなぜ頻繁に起きたのだろう。この問いの答えは、まだ見つかっていない。

 二上も大手も捜査網を振り切った美汐に敬意を表し、ひとりの人間として対峙する。美汐に翻弄された行田の転身も、人間的で微笑ましい。原発と原爆、アメリカと日本、情報保持と公開、管理と自由……。対立項を示しながら、読後感は温かく柔らかい。上滑りではない絆を追求する池澤ワールドに、またも浸ってしまった。
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「ラッシュ」~対照的な個性の爽やかな激突

2014-03-18 23:31:04 | 映画、ドラマ
 「人間は恋と革命のために生まれてきた」と太宰治は「斜陽」に記したが、恋も革命(≒闘い)も、自分が関わると苦しいが、安全な場所で眺めると楽しいものだ。三角関係の噂をする時、誰しも眉を顰めつつ、口元を綻ばせている。日本人は反抗の声を上げないが、ウクライナやベネズエラで起きていることについて、もっともらしい意見を述べる。

 最も人々を熱狂させる闘いがスポーツだ。とはいえ、政治は暗闘だが、スポーツはフェア……なんていうのは幻想に過ぎない。歴代のIOC会長の経歴を見ても、ブランデージは親ナチスで、サマランチはフランコの下でカタロニアを弾圧した。国単位で見ても、独裁政権に加担した者がスポーツ界を牛耳っているケースが多い。共通点は利権に目ざといことで、良心や倫理と無縁の連中が主導するのがオリンピックなのだ。

 F1も政治が蠢く世界だが、ジェームス・ハントとニキ・ラウダのライバル関係は、例外といえるほど爽やかなものだった。両者の激突を描いた英米合作の「ラッシュ/プライドと友情」(13年、ロン・ハワード監督)を有楽町で見た。ハントをクリス・ヘムズワース、ラウダをダニエル・ブリュールが好演じ、2人の主観が交錯する形で物語が進行する。免許さえない俺だが、映像と音響が織り成す臨場感たっぷりのシーンに魅入ってしまった。

 F1はセナとプロストが覇を競った頃にチャンネルを合わせたぐらいで、基礎知識はない。スカパー!で放映された「アイルトン・セナ~音速の彼方へ」(10年)を予習として見ようと思ったが、順番が逆になってしまう。舞台となった1976年当時、F1はスポーツというより死に近い危険なサーカスだった。死亡確率は2割弱で、ハントは本作で、マシンを「棺桶」と揶揄していた。

 ハントとラウダの共通点は才能と野心、そして本音を隠さないことだった。恋人の自殺が話題になっているミック・ジャガーを筆頭に、ロッカーやスポーツ選手にはプレーボーイが多いが、群を抜いていたのがハントという。あきれ果てた妻スージーに「浮気だけじゃなく、お酒にクスリまで」と三行半を突き付けられたハントだが、放埓は死への恐怖を和らげるためだったのか。レース直前の嘔吐に繊細さが窺われる。

 周囲に愛されたハントと対照的に、仲間内で嫌われていたのが〝現実主義者〟ラウダだった。目標を掲げて自分を売り込み、メカにも強い。他のレーサーと異質だったラウダの影響を受けたのがアラン・プロストだった。本作はハントとラウダの軋轢に軸を置いているが、実際は親友同士で、下積み時代(F3)から交遊があった。ラウダに礼を失する質問をした記者を、ハントがボコボコにするシーンがある。制作サイドのフィクションというが、ハントとラウダの絆の強さを示す印象的なシーンだった。

 松坂大輔や北島康介は10代半ば、傑出した選手ではなかったという。「あいつには絶対勝ちたい」と思える自分より上の選手が身近にいて、彼らを何とか超えた後に、次の壁が立ちはだかる。一対一を勝ち抜いていく過程で、彼らはぬきんでた存在になった。ハントとラウダも同様で、駆け出しの頃から「君には勝ちたい」とライバル意識を持ち続け、ともに世界王者になる。

 頂点を極めた後も好対照といえる。ハントは「自分の能力を証明できたからいい」と3年後に引退したが、ラウダは常に上を目指し、通算3度の王者になる。ハントは93年、45歳で亡くなったが、ラウダは健在で、ブリュールの役作りなど本作に全面的に協力した。

