古典落語に「黄金餅」という演目がある。人情噺に分類されてはいるが、ホロッとくるわけでもないし、勧善懲悪でもない。人の業の深さを描いた噺だが、古今亭志ん生は工夫を重ね、十八番に仕上げた。聞かせどころの一つは、葬送の列が江戸の町を歩く場面である。
「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下を出て……」で始まり、「一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺に来た時には、随分みんなくたびれた、あたしもくたびれた」で締める。時間にして1分弱、幾つもの地名が出てきて楽しめる。
半生記の「なめくじ艦隊」によると、志ん生はよく歩いたようだ。電車賃にも事欠いたからである。市井に身を投じれば、人々の会話、流行り廃り、木々花々の移ろいに触れることが出来る。軽妙で人を逸らさない志ん生の話芸は、貧乏が生んだといえるかもしれない。
志ん生ほどではないが、俺もテクテク歩いている。歩き始めたのは健康を取り戻すためだ。97年夏、手足が痺れ、体が動かなくなった。水分を大量に摂っても、いつも喉が渇いている。気力は失せ、精神的にも瀕死の状態だった。
近くの内科医院に駆け込んだ。検査の結果、全項目が赤で、臨界点の2倍、3倍の数値もあった。「ここに来るのが1カ月遅かったら、糖尿病か脳溢血で倒れていただろう」と、医者は病状を分析してくれた。原因は糖分の過剰摂取である。80年代半ばから十余年、俺ぐらいコカ・コーラボトラーズに貢献した消費者はいないはずだ。アメリカ人みたいに訴訟は起こさないから、表彰状の一枚ぐらいくれないだろうか。
あの頃の休日――それも暑い時期――の食生活を再現してみる。昼過ぎに起き、夕方にそば屋をはしごする。大盛りそばを計2枚、いや、3軒で3枚ってこともあった。帰途、スーパーに寄り、スプライト1・5㍑、ピーナツチョコにあられ、あずきアイス1箱(5~6本入り)を買う。夜はコンビニで弁当2個、ファンタオレンジとウーロン茶をそれぞれ1・5㍑、さらにポップコーン1袋を購入する。寝るまでに殆どを消費した。
異常に走った理由を思い巡らすと、20代後半までの貧乏生活に行き当たる。一人でも苦しいのに、猫が迷い込む。アパートの立地条件も最悪だった。目の前が酒屋、右向かいがパン屋、左隣が米屋で、あらゆる種類のジュース自販機が立ち並んでいた。飲みたい、でも、おにぎりとキャットフードが先……。あの頃「銭形金太郎」が制作されていたら、恥も外聞もなくエントリーしただろう。
就職して経済的に楽になると、反動でジュースを買い漁った。その積み重ねで、上記の食生活に至る。なぜ会社の健診を受けなかったか、訝る向きもあろう。最大の理由は、血液検査への恐怖だった。あやしい病気や習慣――思い浮かぶものは各自異なるだろうが――が、万が一にも発覚すれば、目も当てられない。
97年に話を戻す。赤点だらけの通信簿を突き付けられ、「生死の狭間」とまで脅されたら、奮起せざるをえない。一日に1時間ほど歩くことにした。食生活も改善する。炭酸飲料は月1回、アイスクリームは断って、野菜を摂るようにした。生まれて初めて節制し、1カ月ごとに検査する。数値はどんどん下がっていった。半年余りで赤点をすべて消し、「学会で発表したいぐらいだよ」と医者に言わせしめた。
こうして、歩くことが生活の一部になった。歩いていると、いろいろなことに気付く。「消えた猫たち~哲学堂公園にて」の項で、「猫も鳩も減った」と書いたが、俺の観察は正しかった。都はカラス撲滅に成功したが、カラスを天敵にする鳩が増えた。その結果、鳩のフン害による苦情が殺到し、都は昨年末から捕獲に努めているという。
俺は今、視線を上げて歩くよう心掛けている。カラスと鳩が減れば、得をするのはスズメだ。大量発生したスズメが電線を揺らしている場面を、いち早くキャッチしたい。
先週当たったから、調子に乗って競馬予想を。中山記念は⑭トーホウシデンから④エアシェイディ、⑥メイショウカイドウに。阪急杯は⑤カリプソパンチから⑩ギャラントアロー、⑪ゴールデンロドリコに。確実に外れるだろう。