 ハイライトはラウダのドイツGPでの大事故と奇跡的な復帰、そして最終戦になった日本GPだった。危険な状況でのレース開催に異議を唱えるラウダと日本GPでの決断、そしてハントの神業的なハンドルさばき……。両者の心理が白熱したレース展開の中で浮き彫りになる。完成度が高い本作がアカデミー作品賞にノミネートされなかったのは、主催者が好む<社会性>に欠けていたからだろう。

 最後に、一対一の闘いの最たるものといえる将棋のニュースを……。プロ棋士とコンピューターが対決する電王戦第1局で21歳の俊英、菅井竜也五段が敗北を喫した。本稿のテーマは<ライバル>だったが、相手がコンピューターだと、どのような気分なのだろう。残った4人の棋士たちは今、尋常ではないプレッシャーに襲われているはずだ。
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「新しい世界」~深淵と業に迫った韓流ヤクザ映画

2014-03-15 22:53:59 | 映画、ドラマ
 「JAPANESE ONLY」の横断幕を撤去しなかった浦和レッズに、無観客試合の処分が下った。「反レイシズム」を唱えるFIFAの意向に沿った厳罰とみられるが、根底には様々な問題が潜んでいる。

 掲げたサポーターは「日本人以外はお断り」→「JAPANESE ONLY」の言い換えで、表現を緩和できたと考えたはずだ。差別意識の克服ではなく、〝言葉狩り〟を避けるために今も自主規制を励行するマスコミの姿勢に、今回の一件が重なった。

 浦和フロントは横断幕を深刻に受け止めず、一部メディアは擁護する。ヘイトスピーチが規制されないことからも明らかだが、日本社会は今も昔も、差別や人権に極めて鈍感なのだ。関東大震災時、特高のトップだった正力松太郎(後に読売新聞社主)は、警察が「朝鮮人暴徒化」の虚報を意図的に流したことを認めている。その結果、6000人以上の朝鮮人が虐殺されたが、逮捕者の多くは市井の人だった。剥き出しの悪意だけではなく、無意識を蝕む差別もまた、鋭利な刃になって切っ先を血で濡らす。

 前置きは長くなったが、シネマート新宿で韓国映画「新しい世界」(13年、パク・フンジョン監督)を見た。本国で500万人近くを動員したというが、封切り終了間近でもあり、観客はキャパ(300人強)の1割にも満たなかった。イケメンは出演していないし、ヤクザ映画という点も大きかったのだろう。

 Vシネマはさておき、ヤクザ映画が制作されなくなって久しい。1960~70年代、鶴田浩二、高倉健、菅原文太、松方弘樹らに胸を焦がした方は多いが、1世代下の俺は、名画座やレンタルビデオでヤクザ映画に接した。その上で、優れたヤクザ映画の三つの条件を挙げてみる。第一は<組織を鋭く否定している>……。

 任侠物の主人公は義理と人情に殉じる。敵は利権を求めて蠢く大組織で、大抵は警察とつるんでいる。実録物も同様で、組のために臭い飯を食った主人公が出所するも、出迎えはいない。事務所に駆け込むと邪魔者扱いで、金儲けにいそしむ上層部と対立し、暴発して犬死にするというのがパターンだ。

 佐藤純弥監督作は、<大企業&警察連合VS労働者>の当時の図式を反映していた。主人公は当然ヤクザだが、心情は組合活動家、左翼学生そのものだ。第二の条件は、<反警察、反権力の心情に支えられている>……。長いものに巻かれる風潮が強くなった日本では、ヤクザ映画は成立しないのだろう。

 韓国ではヤクザ映画が数多く制作されている。「悪いやつら」(昨年9月の稿)はホームドラマの趣もあり、暴力は控えめだったが、「新しい世界」は血飛沫が上がる痛いシーンの連続だった。軍事政権下の記憶が生々しい韓国社会では警察への不信感が根強く、時に嘲笑の対象になっている。<警察≒悪>の図式が、本作でも鮮明だった。

 主人公のイ・ジャソン(イ・ジョンジェ)は韓国最大の犯罪組織「ゴールド・ムーン」に潜入した捜査官で、チョン・チョン(ファン・ジョンミン)の右腕として頭角を現す。ジャソンの上司でソウル警察のカン課長(チェ・ミンスク)は闇社会の掌握を目論み、権謀術数を巡らしている。チョン・チョンのライバルは暴走気味のイ・ジュング(パク・ソンウン)で、会長の謎の事故死によって跡目争いが激化する。

 闇社会には国境がない。「悪いやつら」では日本の暴力団との連携が描かれていたが、本作では中国との繋がりがキーになっている。血縁と地縁を重視する韓国社会らしく、ともに華僑であるジャソンとチョン・チョンは、駆け出しの頃から強い絆で結ばれていた。

 東欧映画(特にポーランド)と韓国映画の共通点といえば、悪魔がスクリーンを闊歩していることだ。近隣諸国に蹂躙された不幸な歴史、国内の厳しい弾圧体制、そしてキリスト教の影響が、悪魔を育んだといえる。本作の主な登場人物も、悪魔的な個性を秘めている。チョン・チョンは軽薄さと冷酷さを併せ持ち、支配に憑かれたカン課長は部下の無残な死にも決意は揺らがない。凶暴なイ・ジュングは、全身から狂気を滲ませている。

 いずれカン課長に使い捨てにされる……。ジャソンが自身の運命を悟った時、潜入捜査官であることが晒されそうになる。断崖絶壁のジャソンに変化が訪れ、内側で目覚めた悪魔が表皮を食い破る。「ゴッドファーザーPARTⅡ」を想起させる結末で、ジャソンが行き着いた孤独と非情は、マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の写し絵だった。

 人間の深淵と業に迫り、底なし沼に引きずり込まれたような感覚に陥った。<チョン・チョンはなぜジョソンを許したのか>という疑問もラストシーンで氷解し、俺はカタルシスを覚えた。第三の条件は<絆と友情抜きにヤクザ映画は成立しない>……。「新しい世界」は優れたヤクザ映画であるための三つの条件をすべて満たし、さらに濃縮した作品だった。

 日本では文化遺産になってしまったヤクザ映画だが、監督を一人挙げるなら、やはり深作欣二だ。「仁義の墓場」、「県警対組織暴力」、「北陸代理戦争」が特に記憶に残っている。
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<3・11>から3年~蓋を吹き飛ばす日は来るか

2014-03-12 22:53:11 | 社会、政治
 <3・11>に非人間的な響きを覚えるのは俺だけだろうか。死者への悼み、遺族の絶望、故郷喪失者の悲しみを捨象し、原発事故が露呈した<国家の歪み>を象徴する記号として、俺も使い回してきた。

 阪神淡路大震災時、甚大な被害を他人事のように眺め、東京で逸楽の日々を過ごしていた。非人間的としか言いようのない俺だが、妹の死(12年5月)がきっかけに、少し人間に近づけた。東日本大震災による死者1万5884人、行方不明者2633人、震災関連死2916人……。肉親、家族、友の不在に苦しむ方は、数倍に上るはずだ。二つの地震で亡くなった方に、改めて哀悼の意を表したい。

 福島原発事故の実態が明らかになって抗議の声が上がり始めた時、俺の脳裏に尾崎豊の「卒業」、マニック・ストリート・プリーチャーズの「輝ける世代のために」が鳴り響いていた。

 ♪人は誰も縛られたかよわき子羊ならば……これからは何が俺を縛りつけるだろう……仕組まれた自由に誰も気づかずに あがいた日々も終る この支配からの卒業……

 1985年に作られた「卒業」は、<3・11>当時の、そして3年後の日本の状況を見事なまでに抉っている。日本人は支配からの卒業を望むどころか、権力に身を委ねているようにさえ思える。

 「卒業」に登場する少年は校舎の窓ガラスを壊して回った。<体力も気力もない俺だが、窓が割れたことをブログで伝えたい>と記してから3年、俺は立ち位置を明確に、石を集める側に転じた……。こう書くと、爆弾でも作っているのかと疑われそうだが、まさか! 具体的には記さないが、かよわき子羊に相応しい決心をしただけのことである。

 「原発ゼロ大統一行動」(9日)の集会(日比谷野音)について前稿の枕で記したが、鈴木薫さん(いわき放射能市民測定室たらちね事務局長)のアピールに感銘を受けた。「たらちね」は俺が会員である「未来の福島こども基金」とともに、沖縄への移住を含め、福島の子供たちを放射能汚染から守るために活動している。俺は鈴木さんのメッセージに、「輝ける世代のために」の歌詞を重ねていた。

 ♪これを黙認すれば、おまえの子供たちが耐えなければならない。これを許容すれば、子供たちの世代が同じ目に遭わなくてはならない……

 スペイン市民戦争をテーマに作られた同曲にとって、〝これ〟は自由を抑圧するファシズムと暴力であり、鈴木さんにとっては放射能汚染と原発再稼働である。「原発ゼロ大統一行動」にはそれぞれの〝これ〟を抱えた3万2000人が集まった。

 <3・11>の捉え方は様々だった。辺見庸は以前から、<この国の崩れと狂いの兆し>を誌的に表現し、東日本大震災を形になったカタストロフィーと受け止めていた。詩人のペシミスティックな直感は、3年後の今、悲しいほど的中する。被災地復興が進まないのに、国民は東京五輪開催を慶事と受け止めた。「放射能汚染はコントロール下にある」と世界に向け虚偽の発信をした安倍首相を筆頭に、<良心と倫理の崩壊>は隠せなくなっている。

 大震災は悲劇だが、底から立ち昇った怒りの蒸気が蓋を突き破るのではないか……。そんな気配が<3・11>直後、確かに漂っていた。反原発を長年訴えてきた小出裕章、広瀬隆、広河隆一氏らが「朝日ニュースター」に出演し、「ニュースの深層」キャスターの上杉隆氏は記者クラブを糾弾し、他のフリーランスとともに、隠蔽された原発事故の実態をテレビとネットで発信する。

 3年の間に空気は澱んだ。NHKを筆頭に大手メディアは安倍機関化し、重しを載せられた蓋は、しっかり閉じられてしまった。最も責めを負うべきは、<3・11>から一昨年末の総選挙までの1年9カ月、あまりに無策だった政治家たちだ。共産党や社民党の幹部は抗議集会で「再稼働反対! 野田政権を倒すぞ」とシュプレヒコールを上げていたが、野田政権後に自民党が権力を握ることは素人にだってわかる。脱原発でまとまろうとする動きは全く見えてこなかった。

 蓋を支配しているのは、一体誰だろう。<自民党―東電を含む財界―官庁―メディア>の連合体? 曖昧で拳のやり場に困るが、正体を見つけるヒントはある。2月上旬、岩上安身氏が小出裕章氏にインタビューした。示唆に富んだ内容なので、興味のある方は岩上氏のブログ、公開された動画にアクセスしてほしい。

 1月下旬、アメリカが日本にプルトニウム返還を要求したと共同通信が配信した。国内の反響は小さかったが、アメリカが安倍政権を見限ったのではないかと岩上氏は分析している。<日米原子力協定、日米安保条約の枠内で日本の原発は認められている>との小出氏の見解に則れば、蓋を支配しているのはアメリカということになる。

 アメリカはシェールガスへの期待から、脱原発にシフトチェンジしている。となれば原子力マフィアは、余ったウランを供給しなければならない。商売相手は日本、そして日本が原発を売り込むトルコ、サウジアラビア、UAEの可能性が極めて高い。

 自国は脱原発、日本は原発再稼働……。かくの如く腹黒いアメリカの動向を味方に安倍政権を叩く論調が、最近目に付く。情けない属国根性だ。蓋がアメリカなら、蒸気を満タンにしないと吹き飛ばせない。脱原発の長く厳しい闘いはこれからも続く。
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「東京難民」~どん底からの帰還を託した物語

2014-03-09 23:15:09 | 映画、ドラマ
 本日(9日)、日比谷野音で開催された「原発ゼロ大統一行動」に参加した。集会ではこれまで、著名人の空疎な言葉に辟易してきたが、今回は違った。福島、八幡浜、福井と現場で闘う方の、たどたどしいが説得力あるアピールに接し、身が引き締まる思いがした。

 ゲストで登壇した坂本龍一は、チェルノブイリと福島への鎮魂を込めた曲で会場を和ませ、「脱原発を掲げるなら福島と繋がるべき」と短いスピーチを締めくくった。不調の膝が悲鳴を上げたので、請願デモ終了後、国会前集会をパスして帰路に就いた。3・11から3年を経た自身の思いは次稿に記したい。

 脱原発、護憲(=反秘密保護法)、反辺野古移設と並び、現在の日本にとって大きな課題は<格差と貧困>だが、ブログ、HP、フェイスブック等で言及している識者は少ない。反貧困ネットワークの一員である俺にとって残念な状況だ。

 例外のひとりは星野智幸で、<生命を維持しているだけとしかいいようがない若者の貧困、孤立する高齢者の一人暮らしや夫婦等々、今この一瞬が死活問題として、生死の瀬戸際に立たされている人がものすごくたくさんいる>とブログに記し、福祉こそ都知事選の最大のテーマと綴っていた。

 有楽町で先日、「東京難民」(14年、佐々部清監督)を見た。Yahoo!のユーザー評価も高く(4・19)、<格差と貧困>を掲げた作品ゆえ期待は大きかったが、肩透かしというのが正直な印象である。<いかに普遍性を獲得出来ているか>が映画を測る俺の物差しだが、「東京難民」は<貧困と格差>を描き切ったとは思えず、ツッコミどころも満載だった。ネタバレは最小限に、以下に感想を記したい。

 主人公の修(中村蒼)は福岡出身で、東京の私立大に通っている。矛盾を覚えることなく生きてきた修だが、没交渉だった父親が失踪し、家賃も学費も支払われていないことが判明する。アパートから放り出され、大学は除籍処分になった修に手を差し伸べる友はいなかった。

 辺見庸の講演会などで訪れた大学の変貌に衝撃を受けたことは、ブログに何度も記した。<怪しい連中(宗教団体や左翼セクト?)が声を掛けてきたら学生課に一報を>……。そんな風に書かれたコピーがあちこちに貼られたキャンパスは、〝無菌の温室〟といった雰囲気である。本作でも驚いたシーンがあった。修の通う大学では、講義の出欠がIDカードでチェックされている。

 本日の集会も、平均年齢は高かった。霞ケ関駅のトイレは中高年でごった返し、野音で座った列を見回すと、俺(57歳)が一番若かった。だが、若者を馴致して羊の群れにしたのは、俺を含めた50歳以上である。都知事選で宇都宮候補の応援に駆け付けた若者たちに未来を託したい。

 11年秋、俺は自業自得でパソコンをぶっ壊した。修理から戻ってくるまで、ブログ更新のため、新宿、代々木、中野のネットカフェに通う。本作の修同様、寝泊まりする若者の中に女性もいた。ナイトパック(12時間で1000円前後)でシャワールーム付き、フリードリンクである。「ネットカフェを利用できるのは恵まれている連中」と修に話すのが軽部(金井勇太)だ。

 ティッシュ配りで知り合った軽部は「この世の中、終わっている」と修に同意を求め、「爆弾を作っている」と鞄の中の時限装置を見せる。怨嗟と破壊衝動に満ちた軽部をW主人公にしたら、本作は遥かに面白くなっただろう。ホストになった修と偶然再会した時、軽部は「君も向こう側に行ってしまったのか」と寂しそうな表情を浮かべた。軽部が後半フェードアウトし、爆弾が不発に終わったのは、制作費を援助してくれた文化庁への配慮なのか。

 本作の舞台は俺にとってホームといえる新宿で、見慣れた光景に親近感を覚えた。中盤以降、歌舞伎町がメーンになって、物語はダークな色彩を帯びてくる。ひょんな経緯でホストになった修は、裏社会の実態に触れる。金がすべてのホストクラブは、世間を数倍引き延ばした格差社会で、酷薄な論理に貫かれている。

 看護師の茜(大塚千弘)はホストクラブを訪れ、修と心を通わせるが、2人の愛も非情と暴力で汚れていく。清純と妖艶を併せ持つ大塚の表現力に魅せられた。吹越満、津田寛治ら馴染みの役者が脇を固めていたが、記憶に残ったのが鈴本役の井上順の抑揚の利いた演技だった。

 <絶望の淵を知った者は、勇気や優しさを身につける>と「ダラス・バイヤーズクラブ」の稿を結んだ。ホームレスの鈴本はまさにそのような存在で、瀕死の修を助け、再生への足掛かりを掴ませる。辛めに評した本作だが、ラストにカタルシスを覚えた。
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「クラウド 増殖する悪意」~森達也の十進法的発想

2014-03-06 23:07:03 | 読書
 TBやコメントを頻繁に寄せて下さるBLOG BLUESさんは自身のブログで、辛淑玉さんの宇都宮候補応援演説を紹介していた。Youtubeの映像に触れて感銘を受けたが、コメントの数々に愕然とする。のりこえねっと(ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)の発起人である辛さんへの悪意が溢れていたからだ。

 異質なものと調和し、対立を超越するのが日本人の特質……。俺は当ブログで繰り返しこう記してきたが、反証があまりに多過ぎる。辛さんを敵視する人たちの目に、参院予算委員会(3日)で村山談話の認識継承を表明した安倍首相は〝裏切り者〟と映っているだろう。

 俺を勇気づけてくれたのは、松本サリン事件で犯人扱いされた河野義行さんだ。悪意に満ちた手紙や電話に苦しんだ経験を踏まえ、河野さんはのりこえねっと共同代表のひとりとして、ヘイトスピーチ側との話し合いを望んでいる。理解し合えると信じているからだ。イラク人質事件の当事者で小泉首相(当時)ら閣僚から〝自己責任〟を突き付けられた今井紀明さんはこの10年、悪意の手紙を送ってきた人たちと話す機会を持ってきた。和解に至ったケースもあったという。

 前置きは長くなったが、本題とリンクしている。森達也の最新刊「クラウド 増殖する悪意」(dZERO刊)を読了した。メディアに発表した論考を加筆、修正し、書き下ろしを加え再構成した作品だ。森については何度も紹介してきたし、重複する点も多いので、ファジーに紹介することにする。

 森は俺と同じ1956年生まれで、全共闘世代の一つ下の<迷える世代>だ。親近感を覚えるのは、正しさを振りかざして他者を責めるなんて性に合わない点だ。マイケル・ムーアについて、支持するが嫌いと記しているのが森らしい。敵と味方を峻別する〝ブッシュ=小泉的二元論〟に方法論が重なるムーアに、森は距離を置いてしまうのだ。

 上記と矛盾するようだが、森は立脚点を明確にすることがすべての出発点と主張し、権力をチェックしない日本のメディアを批判してきた。<主観があるから表現が生まれる。主観とは傾きで、そこ(私の映画や論考)に公正中立の概念が入り込む余地がない>と本作で示した持論に至る過程で、森は苦闘したに違いない。

 「死刑」(08年)について別稿に記したが、本作でもページを割いている。森は死刑について日本と立ち位置が真逆のノルウェーを訪れたが、その翌年(11年)、労働党関係者77人が殺害される未曽有のテロ事件が発生した。社会は「愛と知恵」をキーワードに冷静に対応する。ノルウェーはEC非加盟国だから死刑復活も選択肢のはずだが、厳罰を求める声は右派政党からも上がらなかった。

 日本ではオウムの一連の事件をきっかけに<自己防衛意識の昂揚と厳罰化>が大きな潮流になった。そして、俗情の結託というべきか、犯罪が起きた時、被害者家族の感情をメディアが報じ、<厳罰>が暗黙の了解になる。こと死刑問題に限らず、異論を唱える少数派はバッシングに曝されるケースが多い。

 安倍政権をファッショ政権と定義し、ナチスと重ねる論調も目立つが、森は右傾化ではなく集団化と捉えている。異物をチェックし、敵を見つける……。その過程で形成された集団への帰属意識の上に成立するのが安倍政権と見做しているのだ。

 職場や地域でも不条理は夥しいが、沈黙と自己規制が社会の主音になっている。そういう状況で、政治を変えることは可能だろうか。森は「虚実亭日乗」で、<日本人は場に従う。共同体内部における同調圧力に逆らえない。日本における「空気を読む」は、「読む」だけでなく「染まる」こと>と記していた。

 レベルの差は大きいが、発想が十進法的である点で、俺と森は似ている。悪意と憎しみを増殖させる二元論が蔓延したのは、パソコンとインターネットの影響も大きかったと思う。パソコンは二進法で動いているし、世界を広げるはずだったインターネットは今やタコツボで共感するためのツールになっている。今こそ求められているのは、幾つもの選択肢に迷いながら方向を決める、まどろっこしい十進法的発想ではないか。
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「ザ・ストーリー・オブ・トミー」~トミーとはすべての聴き手

2014-03-03 22:36:02 | 音楽
 治安維持法制定直後、生活実感に根差した争議が燎原の火のように広がった。農村や工場での身を賭した闘いを支えていたのは、貧困や格差への怒りだけでなく、傾奇者意識やパンク精神である。

 3・11後の今、80年前に似た空気が醸成されつつある。都知事選では様々な分野のアーティストが工夫を凝らし、宇都宮支持を訴えていた。「週刊金曜日」の特集「今こそ抵抗の歌を」で中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)は、<宇都宮さんの賛同人リストは素晴らしかった>と語っている。政治的高揚と革新的な文化が重なった時、<空疎ではないリアルな革命>が立ち昇ってくる。

 昨年は俺にとり〝ロック豊饒の一年〟だったが、今年は一度もライブに足を運んでいない。CDも数枚購入したが、ブログで紹介するほどの感銘は受けなかった。残念なニュースといえば、グリズリー・ベアの活動停止だ。インディーズとはいえ全米アルバムチャートで10位前後を記録し、ツアーやフェスでも人気を集めている。「ロッキンオン」で彼らの年収が1000万円に遠く及ばないという記事を読み、ロック界のシビアな現実に愕然とした。

 ポール・マッカートニーやローリング・ストーンズは対照的に、日本でも莫大なギャラを稼いでいる。ビートルズによってポップミュージックに目覚め、10代半ばの頃はストーンズが夢に頻繁に登場していたが、今の彼らに興味はない。敬意を抱くからこそ見ないというのが本当のところだ。

 ようやく、本題。WOWOWでオンエアされた「ザ・ストーリー・オブ・トミー」を録画して見た。1969年に発表されたロックオペラ「トミー」の制作過程を、生き残ったピート・タウンゼントとロジャー・ダルトリーら関係者が振り返るドキュメンタリーである。

 「トミー」以前のフーは〝暴力的なポップバンド〟で、デビュー当初からライブパフォーマンスに定評があった。時流に乗って人気を拡大したが、ドアーズらアメリカのバンドと比べると、知的というイメージはなかった。自分たちの実力を証明するために挑んだのが「トミー」である。ピート自身のDV、児童虐待の体験が作品の下敷きになっている。

 ヒッピームーヴメントや導師ミハー・ババの影響を受けたピートは、三重苦の少年トミーを主人公に据える。三重苦といっても肉体的な障害ではなく、他者との間の壁に弾かれ、自分の内側に閉じこもっていた。現在では当たり前になったトラウマや引きこもりの克服というテーマを、45年前に先取りしていたのである。制作するうちに研ぎ澄まされ、個のレベルから飛躍し、<疎外からの解放>がアルバムのテーマになる。

 「ピンボールの魔術師」に実在のモデルがいたことも興味深かったし、実際に起きた事件やエピソードをストーリーに取り入れている。「ザ・フーは3人の天才(ピート、ジョン・エントウィッスル、キース・ムーン)と1人の凡人からなるバンド」とピートに酷評されていたロジャーがトミーになり切り、バンドの声として認められた。

 ケン・ラッセルの映画(75年)は、絢爛でカリカチュア化された嫌いもあった。アルバムや映画の後半でトミーがカルト教団のリーダーになったかのような印象を受けるが、ありふれた思春期の少年の精神遍歴として受け止めてほしいとピートは語っている。

 ラストに繰り返し現れる“You”について、トミーを導く絶対的存在と解釈していたが、ロジャーはウッドストックやワイト島の大観衆を前に歌ううち、構図の顛倒を覚えた。即ち“You”とは高みに聳えるのではなく、共感し熱狂するひとりひとりの観衆であると……。「トミー」はバンドから離れ、聴き手のものになった。

 「トミー」発表後、レナード・バーンスタインはピートに抱きつき、「やったな」と祝福したという。産声を上げたばかりのロックは数年後、文化の域に達し、最も才能に溢れた若者を吸収していく。「トミー」もまた、この流れに大きく貢献した一枚といえる。

 昨日2日、「渋谷に福来たる」に足を運び、「古典モダニズム」と題された立川志らくと桃月庵白酒の二人会を堪能した。キャパ700人の会場で最前列の真ん中という特等席である。オープニングの軽妙なトークで場を和ませ、白酒「喧嘩長屋」→志らく「やかん」→白酒「明烏」→志らく「親子酒」の順で高座が進む。白酒の自虐とパワー、志らくの毒と才気に圧倒された2時間だった。

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